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解説項目索引【か~こ】

戒言(かいごん)

 ?~寛政3年(1791)秋。松坂白粉町にある天台宗来迎寺塔頭・覚性院(カクショウイン)の僧。

 宝暦8年夏からの宣長の『源氏物語』講釈に参加するなど、早くより親しく交わり、門人にもなる。また覚性院ではしばしば花見、月見、紅葉等の歌会を開く。
  家集を『露残集』と言う。
  賛の歌でも露が詠まれているように「露」を好んだという。「菅笠の旅」に参加。
        「鈴屋円居の図」戒言アップ
          「来迎寺覚性院跡」



        (C)本居宣長記念館

懐紙1

                       「村田元寿尼八十賛歌」(宝暦6年)
                      (C)本居宣長記念館

懐紙3

                          「宣長翁二首懐紙」
                     (C)本居宣長記念館

懐紙2

                             「花間鶯」
                       (C)本居宣長記念館

懐紙の書き方

懐紙は、歌や連歌を正式に記録したり、詠進する時に使用する料紙で、その書き方も、時代や流派、また歌人の身分によって異なったという。短冊、色紙に比べると、宣長の好み物と言う色彩 は薄いが、何と入っても歌を書く様式としては最も正統派だ。大事なときには懐紙が登場する。例えば御前講義、また『古事記伝』の終業。

  「懐紙書様手本」と言われるものが2つある。懐紙の書き方を図解した物だ。

、京都遊学中の宣長が、和歌の師有賀長川より伝授された和歌懐紙の書き方。例歌は宝暦6年(1756・宣長27歳)2月15日有賀氏の歌会での宣長の作。

「詠行路春草、和歌、春庵、
みちのべや 野がひがてらに 駒とめて
          しばしなづそふ 春の若草」
 この方式は格が高いためか、現存する宣長懐紙でこの手本通りに書かれた作は少ない。                    

    
、これは、門人の問いに対して、一般的な懐紙の書き方を示したものであろう。有賀流と基本は同じである。紙は「小高檀紙」を使うように指示がある。歌は安永8年(宣長50歳)11月11日嶺松院歌会での作。田中繁三氏旧蔵品。

 「詠瀧紅葉和歌、宣長、
 かくながら たをらでぞ見む おひかかる
          いは根の紅葉 たきはなくとも」
    
 

                                          (C)本居宣長記念館

懐紙4

                        「板文庫所詠之歌」(寛政6年)
                                          (C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その6

◆ 回想、菅笠の旅
henyohenyo
  小泉見卓に送った宣長の歌に見られるように、僅か10日間の旅であったが、同行者には忘れられない思い出となった。
  5年後の安永6年2月3日宣長は旅を懐かしみ歌を詠んでいる。

  「一とせ吉野の花見にまかりし事をおもひてもろ共に物せし人の
   もとへ二月の比いひ遣はしける

   君やしる 夢かうつつか あかざりし 吉野の山の 花の旅寝は」

 また20数年後の寛政年間、『玉勝間』巻9の題を付ける時にまた旅のことを思い出している。

  「花の雪・やよひのころ、あるところにて、さくらの花の、木本にちりしけるを見て、一とせ吉野にものせし時も、おほくはかうやうに
       こそ、散ぬ るほどなりしかと、ふと思ひでられけるまゝに、

   ふみ分し 昔恋しき みよしのゝ 山つくらばや 花の白雪

       かきあつめて、例の巻の名としつ、雪の山つくられし事は、物に見えたり」


                                          (C)本居宣長記念館

帰ってきた『古事記伝』

 加藤宇万伎から悲痛な手紙(4月29日付)を受け取ったのは、安永6年、宣長48歳の夏のことであった。

 僕は多年『古事記』研究を志してきたが、去々年からの病気で原稿一枚も書くことが出来ない。このまま死んだら遺恨を遺すだけだ。あなたの『古事記伝』を見せてもらい、もし自分と同じ意見だったら満足が出来る。どうか貸してくれ。

 実は、師・真淵からも、宇万伎と意見交換しながら『古事記』を研究しろと言われていた(明和4年11月18日付宣長宛書簡)ので、宣長は草稿本を送ってやった。
 ところが、6月10日、宇万伎は没してしまった。貸した本はどうなるのだろう。不安に思う宣長の下に『古事記伝』が帰ってきたのはそれからしばらくしてからであった。宇万伎の友人・砺波今道が探して送ってきてくれたのだ。
 『石上稿』安永6年条にその時の歌が載る。

 「いと大事にする書を藤原宇万伎か京なるもとへかしつかはしけるに宇万伎ほどなく身まかりにければなくなりやしなんといと心もとなく思ふほどに宇万伎が友なる砺波今道がとかくたづねてかへしおこせけるいとうれしくて今道がもとへ

  君がする しるべしなくば かへる山
         かへらでよそに ふみやまどはん 」

『玉勝間』に書かれた、本の貸し借りの注意点は、宣長はこの時の体験を踏まえたものであった。


                                          (C)本居宣長記念館

花押(かおう)

 花押は書き判とも言って印章の代わりとなるものである。宣長は生涯にいくつかの花押を奥書や書簡で使っている。

  1. これは宣長の花押中、最も長く使用されたものである。「云」のくずしと言い伝う、と本居清造翁は『本居全集首巻』第16の解説で記す。宝暦14年正月の『古事記』奥書、同月「宇計比言」は、この花押の比較的初期の使用例と思われる。
  2. 「長」の字からの形象であろう。明和7年正月13日校合の『作者部類』奥書に見える。
  3. やはり「長」の字からのデザイン。この花押は使用例が多い。丸みを帯びたり、鋭角になったりする。また単独署名として使用する時、春庵、中衛等通称に添えて使用する場合がある。
  4. 桜の花押。この花押は、安永9年3月19日春庭、春村写、宣長校合の『類聚雑用抄』と、同年5月3日春庭写、宣長校合の『東音譜』の奥書、射和文庫所蔵「五十槻園の詞」(年次不明)の3例の使用が確認されている。
                         「宣長の花押」(右より1、2、3、4)

                                          (C)本居宣長記念館

顔と体

 松平康定の証言によれば、宣長は、背が高く、痩せていて、穏やかな人だった。鈴屋衣の寸法から推測すると、身長は170cm位か。当時としては長身だ。画像を見ると鼻も高い。年をとってからは耳が遠く、康定手ずから金縁の眼鏡を授けたと云うからきっと老眼だろう。入れ歯もはめていた。72歳像には白髪も見える。だが、他には特に老人めいたところはなかった。母は子どもの時から体は弱いと云っているが、大きな病気も無く晩年を迎えた。それでも、72年の人生、何度か病気をしている。その病歴については、「医者の不養生」を見て下さい。


                                          (C)本居宣長記念館

香川太冲(かがわ・たいちゅう)

 『在京日記』に「去二月十三日、一本堂修徳先生香川太冲没、七十三、同廿五日、葬嵯峨二尊院」(宣長全集・16-44・3月3日条の後)と書かれている。有名な医者の葬儀だから書いたのか、あるいは何か関心があったのだろうか。
 太冲は播磨の人。修庵と号す。伊藤東涯に儒学を学び、京における古医方の大家。「藤文輿が肥に帰るのを送る序」(「送藤文輿還肥序」)に、「此者、本邦の医人、往々、素霊陰陽旺相五行生剋の説を以て迂誕と為し、擯けて棄つ。甚しきは、五臓六腑、十二経路の目を廃するに至る。蓋し、後藤氏首めて之を倡へ香川氏之を継ぐ。而して其の論、千古に卓絶する。盛言なるにおいてをや。然れども言ふ所は率ね其の臆に出づれば、則ち未だ必ずしも謬誤無くんばあらず」とある。


                                          (C)本居宣長記念館

家業はおろそかにしてはいけない

 大平さんがこんなことを言っている。

 「むかしむかし、宣長の門人で、歌を詠むだけでなく、広く中国の本まで読み、また日本の本も歴史や法政史、有職書まで関心をもち、やがては宣長先生のように、学問で有名になり、偉い先生と呼ばれたいと思っている志の高い若者がいた。
 ある時、宣長先生の所にやってきて、学問の指針となることを教えて下さいと願った。そこで宣長は考えて、3、4日たって1首の歌を贈った。  

   家のなり なおこたりそね みやびをの 
           書はよむとも 歌はよむとも

 この歌の意味は、本を読むのもいいが、まず家の仕事を大事にしなさいということだ。世の中で、学問を好む人は皆家業をおろそかにして、自分が貧乏になるだけならともかくも、家族や親戚まで不幸にする人がいる。困ったことだ。中国では、そんな学問をして出世した人がいると聞いて、家族や兄弟に生活の面倒を見てもらい学問する人がいる。もってのほかだ。学問の前に、まず生計をきちんと立てることが大事なのに。宣長先生は普段からこのように考えておられたから、この歌を贈ったのだ。
 でも、生活を重視していたら、ただの学問好きで終わってしまうことが多いのも事実だ。生活面でもきちんとして学問も傑出するのは難しい。学問に志したものが、ただのまじめな人と言われて終わるのはくやしいというこの若者の気持ちも自分にはよく分かる。
 だが、やはり先生の言われるように、きちんとした生活者であり、社会人であることが大前提で、学問はそんな人にごく自然に備わっているというのが理想であり、また奥ゆかしく思える。」

 この若い人とは、松坂の門人・村上円方(ムラカミ・マトカタ)のことだと言われている。
 宣長先生が家業の木綿商をやめて学者として有名になったのをうらやましく思い、また自分も同じようにと志した人は少なくなかったはずだ。でも先生が「医者」と言う仕事を一生懸命にして家族を養っていたことは見落とされがちだ。
 宣長が門人に言いたかったのはこのことである。
 大平の苦悩も分かるね。宣長先生のまねをするのはとっても大変なんだ。どちらかを犠牲にしないといけない。でも商人の町松坂で家業を
 でも、円方君は結局学問の道を選び、大阪近郊、伊丹に住んで国学を教えて生涯を終えたんだ。

 【原文】
 「或人学問にこゝろざしてむねと思ふべきことを文に書てとありけるにいさゝか思ふ事をかきつく
 鈴屋翁の教子の中に歌のみに心がけずひろく漢籍をよみわたし、やまとふみどもゝ国史律令儀式などに心がけてわが世のかぎり学事にて名をあげ、いみじき先生とならむとて高く思ひあがれる若人ありて、その人ある時師にこひていはく何にまれおのれにをしへ示し給ふことかきて給へとこひたるに、その後三日四日ありて、さらばとて家の業なおこたりそねみやひをの書はよむとも歌はよむと共 といふ歌をなんかきてあたへられける、家のなりとは武士にまれ農家にまれみや人にまれ、先祖の代よりわざとしてつとむる家産をいふことなり、みやび男とは学問などする人をいふなり、みやびとは里備、夷備にむかへて大宮風にて風流文雅に心よせて、田舎めきて野卑なる方ならぬをいふにてしるべし、書よむといふよむと歌よむといふよむとは心ばへことごとなれど、詞の同じきにとりて一首のあやとなしたるなりぬ、かくよめるはつねに世の物学びするともがら、ただその学事にのみ心いれて家の産業をおろそかにして、或はやがてその家業をすてゝ、身もまづしく、つひに妻子親族のうれふるばかりにいたるまで心いるゝ学者のあるをあぢきなきすさびなり、漢国などにさるさまの人ありてそのほどは困窮(セマ)りてくるしきを堪しのぶほどにつひに高き職位(ツカサクライ・いはゐ)に引挙られて家を起こしたる事などもあるがあれば、それいみじき事に書のうへに目なれ耳なれてたゝはげみにはげみて家も身も取はづしては立がたく見ぐるしきまでにせまるまゝに、或は弟子あるはさるべくむつまじき人などにたすけをこひなどするもあるは、いとかたはらいたく道にかなはぬしわざなりとつねにおもはれて、いはゆるつねの産なくして世に在経るは見ぐるしき事なりといましめてかくをしへさとされたるなりけり、されど又学問せむと思ひたつ人のはじめより道にかなひて家のなりをもよくつとめ学をも得むとせんにはなにばかりの事か為いてん、たゞ世の常のまめ人といふ斗にて世経ぬべし、学問にもこゝろざしたる人のたゞまめ人といふにてやまんこと、かつはくちをしのわざやとたれか思はざらむ、家の業をもさかへしめ学びのわざをも世に秀でんこそ本意(ムネ)ならめ、そもそも学問は人の身の光の如く、人の心のにほひの如く、世のいとなみの外にそへもたらんこそ心にくゝおくゆかしくなんあるべき」
                                          (C)本居宣長記念館

隠されたニュースソース

 学問の世界を開かれたものにしよう、これが宣長の目標であった。そのため、積極的に門人の説を採用し、その人の名を明記し、著書の中で紹介した。あるいは、『万葉集』のように自分の書き入れ本に、例えば「道麿云」、「大平云」などと、各人の説を紹介している。

 情報源も提供者の名前を原則として書く。
 ところが、世の中にはいろいろな事情で内緒にして欲しいという場合もある。藩士、今で言えば公務員だ。職務上知り得た情報は漏らしてはいけない、というか当時の場合は藩の中のことは原則秘密主義であった。

 寛政3年(1791)11月4日付横井千秋宛書簡で宣長は次のように言う。

「記伝板本五ノ巻追考ノ内、書改メ之事、別紙ニ申上候通、御直させ可被下候、右ハ、筑前ノ事近来国禁ニ而、国中ノ義ヲ他国人へ申聞候事、御法度ノ由、夫故細井氏ノ姓ヲ出し申候事、甚迷惑ニ存候段、細井氏より石見小篠大記へむけ申参、右細井氏ト申事削呉候様ニ申参候故也、但し是迄摺出し申候本ハ削リ申スニ不及候」

 そんな秘密にしなければならないことか、と『古事記伝』の該当箇所を覗いてみても、「女嶋」には、姫島の大きさと戸数、またそこには姫大明神が祀られていてそこの女が出産する時に難産がないということが記されるだけである。また「両児嶋」はただそれに該当しそうな嶋郷というところがあり、矢の竹が多く大きな蛇が住むと書かれるだけだ。何も隠す必要はないようだが、藩内のことは何でも秘密なのだ。


                                          (C)本居宣長記念館

「学問所建設願書」

 本居宣長筆。
 寛政6年(1794)12月、宣長が松坂医師・塩崎宋恕と連名で紀州藩に提出したとされる請願書。宣長自筆の草稿が残る。内容は、松坂愛宕町少名彦神社(当時は薬師堂、またその庵として周徳寺があった)に学問所建設を求めるもの。但し、当面は、町内会所として使用されている周徳寺の建物を使い、将来的には「松坂学校」また「学館」という名称の使用を認可して欲しいと書く。願書の中には、儒学、神学、医学、歌学など有益の諸芸稽古の場所と書くが、真意としては講釈や歌会などに使用する、今の公民館的な施設を企図したか。また、宿舎、文庫の併設を願うが、このような請願の背景には、学問普及と言う目的と、宣長の門人や来訪者も増加への対応策ということも考えられる。「附紙」で書家韓天寿の収集品の散逸を防ぐことを進言するのが注目される。

 だが、先に「らしい」と書いたように、実際に提出されたかどうかは疑問。もちろん認可された形跡もない。天寿蔵品も散逸した。その後、松坂には文化元年(1804)代官小路に藩の「松坂学問所」が建設されるが、宣長らの請願と直接の関係は無いと思われる。

 【データ】
 『学問所建設願書』
 1巻。本居記念館蔵。本居宣長筆。巻子。楮紙。寸法・本紙、縦16.4cm、横88.8cm。附紙、縦16.5cm、横17.5cm。外題(題簽)書名同。箱書「学問所建設願書」、底「宣長翁の学按なり、書中に中川精三郎とあるは韓天寿なり、清造しるす」。

                         「学問所建設願書」(部分)
【翻刻】
『本居宣長全集』別巻2。
                            「夜の愛宕町」
                写真右に寿司「長の屋」が見える。 このあたりに少彦名社があった。


                                          (C)本居宣長記念館

学問をする歓び-曙覧の場合-

 楽しみは鈴屋大人の後に生まれその御諭をうくる思う時 

 この歌は、福井に生まれた橘曙覧(1812~1868)の詠んだ歌である。当時の社会においては勉強することは大変な困難を伴った。曙覧が貧しい生活をしていたことは有名である。
 「足羽神社のしだれさくらが葉桜になったころ新居は完成し、屋移りをした。午後から門弟たちが引っ越し荷物を大八車に積んで運んだ。といってもなにほどの荷物もなかった。布団や鍋、釜、文机とあれこれのがらくたしかない。ただ書物の多いのには驚いた。買ったものではない。借りて筆写したものであるが、きちんと製本されて何百冊もあった。尚事(曙覧)の楽しみのうちには、筆写と製本の喜びがあった。筆写されて製本し、一冊のものになるとなににもまして嬉しいのである。買うことができない書物も借りて写せば紙代だけで自分の所有になる。苦労して写しただけにわが子のように愛しい。写しながら味わうこともできる。
 大八車のあとについて、尚事は師翁大秀に書いてもらった宣長大人の霊位の軸を抱え、今滋の手をひいていた。妻の直子は次男の咲久をおんぶし風呂敷包みをさげている。」         『清貧の歌人 橘曙覧』上坂紀夫

  宣長の門人でも豊かな人は数えるほどしかいない。質素な生活をしながら、好きな勉強を続けたのである。 


                                          (C)本居宣長記念館

画賛(がさん)

 歌や文を絵に添えること。
 宣長の場合、多くは依頼による。自画自賛は極稀である。また、自詠でなく古歌を書く場合もある。その場合署名がなかったり、また「宣長書」と「書」字を添えたりする事もある。代表作には「朝顔図」円山応瑞画、宣長賛(逸翁美術館所蔵)がある。

 画賛を含め短冊、色紙、懐紙、半切等の染筆(認め物)依頼は著名になるに従って増加する。
 記録では『雅用録』が天明8年(1788)起筆で旧冬分から始まり寛政元年(1789)までが載る。記録はその後暫く途絶えるが、『石上稿』等に賛のために詠んだ歌が載せられる。『雅事要案』は寛政7年から10年、『諸国文通贈答並認物扣』は同8年から享和元年迄の分が載る。依頼という性格上、芭蕉像や漢画の山水等不本意な画題もあった。絵の意図が分からないと謝絶した場合もある。このような「認め物」が、添削と共に本居家の収入源となっていたことは既に指摘されている。ただあまりの依頼の多さに晩年は辟易していたことが

「狂歌、
 絵の上へこしをれ歌をかきそえて又はぢをさへかきそへやせん」

と言う『石上稿』の歌から窺える。いずれにしても、画賛が講釈や歌会と共に、宣長と世間を結びつける役割も果 たしていた事は疑いない。

 

        「三番叟」 市史編纂室所蔵写真             
 

        「宵森図」 市史編纂室所蔵写真             
 

     「山水画賛」・「鶉画賛」 市史編纂室所蔵写真            









【参考文献】
「宣長と画賛 紹介と試論」吉田悦之『須受能屋』7号。




             (C)本居宣長記念館

「柏屋」(かしわや)

 松坂日野町の書肆。「文海堂」という。この店で宣長が真淵来訪の情報を入手したというのは、佐佐木信綱の「松坂の一夜」に出てくる話だが、新上屋の並びであったことからもまず疑いない。当時は初代・山口兵助時代で、まだ新興の書店、というか貸本屋か古本屋であった。やがて、安永年間(1772~81)に本格的に活動を開始して、同5年『字音仮字用格』を田丸屋正蔵(須賀直見)と刊行し、その後は宣長の本の出版販売を手掛け有名になる。
 初代兵助は、宣長の友人で門人となる稲懸棟隆の弟、つまり養子・大平はその甥にあたる。書店としての営業は明治まで続いた。
 池大雅の書いたのれんの下書きが残っている。

【参考文献】
 「本居宣長と柏屋兵助」鈴木淳『書誌学月報』20
                         御厨神社『古事記伝』刊記

                                          (C)本居宣長記念館

「貸す」と「借す」

 宣長さんは、人に本を貸すと言うとき、「借す」と書いた。
 例えば『借書簿』が、宣長から貸した本の覚えであり、書簡には
「只今方々へ借し遣し」(宣長全集・17-87・書簡番号71)
とある。いずれも通常なら「貸」の字が使われる所である。しかしこれは誤りではなく、古は「借」には貸すという意味もあったのである(『大字典』)。
                                          (C)本居宣長記念館

家族

 宣長の両親は、父・定利、母・勝。
 弟と妹は、親次、はん、やつ。
 妻は、初婚、ふみ(みか)、再婚、たみ(勝)。 子どもは、勝との間に、二男三女。春庭、春村、飛騨、美濃、能登。
 春庭が家を継ぎ、春村は津の薬種商小西に養子として入家。飛騨は、最初母の実家草深氏に、その後四日市の高尾氏に嫁した。次女・美濃は長井家に嫁し、後に小津を名乗った。三女能登は伊勢の御師安田広治に嫁した。
 春庭の失明により、養子として大平を迎えた。
 内孫は春庭と妻壱岐の間に、伊豆と、有郷が生まれた。

 子孫は、養子・大平が和歌山に移ったことにより、松坂系と和歌山系に分かれる。家系を、本居宣長の学問を受け継ぐというので「学統」と呼ぶ。
 松坂学統は、実子春庭(2代)から有郷(3代)に、その後は高尾家から飛騨の孫を迎え信郷(4代)、清造(5代)、彌生(6代)、芳野(7代)と続く。
 和歌山学統は、大平(2代)には建正、清島など後嗣となる人がいたが、早世し、娘藤子に養子内遠(3代)を迎えた。その後、豊穎(4代)、並子(5代)、長世(6代)、修三(7代)と続く。
 共に現在も家系は絶えることなく続いている。家系の永続こそが宣長の念願であった。なお、宣長までの家系については『家の昔物語』と『本居家系図』にまとめられている。

【参考資料】 > >「本居家系図」


                                          (C)本居宣長記念館

かたくりとかたかご

 ある時、宣長は師の真淵に『万葉集』四一四三番歌に出る「堅香子」について問うた。この質問に対して師は、これは「かたご」とも言い、俗には「かたくり」というと図まで添えて丁寧に答えた。ところがどういう訳か宣長は納得できなかったようである。

 安永元年十月二十一日、宣長は谷川士清に「南部の産物かたくり」について問うた。士清は十一月二十一日付で更に丁寧に答えた。博覧強記というか医者としての面目躍如と言った回答(記念館蔵・書簡集内)である。宣長の礼状、谷川士清宛安永二年二月五日付書簡に
「かたくりの事、くはしく御示し被下、忝奉存候、本名かたこノよし、それに付て或人、此かたくりてふ物、万葉歌ニかたかこの花といふ物見えたり、それをしか申セるにや、俗人の言なれハ、いかゝあらん、もしかたかこの花にあたるよしもあるましき物にもあらず、御考いかが、承りまほし」
とある。「俗人」とは或いは真淵?本草家ではないと言うことであろう。これをしつこいと見るのでは正しくないだろう。

  「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分は愚か、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見えてくる。」
                  (『本居宣長』小林秀雄・12章 )

                                          (C)本居宣長記念館

語られなかったこと

 宣長自ら書き残した記録類はほぼ全生涯を覆っています。つまり宣長自身の記録でその生涯を語ることも可能です。

>> 「記録の人」

 つまり、今出ている多くの伝記はほとんど同じ種本を使っているので内容も余り変わらないのですが、それはともかく、宣長さんは自分を語ることに雄弁だった、これは紛れもない事実です。もう少し踏み込んで言うならば、見られる自分を常に意識していた。見られるというのは、同じ時代だけでなく、後生からの目もどうやら意識していたようです。
 ここで注意しなければならないことは、見られる自分を意識すると言うことは、裏返すと、見せない部分もあるということです。宣長の場合隠すというのではなく、必要ないという判断に基づくのだと思います。

 10月の記事で言えば、19歳の『日記』に、「十月上旬ヨリ、足三里三陰交に日灸をすへ始る、同じうひとり按摩をし始」と書き、それを抹消しています。三里の灸と言えば、芭蕉『奥の細道』の
 
「もも引きの破れをつづり、笠の緒付けかえて三里に灸すゆるより松嶋の月先心にかかり」
が思い浮かびます。
 三里は膝頭の下。足を丈夫にする効果があり、三陰はやはり足にある経絡で内蔵を強くする効果があったようです。
 今井田家に養子に行く前に体調を整えようとしたのでしょうか。
 これは十月ではありませんが、やはり今井田家時代の「誹名号華風」(俳名を華風とした)という記事も抹消されています。


 知られたくないと消したものまで詮索する権限は後生の者にはありませんが、語られなかったこともあることだけは記憶しておく必要があると思います。
                                          (C)本居宣長記念館

加藤磯足(かとう・いそたり)

 延享4年(1747)11月15日~文化6年(1809)10月12日。享年63歳。尾張国中島郡、木曽川のほとりにある起(オコシ)宿(愛知県尾西市起)の人。家は本陣を営む。本姓、藤原。通称、梅之助、右衛門七、号は河の辺の翁など。父は右衛門七敏光。本陣11代を相続。細井平洲に儒学を学び、村政改革にも力を尽くす。また田中道麿に国学を学び、寛政元年(1789)に松坂を来訪し宣長に入門。寛政5年(1793)4月15日には近江から名古屋に行く途次の宣長を自邸に宿泊させ夜歌会を開く。師没後は春庭に師事する。著作には、宣長の墓に参拝した時の『時雨の日記』、師道麿の略伝『しのぶ草』などがある。また「蜘蛛の図詠」を得意とした。
                         「宣長の名古屋地図」部分


                                          (C)本居宣長記念館

加藤千蔭(かとう・ちかげ)

 享保20(1735)3月9日~文化5(1808)9月2日。号は芳宜園。幕府与力で、父は加藤枝直。父の代に江戸に出たが、本来は松坂の人。枝直は賀茂真淵の有力な庇護者。その影響で千蔭も真淵に入門し研鑽する。職を退いてからは和歌や狂歌で活躍した。謎の浮世絵師「写楽」が千蔭であるという説もあるほどに、画にも優れていたことは表紙の『桜画賛』からも窺えよう。特に『万葉集略解』は後世に大きな影響を及ぼした。同書執筆に際し、寛政4年(1792)、宣長に協力を要請。以後宣長と親密な手紙のやり取りが行われた。現在確認されている両者の書簡は、宣長宛千蔭書簡8通・宣長書簡12通である。『万葉集略解』全巻が完成したのは宣長没後3年目の文化元年。同年9月に将軍に献進され、下賜された銀10枚の一部を千蔭は宣長の霊前に供えた。
                                          (C)本居宣長記念館

加藤吉彦(かとう・えひこ)

 宣長門人加藤吉彦は能登国鳳至郡能登町宇出津の人である。酒垂神社第12代宮司を務めた。生年は宝暦12年(1762)、没年不詳。姓源。通称上野介。号鰕子、あふち。
 天明4年(1784)3月16日伊勢の御師から聞いた宣長学に憧れ、寛政9年2月(1797)、荒木田久老奥書の『菅笠日記』を御師山口久貞より借覧し書写、5月8日参宮と松坂訪問のため出立、6月2日に土産「くしこ」を持ち鈴屋来訪、入門する。7月17日まで滞在。『千尋の浜草』はその時の紀行。道中、また松坂での事が詳しく記される。
 その後も寛政11年春、文化元年6月にも松坂を訪問し研鑽した。『授業門人姓名録』追加本には一重圏点が付く。松坂での数多くの写本の他、天保6年に成った源氏注釈書『月の後見』55巻がある。

 吉彦が師の没後も霊牌をお祀りしていたことなど、
吉彦、また奉仕していた酒垂(サカタル)神社については
「石川県神社庁」HP「酒垂神社」を参照していただきたい。

【参考文献】
深川明子「本居宣長の門人加藤吉彦について」『密田教授退官記念論集』
 深川明子「〈翻刻と解題〉「千尋の浜草」-本居宣長の門人加藤吉彦の入門旅日記-」『語学文学研究』5。



                                          (C)本居宣長記念館

歌碑の謎 宣長歌碑はなぜ建てられたのか

 小泉家墓所に宣長歌碑のあることは、早くから知られていた。『松阪市史編纂参考銘文集 第一輯』や、『三重県の文学碑 中勢編』にも紹介がある。
 歌碑は、高さ約60cm、幅1m程の石だが、墓石の間にあり文字の彫りも深くないので判読は困難を究める。試みに読むならば、

「山室山神先生、小泉君きさらきの比あつまのかたにくたり給ふに、
 一とせ吉野の花見には諸共に物せし事思ひ出られて 宣長、
   此たひはひとり見る共さくら花有し吉野の友なわすれそ」「桑圓」

(裏面)「右は小泉見卓主之秘蔵なり、子々孫々迄も大せつにしたし他家へも一切かし遣す事かたく無用、慥書附之通相守申べくものなり、倅文蔵(花押)」
 であろうか。

 碑面にはさらに数文字書かれ、「桑呈書」かもしれないが判らない。
「桑圓」は大きく書かれて碑の歌などとは一見無関係のようだが、歌の脇にあるので何かの意味があるのであろう。近くの「景芳室釈善正妙邦大姉」(裏面)「明治四十年八月七日俗名くに子/七十五/桑呈書」にも脇面にやはり「桑圓」とあり、何か関連があるのかもしれない。またその墓石と背合わせの墓石には「小泉桑園居士墓/嬬人登○樹之墓」とある。「桑圓」と「桑園」、似ているがこの関係も判らない。

 この歌は、『石上稿』によれば、安永9年(1780)の作である。同集詞書も「小泉見庵二月のころ東に下りける別れによみておくる一年(ミセケチ「はやく」)吉野の花見には諸共に物せし事を思ひて」とほぼ同文である。  
 一首の大凡の意味は、名にし負う江戸の花をあなたは一人で見に行かれるのですね、でも昔、吉野に行った仲間である私のことを忘れないで下さい、と言ったところか。送別の歌である。 「山室山人先生」とは、山室山に奥墓のある宣長のことであろうが、このように称するのは願証寺の歌碑以外にはなく、大変珍しい。

 ここまでの事項を整理する。歌を贈られたのは小泉家四代目「見菴」、つっまり菅笠の旅で同行した友人であるが、秘蔵していたのは「見卓」である。同家に「見卓」は二人いる。但し、宣長が歌を詠んだ安永9年以降となれば、現在判明する限り、つまりそれ以後にも見卓を称する人がいれば別だが、6代目見卓に限られる。碑を建てたのはその息子文蔵とある。歌をもらった見庵が自分の遺言で建てさせたのではなく、その子孫である見卓等の所為であることを確認しておきたい。
 ではなぜ先祖のもらった歌を碑にしたのだろうか。そもそも贈られた歌を墓地や墓石に刻することが、よくあることかどうかは寡聞にして知らない。宣長の歌碑は50数基あるが、墓所のはこの碑を含めて2例だけである。
 結局、考えられる理由は、その頃既に高名になっていた宣長との関係を記念したとする見方である。見庵の名前は、現在は、医者としての功績や地位でなく、本居宣長の知人、或いはその吉野飛鳥への旅の同行者として、人々の記憶の内に留まっている。これは、見庵、また小泉家にとって決して不本意なことではなかったのかもしれない。

 このように漠然と考えていた私は、更なる不思議に逢着した。
 ことは数年前に始まる。某日、魚町の旧家を訪ねた時、庭石に字が彫ってあると聞き、実見に及んだ。
 自然石で、表面は凸凹して而も長石が露出するので眺めただけでは到底読めない。手でなぞっていくとどうやら宣長が見庵に贈った歌らしいことは判った。
 その後、拓本を得意とする千賀松生氏にお目に掛かったとき、どうしても読めない歌碑がある話をして、その採拓をお願いした。快く了解していただき、日を定め、苦心の末に採ってもらったが、長石などに阻まれて、字の欠ける箇所もあり、これでは読めないはずである。

「小泉君きさらき比あつまの(数文字不明)給ふに、
一とせ吉野の花見には諸共に物せし事思ひ出ら(不明)宣長、
此たひはひとり見る共さくら花有し吉野の友なわすれそ/八十翁/小泉見卓/書之」

 6代見卓の没年は墓碑によれば「文政元年戊寅十月十八日」である。この碑を書いたのは80の時。従って没年も80を下回ることはない。仮に享年80として、『系譜』に拠れば、政晁の小泉家入家は文化2年己丑4月8日、67歳の時、その子文太郎は文化4年5月13日の出生、69歳の時の子である。
 『系譜』の記載は正しいのだろうか。また、本当に碑の「見卓」は6代見卓か。なぜ同じ歌の碑が二つあるのか。謎は深まるばかりである。

 この二つの碑の関係について私は次のように考えている。
 80歳になった小泉見卓は自ら筆を執り、秘蔵する宣長の歌を染筆、自宅の庭に碑を建てた。その後、何かの事情で碑は(恐らく敷地ごと)近所の家に引き取られ、代わりに、先祖の供養も兼ねて、新しい碑を墓所に建てた。 
                           「某家・宣長歌碑」

                                          (C)本居宣長記念館

華風(かふう)

 宣長の号。寛延2年(1749・20歳)9月22日、華丹改め華風と号す。『今井田日記』に「華風ト改ム、モトハ華丹」、また『日記』には「同月廿二日、誹名号華風」と書きその後抹消する。「誹名」は「俳名」のこと。少時俳諧を作ることもあったか。使用例は、『経籍』巻末の「今華風」、寛延2年10月16日書写の『百人一首』奥書「今華風栄貞書」等。下限は宝暦2年(1752)11月『枕詞鈔』奥書「華風子」。
 
            『枕詞鈔』 
  
           『源氏物語覚書』
                                  
                                          (C)本居宣長記念館

貨幣

 当時は、金、銀、銭の3種のお金が併用された。これを三貨制度などと呼ぶ。
 金は何両何分何朱で、4朱が1分、4分が1両。金100疋は金1分。
 銀は何貫何匁何分(フン)何厘何毛。1.000匁が1貫。後は十進法。銀1枚は45匁(金3分弱に両替される)。羽書は原則として銀と同じ。
 銭は何貫何文。1.000文が1貫。なお、96銭、省銭、長銭と言い96文が100文として流通していた。
 金1両は銀59匁6分(『諸用帳』天明8年記事より換算)。通常、金1両は60匁、金1分は15匁。金1両は64札(定率)。
 金と銭の換算は変動が大きいが、平均して松坂地方では寛政年間1両5貫800文程度。
 銀と銭は、銀1匁が92文から100文である。札1匁は約90文余。

 なお、『済世録』に歴然と現れていることであるが、銀の記帳・計算がきちんとなされているのは天明年間までで、寛政以後は(中略)すべて銀目は札遣いになっている。しかも現銀の入金があっても、その記帳の仕方は、金・札と区別してやや下げて記し、集計も「外ニ銀」だけで、銀貨を合計しない。(中略)このように、現銀貨が流通していても、これに額を記入せず、集計もしない例が非常に多くなる。この記帳の仕方は、享和二年(一八〇二)以後も引き継がれる。先述のごとく、当地方の通貨のあり方や幕府の貨幣流通策を考える上で、この現象は特に重要と思われる。」〔一九巻解題五一頁〕

 難しいね。
 仮に、1両を100,000円としよう。『百人一首改観抄』が本屋で売っているのを見つけた。値段は9匁5分だ。これは匁とあるから銀だ。銀60匁が1両だから、大ざっぱに計算すると1匁は1,600円程度か。するとこの本の値段は14,400円位となる。
 但し、1両が今のいくらかについては議論が多く、何をもとに換算するのか議論が多く、10万は高いという人も、反対に安いという人もいて定まらない。


                                          (C)本居宣長記念館

紙漉

 「西河の里也。安ぜんじより。一里といひしかど。いととほく覚えき。山の中につゝまれて。いづかたも見はるかす所もなき里なるを。家ごとに紙をすきて。門におほくほせる。こはいまだみぬわざなれば。ゆかしくて。足もやすめがてら。立入て見るに。一ひらづゝすき上ては。重ね重ねするさま。いとめづらかにて。たつこともわすれつ」 
                            紙漉、その1 
                            紙漉、その2 
                                          (C)本居宣長記念館

神に祀られた宣長

 寛政12年7月、宣長は『遺言書』で、自分の没後には「秋津彦瑞桜根大人」(アキヅヒコミヅサクラネノウシ)として霊牌を作り祭祀を行うように指示した。この霊牌は、本居家以外でも、例えば次男春村の小西家でも用意され祀られていた。

 これとは別に、小泉見庵墓の脇にある宣長歌碑に「山室山人先生」と書かれるのも、やはり没した宣長を一種神格化する思想に根ざすとも言える。このような私的な祭祀以外にも、宣長を祀る動きは早くから出てきた。

  確認できる一番最初は、門人・千家俊信である。俊信は自邸に、師からの手紙33通と、『古事記伝』執筆の時に使用した筆を神体とし玉鉾神社を創祀した。また、嘉永3年(1850)には、本居内遠の門人森田道衣が「秋津彦瑞桜根大人」を主祭神とする「桜木神社」を、現在の埼玉県所沢市に創建した。また、明治4年(1871)には、山室山奥墓の傍らで宣長を祀る祠が出来た。やがてこれが「山室山神社」となる。


                                          (C)本居宣長記念館

亀井南冥(かめい・なんめい)

 寛保3年(1743)8月25日~文化11年(1814)3月3日(一説2日)。享年72歳。筑前(福岡県)の町医者の家に生まれる。名は魯、通称主水、字は道載。大坂で永富独嘯庵に徂徠学を学ぶ。安永7年福岡藩主・黒田治之により抜擢され士籍に列し、累進して侍講となる。天明4年、東西の藩学が出来た時に西学・甘棠館(カントウカン)総裁となる。著書に『論語語由』など。門人細井金吾は宣長に入門する。


                                          (C)本居宣長記念館

瓶の桜

 桜を見て宣長は何を考えているのだろう。
 この像の一つのポイントは花瓶の山桜にある。
 「桜を伐って、何の生け花ぞ・・桜はやっぱり、土に植えといた方がよろしな」とは水上勉『桜守』の一節だが、これは桜を愛好する人に誰しも共通するところである。ではなぜ活けてあるのか。謎を解く鍵は古典にある。日本美術が『古今集』や『源氏物語』『伊勢物語』など古典文学に画題を求めている例は枚挙に暇がない。この花瓶の桜を眺めるというのもやはり古典に典拠がある。満開の桜、それを瓶に生けると言うと、普通には『後撰集』や『枕草子』あたりであろうか。いずれが典拠となったかで絵の持つ雰囲気は変わってくる。
 『後撰集』に次の贈答歌(82,83番)がある。

   桜の花の瓶にさせりけるが散りけるを
   見て、中務につかはしける
                つらゆき
  ひさしかれあだに散るなと桜花
      瓶に挿せれどうつろひにけり

   返し
  千世ふべき瓶に挿せれど桜花
      とまらむ事は常にやはあらぬ

  この歌は、瓶(かめ)を不老長寿の亀に重ねて桜の散り易さ、人の心の移ろい易さを歌う。「もののあはれ」の世界である。貫之の歌は『拾遺集』にも重載し、そこでは桜の送り先が異なるが、画題としては特に重要な異同ではない。一方『枕草子』は第2段目、月々の頃おいを描いた章に「おもしろく咲きたる桜を、長く折りて、大きなる瓶に挿したるこそをかしけれ」と、一転「をかし」の世界となる。
  この44歳像では、散る花片からやはり『後撰集』の世界であろうか。またそれのほうが宣長の表情からも相応しいように思える。瓶に挿した桜は、散らぬ事を願う心の象徴ではあるが、それでも散るので一層想いは募る。この絵にはそのような宣長の気持ちが込められていると読むことが出来よう。
  この絵に、古典と言う日本の伝統的な美意識が影を落としているとするならば、44歳像は和歌を詠む姿であるのかもしれない。

                    「本居宣長四十四歳 自画自賛像」 (瓶の桜部分) 

                                          (C)本居宣長記念館

蒲生君平(がもう・くんぺい)

 明和5年(1768)~文化10年(1813) 、享年46歳。名秀実、通称伊三郎、字君平、君蔵。下野宇都宮の商家に生まれる。先祖が蒲生氏郷という家伝により蒲生と改姓。儒者鈴木石橋に学び、藤田幽谷、林子平らと交わり、高山彦九郎に私淑。寛政8年、天皇陵の荒廃を憂え上京、帰路鈴屋を訪問。紹介者は小沢蘆庵か(城福勇説)。宣長は「ジユシヤ、御国玉しひ」(『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』)と評す。同12年再訪。松坂滞在中の植松有信に同宿を依頼する宣長書簡が残る。享和元年『山陵志』成稿。その序を宣長に送り評を求めたと言う。また国防の必要を幕府に訴えるなど尊皇・敬幕の立場から発言した。林子平、高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」と呼ばれる。弟子に大友直枝(大平門人)がいる。



                                          (C)本居宣長記念館

鴨川井特(かもがわ・せいとく)

 宝暦5年(1755)・一説に6年生まれ。京都の絵師。字伯立。姓の祇園、鴨川は居住地による。歌妓等美人画で生計を立てる。寛政9年、『解体瑣言』の画を描く。作品の下限は文化12年迄が確認されている。
  享和元年(1801)9月、殿村安守の依頼で松坂を訪い「本居宣長七十二歳像」3点を描く。現存は2点。1は鈴屋衣、2は古代紫の羽織を着用し姿勢も異なる。もう1点は平田篤胤に譲られ所在不明。構図は1に同じ。何れも顔貌、鈴屋衣等精緻な描写力は群を抜く。この他、「町人像」(殿村常久像か)等いくつかの作が松坂に残る。

 【参考文献】
 「祇園井特考」富田智子『浮世絵芸術』110、111号。(吉田)

                          「本居宣長七十二歳像」 
                                          (C)本居宣長記念館

「かも子とけり子」

 丸谷才一氏は大野晋氏との対談冒頭で、この二人について語っています。

  「式亭三馬の『浮世風呂』に鴨子(カモコ)と鳧子(ケリコ)というアマチュアの女国学者が銭湯でいろいろ論じ合うところがあります。たとえば、けり子が、「鴨子さん、此間は何を御覧じます」と言うと、かも子が「ハイ、うつぼを読返さうと存じてをる所へ、活字本(ウヱジボン)を求めましたから、幸ひに異同を訂(タダ)してをります。さりながら旧冬は何角(ナニカト)用事にさへられまして、俊蔭(トシカゲ)の巻を半過(ナカハ゛スギ)るほどで捨置(ステオキ)ました」と。この言葉づかいが、腹をかかえて笑うしかないくらいおもしろいんですが、この鴨子鳧子という二人の女国学者の名前は、もちろん和歌でよく出てくる「かも」と「けり」に由来してつけた名前ですね。この鴨子と鳧子は両方とも本居信仰に凝っている国学者だということになっています。「かも」と「けり」というのは、こういうときの名前のつけ方にも使われるくらいに、典型的な古典和歌的な言葉なわけですね。ことに「かも」はすごいんで、『百人一首』に「一人かもねん」が二つあるでしょう。

                       柿本人麻呂
  足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねん

                       藤原良経
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき一人かもねん

  これでは、和歌を詠むなら「かも」を使わなくちゃならないような気持ちになるでしょう。ですから現代人でさえ、和歌と言えば「かも」と「けり」という感じになってしまう。おもしろいことに、二つの結合により「けりかも」という言葉さえあって、これは歌人および和歌を罵って言う言葉なんです。私はこの言葉を字引で見ただけで用例があがってないから、ちょっと怪しいんですが、とにかくこういう言葉があるとすれば、「けり」と「かも」とがいかに和歌の代表的な言葉であったかが、非常にはっきりする。「かも」は近世の和歌でも真淵なんかはずいぶん使っているし、近代和歌では正岡子規も一時期かなり使ったし、会津八一もよく使ってますね。いちばん使っているのは、斎藤茂吉でしょう。茂吉の若い頃の歌に、
  罌粟(ケシ)はたの向うに湖(ウミ)の光りたる信濃のくにに目ざめけるかも
  監房より今しがた来し囚人はわがまへにゐてやや笑めるかも
 などがあるんです。戦後の日本の短歌の中でいちばん評判のいい一首を選ぶと、『白き山』の、
  最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
 です。これは戦後の茂吉の絶唱ということになっていて、つまり自動的に現代和歌の最高峰ということになっています。(以下略)」

  対談はこの後「かも」と「かな」の比較や、「鴨」も「鳧」も共に鳥の名であることについての丸谷氏の推測などへと入っていく。

 【出典】
『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一著。中公文庫。1990年11月。
                                          (C)本居宣長記念館

賀茂真淵(かもの・まぶち)

 
 元禄10年(1697)3月4日~明和6年(1769)10月30日。享年73歳。
 遠江国敷智(フチ)郡浜松庄伊場村(静岡県浜松市東伊場1丁目)に生まれた。そこを岡部郷とも言う。父は賀茂神社神官の出で、遠祖は京都上賀茂神社の社家につながり、勅撰歌人・賀茂成助を出した名家。真淵の生まれた頃は農業を営んでいた。

 通称は誕生日に因んで三四(ソウシ)。その後、政躬、政藤、政成、春栖と名前を改める。また衛士と名乗る。11歳から杉浦真崎に手習いを教わった。真崎は荷田春満の姪。また漢学は、太宰春台の弟子・渡辺蒙庵、国書を五社神社の森暉昌(モリ・テルマサ)に学び、諏訪神社の杉浦国顕らと歌会を開いた。29歳で本陣・梅谷方良の婿養子となった。
 その後、単身、京都に遊学し、荷田春満に学ぶ。その後は居を江戸に移し、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武に仕えた。
 致仕後も、田安家御用を勤める事多く、67歳の宝暦13年(1763)2月にも、古典臨地調査のため畿内を旅する。その途次、松坂で宣長と対面。翌年には浜町に移り、県居(アガタイ)と号した。

 多くの門人を指導した。
 江戸での門人には、村田春海、加藤千蔭、加藤宇万伎など。また女性も多かった。油谷倭文子(ユヤ・シズコ)、土岐筑波子、鵜殿余野子(ウドノ・ヨノコ)を三才女と呼ぶが、余野子は紀州徳川家に嫁した富宮の侍女である。侍女には他に片野氏女・紅子(モミコ)、吉田意安女・八重(みほ子とも)などが有名である。
 地方では遠州の内山真龍、栗田土満、伊勢の荒木田久老、村田橋彦、そして宣長もいた。江戸という文化の新興地で、門弟中には平賀源内、建部綾足といった人もいる。歌人として、また能書家としても知られる。

 代表作には『冠辞考』、『万葉考』、『祝詞考』、『源氏物語新釈』、『伊勢物語古意』、『にひまなび』などがある。

 墓は品川区東海寺大山墓地にある。近くには、沢庵禅師や儒学者服部南郭夫妻墓がある。また後年、本居内遠の奥墓も建造された。
 現在、静岡県浜松市には賀茂真淵記念館が、また隣接して県居神社がある。
 
                           「賀茂真淵像」
 
                          「賀茂県主大人墓」
                                          (C)本居宣長記念館

賀茂真淵像を貰う

 天明8年(1788)3月18日、松坂を訪れた内山真龍は宣長、大平らに対面。自ら描く賀茂真淵像を贈る。またこの頃、広島の牛尾玄珠、同国の栗田土満、服部菅麿、文雄に対面する。

 『内山真龍の研究』には

「十八日、松坂本町家木や泊り。旧友の人々にあふ。岡部像二枚、本居(宣長)と稲垣大平主へ。又二枚田鶴のやと蓬莱主へ、安芸国広嶋人玄珠名ハ之玉にあふ。古郷人土万呂、菅万呂、文雄にあふ。同夜於松坂、画題十二首、自画也。」(P268)

とその時の日記を引用する。

 真龍の描いた真淵像は、お酒が好きで大らかな真淵の風貌をよく伝えている絵だ。宣長がもらった像は今伝わらない。どうしたのだろう。
 現在記念館には、賀茂真淵記念館から頂いたレプリカがあり、その様子を偲ぶことが出来る。 
                        「内山真龍画 賀茂真淵像」

                                          (C)本居宣長記念館

からごころ

 宣長は、徹底して「からごころ」を批判した。儒学批判とは少し違う。あるいは大きく違う。
 儒学者は、自分たちが何を尊んでいるのか、その自覚がある。困るのは、その自覚のない人たちだ。「からごころ」はそんな無自覚の人の心に多く潜んでいるのだ。
 では、「からごころ」とは何だろう。宣長の説明を聞こう。 「漢意」(カラゴコロ)というのは、中国の文化を好み、有り難がることだけを言うのではない。何でもその善悪や是非を論じ、物の理屈を考えようとする、儒学書のような物の考え方全部を指して云うのだ。だから、私は儒学の本など読んでいない、と言う人にも実は「漢意」の影響は及んでいる。なぜなら日本は中国を、またその中心となる儒学を尊重して1,000年にもなるのだから。知らないうちに、私たちの考え方にも「漢意」の影響が及んでいるのだ。(「からごゝろ」『玉勝間』巻1)
 つまり、私たちは「漢意」というサングラスをかけて世の中を見ているようなものだ。サングラスをはずして自分の目(日本人としての目)で世の中を見てみよう、と宣長は提案する。そのための指針となるのが、『古事記』を中心とする日本の古典であった。

 ところで、余談だが、宣長を考え、論じる時に、「宣長」という名前の意味は、なぜ桜が好きなのか、鈴が好きなのか、お墓を二つ造ったのはなぜだ・・ということを問題にする。このCD-ROMでもそれは同じだ。中には深い意味があるものもあるが、一方では好みの問題、つまり好きだからだよ、ということもあるはずだ。
 例えば「鈴屋衣」の意味を問われた宣長は、別に深い意味はありません好みですよと答えている。この言葉の意味をそのまま受け取るわけにもいかないが、忘れてもいけない。
 何にでも意味を求めたくなる、これもまた「からごころ」なのかもしれない。


                                          (C)本居宣長記念館

『香良洲の花見』(からすのはなみ)

 岡山正興記。寛政9年(1797)3月20日に宣長が大平、正興、殿村安守等門人11名と連れ立って香良洲の花見に出かけた時の各人の歌を載せる。道中の様子は巻頭の正興「香良洲の花見の詞」に詳しい。同地では津の門人芝原春房、倉田英林、また香良洲神社宮司で門人の今井一清も加わる。

 同社は『伊勢国飯高郡松坂勝覧』に「松坂三里北也、俗ニ天照大神ノ御妹也ト云、毎年六月十五日ニ祭礼アリ、参詣多シ、○此所海辺ニテ、後ノ松原ヨキ景ナリ」とある。祭神は『玉勝間』巻2に考証がある。

 本冊所収の宣長詠の一部が『石上稿』に載り、詠草断簡が残る。本居清造の写本が本居宣長記念館に所蔵される。 


                                          (C)本居宣長記念館

川口呉川(かわぐち・ごせん)

 宇治山田(伊勢市)の日本画家。
 1879年(明治12)10月~1957年(昭和32)
 本名、寅太郎。家は高柳町で、代々古着商を営む。号、古衣庵。五瀬十峰堂。
 早くから日本画家・磯部百鱗に師事して四条派流の画技を学び、
 後に京都に出て竹内栖鳳に師事、また京都絵画専門学校に学ぶ。

 大正時代の頃には、伊勢風俗を研究し、
 「他人の企及し得ざるものあり。呉川の専売特許と称するも可ならん」
 (『大正三重雅人史』)
 と評され、大正5年の皇后陛下伊勢行啓の際には、
 文展出品作品の中から、
 宮川の部の絵巻物を献上する名誉に与った。
 書は江川近情、和歌は井上頼文、俳句は大主耕雨に学ぶ。
 狂歌では二一転作と号し有名であった。

 本居宣長記念館所蔵作品は、
 「御師邸内図」の他に、
 やはり小津茂右衛門コレクションで、
 「桐華鳳凰図」
 絹本著色。署名「呉川写(落款)」。箱上書「桐華鳳凰図」。
 箱蓋裏「大正四年御大典奉祝記念揮毫 川口呉川題」。 署名「呉川」。
 がある。


                                          (C)本居宣長記念館

刊行された宣長著作

江戸時代に刊行された宣長の本は全部で50種に及ぶ。
生前刊行は○、没後刊行は●、生前から没後に及ぶものは△を付す。

  1. ○伊勢二宮さき竹の弁 享和元年
  2. ●石上私淑言 文化13年
  3. ○出雲国造神寿後釈 寛政8年
  4. ○うひ山ぶみ 寛政11年
  5. ○大祓詞後釈 寛政8年
  6. ●臣道 慶応3年
  7. ●おもひぐさ
  8. ○神代正語 寛政2年
  9. ○漢字三音考 天明5年
  10. ●紀見のめぐみ(『双玉紀行』本、文化12年)(『結び捨てたる枕の草葉』本、嘉永7年)
  11. ○仰瞻鹵簿長歌 寛政3年(『鈴屋集』本とは別)
  12. ○馭戎慨言 寛政8年
  13. ●くず花 享和3年
  14. ●鉗狂人 文政4年
  15. ○源氏物語玉の小櫛 寛政11年
  16. ○古今集遠鏡 寛政9年
  17. ●古今選 文化5年
  18. ○国号考 天明7年
  19. △古事記伝 寛政2年~文政5年
  20. ●後撰集詞のつかね緒 享和2年
  21. ○詞の玉緒 天明5年
  22. ○字音仮字用格 安永5年
  23. ●授業門人姓名録
  24. ●歴朝詔詞解 享和3年
  25. ○新古今集美濃の家づと 寛政7年
  26. ○神代紀髻華山蔭 寛政12年
  27. ○真暦考 寛政元年
  28. ●真暦考不審考弁 文政3年
  29. ○菅笠日記 寛政7年
  30. △鈴屋集 寛政10年~享和3年
  31. ○草庵集玉箒 前編明和5年、後編天明6年
  32. ○続草庵集玉箒 天明6年
  33. ○玉あられ 寛政4年
  34. △玉勝間 寛政7年~文化9年
  35. ○玉くしげ 寛政元年
  36. ○手枕 寛政7年(『鈴屋集』本とは別)
  37. ○玉鉾百首 天明7年
  38. ○手向草 天明4年
  39. ○地名字音転用例 寛政12年
  40. ●訂正古訓古事記 享和3年
  41. てにをは紐鏡 明和8年
  42. ○天祖都城弁弁 寛政9年
  43. ●答問録 天保6年
  44. ●直毘霊 文政8年(『古事記伝』本とは別)
  45. ●秘本玉くしげ 嘉永四年
  46. ●枕の山 享和2年
  47. ●万葉集玉の小琴 天保9年
  48. ●水草のうへの物語 天保10年
  49. ○美濃の家づと折添 寛政九年
  50. ●結び捨てたる枕の草葉 嘉永7年(『紀見のめぐみ』と合冊)


                                          (C)本居宣長記念館

『冠辞考』(かんじこう)

 京都から帰郷した頃に宣長は、借覧した『冠辞考』で初めて賀茂真淵の学問に触れ、その偉大さを知る。

 「さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるに
  ぞ、県居大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事
  のみにして、あまりことゝほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうある
  べしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立
  ちかへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出来つゝ、つひにいにしへ
  ぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほ
  いまだしきことのみぞ多かりける」
                       (『玉勝間』巻1「おのが物まなびの有しやう」)

 本書は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』に使われる枕詞326を五十音順に並べ解釈を付けた辞典。「枕詞」とは「たらちねの」、「あしひきの」、「石上」というような言葉でそれぞれ、たらちねのは「母」にかかり、あしひきのは「山」に、石上は「ふる」にかかる。序文には「枕詞」論が展開される。稿本『冠辞解』は延享4年(1747)頃に成立したが、刊行は宝暦7年(1757)。宣長が京都から帰ったのは同年10月。程なく見たとすると、最新刊であったことになる。現在、記念館に残るのはその後に購求した本。

◎書誌
 『冠辞考』版本・宣長書入本・10冊。賀茂真淵著。袋綴冊子装。縹色地蔓草白抜模様表紙。縦27.4糎、横18.9糎。匡郭、縦22.6糎、横16.0糎。片面行数10行。墨付(1)48枚、(2)40枚、(3)25枚、(4)38枚、(5)28枚、(6)24枚、(7)20枚、(8)21枚、(9)39枚、(10)32枚。外題(題簽)「冠辞考、あいうゑを上一」(巻2以降略)。内題無。小口(宣長筆)「ア」(以下略)。蔵印「鈴屋之印」。
  【序】「賀茂真淵」。
  【巻末】「宝暦七のとしみな月にかうかへ畢ぬ、高梯秀倉、村田春道」。
  【跋】「宝暦七のとし八月、たちはなの枝直しるす」。
  【刊記】「書林、日本橋通三町目須原屋平左衛門」。
  【参考】
 宣長書き入れが多い。巻8には「ひさかたの天・あしひきの山」と題する長文の考察を貼り付ける。同巻表紙に貼り紙有り、「ひさかたノ部ニ故大人御自筆ノ【ヒサカタノ天アシヒキノ山】ノ御考一枚有リ、落散ラシ事ヲ思ヒテ糊(ノリ)ヲ以テ附置者也、稲彦云」と言う。宣長門人橋本稲彦と思われる。また巻1に23.24丁各1枚(木版刷り)を挟む。これらは初版刊行後改正した部分の抜き刷りであろう。購求については、『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦12年2月条に、「冠辞考、十、卅六匁五分」とある。同じ真淵門の建部綾足説などを丹念に書き入れ、宣長の綾足評価を窺う上でも貴重。


                                          (C)本居宣長記念館

元日の朝

仕官後の宣長さんの正月の様子を『日記』に見てみましょう。

宝暦12年
「二日、晴曇天○早朝御役所礼、但シ去年御町奉行役替、未有跡役、故参小笠原治右衛門殿役所、是御両役而、替目之間、御町奉行兼帯也、其後屋敷礼」
寛政5年
「朝六時、御両役月番方【夏目治右衛門】礼、次同役【花房庄兵衛】屋敷礼、右両役所ハ支配故、先相勤、次御城代礼、其外屋敷礼」
寛政6年
「自早朝御役所其外礼」
寛政7年
「朝五ツ半時、御城代礼、但自去冬、御城御普請、依之御礼、於御城代役所申之、予年頭御礼之振未慥、当年頭者、別ニ時刻遅可出之由、依有指図時刻如右」
寛政8年
「五ツ半時、御城御礼【但御城御普請故、御城代屋敷也】、両役所其外屋敷少々礼」
寛政9年
「七日、節分、今日於御城代衆宅御礼【但御城御普請ナルユヱナリ】、五半時、其外屋敷町礼相勤」
寛政10年
 
「五半時、御城代御礼、其外屋敷町礼」
 朝六時は、今の6時をまわった頃、五ツ半は9時くらいでしょうか。
   若水汲みなど家の中での諸行事を終え、着物を改め、役所にご挨拶に行きます。随分早くに起きたのでしょうね。
 
  松坂町本町の豪商『小津清左衛門日記』には、
「朝七ツ半頃神々蔵々鏡餅備江、夫より家内鏡餅相済、六ツ半過奉行所御月番御玄関罷出祝儀可申上候、夫より御城代江玄関江罷出候、別ニ御礼申上候事・・」(天保12年)
とあり、その後、殿町の役人宅への挨拶回りとなります。七ツ半というと5時で しょうか。当時の人は、このころから行動を開始したようです。
                                          (C)本居宣長記念館

菅相寺(かんしょうじ)

 愛宕町にあり、天神さんの名前で親しまれる。境内に宣長の「天神ノ森」の碑が建つ。これは寛政8年(1796)2月に執筆した
「天神の森にたてたる碑の文」(『鈴屋集』巻9収載)
を刻したもので、三谷某が取次いだ。
  『雅事要案』に
  「一、天神石碑文之事、三谷取次」(宣長全集・20-270)
 とある。
 現存するのは加藤千蔭書、文政9年(1826)11月の建碑であるが、それ以前にもあったか。

 【参考文献】
 「塙保己一と天神崇拝」鈴木淳『江戸和学論考』。


                                          (C)本居宣長記念館

願証寺

 松阪市日野町。浄土真宗高田派。近江国日野から移築したと伝える。松坂城主古田家の信仰篤かった。本堂裏の墓所には小泉家歴代の墓があり、その一角に宣長の歌碑がある。
 
                   小泉一族の墓に直角にある菱形の石が宣長歌碑
                                          (C)本居宣長記念館

菅相寺歌会(かんしょうじうたかい)

 
  菅相寺で開かれた歌会。但し半年程で閉会。初会は宝暦10年(1760)2月20日。会日を20日とする。『日録』に、

   「廿日、於菅相寺和歌会、自今日新興行、月次以廿日為定日」
                   (宣長全集・16-148)
  とある。

   会集は『菅相寺天満宮法楽和歌月次会兼題当座集、錦葉集、第一』。
   裏表紙に「宝暦十年庚辰二月二十日」とある。
   同書によれば、初会の参加者は、宣長、中津光多、浜田明達、須賀直躬、小津正啓。兼題と当座の詠が載る。しかし参加者の活動はあまり活発でなく、宣長
が出詠したのは、初会と会頭を勤めた6月だけである。8月には、直躬が会頭を勤めて、兼題は正啓一人の出詠、当座は直躬と正啓が出詠、その末尾に「錦葉集終」と記されて終了した。


                                          (C)本居宣長記念館

寛政2年の御遷幸

   天明8年(1788)正月晦日、御所の南東、鴨川の東宮川町団栗図子の空き家から出火した火事は、御所など京の町の過半を焼き尽くしてしまった。
   光格天皇は聖護院を仮御所とされた。そして松平定信を御所造営総奉行に任命し再興が始まった。朝廷は4月1日、裏松光世(ウラマツ・ミツヨ)に諮問、その労作である『大内裏図考証』(本書には藤貞幹も協力したとされる)を基本とした復古的な造営を幕府に要求する。財政逼迫する幕府との度重なる交渉の結果、朝廷の意向に添ったプランが採択された。
 先年、フェノロサ・コレクションとして日本に里帰りした「行幸図」(吉川周圭画・ボストン美術館所蔵)は、この新造営なった御所への天皇の遷幸の行列を描いたものである。

 光格天皇の乗った鳳輦(ホウレン)は、卯の刻(午前6時頃)聖護院を出て万里(マデ)小路を北に上がり美福門代、建礼門、承明門を通り、未の刻(午後2時頃)紫宸殿に入った。
 復古的で豪壮な新造営御所にふさわしい行列である。

 この時の行列にはいくつかのガイドブックが作られた。主催する側も、また見物する者も「古代」を体験するという感覚が共有されていた。
 この御遷幸は、古代への憧憬とそれを裏付ける研究が続々とまとまる、天明、寛政期を象徴する一大ページェントであった。
 御遷幸を見た宣長が詠んだ長歌が『仰遷鹵簿長歌』(ギョウセンロボノチョウカ)で、大館高門により刊行された。また、その後『鈴屋集』にも載せられた。
                    「御遷幸ガイドブック」

                                          (C)本居宣長記念館

韓天寿(かん・てんじゅ)

 享保12年(1727)~寛政7年(1795)享年69歳。通称中川精三郎。江戸時代を代表する書家、画家。松坂中町、岡寺山継松寺横にあった両替業田丸屋の主人。33歳家業を継ぎ、34歳の時には、友人・池大雅、高芙蓉と白山、立山、戸隠、浅間山、富士山を巡る。40歳頃は書の研究に専念、二王(王羲子・王献子)の遺風を慕い、中国から渡来した墨帖を集めその覆刻に努力し、岡寺版と知られる墨帖を刊行、墨帖出版の新しい技術を開発した。書風は唐様。画は漢画を得意とした。書道に専心するあまり、財産を無くしてしまった。 『宝暦咄し』に「中川長四郎、手を能書天寿と世間へ名を上たる人、息子蔵三郎是も後は大雅堂のあとを受、陳明とやら世間へ名を上たり、町人のそなへには入らぬ事、身上は百分一となりたり、是もおごりのうち也」と書かれた。財産が百分の一になったのだそうだ。
 墓は篠田山霊園清光寺墓地に、また「韓大年先生故紙塚」が、京都市東山区、大谷廟の北側を登った通妙寺にある。一身田文史・細合方明による事績が碑三面に刻される。

 宣長と天寿は友人で、合作の画賛なども伝わっている。また、天寿の没後に、そのコレクション保存を紀州藩に働きかけたのも宣長であった。
 韓天寿と宣長の関係は、同時代に同じ松坂で生活していて交友もあったが、以外にも関係資料に乏しい。これは天寿に限ったことではない。塩崎宋恕も鹿嶋元長も同じである。宣長の場合、国学関係者以外の交友は殆どこれまで注目されなかったこともあり、不明な点が多い。師弟関係だけでなく、交友を探ることは宣長研究の急務である。  
                          韓天寿の書帖(個人蔵)              


                                          (C)本居宣長記念館

韓天寿宅跡

 職人町。両替商・中川家、つまり韓天寿(カンテンジュ)の家は、現在のギャラリー森田付近にあった。岡寺山継松寺の土蔵の基礎は中川家のものであると伝える。
『松坂権輿雑集』に、

「中川清右衛門法名浄安、二代清右衛門法名浄故、三代清三郎法名浄宇、清水谷家の門弟にて歌道を好。
 よしとのみ思ひてなすは難波かたともにあしかる身とはしらすや
  右歌、勅点被為下し由ニ語伝ふ。四代清三郎迄武府御為替を代々務。五代養子蔵之助、源蔵両人共、故有而不縁す。当時逼塞、親族中川長四郎相続す。書を能し、実名天寿と号ス」

 とある。浄宇は『元暦校本万葉集』を所蔵した人である。さて、この後継者「天寿」が問題だった。


                                          (C)本居宣長記念館

甘棠(かんとう)

 「甘棠」とは、小リンゴとかズミと言う木のこと。食用ではないらしい。
  昔、中国で立派な為政者がこの木下で民の声を聴き、正しく取りはからったので、民衆はその為政者だけでなく、その木まで慕ったという故事による。民が為政者を慕うこと。ちょうど同じ頃、飯高郡駅部田村(三重県松阪市駅部田)の大庄屋・石井冨親は、自邸の離れ座敷に「甘棠亭」と命名(天明元年烏丸光粗命名)してもらっている。
  なお、冨親の父が仁五兵衛正道で、谷川士清門人。垂加神道許状を与えられ、蓬莱尚賢も先輩として尊敬し石井邸を訪れた。
  また『授業門人姓名録』宣長自筆本に「駅部田村、石井万太郎」とあるのは、同家の人であろうと推測されている。

 【参考文献】
 『松阪市史』文化財篇。
 『近世国学者の研究』北岡四良著。


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甘棠館開校と金印

 金印発見の前年天明3年(1791)6月2日、福岡藩から竹田定良と亀井南冥両名に学問所設置と藩士教育の藩命が下った。東が修猷館、西が甘棠館である。南冥の甘棠館は、12月18日上棟式、翌2月19日に落成開館式を行った。南冥42歳。民間出身の彼には最も晴れがましい時であった。その4日後に「金印」が発見された。発見者から甚兵衛、その兄喜兵衛、豪商才蔵、その友人南冥へと伝達され、南冥はすぐに『後漢書』に「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使い人は自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武賜るに印綬を以てす」と言う記述と一致すると考え、その保存に乗り出した。自ら『金印弁』を書き、また、『漢委奴国王印鑑定書』を全国の学者や知人に送った。

【参考文献】
「亀井南冥と金印」塩屋勝利・『金印研究論文集成』(新人物往来社)。
 『松阪市史』文化財篇。


                                          (C)本居宣長記念館

眼病治療の旅

 京都で御遷幸を拝見した宣長・春庭一行が松坂に帰着したのは寛政2年(1790)11月28日であった。春庭(29歳)の目に異常が現れたのは、年が改まった寛政3年春(1月~3月)ごろであったらしい。自宅での治療の効果が見られないので、春庭は尾張国馬嶋の明眼院に入院する。

 父宣長の『日記』8月条には、「十日、健亭因眼病為療治行尾張馬嶋本日発足」とある。 自分の後継者として期待していた長男の眼病だけに、宣長の心労は甚だしかった。
 「扨々心労仕候」(寛政5年5月23日付書簡)、「扨々心労仕候、御憐察可被下候」(同10月10日付書簡)僅かな言葉には、計り知れない悲しみが込められている。『古事記伝』出版もいよいよ忙しくなる時期だけに、宣長は悲しんでいるわけにも行かず、どうか馬嶋で辛抱強く治療を続けて欲しいと春庭に手紙を送っている。
 「随分心長ニ養生被致可然存候」(寛政3年10月11日、春庭宛宣長書簡)  
 だが、11月9日、弟春村に付き添われて帰宅する。

 翌、寛政4年(1792)3月5日、名古屋に講釈に行く宣長は、春庭(30歳)を同伴しもう一度明眼院で治療をさせる。だが、4月23日に帰宅。

 寛政5年3月10日、京都での講義のため宣長は上京する。この時も春庭(31歳)を同伴させ、講釈の合間を縫って、3月19日から大坂に向かい、滞在中の播磨の眼科医に見せるが効果は無く、21日京都に帰る。

 寛政7年2月20日付千家俊信宛宣長書簡に「眼病終に治シ不申、盲申候而、心痛仕候、御憐察可被下候」とある。薬石効なく失明である。春庭33歳。報告はこの年だが、その前年には既に目は光を失っていたのだろう。

 失明が千家俊信に報告された2ヶ月後、4月23日、春庭は弟春村と妹飛騨に付き添われ針医の修行のため上京する。途中、大和国切畑村に眼科に優れた者がいると聞き、雨の七見峠を越え、3人は山を分け入るが、その治療も効果はなかった。京都での生活が始まった後も、宣長の再三の勧めで9月末から再び切畑村に行き治療するが、やはり効果はなかった。
 眼病の治療の旅はこれが最後となる。春庭33歳の時である。

                                          (C)本居宣長記念館

帰郷後の宣長

宝暦7年(1757) 28歳
spacer10月6日 夕方、松坂帰着。帰宅後間もなく医者開業する。
 12月 江戸湯島で田村元雄、平賀源内物産会を開催。
 
この頃、刊行間もない『冠辞考』を借覧する。
この頃、『排蘆小船』執筆か。
 
宝暦8年(1758) 29歳
 1月20日『古今選』編集に着手。
 2月11日嶺松院会に参加。この日が初参加か。
 5月3日『安波礼弁』起筆、『紫文訳解』もこの頃か。
 5月16日京都の友人・津戸順達宛書簡執筆。京都の医家との養子の件。27日上京するが不調に終わる。
 
夏、『源氏物語』開講。
 
宝暦9年(1759) 30歳
 3月4日『伊勢物語』開講する。
 6月1日『伊勢物語』書写する。
 
宝暦10年(1760) 31歳
 9月将軍10代・家治となる。
 9月12日村田美可と結婚する。
 10月9日『百人一首改観抄』開講。
 11月賀茂真淵、田安家を致仕、隠居する。代表作の多くがこれ以後に執筆される。
 12月18日離縁。
 
宝暦11年(1761) 32歳
 2月14日妹はん剃髪する。法名智遊(知遊)。
 3月『阿毎菟知弁』の稿成る。
 5月24日『万葉集』開講。
 5月『字音仮字用格宝暦十一年稿』成る。
 7月草深玄弘女たみとの縁談話起こる。
 8月21日外祖母・村田元寿尼没す。享年85歳。
 
宝暦12年(1762) 33歳
 1月17日草深たみと結婚する。
 2月自選家集『石上集』上巻編む。「石上」号の初見。
 7月27日『後桜町天皇、践祚。
 
海の向こうでは、ルソーが『エミール』執筆。
 
宝暦13年(1763) 34歳
 2月3日勝、津の実家で男児出生。後の春庭。
 3月25日嶺松院会。樹敬寺法樹院に滞在中の京都の歌人澄月と歌を贈答する。
 5月25日嶺松院会。松坂の旅宿新上屋にて始めて賀茂真淵に対面 (松坂の一夜)。
 6月7日『紫文要領』上下2巻執筆。
 6月初めて「古体」の歌10首を詠む。賀茂真淵に書簡と『万葉集』の質問、また初めて詠んだ古風歌を送り、添削と入門の許諾を請う。
 6月宣長家の資産を運用していた隠居家が事実上倒産する。
 12月16日賀茂真淵、宣長宛書簡を執筆。入門の許諾を伝える。また、加筆した『万葉集問目』第1冊目と村田伝蔵の書簡が添えられた。
 12月28日賀茂真淵の入門許諾書簡到着する。
 
この年、稲懸常松(8歳 後の大平)、徳力明通を師とし手習いを始める。
 
明和元年(1764) 34歳
 1月12日手沢本『古事記』(寛永版本)、度会延佳本を以て校合。
 1月18日『日本書紀』「神代巻」開講。
 1月21日遍照寺歌会始まる。
 1月賀茂真淵に誓詞を呈し正式入門。
                            『伊勢物語』巻頭
                            『伊勢物語』奥書
                                          (C)本居宣長記念館

紀州家への仕官

                                          (C)本居宣長記念館

キセル

 愛煙家の宣長は、旅先でもたばこを吸った。
 吉野に行った時のこと、吉水院前の景色のよい茶店からたばこを吹かして吉野水分神社あたりを眺めている。
   「さざやかなる屋の、まへうちはれて、見わたしのけしきいとよきがあるに、たち入て、煙ふきつゝ見いだせば、子守の御社の山、むかひに高くみやられて」と『菅笠日記』には書かれている。

 旅とは言えないが、京都遊学時代には、祇園あたりでたばこ入れを落とした。数日して、友人の山田孟明が、路で拾ったと言って届けてくれたことがあった。宣長は大変不思議がっている。

   「けふふしきに(今日不思議に)、孟明のもとより、道にてひろひ侍るとてかへしをくられし、これほとよにかはりし(世に変わりし)事はなし、あまりのふしきさに、ふと思ひよりて、返事にかきつけてやり侍るは

    つれなくて 春はくれ行 けふしもあれ
           うれしくかへる たはこいれかな」
                 (『在京日記』宝暦6年3月29日条)

  不思議と言えば確かに不思議だが、でもそんなに不思議がることかなとも思ってしまう。


                                          (C)本居宣長記念館

北野天満宮(京都市上京区馬喰町)・錦天満宮(京都市中京区)

京菅原道真をお祀りする学問の神様。
宣長先生は子どもの頃から京都や大坂の天神さんに参詣していた。

延享2年(16歳)、始めての上京。北野天満宮に参詣する。『日記』には、

 「同二【乙丑】二月、北野天神参【二月廿一日立、廿三日京著、廿五日天神参、三月一日京立、同三日帰】」
  とあり、天神さんにお参りするために上京したような書きぶりだ。

延享5年(19歳)、二度目の上京。滞在中に、北野天満宮に二回、大坂の天満宮に一度参詣。錦天神にも参詣。

延享5年(19歳)年末頃、「日々動作勒記」執筆。毎日礼拝する神仏の名前を記した覚書。中に「洛陽北野大自在天神宮」とある。

宝暦2年から7年の京都遊学中には度々北野に遊んでいる。また、遊学中、天満宮縁日の数25の「楽」字を使用した書簡(17-27・書簡番号12)を執筆する。

寛政6年(65歳)閏11月25日、大坂の天満宮に参詣。

享和元年(72歳)2月、若山からの帰国願書(16-640)に大坂の天満宮参詣予定と記す。
                      北野天満宮中門。単層入母屋造檜皮葺四脚門
            前後に軒唐破風を設けさらに上に千鳥破風を付ける。装飾性も豊か。

                             絵馬殿の絵馬
            延享4年正月奉納の文字が読める。宣長が2度目の参拝をする前年である。

                        夜も人通りが絶えない錦天満宮
            ここの宮司さんは熱っぽく現在における国学の必要性を説かれた。

                                          (C)本居宣長記念館

北村季吟(きたむら・きぎん)

 寛永元年(1624)~宝永2年(1705)。江戸前期の歌学者、俳人。名は静厚(シズアツ)。通称は久助。号は蘆庵(呂庵)、七松子、また拾穂軒(シュウスイケン)、湖月亭。山城国粟田口の生れ。祖父宗竜・父宗円の影響で早くから連歌に親しむ。16歳で貞室、22歳で貞徳に入門。『山之井』を刊行。また貞徳没後は、飛鳥井雅章、清水谷実業に和歌を習う。その後、独立し、『新続犬筑波集』、俳論『埋木』などを刊行し俳壇で不動の地位を築いた。また、歌学者として古典の注釈書『大和物語抄』、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『徒然草文段抄』、『源氏物語湖月抄』、『枕草子春曙抄』などを刊行した。この一連の事業で、庶民も日本の古典を読めるようになった意義は大きい。

  宣長が使用したテキストも季吟の手になる物が非常に多い。
  その後、新玉津島神社の神主となる。この時期の門人が芭蕉である。元禄2年(1689)、子の湖春と幕府の歌学方となり、法印に叙せられた。
  松坂に村田家を始め門人が多く、滞在し講釈も行った。また嶺松院歌会を始めた小津長正は清水谷実業門人である。


                                          (C)本居宣長記念館

城戸千楯(きど・ちたて)

 安永7年(1778)~弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
 寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。


                                          (C)本居宣長記念館

                        「大日本天下四海画図」部分 京
                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」

 国定教科書の国定読本は大正7年4月から第3期を迎える。この時実は教科書が2種作られた。旧読本を部分的に修正した「尋常小学読本」と、新しく編纂した「【尋常小学】国語読本」である。表紙の色から前者は「黒表紙」、後者は「白表紙」と呼ばれた。なぜ2種の教科書が並行して作られたのか、また一方は都市用で、もう一方は田園用だなどと言う説もあるがではどちらが都市用か、両説あり定まらない。実際によく普及したのは白表紙であった。

 さて、この白表紙巻11に載ったのが「松坂の一夜」である。原作は佐佐木信綱。当時白表紙の編纂をしていた高木市之助氏が、「この種の教材でおそらく一番よくできているのは、白表紙本では、巻11に載った「松坂の一夜」ではないかと思います。真淵・宣長師弟の美しい出会いを描いたこの教材を懐しく思い出す人たちも多いはずです」(『【尋常小学】国語読本』高木市之助述、深萱和男録・中公新書。P67)と証言する。
 但し、庵逧巌氏は「のち第三期および第四期国定国語教科書巻十一に載せられて、大正十二年から昭和十七年に及ぶ二十年間、全国の小学校六年の教室で読まれた」(「教育における出会いの問題-宣長と高尚の場合-」)と書いていて、大正7年説とは5年の開きがある。その当時の教科書で確認する必要がある。

 この教材の影響力は大きかった。今もこの話で宣長を知ったと回想する人は多い。国語教育で有名な芦田恵之助は全国でこの教材の模範授業を行った。その記録は『教壇叢書第2冊 松阪の一夜』(昭和9年12月15日・恵雨会)として出版されている。
 また、女学校でも教えられた。『新制新撰女子国語読本四年制用巻四』教科書に載る。初版は昭和12年6月20日、編者は佐佐木信綱である。附言の省略以外はリライトはされていないようだ。  やがて小学校が国民学校となってからもこの教材は「初等科修身四」に載せられ、全国の小学生に教え続けられた。

【関連資料】
◆ 資料1
◆ 資料2
◆ 資料3
◆ 資料4
◆ 資料5
◆ 資料6
                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」 資料1

1,『尋常小学国語読本巻十一』
  大正14年9月14日文部省検査済・大正14年12月5日翻刻発行・著作兼発行者文部省・翻刻発行兼印刷者東京書籍株式会社・発売所(株)国定教科書共同販売所。70頁~77頁。

   第十七課 松阪の一夜
  本居宣長(のりなが)は伊勢(いせ)の国松阪の人である。若い頃から読書がすきで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。 或夏の半ば、宣長はかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、
 「どうも残念なことでした。あなたがよく会ひたいと御話しになる江戸の賀茂真淵(かもまぶち)先生が、先程御見えになりました。」 といふ。あまり思ひがけない言葉に宣長は驚いて、
  「先生がどうしてこちらへ。」
  「何でも山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)に御泊りになつて、さつき御出かけの途中『何か珍しい本はないか。』と、御立寄り下さいました。」
  「それは惜しいことをした。どうかして御目にかゝりたいものだが。」
  「後を追つて御いでになつたら、大てい追ひつけませう。」
  宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞きとつて、後を追つたが、松阪の町はづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿のさきまで行つてみたが、やはり追ひつけなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、万一御帰りに又泊られることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
  望がかなつて、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ふことが出来たのは、それから数日の後であつた。二人はほの暗い行燈(あんどん)のもとで対座した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和なひとゝなりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる篤(とく)学の壮年。年こそちがへ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。だんだん話してゐるうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことをさとつて、非常にたのもしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は
  「私はかねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて何か御注意下さることはございますまいか。」
  「それはよいところに気がつきました。私も実は我が国の古代精神を知りたいといふ希望から、古事記を研究をしようとしたが、どうも古い言葉がよくわからないと十分なことは出来ない。古い言葉を調べるのに一番よいのは万葉集です。そこで先づ順序(じょ)として万葉集の研究を始めたところが、何時の間にか年をとつてしまつて、古事記に手を延ばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。たゞ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは学問の研究には特に必要ですから、先づ土台を作つて、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」
 夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感激した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町すぢを我が家へ向つた。
  其の後宣長は絶えず文通して真淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。 宣長は真淵の志をうけつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述は此の研究の結果で、我が国文学の上に不滅の光を放つてゐる。 
                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」 資料2

2,『尋常小学国語読本巻十一』
 昭和4年11月12日文部省検査済・昭和4年12月2日翻刻発行・著作兼発行者文部省・翻刻発行兼印刷者東京書籍株式会社・発行所東京書籍株式会社。70頁~77頁。

  第十七課 松阪の一夜
 本居宣長(のりなが)は伊勢(いせ)の国松阪の人である。若い頃から読書がすきで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。
 或夏の半ば、宣長はかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、
 「どうも残念なことでした。あなたがよく会ひたいと御話しになる江戸の賀茂真淵(かもまぶち)先生が、先程御見えになりました。」
といふ。あまり思ひがけない言葉に宣長は驚いて、
 「先生がどうしてこちらへ。」
 「何でも山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)に御泊りになつて、さつき御出か けの途中『何か珍しい本はないか。』と、御立寄り下さいました。」
 「それは惜しいことをした。どうかして御目にかゝりたいものだが。」
 「後を追つて御いでになつたら、大てい追ひつけませう。」
宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞きとつて、後を追つたが、松阪の町はづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿のさきまで行つてみたが、やはり追ひつけなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、万一御帰りに又泊られることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
 望がかなつて、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ふことが出来たのは、それから数日の後であつた。二人はほの暗い行燈(あんどん)のもとで対座した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和なひとゝなりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる篤(とく)学の壮年。年こそちがへ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。だんだん話してゐるうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことをさとつて、非常にたのもしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は
 「私はかねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて何か御注意下さることはございますまいか。」
 「それはよいところに気がつきました。私も実は我が国の古代精神を知りたいといふ希望から、古事記を研究をしようとしたが、どうも古い言葉がよくわからないと十分なことは出来ない。古い言葉を調べるのに一番よいのは万葉集です。そこで先づ順序(じょ)として万葉集の研究を始めたところが、何時の間にか年をとつてしまつて、古事記に手を延ばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。たゞ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは学問の研究には特に必要ですから、先づ土台を作つて、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」
夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感激した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町すぢを我が家へ向つた。
 其の後宣長は絶えず文通して真淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。
宣長は真淵の志をうけつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述は此の研究の結果で、我が国文学の上に不滅の光を放つてゐる。
                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」 資料3

3,『尋常小学国語読本巻十一』
  昭和10年8月22日文部省検査済・昭和10年10月10日翻刻発行・著作兼発行者文部省・翻刻発行兼印刷者東京書籍株式会社・発行所東京書籍株式会社。70頁~77頁。

   第十七課 松阪の一夜
  本居宣長(のりなが)は伊勢(いせ)の国松阪の人である。若い頃から読書がすきで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。
 或夏の半ば、宣長はかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、
    「どうも残念なことでした。あなたがよく会ひたいと御話しになる江戸の賀茂真淵(かもまぶち)先生が、先程御見えになりました。」
 といふ。あまり思ひがけない言葉に宣長は驚いて、
  「先生がどうしてこちらへ。」
  「何でも山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)に御泊りになつて、さつき御出かけの途中『何か珍しい本はないか。』と、御立寄り下さいました。」
  「それは惜しいことをした。どうかして御目にかゝりたいものだが。」
  「後を追つて御いでになつたら、大てい追ひつけませう。」
宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞きとつて、後を追つたが、松阪の町はづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿のさきまで行つてみたが、やはり追ひつけなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、万一御帰りに又泊られることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
  望がかなつて、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ふことが出来たのは、それから数日の後であつた。二人はほの暗い行燈(あんどん)のもとで対座した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和なひとゝなりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる篤(とく)学の壮年。年こそちがへ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。だんだん話してゐるうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことをさとつて、非常にたのもしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は  「私はかねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて何か御注意下さることはございますまいか。」
  「それはよいところに気がつきました。私も実は我が国の古代精神を知りたいといふ希望から、古事記を研究をしようとしたが、どうも古い言葉がよくわからないと十分なことは出来ない。古い言葉を調べるのに一番よいのは万葉集です。そこで先づ順序(じょ)として万葉集の研究を始めたところが、何時の間にか年をとつてしまつて、古事記に手を延ばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。たゞ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは学問の研究には特に必要ですから、先づ土台を作つて、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」
  夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感激した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町すぢを我が家へ向つた。
  其の後宣長は絶えず文通して真淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。
宣長は真淵の志をうけつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述は此の研究の結果で、我が国文学の上に不滅の光を放つてゐる。

                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」 資料4

4,『小学国語読本巻十一尋常科用』
  昭和14年2月13日文部省検査済・昭和14年2月28日翻刻発行・著作兼発行者文部省・翻刻発行兼印刷者東京書籍株式会社・発行所東京書籍株式会社。68頁~74頁。

   第十三 松阪の一夜
  本居宣長(もとをりのりなが)は、伊勢(いせ)の国松阪の人である。若い頃から読書が好きで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。
  或夏の半ば、宣長がかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、
  「どうも残念なことでした。あなたがよく会ひたいとお話しになる江戸の賀茂真淵(かもまぶち)先生が、先程お見えになりました。」
 といふ。あまり思ひがけない言葉に宣長は驚いて、
  「先生がどうしてこちらへ。」
  「何でも、山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)にお泊りになつて、さつきお出かけの途中『何か珍しい本はないか。』と、お立寄り下さいました。」
  「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」
  「後を追つてお出でになつたら、大てい追附けませう。」
 宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞取つて、後を追つたが、松阪の町のはづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿の先まで行つてみたが、やはり追附けなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、万一お帰りに又泊られることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
 望がかなつて、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ふことが出来たのは、それから数日の後であつた。二人は、ほの暗い行燈(あんどん)のもとで対座した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる少壮の学者。年こそ違へ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。だんだん話をしてゐる中に、真淵は宣長の学識の尋常でないことを知つて、非常に頼もしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は、
  「私は、かねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて、何か御注意下さることはございますまいか。」
  「それは、よいところにお気附きでした。私も、実は早くから古事記を研究したい考はあつたのですが、それには万葉集(まんえふしふ)を調べておくことが大切だと思つて、其の方の研究に取りかゝつたのです。ところが、何時の間にか年を取つてしまつて、古事記に手をのばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。たゞ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは、学問の研究には特に必要ですから、先づ土台を作つて、それから一歩々々高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」
 夏の夜はふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋を我が家へ向つた。
 其の後、宣長は絶えず文通して真淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。
 宣長は真淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述は此の研究の結果で、我が国文学の上に不滅(ふめつ)の光を放つてゐる。

                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」 資料5

5,『新制新撰女子国語読本四年制用巻四』
 昭和16年12月9日文部省検定済・高等女学校国語科用実業学校国語科用・昭和12年6月20日発行・昭和16年10月30日訂正三版発行・編者佐佐木信綱・発行所湯川弘文社。49頁~56頁。

    七 松坂の一夜
 時は夏の半ば、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひ連れてゆくお伊勢参りの群も、春先ほどには騒がしからぬ伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗文海堂柏屋兵助の店先に、「御免。」といつて腰をかけたのは、魚町の小児科医で年の若い本居舜庵であつた。医師を業とはしてゐるものの、名を宣長といつて、皇国学(みくにまなび)の書やら、漢籍やらを常に買ふこの店の顧主であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手を拍つて、「あゝ残念なことをしなされた。あなたがよく名前を云つておいでになつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供を連れて先ほどお立寄りになつたに。」
といふ。舜庵は、いつものゆつくりした調子とは違つて、「先生がどうして此処へ。」 と、あわたゞしく問ふ。
主人は、
  「何でも田安様の御用で、山城から大和とお廻りになつて、帰途に参宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお著きになつた所、少しお足に浮腫が出たとやらで御逗留。今朝はもうお宜しいとの事で、御出立の途中、何か古い本は無いかと、暫くお休みになつて、参宮にお出かけになりました」。
 舜庵、「それは残念なことである。どうかしてお目に懸りたいが」。
  「跡を追うてお出でなさいませ、追附けませう。」
 と主人がいふので、舜庵は一行の様子を大急ぎで聴取つて店を出た。
  迹を追うて松坂の町を離れ、次の宿なる垣鼻(かいばな)村の先まで行つたが、どうしてもそれらしい人に追附き得なかつたので、すごすごとわが家に戻つて来た。
 数日の後、岡部衛士は神宮の参拝をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山(ひよりみやま)に遊んで、夕暮に再び松坂なる新上屋に宿つた。
  「若し帰途に又泊まられたなら、どうか知らせて貰ひたい。」と頼んで置いた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使いを得たので、取るものも取敢へず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は二十五、その弟の春海は十八の若盛りで、早くも別室にくつろいでゐた。衛士は仄暗い行燈の下に舜庵を引見した。
 賀茂県主真淵、通称岡部衛士は、当年六十七歳、その大著なる冠辞考・万葉考なども既に成り、将軍有徳公の第二子田安中納言宗武卿の国学の師として、その名嘖々(※さくさく)たる一世の老大家である。年老いたれども頬ゆたかなる此の老学者に相対してゐる本居舜庵は、眉宇の間に迸つてをる才気を温和な性格に包んでゐる三十四歳の壮年、而も彼は二十三歳の時、京都に遊学して医学を学び、二十八歳にして松坂に帰つて医を業としてゐたが、京都ではたゞ医術を学んだのみでなく、契沖の著書を読破し、国学の蘊蓄も深かつたのである。
 舜庵は長い間欽慕してゐた身の、ゆくりなき対面を喜んで、豫て志してゐる古事記の注釈に就いて、その計画を語つた。老学者は若人の言を静かに聴いて、懇にその意見を語つた。
  「我も固より神典を解き明らめんの志があつたが、それには先づ漢意(からごころ)を清く離れて古の真の意を尋ね得ねばならぬ。古の意を得んには、古の詞を得た上でなければならぬ。古の詞を得んには、万葉をよく明らめねばならぬ。それ故自分は専ら万葉を明らめて居た間に、かくも年老いて、残の齢はいくばくも無く、神典を説くまでに至ることを得ない。御身は年盛りで、ゆく先が長いから、怠らず勉めさへすれば、必ず成し遂げられるであらう。併し世の学に志す者は、とかく低い処を経ないで、すぐに高い処へ登らうとする弊がある。かくては低い処をさへ得ることが出来ぬのである。此の旨を忘れず、心にしめて、まづ低い処をよく固めておいて、さて高い処に登るがよい。」
と諭した。
 夏の夜は早くも更けて、家々の門の皆閉され果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてりした若人は、闇夜の道の何処を蹈むとも覚えず、魚町の東側なるわが家の潜戸をはひつた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをして居る。今夜もとんとんと桶の箍(たが) を入れてゐる。時にはやかましいと思ふ折もあるが、今夜の彼が耳には何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便りを求め、翌年の正月、村田傳蔵が中にはひつて、名簿を捧げ、うけひごとをしるして、県居の門人録に名を列ねる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此は答へた。門人とは云へ、その相会うたことは僅かに一度、唯一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を距る百七十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国松坂日野町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其仄暗い燈火は、我が国学史の上に不滅の光を放つてゐるのである。

                                          (C)本居宣長記念館

教科書に載った「松坂の一夜」 資料6

6,『初等科修身 四』
 昭和17年2月21日文部省検査済・昭和17年4月11日翻刻発行・著作兼所有文部省・翻刻発行兼印刷者東京書籍株式会社・発行所東京書籍株式会社・『日本教科書大系 近代編 第三巻 修身』より。

   第十一 松阪の一夜
 本居宣長(もとをりのりなが)は、伊勢(いせ)の国松阪の人である。若いころから読書がすきで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。
 ある夏のなかば、宣長がかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人はあいさうよく迎へて、
 「どうも残念なことでした。あなたが、よくおあひになりたいといはれてゐた江戸の賀茂真淵(かもまぶち)先生が、先ほどお見えになりました。」
といふ。思ひがけない言葉に宣長は驚いて、
 「先生がどうしてこちらへ。」
 「なにでも、山城・大和(やまと)方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじやうや)におとまりになつて、さつきお出かけの途中『何かめづらしい本はないか。』と、お寄りくださいました。」
 「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」
 「あとを追つておいでになつたら、たいてい追つけませう。」
 宣長は、大急ぎで真淵のやうすを聞き取つて、あとを追つたが、松阪の町のはづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿(しゆく)の先まで行つてみたが、やはり追ひつけなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、万一お帰りにまたとまられることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。
 望がかなつて、宣長が真淵を新上屋の一室にたづねることができたのは、それから数日ののちであつた。二人は、ほの暗い行燈(あんどん)のもとで対面した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書(ちよしよ)もあつて、天下に聞えた老大家。宣長はまだ三十歳余りで、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる少壮の学者(がくしや)。年こそ違へ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。
 だんだん話をしてゐるうちに、真淵は宣長の学識(がくしき)の尋常(じんじやう)でないことを知つて、非常(ひじやう)にたのもしく思つた。話が古事記のことにおよぶと、宣長は、
 「私は、かねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて、何か御注意下さることはございますまいか。」
 「それは、よいところにお気附きでした。私も、実は早くから古事記を研究したい考へはあつたのですが、それには万葉集(まんえふしふ)を調べておくことが大切だと思つて、その方の研究に取りかかつたのです。ところが、いつのまにか年を取つてしまつて、古事記に手をのばすことができなくなりました。あなたは、まだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつとこの研究を大成することができませう。ただ、注意しなければならないのは、順序(じゆんじよ)正しく進むといふことです。これは、学問の研究には特に必要ですから、まづ土台を作つて、それから一歩一歩高くのぼり、最後の目的に達するやうになさい。」
 夏の夜はふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされれてゐる。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋をわが家へ向かつた。
 そののち、宣長は絶えず文通して真淵の教へを受け、師弟の関係は日一日と親密(しんみつ)の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。
 宣長は真淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、つひに古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述(だいちよじゆつ)は、この研究の結果(けつくわ)で、わが国の学問の上に不滅の光を放つてゐる。
                                          (C)本居宣長記念館

共同研究の勧め

 池山聡助氏は、荒木田経雅と薗田守良の二人を比較して、伊勢神宮を代表する学者であるが、経雅の『大神宮儀式解』は有名で、薗田の『神宮典略』はそうでもないのはなぜかと言い、次のように考える。

 「その最大の理由は経雅卿翁が本居翁と時を同じうして生存し、翁の学徳を慕い来る天下の学徒に対して、それらの人々が参宮するたびごとに翁および大平より卿を紹介したためではなかろうか」
 そして宣長の紹介でやってきた人々の名前を挙げる。松平康定、小篠敏、千家俊信、金原清方、高本順、長瀬真幸、酒居近麿、栗田土満、上田百樹、藤井高尚、橋本経亮。(「本居宣長翁と中川経雅」、『神道古典の研究』所収)

 このCD-ROMでおなじみの人の名前が多いですね。
 それはともかく、知人を紹介する、これは宣長だけでなく、その先生・真淵が熱心だった。

 例えば、荒木田久老等の『元暦校本万葉集』調査に参加しろと勧めた。
 また、加藤宇万伎と仲良くし、『古事記』研究を成就するようにと言う。
 「こゝにも藤原宇万伎(ウマキ)【加藤大助といふ大番与力也】、わが流を伝へて、ことに古事記神代の事を好めり、いまだ其説は口をひらかねど、終にはいひ出べき人也、向来被御申合候而、野子命後は御此事をはたし給へかしと願事也」(明和4年11月18日付宣長宛書簡)
 「併かの宇万伎、黒生などは御同齢ほどに候へば、向来被仰合て此事成落可被成候」(明和6年5月9日付宣長宛書簡)

 ネットワーク、これが真淵、宣長の国学を広く浸透させる力となった。
 学者は「孤」では無くなった。


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京都大火

 天明8年(1788)1月30日、京都で大火。2月2日鎮火。町のほぼ75%が焼失した(『国史大辞典』)。

 宣長の『日記』も当日条に記す。

 この大火について、上田秋成が「迦具都遅能阿良毘」(『上田秋成全集』巻11)で、また伴蒿蹊が「かぐ土のあらび」(『叢書江戸文庫 伴蒿蹊集』収載)で被害状況を述べる。


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京都滞在は面白い

 享和元年4月18日付の春庭宛書簡で宣長は、

 「旅宿の事は、先日図を書いた通りだが、大変使い勝手がよく、大変きれいな家で悦んでいる。さて、京都は和歌山滞在とは違ってずいぶん面白い。しかも 
 又、身の回りの世話をする和嘉助が柔和なで良い人物で悦んでいる。食事もずいぶん塩梅良く準備してくれる」と悦んでいる。

 武辺ばった和歌山と違い、やはり京都が宣長には向いている。
 この春庭宛書簡は全集に洩れたので「後鈴屋翁一族門下の遺墨を観て」大西源一氏(『集古』戊辰3号)より再録する。所蔵者は浜田伝右衛門氏。昭和2年春庭百年祭の時の遺墨展に出品された。転載にあたり読点を付した。( )は私見である。

 【原文】
 おかつ御(「口」か)中いかゞ候や、又いかうわろく候はは山田へ参り血をぬき候が能候、以上
去る十一日之御状相届令披見候、次第に暑に向候節弥皆々御無事之由悦申候、此方皆々無事に逗留致居申候間御安心可賜候、此間中は方々より門弟中追々上京にて旅宿殊外にぎはひ、大勢にて御座候処、松坂之人々今日京出立に而大阪へ向け帰り申候、大方廿四五日頃には松坂着と被存候、扨津次郎太郎も思ひがけず致上京緩々逢申候而悦申候、是もよき連故今日一しよに立申候、定而無事に帰り可申と存候、此方くはしき様子皆々帰り候節御聞可被成候、
一、此方旅宿之事、先日図を書候而進し候通、至極勝手能、殊外きれい成家に而悦申候、扨京都は若山とうりうとはちがひ申候て甚おもしろく存候事に御座候、扨又和嘉助事も至極にうわに而宜き者に而悦申候、食事も随分あんばい能いたし申候、
一、さき竹ノ弁校合いたし遣し申候、残りは帰国いたし候うへ致校合可申候間此方へ御登せ候に及不申候、此方に而も日々殊外せわしく事多く候へば残り之分は帰り候うへの事と存候、
一、此方天気日々くもりがちにて快晴は京着後やうやう両三日ならでは無御座候、乍去雨はあまり度々はふり不申候、あつさは宿にてはいまだ綿入に而能候、此間迄は殊外朝夕寒くどうぎ綿入ばをりえはなし不申候、二三日は大分あたゝかに成申候、外はあはせに而能候、
一、おいつ定而気丈に候はんと存候、段々げいも出来申候哉、四日市九兵衛より今日書状参候、これもはつおとりのよし嘸難儀と存候、山田留守中かはり候事もなく候や、嘸おのとさひしく候はんと存申候、此度大平へは書状遣し不申候、能々御心得可賜候、植松より定而くはしき返事可致と存候、みなと町へもよくよく御心得可賜候、なほ後より可申進、早々恐惶謹言
    四月十八日                   中衛
  健 亭 様

 【解説】
 72歳の宣長は、3月1日和歌山(若山)より帰郷後、席の温まる間もなく同月28日今度は上京し、公卿や門人たちと親しく交わった。この書簡は4月18日に、滞在先の京都から松坂の春庭に宛てたものである。挨拶廻りや歌の好きな隠居相手の若山滞在に較べ、諸国の門人も上京して迎えてくれた京都の楽しさは格別であったか。和嘉助は身の回りの世話をさせるために雇った男であろうが、柔和で食事の段取りもうまくする、ということはむずかしい男を雇って苦労したことも、何度かの旅ではあったのだろう。校正刷りを持って出張に行く、今の大学の先生と変わらない忙しさである。最後には家族への思いやりが窺える。三女能登の夫も同行していたので、伊勢(山田)の留守宅を案じる。外孫の小西次郎太郎は十七歳、「はつおとり」をしたという外孫四日市の高尾安吉太郎と内孫おいつ(伊豆)はやがて二歳である。この書簡の所蔵者は伊豆の婚家の子孫である。湊町は次女美濃である。
 宣長の孫・伊豆は、24歳の文政5年正月23日、松坂平生町の浜田伝右衛門茂敬(31歳)に嫁した。浜田家は江戸店持ち商人。34歳で夫と死別。48歳で短い人生を閉じた。
 寺は松阪中町通称職人町、真如山実相院本覚寺。浄土真宗高田派に属する。墓は山門を入って左手の塋域にある。花崗岩質で、台座は後補のようである。碑面には「釈/如空斎清雲道光居士/雅亮室清風妙婉大姉」、脇に「居士諱茂敬浜田氏本同姓宗寿之子母妙喜道證之姉也故道證以無子養而為嗣称伝右衛門性質沈慎能幹家事天保三年壬辰九月廿二日死歳四十一」「大姉名伊豆本居氏之女道光居士妻也弘化三年丙午二月廿五日没行年四十八歳」裏に「浜田」と刻する。隣には「一得斎深入道證居士/清浄室超常妙倫法尼」の墓もある。
 今も、子孫が墓を守っている。



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京都で勉強する大秀

 田中大秀の熱心な勉強振りを、大平は伝えている。

 まず宣長の講釈のことから述べられる。享和元年(1801)の宣長の京都での講釈は、連日昼夜、2回行われた。聴講者は京都の人に留まらず、上京してきた諸国の人、急いで集まってきた門人など、貴族たちも集まる盛況振りであった。講釈は『万葉集』から自著『玉くしげ別巻』にまで及んだ。京都の弟子も、毎日夜昼とある講釈には、欠席することもあったが、その中で一日も休まずにという人はまず稀であった。この大秀はその無欠席の人で、一生懸命勉学に励み、志の深い人だと宣長先生も誉められたと、その後、同行していた植松有信から聞いた。

 「そのかうせちは、日毎によるひると二度にて、京のみやびをたちをはじめて、のぼりあひたる国々の人々、又きゝ伝へてふりはへにはかにのぼり来たる教子、又雲の上人さへ、此やどりにあまた所ともなひ入おはしまして、きかせ給ひき。よみときたるは万葉集、源氏の物語、古語拾遺、延喜式の祝詞の巻、詠歌大概、玉匣別巻などなりけり。こゝに国々よりのぼりつとへるも、京の教子も、よる昼はおこたらずしもあらぬを、そが中には、一日もおちずなどいふべきさまなりしもありつとかや。この大秀は、つひに一度もかくる事なく、いそしみつとめたりけるを、心さし深き人かなと、翁もほめられたるよし、程へて後、物のついでに、植松有信がおのれにかたりける事もありけり・・」

 これは『竹取翁物語解』序に書かれた話である。


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京都の春庭

 寛政7年(1795)4月5日、春庭(33歳)は針医修行のために上京を予定していたが、病気のため出立は23日になった。青山峠を越え切畑村に立ち寄り療治の後、初瀬、奈良をへて5月1日京に入った。沢真風、平子新兵衛、金糸屋徳兵衛等の世話を受けて中立売油小路西入ル南側、鍵屋又兵衛宅に宿る。ここは皆川淇園の弘道館にも近く、富士谷成章の子・御杖は同じ上京区中立売西洞院西入るの柳川藩邸にいたとされる。

 7月末頃から病気となり、9月末には父の勧めで再び切畑村に療治に行く。10月末からやっと猪川元貞のところで針医を学び始める。やっとというのは、なかなか修行を始めないので宣長がやきもきしていたからだ。この頃、妹飛騨に宛てた春庭の自筆書簡が残っている。京都で世話になっている平子と金糸屋への礼を依頼したものであるが、行は左へ流れ、また定まらない。

 翌8年も京都で修行を続けるが、3月に妹・飛騨が草深家を離縁となったため、春庭は家督を飛騨に譲ることを6月22日付、弟・春村宛書簡で申し出るが、宣長は相続者を変える意思の無いことを伝え、8月4日、春村を上京させて説得する。

 翌9年、正月25日、飛騨が四日市の高尾家に再嫁した。2月11日、美濃が西国巡礼に出る。その時に京都の兄の所にも立ち寄る。3月29日には母・勝も上京し、また松坂の書肆柏屋兵助も上京するが、あるいは帰国を促すためであったのかもしれない。春庭はさらに1,2年の滞在を願うが、父は老境を訴え帰国を願う。閏7月21日、春村が迎えのため上京し、8月2日に京を出立、津の小西春村宅に2泊して、6日帰宅する。

 足立巻一さんは、帰国を渋る春庭の気持ちと、近くに御杖が住んでいたことの関係を想像する。

 「わたしには、いまは区役所に変わりはてた柳川藩邸の一室で、若いふたりの語学者が対座している幻影が浮かぶ。春庭は目を閉じて、御杖が説く成章の語学説に熱く耳を傾けているような気がする。それから、春庭が針医の稽古から帰ったあと、鍵屋の一室でつきそいの久助に『あゆひ抄』や『かざし抄』を読ませ、『装図』をまぶたに描いてしきりに考えこんでいる情景があらわれる。たしかに、春庭にはそのとき富士谷学派、特に成章の語学説を一心に吸収していたのにちがいない。父から早く帰国するようにすすめられながら、もう一、二年滞京を希望した裏には、そんな事情がかくれていたのかもしれない」(『やちまた』上204・足立巻一)

  京都滞在中の春庭に宛てた父・宣長書簡には、気の滅入りがちな息子のために、雅事の話題を伝えたり、また自分の入れ歯の狂歌を送ったりして、少しでも気の晴れるようにと願う親の気持ちが込められている。


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『享和元年上京日記』

 1冊。
 宣長生涯の掉尾を飾る一大行事となった京都行きの日記。

 享和元年(1801)3月28日松坂出立から帰宅する6月12日まで75日間の道中、講釈、来訪者等を記す。記載は簡にして要を得る。逆用して「持参書目」9種を記す。今時の上京は門人の要望と、京都での古学普及という宣長の宿願に由るが、来訪者や講釈の聴講者は、各地の門人や公卿、神官、僧、平曲僧、医者、画家など多彩。また宣長も、講釈に公卿の屋敷を訪い、知人宅を訪問し、祇園鉾の見物をするなどその行動は活発。

 旅行中の歌は、『【享和元年辛酉】上京詠草』、『【享和元年辛酉】在京詠草』や、同行の安田豊秋『京みやげ』に、「鴨川納涼」「嵯峨山松」の題で貴紳に募集した歌は『鴨嵯集』(『四条舎記』)に載る。
 日々の記録は石塚龍麿『鈴屋大人都日記』が最も詳しい。
 講釈の記録は田中大秀『源氏物語聞書』等が残る。自筆本は本居宣長記念館所蔵。翻刻は『本居宣長全集』16巻に載る。


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『馭戎慨言』(ぎょじゅうがいげん・からおさめのうれたみごと)

 2巻4冊。安永7年(1778)2月30日成立。寛政8年(1796)刊。序は鈴木朖。古代から豊臣秀吉の朝鮮出兵までの日本外交史を叙述する。基礎史料を明示し、文献批判する手法は堅実で、例えば邪馬台国論争などにも大きな影響を与えた。最初の書名は『待異論』。『馭戎慨言』は、尊内外卑という立場を明確にしようと主張し、書名も、つまり中国や朝鮮(戎)を日本が統御(馭)するべきだと慨嘆しながら論じるという態度で付けられる。

 日本外交史は、京都遊学時代、つまり漢学を学んでいた時期から、宣長には重大な関心を寄せたテーマであった。その頃のノートである『本居宣長随筆』巻2には、『王維詩集』から阿倍仲麻呂記事を引いたり、また『宋史』、『唐書』、『晋書』、『後漢書』などの記事を書写し余すところがない。

 本書は、「馭戎慨言は異称日本伝ノ抜書ノ様成ものニ而おもしろからす候」(寛政8年10月4日付荒木田久老差出栗田土満宛書簡)と言う評のある一方、医学の師・武川幸順は感銘して摂政・九条尚実に献上しようとした。その時の宣長の歌が「摂政殿に馭戎慨言を御覧せさす時そへて奉れる」という詞書で『鈴屋集』に載る。また、漢学者・市川匡麻呂も「我常に此事を思ふ、此事を、今の江戸の御老中、又其外の諸役人にもエトクせしめたき事、江戸衆常に朝鮮を恐れ入り、から国をうやまふ心あり、あさましき哉」と言ったという。その背景には、当時の知識人のジレンマ、まじめに儒学を勉強すると、文化面で大陸から完全に侵略された日本という思いがあった。
 もちろん今では、大陸侵略論があるとか、題名が悪いとか、評判は大変悪い。
 因みに、摂政へ献上したときの歌は、石刷で「四大人墨跡」の一つとして普及した。


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清原(きよはら)

 宣長が一時使用した姓。
 初見は、寛延元年(1748・19歳)に始まる自詠を集めた『栄貞詠草』(巻頭「寛延元年戊辰、詠和歌、清原栄貞」)だが、本書の編集はもう少し遅れる。
 この書以外では、宝暦3年(1753)『鈴屋百首歌 一』が最初。下限は宝暦13年(1763)12月12日書写『実隆公百首、道堅尭空名所百首、後柏原院実隆公御百首、実隆公四文字題百首』の奥書「清舜庵」。

 清原姓の根拠は宣長の家系にはその根拠が見出せない。あるいは、歴史上屈指の碩学・清原宣賢(1475~1550)への憧れからであろうか。18歳頃から作成した『端原氏物語系図』の主人公・端原宣政、宣繁親子の命名とも関係があるのかもしれない。「宣長」という名前を含めて考える必要がありそうだ。また、『百人一首改観抄』奥書「宝暦十年庚辰十月九日夜開席予講談此抄同年十二月十二日夜終業(清)蕣庵宣長、右頭書傍之内称師云ハ先師賀茂県主ノ作此百首古説之義也」の「清」の文字は貼り紙により抹消する。つまり「清原」姓は宣長の中から消されていく運命にあった。



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切畑村の眼科医

 切畑村(奈良県山辺郡山添村切幡)の眼科医については分からない。足立巻一氏の調査によれば、慶応元年(1865)85歳で没した和田茂柳という医師があり、その父に当たる人ではないかという(『やちまた』下巻)。
                                          (C)本居宣長記念館

記録の人

 宣長は「記録の人」である。その記録には2種類ある。自分に関するものと日常の記録だ。

 宣長は、自分に関する記録をたくさん残している。13歳の時から『日記』を書き始めたが、その第1ページは生まれた日の記事。亡くなる1年前には『遺言書』で、葬儀の次第を細かく指示した。だから命日を宣長の指示どおりに定めて書き加えれば、生まれた日のことや、誰から勉強を教わったのか、いつどのような本を書いたのかなどを、彼自身の筆でたどることができる。また、宣長には四十四歳と六十一歳の時に描いた自画像もある。
 なぜ自分の記録を残すのか、自画像を描くのか。宣長のこれらの行為の内には「自分」に対する関心が一貫してあった。自分の探求である。

 日常の記録も多い。ただ、なんでも書くというのではなく、必要なことをきちんと日記や諸記録に書き留めるというタイプの、効率の良いやり方だったようである。この几帳面さは、商人として成功した先祖譲りだったのかも知れない。
 宣長の行動の基本は、日々の生活の重視。門人村上円方に贈った歌に、

  「家のなり(業)なおこたりそねみやびをの書はよむとも歌はよむ共」

という一首がある(宣長70歳)。

 医療も近所、親戚付き合いはいわば俗事だ。その俗事をいかにそつなくこなすか。まめやかに努めるかに宣長は腐心した。これらたくさんの記録類は、松坂の一町人としての生活のマニュアルであったとも言える。


                                          (C)本居宣長記念館

議論は益有ること

 明和9年(1772)正月22日付谷川士清宛書簡で宣長は「陰陽乾坤」について立場が異なる士清には何を言っても仕方がないとあきらめながらも

  「たがひに論じて此理りをきはめまほしき事也、すべてあらそひ也とて物を論ぜぬは、道を思ふ事のおろそかなる
   故也、たとひあらそひても、道を明らかにせんこそは、学者のほいにて候はめ、又よしあしをたがひに論ずるに
   つけて、我も人もよきことをふと思ひうる物にし候へば、議論は益おほく候事也」
 
 という。「議論は益あること」これが宣長の基本思想だった。

 また、

  「論ずるにつけて、我も人もよきことをふと思ひうる物にし候へば」
 
 と同じことを別の所で言っている。
 
  「ケ様之事ハとかく数へん往復仕り候へば、段々よき考へ出申し候物ニ御座候ヘハ」

 これは経雅に対して言った質疑応答の勧めだ。


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金印

 金印公園内の金印レプリカ解説文

 「中国の古い書物である「後漢書」に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴国の使者に印綬を授けたことが書いてあります。
 この印が天明4年(西暦1784年)偶然この地から出土した金印(昭和29年3月20日国宝指定)であります。印面には「漢委奴国王」と凹刻されており「委」は日本人に対する古い呼び名であります。
 一辺2.3cmの正方形、厚さ0.8cm、重さ108gの純金に近いものです。
 金印がどのようなわけで、ここに埋もれたかについては、いまだ学会の謎とされています。実物は福岡市立博物館に保存されています。」
                             「志賀島風景」
                         「漢委奴国王金印発見之処碑」
                                          (C)本居宣長記念館

金印情報

 金印発見で、論文を書いたのは宣長だけではない。京都の藤貞幹、上田秋成もいち早く「漢委奴国王印綬考」を執筆した。貞幹と秋成には直接のつきあいはなかったと思われる。が、両人の説には、紐(ツマミ)の形や、現在「わのな」と読んでいる「委奴」をイトと読み、伊都国に比定するなど共通点があり、何らかの関係があったのだろう。

  一方、宣長のところには、小篠敏を通して細井金吾より尋ねてきた。時期は「金印考」という金吾の文中に、金印発見の天明4年を「去々年」と記しているので天明6年頃であろうか。細井金吾は、後に門人となる(寛政5年入門)。

  宣長の「漢委奴国王金印考」は、自筆のものが『水茎の考等草稿』(本居宣長記念館所蔵)に載る。また写本として、『漢委奴国王金印考【合本 細井金吾、本居宣長】写』(内題「福岡侯儒細井金吾・漢委奴国王金印考、松坂、本居氏考」)がある。神宮文庫所蔵。奥書「右使向井末輝令書写之以為家蔵 荒木田経雅(印)于時寛政四年三月」。



                                          (C)本居宣長記念館

近鉄駅前の宣長歌碑

                      駅ロータリ中央、松の木の下に歌碑はある。
 松阪駅東口(近鉄側)の緑地帯に建つ。東出口整備完工記念の際、松坂伊勢信用金庫の阪倉松二郎氏の尽力により建碑された。昭和48年10月1日除幕。碑は櫛田川の上流の石を使用し縦1,15m、横1,35m。歌は「宵の杜画賛」(魚町・個人蔵)に書かれた宣長自筆の宵の杜(四五百森)の歌を採用し、書家・久松貫道氏が字を配した。

  歌は
    「よひのもり小高き陰に里人の家居もしげく今ぞ栄ゆく」

 『石上稿』によれば寛政9年(1797)69歳の時の歌。この時詠んだもう一首が松阪神社にある。
                                          (C)本居宣長記念館

9月

 長月は、「九月(ナガツキ)は稲刈月(イナカリヅキ)」と『古事記伝』巻30にも書かれるように、収穫の季節です。また、秋冷を覚える季節でもあります。宣長さんの庭の桜も紅葉し、散り始めました。

 「なが月の十日ごろ、せんざいの桜の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろとおつるを見て、よめる
   花ちりし 同じ梢を もみぢにも 又ものおもふ 庭ざくらかな
これをもひろひいれて、やがて巻の名としつ」『玉勝間』巻2。

 「せんざい(前栽)」は、庭の植え込みのこと。花が散るのをながめたのもつい昨日のことのよう。きょうはまた色づいた葉がほろほろと落ちるのを見ながら、宣長は『玉勝間』巻2の巻名を「桜の落葉」と決めたのです。64歳の時です。
 
 奈良県吉野山といえば桜ですが、紅葉する秋の美しさは格別だそうです。一度お出かけになってはいかがでしょう。
 宣長さんの9月は、なんと言っても十三夜のお月見です。毎年、会場を変えたりしながら開かれました。
 なかでも、寛政10年(1798)9月13日の月見会は、『古事記伝』完成祝賀会を兼ねたものでした。そしてその3年後の享和元年(1801)9月29日、宣長は静かに72年の生涯を閉じました。
                                          (C)本居宣長記念館

九月十三夜

 国学者は、九月十三夜の月見を日本独自の風習と考え、好んで月見をしました。門人・長瀬真幸も宣長さんに「八月十五の夜、月を賞するも、漢にならへるなるべし、皇国には何の比より始れる歟。歌は続古今に初めて見える見えたり、此比より始れる歟」、また「(九月)十三夜の月を賞するは源氏にも見ゆ、歌は金葉集に始て載たり、源氏の比、既賞することありし歟」と質問をしています。宣長さんは九月十三夜の起源は「宇多延喜ノコロハジメ也」と書いています。
 国学者の九月十三夜の中でも有名なのが「県居(アガタイ)の九月十三夜」です。宣長さんから離れて真淵さんの所を覗いてみることにしましょう。
 佐佐木信綱に「県居の九月十三夜」と言う文章があります。「松坂の一夜」後日談と言った内容で、真淵の住まい「県居」や、主人の様子を窺うことの出来る面白い一文です。 また、この時の歌が次の連作です。真淵一代の絶唱として知られています。

   九月十三夜県居にて
  秋の夜のほがらほがらと天の原てる月影にかりなきわたる
  こほろぎの鳴やあがたのわが宿に月かげ清しとふ人もがも
  あがたゐのちふ(茅の生い茂ったところ)露原かき分て月見に来つる都人かも
  こほろぎのまちよろこべる長月のきよき月夜はふけずもあらなん
  にほどりの葛飾早稲の新しぼりくみつつをれば月かたぶきぬ『賀茂翁家集』巻1
 【注】  宇多、延喜の頃は、『古今集』、『延喜式』の編纂が開始された頃です。
                                          (C)本居宣長記念館

櫛を集める宣長

 先年、松阪市郊外にある櫛田神社で、9月4日「櫛の日」を前に、美容師さんによる祭礼が執り行われた。

 宣長が櫛を集めていたという話がある。

 「本居宣長は鈴屋と号し、古鈴、駅鈴の珍しいものをいろいろ集めていた。読書に倦み、書きものに疲れると鈴を振り鳴らして耳を傾け、気分をあらたにしてふたたび机にむかう。
 宣長には別にもうひとつ、集めているものがあった。黄楊の櫛である。旅先で買ったのもあれば、門人がみやげに持ってきてくれたのもあった。宣長は自画像をいくつも描き残している。日本の学者にはめづらしい。どれを見ても、椿油につやつやと照った髪に、櫛目のすじがくっきりと立っている。」 「黄楊」杉本秀太郎(『花の図譜 春』平凡社※後に『花ごよみ』講談社学術文庫収載)

 何から採った話かわからないが、原拠もきっと噂話を載せたのだろう。でも、いかにもありそうな話だ。

 なるほど、例えば七十二歳像、白髪も混じる髪は櫛目も鮮やかに整えられている。鏡を机の側に置いていた宣長さんのこと、櫛もあった筈だ。 「宣長はオシャレだった」という指摘があるが、これは宣長さんを考える上で、重要な視点である。
 男のくせにオシャレとはいやな奴と反発する人もいるが、そのような皮相な問題ではない。宣長は「見られる自分」ということを意識し、そのことが学問や生活、対人関係にまで及んでいるのである。「個」としての自分と言ってもよい。

                        「本居宣長七十二歳像」頭部           

                                          (C)本居宣長記念館

『口遊』(くちずさみ)

 平安中期の貴族子弟のための教科書。源為憲著。天禄元年(970)序。
 藤原為光の子松雄君のための基礎教養書として乾象、時節、官職、人倫、禽獣など19部門に分け暗唱できるようにまとめる。

 なんて言うと難しいが、
 例えば九九八十一、八九七十二・・なんて言う九九とか、子丑寅卯・・という今でも役に立つものが多い。中には、夜道を歩いていて死体に出会ったら唱える歌とかいう変なものもある。ベストスリーでは「雲太」の外にも大きな橋の「山太、近二、宇三」(山は山城の山崎橋、近は近江の勢多橋、宇は宇治橋)や大きな大仏がある。

 今は『続群書類従』雑部で見ることが出来る。奥書と刊記には、「寛政十一年己未仲冬以大須文庫古謄本模写令平安書賈某上木伝不朽云、大館高門。文化四年丁卯仲夏発兌、皇都書肆、林伊兵衛、風月荘左衛門」とある。

                          『口遊』袋と九九の段           
                            『口遊』雲太           

                                          (C)本居宣長記念館

国造 (くにのみやつこ)と駅鈴

 江戸時代の随筆書『北窓瑣談』(ホクソウサダン)に、隠岐国造は鈴を持ち歩き、その音は清亮、殊更に音高くしてよく聞ゆと書いてある。この本の著者は今の三重県久居市出身の橘南谿(タチバナ・ナンケイ)。南谿が実見したのか伝聞か不明だが、持ち歩いたとすると40代国造幸生であろう。

  隠岐の駅鈴には2種ある。
 (1) 周囲6寸7分。高さ約2寸3分。重量186匁。八稜鈴。乳状突起3個。直径5寸の鈴舌が垂れ下がる。
 (2) 周囲6寸9分。高さ約2寸3分。重量205匁。八稜鈴。乳状突起4個。直径5寸の鈴舌が垂れ下がる。

                      国造檍岐家が神主を勤める玉若酢神社
                            国造檍岐家玄関           
                   駅鈴を京都に持参するように伝えた鈴鹿筑後守等の書状           
                 ここにも「鈴の舎」がある。玉若酢神社前の建物に掛かる扁額           
                                          (C)本居宣長記念館

九戸(くのへ)

 松坂から1,000km以上も離れた地である。

 天正19年(1591)、陸奥国の大名、南部信直の一族・九戸政実(クノヘ・マサザネ)が乱を起こした。直接は南部家との戦いだが、南部家のバックには秀吉がいた。その命を受けて出陣した蒲生氏郷の軍勢の中に宣長の先祖・本居武秀がいた。合戦の舞台となったのは、岩手県二戸市にある九戸城。この近くで哀れ武秀は討ち死にしたという。
 
 これは、宣長の家の歴史を究明する上で重要なポイントである。宣長は奥州からの来客がある度に、合戦の記録が残らないかと尋ね、探索に腐心した。
 なぜそこまで調べねばならないのか。この人が実在すれば、中世の伊勢国司・北畠氏の家臣である本居家と、宣長の家系が連続することになるためである。
 晩年、宣長の下を訪れた南部藩医・安田道卓も調査を依頼され、配下の者を使って九戸あたりを調べさせ宣長にその報告をしている。
 結局、必死の調査にも関わらず、地元では本居武秀に関わる直接資料は見いだせず、家に伝わる伝承と、実際の合戦の様子の一致など、状況証拠の確認に止まった。

 さて、今から10年前、1991年秋、宣長資料を現地で公開することになり、九戸あたりを調査した。その時のことである。地元の歴史に詳しい人に会い、話を聞いたら、武秀の討ち死にした場所こそ分からぬが、その甲冑や財宝を埋めたのは、あの山に高圧線が見えるだろう、あそこの下だ、本居塚と言うと教えられた。
 これは、宣長時代にはなかった伝説が後に出来たものと思いながら聞いた。
                                          (C)本居宣長記念館

窪俊満(くぼ・しゅんまん)の訪問

 宣長の「負けじ魂」に驚いた人がいる。
 窪俊満、別名・南陀伽紫蘭(ナンダカシラン)は、江戸に住む浮世絵師で狂歌師。絵を楫取魚彦、北尾重政に学び、穏やかで清楚な美人画で知られる。寛政8年(1796)11月13日に鈴屋訪問。その時の短冊が残る。

 「角もじの いせとしいへば かみ国の
             ひとの心は まけず玉しひ  俊満」

【大意】
牛の角に似る文字「い」、いのつく国「伊勢の国」と言えば昔から「神風の伊勢の国」と言われて他の国に比べても一段上にあると思っていたが、なるほど住んでいる人(宣長)も言うことが気宇壮大じゃなあ。 きっと、日本は万国の冠たる国だ、という発言に江戸のバランス感覚のあると自負する俊満は驚いたのだろう。
                           「窪俊満短冊」
                                          (C)本居宣長記念館

栗田土満(くりた・ひじまろ)の訪問

 行きも帰りも宣長さんの所で勉強する人もいる。

 安永4年(1775・宣長46歳)3月28日、遠江(静岡県)の栗田土満が、内山真龍(ウチヤマ・マタツ)等と鈴屋を再訪した。翌29日も午後、土満はやってきた。宣長に聞きたい事があるし、一緒に来た人に病気の者もいるので伊勢行きを見合わせて松坂に滞在したという。

   土満の紀行『やまとめくり』に

  「とかくいふうちに松坂に至りけん、今日雨もふりぬ、かつこゝにとふへき人しあれは、(虫損)にとゝまる、十九(二十九か)日、けふ雨ふらす、午時はかりより晴たり、度会方へ行まく思へと、猶宣長のもとにとめまく思ふ事多かれは、こゝにとゝまる、友のいさゝかなやめる所有ば、かたがた行かず」

 とある。

 ここまで来たのだから、ちょっと宣長の顔でも拝んでいくか、というのではない、熱心な例だ。

 この時のものかどうかは分からないが、土満は『古事記下巻聞書』1冊を残している。武田祐吉氏『古事記研究 帝紀攷』挿絵に、仁徳天皇の御記の初、葛城部・壬生部を定め給う条に関する部分で、真淵と宣長の、訓読の相違などが記されている箇所の写真が載る。解説によれば、宣長の講義を、土麿(満)が聞いて記し留めて置いたものだそうだ。現在所在不明。

 【参考文献】
 「岡の屋年譜考(一)」高倉一紀『皇學館大學神道研究所紀要』第9輯。


                                          (C)本居宣長記念館

栗田土満(くりた・ひじまろ)

 元文2年(1737)~文化8年(1811)7月8日。享年75歳。
 遠江国城飼郡平尾八幡神主。真淵門人。号、岡の屋。

 天明5年(1785)宣長に入門。『古事記伝』を書写し、また出版に際しては巻21の板下も書く。また、この時の質問ではないが、宣長への質問が『答問録』に載る。
 著書に『神代紀葦牙』等。関係資料に『栗田土満雑集』(天理図書館所蔵)がある。
 記念館所蔵の懐紙の歌は、

「洲のつる(鶴)といふことを、
おもふことなぎさにちよをよはふらむうらすのつるのうらやすのくに、
                              土まろ」

 歌意は、何も悩みが無いように(無きと渚を掛ける)、渚で鶴が楽しそうに遊んでいる。誠に浦洲と言う言葉ではないが、浦安の国日本は穏やかな国であることよ。


                                          (C)本居宣長記念館

黒崎の饅頭

 長谷寺を出た宣長一行は黒崎で茶店に寄る。
 ここは「親の乳よりまだ甘いものは松屋の饅頭か城の口」と言われた黒崎名物、松屋の夫婦饅頭や常安屋の饅頭があった。

 だが、宣長さんにはまんじゅうより先ずこの土地への関心があった。この近辺には雄略天皇の長谷朝倉の宮、武烈天皇の列木の宮があったはずだ。そこで、わざわざ、年寄りのいる店を探して入り、まんじゅうを食べながら、古い都はどこにあったのか、高円山はどこだなど、色々質問を試みる。ここでも成果は乏しかった。

 現在、黒崎には饅頭屋はないが、並び称せられた大和郡山の城之口餅は今も健在である。
                                          (C)本居宣長記念館

経済生活

 『玉勝間』の中に「金銀ほしからぬ かほする事」という段がある。
 こんなことが書かれている。

 学者の中に、金など要らぬと恰好をつける人がいるが、学問をするにも金は必要だ。今の世の中金があれば何でも手に入るし、よい本も金で買える。とはいうものの、金々と浅ましいのに比べたら、金など要らぬと言う顔をしている方が遙かにましだ。

 正論である。学者はかくあるべきだという既成概念は無視する。貨幣の持つ意味を認識する。社会生活のモラルを重視する。つまり、自分の頭で考えて行動する、実に宣長らしい発言だ。

 宣長は商人の子だ。金の持つ力、また怖さもよく知っていた。そしてその活用の方法も熟知していた。出版という金のかかる作業を継続し、また春庭の失明と治療という、ともすれば破綻しがちなほどの家政を、家計簿なども自分でつけることで徹底管理して本居家の経済生活を見事に維持していった。

「ただ本居家においては、収入が多ければそれだけ支出も嵩み、蓄積がほとんどできぬまま、生活に追われた家業経営がいつまでも継続する。それは、学者にありがちの、脱社会的な小安居の世界ではない。貧窮を時には吐露しながら、生活規模を縮小せず、収支の額面が常に大きく持続しているのは、本居宣長の生活力の大きさを示しているように思われる」
          「本居宣長の簿記と家業経営」北原進(宣長全集・19解題)


                                          (C)本居宣長記念館

契沖(けいちゅう)

 独学する宣長の指針は契沖であった。

 寛永17年(1640)~元禄14年(1701)2月25日。摂津(大阪府)の人。俗姓下川氏。若い時に真言宗の僧として高野山で修業し、阿闍梨号を得た。一度は大坂生玉の曼陀羅院住職となる。その間に、下河辺長流(シモコウベ・チョウリュウ)と出会い、学問的な示唆を受ける。二人の友情については小林秀雄『本居宣長』第7章に詳しい。「人となり清介、貧に安んじ、素に甘んじ」(「録契沖師遺事」義剛)た契沖は院を出て遍歴をし、室生寺では命を捨てようとしたこともある。その後、和泉国(大阪府)池田万町・伏屋重賢宅に仮寓し、古典を渉猟する。仏教書や和漢の古書に精通した学識で古典を研究し、『勢語臆断』(『伊勢物語』注釈書)、『古今余材抄』(『古今集』注釈書)などの注釈や、仮名遣い研究で優れた業績を残した。中でも、水戸徳川光圀の命で執筆した『万葉代匠記』(『万葉集』注釈書)は、実証的で緻密、しかも創見が多く、後世に大きな影響を与えた。「国学」は本書の成立を以て始まったと言ってよいだろう。

 京都遊学してまもなく、『百人一首改観抄』を読み契沖の学問の虜となった宣長は、この『代匠記』も読みたいと願ったが、入手や借覧は困難で、結局、京都遊学中に見えたのは巻頭部分(『枕詞抄』)だけであった。
 その後も契沖の著作を渉猟は続く。『百人一首改観抄』への宣長の書き入れの中に「契沖ノ説ハ證拠ナキ事イハズ」とある。また『排蘆小舟』で、「近代難波の契沖師此道の学問に通じ、すべて古書を引証し、中古以来の妄説をやぶり、数百年来の非を正し、万葉よりはじめ多くの註解をなして、衆人の惑いをとけり。その著述多けれども、梓行せざれば、知る人まれなり。おしいかな」と契沖を絶賛している。宣長の敬服ぶりがよく窺える。

 宣長にとって研究とは日々更新されていくものである。契沖の学問も例外ではない。実際に、その後師事した真淵は契沖より更に進んでいる。真淵に較べれば契沖は駄馬みたいだと『玉勝間』巻11「後の世ははづかしきものなる事」でいう。しかし、その真淵も後世の目で見ればいまだしという所があると考えていたことは「後釈」と命名された宣長諸著作で明かである。これは事実の究明の問題であり、師への尊敬の念とは全く別である。宣長の場合両者は整然と区別されていた。

 契沖への思いは晩年まで変わらず続いている。契沖の住まいを円珠庵という。64歳の時、大坂を訪れた宣長は円珠庵を訪ねたく思うが、日は暮れて、宿も遠かったので諦めた。そのことはやはり『玉勝間』巻7、契沖の墓誌を載せた所に記される。宣長が念願を達成し、庵を訪れたのはそれから8年後、宣長が没する年の春であった。今なら、近鉄上本町駅から徒歩10分で行ける。
                           「円珠庵門」

                                          (C)本居宣長記念館

契沖との出会い

 宝暦2年(1752)3月、上京した宣長は『百人一首改観抄』を借りて読み、初めて契沖という人の学問に接する。貸したのは刊行に携わった景山だろうか。当時のことを次のように回想している。

「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ」
        (『玉勝間』巻2「おのが物まなびの有しやう」)

 本書との出会いは、生涯を決定づける。その後、宣長は苦労して本書を入手する。購求したのは4年後の宝暦6年12月。代価は9匁5分。5巻を2冊にしたとはいうものの、2冊会わせて148丁の本である。その割には値段が高い。その直前7月に買った『旧事記』、『古事記』は8冊で10匁2分。10月に買った『万葉集』は20冊で35匁。何れも嵩物である。同じ契沖でも、宝暦9年閏7月に買った『和字正濫抄』は5冊で200丁余りありながら7匁8分である。「からくして得た」と書いているが実感が籠もっている。


                                          (C)本居宣長記念館

結婚

★ 最初の結婚

  帰郷後、2年余りが経過した31歳の正月26日、結婚の話がまとまった。相手は同じ魚町の村田ふみさん。家は木地屋と言い、大年寄も勤めた。『松坂権輿雑集』にも出る町内では名家だ。『日録』には、「廿六日、旧冬清兵衛殿以世話、聘村田彦太郎女、今日可許嫁由有返事、今夕土左日記開講」とある。

  2月3日、村田七左衛門を媒酌人として、村田家に挨拶に行く。
  4月8日、晴天、結納である。
  4月15日、宣長は村田家を訪い両親に挨拶する。ふみの父親彦太郎の体調が思わしくなく、急遽この日となった。
  4月20日、村田ふみの家では甥の喜兵衛を麻の養子としてこの日婚礼。
  5月3日、村田彦太郎没す。
  9月7日、許嫁ふみ、みかと改名。『日録』に、「七日、村田氏女改名美加、旧名不弥也」とある。
  9月11日夕方、荷物納め。夜、婚礼に先立ち宰領人手代佐助等十名を振舞う。『日録』には、「十一日、夕雨天、自村田氏贈美可荷物来、使者手代佐助、下人九人也、長持二棹、箪笥二棹、葛篭一荷」とある。
  9月12日、婚礼に先立ち、祝儀を両年寄、五人組、近所に配る。
  9月14日晴天、みか(美可)と結婚する。『日録』に「十四日、乙卯、晴天、卯時美可入家、木濃喜作同伴、此方母人、源四郎殿、予、並媒七左衛門、以上六人同座婚礼矣、(以下略)」とある。早朝卯の刻に入家したのは、この日が精進日であるのをはばかったためである。『宝暦庚辰九月 婚姻書紀』には、盃事など婚礼の詳細を記す。
  以後、接待や、「初歩き」というお披露目などが続くが、12月、突然『日録』に「十八日、美可帰里、離縁」と書かれる。そして、「廿四日、夜返美可荷物」。僅か3ヶ月での破局である 。
  離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。
  真相は誰も知らない。

    12月12日嶺松院会の兼題
    「寄魚恋」
   小車のわたちの水の魚ならてかるゝをなけくわか契かな

    「別恋」
   かきくれて契る詞もなみたのみたもとにあまる衣ぎぬの空
   わかれても猶わか玉やとまるらん今一言としたふ袂に

    「旅宿逢恋」
   かはしても別つゆけきくさまくら又のたのみも涙おちつゝ

 題詠とは言え、この中には、去って行く美可への宣長の深い悲しみを見ることが出来る。

>>「毎月の宣長さん」10月「牡丹の歌」
 
☆ たみとの結婚

  離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。

  11月3日、草深よりの返事が本町小津家にあり、翌4日、宣長の母に伝えられた。『日録』に「十一月四日、自去七月、津岡藤左衛門以媒聘草深玄弘女、昨三日、藤左衛門迄本町入来、有返事、今日藤左衛門入来、母人対面、弥々許嫁スヘキノ旨也、草深氏者藤堂和泉守医臣也」とある。
  12月16日、津から届いた草深たみの送手形、寺請状を、松坂町年寄荒木九兵衛に提出する。住民登録をするようなものだ。 年が改まって宝暦12年(1762)宣長33歳、1月6日、津の岡儀右衛門入来し、婚儀打ち合わせ。
  1月12日、雪から後に雨となる。午刻前、草深氏より箪笥や長持等の荷物納め。
  1月14日にも再び荷物納め。
  1月16日、婚礼の祝儀として、本町、魚町の年寄役に酒を届ける。
  1月17日、草深たみと婚礼。草深氏よりの請いにより、たみの名を勝と改める。『日記』「婚礼也、午剋、新婦到著本町源四郎殿宅(中略)新婦更名勝、是母人之名所譲給也、先日儀右衛門入来之節、自草深氏因被請所更也」。『本居氏系図』「宝暦十二年壬午正月十七日来嫁本家、改名勝【此名慧勝大姉之諱譲賜】」(宣長全集20-124)。
  1月18日、草深氏より蒸し物到着。
  1月19日、「三日之祝」で親戚の小津源四郎、栄昌等を招く。
  1月20日、津の草深四郎兵衛、岩瀬主馬の使い、それぞれ饅頭、鯛などを届ける。また、村田七左衛門を、村田与三兵衛、村田清兵衛、中条源四郎家の名代として草深に祝いに遣わす。この日、16日より里帰りしていた妹俊が、大口に帰る。
  1月21日、新婦の土産を利秀、栄昌、於重の三人の叔母に届ける。
  1月24日夕方、母と勝が初歩き。『日記』「今夕、勝初行(ハツアルキ)、母人同伴」お披露目、顔見せだ。
  このようにして一連の行事が済み、4月17日、母は善光寺参詣、親類縁者等11人と発足し、信濃国(長野県)善光寺にて剃髪する。
                                          (C)本居宣長記念館

月食と『天文図説』

 天明2年(1782・53歳)8月15日の夜、ちょっと珍しいことが起こりました。月食です。宣長の日記には「十五夜、月食四分」と言う記事があります。
 その3日後、宣長は『天文図説』を執筆します。この本は長男の春庭が浄書しています。内容は、西洋の天文学などを援用し、日月の運行を図解した本です。「朔月之図」、「上弦月之図」など8種10図をコンパスを使い描き解説を加えています。巻末には「天学大意」と題して天行、日行、月行、五星について概説します。
 橋本雅之氏は、十五夜の月食と本書の執筆は関係があるのかもしれないと推測しておられます(『本居宣長事典』・『天文図説』項)。

                                          (C)本居宣長記念館

鉗狂人(けんきょうじん)

 天明5年(1785)12月成稿。文政4年(1821)刊。書肆は柏屋兵助等。藤貞幹の『衝口発』を逐条論駁した本。巻末に神代の不可思議を言う比喩話「水草(ミクサ)の上の物語」を附載する。

  本書成立のきっかけは、貞幹の本を読んだ渡辺重名の論駁要請にあった。 『衝口発』は、須佐之男命が新羅の主であるという説を立て神武紀元を600年下げよと主張する。また神武天皇は呉国の始祖・泰伯の苗裔であるとする。これらの論には偽書を証拠として採用する。つまり、貞幹は事実ねつ造で歴史の世界を遊び、人を惑わすことを目的としている。宣長はその点を批判する。
  この論がもとになり、やがて上田秋成との論争(『呵刈葭』下巻)となっていく。

                           『衝口発』表紙
                           『衝口発』内部
                                          (C)本居宣長記念館

『源氏物語玉の小櫛』

 本居宣長著。9巻9冊。宣長が『源氏物語』を最初に読んだのは、今井田時代、つまり19歳から21歳だとされている。29歳に始まった松坂での講釈も約40年に及ぶ。その宣長の源氏研究の集大成である。既に宝暦13年(1763)、『紫文要領』で源氏論を展開した宣長は、それに補筆し本書を執筆しようと企図したが、『古事記伝』などで多忙のために断念していた。それが、浜田藩主松平康定の懇望により再開、完成した(藤井高尚の序文)。寛政8年(1796)成稿し、同11年刊行。巻1、2は総論(『紫文要領』に加筆)。3は年立て論。4は本文考勘。5から主要語彙の注釈。

 宣長は、「物語」の正しい理解が、『源氏物語』の正しい理解につながると考え、「蛍巻」に書かれた光源氏と玉鬘二人の「物語」論を精密に分析する。そして「此段のこゝろ明らかならざれば、源氏物語一部のむね、あきらかならず」という。では、この『源氏物語』の根底にあるのは何か。宣長は「物のあはれ」だという。「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書きあつめて、よむ人を感ぜしめむと作れる物」であり、そこに儒仏の倫理観を持ち込んでも意味がないことを主張する。
  注釈の態度は、一語一句についてその語感や文脈を精確に読解しようとする。

  本書により、『源氏物語』が、それまでの好色の戒め説や、仏典との関わりから解き放たれ、物語として読むことが出来るようになった意義は大きい。これ以後の源氏研究を「新注」と言い、それ以前と分ける。

 【翻刻】 『本居宣長全集』4巻。



                                          (C)本居宣長記念館

『源氏物語聞書』(げんじものがたりききがき)

 7冊 田中大秀筆録 享和元年4月5日から5月29日の京都における宣長の講筵聞書。講書は『源氏物語』「桐壺」から「若紫」、『玉くしげ別巻』、『古語拾遺』、『詠歌大概』、『万葉集』巻1から巻3、『大祓詞』、『出雲国造神賀詞』。大秀入京以前分は服部敏夏の聞書で補う。また、記録のない日もある。
 『鈴屋大人都日記』が整理された行動の記録であるのに対し、大秀のは贈答歌や本の価格など備忘も書き込まれ雑然としている。例えば京都であった帆足長秋の名刺のようなものも入っている。時に図を交え、例えば『万葉集』巻2で「衣通姫ソトホシノイラツメ、俗ニソトホリト云ハ誤リナリ、身ウルハシフ光衣ノ上ヘトホル」などと宣長の口吻をよく伝える。第7冊末に享和2年大平への質問が若干であるが載る。

【自筆本】
香木園文庫(高山市郷土館)。


                                          (C)本居宣長記念館

『源氏物語年紀考』

 本書は、光源氏と薫の年齢を整理したもので、それまでの旧説の全面改定となった。その後さらに改訂され『源氏物語玉の小櫛』「改め正したる年立の図」として載せる。物語展開上で「字体・形式等推して、『紫文要領』と同時の成立と思われる。(中略)自筆本の本文の仮名遣は定家仮名遣であるが、後に契沖仮名遣に訂してある(ただし訂正洩れも少なくない。以下略)」(宣長全集・4-解題28)。内題「源氏物語年紀考、清蕣庵宣長撰」。現在明らかな「清原」姓使用の下限は宝暦13年12月12日書写の『実隆公百首、道堅尭空名所百首、後柏原院実隆公御百首、実隆公四文字題百首』で、成立年推測の一傍証となるか。


                                          (C)本居宣長記念館

『源氏物語』

 宣長は『源氏物語』を評して、 「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」(『源氏物語玉の小櫛』) この物語以上の本はどこにもないし、これからも出てはこない、と言う。

  宣長がこの「物語」を初めて読んだのは、『源氏物語覚書』を書いた20歳から21歳頃であろうか。そこに至る過程として、10代半ばからの「京都」への関心。また「和歌」への関心がある。江戸時代までは、『源氏物語』は何よりも「和歌」の基本書であり、その「和歌の伝統」また、『源氏物語』の舞台となった宮廷文化がそのまま残るのが「京都」の町であった。

  また和歌を生み出す基となった「もののあわれ」によって、『源氏物語』の世界も成立すること、もののあわれを知る人こそが、「よき人」であると宣長は説く。

 「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」(『紫文要領』)
 「孔子もし是を見給はば、三百篇ノ詩をさしをきて、必此物語を、六経につらね給ふべし。孔子の心をしれらん儒者は、必まろが言を過称とはえいはじ」(同書)
 「よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(『源氏物語玉の小櫛』)
 「その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり、されば此物語、物の哀をしるより外なし」(同書)


                                          (C)本居宣長記念館

源四郎店(げんしろうだな)

 延享2年(1745)4月26日、江戸に着いた宣長(16歳)は、大伝馬町1丁目の叔父小津源四郎躬充の店に寄留した。旅の目的は分からないが、年齢と取り巻く環境から考えて商売の見習いと考えて良さそうだ。

 関心がなかった事は素っ気ない記録からよく分かる。
 『日記』「同四月十七日、趣干東武江城、【同廿六日著江戸】居伯父源四郎店【大伝馬一町目】。同三年三月廿六日、起武江、四月九日帰著本国」(宣長全集・16-6) 『本居氏系図・本家譜』「同二年乙丑四月下江戸、留大伝馬町孫右衛門家店、同三年丙寅三月自江戸帰」(宣長全集・20-85)
 滞在は、翌3年3月26日まで約1年弱でうち切られ帰郷する。記録では僅か2行だ。
 この空白の一年の中で、今残された彼の文字は僅かに11文字だけ。 「延享二歳乙丑五月吉祥旦」。
 本の表紙に書かれるが中身は全く別時期の物(『(今井田)日記』)に再利用される。日記か備忘でもと表紙を書いたが、果たさずに終わったのだろう。

 三村竹清翁が「伊勢店」(『三村竹清集』7-301)で引く某家の文化13年の店定目に
「一、見勢ニ而本ヲ見ル事無用之事」
とある。この定目を月の28日に、使用人達は読んで聞かされた。
 宣長はただの使用人ではない、といっても通用しない。
 読書の楽しみを知る宣長が、そんな環境に馴染めるはずはなかった。


                                          (C)本居宣長記念館

健蔵(けんぞう)

 宣長の通称。
 宝暦3年(1753・24歳)秋頃より弥四郎に替えて使用。同5年3月3日の「宣長」「春庵」改名まで使用か。正式改名は宝暦3年9月9日で『在京日記』「仮名改曰健蔵矣」とある。
  初見は同仲秋(8月)『尾花が本』の奥書「神風伊勢意須比飯高本居健蔵」。他に『関東御所望詩歌』(宝暦3年10月下旬)「本居健蔵清原栄貞」、『厳島神廟・逍遙篇編』(宝暦4年3月19日)「本居健蔵」等使用。また、長男春庭の幼名として宝暦12年2月から(『日記』「小児名健蔵、予旧名也」)、安永9年1月2日「健亭」と改めるまで使用された。


                                          (C)本居宣長記念館

現地探索

 寛政元年(1789)、60歳になった宣長は、門人の要請により名古屋に赴く。この時の名古屋行きを期に、それまで松坂を離れることの少なかった宣長は、京都へ、また和歌山へと精力的に学問普及のために旅をするが、その旅寝の無聊を慰めたのが『万葉集』や『古今集』などに出た地名や歌枕の地の探索であった。文献による緻密な考証と共に現地の調査を重視する宣長の方法は、既に43歳の時に『菅笠日記』で実践済みである。それら現地探訪の成果は『玉勝間』に載せられている。中でも圧巻は巻3巻頭の「五十師原 山辺御井」である。これは『万葉集』に出る地名を名古屋の帰途に調査した事で完成した地名考証である。

 寛政元年の現地調査については、同行した大平の日記『藤のとも花』が詳しい。
 「白子にはいといたく夜ふけてそつきぬる、しか夜ふけぬるよしは、石薬師のわたりに名ある所々たつね見るへきよし、翁の一日ちきりおきけれは、しるへせんとて、坂倉茂樹いしやくしに出むかへゐたり、さるはきのふ桑名より人はしらせて、白子人のもとに今日とつけけれは、今朝とくよりいてて、こゝに待居たるなりけり、石やくしの駅をはなれて、七八丁はかり東に、山部といふ所あり、これなん、万えふしふの歌に、山のべの石の原とも、山のへの御井ともよめる所なるへき、そはそのわたりに、すくれたる山のゐもあり、又見わたすよものけしきも、かの歌によめるありさまといとよくかなへりけるを、翁いとはやくよりかつがつ物にもしるしおけりけれと、それ猶書のうへのみのかむかへにて、所のさま目にはいまた見さりけるを、けふなんかく見さためて、いよいよこゝそと思ひさためたりける」(宣長全集・別巻3-20)

 事前に現地の状況に詳しい門人坂倉茂樹に案内を依頼し、入念な準備の下行われた調査は、名所旧跡が多い地であったこともあり、予定の時間を過ぎ、一行は子の刻というから深夜12時過ぎであろうか、やっとその日の宿である白子の市見直樹宅に到着する。宣長60歳、同行大平34歳、春庭27歳の時のことである。また大平は、宣長が「山辺御井、五十師原」のことを早くよりまとめていたことを言い、また田中道麿が松坂を訪問した際に宣長の考証を読み、感銘し歌を残し、また帰路には自らもその地を訪ねている。
 文献や地図、また人の話を総合的にまとめ上げる力が宣長にはあった。そのような想像力をも駆使した考証を尽くした上での現地探索であった。


                                          (C)本居宣長記念館

『元暦校本万葉集』(げんりゃくこうほんまんようしゅう)

 『元暦校本万葉集』は、『万葉集』次点本の一つで「元暦元年(1184)六月九日以或人校合了/右近権少将(花押)」の奥書を有することから命名された。桂本、藍紙本、金沢本、天治本と共に「五大万葉」の一つとして知られている。『万葉集』全歌数の6割以上を有し、次点本では『類聚古集』に次ぐ。また校訂があり、最も重要な写本である。

 こんなすごい本が松坂にあった。
 現在判明している伝来は、もとは松坂の中川浄宇宅に蔵され、その後、松坂郊外射和村(松阪市射和町)の富山家に秘蔵された。中川浄宇家は後に韓天寿が当主となった名家だ。富山家も「伊勢の射和の富山さまは、四方白壁八ツ棟造り、前は切石切り戸の御門、裏は大川船が着く」と歌われた家で、浮世草子『御入部伽羅女』湯漬翫水・宝永7年(1710)刊、は同家京都店がモデルとなった。
 万葉研究第一人者である賀茂真淵もこの本に注目し、地元学者の調査を慎重に見守った。
 その地元学者の一人が、真淵の門人・久老であった。
 ただ、久老では若すぎると思ったのか、またいち早く報告が欲しかったのか、宣長にも調査への参加を勧めている。

 「彼富山が万葉、此小田など数人罷候而校合いたし候由、当地ニ而も門下之内ニ、万葉本文改判之相談も有之候ニ付、彼校合はやく一覧いたし度候、来四月此人帰国以後、早速うつし見セ候ハんとの事也、されど数巻ニ候ヘハ、貴兄も御手伝候而、何とそはやく下り候様ニ頼入候、但此人来四月ならては不帰候也、其以前ニ何とそ一二の巻ハかりも見度事と申候也」

 小田は荒木田久老のこと。江戸でも『万葉集』改訂の企画があるので早く校合が見たいと真淵は言う。だが改訂の企画より何よりまず真淵自身の『万葉考』の完成が急がれる時期だけに、一番見たかったのは真淵である。「何とそ一二の巻ハかりも見度」というところの本音が現れている。
 真淵の勧めにもかかわらず、この調査に宣長は参加しなかったし、また調査そのものも 完了したのかは不明である。調査報告はともかくも、この時の副産物が久老の「富松の歌」である。

 その後、富山家の縁戚で兵庫の回船問屋俵屋の所蔵となった。30数年後の寛政末年、久老は俵屋の所蔵品として再見している。この時には橋本経亮も同行し『橘窓自語』(『日本随筆大成』1期4-458)に記事を遺す。天保初年、桑名松平家、天保14年水野忠邦、明治44年古河虎之助家と転々とし、現在は同本の分割された一本(やはり中川浄宇家より有栖川家、その後高松宮家に伝来)と共に昭和26年(1951)6月国宝指定、東京国立博物館所蔵(文化財保護委員会より管理換え)となっている。


                                          (C)本居宣長記念館

小泉家

 小泉家は、国学者本居宣長と、同じ魚町で代々医者を開業した。また縁戚関係もあった。とりわけ四代・見庵は宣長の知人で、『菅笠日記』の旅に同行したことはよく知られる。 小泉氏の先祖は、最初北畠氏に、同氏滅亡後は蒲生家に仕えた。当時の住居は大足村(現・松阪市大足町)である。『勢国見聞集』巻18には「奥村与三左衛門(『系譜』では与左衛門)」と「奥村勘大夫」についてその 事跡を簡略に紹介するが、これが小泉氏の遠祖である。
 初代・見入、二代・見菴(退翁、棲真窩)、三代・見卓(垣斎)、四代・見菴、五代・有以軒と続き現在に至る。
 最近、宣長の乳母が、宣長が大きくなったので次ぎに小泉家に入り4代・見菴の乳母となった。だから二人はとりわけ親しかったのだ、という伝承が同家に有ることを知った。
 歴代の墓碑は願証寺(松阪市日野町・浄土真宗高田派)塋域にある。

 現在、小泉家は、「まどいのやかた」としてリニューアルして、公開されている。
                             小泉家

                                          (C)本居宣長記念館

1、『菅笠日記』について その4

 同行者
 旅に同行したのは次の5人と従者。

小泉見庵
 魚町宣長宅の向かいに住む医者。37歳。宣長の友人。
 元文元年(1736)~天明3年(1783)8月28日。享年48歳。見菴とも書く。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。小泉家4代。見卓の長男。
  『系譜』には、
「字子啓、号五林、称見菴、幼名文太郎、宅辺嘗有金松樹、因名其室曰金松斎、子啓作金松斎記、性好学、及没年耽仏学以故恒勤知因果道理、其所著有余力稿二巻、天明三年癸卯八月廿八日没、年四十八、法名蒙光院道徹見菴居士。葬願證寺先営之側。妾名近、子啓死而後嫁」とある。 『勢国見聞集』には、「見菴、松坂の人。垣斎君の嫡男なり。名は蒙、字は子啓、五林と号す。詩文を好み、其所著紀鑑及余力稿あり」とある。
 【墓石】願証寺「小泉見菴墓、天明三年癸(卯)八月廿八日、四十八歳」  見菴は、父の後を嗣ぎ、紀州藩御目見得医師。本居宣長の知人、或いはその吉野飛鳥への旅の同行者として、人々に記憶されている。見菴と宣長との係わりについて見てみたい。
  商家に生まれた宣長が医を志すのに、小泉家をその手本としたとする説がある。
 城福勇氏は、「(本来学問の道に進みたかった宣長が医業を生業とすることについては)親類のなかに医者が少なくなかったということが、かつにも宣長にも、大きな影響を与えたことであろう。だいいち筋向かいの小泉見庵がそうで、彼の医業は大いに栄えていたのである」と『本居宣長』で書く。親類で医者といえば、遠縁に山村通庵がいる位で、決して多くはない。また、小泉家を範としたとか、同家が大いに繁栄していたという根拠を今確認することは出来ない。
 ただ確証はなくとも、息子の行く末を案じた母と宣長が、向かいの小泉家の生活を眺めていて、これならばできると考えたとしても決して不思議ではない。
 在京中の宣長を見菴が訪ねたことがある。「むかひ見菴殿先比のほり申され候」と、宝暦4年6月3日付宣長宛母勝書簡に見え、対面記事が『在京日記』に載る。
 だが二人の関係で最もよく知られているのは、この「菅笠の旅」であろう。宣長43歳、見菴37歳の時であった。参加者で、見菴以外はその後に整備される宣長の『授業門人姓名録』に名を連ねた人たち、つまり宣長の古典講釈や歌会のメンバーである。どうしてその中に見菴は入ったのであろうか。
 まず考えられることは、近所だったという点であろう。小泉見菴の家は、松坂町魚町上ノ丁の長谷川家に隣してあった。宣長に家の向かい側である。年齢も宣長が6歳年長と近い。
 ただ、吉野旅行中も見菴は、旅で知り合った尾張の人と漢詩を贈答しあっているように漢詩文を好み、和歌の宣長とは道を別にしたため、門人に加わることもなかったのかもしれない。つまり二人は友人だったというところに、旅への参加の一因を求めることが穏当だろう。
【写真】 「小泉見庵夫妻像」 「見庵墓石」 「歌碑」

>> 「歌碑の謎 宣長歌碑はなぜ建てられたのか」

稲懸棟隆
  中町の豆腐屋。宣長と同い年43歳。後に門人となる。息子・茂穂と参加。
>> 「鈴屋円居の図」

稲懸茂穂
  棟隆の長男。後の大平。17歳。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

戒言
  白粉町来迎寺覚性院の僧。年齢は不明。棟隆と親しかった。同い年くらいか。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

中里常雄
  中町の豪商の息子。後に長谷川の養子となる。16歳。大平の友達。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図

従者
  恐らく一人付いていったと思われる。屈強な人だろう。名前、年齢不明。
 14日、飼坂越えの条。歩く者は息も絶え絶え、従者は荷物を持っているので、これまた遅れているが、つづら折の道なのですぐそこに見えるなんて、気分が優れない宣長は駕籠に乗り、呑気なことを言っている。

【原文】「とものをのこは。荷もたればにや。はるかにおくれて。やうやうにのぼりくるを。つゞらをりのほどは。いとまぢかく。たゞここもとに見くだされたり。」 また、飯福田寺辺りで、供の人は一人先に松坂に帰る。各家に、帰ってきたから迎えにこいと触れるためだ。
【原文】「いぶたにまはりし所より。供のをのこをば。さきだてゝやりつれば。みな人の家よりむかへの人々などきあひたる」
                                          (C)本居宣長記念館

鯉のぼり?

 松坂でも幟(ノボリ)をあげた。でも鯉のぼりだったかどうかはわからない。
 「五月節句前には紙幟木太刀を店々にかざりて多くうれる」『宝暦咄し』。また、宣長『日記』明和2年5月1日条にも 「幟建事不苦」とお触れが出たことが書かれる。

                                          (C)本居宣長記念館

古医方(こいほう)

 宣長が京都で医者の修行をしていた17世紀後半頃から、流行りだした漢方医学の一派。宣長らの学んだ「後世方」(コウセイホウ)が中国の金・元の医学の影響をうけた観念的であったのに対して、後漢の張仲景の「傷寒論」を手本とし親試実験を唱えた。ちょうど儒学の朱子学に対抗して興ってきた古学の動向に対応する。名古屋玄医、後藤艮山、山脇東洋、吉益東洞らがおり、蘭学にも影響を与えた。

 古医方の影響は医学説だけではない。医者の格好にも変化が見られた。
「当時京都医界では、後藤艮山流の長髪束垂で道服着用が流行した。宣長も宝暦三年には頭髪をのばして医家風の総髪とし、同年三月には名を宣長、号を春庵と改めた」『京の医史跡探訪』杉立義一著(思文閣出版、昭和59年3月刊・P297)とある。

 ところで、吉益が不遇時代、その後ろ盾となったのが「堀景山」である。景山は不思議な人だ。




                                          (C)本居宣長記念館

高岳院石上道啓居士(こうがくいんせきじょうどうけいこじ)

 宣長の戒名。
 高岳は宣長の高所志向と関わりがあるのだろうか。「石上」は号にちなむ。「道」は道観居士(本居武秀)以来、代々当主の戒名に付く。『遺言書』には、自ら付けたこの戒名を樹敬寺方丈に告げ書付を貰うことと、樹敬寺の墓と仏壇の位牌には妻の戒名「円明院清室恵鏡大姉」と並記の指示が為される。因みに、妻の戒名も宣長の命名である。

                         「本居宣長夫妻墓」樹敬寺
                                          (C)本居宣長記念館

光格天皇

 明和8年(1771)8月15日~天保11年(1840)11月19日。御年70歳。
 資性円満、質素を尊び修飾を好まず仁愛を旨とした。また旧儀の復興に意をとどめ、石清水社、賀茂社の臨時祭の再興もこの天皇の在任の間のことである。また、実父典仁親王に太上天皇の尊号を宣下しようとしたが、幕府の反対にあい断念した。

 ご遷幸された新造御所は、老中・松平定信により古式に則り再興されたものである。
 「光格天皇は、さまざまな朝儀、神事の再興・復古をとおして朝権(朝廷の権威、権力)回復と神聖(性)強化に尽力し、神武天皇以来の皇統という意識、日本国の君主であると言う意識を強く持った天皇であった」 とも評される(『幕末の天皇』藤田覚、講談社選書メチエ)。

 このように、古代への思いを抱いた天皇が、『古事記伝』初帙をご覧になられたのだ。
 寛政2年12月26日付横井千秋宛書簡によれば、この天覧は、最初、横井千秋より妙法院の宮の御覧に入れたところから始まった。内容に感心した宮が、実弟である天皇に上げて下さったのだという。
 名誉なことであった。時代はゆっくりと幕末に向かって進んでいく。


                                          (C)本居宣長記念館

「こうさく、くわいどく、聞書」

 『玉勝間』巻8に「こうさく、くわいどく、聞書」という段があります。「講釈、会読、聞書」という意味ですが、講釈は先生の話を聞く勉強法。今の講義。会読は今のゼミナール。そして聞書はノートです。
 勉強を教える、また教わる時のこれらの方法の長短をあげたものです。京都では5年景山塾、武川幸順塾でみっちり学び、松坂では先生として40年近く教えてきた経験で語られたことばだけに、200年後の今もちっとも古びていません。全文を四つに分けて引いてみます。

,「いづれの道のまなびにも、講釈とて、古き書のこゝろをとききかするを、きくことつね也、中昔には、これを談義となんいひけるを、今はだんぎとは、法師のおろかなるもの共あつめて、佛の道をいひきかするをのみいひて、こうさくといふは、さまことなり、さて此こうさくといふわざは、師のいふことのみたのみて、己が心もて、考ふることなければ、物まなびのために、やくなしとて、今やうの儒者(ズサ)などは、よろしからぬ わざとして、會讀といふことをぞすなる」
【説明】
 どんな学問でも「講釈」というのは、本を説明するのが普通だ。昔は「談義」と言った。ところが、講釈は先生の言うことを聞くだけで、自分で考えないからだめだと、今の儒学者は「会読」を盛んにする。

,「そはこうさくとはやうかはりて、おのおのみづからかむかへて、思ひえたるさまをも、いひこゝろみ、心得がたきふしは聞えたれど、それさしもえあらず、よの中に此わざするを見るに、大かたはじめのほどこそ、こゝかしこかへさひ、あげつらひなどさるべきさまに見ゆれ、度かさなれば、おのづからおこたりつゝ、一ひらにても、多くよみもてゆかむとするほどに、いかにぞやおぼゆるふしぶしをも、おほくなほざりに過すならひにて、おほかたひとりゐてよむにも、かはることなければ、殊に集ひたるかひもなき中に、うひまなびのともがらなどは、いさゝかもみづから考へうるちからはなきに、これもかれも聞えぬことがちなるを、ことごとにとひ出むことつゝましくて、聞えぬながらに、さてすぐしやるめれば、さるともがらなどのためには、猶講釋ぞまさりては有ける」
【説明】
 「会読」は「講釈」と違い、参加者各人が自分で考えて、発表し、分からないことを論議するというのが本来だが、回数が重なると、だんだん熱意が無くなり、ページを多く読もうとするので、疑問点もないがしろになる。だから一人で読んでいるのとかわらない。また参加者の中で力が均質でないと、こんなことを聞いては恥ずかしい、邪魔になると聞かないで過ぎてしまうので。初心者には「講釈」のほうがよい。

,「されどこうさくも、たゞ師のいふことをのみ頼みて、己レちからいれむとも思はず、聞クことをのみむねとせむは、いふかひなくくちおしきわざ也、まず下見(シタミ)といふことをよくして、はじめより、力のかぎりは、みづからとかく思ひめぐらし、きこえがたきところどころは、殊に心をいれて、かへさひよみおけば、きく時に、心のとまる故に、さとることも、こよなくして、わすれぬもの也、さて聞て、家にかへりたらむにも、やがてかへり見といふことをして、きゝたりしおもむきを、思ひ出て味ふべし」
【説明】
 「講釈」は聞くだけではだめだ。予習(下見)、そして復習(かへり見)がいる。

,「また聞書といひて、きくきくその趣をかきしるすわざ有リ、そは中にわすれもしぬ べきふしなどを、をりをりはいさゝかづゝしるしおかむは、さも有べきわざなるを、はじめより師のいふまゝに、一言ももらさじと、筆はなたず、ことごとにかきつゞくるかし、そもそもこうさくは、よく心をしずめて、ことのこゝろを、こまやかにきゝうべきわざなるに、此きゝがきすとては、きくかたよりも、おくれじとかく方に、心はいそがれて、あわたゝしきに、殊によくきくべきふしも、かいまぎれて、きゝもらい、あるはあらぬすぢに、きゝひがめもするぞかし、然るにこれをしも、いみしきわざに思ひて、いかでわれこまかにしるしとらむと、たゞこれのみ心をいれて、つとむるほどに、もはら聞書のためのこうさくになるたぐひもおほかるは、いといとあぢきなきならひになん有ける、
【説明】
 ノート(聞書)は、忘れそうなことを書くのはいいが、最初から先生の言うことを全部書く者がいる。「講釈」はまず先生の言うことをよく聞くことが大事なのに、「聞書」のための「講釈」になっているのはよくないことである。

 宣長の松坂での方法は、講釈が中心で、会読はあまりありません。それも須賀直見のような力のある門人が中心となり進められたようです。宣長の主催した『万葉集』の会読は途中から講釈に変更されました。その時の体験が「こうさく、くわいどく、聞書」にも反映されているのでしょう。


                                          (C)本居宣長記念館

孔子(こうし/くじ)

 中国・春秋時代の人。儒教の祖。『論語』はその言行録。

 宣長が最初に四書を学んだのは12歳からの師事した岸江之仲の下で、堀景山門では『春秋左氏伝』を精読し、『論語』を抜抄(『摘腴』)する。また友人宛の書簡では「浴沂詠帰」を引き自らの「風雅」の正当性を主張する。

 53歳の時にも『論語』を再読した。宣長は孔子の言動と伝えられるものに対して批判もする(『玉勝間』)が、「聖人と人はいへども聖人の同列(タグイ)ならめや孔子はよき人」という詠(寛政12年)にあるように、基本的に共感を持っていた。鈴木朖は「送本居先生序」(『離屋集初編』)で「先生ノ風ハ頗ル仲尼ニ似タリ」と言い、宣長もそれを喜ぶ。また、宣長は「吾が本国を外にするは、己がよる所の孔子の意にも、いたく背けるものなり」と日本の儒学者の態度が孔子の本意に背くこと衝く。宣長の孔子に対する発言には、儒者よりむしろそれ以外の石川雅望等の反発があった。


                                          (C)本居宣長記念館

講釈

 宣長は教えるのが好きだ。学問普及という目的もあってのことであろうが、性格と言うこともあるのだろう。ただ、『古事記』を講釈しなかったとか、また具体的な講釈の仕方など謎が多い。 

                                          (C)本居宣長記念館

「好信楽」(こう・しん・らく)

 宣長にとって学問とは何か。それを一言で言うと「好・信・楽」だろう。好きなことに確信を持ち楽しむというのだ。束縛や使命感とはまったく別のものから出発しているのだ。
 「ただに仏師の言におけるや、これを好みこれを信じ楽しむのみにあらず。儒墨老荘諸子百家の言もまた皆これを好み信じ楽しむ。ただに儒墨・老荘・諸子百家の言にしてこれを好み信じ楽しむのみにあらず、凡百の雑伎・歌舞・燕遊、及び山川草木・禽獣虫魚・風雲雨雪・日月星辰、宇宙の有る所、ゆくとして好み信じ楽しまざるは無し、天地万物、皆な吾が賞楽の具なるのみ」
                 (上柳敬基宛書簡・28歳)
                                          (C)本居宣長記念館

好信楽

 在京中の宣長が、友人の批判に対して答えた手紙の中に「好信楽」という言葉が出てくる。これが宣長自らの学問の態度である。
「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好しこれを信じこれを楽しむ。啻(タダ)に仏氏の言にしてこれを好し信じ楽しむのみにあらず、儒墨老荘諸子百家の言もまたこれを好し信じ楽しむ。啻(タダ)に儒墨老荘諸子百家の言にしてこれを好み信じ楽しむのみにあらず。凡百の雑技歌舞燕遊、及び山川草木禽獣虫魚風雲雨雪日月星辰、宇宙の有る所、適(ユ)くとして好み信じ楽しまざるは無し、天地万物、皆な吾が賞楽の具なるのみ」
                  (宝暦7年3月頃、上柳敬基宛書簡)
 特に「楽」には、『論語』の「浴沂詠帰」に対する宣長の見解が色濃く投影されていて、一つの覚悟であると言える。

  例えば次の文と比較してみよう。

 「宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う」(明治36年6月30日付、南方熊楠差出、土宜法竜宛書簡)

  万物の存在する世界から、自らが選んだ「学問」、それに確信を持ち、そこに楽しみを見出す。功利的な考えや打算のない世界である。


                                          (C)本居宣長記念館

行楽地

「桜の花ざかりに、歌よむ友だち、これかれかいつらねて、そこかしこと、見ありきける、かへるさに、見し花どもの事、かたりつゝ来るに、ひとりがいふやう、まろは、歌よまむと、思ひめぐらしける程に、けふの花は、いかに有りけむ、こまやかにも見ずなりぬといへるは、をこがましきやうなれど、まことはたれもさあることゝ、をかしくぞ聞し」 『玉勝間』巻7「ある人の言」

 みんなで花見に行ったが、歌を詠もうと一生懸命で、花を見るのを忘れたよ、という門人の話。

  鈴屋社中、別の言葉で云えば、宣長のサロンである。ここでは歌会と講釈が中心となった。関心の順序から謂えば、歌会メンバーは、歌の研鑽を怠らず、またその一環として古典の学習も行った。また、学習の合間には、なぞなぞや歌合、狂歌会。そして屋外においては花見に月見と詞藻を豊かにした。宣長サロンの行楽や旅も多くはその一環として行われた。行楽を抜きにして、松坂での宣長は語れない。いや、京都遊学時代もそうだ。『在京日記』も祭礼、行楽、遊行など楽しい記事のオンパレードだ。

  さて、松坂では、宣長一行はどこに出かけたのか。代表的な場所を挙げてみよう。
 ■ 木造(コツクリ)の花見

  久居市木造。宝暦10年(1760)2月13日、宣長は木造に桃の花見に行く。当日の『日録』に「十三日、木造の桃花を見にまかる」とある。宣長と同時代の『宝暦咄し』にも「木造桃はやし、毎年花見大賑合(一本頭書・明治末期迄賑ふ)」(『松阪市史』9-174)と書かれている。後に、桃園村と言う地名が出来、今も近畿日本鉄道の駅名で残る。

>>「毎月の宣長さん」2月「香良洲へ参詣・江戸の火事」
 ■ 香良洲神社

  香良洲神社は一志郡香良洲町にある。宝暦10年2月10日の参詣する。寛政9年にも花見に出かけた。その時の歌を集めたのが『香良洲の花見』である。

>>『香良洲の花見』
>>「毎月の宣長さん」2月「香良洲へ参詣・江戸の火事」
 ■ 山室の時鳥

  後に宣長が奥墓を築く「山室山」、松坂から2里ほど離れたこの山も、宣長等には恰好の行楽地であった。

>>「奥墓」
>>「毎月の宣長さん」4月「妙楽寺に遊ぶ」
 ■ 聴竹庵

  明和9年(43歳)八月十五夜、宣長等は聴竹庵で月見をした。当時はこのようにお寺がサロンの会場となった。聴竹庵は松坂西町永昌寺。『松坂権輿雑集』に出る。また『勢国見聞集』に「仏光山永昌寺 西町 禅曹洞宗。本尊大日如来。元和三巳年慶才首座開基。前は聴竹庵と云」とある(『松阪市史』8-253)。
 ■ 景徳寺

 「(安永三年)三月の十日頃阿坂の景徳寺にまうてけるにさくらのこゝかしこ
    散のこりたるを見て寺の名を句のかしらにおきてよめる

  けふまても いろかかはらて とまれるは くる人有と しりてまちけん」
                        『石上稿』安永3年

  各句の頭を取ると「け・い・と・く・し」、景徳寺だ。
  宣長45歳の作。東明山景徳寺は、松阪市小阿坂町。黄檗宗。遠祖本居武久が武功を顕した阿坂城がある枡形山の東の麓にあった。宣長の家でも供物を供えることもあった。

 「八月十六日の夜月のおもしろきに思ひかけず鹿嶋元長にあざかの山寺に
  行合て物語などしける又の日ふみつくりておこせけるかへし

    こゝながら露くもりなき言の葉に又もみ山の月のおも影」
                         『石上稿』天明元年

  宣長52歳。元長は津に生れ、松阪に住んだ医者。『制度通』を宣長に貸し『鉗狂人』を借覧する。横滝寺に碑があった。

   一行で行き先を定めかねていたときに宣長が「袖岡山に行こう」と言ったことがあるが、袖岡山もこの景徳寺から『古事記』ゆかりの阿坂神社、阿坂城一帯だ。

 「同当(座)十三夜の月見にゆくべき所を横滝か山室かなどそこかしこと
    みな人さだめかねたるに

    よしさらば野原の露に分ぬれてわが袖岡の月をこそみめ」
                        『石上稿』安永6年  
 ■ 横滝からの眺望

  秋の行楽地と言えば、伊勢寺村にある横滝寺がこのあたりでは有名だった。
  ここは少し高台で、眺望に優れていた。今の、伊勢自動車道松坂インター津寄りから伊勢湾まで一望の下に見渡せるが、ちょうどそんな感じだろう。しかも泊まることもできたようだ。ちょっと宣長先生一行の後をついていって見よう。

 「 九月十三夜こよひ横滝といふ山寺の月見にと物しける道にてよめる

  みなそゝぐ 魚町出て となみはる(鳥網張る) 坂な井川の 板はしを
  いゆき渡り て 薮の里 そがひに見つゝ いなむしろ かわべのみちを
  ゆくゆくと かへり見す れば よろしなへ よいほのもりを やゝとほく
  さかり来にけり 春霞 井むらのさ との 賎の男が おしね(晩稲)
  刈り干す 秋の田を 見つゝゆけば あかねさす 日 もかたぶける
  山の端を 我も目にかけ 神風の 伊勢寺すぎて ひとつ松 たてる木陰よ
  い別れて 岡べの道を たもとほり しじに生たる はたすすき(旗薄)
  しぬ (篠)をおしなへ 露霜に 衣手濡れて 蟹がゆき よこたき山の
  月見むと 寒き夕 べに 分け入る我は」     『鈴屋集』年次不詳

  この長歌は、魚町の自邸を出た宣長一行は、今なら魚町橋だが、当時はまだないので下手の松坂大橋を渡り、西ノ荘、外五曲あたりであろうか藪の多い里の近くを通り、どんどん進み、ちょっと振り返ると四五百森がもう遠くに見える。井村を過ぎると、まだ稲を干している。一時間ほど歩くと、日も西に傾く頃、いつしか伊勢寺村に入り、一本松(地名)を過ぎて、だんだん山道に入っていく。今の堀坂山の峠、そこから少し分かれたところに横滝寺はある。このように、横滝への道中を、地名を織り込みながら詠んだ作品。年次不詳ではあるが、恐らく横滝寺に泊まった安永5年(1776)だろう。

 「九月十三夜こよひ山寺の月見んとてよこ滝といふ所にまかりて
  其寺にやどりてこれかれ歌よみける中に山寺月を題にて

    のぼりきて見る山寺も月の名も高きこよひの影のさやけさ
    山てらの月影見ればすむ人の心くまるゝ谷川の水
    山寺に秋の一夜をあかの水くまぬ心もすむ月のかげ

 よもすがら月くまなくて千里の外迄も見わたさるゝ所からはましていせの海もたゞまへなる垣根のもとに見えたるに

    あしがきのまぢかく見えて月影の清きなぎさを(も)庭の池水
    よこ滝の山を枕に歌よま(め)ば硯はいせの海もまぢかし

 人々夜ふくる迄おきゐて歌あまたよむに
    言の葉は(の)猶もかれせぬこよひかな
            硯のみずの(も)(は)つきのよすがら

 ふるきふり
    月夜よみ見つゝしをれば足引の山の嵐も寒からなくに
    鹿もなく所ときゝつれば耳すましてまてどよふくる迄なかねば
    鹿のねのそはぬばかりよすみ渡るこよひの月のみたぬ恨みは

 末の句は十三夜の心をこめつ
    谷の水松のあらしに今ひとつきかでさびしき棹鹿の声
    鹿の音をまつは軒端に声たててさそひがほなるよはの秋風
    なくねまつ心づくしもさを鹿のなが妻ごひに思ひやらなん

 夜いたうふけてしばしかりねするにめもあはねば
    ねられずよ言の葉にのみ聞なれてなれぬ枕の峯の松風
    つとめて見渡したる朝ぼらけのけしき又いはんかたなし
    横滝の山より見れば横雲も波にわかるゝ明ほののそら
    見わたせば朝熊山の朝霧も朝日にはるゝ遠方の空

 海の手にとるばかりまぢかくみやるゝに在五中将のふる言思ひ出て我も又
    塩がまにいつかきにけん軒近きまがきの嶋を出るつり船」         
                         『石上稿』安永5年

  在五中将云々は、『伊勢物語』81段「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ」を踏まえる。
                         「横滝寺近くからの眺望」
                                          (C)本居宣長記念館

木枯(こがらし)の森の宣長歌碑

 木枯の森(静岡市羽島大字森下、藁科川川中島)は歌枕。河の中州にあり橋はなく、渇水期でないと渡ることが出来ない。
 この森は、現在、静岡県指定名勝(昭和29年1月30日指定)。静岡県・静岡市両教育委員会による解説板(昭和63年3月31日)には次のように書かれている。

 「藁科川の川中島であるこの森は、丸子から牧ケ谷に抜ける歓昌院坂を経て駿府に通じる古道のかたわらにある。古くから歌枕としてその名を知られていた。平安時代の文人清少納言が枕草子の中で「森は・・こがらしの森」としるすなど、東国の美しい風景として数多くの歌によまれたのである。
  森の頂上には八幡神社が祭られ、神社の横には江戸時代の国学者本居宣長の撰文による「木枯森碑」や駿府の儒医であった花野井有年の歌碑が建てられている。」

 碑文は、
 「駿河国安倍郡木枯森八幡社前碑詞、木枯森者、駿河国爾在事者、古今六帖之歌以斯良延、安倍郡爾在事母、風土記爾所見、宇都母那志、抑此森者、彼六帖在乎始登為而、後撰集在歎伎之歌、又定家乃卿之、下露乃言之葉何登、自古、於世名高久所聞弖、今母佐陀迦爾、服部乃邑云邑之地爾在而、伊登神佐備在処爾奈母有祁琉、伊都伎祭神者斯母、掛麻久母可畏、広幡之八旗大神、然婆加里奈流名所爾斯、鎮伊坐者、此母甚比佐々那流社爾許曽波伊麻曽加流良米、此社、近伎年来、由々斯久荒坐斯乎、邑長那流、石上長隣伊、勤志美有人爾弖、可畏久歎愁而、心乎起志、力乎致志弖、又美麗玖修造奉礼流、神伊都伎能淤牟加志佐波、更爾母不言、古偲雅情乎母、世乃人能心将有、聞喜備見喜而、森之木葉乃、年乃葉爾繁栄而、無絶世如事、万代麻伝爾、不偲米夜不仰米夜、如此言者、天明乃七年云年之五月乃月立、伊勢人本居宣長」 今は『鈴屋集』より採った。

 この文章作成経過を書簡で追ってみる。
 村長石上某がこの歌枕に碑を建てようと考え駿河国(静岡県)の野沢昌樹に相談した。野沢は甲州(山梨県)の人・萩原元克(宣長門人)が松坂の宣長に所に行くというので、取り次ぎを依頼した。聞いたら野沢はやはり宣長門人の栗田土満と懇意だそうだ(以上、天明7年5月8日付栗田土満宛宣長書簡)。
 宣長は文章を書いて栗田に送り、野沢に転達してもらった。
 野沢は宣長に礼状と謝礼として金200疋を送った。その礼状を書いたのでまた野沢に転達してほしい(以上、天明7年11月12日付栗田土満宛宣長書簡)。

                          木枯森山頂八幡神社
                 向かって左奥の小さな碑が宣長の「木枯森碑」

                             「木枯森碑」
                                          (C)本居宣長記念館

『古今集遠鏡』(こきんしゅう・とおかがみ)

 6冊。寛政5年(1793)頃成立。同9年刊行。
 「遠鏡」とは望遠鏡のこと。実はこの前年、和泉国貝塚の岩橋善兵衛が、国産天体望遠鏡第1号を制作して、5年には京都で天体観測会が開かれている。岩橋の望遠鏡は、八稜筒で直径が24センチから27センチ。長さがその十倍と言う大きなもので、「阿蘭陀わたりの望遠鏡よりもよくみゆ。余が家にも所持す」と橘南谿(1753~1805・久居の儒医)は『西遊記』の中で記している。ちなみに天体観測会を主催したのも橘南谿である。「遠鏡」という書名がブームに乗ったものとは言えないまでも、このような時代風潮の中にあったことは見逃してはならない。

 さて本書は、『古今和歌集』の全歌(真名序、長歌は除く)に、今の世の俗語(サトビゴト)、つまり口語訳、また補足的な注釈を添えた本。横井千秋の序文に「この遠鏡は、おのれはやくよりこひ聞えしまゝに、師のものしてあたへたまへるなり」とあるように。千秋のもとめで執筆した。訳は、てにをはに注意し、また言葉を補う場合はその箇所を明示し、厳密な逐語訳となっていて、一見、初学者向きの入門書ではあるが、高い水準を保っている。 『古今集』は宣長にとって最も尊重する、また愛好した歌集であった。
 「古今集は、世もあがり、撰びも殊に精しければいといとめでたくして、わろき歌はすくなし」(『うひ山ふみ』)。
 新年の読書始めも同集序を選んでいる。講釈も『源氏物語』や『万葉集』と並んでその中軸となるもので、生涯に4度も行っている。一つの本の回数としては最高である。


                                          (C)本居宣長記念館

『古今集遠鏡 例言』

 雲のゐる とほきこずゑも とほかゞみ うつせばこゝに みねのもみぢ葉

此書は、古今集の歌どもを、ことごとくいまの世の俗語(サトビゴト)に訳(ウツ)せる也。

そもそもこの集は、よゝに物よくしれりし人々の、ちうさくどものあまた有て、のこれるふしもあらざンなるに、今さらさるわざは、いかなればといふに、かの注釈(チユウサク)といふすぢは、たとへばいとはるかなる高き山の梢どもの、ありとばかりは、ほのかに見ゆれど、その木とだに、あやめもわかぬを、その山ちかき里人の、明暮のつま木のたよりにも、よく見しれるに、さしてかれはととひたらむに、何の木くれの木。もとだちはしかじか、梢のあるやうは、かくなむとやうに、語り聞せたらむがごとし。さるはいかによくしりて、いかにつぶさに物したらむにも、人づての耳(ミミ)は、かぎりしあれば、ちかくて見るめのまさしきには、猶にるべくもあらざんめるを、世に遠(トホ)めがねとかいふなる物のあるして、うつし見るには、いかにとほきも、あさましきまで、たゞこゝもとにうつりきて、枝さしの長きみじかき、下葉の色のこきうすきまで、のこるくまなく、見え分れて、軒近き庭のうゑ木に、こよなきけぢめもあらざるばかりに見ゆるにあらずや、今此遠き代の言の葉の、くれなゐ深き心ばへを、やすくちかく、手染の色にうつして見するも、もはらこのめがねのたとひにかなへらむ物をや。

かくて此事はしも、尾張の横井ノ千秋ぬしの、はやくよりこひもとめられたるすぢにて、はじめよりうけひきては有ける物から、なにくれといとまなく、事しげきにうちまぎれて、えしもはたさず、あまたの年へぬるを、いかにいかにと、しばしばおどろかさるゝに、あながちに思ひおこして、こたみかく物しつるを、さきに神代のまさことも、此同じぬしのねぎことにこそ有しか、さのみ聞けむとやうに、しりうごつともがらも有べかンめれど、例のいと深くまめなるこゝろざしは、みゝなし山の神とはなしに、さて過すべくもあらずてなむ。

○ うひまなびなどのためには、ちうさくは、いかにくはしくときたるも、物のあぢはひを、甘しからしと、人のかたるを聞たらむやうにて、詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣にいたりては、猶たしかにはえあらねば、其事を今おのが心に思ふがごとは、さとりえがたき物なるを、さとびごとに訳(ウツ)したるは、たゞにみづからさ思ふにひとしくて、物の味を、みづからなめて、しれるがごとく、いにしへの雅言(ミヤビゴト)みな、おのがはらの内の物としなれれば、一うたのこまかなる心ばへの、こよなくたしかにえらるゝことおほきぞかし。

○ 俗言(サトビゴト)は、かの国この里と、ことなることおほき中には、みやびごとにちかきもあれども、かたよれるゐなかのことばは、あまねくよもにはわたしがたければ、かゝることにとり用ひがたし。大かたは京わたりの詞して、うつすべきわざ也。たゞし京のにも、えりすつべきは有て、なべてはとりがたし。

○ 俗言(サトビゴト)にも、しなじなのある中に、あまりいやしき、又たはれすぎたる、又時々のいまめき詞などは、はぶくべし。又うるはしくもてつけていふと、うちとけたるとのたがひあるを、歌はことに思ふ情(ココロ)のあるやうのまゝに。ながめ出たる物なれば、そのうちとけたる詞して、訳(ウツ)すべき也。うちとけたるは、心のまゝにいひ出たる物にて、みやびことのいきほひに、今すこしよくあたればぞかし。又男のより、をうな〔女〕の詞は、ことにうちとけたることの多くて、心に思ふすぢの、ふとあらはなるものなれば、歌のいきほひに、よくかなへることおほかれば、をうなめきたるをも、つかふべきなり。又いはゆるかたことをも用ふべし。たとへばおのがことを。うるはしくは「わたくし」といふを、はぶきてつねに、「ワタシ」とも「ワシ」ともいひ、「ワシハ」といふべきを、「ワシヤ」、「それは」を「ソレヤ」、「すれば」を「スレヤ」といふたぐひ。また「そのやうな」「このやうな」を。「ソンナ」「コンナ」といひ、「ならば」「たらば」を。「ば」を省て「ナラ」「タラ」。「さうして」を「ソシテ」。「よからう」を「ヨカロ」、とやうにいふたぐひ。ことにうちとけたることなるを、これはたいきほひにしたがひては、中々にうるはしくいふよりは、ちかくあたりて聞ゆるふしおほければなり。

○ すべて人の語(コトバ)は、同じくいふことも、いひざまいきほひにしたがひて、深くも浅くも、をかしくもうれたくも聞ゆるわざにて、歌はことに、心のあるやうを、たゞにうち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざまいきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうをよくあぢはひて、よみ人の心をおしはかりえて、そのいきほひを訳(ウツ)すべきなり。たとへば。「春されば野べにまづさく云々」、といへるせどうか〔旋頭歌〕の、訳(ウツシ)のはてに、へヽ/\へヽ/\と、笑ふ声をそへたるなど、さらにおのが今のたはぶれにはあらず。此ノ下ノ句の、たはぶれていへる詞なることを、さとさむとてぞかし。かゝることをだにそへざれば、たはぶれの答へなるよしの、あらはれがたければなり。かゝるたぐひ、いろいろおほし。なずらへてさとるべし。

○ みやびごとは、二つにも三つにも分れたることを、さとび言には、合せて一ツにいふあり。又雅言(ミヤビゴト)は一つなるが、さとびごとにては、二つ三つにわかれたるもあるゆゑに、ひとつ俗言(サトビゴト)を、これにもかれにもあつることあり。又一つ言の訳語(ウツシコトバ)の、こゝとかしこと、異なることもあるなり。

○ まさしくあつべき俗言のなき詞には。一つに二ツ三ツをつらねてうつすことあり。又は上下の語の訳(ウツシ)の中に、其意をこむることあり。あるは二句三句を合せて。そのすべての意をもて訳(ウツ)すもあり。そはたとへば「ことならばさかずやはあらぬ桜花」などの、「ことならば」といふ詞など、一つはなちては、いかにもうつすべき俗言なければ、二句を合せて、「トテモ此ヤウニ早ウ散ルクラヰナラバ一向ニ初メカラサカヌガヨイニナゼサカズニハヰヌゾ」、と訳(ウツ)せるがごとし。

○ 歌によりて、もとの語のつゞきざま、てにをはなどにもかゝはらで、すべて意をえて訳(ウツ)すべきあり。もとの詞つゞき、てにをはなどを、かたくまもりては、かへりて一うたの意にうとくなることもあれば也。たとへば「こぞとやいはむことしとやいはむ」など、詞をまもらば、「去年ト云ハウカ今年トイハウカ」、と訳すべけれども、さては俗言の例にうとし。「去年ト云タモノデアラウカ今年ト云タモノデアラウカ」、とうつすぞよくあたれる。又「春くることをたれかしらまし」など、「春ノキタコトヲ云々」と訳さゞれば、あたりがたし。「来る」と「来タ」とは、たがひあれども、此歌などの「来る」は、「来ぬる」とあるべきことなるを、さはいひがたき故に、くるとはいへるなれば、そのこゝろをえて、「キタ」と訳すべき也。かゝるたぐひいとおほし。なずらへてさとるべし。

○ 詞をかへてうつすべきあり。「花と見て」などの「見て」は、俗言には、「見て」とはいはざれば、「花ヂヤト思フテ」と訳すべし。「わぶとこたへよ」などの類の「こたふる」は、俗言には、「こたふ」とはいはず。たゞ「イフ」といへば、「難儀ヲシテ居ルトイヘ」と訳すべし。又てにをはをかへて訳すべきも有り。「春は来にけり」などの「は」もじは、「春ガキタワイ」と、「ガ」にかふ。此類多し。又てにをはを添フべきもあり。「花咲にけり」などは、「花ガ咲タワイ」と、「ガ」をそふ。此類は殊におほし。すべて俗言には、「ガ」といふことの多き也。雅言の「ぞ」をも、多くは「ガ」と云へり。「花なき里」などは、「花ノナイ里」と、「ノ」をそふ。又はぶきて訳すべきもあり。「人しなければ」、「ぬれてをゆかむ」などの、「し」もじ「を」もじなど、訳言(ウツシコトバ)をあてゝは、中々にわろし。

○ 詞のところをおきかへてうつすべきことおほし。「あかずとやなく山郭公」などは、「郭公」を上へうつして、「郭公ハ残リオホウ思フテアノヤウニ鳴クカ」と訳し、「よるさへ見よとてらす月影」は、「ヨルマデ見ヨトテ月ノ影ガテラス」とうつし。「ちくさに物を思ふころかな」のたぐひは、「ころ」を上にうつして、「コノゴロハイロイロト物思ヒノシゲイ事カナ」と訳し、「うらさびしくも見えわたるかな」は、「わたる」を上へうつして、「見ワタシタトコロガキツウマア物サビシウ見ユルコトカナ」と訳すたぐひにて、これ雅言(ミヤビゴト)と俗言(サトビゴト)と、いふやうのたがひ也。又てにをはも、ところをかへて訳すべきあり。「ものうかるねに鶯ぞなく」など、「ものうかるねにぞ」と、「ぞ」もじは上にあるべき意なれども、さはいひがたき故に。鶯の下におけるなれば。其こゝろをえて、訳すべき也。此例多し。皆なずらふべし。

○ てにをはの事。「ぞ」もじは、訳すべき詞なし。たとへば「花ぞ昔の香ににほひける」のごとき、殊に力を入たる「ぞ」なるを、俗言には「花ガ」といひて、その所にちからをいれて、いきほひにて、雅語の「ぞ」の意に聞カすることなるを、しか口にいふいきほひは、物には書とるべくもあらざれば、今は「サ」といふ辞(コトバ)を添へて、「ぞ」にあてゝ、「花ガサ昔ノ云々」と訳す。「ぞ」もじの例、みな然り。「こそ」は、つかひざま大かた二つある中に「花こそちらめ根さへかれめや」などやうに、むかへていふ事あるは、さとびごとも同じく、「こそ」といへり。今一つ「山風にこそみだるべらなれ」、「雪とのみこそ花はちるらめ」、などのたぐひの「こそ」は、うつすべき詞なし。これは「ぞ」にいとちかければ、「ぞ」の例によれり。「山風にぞ云々」、「雪とのみぞ云々」、といひたらむに、いくばくのたがひもあらざれば也。さるをしひていさゝかのけぢめをもわかむとすれば、中々にうとくなること也。「たが袖ふれしやどの梅ぞも」、「恋もするかな」、などのたぐひの「も」もじは、「マア」と訳す。「マア」は、やがて此もの転(ウツ)れるにぞあらむ。疑ひの「や」もじは、俗語には皆、「カ」といふ。語のつゞきたるなからにあるは、そのはてへうつしていふ。「春やとき花やおそき」とは、「春ガ早イノカ花ガオソイノカ」と訳すがごとし。

○ 「ん」は、俗言にはすべて皆「ウ」といふ。「来ん」「ゆかん」を。「コウ」「イカウ」といふ類なり。「けん」「なん」などの「ん」も同じ。「花やちりけん」は「花ガチツタデアラウカ」、「花やちりなん」は、「花ガチルデアラウカ」と訳す。さて此「チツタデ」といふと、「チルデ」といふとのかはりをもて、「けん」と「なん」とのけぢめをもさとるべし。さて又語のつゞきたるなからにある「ん」は。多くはうつしがたし。たとへば「見ん人は見よ」、「ちりなん後ぞ」、「ちるらん小野の」などのたぐひ、「人」へつゞき、「後」へつゞき、「小野」へつゞきて、「ん」は皆なからにあり。此類は、俗語にはたゞに、「見ル人ハ」、「チツテ後ニ」、「チル小野ノ」のやうにいひて。「見ヤウ人ハ」、「チルデアラフ後ニ」、「チルデアラウ小野ノ」、などはいはざれば也。然るに此類をも、しひて「ん」「なん」「らん」の意を、こまかに訳さむとならば、「散なん後ぞ」は、「オツヽケチルデアラウガソノ散タ後ニサ」と訳し、「ちるらん小野の」は、「サダメテ此ゴロハ萩ノ花カチルデアラウガ其野ノ」、とやうに訳すべし。然れども、俗語にはさはいはざれば。中々にうとし。同じことながら、「春霞たちかくすらん山の桜を」などは、「山ノ桜ハ霞ガカクシテアルデアラウニ」、と訳してよろしく、又かの「見ん人は見よ」なども、「見ヤウト思フ人ハ」とうつせば、俗語にもかなへり。歌のさまによりては、かうやうにもうつすべし。

○ 「らん」の訳は、くさぐさあり。「春立けふの風やとくらん」などは、「風ガトカスデアラウカ」と訳す。「アラウ」「らん」にあたり、「カ」上の「や」にあたれり。「いつの人まにうつろひぬらん」などは、「イツノヒマニ散テシマウタコトヤラ」と訳す。「ヤラ」「らん」にあたれり。「人にしられぬ花やさくらん」などは、「人ニシラサヌ花ガ咲タカシラヌ」と訳す。「カシラヌ」「や」と「らん」とにあたれり。又上に「や」「何」などといふ、うたがひことばなくて、「らん」と結びたるには、「ドウイフコトデ」といふ詞をそへてうつすも多し。又「相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人や恋しき音のみ鳴らん」などは、「人ガ恋シイヤラ声ヲアゲテヒタスラナク」とうつす。これはとぢめの「らん」の疑ひを、上へうつして、「や」と合せて「ヤラ」といふ也。「ヤラ」はすなはち「やらん」といふこと也。又「玉かつら今はたゆとや吹風の音にも人のきこえざるらん」などのたぐひも、同じく上へうつして、「や」と合せて、「ヤラ」と訳して、下ノ句をば、「一向ニオトヅレモセヌ」と、落しつけてとぢむ。これらはらんとうたがへる事は、上にありて、下にはあらざればなり。

○ 「らし」は、「サウナ」と訳す。「サウナ」は、「さまなる」といふことなるを、音便に「サウ」といひ、「る」をはぶける也。然れば言の本の意も、「らし」とおなじおもむきにあたる辞なり。たとへば「物思ふらし」を、「物ヲ思フサウナ」と訳すが如き。「らし」も「サウナ」も共に、人の物思ふさまなるを見て、おしはかりたる言なれば也。さてついでにいはむは、世に「らん」と「らし」とをただ疑ひの重きと軽きとのたがひとのみ心得て、みづからの歌にも、そのこゝろもてよむなるはひがことなり。たとへば、「時雨ふるらん」は、「時雨ガフルデアラウ」也。「時雨ふるらし」は、「時雨ガフルサウナ」の意也。此俗言の「アラウ」と「サウナ」との意を思ひて、そのたがひあることをわきまふべし。

○ 「かな(哉)」は、さとびごとにも「カナ」といへど、語のつゞきざまは、雅言のままにては、うときが多ければ、つゞける詞をば、下上におきかへもし、あるは言をくはへなどもして、訳すべし。すべて此辞は、歎息(ナゲキ)の詞にて、心をふくめたることおほければ、訳(ウツシ)には、そのふくめたる意の詞をも、くはふべきわざなり。

○ 「つゝ」の訳は、くさぐさあり。又「雪はふりつゝ」など、いひすてゝとぢめて、上へかへらざるは、「テ」と訳して、下にふくめたる意の詞をくはふ。いひすてたる「つゝ」は、必ズ下にふくめたる意あれば也。そのふくめたる意は。一首(ヒトウタ)の趣にてしらる。

○ 「けり」「ける」「けれ」は、「ワイ」と訳す。「春は来にけり」を、「春ガキタワイ」といへるがごとし。また「こそ」の結びにも、「ワイ」をそへてうつすことあり。語のきれざるなからにある「ける」「けれ」は、ことに訳さず。

○ 「なり」「なる」「なれ」は、「ヂヤ」と訳す。「ヂヤ」は、「デアル」のつゞまりて。「ル」のはぶかりたる也。さる故に、東の国々にては、「ダ」といへり。「なり」ももと「にあり」のつゞまりたるなれば、俗言の「ヂヤ」「ダ」と、もと一つ言也。又一つ「春くれば雁かへるなり」、「人まつ虫の声すなり」、などの類の「なり」は、あなたなる事を、こなたより見聞ていふ詞なれば、これは、「アレ雁ガカヘルワ」、「アレ松虫ノ声ガスルワ」など訳すべし。此「なり」は「ヂヤ」と訳す「なり」とは別(コト)にて、語のつゞけざまもかはれり。「ヂヤ」とうつす方は、つゞく詞よりうけ、此「なり」は、切るゝ詞よりうくるさだまり也。

○ 「ぬ」「ぬる」、「つ」「つる」、「たり」「たる」、「き」「し」など、既に然るうへをいふ辞は、俗言には、皆おしなべて「タ」といふ。「なりぬ」「なりぬる」をば、「ナツタ」。「来つ」「来つる」をば、「キタ」。「見たり」「見たる」をば、「見タ」。「ありき」「ありし」をば、「アツタ」といふが如し。「タ」は、「タル」の「ル」をはぶける也。

○ 「あはれ」を、「アヽハレ」と訳せる所多し。たとへば、「あれにけりあはれいくよのやどなれや」を、「何ン年ニナル家ヂヤゾヤ。アヽハレキツウ荒タワイ」と訳せる類也。かくうつす故は、あはれはもと歎息(ナゲ)く声にて、すなはち今ノ世の人の歎息(ナゲキ)て、「アアヨイ月ヂヤ」、「アアツライコトヂヤ」、又「ハレ見事ナ花ヂヤ」、「ハレヨイ子ヂヤ」などいふ。この「アヽ」と「ハレ」とをつらねていふ辞なればなり。「あはれてふことをあまたにやらじとや云々」は、花を見る人の、「アヽハレ見事ナ」といふその詞をあまたの桜へやらじと也。「あはれてふことこそうたて世の中を云々」は、「アヽハレオイトシヤト、人ノ云テクレル詞コソ云々」也。大かたこれらにて心得べし。さてそれより転(ウツ)りては、何事にまれ、「アヽハレ」と歎息(ナゲ)かるゝ事の名ともなりて、「あはれなり」とも、「あはれをしるしらぬ」なども、さまざまひろくつかふ。そのたぐひの「あはれ」は、「アヽハレ」と思はるゝ事をさしていへるなれば、俗言には、たゞに「アヽハレ」とはいはず、そは又その思へるすぢにしたがひて、別(コト)に訳言(ウツシコトバ)あるなり。

○ すべて何事にまれ、あなたなることには、「アレ」、或は「アノヤウニ」、又「ソノヤウニ」などいひ、こなたなることには、「コレ」、或は「此ノヤウニ」などいふ詞を添て訳せることおほきは、其事のおもむきを、さだかにせんとてなり。

○ 物によせて、其詞をふしにしたる、又物の縁の詞のよしなど、すべて詞のうへによれる趣は、雅言と俗言とは、ことことなれば、たゞには訳しがたし。さる類は、俗語のうへにても、ことわり聞ゆべきさまに、言をくはへて訳せり。

○ 枕詞序などは、歌の意にあづかれることなきは、すてて訳さず。これを訳しては、事の入まじりて、中々にまぎらはしければなり。そも歌の趣にかゝれるすぢあるをば、その趣にしたがひて訳す。

○ 此ふみの書るよう。訳語(ウツシコトバ)のかぎりは、片仮字をもちふ、仮字づかひをも正さず。便(タヨ)りよきにまかせたり。訳(ウツシ)のかたはらに、をりをり平仮字して、ちひさく書ることあるは、其歌の中の詞なるを、こゝは此詞にあたれりといふことを、猶たしかにしめせる也。数のもじは、其句としめしたる也。又かたへに長くも短くも、筋を引たるは、歌にはなき詞なるを、そへていへる所のしるしなり。そもそもさしも多く詞をそへたるゆゑは、すべて歌は、五もじ、七もじ、みそひともじと、かぎりのあれば、今も昔も、思ふにはまかせず、いふべき詞の、心にのこれるもおほければ、そをさぐりえて、おぎなふべく、又さらにそへて、たすけもすべく、又うひまなびのともがらなどのために、そのおもむきを、たしかにもせむとて也。(一)(二)(三)。あるは(上)などしるせるは、枕詞序など、訳をはぶけるところをしめせる也。但しひさかたあしひきなど、人のよく枕詞と知りたるは、此しるしをはぶけり。一二三は、句のついで、上は上の句也。

○ うつし語(コトバ)のしりにつぎて、ひらがなして書ることあるは、訳の及びがたくて、たらはざるを、たすけていへること、又さらでも、いはまほしき事ども、いさゝかづゝいへるなり。

○ 大かたいにしへの歌を、今の世の俗語(サトビゴト)にうつすすぢにつきては、猶いはまほしきことども、いと多かれど、さのみはうるさければ、なずらへてもしりねと、みなもらして、今はたゞこれかれいさゝかいへるのみ也。又今さだめたる、すべての訳(ウツシ)どもの中には、なほよく考へなば、いますこしよくあたれることどもも、いでくべかめれど、いとまいりて、此事にのみは、えさしもかゝづらはで、たゞ一わたり、思ひよれるまにまに物しつる也。歌よく見しれらん人、なほまされるを思ひえたらむふしもあらば、くはへもはぶきも、あらためもしてよかし。

 本居宣長
                                          (C)本居宣長記念館

『古今選』(こきんせん)

 『万葉集』及び二十一代集から、宣長が佳とした歌を撰び分類したアンソロジー。宝暦8年(1758)1月20日起稿し、初稿として1,279首を撰び、再び増補し合計1,870首を撰び、3月22日脱稿した。僅か2ヶ月の間で『万葉集』、『二十一代集』合計約38,000首を読み、吟味し、写し取る作業、しかもそれを繰り返したのは驚くべき集中力である。

     二十一代集をつぎつぎよみて思ひつゞけける
   言のはの うつりもゆくか よゝにふる 人の心や しぐれなるらん

 これはこの頃の心境を詠んだ歌である。この時期、宣長は嶺松院歌会に入会し活動を開始する時期である。自分の和歌観を再点検する意味もあったのではないか。

 刊行は、生前から計画されていたが、享和元年9月1日付、植松有信宛書簡で、もう一辺二十一代集を読まなければいけないのでまだ着手していないと書き送っている。その月29日宣長は没し、結局、村田並樹の序文(文化5年3月)を添えて刊行されたのは文化5年であった。
 草稿本、再稿本が伝わる。草稿本は『端原氏系図』の紙背に書かれ、また一部は『十三代集抄』(仮称)と言う書名で伝わる。


                                          (C)本居宣長記念館

国学者の蔵書印・蔵書票

 本を積極的に貸し借りしようという宣長の主張と実践は国学者の間で浸透していった。貸し借りの時に効力を発揮するのが蔵書印、また蔵書票(ex-libris)だ。中には非常にユニークなものもある。

 まず宣長の場合は「鈴屋之印」。もちろん53歳、新書斎増築以後使用であろう。この蔵書印を押してある本は、「坊間稀」で、大半は本居宣長記念館にある。

 養子となった大平の蔵書票には、 「書かさば かりてよむとも よまば又 かしたるぬしに はやかへすべし 大平」(本貸さば借りて読むとも読まばまた貸したる主に早返すべし)という歌が書かれている。縦12.0×横6.0cm。この蔵書票の実物は見たことがない。東京大学本居文庫は大平の旧蔵書を多く収めるが、そこにはたくさんあるのだろうか。挿絵は高木文『好書雑載』から採った。歌と言うより七五調の文句のようなものだが、かえって実直な性格をよく表している。

 宣長没後の門人、伴信友の蔵書印には、「このふみを かりてよむひと あらむには よみはててとく かへしたまへや」(この本を借りて読む人あらむには読み果ててとく返し給へや)と言う歌が書かれる。真ん中は伴信友家の常紋「三つ巴」。

 堤朝風(ツツミ・アサカゼ)の蔵書票もまたユニークだ。「第一と第二のゆびもてひらくべし、其よみたるさかひにをりめつけ、又爪しるしする事なかれ」。親指と人差し指で開くこと。折り目は付けるな。爪印は付けるな。朝風は、宣長の年譜を編んだという大平門人である。 読みたい人には本を貸してやる。しかも大事にしたのだ。
       「宣長の蔵書印」 「鈴屋之印」 
       「大平の蔵書印」 「書かさば・・」
          「伴信友の蔵書印」
          「堤朝風の蔵書印」
        「鈴屋之印」 実際の使用例
        「鈴屋之印」 実際の使用例
                                          (C)本居宣長記念館

国学はなぜ発展したか

 真淵・宣長師弟の時代に、国学は儒学と並ぶ学問の一大勢力となり、また日本古典研究の優れた研究が続々と生み出せたのは、その学問の柔軟さ、また開放的なことにあったといってよい。昔からある学問が硬直化していくなかで、自由な議論を行う新しい国学はいくらでも発展する余地があった。その発展の要因を3つ挙げてみよう。

 1は、師説批判の自由である。
宣長は真淵説を批判した。ほかの門人、荒木田久老らからひんしゅくを買うほど批判した。だが、宣長は云う、これは真淵先生の教えであると。 『玉勝間』巻2「師の説になづまざる事」では、師説の訂正は「これすなはちわが師の心」であると言い、続く「わがをしへ子にいましめおくやう」は、私の説を改めて欲しいと念願する。宣長の決意表明であった。

 2は、ネットワークである。
真淵は宣長に書簡で勉強を教えた。また仲間と協力して研究するように勧めた。真淵時代はまだ江戸、遠州、伊勢が中心の国学者のネットワークは、宣長時代にほぼ全国に広がる。出版とともに書簡の連絡網は密になり、宣長の「質疑応答の勧め」や「本の貸し借りの勧め」もあり、国学を全国的なものとし、また真淵や宣長に批判的な者にも参加する余地を残したと言える。

 3は、出版である。
 これは宣長が熱心だった。本を出せばの誰でも、どこでも、いつでも研究に参加できる。宣長は『百人一首改観抄』で契沖の学問を知り、『冠辞考』で真淵の学問を知った。全て刊行された本だ。だから、宣長も後進のために本を出そうとしたのだ。


                                          (C)本居宣長記念館

「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」

 『古事記伝』を書き終えた69歳の宣長は、門人のもとめに応じて学問の入門書を執筆した。『うい山ぶみ』である。18歳頃に和歌に志して学問の世界に踏み入ってから数えると約50年、宣長の思索と体験を凝縮された本で、今も学問への道を歩もうとする人にとって、指針となっている。

  その中で宣長は、学問は自発的なものであることを主張する。つまり「志」こそが一番重要であり、方法は二の次であると言う。
「すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立てて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よはくては、学問すすみがたく、倦み怠るもの也」
 「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く、倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇なき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」『うひ山ぶみ』
 だから、このような入門書もかえってよくないのかもしれないと自問自答し、最初に挙げたような歌を添える。
 新米の山伏が初めて山入りをする。そのように学問の道に初めて入る人のために、ごく基礎的なことを書いたのだが、果たしていかがなものであろうか、と言う意味だ。

 自分が好きで始めた学問だから、好きなようにすればよい、ということだが、宣長自身の覚悟は決まっていた。たとえ定説、また師説であっても大事なのは真実である。その究明が最終目標となるということだ。
「今おのれ、かの考(賀茂真淵著『祝詞考』)を本として、その説をことごとく挙て、考ニ云クといひ、頭書に至るまで、もらさず引出て、次におのが思ひとれる事どもをしるし、かの考の違へるふしぶしをも論ひて、後釈となづけつ、かの余(ホカ)のもろもろの注釈どもは、みないふにもたらぬことのみ多かれば、そのよきあしきは、ひたぶるにすてて、あげつらふことなし、もはら吾大人の考を、つぎひろむものぞ、そもそも師とある人のあやまちをあぐることは、いともかしこく、罪さりどころなけれども、今いはざらむには、世ノ人ながく誤りを伝へて、さとるよなく、猶いにしへごころの、明らかならざらむことの、うれたさに、えしももださざるになむ」
                            『大祓詞後釈』
 評論家・小林秀雄は宣長を評して、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分は愚か、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見えてくる」と言っている。


 
                                          (C)本居宣長記念館

『古事記伝』

 外来文化の影響をうける前の日本人の心を知るためには、『古事記』が第一の書であると宣長は考えた。そして、半生をかけて、『古事記伝』を執筆した。但し、松坂を始め各地での講義書目には『古事記』は入っていない。講釈できる本ではない、そのエッセンスは『直霊』で明らかにしたし、講釈もした、あとは『古事記伝』を読んで欲しいということだったのだろうか。

               『古事記伝』再稿本(『古事記』本文) 宣長自筆・国重要文化財

『古事記伝』書き終わる

 『古事記伝』44巻を書き終えたのは、寛政10年(1798)6月13日(新暦7月26日)。賀茂真淵と新上屋で会して『古事記』研究の志を打ち明けてから36年目、『古事記』校合という基礎作業から数えても35年の歳月を費やした、文字通り畢生の大著である。

 命ある内に全巻終業できたことを宣長は喜び、神への感謝を新たにした。
  6月17日の荒木田久老宛書簡で
「私古事記伝も、当月十三日全部四十四巻卒業、草稿本書立申候、明和四年より書はじめ三十二年にして終申候」と喜びを伝える。
 九月十三夜、宣長は観月会を開き全巻終業の祝賀歌会を開催した。
  写真はその時の宣長の詠。

   「寛政十年九月十三夜古事記伝かき終へぬるよろこびの円居して披書視古といふことを題にて人々とゝもによめる

    古事の記をらよめばいにしへのてぶりことゝひきゝみるごとし」

 歌の意味は『玉鉾百首』で
 「上つ代のかたちよく見よいそのかみ古事ぶみはまそみのかがみ」
 と詠んだのと同じ『古事記』(コジキ・フルコトブミ)礼賛歌。「をら」は、「等(ラ)はかるく助辞の如心得べし」(『万葉考』)。
 

                         「古事記伝終業慶賀の詠」
                                          (C)本居宣長記念館

『古事記伝』の奉納

 刊行された『古事記伝』は清浄本を作り神社に奉納された。
 寛政2年(1790)9月12日付横井千秋宛書簡に
「一、記伝開本、此節出来仕候ニ付、兼々申上候通、清浄本三帙外ニ二帙被下置、千万忝仕合ニ存奉候、右清浄本三帙ハ、当地神社へ方々奉納仕云々」
また
「同書(『古事記伝』)初摺本両大神宮熱田宮へも御奉納相済申候由、大悦奉存候」
とあることから、伊勢両宮、熱田神宮、松坂の神社三社であったことが分かる。松坂の三社は恐らく八雲、御厨、山神社であったかと推測されるが、確証はない。だが御厨神社が含まれることは、同社所蔵の宣長書簡から明らかである。

  また、寛政4年閏2月28日付、横井千秋宛書簡では、第2帙清浄本2部が松坂に送られたことと、両宮への奉納が行われた謝意が述べられる。第2帙で2部と減じているのは、『諸用帳』に記載される第一帙奉納時の初穂料「(寛政二年十月)十日、三匁 奉納書初穂」(宣長全集・19-579)が、寛政4年3月6日には「一、二匁 記伝奉納初穂」(宣長全集・19-605)と1匁減じたことと相応し、奉納先が減ったことが推測される。
                         御厨神社『古事記伝』箱
                         御厨神社『古事記伝』内部
                       御厨神社『古事記伝』奉納書簡

                                          (C)本居宣長記念館

『古事記伝』板木の値段

 「覚、一金五拾七両二歩也、右は古事記伝十八之巻十九之巻廿之巻廿一之巻〆四冊分板木売渡之代金也、慥ニ受取申候、為後證如斯候、以上、寛政十二年申正月 植松忠兵衛(印)、風月堂孫助殿、永楽堂東四郎殿」。「五拾」「受取」の上にも印が捺される。
 これ以後、『古事記伝』刊行は、横井千秋等特定個人から離れて本屋主導になっていく。

                                          (C)本居宣長記念館

『古事記伝』板本の刊行年

第1帙(巻1~5)
寛政2年(1790)
第2帙(巻6~11)
寛政4年(1792)
第3帙(巻12~17)
寛政9年(1797)
第4帙(巻18~23)
享和3年(1803)頃?
第5帙(巻24~29)
文化10年(1813)頃?
第6帙(巻30~34)
文化13年(1816)以前
第7帙(巻35~39)
文政3年(1820)頃?
第8帙(巻40~44)
文政5年(1822)(刊記)
【注】
  第1帙刊行について、寛政2年9月12日付横井千秋宛書簡で刊行の喜びと奉納について書く。

  第5帙の刊行は『藤垣内略年譜』に文化10年3月献上との記事があるが、高倉一紀氏は8月3日付竹口直彦宛大平書簡から、文化9年7月頃かと推定される(「伊勢商人中万竹口家の教養と国学」『松阪大学地域社会研究所報』第5号)。関係する一節を引く。
 「高門も今は一両年以前より京住にて、右之文通にも及可申候間、貴詠も見せに遣し可申候、依而一紙うつさせ置候事に御座候、先達而貴地御下向之節、植松方へ御立寄被成候由、貴君便ニて彼人之様子も承り申候事ニ御座候、病気故文通もなく、物遠ニ存居候事ニ御座候、七月五日(傍書「ナコヤ」)出し書状、七日時分若山へ着、猶又委細相分申候、故翁古事記伝五帙目本出来候而、贈参候便ニて御座候、本からよく出来悦申し候」<
 第6帙の刊行について、文化13年12月24日、内池永年宛本居左衛次差出書簡(年次は端裏に「文化十四丑二月三日、左衛次主」から推定)に、「古事記伝之儀、先達而御尋、右ハ(傍書「此内廿九ヨリ三十四迄ハ旧年カ出版ニ相成リ候也」)三十四迄出版いたし居申候事也」とあり、それ以前の刊行であることが明らかである。(『福島市史資料叢書 第五〇輯内池永年集』P142)

  第8帙は巻40から始まること御厨神社に奉納された本で明らかである。


                                          (C)本居宣長記念館

『古事記伝』への道

◆ 『古事記伝』とはどんな本ですか?
  本居宣長が、35歳頃から35年をかけて69歳の時に書き終えた『古事記』の注釈書です。第1巻では、『古事記』と言う本の価値を明らかにし、『日本書紀』等の本との比較、書名、諸本、研究史、また解読の基礎となる文体論、文字や訓法についてまず書き、宣長の古道(古代世界を貫く理念のようなもの)についての考え方を述べた「直毘霊」(ナオビノミタマ)、第2巻は序文の解釈と系図が載ります。第3巻から第44巻が本文とその訓読、注釈です。書かれてから既に200年以上経過していますが、いまだに『古事記』研究書としての価値を失っていません。

 ◆ どうして漢字で書かれているのですか?
  太安万侶の頃には、日本人はしゃべる言葉は持っていても、平仮名も片仮名もまだ発明していなかったのです。

 ◆ 宣長が『古事記』という書名を知ったのはいつ頃ですか?
  宣長が書いたものの中で最初に『古事記』の名前が出るのは、16歳の時に起筆した『経籍』という本の名前ばかり集めた本です。その中に、「本朝三部ノ本書」として、「旧事紀クジキ【ワ雑十巻】、古事記コジキ【ワ雑三巻】、日本紀【ワ雑三十巻】』が出ている。

 ◆ 買ったのはいつですか?
  京都遊学中の宝暦6年7月(宣長27歳)に、『先代旧事本紀』と一緒に10匁2分で購入した。大山為起という神官の旧蔵本だったようで為起の書き入れもあります。同月、『日本書紀』を読み終えているので、その流れで両書を買ったのでしょう。

 ◆ 研究しようと考えたのはいつ頃ですか?
  28歳で松坂に帰郷した宣長は、和歌の根源に遡るうちに、上代へと足を踏み入れていきました。現代風に言えば、日本人とは何かという問題を考え始めたのです。
  この頃、賀茂真淵の『冠辞考』を借りて読んでいます。これは『万葉集』に出てくる「枕詞」(冠辞)の辞典ですが、古代研究の方法や理念にも触れています。一回読んだくらいでは理解もできなかったようですが、それでも繰り返し読んでいるうちにだんだん真淵の学問へ引きつけられていきました。
  この本の中に、『古事記』と『日本書紀』の両方に出ていることは『古事記』を引用した。なぜなら『古事記』は真実の書だからだ、とあります。
 「古事記、日本紀に同じく有ことをは古事記を挙つ、古事記はまことのふみ也、紀はから文に似たらんとつとめ書つれば、訓におきて人のおもひまどふ事もまじれば也、されど紀にてことわり明らけきをば紀を先とせり、旧事紀は後につくれるものにて、古意ならぬ事おほきふみなればとらず」(序附言)
  宣長は、『日本書紀』や『先代旧事本紀』、『古事記』を比較しながら この「『古事記』は真実の本だ」という真淵の言葉を慎重に検証しました。一つの成果が宝暦11年3月の「阿毎莵知弁」です。
  この頃、宣長は「石上」(イソノカミ)と言う号を付け、署名に使ったり、『石上集』や『石上私淑言』など書名にも使用しています。古代への憧憬の念の一つの現れでしょう。また、一方では『万葉集』の講釈も開始しています。そんな中で、だんだん『古事記』を読む必要性を痛感していったのです。


 ◆ 研究を決意したのはいつですか?
  宣長自身は、30代前半、真淵先生の教えを受け始めた頃から『古事記』を研究しようと思って、その事を先生にも申し上げたと書いています(「あがたゐのうしの御さとし言」)。
  宝暦13年(1763・34歳)5月25日、宣長は江戸の国学者・賀茂真淵と対面(松坂の一夜)する。この頃には、すでに注釈を書こうという志があったと考えていいでしょう。
 【原文】
 「宣長三十あまりなりしほど、縣居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは」『玉勝間』巻2「あがたゐのうしの御さとし言」。


 ◆ 『古事記伝』の起稿時期はいつですか?
  真淵と会った翌宝暦14(明和元)年1月12日、子の日。嶺松院会で歌会始。この日、手沢本『古事記』(寛永版本)を度会延佳本で校合しました。
  もちろん、一日で出来るはずがないので、しばらく前から着手していたはずです。
  また、同月18日、年始開講で、『日本書紀』「神代紀」の講釈を始めています。定日は8の夜で、明和3年(1766)3月10日に終業しました。
  実は『古事記伝』を何年何月から書き始めたかは正確にはわかりません。ただ、校合は注釈の基礎作業、準備ですから、この年1月「『古事記伝』執筆に着手」と考えていいでしょう。


                                          (C)本居宣長記念館

『古事記伝』を写す

『古事記伝』を写したのは帆足親子だけではない。

遠州の門人・栗田土満や、伊勢神宮の蓬莱尚賢、また大平なども書写していたようだ。
土満の写した本は現存する。大平などから借覧して写していったようだ。
また、尚賢は、志半ばで没したが、途中までの分が今も残っている。

                                          (C)本居宣長記念館

『古事記』の校合

 奥書によれば宣長は『古事記』の校合を4度行っている。

  第1回、宝暦14年1月12日、度会延佳本。
   「宝暦十四年甲申正月十二日以度会延佳校本校合終業、神風伊勢意須比飯高舜庵本居宣長(花押)」。

 第2回、延佳本校合済の信慶本で安永9年5月25日(中巻)、同月26日(下巻)。

 第3回、村井敬義所蔵古写本で、天明3年2月13日(全巻)。

 第4回、真福寺本の転写本で、天明7年4月14日(全巻)。




                                          (C)本居宣長記念館

『古事記』とはどんな本ですか?

 和銅5年(712)成立した歴史書。現存最古の史書。上中下3巻から成る。
 天武天皇が稗田阿礼(ヒエダノアレ)に命じて誦習させた「帝王日継」と「先代旧事」を太安万侶(オオノヤスマロ)に撰録させた本。
 文章は漢字で書かれ、序文は漢文体。本文は和化漢文体、和文体の併用する。
 内容は、上巻は神代。中巻は神武天皇から応神天皇。下巻は仁徳天皇から推古天皇の時代を叙述しています。

 成立して8年後、正史としての『日本書紀』が完成し、その陰に隠れてほとんど読まれずに1,000年余の時が流れ、宣長の時代に至りました。宣長当時、日本の古代史についての文献といえば、『日本書紀』が金看板なら、『古事記』はくすんで字も読めなくなった看板だったのです。その古ぼけた看板を古道具屋の店先から拾ってきたのが賀茂真淵。その遺志を継ぎ、磨いて新しい金看板に仕上げたのが宣長である。
                       『古事記』(宣長手沢本)本文冒頭
                                          (C)本居宣長記念館

53歳の宣長

 『天文図説』と同じ頃、宣長は『真暦考』を執筆しています。この年の秋(7~9月)宣長は体調を崩し、講釈や質疑応答などを全部休止していたので、気分転換にこのような天文や暦学と言った本を書いたのでしょうか。『古事記伝』執筆や質疑応答のような一々原典を確認しなければならない集中を要する仕事に比べれば、天井を見ながらでも構想は練れる筈です。何より空を見ることが好きな宣長さんにとっては楽しかったはずです。
 この年10月8日、2階の増築に着手し12月上旬竣工。これが「書斎・鈴屋」です。やはり体調優れず、講釈休止で来客が少なくなった事が直接の要因でしょう。でももう一つ下世話な推測をすると、この前年、前々年と年間医療収入が90両と、記録に残る限り最高額を記録したのも、増築に踏み切った一要因かもしれません。
                                          (C)本居宣長記念館

御城代屋敷

 松坂城代は、明暦3年(1657)、松坂城を守護し、併せて勢州領の諸役所を統括するため紀州藩から遣わされた。藩の中でも年寄、城代、大番頭に次ぐ要職にあり、重役と称されるエリート官僚の一人であった。屋敷の場所は現在の福祉会館の北側辺りにあり、配下には与力2人と同心20人が属した。
                                          (C)本居宣長記念館

御城番屋敷

 殿町。松坂御城番、40石取りの紀州藩士20人とその家族が住んだ組屋敷。主屋2棟、前庭、畑、南龍神社、土蔵から成り周囲を槙垣が巡る。
   今では松阪市の名所として定着しているが、文久3年(1863)に建てられたもので、宣長当時はまだ無い。

                            御城番屋敷秋景
                                          (C)本居宣長記念館

御前講義

 65歳の宣長は、紀州藩主の招きで和歌山に出府します。初めて十代藩主・徳川治宝(はるとみ)侯に御前講義をしたのは、寛政6年11月3日で、講義書目「大祓詞」(おおはらえのことば)でした。藩主から2間(約3・6m)と近くまで進み、そこから講義を行いました。講釈の図が残っています。
                        「寛政6年和歌山城内講釈の図」
                                          (C)本居宣長記念館

御前講釈は突然やってくる

 若山での御前講釈は、出立前から綿密に打ち合わせや準備がなされていたのではなく、用事があるから若山に来なさいという呼び出しで赴き、次の指示を待ちながら滞在するという次第である。『古語拾遺』の時も、前日の享和元年正月13日に「明日御城侍講被仰付、古語拾遺を読申候筈ニ御座候処、右古語拾遺一本入用ニ御座候、国造様御方ニ御所持御座候ハハ、暫拝借仕度奉存候」、出来れば今日の八つ時(午後2時前後)までに借りたいと言う手紙を森本菅彦に出している。

 ところで、前日にテキストを探す、まるで綱渡りのような講釈で大丈夫だろうか?
 宣長なら大丈夫。この時も「珍ら敷思召候、太儀之旨被仰出候」、つまり興味深く聞いた。ご苦労であったという殿様の仰せ書を頂いている。
 また、国造家で神官たちに『玉鉾百首』の講釈もした。 


                                          (C)本居宣長記念館

言葉

 言葉が好きな人であった。言葉への関心は高く、珍しい言葉や言葉の用法、変化などに関心を払い、多くのメモを残し、またそれを研究論文にまで高めていった。

 例えば、『伊勢物語』に、「侍る」という言葉は2例しか出てこない。
 娘の飛騨が赤ちゃんだった時にしゃべったことば、例えば「枕」を「マカ」、「飯くれ(ママクレ)を「マクレ」と言うのが「反切」という言語の法則にかなうとメモしたこともある。

 言葉遊びも好きで、なぞなぞを作ったり、また47文字を一回ずつ使って歌を作ることも試みた(「雨降れば」)。カルタの方法も考案した。『名勝地名箋式』は宣長が考案した歌枕の知識習得のためのカルタ法式。

  また「言葉」について、「言」(コトバ)と「事」(ワザ)と「心」というものは大体一致するものだともいう。だから上代の人を知り、理解するためには「言葉」を知ることがまず必要となり、そのためにも「歌」を詠むことが大事になるのである。 


                                          (C)本居宣長記念館

『詞の小車』(ことばのおぐるま)

 柴田常昭著。30巻10冊。『活用言の冊子』に基づき、活語の構成を「首(コウベ)」(語幹)、「足掻(アガキ)」(車語のはたらき)、「車」(活用語尾)という術語で説明する。また、『活用言の冊子』各会の活用の統括がなされ、活用体系を明らかにしようとした。書名は、著者は「詞つかひ」案であったが、宣長からの「言葉の小車、題号ヲカクノ如ク被成候而ハイカヾ」(表紙書入)の指示もあり両者を混用する。但し、宣長説は本書を「車辞」の考察という領域でのものであり、常昭が意図した「活語論」という広範囲な領域を包含するものではない。著者による改訂案「詞つかひ真櫛抄」は師の好尚との折衷案であろうか。
 加筆した宣長が添えた寛政4年11月9日付書簡に、自分もこの問題を考えたいと思っていたが、暇が無く残念に思っていたことを言い、完成を期待する。また「千言万語其例格ノ違ハザルコト誠ニ皇国言霊ノ奇妙ナル所也」と嘆賞する。だが寛政六年の著者の死により未完のまま終わり、同じ津の門人芝原春房の加筆も為されるが、むしろ本書の継承は『詞の八衢』により為されたと言えよう。但し、本書と『活用言の冊子』、また『あゆひ抄』、『詞の八衢』等の関係はきわめて複雑であり、今後の課題である。稿本は国立国会図書館所蔵。

 【参考文献】
 「柴田常昭『詞つかひ』-その学説の主要点について-」尾崎知光・『国語学史の基礎的研究』(笠間書院)。
 『常昭の語学研究 近世日本文法研究史・続』渡辺英二(和泉書院)。


 
                                          (C)本居宣長記念館

『詞の玉緒』板行料を三井高蔭が出す

 『高蔭日記』天明5年2月28日条に

「昨夕得御意候登せ金弐両持せ遣し候御落手可被下候猶晩程面上万々可申候以上、廿八日、重太様、高蔭、玉の緒板行料金弐両也慥受取申候右当巳三月節句前登セニ仕候両方書物屋へ相渡し可申候左様思召可被下候以上、二月廿八日、大平、総十郎様」

とある。
 2両で大部の『詞の玉緒』が刊行できるはずがないので、その費用の一部であろう。出版には門人も協力したのだ。 



                                          (C)本居宣長記念館

『詞の玉緒』(ことばのたまのお)

 安永8年(1779)自序。天明5年(1785)刊。但し「今日稀」(宣長全集5-解15)。
 内容は、「てにをは」は漢文の助辞と異なり一定の陳述形式と対応することをまず説き、『てにをは紐鏡』で示した係り結びの法則を、八代集などから実例を挙げて解説する。また、「てにをは」に関わる語の呼応、倒置法、変格、体言止めなどにも触れ、「てにをは」研究の集大成となっている。署名は、体言、用言、副詞などを玉に例え、助詞、助動詞の「てにをは」を玉をつなぐ糸に見立てる。


                                          (C)本居宣長記念館

『詞の玉緒』その後

 「『詞の玉緒』は内容が確実で平明であったから理解しやすく、この後をついで古典のテニヲハの研究に入るものが頗る多かった。」(宣長全集5-解15)
 寛政4年(1792)補刻版が刊行された。
 文政12年(1829)再版。
 嘉永4年(1851)再版。
 明治になっても再版された。

 宣長以後も、内容を補ったものや、また解説した本がたくさん出版された。
例えば、
『玉緒繰分』義門
『玉緒延約』幻裡庵日善
『玉緒末分櫛』長野義言
 『詞の玉緒補遺』中嶋広足



 
                                          (C)本居宣長記念館

個と連続

 宣長は生涯に厖大な記録を残している。
 例えば『日記』を誕生の日まで遡り起筆し、また後年には自画像を描く。『遺言書』は命日の決め方埋葬の仕方に及ぶ。これらは史家の目で記述した一人の人間の記録のようである。背後にあるのは、他の誰でもない自分という意識。この自己への関心が宣長の出発点であり、最終目標であった。「個」の自覚は、家の伝統を重視し、社会の慣習を重んじる、いわば「連続するもの」への尊重とバランスをとり続け、生涯破綻なく過ごす。

 宣長の価値判断の基準に「永続」がある。つまり、連続だ。天皇を頂点とする京都や和歌に及ぶ日本の文化伝統から、家の永続に至るまで、長く続くことを尊重し、また希求していた。その象徴的な現れが15歳の時に写した『神器伝授図』であり、『職原抄支流』である。

 その長く糸のようにのびる時間の流れの中の一つの点としての「自分」と言う認識。その一つ一つの点には個としての意味があると考えていた。
 例えば、宣長の墓はなぜ二つあるのか。樹敬寺は小津から本居へと続く家の流れの中の構成員としての墓である。奥墓は、個としての墓である。門人など彼の学を慕う人が訪うて来たときに教えるのは奥墓であるのは、それは宣長という個人を慕ってきたのであり、本居家の一員を慕って来たのではないからだ。本居家においては宣長は「高岳院石上道啓居士」として、一方、小西春村や門人は「秋津彦美豆桜根大人」として祀ったのもそのような区別があると言えよう。



                                          (C)本居宣長記念館

小西春重(こにし・はるしげ)

 天明5年(1785)11月26日~弘化4年(1847)2月6日。享年63歳。春村男。小西家7代当主。享和元年(1801)4月、上京中の祖父宣長を京都に訪ねる。文化6年(1809)11月6日、光田庄右衛門正信女・ふさを娶り、同7年春、太郎兵衛と改名。法号は「遊花浄栄信士」。一女英(ヒデ)があり、養子を迎え8代当主とする。

                                          (C)本居宣長記念館

小西春村(こにし・はるむら)

 明和4年(1767)正月14日~天保7年(1836)12月18日。享年70歳。宣長次男。童名、恭次郎。天明元年12月22日元服。天明4年9月15日、津(津市)京口の薬種商、小西政盈養子となる。天明5年2月20日、小西政盈長女を娶り披露する。子供は春重と小好。

 なお、小西家は津の本屋・山形屋伝右衛門の向かいにあった。
 山形屋は、『草庵集玉箒』や『馭戎慨言』等の刊行も行った津を代表する書肆である。



                                          (C)本居宣長記念館

好みの装丁

 古本屋で、積まれた本から宣長著作を探すのは簡単だ。布目模様の水色か紺の表紙で紫の糸が目印だ。一々題簽を見なくても結構命中率は高い。

 寛政元年(宣長60歳)11月14日付・鈴木真実宛書簡で『神代正語』の装丁について詳しい指示がある。まず帙について言ったあと、「本仕立之事」と書き、
「○色、浅黄布目 是は拙作書物、いつれも右の通りに御座候へば、皆一様にいたし度候也。○外題紙は唐紙の宜所尤左の方に張る。○とぢ糸、紫。○角包み、紫または鳶色の類右の通りにて、(帙は)表紙の色と栄合可宜候、表紙と同色にてはいかが」
と言っている。実際に刊行された宣長の著作も、大体このような装丁である。ただ、没後や、また再版から表紙の色が濃紺に近くなっていくという傾向が見られる。
 

                           宣長著作の表紙
                                          (C)本居宣長記念館

ご飯に感謝

  たなつもの百の木草も天照す日の大神の恵みえてこそ
 朝宵に物くふごとに豊受の神の恵みを思へ世の人                              『玉鉾百首』

 食事が出来るのは伊勢神宮に祀られる神のおかげだと言う歌だが、食事の時、箸を止めて、このご飯の食べられるのも神様のおかげではないか、なぜみんなそのことを感謝しないのかなあと、ふっと出た宣長の独白のような歌であろう。

 宣長には食物に対する信仰とも言える感謝の念があった。「稲」はその代表である。
  『玉鉾百首』の歌も、『古事記伝』の「稲は殊に、今に至るまで万の国にすぐれて美(めでた)きは、神代より深き所由あることぞ、今の世諸人、かゝるめでたき御国に生れて、かゝるめでたき稲穂を、朝暮に賜(た)ばりながら、皇神の恩頼をば思ひ奉らで」と言う主張もこのような思いから発している。また『玉くしげ』や『伊勢二宮さき竹の弁』でも一つの基調となっている。

 また『日記』宝暦12年以降、寛政11年まで各年末には米価が記される。  
 宣長は日本の国のすばらしさを主張するとき、米に恵まれ得ていることをまず挙げる。確かに24粒の籾種が秋には2合5勺の精米になる。成人男子の一日分にはちょっと足りないが、生産性は高い。日本が「瑞穂の国」であったことは、社会の安定の大きな要因である。

【参考】
「外宮古殿神異の図」
 仮称。軸装、紙本木版手彩色。本紙寸法84.0×27.5糎。
 「いはまくもかしこけれと、豊受大神は天か下に生としいけるものゝ」たふる食物をことごとく司らせ給ふ御神徳のおはしまし」皇太神の高天の原よりして、いつかせ給ふ深きゆゑよしのありて」朝廷よりも重く祭らしめ給ふ事は世の人のよくしる所也、然るにこの」大神を祭り奉る外宮の古殿の御前に、ことし明治三年の夏の頃より」おのつからいねと粟と生ひ出てみつみつ敷実のりしは、いともいともくすしく」めてたき事にて、こはまたく大神のみたま幸へ玉ひて、此秋は」国々おしなへてゆたかならしめ玉ふしるしを、よの中にしらしめ玉ふ」ものならむと尊くも悦はしくも思ひ奉る余りに、其姿を画に写し」はたその上に本居の大人平田の大人の詠おかれし歌をも因にしるして、」よの人々に御恩頼のありかたきをしらしめむと思ひ侍るに社穴かしこ/朝よひにものくふことに豊受の神のめくみを思へよの人 宣長/豊受の神は天てる日の神のいつきまつらす御饌の大神 篤胤」 山田俊幸氏蔵


                                          (C)本居宣長記念館

コンペイトウ

 南蛮渡来の砂糖菓子。織田信長に献上されたのが日本における初見。
 この珍しい御菓子が、宣長の『音信到来帳』には、「こんへいとう」として、7回も出てくる。

  寛政8年3月28日、こんへいとう 一包 江戸人
  同10年正月29日、こんへいとう 一曲 早川清大夫
  同11年6月18日、こんへいとう 一包 藝州人認礼
  同12年3月8日、こんへいとう 一箱 若山東九郎
  同年3月28日、 こんへいとう 一箱 早川清大夫
  同年6月朔日、こんへいとう 一箱 橋本伝兵衛
  同年11月18日、こんへいとう 一包 もりた喜兵衛

 ところで、なぜ「こんへいとう」なのか。
 珍しい、携帯に便利と言うこと、それからどうやら宣長先生は甘党だったなど諸条件が重なったのだろう。
 たとえば、早川文明(清大夫・尾張清洲の門人)が二度持ってきているのは、きっと一回目に喜んでもらえたからだろう。

 この南蛮渡来の不思議な甘い粒の菓子を、国学者本居宣長はどんな顔をして食べたのか、想像するだけでも楽しいですね。
 
 コンペイトウについては、中京大学の中田友一先生に、『おーい、コンペートー』(あかね書房・1990年3月・本体価格951円)と言う素晴らしい本があります。また中田先生の「金平糖を守る会」会誌は、金平糖に関する国内はもとより、世界中の情報を満載しています。

                                          (C)本居宣長記念館
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