midashi_v.gif 素兎 (シロウサギ)

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写真は、『古事記伝』自筆稿本、端正な字が並んでます。字が大きいのは、『古事記』の本文だから。
その読み方や意味を考えた「伝」の文字は、二分の一の大きさとなります。
つまり一行の字数は、本文なら12字、伝は24字。行数は片面10行と12行となります。
伝の中でも「割注」はさらに小さくなります。
(写真自筆稿本では朱で[ ]で括り「小」とありますね。これが「割注」です。清書(板下書き)の時は割注にしなさいという指示です)
「伝」の一行に二行を入れ、一行の字数は22字となります。
従って、『古事記伝』で使われる文字の大きさは、
『古事記』本文、「伝」、「割注」と小さくなり、そこに振り仮名がつきますから、「本文」振り仮名、「伝」振り仮名、「割注」振り仮名と、
ざっと数えただけでも6段階の大きさの文字(フォント・サイズ)が使用されることになります。
もちろん一本の筆では全部を書くわけにはいかないので、三種類の太さの違う筆が用意されていたことになるでしょう。
大きさはこのようになりますが、面白いのは、内容との関係です。
一番大事なのは、一番大きな字、とはならないのです。
おそらく下から三番目、本文の振り仮名が重要度は高く、続いて「伝」と「本文」となるはずです。
では、読んで面白いのはどれか。
これは文句なしに「割注」です。
「伝」の字数調整で「割注」に回されることもありますが、宣長のブツブツと独り言を言っているようなのもあります。
「注釈が面白い本は面白い」といった人がいますが、宣長の『古事記伝』もその好い例でしょう。

さて、いなばのシロウサギ、『古事記』では「素兎」と表記します。
宣長は考えます。どうして「素」なのか。本当に「シロ」と読んで良いのか。

まず『古事記』の本文の宣長解読文をご覧下さい。

「是に大穴牟遅神、その兎におしへたまはく、
今、とく水門(ミナト)に往きて、水もて汝が身を洗ひて、即ちその水門の蒲のはなを取りて、敷き散らして、その上にこいまろびてば、
汝が身、本の如くになりき。
これ稲羽の素兎(シロウサギ)といふものなり。今に兎神となも謂ふ」

次に、「伝」ではどのように述べているかを見ることにしましょう。要約です。

「稲羽のシロウサギ」とは、この話の題名である。
割注で、
もしそうでないなら、次にまた「兎神となも謂ふ」と重なりおかしい。
「今に」とあるので、昔は「稲羽の素兎(シロウサギ)」、今は「兎神」と思いたくなるが、それは違うだろう。
なぜなら、『古事記』で「於今者」と書くのは、「今に」と読んで、「今に至るまで」という意味で、「者」という字は「は」という読み方をすることはない。他のところを参照しすれば分かる。
このように言います。
問題はここからです。宣長は、ここまで兎が白だったことは言わずに、突然「素兎(シロウサギ)」というのは合点がいかない。
ひょっとしたら、「素」は裸(アカハダカ)という意味ではなかろうかと考えます。
ただそれなら、「素」は「シロ」とは読めない。別の読み方があるだろう。
誰か好い知恵はないかねと、後世の研究者のバトンを渡します。

バトンを渡された人たちは、
「稲羽の(シロ)ウサギ」とは、この話の題名であるという宣長説はほぼ了承します。
問題は、白に素を使った理由です。
手元にある最新の注釈書の小学館日本古典文学全集『古事記』では、
「素」は繊維の白さを言い、兎の毛皮を人間の衣服に見立てたのだろうと言います。
決定的なことはまだ分かりません。

さて、この「稲羽の素兎」は、八十(ヤカミ)姫に求婚に兄弟が連れ立って求婚にいくとき、
荷物を持たされた大穴牟遅神(大国主)がとぼとぼとついていく途中の出来事ですが、
なぜ兄弟で行くのかについては、嵐義人氏に興味深い随筆があります。
許可を頂き全文掲出しますので、ご覧下さい。

>>「稲羽の素兎」と出合った兄弟たち
>>「ウサギの歌」




 写真は、因幡ではありませんが、福島県吾妻山の雪ウサギです。
 桃の花と雪形、福島の春です。(2017年4月30日・福島市木村さん撮影)



(C) 本居宣長記念館


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