《鈴屋遺蹟保存会の目的》
「本保存会は、本居宣長の関係史跡及び遺墨、遺品などを永久保存し、その偉業を調査及び研究するとともに公開及び顕彰を行うことを目的とする。ま た、本居宣長を生んだ郷土松阪の文化的背景に関する調査、研究を行うことによって、郷土の地域文化の向上発展に寄与するものとする。」
公益財団法人鈴屋遺蹟保存会定款 第2章第3条(目的)
「本保存会は、本居宣長の関係史跡及び遺墨、遺品などを永久保存し、その偉業を調査及び研究するとともに公開及び顕彰を行うことを目的とする。ま た、本居宣長を生んだ郷土松阪の文化的背景に関する調査、研究を行うことによって、郷土の地域文化の向上発展に寄与するものとする。」
公益財団法人鈴屋遺蹟保存会定款 第2章第3条(目的)
♯1 本居宣長旧宅と本居宣長記念館の歩み
「本居宣長記念館」
本居宣長は、その故郷である三重県松阪市に、旧宅や関連史跡、膨大な資料が残されています。
旧宅や史料はどのようにして保存され、公開されることになったのでしょうか。
その経過をたどってみましょう。
旧宅や史料はどのようにして保存され、公開されることになったのでしょうか。
その経過をたどってみましょう。
本居宣長(1730-1801)
♯2 きっかけは、明治の松阪大火
明治26年(1893)3月29日午後7時頃、松阪魚町2丁目から出火。
またたく間に町の中心部は火の海になりました。
焼失家屋1318戸。神社5社。寺院6院。官公庁4カ所。
焼失家屋1318戸。神社5社。寺院6院。官公庁4カ所。
♯3 鈴屋と資料は無事だった
♯4 宣長没後百年
♯6 松坂城跡でのイベント
♯7 宣長を記念する図書館を
11月5日、その日の『伊勢新聞』には、「浦西」という署名で
「本居翁の百年祭と図書館」 という論説が載りました。
「幸ひ松坂には多数の素封家あり此等の人々相議して中心となり、天下に計らば事成る決して難きに非るべし、
「本居翁の百年祭と図書館」 という論説が載りました。
「幸ひ松坂には多数の素封家あり此等の人々相議して中心となり、天下に計らば事成る決して難きに非るべし、
而して所謂永遠に伝ふべき設備とは何ぞ、松坂に翁の記念の図書館を設くる事之なり」
松阪はお金持ちが多いのだから、宣長記念の図書館、つまり記念館くらい建てたらどうかという提案です。
松阪はお金持ちが多いのだから、宣長記念の図書館、つまり記念館くらい建てたらどうかという提案です。
♯8 城跡公園移築構想
宣長百年祭に参列した剣南道士(けんなん・どうし)が見聞録(『理趣情景』東亜堂書店)を残しています。
それにしても面白い名前ですね。
別名は、角田浩々歌客、ますます不思議な名前ですが、こちらの方が当時は知られていたようです。
大阪を中心に活躍したジャーナリストです。
彼は、なんと城跡公園移築構想を提案しているのです。道士は言います。
「 松阪が三井家と本居宣長を生み出したのは、誇るべきことだが、では今の松阪はどうか。小津や長谷川といった富豪もあるし、
それにしても面白い名前ですね。
別名は、角田浩々歌客、ますます不思議な名前ですが、こちらの方が当時は知られていたようです。
大阪を中心に活躍したジャーナリストです。
彼は、なんと城跡公園移築構想を提案しているのです。道士は言います。
「 松阪が三井家と本居宣長を生み出したのは、誇るべきことだが、では今の松阪はどうか。小津や長谷川といった富豪もあるし、
機業講習所では松阪木綿の改良も 図られている。宣長百年祭も盛大に行われた。だが、肝心の教育の体制が貧弱だ。
現在、松阪では公会堂を建設する企てがあるようだが、それは外形の設備を整 えるにすぎない。
本(もと)が立って道が生まれるのだから、まず宣長旧宅を保存し、それを核とした町づくりをすべきだ」と。
これは、当時話が出ていた旧宅の保存や、本居図書館建設、山室山神社整備の側面支援する発言ですね。
そして宣長顕彰の場として、松阪城跡公園を考えていたのです。
これを招待客のリップサービスと見てはなりません。
新聞の論壇で活躍する道士の識見と、また明治時代の日本を支えた志の高さがこのような提言となったのです。
公園に桜を植えることから始まり、鈴屋の移築、神社の遷座、そして昭和45年(1970)の本居宣長記念館建設に至るまで、
これは、当時話が出ていた旧宅の保存や、本居図書館建設、山室山神社整備の側面支援する発言ですね。
そして宣長顕彰の場として、松阪城跡公園を考えていたのです。
これを招待客のリップサービスと見てはなりません。
新聞の論壇で活躍する道士の識見と、また明治時代の日本を支えた志の高さがこのような提言となったのです。
公園に桜を植えることから始まり、鈴屋の移築、神社の遷座、そして昭和45年(1970)の本居宣長記念館建設に至るまで、
その後の宣長顕彰は、時間こそかかりましたが、ほぼ道士の構想通りに進んで行くことになります。
♯9 500円の力
♯10 移転先が決まる
明治39年(1906)6月7日、松阪町議会は、鈴廼屋(鈴屋)遺蹟保存会に対し、
「本居大人遺蹟保存ノ為メ文庫ヲ建設シ、且ツ住宅ヲ移」す為の用地として殿町1537番地の町有地を50年間無償貸与することを決議しました。
城跡の隠居丸の場所です。
鈴屋遺蹟保存は第一歩を踏み出したのです。
「本居大人遺蹟保存ノ為メ文庫ヲ建設シ、且ツ住宅ヲ移」す為の用地として殿町1537番地の町有地を50年間無償貸与することを決議しました。
城跡の隠居丸の場所です。
鈴屋遺蹟保存は第一歩を踏み出したのです。
♯11 鈴屋遺蹟保存会への寄付
♯13 遺跡保存会の事務所完成!
名古屋高等工業学校の土屋純一さんと神宮司庁営繕事務嘱託の奥野栄蔵さんの設計施工で 事務所も完成しました。
最初は、煉瓦造り平屋建洋風意匠案もありましたが、入母屋造り平入り唐破風玄関付和風意匠が採用されました。
正門は、ひょっとしたら土屋さんの「遊び」でしょうか、特色のある意匠です。
現在、事務所と正門などは国登録文化財指定を受けています。
写真の手前には小さな木が植わっています。
これが今は立派な銀杏(雌)に成長し、たくさんのぎんなんを実らせます。
最初は、煉瓦造り平屋建洋風意匠案もありましたが、入母屋造り平入り唐破風玄関付和風意匠が採用されました。
正門は、ひょっとしたら土屋さんの「遊び」でしょうか、特色のある意匠です。
現在、事務所と正門などは国登録文化財指定を受けています。
写真の手前には小さな木が植わっています。
これが今は立派な銀杏(雌)に成長し、たくさんのぎんなんを実らせます。
♯15 本居宣長旧宅が国史跡になる
大正11年(1922)、旧宅と旧宅跡が国史跡に指定されました。
内務大臣は旧宅、旧宅跡管理者を松坂町に指定しました。
昭和28年(1953)3月31日には、国特別史跡に昇格しました。
内務大臣は旧宅、旧宅跡管理者を松坂町に指定しました。
昭和28年(1953)3月31日には、国特別史跡に昇格しました。
♯16 財団法人となる
昭和16年(1941))3月7日、鈴屋遺蹟保存会は再編のために一時解散しました。といっても、職員や活動は継続します。
その翌昭和17年2月17日、宇治山田市(伊勢市)の堀木ウタさんが4万円を寄付してくださいました。
現在なら億単位のお金です。この寄付を受け、財団法人となることを決議し、
3月10日、財団法人鈴屋遺蹟保存会(理事長後藤脩松阪市長)の設立が認可されました。
その翌昭和17年2月17日、宇治山田市(伊勢市)の堀木ウタさんが4万円を寄付してくださいました。
現在なら億単位のお金です。この寄付を受け、財団法人となることを決議し、
3月10日、財団法人鈴屋遺蹟保存会(理事長後藤脩松阪市長)の設立が認可されました。
♯17 ひっきりなしにやってくる見学者
「松阪城跡にある本居宣長の旧宅、鈴の屋(特別史跡)はいまも学生や観光客がひっきりなしに訪れる。
管理している鈴の屋遺跡保存会も、何しろ古い 建物だけに管理に頭を痛めているが、見学希望者をむげに断れない。
学校団体などが来ると"五十人ずつぐらいに区切て屋敷内に入れ、見学も静かに歩いてもら うなど、細かく気を配り、保存に努めているようだ・・」
「国学」とか「敷島の大和心・・」など盛んにもてはやされた太平洋戦争時代のことではありません。
これは昭和33年(1958)11月6日の『朝日新聞』の記事です。
「国学」とか「敷島の大和心・・」など盛んにもてはやされた太平洋戦争時代のことではありません。
これは昭和33年(1958)11月6日の『朝日新聞』の記事です。
♯18 宣長復権の兆し
景気が上向きになり、生活水準が上がると、宣長ブームになるという傾向があるようです。
明治30年代、大正初年、そして高度成長が始まる昭和30年代から、40年代にかけてです。
復権の兆しは、昭和32年(1957)、梅川文男さんが松阪市長となった直後から現れました。
昭和33年、国の文化財保護審議会は近藤喜博主任調査官を松阪に派遣し、宣長の稿本を重要文化財に指定する事前調査を行ないました。
新市長に対面した近藤主任調査官は、宣長資料の一括保存を要請します。
近藤先生は『日本の神』や『日本の鬼』という名著で知られる識見の高い研究家でもありましたが、
この先生の仕事を引き継いだ山本信吉氏の尽力で、宣長資料は完全保存と公開への道を順調に歩み出します。
明治30年代、大正初年、そして高度成長が始まる昭和30年代から、40年代にかけてです。
復権の兆しは、昭和32年(1957)、梅川文男さんが松阪市長となった直後から現れました。
昭和33年、国の文化財保護審議会は近藤喜博主任調査官を松阪に派遣し、宣長の稿本を重要文化財に指定する事前調査を行ないました。
新市長に対面した近藤主任調査官は、宣長資料の一括保存を要請します。
近藤先生は『日本の神』や『日本の鬼』という名著で知られる識見の高い研究家でもありましたが、
この先生の仕事を引き継いだ山本信吉氏の尽力で、宣長資料は完全保存と公開への道を順調に歩み出します。
♯19 小林秀雄、そして「宣長全集」
昭和35年、批評の神様と呼ばれた評論家・小林秀雄が「本居宣長-『もののあはれ』の説について」を発表。
これが、「新潮」への「本居宣長」へと発展していくのです。
えっ、なんで小林が宣長を、と世間は驚きました。
同年、東京の大手出版社・筑摩書房では「本居宣長全集」計画が持ち上がりました。
竹之内静雄社長のもとで刊行計画は進みますが、 そのバックには、恩師の吉川幸次郎博士の、
出版社を経営するなら宣長の全集くらい出さないといけないという言葉が
あったのだという話を聞いたことがあります。
全集の刊行経過は、大野晋さんの「本居宣長全集完結の言葉」(別巻3)に詳しく書かれています。
余談ですが、この原稿を書き上げた大野先生は、私の所に電話をかけてこられ、
今から原稿を読み上げるから、気になるところがあったら言いなさい、と早口でおっしゃったのですが、
頭の回転速度が違いすぎて、あたふたしたのも今では懐かしい思い出です。
♯20 本居資料を松阪市へ
♯21 宣長の復活
最初は単発で起こったこれらのことが、やがて相互関係を持ち、大きなうねりとなっていきます。
そのきっかけは本居弥生が父・清造の遺志を継ぎ、再び松阪市に寄贈を持ちかけ、市が前向きに検討を開始したことでした。
昭和40年のことです。
そのきっかけは本居弥生が父・清造の遺志を継ぎ、再び松阪市に寄贈を持ちかけ、市が前向きに検討を開始したことでした。
昭和40年のことです。
♯22 旧宅や土蔵で展示
♯24 旧宅(鈴屋)の補修
♯25 建設決断
♯26 梅川文男さん
もとは左翼の活動家であった梅川氏だが、その人間性と豊かな教養で皆から慕われ、
選挙でもイデオロギーの壁を越えて多くの支援が集まったそうです。
私も記念館に入った頃には、「人間梅川」という言葉をよく耳にしました。
思想や政党ではない、「人間」として評価されたのです。
こんな話もあります。
第三銀行は本店を松阪に置きます。これも本店をどこに置くか検討されたときには、
私も記念館に入った頃には、「人間梅川」という言葉をよく耳にしました。
思想や政党ではない、「人間」として評価されたのです。
こんな話もあります。
第三銀行は本店を松阪に置きます。これも本店をどこに置くか検討されたときには、
たとえば大阪とか、あるいは県内でも北勢と、いろいろな意見がありました。
その中で松阪が選ばれたのは梅川氏の人間性だったのです。
元取締役会長・三浦道義氏は、「本店移転と行是制定を振り返る」の中で、
「松阪の梅川市長と会談し、即座に松阪本店を決意したのだった。
その中で松阪が選ばれたのは梅川氏の人間性だったのです。
元取締役会長・三浦道義氏は、「本店移転と行是制定を振り返る」の中で、
「松阪の梅川市長と会談し、即座に松阪本店を決意したのだった。
梅川さんはどちらかといえば文化人で、本居宣長の松阪を活気ある立派な町につくり上げることに熱心であった。
銀行は地域をよりよくする為にある。ここにこそ、第三相互銀行の生きる値打ちがあるのだと考えた」
『第三銀行 百年史』
♯27 市長の呼びかけへの反応
反応はすぐにありました。
「梅川市長の陣頭指揮で広範囲な資金づくりに乗り出している・・・
「梅川市長の陣頭指揮で広範囲な資金づくりに乗り出している・・・
市が一千万円を支出、国庫補助を約五百万円と見積もってザッと二千五百万円が足らぬ。
不足分は寄付に頼ることになる。そこで松阪市に建設委員会、東京中心に建設協力委員会をつくって資金づくりをするという。
地元出身の堀木謙三氏が日商の足立正会頭をこの運動にかつぎだしたといわれるので見通しがパッと明るくなった。
また名誉市民、丹羽保次郎氏(東京在住)や地元進出企業が協力的なので心強い。
また名誉市民、丹羽保次郎氏(東京在住)や地元進出企業が協力的なので心強い。
このほか小口ではあるが市民の善意寄付がぞくぞく市へ届けられている。
市内のある学校では自発的に十円募金で協力しようとの話もある。みんなの手でこの貴重な文化財を大切に保存したいものである」
『伊勢新聞』「視角」昭和42年(1967)12月8日
これも余談ですが、保存会事務所の修理のために片付けていた時に、
これも余談ですが、保存会事務所の修理のために片付けていた時に、
段ボール箱幾箱もの茶封筒があり、それぞれには町名、氏名、金額が記されていました。
松阪市民からの浄財の袋です。芝山事務長ともう要らないねと処分しました。
松阪市民からの浄財の袋です。芝山事務長ともう要らないねと処分しました。
昭和63年(1988)頃のことです。
そのことが今になって悔やまれます。
そのことが今になって悔やまれます。
♯28 記念館の建設
♯31 埋門周辺
荒廃していたのでこの周辺を写した写真などがほとんどありません。
崩れた石垣など、現在の松坂城跡からは想像もつかないかもしれませんが、
石垣の積み替え以前はあちこちでこんな景色を目にすることが出来たのです。
ちなみに石垣の修復工事は、昭和62年の基本調査を経て昭和63年度から平成
15年度まで延べ16年間をかけて行われました。
それ以前の状況については人々の記憶から次第に消えていきます。
『松阪公園石垣修復工事報告書』(平成15年9月)には修復以前の写真も僅かですが載っています。
崩れた石垣など、現在の松坂城跡からは想像もつかないかもしれませんが、
石垣の積み替え以前はあちこちでこんな景色を目にすることが出来たのです。
ちなみに石垣の修復工事は、昭和62年の基本調査を経て昭和63年度から平成
15年度まで延べ16年間をかけて行われました。
それ以前の状況については人々の記憶から次第に消えていきます。
『松阪公園石垣修復工事報告書』(平成15年9月)には修復以前の写真も僅かですが載っています。
♯35 悲しみと喜びと
記念館建設に向けて動き出してからも、関係者には言いしれぬ苦労もありました。
なかでも昭和43年4月4日、陣頭指揮を執っていた梅川市長が死去したことは大きな痛手でした。
しかし吉田逸郎新市長のもと、事業は力強く推進されていきます。
嬉しいこともありました。同じ4月25日、『古事記伝』など自筆稿本が国の重要文化財に指定。
5月21日からは東京日本橋の三越本店で「本居宣長展」が開催されました。
また、昭和40年6月に始まった小林秀雄の「本居宣長」の連載も好評です。
なかでも昭和43年4月4日、陣頭指揮を執っていた梅川市長が死去したことは大きな痛手でした。
しかし吉田逸郎新市長のもと、事業は力強く推進されていきます。
嬉しいこともありました。同じ4月25日、『古事記伝』など自筆稿本が国の重要文化財に指定。
5月21日からは東京日本橋の三越本店で「本居宣長展」が開催されました。
また、昭和40年6月に始まった小林秀雄の「本居宣長」の連載も好評です。
♯36 記念館の完成
そのような気運の高まりの中、昭和45年11月5日、本居宣長記念館が開館しました。
殿町中学校で開かれた記念式典には、宣長の肖像と、梅川前市長の遺影が掲げられました。
幾多の苦難を乗り越え無事開館出来たのは、市民を始め、宣長を誇りに思う人たちの熱意と協力の賜物でした。
初代館長には山田勘蔵さんが就任されました。
写真は除幕式の様子です。
殿町中学校で開かれた記念式典には、宣長の肖像と、梅川前市長の遺影が掲げられました。
幾多の苦難を乗り越え無事開館出来たのは、市民を始め、宣長を誇りに思う人たちの熱意と協力の賜物でした。
初代館長には山田勘蔵さんが就任されました。
写真は除幕式の様子です。
♯37 皇太子同妃両殿下行啓
昭和48年(1973)8月2日、皇太子同妃両殿下が行啓されました。
説明は、山田勘蔵館長が行いました。
説明は、山田勘蔵館長が行いました。
♯39 人があふれる
♯40 入館者数
文化施設の活動を計る一つの目安が入館者数ですが、見ての通りかなり落ち込んでいます。
要因は、伊勢自動車道の延伸による団体客の激減と、そもそも団体旅行自体が少なくなったことです。
あるいは展示方法や接遇という問題も重要かもしれません。
昭和45年 42,370名
昭和46年 31,261名
平成 3年 53,699名
平成24年 23,811名
※開館からの入館者数 1,443,209名
※一年あたり平均 33,795名
入館者数だけでは活動は計れない。滞在時間や満足度なども重要だ。
それも確かですが、しかし安定した経営のためには、安定した収入が必要で、
唯一の収入源が入館料であることから、増えるに越したことはありません。
ただ、年間5万人も経験しましたが、やはり施設面積や設備などから、
一つの目標として30,000人位が妥当な線ではないかと考えています。
要因は、伊勢自動車道の延伸による団体客の激減と、そもそも団体旅行自体が少なくなったことです。
あるいは展示方法や接遇という問題も重要かもしれません。
昭和45年 42,370名
昭和46年 31,261名
平成 3年 53,699名
平成24年 23,811名
※開館からの入館者数 1,443,209名
※一年あたり平均 33,795名
入館者数だけでは活動は計れない。滞在時間や満足度なども重要だ。
それも確かですが、しかし安定した経営のためには、安定した収入が必要で、
唯一の収入源が入館料であることから、増えるに越したことはありません。
ただ、年間5万人も経験しましたが、やはり施設面積や設備などから、
一つの目標として30,000人位が妥当な線ではないかと考えています。
♯42 激震走る
「本居記念館など城外移転も」と書かれました。
これは、有識者による松坂城跡保存管理計画策定委員会(委員長=下村登良男・市文化財保護審議会会長、11名)が
これは、有識者による松坂城跡保存管理計画策定委員会(委員長=下村登良男・市文化財保護審議会会長、11名)が
まとめ上げた「史跡松坂城跡保存管理計画書」に基づく報道でした。
3月に発表された計画書には、「本居宣長記念館については、築後40余年を経て、建物本体、設備共老築化が目立ち、
貴重な資料の展示・収蔵上問題があり、また松坂城とは無関係な建物である。
しかし特別史跡本居宣長旧宅の管理機能を有していることから、当面は原建物機能を保持するため維持する。
なお地下遺構に影響を及ぼす耐震や補強工事は認めないものとする。」
四五百森に築かれた城跡の地下遺構とは、土と岩盤でしょうか。
既に昭和45年に基礎工事を行っているので、その部分の地下遺構はもうありません。
要は「さわるな」というだけの、むなしい文言です。
国史跡を守るために、国特別史跡「本居宣長旧宅」の管理をなおざりにするという本末転倒の意見に対して、
なお地下遺構に影響を及ぼす耐震や補強工事は認めないものとする。」
四五百森に築かれた城跡の地下遺構とは、土と岩盤でしょうか。
既に昭和45年に基礎工事を行っているので、その部分の地下遺構はもうありません。
要は「さわるな」というだけの、むなしい文言です。
国史跡を守るために、国特別史跡「本居宣長旧宅」の管理をなおざりにするという本末転倒の意見に対して、
また、さわらなければそれが保存だという安易な考えに対して、深い憤りを覚えます。
旧宅を守るためには、その人の図書館を造らねばならないという、
旧宅を守るためには、その人の図書館を造らねばならないという、
明治の先人たちの高邁な見識をもう一度学ぶ必要があるかと思います。
♯43 意見交換会
2013年12月22日に、記念館や宣長顕彰の未来について、
市民や利用者との意見交換会が開催されました。
その席上で、「動かないという前提は動かさない」ということの確認が為されました。
今までの資料は、その第一部での資料の前半部に、加筆したものです。
意見交換会については、「館長室から」No.017をご覧下さい。
その席上で、「動かないという前提は動かさない」ということの確認が為されました。
今までの資料は、その第一部での資料の前半部に、加筆したものです。
意見交換会については、「館長室から」No.017をご覧下さい。
>> 「館長室から」No.017