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キーワードで宣長さんを知る「三十六の窓」

名前

 宣長は、26歳までは「宣長」ではない。実は、これは宣長に限った話ではない。多くの歴史上の人物は、一番活躍した時期の名前で総称される。
 昔の人、特に男性には名前がたくさんある人が多い。
 一方、男性に比べて女性はあまり改めない。例えば、宣長の奥さんは「たみ」で結婚後「勝」(カツ)となるが、せいぜいこれ位だ。飛騨や美濃など、ずっとそのままだ。

 さて、宣長の場合だが、幼名は富之助、その後、弥四郎と改める。これが通称となり、更に健蔵と改める。名は栄貞(ヨシサダ、後にナガサダ)、26歳で医者になってから宣長と名乗った。号は舜庵(春庵、蕣庵)、仕官してからは中衛。この他にもある。TPOとでも言ったらいいのだろうか、年齢や名乗る場面に応じて様々使い分けている。
 姓も最初は「小津」だが、後にはこれは屋号だからと、「本居」に改め、さらに出自を表す本姓は、「清原」、後に「平」を使用する。
 栄貞や宣長という名は諱(イミナ)とも言い、普段は余り使わない。まして、人が呼ぶ時には失礼だからと通称や号を使用する。「宣長」とは自分で名乗ることはあるが、他人からは「春庵様」、あるいは「鈴屋大人」などと呼ばれる。

 宣長から離れて、名前について一般的な解説書はたくさんあるが、ここでは比較的分量が短く内容の充実する「姓氏の話 姓氏・名乗、あれこれ」を許可を得て掲出する。著者は、法制史家・嵐義人先生である。
 この中で「の」を入れるか否かのことが話題となっている。宣長の場合は、「平宣長」の時は「タイラの」(文詞や祝詞など)、また「本居宣長」は、「氏の揚合(家名・苗字等)には「の」は付かない」という原則からはずれるが、たとえば『手向草』序など、「モトオリの」と入れて読んでいたようである。

家族

宣長の両親は、父・定利、母・勝。
 弟と妹は、親次、はん、やつ。
 妻は、初婚、ふみ(みか)、再婚、たみ(勝)。 子どもは、勝との間に、二男三女。春庭、春村、飛騨、美濃、能登。
 春庭が家を継ぎ、春村は津の薬種商小西に養子として入家。飛騨は、最初母の実家草深氏に、その後四日市の高尾氏に嫁した。次女・美濃は長井家に嫁し、後に小津を名乗った。三女能登は伊勢の御師安田広治に嫁した。
 春庭の失明により、養子として大平を迎えた。
 内孫は春庭と妻壱岐の間に、伊豆と、有郷が生まれた。

 子孫は、養子・大平が和歌山に移ったことにより、松坂系と和歌山系に分かれる。家系を、本居宣長の学問を受け継ぐというので「学統」と呼ぶ。
 松坂学統は、実子春庭(2代)から有郷(3代)に、その後は高尾家から飛騨の孫を迎え信郷(4代)、清造(5代)、彌生(6代)、芳野(7代)と続く。
 和歌山学統は、大平(2代)には建正、清島など後嗣となる人がいたが、早世し、娘藤子に養子内遠(3代)を迎えた。その後、豊穎(4代)、並子(5代)、長世(6代)、修三(7代)と続く。
 共に現在も家系は絶えることなく続いている。家系の永続こそが宣長の念願であった。なお、宣長までの家系については『家の昔物語』と『本居家系図』にまとめられている。

書物

 子どもの頃からの本好きが高じて、医者、学者への道を歩むことになった宣長だが、書物を読むことが仕事となっても、やはり読書は趣味でもあった。晩年の和歌『ふみよみ百首』には、本を読むのが楽しくて仕方ない宣長の気持ちがよく表れている。
 だが、宣長は愛書家ではない。読むことが主目的だ。借りて読めばいい。読んだら貸してやればよい。その愛読するのは、『源氏物語』や『新古今集』という正統な古典であり、自分の研究対象とピッタリ重なっていた。学問が自発的なものであったことはこの点からも窺える。
 だが、それ以外にも実にさまざまな本を読んでいたようだ。特に、『宇治拾遺物語』、『今昔物語』、『古事談』などの中世の説話集や、『吾妻鏡』などの記録類、また漢籍や同時代の雑書まで幅広く読んでいた。伊勢神宮の御師・荒木田尚賢はあちこちから珍しい本を持ってきてくれる。公家の日記や漂流記などさまざまだ。持ってきてくれた本は取りあえず何でも読んだらしい。『本居宣長全集』13巻に載る『本居宣長随筆』は、稀代の読書人・宣長の読書ノートである。

奥墓の桜

 吉野を旅した宣長は、桜の宿り木をうらやましげに眺め、桜の宿り木はいいなあと歌にも詠んでいる(『菅笠日記』8日条)。桜は宣長が大好きだった花。自宅の庭にも何本も植え、春には花見にもしばしば出かけた。
 また、44歳、61歳の自画像では「山桜」がモチーフとなり、『遺言書』では奥墓に植えるよう指示し、自ら付けた諡にも「秋津彦美豆桜根大人」とある。

 桜への思いを最も直截に語るのは、
「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、浮き世の物とも思われず」で始まる「花のさだめ」(『玉勝間』)である。その細やかな観察は抜群だ。

 桜が日本独自の花であり(これは植物学上の問題では無く、その美しさの発見という意味)、また、自分が吉野水分神社の申し子ということも宣長の桜への思いには深く係わるが、何より花そのものが好きであった。

 夥しく詠んだ桜の歌については、亡くなる前年の秋に詠んだ『枕の山』が到達点といえよう。この歌集について歌人・岡野弘彦は「「枕の山」と題する桜の歌三百首は、最晩年の心の陰影と自在さとが、伸びやかに出ていて面白い」と評するが、晩年の宣長は物狂おしい程に桜を思い、ついには同一化しようとさえする。

【参考文献】 「本居宣長と桜伝説」鈴木淳『国文学研究資料館紀要』19号。


                                          (C)本居宣長記念館

安心(アンジン)

宣長は、人の問いに答えて、「小手前の安心」は無いと明言する。 「小手前」(オテマエ)とは聞き慣れない言葉だが、どうやら「個人レベル」と言うことらしい。「安心」(アンジン)とは心の平安。例えば浄土教なら、阿弥陀如来の本願を疑うことなく、その救済により極楽往生が出来るから、死んでも平気だと安心する。あるいは、悟りを開く。これは個人レベルでの安心だ。こういったものは無いと宣長は言う。
 個人は社会の一員であり、社会の掟に背くことは出来ないのだから、その社会の一員としての務めを果 たせば、「安心」など無くても生活できると宣長は考えた。
 だいたい、「安心」を得るための理屈はいい加減なものが多いではないか。天地の道理も、また生死の道理も分からないのに、どうして「安心」が得られるのか。皆、こじつけだ。その事は古書(『古事記』等)を読めば明らかだ。
 だがそれでも「安心」が無くては不安で居れないと言う人がいるので敢えて答えるならば、人は死ねば皆、黄泉の国に行く。黄泉の国は汚くて悪しき国だ。だから悲しい。それだけだ。だから「此世に死ぬ るほどかなしき事は候はぬ也」(『答問録』)。
 結局、すべては神のしわざであり、「人の力にはいよいよかなわぬわざ」で、人はただそれに従順であるよりほかはない。この世には悪事も凶事も多いが、それもまた神の仕業である。それに逆らうことをしないでいること、それが「真実の神道の安心」であるとした。
 「安心」と「悲しみ」。宣長にとってこの二つは矛盾するものではなく、ここから歌も生まれてくるのである。


 
                                             (C) 本居宣長記念館

図解

 宣長は、子供の頃から「系図」とか「地図」とかが大好きだった。ただ写すだけでなく、『大日本天下四海画図』のように自分で調べたりしてよりよいものを作ろうと試みたこともある。時には、空想の町の地図や、またその町に住む人の系図を作ったりもした(『端原氏城下絵図・系図』)。
 図解することが好きな性格は、その研究にも影響を与えた。ことばの法則を考えて、変化を図示したのが『てにをは紐鏡』、また『古事記』の神々の世界を図解したのが『天地図』である。歌の変遷を図解した「歌詞展開表」も残っている。
 また書簡でも挿し絵を入れたり、葬儀の次第や墓については、文字だけでなく『遺言書』や『山室行詠草・山室山奥墓図・山室山墓地譲渡証文案』のように図を交えて指示した。
 例えば、『本居宣長稿本全集』第2輯には次のような図解が載る。 「寛政六年和歌山城内十人扶持加増」P36・「寛政十一年和歌山城内講釈」P71・「寛政十二年和歌山城内持講」P96・「序文書判の大きさ」P168、174・「龍田周辺図」P236・「大なべ、小なべ図」P241・「神功陵」P242・「石上神宮石の垣」P243・「中山邸講筵の図」P277・「旅寓講筵の図」P312・「名古屋大火の図」P467・「寛政六年和歌山城内講筵の図」P472
 図になるような合理的なこと、また法則、また時間の流れに伴う変化を追求したことが、宣長の学問の特徴であり、その価値を高めているとも言える。

 53歳の時に書斎を増築し、柱掛鈴を床の間の脇に掛けた。その鈴に因み、書斎の名前を「鈴屋」と名付けた。宣長はその鈴の音色が好きだった。先生は鈴が好きだと聞いたお弟子さんは、鈴をおみやげに持ってくる人もいた。

源氏物語

 宣長は『源氏物語』を評して、 「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」(『源氏物語玉の小櫛』) この物語以上の本はどこにもないし、これからも出てはこない、と言う。

 宣長がこの「物語」を初めて読んだのは、『源氏物語覚書』を書いた20歳から21歳頃であろうか。そこに至る過程として、10代半ばからの「京都」への関心。また「和歌」への関心がある。江戸時代までは、『源氏物語』は何よりも「和歌」の基本書であり、その「和歌の伝統」また、『源氏物語』の舞台となった宮廷文化がそのまま残るのが「京都」の町であった。
 また和歌を生み出す基となった「もののあわれ」によって、『源氏物語』の世界も成立すること、もののあわれを知る人こそが、「よき人」であると宣長は説く。

「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」(『紫文要領』)
「孔子もし是を見給はば、三百篇ノ詩をさしをきて、必此物語を、六経につらね給ふべし。孔子の心をしれらん儒者は、必まろが言を過称とはえいはじ」(同書)
「よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(『源氏物語玉の小櫛』)
「その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり、されば此物語、物の哀をしるより外なし」(同書)

『古事記伝』

『古事記伝』再稿本(『古事記』本文) 宣長自筆・国重要文化財

 外来文化の影響をうける前の日本人の心を知るためには、『古事記』が第一の書であると宣長は考えた。そして、半生をかけて、『古事記伝』を執筆した。但し、松坂を始め各地での講義書目には『古事記』は入っていない。講釈できる本ではない、そのエッセンスは『直霊』で明らかにしたし、講釈もした、あとは『古事記伝』を読んで欲しいということだったのだろうか。

『万葉集』

 『うい山ぶみ』で、「二典(『古事記』、『日本書紀』)の次には、万葉集をよく学ぶべし」
と宣長は書き、この集の歌を真似て、自分でも古風歌を詠むことが大事であると言う。
「歌をよまでは、古への世のくはしき意、風雅(ミヤビ)のおもむきはしりがた」いからだ。

 これは師・真淵の教えでもあった。このように、宣長における『万葉集』の位置づけは、まず『古事記』を読むための階梯としてである。
 ただ門人には、賀茂真淵の「古風歌」への共感もあり、大平を始めとして、本書を好む人も多かった。そのため、宣長は晩年まで本書の講釈を継続した。宣長手沢本の『万葉集』の特徴は、門人、また鈴屋を訪れた諸国の人の意見まで、積極的に記録している点にある。活発な意見の応酬がなされたことが分かる。


和歌

 「おのが物まなびの有りしやう」で、「十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき」(『玉勝間』巻3)と回想するように、和歌への関心の芽生えは、17、8歳であった。
 18歳の11月14日、『和歌の浦』第1冊を起筆する。本書は和歌の学習ノートである。
 翌、寛延元年(1748)1月、初めて「春立心」を詠む。
「寛延元年戊辰、詠和歌、清原栄貞(「本居」自刻印)、 此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける、
 新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空」(『栄貞詠草』)
『(今井田)日記』寛延2年の条に「△去辰ノ年ヨリ、和歌道ニ志、△今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」とある。

 京都時代には、友人に対して、「僕の好む所、文辞よりも甚だしき者あり。和歌也。啻に之を好むのみならず、亦た之を楽しみ、殆ど寝食を忘る。足下の和歌を好まざるは、其の楽しみ為るを知らざる故也、請ふ嘗(ココロ)みに足下の為に和歌の楽しみを言はん。心を和に遊ばしめ、而うして物に大同し、六合に横たわりて、而うして逆らふ物無く、宇宙万物は、猶藩牆の物の如き也、心に任せて致さざるなし」と言う。

 この和歌への思いは生涯変わることはなく、歌を詠むことは宣長の生活の中にしっかりと根ざしていった。歌は、楽しみでもあり、町人との接点でもあり、また、学問の中でも、歌を詠むことは特に重視された。そして、嶺松院歌会で知り合った人たちに『源氏物語』の講釈を開始し、これが鈴屋社中の萌芽となる。
 宣長が生涯に詠んだ歌は約10,000首に及ぶと推定される。家集『鈴屋集』、編年体歌集『石上稿』の外に、『自撰歌』、『鈴屋百首歌』、『枕の山』といった歌集もあり、また『菅笠日記』など紀行文中にも歌は載る。

信仰

 常識的な意味での「信仰心」から見るといささか奇異に見えるが、宣長の場合は、家の宗教と個人の信仰を整然と分けていたようである。家は熱心な浄土宗であり、個人的には、特に40歳代以降は仏教から距離を置き、「小手前の安心」は無いと主張した。一方では、「毎朝拝神式」に見られるような独自の信仰の体系を作っていった。その帰結が「奥墓」と樹敬寺墓である。
 家の宗教は、慣習であり形式的なもので信仰とは別だと言う見方は、宣長にはそぐわない。宣長の信仰には、形式的なものもまた重要な位置を占めていたからだ。

からごころ

 宣長は、徹底して「からごころ」を批判した。儒学批判とは少し違う。あるいは大きく違う。
 儒学者は、自分たちが何を尊んでいるのか、その自覚がある。困るのは、その自覚のない人たちだ。「からごころ」はそんな無自覚の人の心に多く潜んでいるのだ。
 では、「からごころ」とは何だろう。宣長の説明を聞こう。 「漢意」(カラゴコロ)というのは、中国の文化を好み、有り難がることだけを言うのではない。何でもその善悪や是非を論じ、物の理屈を考えようとする、儒学書のような物の考え方全部を指して云うのだ。だから、私は儒学の本など読んでいない、と言う人にも実は「漢意」の影響は及んでいる。なぜなら日本は中国を、またその中心となる儒学を尊重して1,000年にもなるのだから。知らないうちに、私たちの考え方にも「漢意」の影響が及んでいるのだ。(「からごゝろ」『玉勝間』巻1)
 つまり、私たちは「漢意」というサングラスをかけて世の中を見ているようなものだ。サングラスをはずして自分の目(日本人としての目)で世の中を見てみよう、と宣長は提案する。そのための指針となるのが、『古事記』を中心とする日本の古典であった。

 ところで、余談だが、宣長を考え、論じる時に、「宣長」という名前の意味は、なぜ桜が好きなのか、鈴が好きなのか、お墓を二つ造ったのはなぜだ・・ということを問題にする。このCD-ROMでもそれは同じだ。中には深い意味があるものもあるが、一方では好みの問題、つまり好きだからだよ、ということもあるはずだ。
 例えば「鈴屋衣」の意味を問われた宣長は、別に深い意味はありません好みですよと答えている。この言葉の意味をそのまま受け取るわけにもいかないが、忘れてもいけない。
 何にでも意味を求めたくなる、これもまた「からごころ」なのかもしれない。



(C)本居宣長記念館

個と連続

 宣長は生涯に厖大な記録を残している。
 例えば『日記』を誕生の日まで遡り起筆し、また後年には自画像を描く。『遺言書』は命日の決め方埋葬の仕方に及ぶ。これらは史家の目で記述した一人の人間の記録のようである。背後にあるのは、他の誰でもない自分という意識。この自己への関心が宣長の出発点であり、最終目標であった。「個」の自覚は、家の伝統を重視し、社会の慣習を重んじる、いわば「連続するもの」への尊重とバランスをとり続け、生涯破綻なく過ごす。

  宣長の価値判断の基準に「永続」がある。つまり、連続だ。天皇を頂点とする京都や和歌に及ぶ日本の文化伝統から、家の永続に至るまで、長く続くことを尊重し、また希求していた。その象徴的な現れが15歳の時に写した『神器伝授図』であり、『職原抄支流』である。

 その長く糸のようにのびる時間の流れの中の一つの点としての「自分」と言う認識。その一つ一つの点には個としての意味があると考えていた。
 例えば、宣長の墓はなぜ二つあるのか。樹敬寺は小津から本居へと続く家の流れの中の構成員としての墓である。奥墓は、個としての墓である。門人など彼の学を慕う人が訪うて来たときに教えるのは奥墓であるのは、それは宣長という個人を慕ってきたのであり、本居家の一員を慕って来たのではないからだ。本居家においては宣長は「高岳院石上道啓居士」として、一方、小西春村や門人は「秋津彦美豆桜根大人」として祀ったのもそのような区別があると言えよう。



(C)本居宣長記念館

言葉

 言葉が好きな人であった。言葉への関心は高く、珍しい言葉や言葉の用法、変化などに関心を払い、多くのメモを残し、またそれを研究論文にまで高めていった。
 例えば、『伊勢物語』に、「侍る」という言葉は2例しか出てこない。
 娘の飛騨が赤ちゃんだった時にしゃべったことば、例えば「枕」を「マカ」、「飯くれ(ママクレ)を「マクレ」と言うのが「反切」という言語の法則にかなうとメモしたこともある。
 言葉遊びも好きで、なぞなぞを作ったり、また47文字を一回ずつ使って歌を作ることも試みた(「雨降れば」)。カルタの方法も考案した。『名勝地名箋式』は宣長が考案した歌枕の知識習得のためのカルタ法式。
 また「言葉」について、「言」(コトバ)と「事」(ワザ)と「心」というものは大体一致するものだともいう。だから上代の人を知り、理解するためには「言葉」を知ることがまず必要となり、そのためにも「歌」を詠むことが大事になるのである。

食事

 「うまき物くはまほしく・・」美味い物は食べたいし、と言うのが人の真心だ、と宣長は言うが、宣長自身の食べ物への欲求は比較的乏しかったようだ。「比較的」と書いたのは、冠婚葬祭の記録で、出された料理の逐一、例えば椀の中の食材から漬け物、菓子に至るまで克明に記録しているので、書物の上での知識以上のものがあったことが容易に推測されるからだ。好みは、やはり京都風か。『玉勝間』の「伊勢国」では、松坂にはクワイ、蓮根が無いと言っている。また、来訪者が増えるに従って、諸国の名産も口にはいるようになってきた。大矢重門の「焼き鮎」、横井千秋の「守重大根」等々。例えばミカンのように、時代が進んでくると改良され、また新しい種類のものが食べられるようになることは素直に喜んでいる。
 但し、食物の中でもお米は別格である。米に対しては、一種の信仰心のようなものがあった。

戦略

 宣長の生涯には、純粋に「学ぶ歓び」を追求した人と言う側面と、師から受け継いだ学問、つまり日本の古道を解明し、外国追随の文化伝統からの軌道修正をしようとする「古学」(国学)の伝統を守り、また普及させようとするもう一つの面があった。
 二つ目の、学問普及のための戦略家としても宣長は優れていた。
 まず、著書を執筆する。著書は、文書は平明で、論理の飛躍が無く、適切な比喩と必要にして充分なだけの論証資料が用意される。
 次に、その著書を出版する。その事でより広域の読者を獲得できる。契沖や真淵の著書が多く写本で普及したのとは大きな違いだ。
 著書への疑義、批判は歓迎した。質疑応答により、一層深い読者層を開拓し、また論争を通じて「古学(国学)」の立場を鮮明にした。

 また、正統な真淵門人であることを主張し、その学統の祖として契沖を置く。国学の伝統を明確にすることは、伝統を尊ぶ宣長には重要であった。また、儒学の真似をして出来てきたとか、新興の学問と軽視される批判をかわす意味もあった。このような批判は、本質を弁えない部外者の見方であるというような扱いを宣長はしない。相手が誰であっても手を抜くことなく、誠実に、また徹底して対処した。
 そのことは門人指導でも窺える。純粋な学問を求める門人への適切な指導や特別の講釈をする一方では、今のカルチャーセンターのような講釈や歌会を通じて、和歌や物語を愛好する門人も大事にして真剣に指導した。

 政治との関与の仕方にも注意を怠らなかった。学者の務めは道を明らかにすることであり、道を行うことではないと主張し、積極的な関与を避けた。一方では、紀州徳川家との関わりを保つことで、結果として、若い学問である「古学(国学)」への旧学問やそれを擁護する旧勢力の批判をかわすことに成功した。紀州家の認知を受けた宣長学には、幕府の役人といえども口を挟むことは出来なかった。

 「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」
 『古事記伝』を書き終えた69歳の宣長は、門人のもとめに応じて学問の入門書を執筆した。『うい山ぶみ』である。18歳頃に和歌に志して学問の世界に踏み入ってから数えると約50年、宣長の思索と体験を凝縮された本で、今も学問への道を歩もうとする人にとって、指針となっている。その中で宣長は、学問は自発的なものであることを主張する。つまり「志」こそが一番重要であり、方法は二の次であると言う。

「すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立てて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よはくては、学問すすみがたく、倦み怠るもの也」
「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く、倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇なき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」『うひ山ぶみ』

 だから、このような入門書もかえってよくないのかもしれないと自問自答し、最初に挙げたような歌を添える。
 新米の山伏が初めて山入りをする。そのように学問の道に初めて入る人のために、ごく基礎的なことを書いたのだが、果たしていかがなものであろうか、と言う意味だ。

 自分が好きで始めた学問だから、好きなようにすればよい、ということだが、宣長自身の覚悟は決まっていた。たとえ定説、また師説であっても大事なのは真実である。その究明が最終目標となるということだ。
「今おのれ、かの考(賀茂真淵著『祝詞考』)を本として、その説をことごとく挙て、考ニ云クといひ、頭書に至るまで、もらさず引出て、次におのが思ひとれる事どもをしるし、かの考の違へるふしぶしをも論ひて、後釈となづけつ、かの余(ホカ)のもろもろの注釈どもは、みないふにもたらぬことのみ多かれば、そのよきあしきは、ひたぶるにすてて、あげつらふことなし、もはら吾大人の考を、つぎひろむものぞ、そもそも師とある人のあやまちをあぐることは、いともかしこく、罪さりどころなけれども、今いはざらむには、世ノ人ながく誤りを伝へて、さとるよなく、猶いにしへごころの、明らかならざらむことの、うれたさに、えしももださざるになむ」 (『大祓詞後釈』)
 評論家・小林秀雄は宣長を評して、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分は愚か、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見えてくる」と言っている。

論争

 宣長は純粋に学問を愛した人である。だから質疑応答を好み、時には「議論は益多く候」と主張する。
「たとひあらそひても、道を明らかにせんこそハ、学者のほいにて候はめ、又よしあしをたかひに論するにつけても、我も人もよきことをふと思ひうる物にし候へハ、議論ハ益おほく候事也」(安永元年1月22日付、谷川士清宛書簡)
 また、「愚老説とてもいかゞニ思召候儀ハ、少しも無御遠慮、幾度も御議論承度候」
これは天明5(1785)年2月27日付・鈴木梁満宛書簡の一節である。

  宣長の論争は、儒学者・河北景木貞の『天祖都城弁』への反論『天祖都城弁々』(安永2年)、天文暦数学者・川辺信一への反論と自説の修正『真暦考不審考弁』(寛政元年)、『直霊』の草稿である「道云事之論」への批判をした儒学者・市川鶴鳴の『まがのひれ』に対する反論『葛花』(安永9年)、藤貞幹への批判、そこからの延長である上田秋成との論争『呵刈葭』(天明6年頃)など数多い。

質疑応答

 宣長は真淵から通信教育で勉強を教わった。質疑応答である。質疑応答は難しい。質問が的確であれば、師は優れた回答を返してくれるだろう。自分で考えることが必要だ。優れた質問は、師の学問も鍛えてくれる。

「一、先達而申上候麻ケ・鈴ノ事、御不審御座候ハハ、幾度も可被仰下候、ケ様之事ハとかく数へん往復仕り候へば、段々よき考へ出申し候物ニ御座候ヘハ、無御遠慮いく度も可被仰下候」(安永7年6月24日付荒木田経雅宛書簡)
  宣長は通信教育、そして質疑応答で門人も指導した。

書簡

 宣長は通信教育で勉強した日本歴史上最初の人であるかも知れない。宣長は、江戸の賀茂真淵(1697~1769)から書簡で勉強を教わった。また自分の学問を普及するのに書簡を活用した。現在確認されている宣長書簡は、『本居宣長全集』収載のものが1,021通、以後に紹介されたものを含めると約1,050通余り。質問者に対して宣長は惜しみなく最新の研究成果を伝えた。
 もちろん江戸時代は、今のような郵便制度はないが、大都市は飛脚で結ばれ、また日数はかかっても村々にも届けることも出来た。宣長の記録のなかに「転達所覚」とあるのがその方法を書いたものである。
 たとえば山梨県の辻保順(作家・辻邦生氏の先祖)という門人に手紙を出すには、まず京都の近江屋喜兵衛を経由して、甲州加茂村竹下氏を中継し、保順に届く。つまり転達所とは経由地、中継地のことである。またもう一つ、街道沿いの町松阪ならではのやり方があった。参宮客を使う方法である。こちらは早くて安いので、宣長もよく利用した。

 毎年定期的に地方を回って伊勢神宮のお札を配る御師(オンシ)たちも宣長の学問の普及に寄与した。地方の檀家に神宮のお札と共に、女性にはおしろいを、農家には伊勢暦を土産とし、勉強の好きな人には、伊勢にこんな事を調べている人がいると、宣長の本を見せてやったのである。さらに興味のある人には、参宮を勧め、帰りには松坂で勉強していきなさいと、宣長への紹介状を書いたのである。
  宣長書簡の価値は、学問の最新情報が満載されていることと、もう一つ、他の資料に見られない情報〈個人情報〉が書かれている点にある。実は、『古事記伝』天覧も、また加賀前田侯からの招聘のことも、そして『古事記伝』完成も現存する第一報は書簡で残るのである。

【参考文献】
「日本における遠隔教育の起源-鈴屋の意義」白石克己、『鈴屋学会報』16号。

驚く

 「即ち恋ほど人心を支配するものはない。その恋より更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
 「曰く習慣(カストム)の力です。
 我々の誕生は眠りと忘却にすぎぬ(「霊魂不滅を思う」ワーズワースの一節)
この句の通りです。僕らは生まれてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々の事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於いてかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立っているかの態度を以てこの宇宙を取り扱う。
 やがて汝の魂は浮世の重荷を背負い、習慣は、霜のごとく重く、まさに生命のごとく根深く、汝の上にのしかからん(「霊魂不滅を思う」の一節) このとおりです、このとおりです!
 「すなわち僕の願いはどうにかしてこの霜をはたき落さんことであります。どうにかしてこの古びはてた習慣(カストム)の圧力からのがれて、驚異の念をもってこの宇宙に俯仰介立したいのです」             
                    「牛肉と馬鈴薯」国木田独歩

 宣長のCD-ROMで独歩が出てきて驚かれましたか。
 大人になると驚かなくなる、とよく言われるが、なぜ驚かないのか。宣長の思想からいけば、それが「からごころ」に毒されているからだ。世界は解釈がつく、不思議はないと平然と言い切る人がいるが、本当にそうだろうか。

「されば此天地も万物も、いひもてゆけばことごとく奇異からずといふことなく、こゝに至ては、かの聖人といへ共、その然る所以の理は、いかに共窮め知ることあたはず、是をもて、人の智は限りありて小きことをさとるべく、又神の御しはざの、限なく妙なる物なる事をもさとるべし」(『葛花』)
 「驚く」こと、これが宣長の学問の出発点であった。生きていること、また自分を取り巻く世界への純粋な驚き、それを宣長は大事にした人である。そこから全ては始まったとも言える。宣長には、百科事典編纂願望とも言えるようなものがある。少年の夢のようなものだが、この、知りたいという欲求を生涯失うことはなかった。


 
                                           (C)本居宣長記念館   

好信楽

 在京中の宣長が、友人の批判に対して答えた手紙の中に「好信楽」という言葉が出てくる。これが宣長自らの学問の態度である。
「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好しこれを信じこれを楽しむ。啻(タダ)に仏氏の言にしてこれを好し信じ楽しむのみにあらず、儒墨老荘諸子百家の言もまたこれを好し信じ楽しむ。啻(タダ)に儒墨老荘諸子百家の言にしてこれを好み信じ楽しむのみにあらず。凡百の雑技歌舞燕遊、及び山川草木禽獣虫魚風雲雨雪日月星辰、宇宙の有る所、適(ユ)くとして好み信じ楽しまざるは無し、天地万物、皆な吾が賞楽の具なるのみ」(宝暦7年3月頃、上柳敬基宛書簡)
 特に「楽」には、『論語』の「浴沂詠帰」に対する宣長の見解が色濃く投影されていて、一つの覚悟であると言える。

 例えば次の文と比較してみよう。
「宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う」(明治36年6月30日付、南方熊楠差出、土宜法竜宛書簡)
 万物の存在する世界から、自らが選んだ「学問」、それに確信を持ち、そこに楽しみを見出す。功利的な考えや打算のない世界である。



(C)本居宣長記念館

記録の人

 宣長は「記録の人」である。その記録には2種類ある。自分に関するものと日常の記録だ。

 宣長は、自分に関する記録をたくさん残している。13歳の時から『日記』を書き始めたが、その第1ページは生まれた日の記事。亡くなる1年前には『遺言書』で、葬儀の次第を細かく指示した。だから命日を宣長の指示どおりに定めて書き加えれば、生まれた日のことや、誰から勉強を教わったのか、いつどのような本を書いたのかなどを、彼自身の筆でたどることができる。また、宣長には四十四歳と六十一歳の時に描いた自画像もある。
  なぜ自分の記録を残すのか、自画像を描くのか。宣長のこれらの行為の内には「自分」に対する関心が一貫してあった。自分の探求である。

 日常の記録も多い。ただ、なんでも書くというのではなく、必要なことをきちんと日記や諸記録に書き留めるというタイプの、効率の良いやり方だったようである。この几帳面さは、商人として成功した先祖譲りだったのかも知れない。
 宣長の行動の基本は、日々の生活の重視。門人村上円方に贈った歌に、「家のなり(業)なおこたりそねみやびをの書はよむとも歌はよむ共」という一首がある(宣長70歳)。

 医療も近所、親戚付き合いはいわば俗事だ。その俗事をいかにそつなくこなすか。まめやかに努めるかに宣長は腐心した。これらたくさんの記録類は、松坂の一町人としての生活のマニュアルであったとも言える。



(C)本居宣長記念館

友人

 宣長にはたくさんの友人がいた。ただ、本当は友人でも、門人録に名前が載ることで先生と弟子という関係になった人も多い。稲懸棟隆や須賀直見、戒言などがその代表だ。代表的な宣長の友人は次の人たちだ。

宣長の書

 宣長を書家として見る人、また評価する人はまずいない。宣長自身、自分の字は下手だと言う認識を示している。
 随筆『玉勝間』巻6「手かく事」いう文章がある。そこでは次のようなことを書いている。

 何よりもまず、先ず字は上手に書かねばならない。歌を詠んだり学問する人が拙い字を書くとそれだけで歌や学問まで胡散臭く見えてしまう。内容と文字は関係がないというのも確かに理屈ではあるが、やはり割り切れぬ気持ちが残る。私は字が下手で、いつも筆を取るたび、大変悔しい。こんなことは言っても仕方ないと思うが、それでも人から所望され、仕方なしに短冊を一枚書いてみるが、それを眺めると、我ながら、大変見苦しくぎくしゃくしている。人はこれをどうみるのかと思うと、恥ずかしさで胸が痛くなる。若い時にどうして手習いをしなかったのかと大変悔まれる。
  これを読むと、宣長は手習いをしなかったように思われるが、実はかなりみっちりと習っている。8歳の8月より、西村三郎兵衛を師とし、「いろは」、「仮名文」、「教訓之書」、「商売往来」、「状」、及び『千字文』の「天地」等を習う。特に『千字文』は師を代えて半元服の13歳まで続いた。だが、それでは不充分だったのだ。

 もう一つ重要なことがある。それは「人から所望されて短冊を書く」というのだが、その数たるや頗る多い。宣長は家業の木綿商を廃し、医業を学び、それで生計を立てる。国学者の台所は薬価料で賄われていたのだ。だが、学者としての名声が高まるにつれ、次第に収入源も変化を見せてくる。和歌を添削したりすることで礼金が入る。また門人となり束脩を納める人もいる。だが、それ以上に大きなウエートを占めたのが、「有名人宣長さん」に何か書いてもらおうと言う人たちであった。
 しだいに、このような「認物」(シタタメモノ)と呼ばれる書の収入が家計を支えるようになった。『諸国文通贈答并認物扣』はそんな染筆の記録である。書家ではないが染筆料に頼る宣長。その家計や日常を記録したのも、実は宣長自身である。宣長は「記録の人」である。そしてその記録は没後200年たった今も、当時とほとんど同じ状態で、つまり完全保存されて伝わっている。

 宣長と書と言う時に、特に注目されるのはこの点だ。
 筆跡から言えば、『日記』を書き始めた13歳から、以後72歳まで各年齢の書がすべて残っている。しかも速筆の日常雑記、手に持った状態で書かれた詠草、謹直な文字で記された写本や稿本類までバリエーションも豊富である。少年期、青年期、壮年期、円熟期と一生の文字の変遷、宣長の場合それは少ないが、それでも60年という年月の中での変化は当然見て取ることが出来る。

  さて、写本や稿本の宣長の字は、どこまで書き進んでも殆ど変化することがない。また書き損じが極めて少ない。疲れというものがないのか。穂先を切った筆に秘密があるのだよと言う人もいる。いずれにしても、宣長という人は、机に向かうと感情というものが無くなってしまうのではないか。例えて言えば、機械のような人ではなかったか。
 決して冷たいというのではない。反対だ。宣長の学問の根底には人間の弱さの認識があった。それを覆い隠すものを「からごころ」と批判し、その弱い心こそが「物のあわれを知る心」であり、そこから歌が生まれると考えた人だ。だが、感情がほとばしるような、例えば師の賀茂真淵の書とは全く別だ。それは、その学問を象徴する字体でもある。

 畢生の大著『古事記伝』。この注釈書の執筆は、先ず『古事記』への書き入れから始まる。そして草稿、再稿と書き進んでいく。全巻完成まで35年以上の歳月が費やされるが、入念な準備と研究、執筆、また出版の段取り、版下書、校正まで綿密に計画され、実行される。『古事記伝』を含め、宣長の著作で生前刊行分は30種に及ぶ。いずれも、書かれたものは殆ど改訂する必要がない程だ。核心へと迫る注釈の方法に「美しさ」を感じた人もいる。執筆から出版へのスムーズな作業の流れに「美しさ」を見た人もいる。
 出版直後から改訂した真淵とは対照的だ。どちらが優れているというのではない。それぞれの資質と流儀はあるのだが、それにしても宣長の文字は、どこまでも坦々と書かれ、その人柄を偲ばせる。


                                          (C)本居宣長記念館

もののあわれ

 歴史的仮名遣いでは「もののあはれ」と書く。
「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。
 これは、宣長が、和歌や『源氏物語』から見つけた平安時代の文学、また貴族の生活の底流を流れる美意識である。

 この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からその美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。『安波礼弁』で、「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとする。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説かれた。

顔と体

 松平康定の証言によれば、宣長は、背が高く、痩せていて、穏やかな人だった。鈴屋衣の寸法から推測すると、身長は170cm位か。当時としては長身だ。画像を見ると鼻も高い。年をとってからは耳が遠く、康定手ずから金縁の眼鏡を授けたと云うからきっと老眼だろう。入れ歯もはめていた。72歳像には白髪も見える。だが、他には特に老人めいたところはなかった。母は子どもの時から体は弱いと云っているが、大きな病気も無く晩年を迎えた。それでも、72年の人生、何度か病気をしている。その病歴については、「医者の不養生」を見て下さい。

おしゃれ

 「個」としての自分を強く意識していたせいか、宣長は自分の好みがはっきりとしていた。
 例えば、装丁や色紙、短冊にまで好みがあった。
 鈴屋衣というオリジナルの着物を着用したこともよく知られている。
  「宣長さんはおしゃれだった」という指摘もあるが、これは「見られる自分」という意識と共に、宣長を考える上で、重要な問題だ。



                                           (C)本居宣長記念館   

先生

 宣長の先生は、手習いが西村三郎兵衛、斎藤松菊、岸江之仲。弓が浜田瑞雪。茶の湯が山村通庵。漢籍が正住院主、堀景山。歌が法幢、森川章尹、有賀長川。医学が堀元厚、武川幸順。そして国学が賀茂真淵である。
 宣長は『法事録』に、師の没した日を記し、感謝を忘れることはなかった。だが、一方では、師の説を直すということを主張し、また実践もしていた。

プレゼント

 宣長は「玩物喪志」とはまったく縁遠い人であった。だから「好事家」ではない。
 物を集めないと、やはり好事家にはなれない。大館高門、木村蒹葭堂はその世界の大物だ。また谷川士清もちょっとそんな傾向がある。

 宣長は、知識欲は旺盛だが、物への執着心はほとんどなかった。本も、借りて読めばいい。必要なら写したらいいと言う考え方であった。記録を見ると、駅鈴形の硯など珍しい物もたくさん貰ったようだが、残念ながら残っている物はごく僅かである。
 一番大事にしていた、賀茂真淵先生の書簡でも、懇望する人にはプレゼントしている。
 またプレゼントとはちょっと違うが、神社への寄進も行った。一つが自著『古事記伝』の奉納である。また梅の木も寄進した記録が残っている。

時代

 宣長の生きた1730年から1801年は、天皇は114代中御門天皇、115代桜町天皇、116代桃園天皇、117代後桜町天皇、118代後桃園天皇、119代光格天皇将軍は8代吉宗、9代家重、10代家治、11代家斉である。と目まぐるしく変わられた。享保の改革から寛政の改革へ至る時期であり、中には田沼時代と呼ばれる時代があった。

 文化に目を転じると、18世紀は文化東漸期であり、地方へ拡散した時代であった。
 元禄以降、文化は漸次江戸にその中心が移っていき、約100年後の文化文政期、江戸に文化の花が開く。この時代、前半期は、地方出身者が京都や大坂で学び、江戸で職を得ると言うパターンができる。その一人が宣長の師の賀茂真淵であった。また、真淵門人でもある平賀源内もその一人だ。宝暦年間(1751~64)以後の後半期となると、江戸に独自文化が形成される。京都も伝統文化の中心地というポジションを保持する。また、全国各地で、知的好奇心に目覚めた人たちが出てきた。これは、貨幣経済が農村部にまで浸透し、数々の矛盾が生じてきたこととも関係がある。彼らの中には、宣長の学問を積極的に受け入れ、支持する人たちも出てきた。

講釈

 宣長は教えるのが好きだ。学問普及という目的もあってのことであろうが、性格と言うこともあるのだろう。ただ、『古事記』を講釈しなかったとか、また具体的な講釈の仕方など謎が多い。

賑やか

 歌会、講釈、また四季には行楽に出かけ、静かな山林より賑やかな場所の方を好み、京都は四条烏丸あたりを好んだ。宣長はほかの人といるのが好きだった。人からの質問を大事にし、そこから自分の学問の領域を広げていった。
 また、宣長は教えることに倦むことがなかった。生涯に行った添削の数は膨大なものであったと思われる。だが、そのような集団の中でも、「個」の自覚があった。これは「連続と個」にも通じる。奥座敷での講釈や歌会を終えて人々が帰った後、宣長は一人「鈴屋」に上がって机に向かうのであった。奥座敷の宣長も、鈴屋の宣長もいる。

 「世々の物しり人、又今の世に学問する人などもみな、すみかは、里とほく静かなる山林を、住みよくこのましくするさまにのみ言ふなるを、われはいかなるにか、さらにさはおぼえず、たゞ人げしげくにぎはゝしきところの、好ましくて、さる世ばなれしたるところなどは、さびしくて、こころもしをるゝやうにぞおぼゆる。」
 『玉勝間』13の巻「しづかなる山林をすみよしといふ事」の一節。知識人の間では静かな所を住処とする事が常識であった。しかし宣長は、本当にそれで満足できるのかと自問する。既成の価値観に頼らず、自分の考えで判断をするのが宣長の態度であった。


                                          (C)本居宣長記念館

経済生活

 『玉勝間』の中に「金銀ほしからぬ かほする事」という段がある。
 こんなことが書かれている。
 学者の中に、金など要らぬと恰好をつける人がいるが、学問をするにも金は必要だ。今の世の中金があれば何でも手に入るし、よい本も金で買える。とはいうものの、金々と浅ましいのに比べたら、金など要らぬと言う顔をしている方が遙かにましだ。
 正論である。学者はかくあるべきだという既成概念は無視する。貨幣の持つ意味を認識する。社会生活のモラルを重視する。つまり、自分の頭で考えて行動する、実に宣長らしい発言だ。

 宣長は商人の子だ。金の持つ力、また怖さもよく知っていた。そしてその活用の方法も熟知していた。出版という金のかかる作業を継続し、また春庭の失明と治療という、ともすれば破綻しがちなほどの家政を、家計簿なども自分でつけることで徹底管理して本居家の経済生活を見事に維持していった。

「ただ本居家においては、収入が多ければそれだけ支出も嵩み、蓄積がほとんどできぬまま、生活に追われた家業経営がいつまでも継続する。それは、学者にありがちの、脱社会的な小安居の世界ではない。貧窮を時には吐露しながら、生活規模を縮小せず、収支の額面が常に大きく持続しているのは、本居宣長の生活力の大きさを示しているように思われる」
          「本居宣長の簿記と家業経営」北原進(宣長全集・19解題)

万国図

 「万国の図を見たることを、めつらしげにことごとしくいへるもをかし」
 これは宣長が上田秋成に言った言葉だ。鈴屋にも諸外国の情報は届いていた。世界地図など誰でも見ていると言った宣長の机の傍には本当に世界地図が置かれていた。
 また、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』という本で宣長は、仏教的な須弥山宇宙論を批判し、「地球」説を養護、「地球の空中にあることは、日月の空に懸れると同じことなり」という。
 また、「西洋の人は万国を経歴してよく知れる所」と、見聞の広さは西洋人の方が上であると認める。
 また西洋の暦を見ていた可能性も指摘されている。

 宣長から見れば、仏教的な世界観や、中華思想は諸外国の前では成り立たない。反対に諸外国のことを知れば、日本の優れた点が分かると考えていた(「おらんだといふ国の学び」『玉勝間』巻7)。


(C)本居宣長記念館
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