
11月8日(木)から、記念館1階の旬コレコーナーで、「本居宣長六十一歳像」を展示しています。2017年に宣長の門人坂倉茂樹のご子孫から寄贈された資料のうちの1点で、記念館では今回が初めての公開となります。 |
今も広く知られる「本居宣長六十一歳自画自賛像」ですが、宣長の生前中にも、師の姿を手元に置きたいという門人は大勢いました。そこで数多くの写しが制作されましたが、中でも名古屋の吉川義信が描く宣長像は宣長自身も認める出来映え。高弟と言われる門人たちは皆、義信の描いた宣長像を持っていたと言われています。茂樹も義信の宣長像を持っていた一人。初めとある絵師に宣長の像を描かせ、賛をしたためてもらおうと宣長に依頼した茂樹でしたが、あろうことか、その絵が宣長の気に入らず賛をもらい損ねてしまいました。 |
そこで宣長が、名古屋に腕の良い絵師がいるからと義信を紹介し、茂樹は無事、宣長自らが賛を書いた肖像を手にすることができた、という逸話が残っています。 |
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▲奥墓がある山室山の秋の風景を描いた「山室山の図」(渡辺清画、本居春庭賛・美濃代筆)、秋の企画展にちなんだ「隠岐国図」(本居春庭写)とあわせて展示しています。 |
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坂倉茂樹……茂樹は伊勢国白子(鈴鹿市白子)・栗真神社の社司の子で、宣長より33歳年下。初め菅生、後に茂樹と改めました。1784(天明4)年、21歳で宣長に入門すると、神道や倭建命の御陵とされる地元の古墳・能煩野陵について熱心に学び、度々松坂を訪れて歌会に参加したり、詠草の添削を受けたりと、和歌の実作にも力をいれました。中でも能褒野陵の研究成果は宣長の『古事記伝』に引用され、1789(寛政元)年には、名古屋から帰郷途中の宣長に、地元の能褒野陵や山辺御井周辺を案内したことでも知られています。 |