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「ようこそ宣長ワールドへ」

本居宣長没後200年

    この「ようこそ宣長ワールドへ」は、本居宣長没後200年を記念して、2001年に本居宣長記念館が「21世紀に宣長をよみがえらせる電子データ制作の会」に委託して制作したCD-ROMに画像などデータを追加し掲載したものです。

本居宣長


このCD-ROMの主人公。

 本居宣長は、享保15年(1730)5月7日(現在の6月21日)、伊勢国松坂本町(三重県松阪市本町)の木綿商の家に生まれた。読書を好んだ少年は学問の道を選び、23歳の年に医学修行のため京都に遊学、28歳で松坂に帰り魚町で医師を開業。その傍ら、松坂の人に『源氏物語』などの古典の講義を行い、また自らも研究に励む。34歳の時、松坂に宿泊した江戸の国学者・賀茂真淵と念願の対面がかない、『古事記』研究の志を打ち明ける。師は激励し、入門と指導を許諾する。この二人の対面が「松坂の一夜」である。感奮した宣長は、以後、35年をかけて『古事記伝』44巻を完成する。また文学の本質は「もののあわれ」を知ることにあるとする『源氏物語玉の小櫛』などの文学説や、国語学の研究、紀行、随筆など、数多くの著作を残した。

 宣長の学問により、人々は古典を再発見した。『古事記』の持つ価値、また『源氏物語』の面白さ、藤原定家の歌の味わい。また、宣長は、日本語の基準、たとえばそれまで不統一だった仮名遣いや文法、また五十音図を整然と説明した。そして、「日本」という自分の国の基準で、また言葉で、思想も宗教も、また日常生活から政治に至るまで説明することを提唱した。

 その業績は今も日本文化史上に不滅である。

 桜と鈴と歌を好み、松坂を愛した宣長は、終生この地を離れることなく、享和元年(1801)9月29日(現在の11月5日)、72歳の生涯を終える。墓は郊外の山室山と、菩提寺・樹敬寺(ジュキョウジ)にある。諡(オクリナ)は秋津彦美豆桜根大人、戒名は高岳院石上道啓居士。いずれも自分でつけた。

ようこそ宣長ワールドへ ~ 目次 ~

日本中に広がる宣長ネットワーク

宣長の時代にはいくつもの歴史上重要な発見がありました。200年以上も前の江戸時代にもかかわらず、その情報は日本中から宣長の元へ速く、正確に集まってきています。情報だけでなく、多くの人々も宣長を慕って松坂を訪れて来ました。

  
1、帆足長秋と京親子の「古事記伝」書写の旅
  
2、出雲大社の神殿「雲太」
  
3、志賀島の金印発見「光る物が見つかったぞ!」
  
4、浜田の殿様康定、宣長と会う
  
5、古代の音色「駅鈴」

宣長の学問

宣長の学問の基礎には、数多くの旅の経験や様々な人との出逢いがありました。京都での医学の勉強、賀茂真淵との生涯一度の出逢い、『古事記伝』を生み出した仕事部屋、鈴屋の様子などを通じて、宣長の著述が生み出されてゆく過程をたどってください。

  
6、江戸と京都
 
 
7、松坂の一夜
 
 8、宣長の仕事場
 
 
9、宣長の出版と学問
 
 
10、宣長と旅

宣長と日常生活

松坂に生まれ、医者として松坂で開業し、松坂の町で一生を送った宣長。宣長は江戸時代の松坂の人々と同じ日常生活を送っていました。学問の成功の秘訣は日常生活にあります。
 この章は21世紀に生きる人々への宣長さんからのプレゼントです。

  
11、松坂と宣長
 
 
12、毎月の宣長さん
 
 
13、医者としての宣長
 
 
14、好きな物、嫌いな物

「宣長さんの履歴書」

>>「宣長さんの顔」

『鈴屋 円居の図』
『本居宣長
 四十四歳
 自画自賛像』

『本居宣長
 六十一 歳
 自画自賛像』
『本居宣長
 七十二歳像』

らんさんと和歌子さんの会話

ら ん(左)
44歳と61、72歳では髪型が違いますね?
和歌子(右)
髪を結ぶかどうかの違いだけで宣長像の髪は皆いわゆる「惣髪(ソウガミ)」です。25歳の時から髪型を変え始め、26歳3月3日、医者となった日にこの髪型にしています。「惣髪」については辞書を見てみましょう。「[1] 男性の結髪の一。月代(さかやき)を剃らないで、全体を伸ばしたもの。頭の頂で束ねて結う場合も、後ろへなでつけたまま垂した場合にもいう。(中略)(江戸時代)中期以後は、医者儒者学者浪人神官山伏などがこの髪型を用いた」(『角川古語大辞典』)。因みに同書の挿絵は宣長61歳像です。
ら ん
この宣長は何を見ているの?

1. 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の壱

父と娘、どこに行くのだろう。
   

1. 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の弐

「やっと着いた、ここが鈴屋だ」
「山鹿を出てから2ヶ月半、遠かったわね」
「あの2階が宣長先生の書斎じゃ」
「きっと今も一生懸命研究していらっしゃるのね」

1. 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の参

さっきの親子だ。一生懸命。
何を写 しているのだろう。
松坂の旅宿で『古事記伝』を写す帆足長秋、京。

1. 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の四

娘(帆足京)
「宣長先生、大事な『古事記伝』をありがとうございました。
 無事に写し終わりました。
 拙い歌ですがそえさせていただきました。」
宣長
「尊父、長秋殿に聞けば、京さんはまだ15歳。 よくぞ写されました。
 歌も上手じゃ。」

1. 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の五

短冊
「本居大人の御許より古事記伝をかりてうつしとりなとしてかへし奉るとて、たまぼこの正しき道をしをりして君がをしゆるふみぞ尊き 京」



短冊
「埋もるゝ玉のひかりを世の中にみがきひろむるいさをしぞおもふ 御郷」 
帆足京(ホアシ・ミサト)は、父を助けて宣長の著書、特に『古事記伝』を書写 した。若くして亡くなるが、彼女の写した『古事記伝』は郷里である熊本県山鹿市に今も残っている。


2. 出雲大社の神殿「雲太」 其の壱

「雲太の図」。
思い浮かべる宣長。




2. 出雲大社の神殿「雲太」 其の弐

春庭
「ずいぶん高いお社ですね、それは何ですか?」
宣長
「うん、これは昔の出雲大社だ。
 所で、お前は私の頭の中が見えるのか?」
春庭
「ええ、目が見えなくなったのですが、かえってお父さんの考えてらっしゃることが見え て参りました。お父さんの考えだけではありません、文字は見えないのですが、言葉の仕組みが少 し見えてきたような気がします。でも、本当にそんな高い建物が建てられるのですか?」


2. 出雲大社の神殿「雲太」 其の参

宣長
「千家俊信から貰った図で再現したのだが、不思議だね。でも今の知恵で考えてはいけないよ。いつかきっと空想でないことが証明されるよ」

2. 出雲大社の神殿「雲太」 其の四

発掘後の現在の風景。 ※写真・大社町教育委員会提供

   
 2000年、神殿前から大きな柱が見つかり、宣長が『玉勝間』で世に紹介した「金輪造営図」を裏付けるものとして注目を集めた。
 この古代の出雲大社の大きさを象徴する「雲太」という言葉がある。この言葉が載っている『口遊』(クチズサミ)という平安時代の本を、出版し世に紹介したのは門人・大館高門であった。これも奇しき縁か。


3. 志賀島の金印発見・「光る物がみつかったぞ!」 其の壱

「なんじゃこりゃ?」
  天明4年2月23日(今の4月12日)、九州、博多湾に浮かぶ志賀島で金印が見つかった!

3. 志賀島の金印発見・「光る物がみつかったぞ!」 其の弐

福岡の学者たちと「金印」


 発見の報告を聞いた亀井南冥(カメイ・ナンメイ)ら福岡の学者たちは頭をひねった。
「金印に奴(ヤッコ)とあるのはけしからん」とか、
「こんなものは鋳直して武具の金具にしてはどうか」と怒ったり軽視する人もいたが、
「これは大事なものじゃ」と言う人もいる。
 福岡藩では、金印に関する論文を藩の学者たちに提出させた。

3. 志賀島の金印発見・「光る物がみつかったぞ!」 其の参

情報は瞬く間に全国に伝わった。宣長も写 しを見て、自分の考えをさらさらと紙に書いた。
大平
「本物ですか、この前の桧垣媼の像みたいにまやかしでは?」

3. 志賀島の金印発見・「光る物がみつかったぞ!」 其の四

宣長
「分からない。でも可能性はあるなあ。」

3. 志賀島の金印発見・「光る物がみつかったぞ!」 其の五

【写真】 『水茎の考等草稿』に載る「漢委奴国王金印考」と本居家旧蔵の「印影」。
宣長の「漢委奴国王金印考」は、天明6、7年頃に書かれた。細井金吾の論を検討し、「委奴」が「イト」と読めるかなど音韻論から考証する。結論として、この印は「倭国」(日本)ではなく、筑前にあった国に贈られたものであり、忌避することもないが、大変重要なものと珍重するほどのこともない。ただ古いものだから、その点では重要だろう、という。出土品が、すぐ歴史を書き換えるとする過剰評価を戒める、穏当な意見である。
  写真は『水茎の考等草稿』に載る自筆本と本居家旧蔵の「印影」。
  天明年間には、いくつかの歴史上重要な発見があった。その情報は、秘匿されることなく、研究者の下に届けられた。速く、しかも正確に。

4. 浜田の殿様康定、宣長と会う 其の壱

石見国浜田城内、宣長の画像を見るのは藩主松平康定とその家臣小篠敏。

「これが、伊勢国松坂の本居宣長大人の像でございます」
康定
「敏(ミヌ)や、宣長先生は随分こわそうな人じゃのう」

「恐れながら、決して左様な方ではございませぬ 、物静かな方でございます」

4. 浜田の殿様康定、宣長と会う 其の弐  ~語り合う康定と敏~

「敏や、宣長先生は余の問いにも答えてくれるかのう」
「恐れながら、宣長先生は何でもご存じでございます。何なりと質問なさられてはいかがでございますか。
ただ・・」



「ただ、何じゃ」
「はあ、いささか耳が遠うございます。中で誰かが仲立ちをすれば宜しいかと思います」

「そちに任す、そうじゃ大人は鈴が好きとのことであったの、隠岐の駅鈴と同じものを作らせて土産にしよう」

4. 浜田の殿様康定、宣長と会う 其の参

寛政7年8月13日、将軍の代参で伊勢神宮に参る途中、松平康定は念願の宣長との対面を果たした。
 土産はもちろん「駅鈴」。 松坂中町にあった本陣・美濃屋。
康定は耳の遠い宣長を近くに招き寄せ、敏を交えた歓談は夜に入るまで続いた。
 帰りも松坂に寄った康定は『源氏物語』講釈を聞き、『源氏物語玉の小櫛』執筆を依頼する。

5. 古代の音色「駅鈴」 其の壱

隠岐の駅鈴

『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、出兵した大海人皇子が駅鈴を請うシーンがある。
 「駅鈴」は古代の法制上重要なものであった。松坂には「駅鈴」に因む「鈴止村」の地名も最近まで残っていた。ところが、不思議にも、その実物はどこにも伝わっていなかった。

5. 古代の音色「駅鈴」 其の弐

国賀の奇岩・二景



日本海に浮かぶ隠岐。
後鳥羽院や後醍醐天皇の配流の地でもあったこの島に、幻の「駅鈴」が伝わっていたことが知られるようになったのは、今から216年前、天明5年(1785)であった。この年の冬に上京した、隠岐第40代国造幸生が持参して、翌年夏から幸生の師・西依成斎や並河一敬に調査を依頼したことが世に知られるきっかけとなった。

【参考文献】
『隠岐国駅鈴倉印の由来』
億岐豊伸著。

>>「国造と駅鈴」
>>「宣長の隠岐の歌」

5. 古代の音色「駅鈴」 其の参

寛政2年11月12日、新内裏造営が成り、光格天皇は仮御所から遷られた。御遷幸の行列。櫃に入れられしずしずと進む駅鈴。眺める人の中に、松坂から門人たちとやってきた宣長、春庭の姿もあった。

春庭
「あの中に駅鈴が入っているのですね。見てみたいなあ」。   

>>「光格天皇」
>>「寛政2年の御遷幸」

5. 古代の音色「駅鈴」 其の四

「音はどんなものですか」
「二つあり、音色が違うのです。
余韻が違う。振り方も難しい。駅鈴を歌に詠めといわれ一首愚詠を献じました
うまや路に
たまひし鈴の
音さやに
ふりにし御代を
 おもひ出けり」
「聞きたいなあ」

宣長と歓談するのは、京都にある梅宮大社の橋本経亮(ハ シモト・ツネタダ)。故実家として知られる彼は、宮中にも出入りを許されている。経亮は特別 に駅鈴の音を聞いたことを宣長に自慢する。
宣長の手元に、松平康定から「駅鈴」の複製が届けられたのは、それから5年後のことであった。


6. 江戸と京都 其の壱

 賑やかな江戸大伝馬町。一人たたずむ若き宣長。
 宣長が初めて江戸に行ったのは16歳の初夏。叔父の店での商売見習いのためであった。本を読むこともできない生活を強いられた宣長は、江戸の町にもなじめず、やがて1年で帰郷する。

6. 江戸と京都 其の弐

祇園祭の山鉾

 京都は、宣長にとって少年の頃からの憧れの地であった。
  最初の上京は16歳。寺社参詣の旅であった。2度目は19歳。目的はやはり寺社参詣だが、洛中洛外、参拝社寺は延べ93箇所にのぼり、芝居に祭りと優雅な旅である。『都考抜書』で培われた京都の知識が存分に生かされた。3度目は、祖母について本山知恩院参詣。4度目が23歳からの京都遊学だ。

>>「宣長の京都地図」
>>「宣長の上京」
>>『都考抜書』
>>「知恩院」
>>「宣長の京都観」

6. 江戸と京都 其の参

5年半に及ぶ京都生活。上京の目的は「医者」になるためであった。
  だが、それ以外にも実りは多かった。契沖の本に触れたこと、景山との出会い、そして友人との交友。酒を飲んだり芝居を見たり、時には馬に乗ることもある。さしずめ、今の学生なら、ちょっと気晴らしにドライブに、といったところ。

>>「堀景山」
>>「契沖との出会い」
>>「医学修行」
>>「友人」
>>「宣長は酒飲みか」
>>「馬に乗る宣長」

6. 江戸と京都 其の四

宣長は、亡くなる年の夏も京都で過ごしている。滞在したのは、景山宅にも程近い四条烏丸であった。この場所のことを宣長は次のように書いている。
  「宿にした家は通りから入っているので、物音もしないが、朝夕、門に立って通りを眺めると、道は広々として気持ちよく、往来する人多く、賑やかなのは田舎住まいの自分には、目が覚めるような心地がする。京はどこでもこのような賑やかさというわけではないが、この四条烏丸は特別 で、大変賑やかである」(「おのが京のやどりの事」)
  京都、その中でもこの四条烏丸は宣長にとって、青春の地でありまた理想の地でもあった。

>>「四条烏丸の宣長」
>>「おのが京のやどりの事」
>>「30年ぶりの上京」
>>「宣長の最終講義の場所」


7. 松坂の一夜 其の壱

新婚の宣長、なぜか腕組み思案顔。
 『古事記』は読めるか。 どうすれば読めるか。
 医者の開業、歌会、『源氏物語』の講釈、結婚、離婚、再婚・・20代後半から30代前半の宣長は身辺も、また頭の中も超多忙でした。中でも解決が付かない問題、それが『古事記』でした。
 和歌を研究するうちに、いつの間にか宣長は「古代」へと足を踏み入れていました。
 神の時代、そして日本文化の始源「古代」。その時代を研究する手掛かりとして『古事記』を選んだのはいいが、『古事記』は読めるか・・・。


7. 松坂の一夜 其の弐

 宝暦13年5月、松坂日野町の本屋「柏屋」

主人
「ああ、春庵先生、いいところにおいでなすった」
春庵(宣長)
「何か珍しい本でも入りましたか」
主人
「いやいや、先ほど、江戸の賀茂真淵先生がお立ち寄りになられました」
春庵
「え、『冠辞考』の真淵先生が・・どこへ、行かれました」
主人
「伊勢、たしか、伊勢に向かわれたようです」
  柏屋を飛び出した宣長は大慌てで賀茂真淵先生の後を追ったと言われていますが・・果 たしてどうでしょうか。

7. 松坂の一夜 其の参

それから数日後の宝暦13年5月25日、今の暦で7月5日、夏の夜、旅館の障子に写 し出される二人の影。何を話しているのだろう?
 賀茂真淵・江戸に住む国学者。67歳。本居宣長・松坂の医者。34歳。

7. 松坂の一夜 其の四

「『冠辞考』は立派なお仕事ですね。繰り返し拝見しました。
 ところで、先生は『万葉集』しか研究なさらないのですか。私は『古事記』を読もうと思います。いかがでしょうか」
「よいことに気づかれた。私は『万葉集』だけで一生が終わるが、あなたは若い。
 まず、『古事記』を読むためにも『万葉集』を勉強しなさい。学問は基礎が大事。低いところを経て高きに登れるのです。
 私に手紙で質問すれば、私の意見を書き添えましょう。」




8. 宣長の仕事場 其の壱

    「やっと着いた、ここが鈴屋だ。あの2階が宣長先生の書斎じゃ」
    「中はどうなっているのかしら、ちょっと蝶々になってのぞいてみましょう。」

8. 宣長の仕事場 其の弐

「先生はお留守だ・・狭いけどいろんなものがある。あっ、鈴だ」
【写真説明】
 53歳の冬に増築した宣長の四畳半の書斎。窓を広く取り明るい。窓からは四五百森も見ることが出来る。書斎の名前「鈴屋」は、床の間の「柱掛鈴」に由来する。宣長の主要著作はここで執筆された。

>>「机」
>>「本箱」
>>「窓」
>>「床の間の掛け軸」
>>「柱掛鈴」
>>「(床の間の)文台」
>>「押入」

8. 宣長の仕事場 其の参

鈴屋の全体を眺めてみよう。

『毎朝拝神式』に見る神様の場所

8.  宣長の仕事場 其の四

鈴屋では歌会も開かれた。四畳半の部屋だから大勢集まることはできないが、ごく親しい仲間内の歌会だ。「円居の図」は、まだ「鈴屋」ができる前の歌会の様子だが、できてからもこんな風に開かれていたと思われる。

「鈴屋円居の図」
(スズノヤマドイノズ)
絹本著色。作者不詳。
賛・識語大平筆(文政10年1827春)。
本居宣長記念館所蔵。



8.  宣長の仕事場 其の六

一人でいるときはくつろぐときもあります。

「読む書(フミ)を
  しばし枕に 仮寝して
   憂しやおぼえず
        暁の空」
      (ふみよみ百首)


>>「本箱」
>>「窓」
>>「床の間の掛軸」
>>「柱掛鈴」
>>「(床の間の)文台」
>>「たばこ盆」
>>「押入の中」
>> 「ふみよみ百首」
>>「宣長の夢」
>>「好信楽」

9. 宣長の出版と学問

板木を掘る植松有信

 トントン、トントン これは大変だ。大変な本だ。宣長先生にお会いしたい。松坂に行きたい。行けば板木が彫れない。そうすりゃ先生が困る。今夜は徹夜だトントントン。

  宣長には一つの信念がありました。
「本は出版されねばならない」ということです。
  実際に、宣長は「出版」というメディアを有効に使いました。出版するにはお金がかかります。また版下書や校正などの手間もかかります。そして何より重要なことは、完成した原稿が必要と言うことです。これらのことを宣長は、門人の協力も得ながら、完璧に実行しました。それだけではありません。本の装丁や題名にもこだわりを持ちました。『草庵集玉箒』は稲懸棟隆、戒言、須賀直見、『古事記伝』、『古今集遠鏡』は横井千秋、『手枕』などは大館高門、『新古今集美濃の家づと』は大矢重門、『源氏物語玉の小櫛』は松平康定などの助力があって刊行されたのです。

10. 宣長と旅 其の壱

キセルを吹かす宣長

宣長
「子供の頃から旅が好きだった。13歳の大峰山参りから始まって、ずいぶん旅行をしたよ。本当の旅だけでなく、架空の町にも行ったよ。地図を見るのが好きで、自分でも写したことがある。ここだけの話だが、私には、地図や現在の風景と、本で読んだ知識を組み合わせ、失われた景観を見る特技だってあるんだ。
 でも、やっぱり実際に旅に出るのは格別だ。いいなあ、旅は。
 一番楽しかった旅、どれも記憶に残っているが、一つ選ぶなら43歳の時に友達と行った吉野飛鳥の旅、「菅笠の旅」かな。」

10. 宣長と旅 其の弐

『菅笠日記』は、本居宣長が43歳の時、明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅した時の日記。上下2巻。
  大和国(奈良県)吉野山の花見を兼ね、吉野水分神社に参詣し、帰路、飛鳥周辺の史蹟を探索、伊勢本街道を通 り、美杉を経て松坂に帰郷した。同行者は、友人・小泉見庵、門人・稲懸棟隆・茂穂親子、戒言(来迎寺の僧)、中里常雄の5名と荷物持ち。学問的な成果 も多く、楽しい旅であった。またこの日記は文章、記述、構成も優れ、その後、吉野や飛鳥を巡る人々のガイドブックとしてもよく読まれた。



10. 宣長と旅 其の参


宣長
 これは17歳の時に写 した地図だ。畳一枚くらいの大きさだ。これを書く前、一年を江戸で過ごし、日本の国の大きさを実感したよ。松坂や京都しか知らなかったからね。その頃から「日本」というレベルでものを見ようと考え始めたんだ。
【 写真説明】
「大日本天下四海画図」本紙寸法、縦122.0cm、横195.0cm。延享3年(1746)仲夏(5月)に一応出来、宝暦元年(1751)12月上旬に完成した。
  識語に、今出回っている地図はことごとく在所が相違している、つまり間違っている、と言い、これによりて「予今この絵図をなすに」と地図製作の決意を高らかに宣言している。
 でも、自宅、奥座敷の畳の上での作業だ。しかもまだ17歳。見たことがあるのは、江戸、京、大和と伊勢のごく一部。きっと種本がいくつかあったはずだ。それにしても、それらをこの大画面 にまとめる力は、やはりたいしたものだ。
【原文】
「識語、夫レ日本の絵図世に多しといゑども諸国の城下其外名所旧跡悉く在所相違せり。旦又行程の宿駅微細ならず。依是予今この絵図をなすに、城下船津名所旧跡遺跡其方角を改め在所を分明にし、道中の行程駅みさいに是を記し山川海島悉く図する。並に側に六十六洲の諸郡を顕し、又知行高田数を書し大坂より諸方への道法を東西に分てこれを記す。異国の道のり略顕せり。是が為に名て曰、大日本大絵図行程記、時延享第三年丙寅五月吉日」

10. 宣長と旅 其の四

高見山を越える宣長

 高見山は、三重県と奈良県の県境にある。標高1248.9mあり、奈良県東吉野村側から見ると、なるほど「和製マッターホルン」だ。冬は樹氷を見るため多くの人が登る。この下、標高904mを峠が通 る。和歌山街道である。松坂から和歌山に向かうには最短距離だ。
  宣長の晩年の旅は、主に学問普及のためであった。中でも3回に及んだ和歌山への旅は、藩主への御前講義という大役と、また道の険しさで、心身共に大変だったと思われる。
 旅は、亡くなる直前まで続く。

11. 松坂と宣長 其の壱

松坂大橋を背に立つ宣長

私の町「松坂」はいい町だよ。豊かな家が多いし、諸国への便りもいい。都の流行もすぐに伝わってくるし、芝居、見せ物、神社仏閣の祭礼も賑やかだ。食べるものは魚類野菜など何でもあるよ。
  地図を用意したから見てごらん。

>>「松坂」
>>「宣長さんの松坂評」
>>「江戸店」
>>「松阪三百年文学史を読む」

11. 松坂と宣長 其の弐

上の地図は4つに分割されています。
それぞれの部分をクリックすると、拡大された地図が表示されます。
さらに 、そこに記載されている地名をクリックすると、解説の文章にジャンプします。

一月の宣長

◇ お正月

 1月は新年の挨拶。新春とは言うもののまだまだ余寒は強い  
 宣長の頃には「一月」と書くことは稀で、一般には「正月」と書き慣わしていました。
 正月は、慣例となった行事を行い、初詣、年始をします。初詣は山神社、御厨神社など。また、読書始として『古今和歌集』序文を読み、「試筆」(書き初め)として和歌を詠む。 歳暮の歌が、虚しく時を費やした事への詠嘆であるのに対して、試筆は、うららかな国を寿ぐような歌です。


◇ 時候の言葉 (寛政10年書簡)
「新年之慶賀、御同前目出度申納候」(1月8日付・沢真風宛)
「春寒甚候へ共」(1月8日付・服部中庸宛)
「不相替余寒強御座候得共」(1月9日付・小西春村宛)
「未余寒不退候へ共」(1月20日付・小西春村宛)

◇ 3つの大きな出来事
宝暦12年(33歳)1月17日、草深たみ(22歳・改名して勝)と婚礼。
>> 「たみ」

子供が産まれる。
明和5年(39歳)1月1日、母・勝(64歳)死去。

◇ 正月の歌

    年のはじめによめる
さし出る此日の本のひかりより
      こまもろこしも春をしるらむ
                  (『鈴屋集』巻頭歌)
    試筆
けさははや春の立野の山つづき
      ほり坂かけてかすむのどけさ
                  (安永8年・50歳)

【もっと知りたい】

【もっと知りたい】◆正月の行事 ◆注連縄(シメナワ) ◆年始開講

◇ 正月の行事  

宣長が30歳の時に定めた正月行事は次の通り。 「年中行事・宝暦九己卯(宣長30歳)改・正月/元日 早朝、年男若水汲。鏡餅居ハル。雑煮祝【六日朝マテ同】。朝、雑煮後掃始。産神詣。陰陽師参、鏡餅居ユ。夜、三ヶ日之間神々燈明。/二日、早朝、御役所ヘ御礼。惣屋敷礼、町々礼。/三日、鏡ナラシ【供鏡オロス】/六日、夕、神々燈明。七種ハヤシ。/七日、早朝、松飾オロシ。朝福煮。/十四日、夜、神々燈明。/十五日、早朝、年徳飾撤。朝、小豆粥。」


◇ 注連縄(シメナワ) 

 松坂、伊勢地方は年中、注連縄を付ける。注連縄に付く「蘇民将来子孫之家」の木札は毎年出入りの大工が届けてくれる。


◇ 年始開講

 寛政8年正月18日開講の回章には、 「明後廿日夕方令開講候、任例麁種一献進羞致度候、御揃御出席所希候、以上」 (大意・明後20日夕方開講致します。いつものように粗酒一献差し上げたく存じます。お揃いの起こしをお待ちいたします)。
  として松坂滞在中の小篠敏など17名の名前が列記される。この日の講義は『源氏物語』絵合巻。開講の書名は必ずしも決まっていたわけではなく、前年の講釈の続きであることが多い。

【もっと知りたい】



【もっと知りたい】◆歌会始め ◆元旦診察 ◆御祝儀、年玉

◇ 歌会始め  

 正月には各歌会でも歌会始を行う。皆、正装して出席したのだろうか。  
 天明5年(1785・宣長56歳)の様子を『三井高蔭日記』で見てみよう。
正月3日、稲懸大平(30歳)より三井高蔭に今年の兼題が届けられる。
 各月、嶺松院会2回と遍照寺1回の計36回分である。『石上稿』を見ると、この年初の兼題は、きちんと守られたことが分かる。また、歌会は低調だったが、宣長を見る限り兼題の詠は毎回詠まれている。但し、『石上稿』に何月何日兼題とあっても、それは必ずしも出席を意味しない。欠席でも歌だけは詠むのだ。
正月7日、三井高蔭、稲懸大平より11日の嶺松院会初会の期日につき相談を受ける。 誰か不都合が生じたのか。この年の歌会は大平の骨折りで進められていったようである。 正月10日、三井高蔭、明日歌会の歌を宣長に届け添削を請う。 ☆『高蔭日記』「本居氏エ詠草遣【明日之兼題也】」。兼題の事前添削は、『服部中庸詠草』などの例もあり、一部の門人では行われていたのであろう。
正月11日、新町樹敬寺塔頭嶺松院会、新年初会。当座出詠者は、中里常秋、長谷川常雄、竹内直道、稲懸大平、宣長、三井高蔭。 ☆『高蔭日記』「暮時退出入夜帰」。夕暮れに会場を出てどこかに廻ったのか、夜帰宅している。


◇ 元旦診察 

 いつも穏やかな正月であったわけではない。診療記録『済世録』には元日から患者の薬を調合したことが書かれている。
【関連項目】 「宣長の医業」


◇ 御祝儀、年玉

 反対に、門人が増えると臨時収入が期待できる。「正月には年頭御祝儀となし白銀一包み御恵、忝なく祝領致し候」(宮地春樹宛・宣長54歳)
  「正月二日、一、金二分、社中より年玉」(寛政10年)

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【もっと知りたい】◆正月は出産の季節◆正月は入学の季節◆200年前のお正月

◇ 正月は出産の季節  

宣長の子どもは、長男春庭(2月)を除く4名が正月生まれ!
宝暦13年(宣長34歳)2月3日、長男春庭誕生。  
明和4年(宣長38歳)1月22日、次男春村誕生。  
明和7年(宣長41歳)1月12日、長女飛騨誕生。  
安永2年(宣長44歳)1月2日、次女美濃誕生。  
安永5年(宣長47歳)1月15日、三女能登誕生。

◇ 正月は入学の季節 

 正月は寺入りの季節である。宣長は手習いを元文2年(8歳)8月から開始しているが、翌3年春(正月か)には西村三郎兵衛に、12歳の正月26日からは斎藤松菊に入門した。
 明和7年正月10日、長男・春庭(8歳)、寺入り。師匠前川与平次。入門料銀札8匁等。  
 明和9年正月16日、次男・春村(6歳)、寺入り。入門料銀札8匁等。
 安永6年正月12日、長女・飛騨(8歳)、寺入り。師匠本町家城惣兵衛妻。入門料銀札5匁等。
 安永9年正月13日、次女・美濃(8歳)、寺入り。師匠本町家城惣兵衛妻か。入門料銀札5匁 等。  
 天明3年正月16日、三女・能登(8歳)、寺入り。入門料銀札5匁等。

◇ 200年前のお正月

 1801年、宣長(72歳)は新春を和歌山で迎えた。松坂の留守宅では「鏡備えの覚え」により例年通り鏡餅が供えられ、1歳7ヶ月になる伊豆を囲んで賑やかな新春であろう。
○元日、晴天。朝、同行の大平が宣長に歌を添えて茶を進めた。 「元日の朝世のいはひごととて大平がわれに茶をすすむとて、君がため名におふ里のわか水をくむもうれしき千代のはつ春、とよめるにつきて我も又よめる、 くむもよし(いざくまん)今年をちよのはつ春と名もわか山の里のわか水」(『石上稿』)
○2日、晴天。松坂町奉行小林六左衛門が年始にやってきた。小西春村、春重宛、春庭宛、長井宛賀状をそれぞれ執筆。春庭宛では、雪は時々降るが伊勢に比べて随分暖かであること、内孫の伊豆が2,3尺ほど歩き始めたそうだが、早く帰って見たいものだと書き添える。
○3日、晴天。寒さ強し。御医師で御匙以外の者、登城年始礼。宣長も列席する。8時半頃登城。大広間でお流れを頂戴する。正午前、下城。午後、老中等へ挨拶回り。
○4日、晴天。夜から翌日明け方まで雪。諸方挨拶回り。大平によれば、二里近く歩き、さすがに先生も草臥れた様子である。大分、中津の門人渡辺重名が春庭書簡を携え来訪。いろいろと面白い話で気分もまぎれる。夜、『万葉集』講釈開始。
○5日、晴天。落合左平次。
○6日、紀国造来訪。夕方、名古屋の門人植松有信来訪。大平、春庭宛書簡を執筆し、宣長の近況などを伝える。
○7日、曇時々雨、午後晴天。大平、重名、有信、塩田養的親子等と、玉津嶋、東照宮、天満宮等参詣、和歌浦に遊ぶ。夜帰宅。
○8日、晴天。朝、渡辺重名出立する。上京後江戸に下向の予定。塩津浦蛭子社神主浜井右衛門来訪。
○9日、晴天、深夜風雨。落合春葉家年始会。出席、亭主、宣長、本間了全、井口敬秩、大平。兼題「若菜知時」、当座「初春」。夜、講釈(『万葉集』か)。野々山七左衛門出席。

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二月の宣長

◇ 2月

 2月、きさらぎ。
 松坂は初午祭りで心浮き立つ季節だ。中旬を過ぎると春の気配が感じられる。桃の花見も楽しみだ。

◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「如仰此間は春色相催申候節」(2月18日付・沢真風宛)
「漸春暖相成候節」(2月25日付・千家俊信宛)


◇ 3つの大きな出来事
宝暦8年(29歳)2月11日、「嶺松院歌会」に初めて歌を出す。
宝暦12年2月、自撰歌集『石上集』巻1出来る。『冠辞考』購入する。
安永7年(49歳)2月30日、『馭戎慨言』の浄書出来る。

◇ 2月の歌

雪きえて 四五百の森の 下草も 
      若葉つむまで 春めきにけり
                  (宝暦11年・32歳)
    春雨夜静
軒くらき 春の雨夜の あまそそぎ 
      あまたも落ちぬ 音のさびしさ
                  (安永8年・50歳)
【関連項目】 >>「四五百の森」


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【もっと知りたい】◆嶺松院会に初めて名前が出る。 ◆古代探求開始◆『馭戎慨言』

◇ 嶺松院会に初めて名前が出る。  

 宝暦8年(宣長29歳)2月11日、嶺松院会の『詠草会集 六』に「春庵」(宣長)の名初出。なお、当時の嶺松院会員は、清地・正啓・明達・栄宣・義方・道円・行前等であった。宣長の『嶺松院会和歌序』に「こゝにわがすむ里ちかきなにがしの院に、月ごとの十一日廿五日には、かならずこれかれあつまりて、月なみの題さだめをきつゝ、例の物する人びとなん有ける」とある。
【関連項目】 「嶺松院歌会」


◇ 古代探求開始  

 宝暦12年(33歳)2月、宣長は自撰歌集『石上集』巻1を編集しています。この書名につけられた「石上」とは古代への憧憬の念が込められています。また同じ月には、賀茂真淵の『冠辞考』も購入しています。借りて読んだのは5年ほど前ですが、やっと自分のものになりました。


◇ 『馭戎慨言』  

 安永7年(49歳)2月30日、浄書された『馭戎慨言』は、古代から豊臣秀吉までの日本の外交史です。書名は「ぎょじゅうがいげん」と読みますが、また「からおさめのうれたみごと」という読み方もあります。今でこそ、書名が日本中心的だなどと批判されますが、当時は儒学者やまた医道の師であった武川幸順など多くの賛同を得た本です。外交史は宣長が20代から関心を持っていたテーマだけに、内容は堅実です。印刷は寛政8年(67歳)夏です。それまでは写本で読まれました。

【もっと知りたい】◆はつむま ◆ 香良洲へ参詣・江戸の火事

◇ はつむま  

 2月の歌で引いた「雪きえて」には一つの言葉が隠されている。
  「はつむま」である。
 
 松坂、岡寺山継松寺の初午(ハツウマ・ハツムマ)は、宣長当時から、近在でも評判の大きな祭であった。例えば、宝暦8年(1758)宣長29歳の『日録』に「二月朔、初午、晴天」と書かれる。これは通常だと、「晴天、初午」となるところだが、逆転した書き方に気持ちの高ぶりが感じられる。  
  門人・服部中庸の『松坂風俗記』で祭の賑わいを見てみよう。

「二月 初午 いせ一ヶ国の賑ひ也。岡寺山継松寺ト云寺ノ観世音へ参詣す。大体、前日よりして、当日之夜にいたる。見せ物、軽業など、わづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興行す。京、大坂、名古屋、四日市、津辺よりも、商人多くきたりて、種々の物を売。大かた一ヶ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人皆参詣する。殊に厄年之者は猶さら也(中略)当日之昼四ツ時比より八ツ時過までは、寺内に人詰りて、老人子供などは参詣かなはず。一ト切一ト切に人数を入かへて参詣さする也。」
(『本居宣長稿本全集』)
 京や大坂、名古屋からも香具師が来て、一年中の買い物が全部揃う。伊勢の国中の人がやってくる。厄の人はもちろんだ。あまり人が多いので老人子どもは参詣できない。入場制限をする。まるで東京ディズニーランドだね。中庸は、紀州藩与力、つまり警察署員だ。人の集まりには目を光らせる立場にあった。
 因みに、宣長さんも前厄(41歳)、本厄(42歳)、後厄(43歳)きちんと済ませている。

 でもどうして岡寺に厄落としをするのか。
 『本居宣長随筆』
「水鏡【中山内大臣忠親公作】序云、此尼ことし七十三になんなり侍る、三十三を過がたく、相人なども申あひたりしかば、岡寺はやく(厄)をてん(転)じ給ふとうけ給はりて、まうでそめしより、つゝしみのとしごとに、きさらぎのはつむまの日、まゐりつるしるしにこそ、今まで世に侍れば、今年つゝしむべきにて参りつる云々とあり、是は大和の岡寺也、松坂の岡寺も、これにならへるにや、厄おとしといひ、初午に参る事、またく同じ、又女は三十三を厄年とするも、是によし有て聞ゆ」
と書いてあり、面白いことに田中道麿が
「女ニハ十九ノヤクモアリ、夕顔ノ上十九也」
と付箋を貼っている。名古屋から勉強にやってきた道麿さんが、先生のノートを見せてもらい、出典を書き加えたのだろう。
ノートまでチェックされるから先生も大変だ。


岡寺初午風景(平成13年)
◇ 香良洲へ参詣・江戸の火事  

 宝暦10年(1760)、31歳の2月を見てみよう。

○10日、加良洲神社(一志郡香良洲町)に参詣する。

○11日、嶺松院会。この日、6日の江戸大火の知らせが入る。被害概要がつかめるのが7日、約5日弱で松坂に連絡が入ったことになる。江戸店持ち商人の多い松坂は驚天動地だろうが、友人も多い。でも、宣長さんはあまり関係がない。対岸の火事だ。
☆『日記』「(二月)十一日、去六日江戸大火事之由、今日相知、六日暮六時、神田旅篭町出火、紺屋町飛移、自夫石町、伝馬町、本町三丁目四町目、室町、堀留舟町、小船町、南北新堀辺不残焼、永代橋深川迄焼通、凡松坂店之分、八九分通此度焼失、其内土蔵等多焼失之由、殊外之大火也、同日七時、芝神明前亦失火、大成候由也、且又三日大火事有之候上也」

○12日、叔父小津源四郎、手代彦兵衛江戸下向。源四郎店は大伝馬町一丁目にあり、宣長も一年滞在した場所だ。下向は6日の火事の関係か。

○13日、木造(久居市)に桃の花見に行く。片道約10キロ、加良洲神社よりは近いが、半日仕事だろう。『宝暦咄し』には、「木造桃はやし、毎年花見大賑合(一本頭書「明治末期迄賑ふ」)」(『松阪市史』9_174)とある。

○15日、『狭衣物語』校合終わる。手沢本奥書「宝暦十年庚辰二月望日、一本校合畢、舜庵宣長」。

○20日、菅相寺和歌会。この日が初会。毎月20日と定めるが8月で終わる。 月次定日二十日。



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三月の宣長

◇ 3月

 弥生、3月には桜も咲き始める、雨も多い。万事改まることが多い月だ。江戸に向かう人、帰る人。改名もこの月が多い。参宮客も増え出す。この月には重大な出来事が多い。「3つの大きな出来事」、また「万事改まる3月」を見てください。


◇ 時候の言葉 (寛政10年書簡)
「次第暖気ニ相成候節」(3月9日・小西春村宛)
「春暖相催候節」(寛政9年3月11日・千家俊信宛)
「如御示逐日春暖之節」(寛政9年3月13日・高尾吉宛)
「此間は打続雨天御坐候」(寛政9年3月18日・小西春村宛)
「春暖の節」(3月23日・植松有信宛)


◇ 3つの大きな出来事
宝暦2年(23歳)3月5日、医学修行のため京都に出立。16日、堀景山に入門し、寄宿する。
宝暦5年(26歳)3月3日、医者となり、「宣長」と改名する。
明和9年(43歳)3月5日、吉野花見に出立。『菅笠日記』の旅。

◇ 3月の歌
しめやかに けふ春雨の ふる言も 
      かたらん嶺の 松かげの庵(イオ)
 

    山躑躅
入りはてて 後も照る日の 色はなほ 
      つつじにのこる 春の山の端
                  (明和9年・43歳)
※「しめやかに」の歌は、宝暦13年3月25日、京都の歌人で、松坂滞在中の澄月に贈った歌。
  樹敬寺に歌碑がある。

>>「嶺松院歌会」

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【もっと知りたい】◆万事改まる3月◆「宣長」誕生 ◆ひな祭り◆桜

◇ 万事改まる3月  

 3月は万事改まることが多い。江戸に向かう人、帰る人。改名もこの月が多い。参宮客も増え出す。この月の重大な出来事として、「3つの大きな出来事」以外に次のようなことがありました。
寛保元年(11歳)    3月、父・定利(46歳)、江戸に出立。最後の別れとなった。
寛保2年(12歳)    3月、実名を「栄貞」(ヨシサダ)と改める。20歳の時に読みを「ナガサダ」とする。
延享2年(16歳)    3月26日、『【伊勢州飯高郡】松坂勝覧』の稿成る。
延享3年(17歳)    3月26日、一年の滞在を終え江戸出立。
寛延元年(19歳)    3月27日、『端原氏城下絵図』起筆。
宝暦元年(22歳)    3月10日、江戸に下向。7月まで滞在し、兄死去の後始末。
宝暦9年(30歳)    3月4日、『伊勢物語』講釈を開始する。
宝暦10年(31歳)    3月、『阿毎莵知弁』成る。
宝暦12年(33歳)    3月9日、京都時代の友人・山田孟明が参宮の途次立ち寄る。この時、『冠辞考』を見せる。
明和7年(41歳)    3月、長女・飛騨初節句。祝いとして村田与三兵衛から小着物、紙雛。津の勝の実家から雛代として金100疋(1両の四分の一)、肴代など届く。
天明2年(53歳)    3月2日、伊勢の前山に花見に行く。
天明3年(54歳)    3月9日、「鈴屋」竣工初の歌会開催。『日記』に「於新二階臨時歌会、初度也」とある。
寛政13年    3月1日、和歌山から帰郷。中旬、山室山で竣工した奥墓の桜を見、28日、京都に出立する。

◇ 「宣長」誕生  

 宝暦5年3月3日、本居栄貞は、稚髪し、名を宣長と改め、号を春庵と称し、十徳着用す。この日から宣長は医者となる。母も「そもじ殿事も、いしや相ぞくの心がけにて、名も御改、十徳、節供より著被申候由。めでたく悦申候」(3月12日付)と悦びの手紙を寄こした。
☆『在京日記』「三月三日、為稚髪、更名曰宣長、更号曰春菴常相呼矣」(宣長全集・16_44)


◇ ひな祭り  

 節句には挨拶回りをするのが当時の慣習だったようです。京都時代も、節句の挨拶廻りをしたようで、宝暦7年には「ひよりよし。せく(節句)。れいのごといはひ侍る、あそここゝ礼にまはる」(宣長全集・16_101)とあります。この日は、武川先生の誘いで景山先生と、高台寺春光院の花見に行きました。他に同行者は幸順、藤伯、上月氏知源尼、元周等。日暮れに帰る。因みに、この日は先生のお供で気疲れしたので、次の日は友人と花見のやり直しをしています。
 松坂での節句も見てみましょう。桃の節句、ある家に行くと、おごそかにお雛様を数多く並べて、お内裏様やお雛様に捧げ物をするなど子供たちのあでやかな遊んでいる。その横で一献頂き、詠んだ歌は、
  お内裏様など雲上人の前で頂くと、雲の上ゆえに春の朧月もおぼろでなく、また酒を満たした盃も格別、格別、 と言う一首。
【原文】
「三月三日人の家にまかりけるにいといつかしくひゝなあまたすゑなめてかけまくもかしこきおまへに物奉りなどわらはべ共のあてはかなるあそびするかたはらにて盃いたしければ
 雲のうへと 思へばけふは 出るより おぼろげならぬ 春のさか月」(安永6年・宣長48歳)


◇桜
>>「桜」


四月の宣長

◇ 4月

  卯月4月は春本番。今の5月から6月上旬。季候もよく、旅には最適の季節。月末には暑さも覚えるようになる。宣長にとって運命的な出会いのあった月でもある。


◇ 時候の言葉 (寛政10年書簡)
「追日暖気之節」(寛政9年4月4日・小西政盈宛)
「此間は余程暖ニ成申候」(寛政9年4月11日・小西春村宛)
「次第薄暑相催候」(4月21日・小西春村宛)


◇ 3つの大きな出来事
延享2年(16歳)4月17日、江戸に出立。1年滞在し帰る。
寛延元年(19歳)4月5日、京都大坂等を巡る1ヶ月の修学旅行に出発。
宝暦6年(27歳)4月20日、友人草深玄周宅を訪問する。この時、友人の妹たみさんと会ったという説があります。本当なら、運命的な出会いです。

◇ 4月の歌
    新樹
青葉にも 見れば心の とまるかな 
      花も紅葉も 夏山の色
                  (宝暦10年・31歳)
    卯花隠路
ひまもなく さとの卯花 咲にけり 
      とはむ垣根も 道見えぬまで
                  (天明4年・55歳)

【もっと知りたい】

◇>>始めての江戸行き・修学旅行 ・京都徹底探索
◇>>京都での日々・運命的な出会い・妙楽寺に遊ぶ
◇>>4月の参宮・4月の学問     

【もっと知りたい】 ◆始めての江戸行き◆修学旅行◆京都徹底探索

◇ 始めての江戸行き  

 16歳の4月17日、宣長は江戸に旅立っています。出発、到着の日と滞在先以外は、まったく不明です。何のために行ったのか。江戸で何があったのか。すべては謎です。
 一番有力なのは、商売の見習い説です。 延享2年(16歳)4月17日、江戸下向、松坂出立。26日、江戸着、叔父小津源四郎躬充の店(大伝馬町一丁目)に寄居。 延享3年(17歳)4月9日、松坂帰着。
 滞在先となった叔父小津源四郎は父定利の実弟。店は、宣長の曾祖父三郎右衛門が開業した店の三つの店の一つで、後年、隠居家孫右衛門に譲り与えたものです。木綿店で、明和元年閉鎖されました。


◇ 修学旅行  

 19歳の4月5日、宣長は京都に旅立ちました。約1ヶ月間、近江から大坂まで足をのばし、参詣寺社は延べ93箇所。芝居に葵祭、朝鮮人の行列拝見と優雅な旅です。江戸から帰ってから約2年、家に閉じこもっていた宣長には、格好の気晴らしとなったでしょう。でも、利息生活の家計には大きな負担となった筈です。
 手習いから始まった勉強の一応締めくくりです。

>> 「京都徹底探索」


◇ 京都徹底探索  

 寛延元年(19歳)4月5日、京都大坂等を巡る1ヶ月の修学旅行に出発した。日程は次の通り。
【日程】寛延元年4月5日、京都行、松坂出立、津で観音堂、国府阿弥陀、専修寺等参詣し、関泊。宿は酒屋善兵衛。6日、江州石原泊。7日、多賀大社参詣、高宮泊。8日、草津泊。宿は藤屋。9日、石山寺、三井寺参詣、小関越で山科に出、京都着、宿は三条橋東尾張屋某。10日、建仁寺、大仏殿近隣、今熊野、泉涌寺、小松谷正林寺(説法あり)に参詣。先斗町糸屋久右衛門亭に止宿。11日、北で芝居見物。12日、「粟田口庚申、智恩院、【御座敷拝見、通誉上人御塔前参詣ス、大僧正ヨリ十念ヲ授ル】一心院、丸山長楽寺、東大谷、双林寺、祇園、【二軒茶屋中食】高台寺、八坂塔、清水寺、【本尊開帳】六波羅密寺、錦天神宮、円福寺、蛸薬師、胎帯地蔵、和泉式部寺、誓願寺」。13日、「革堂、下御霊、御築地内、禁裏、仙洞御所、其外諸御公家方ノ御屋敷。相国寺、上賀茂、御菩薩池、下賀茂、百万遍、吉田、黒谷、【方丈拝見、元祖安置仏拝見、正清院殿御霊廟拝見】真如堂」。15日、「誓願寺、東本願寺、西本願寺、東寺、石清水八幡宮、【八幡中食】伏見藤森稲荷」。16日、祇園、長楽寺、東大谷、清水寺参詣。18日、夜六角堂参詣。19日、「葵御祭下賀茂ニテ拝見、【並競馬アリ】北野天満宮、壬生地蔵」。21日、「東福寺、【霊宝多シ】伏見ヨリ船〔一人四十八文〕【七ツ半時出ル】其夜八ツ半時分大坂八間屋著、梶木町八丁目若江屋七兵衛宅ニ宿ル」。22日、表御堂辺、裏御堂、座間大明神参詣。23日、「道頓堀芝居見物、一心寺【茶臼山見ユ、寺内ニ本多出雲守忠朝討死所、墓アリ】天王寺、生玉宮、高津宮、御城、高麗橋」。24日、「天満天神宮、山崎宝寺観音開帳、湯殿山大日如来開帳、今日日ノ入前ヨリ船ニテ伏見ニ上ル〔一人百三文〕」。25日、「アクル○廿五日〔辰ノ刻〕、伏見京橋ニ著畔ス、宇治平等院、興聖寺、恵心院、離宮、三室戸、【本尊開帳】黄檗山、再入京、三条大橋東宿屋松屋権兵衛亭ニ止宿ス、同夜錦天神宮」。26日、「南禅寺、【方丈座敷拝見】永観堂、光雲寺、獅子谷、銀閣寺真如堂、【其折節本尊開帳】」。28日、「二条城、北野天満宮、平野社、金閣寺、等持寺、妙心寺、仁和寺、鳴滝村、広沢池、嵯峨釈迦堂、天竜寺、法輪寺、松尾社」。29日、「智恩院、祇園、高台寺、清水寺、【開帳、アクル朔日迄】西大谷小松谷大仏」。5月2日、京で朝鮮人入洛を七条通油小路西で見る。この時の朝鮮通信使は、正使洪啓禧、副使南泰耆、従事官曹命采で、総人員は475名(内83名が大坂残留)。将軍徳川家重襲職祝賀のため来日。3日、三条橋東旅宿で朝鮮人の京発足を見る。4日、京出立、石部泊。宿は大黒屋。5日、関泊。宿は菱屋。6日、松坂帰着。

【もっと知りたい】


【もっと知りたい】◆京都での日々 ◆運命的な出会い ◆妙楽寺に遊ぶ

◇ 京都での日々  

  遊学時代、宝暦6年(27歳)4月の京都生活を覗いてみましょう。馬に乗ったり、祭見物に行ったり、なかなか楽しそうです。
4月6日、蘭澤、允斎等と等持院参詣、北野の右近にて乗馬。
☆『在京日記』「六日、いなりまつり也、ひよりよし、けふは蘭沢公、田中允斎なとと等持院へまいり侍りける、日ころ開帳にて、まいらはやとおもひをりし、もはやこの十三日まてとうけ給はる、尊氏将軍の守本尊地蔵菩薩の開帳、其外宝物共あり、一の堂には、夢窓国師の像、足利将軍歴代の木像あり、後の庭、泉水いとふるくおもしろし、此開帳のうち、衣笠山へも人あけ侍れは、のほりて見るに、かけ茶屋おほくにきはしく見ゆ、山上にて、夢合の観音といふをおかませける、此山の上より、京中よく見えて、いとよき風景也、酒のみなとし、休みてかへる、それより道すから馬つれてまかりけれは、のりなとして、北野の右近の馬場にて、又皆々のり侍る、予も久しくのり侍らさりしか、一くら、二くらのり侍る、心いさましくおかしき物也」
4月9日、大西周庵と清水参詣、方広寺などを巡る。またこの頃、檀王法林寺に参詣し、祇園に遊ぶ。
☆『在京日記』「八日、大西周庵と清水へまうて侍る、けふは花つみにて、いつかたもにきはし、地主権現のまつりにて、神輿も門へ出おはします、それより大仏へまいり、杜若を見はやと思ひしに、ゆきて見れは、また咲侍らす、三十三間堂のほとり、蔦屋といへるにしはし休みて、酒のみなとし、かへりける。けふよりまた檀王法林寺の万日主夜神の開帳も始りけるよし聞は、檀王へまいりぬ、いとにきはし、此主夜神と申すは、近きころ人ふかく信し仰く神にてまします、此ころ、山科妙見菩薩も開帳にて、にきはしきよしうけ給はる、それより祇園へまいりけるに、又人にあひ侍りて、すゝめられてさりかたく、夕つかたより、祇園のすはま屋へまかりて、しはし酒のみてかへりぬ」
☆法林寺(左京区法林寺門前町)は、山号朝陽山、浄土宗。『京羽二重』(貞享2年刊)に「三条大橋東詰上ル。俗にだんのと云」とある。鎮守に主夜神堂があり、『都名所図会』に伝説が載る。又、池大雅が塔頭清光院に寓居し、山口素絢(文政元年没)の墓がある。


◇ 運命的な出会い  

 この月、父の17回忌で一時帰省します。この時の記事には宣長には珍しく食べ物のことが書かれています。それともう一つ、友人草深宅に立ち寄ります。
 大野晋氏は、この時に宣長は友人の妹・民を見初めたのではないかと推測します。民さん、後に宣長の妻・勝となる人です。
4月19日、好天。松坂帰省のため京出立、東海道を下り、大津打ち出の浜から矢橋まで船で渡り、草津を越え、目川で名物の菜飯田楽を食べ、水口泊。宿は小まつ屋何某。水口家中岩谷順蔵を訪う。
4月20日、鈴鹿峠を駕篭で越え、関で南禅寺豆腐によく似たものを食べ、津の佐々木屋に宿を取る。食事湯浴みの後、草深玄周を訪い、結局草深に泊まる。堀家で一緒だった松田東三郎も同席。丑の刻(午前2時頃)まで物語。
4月21日、巳の刻(午前10時頃)起床、松田氏を訪う。松田、佐々木屋まで来て物語、午の刻前出立、六軒茶屋で迎えの茂八に会い、未の刻に松坂帰着。
4月23日、父17回忌法事。


◇ 妙楽寺に遊ぶ  

「 四月の晦日かたにこれかれるいして山室といふ山寺へ時鳥きゝにまかりたりけるに一声もなかさりける此程はいかにととふにあるしの大とこなともまた初音きかぬよしいはれければ
 住む人も まだ聞かずてふ 言の葉を 家づとにてや けふはかへらん
  ところにつけたるたかうな(竹の子)など調じてあるじせられけるがとかくする程にやうやう暮れ方近くなりければ
 長き日も やゝくれ竹の この寺に 一夜明かして 帰りもやせむ」 (宝暦14年・35歳) この2首は、妙楽寺に行った時の歌。


【もっと知りたい】◆4月の参宮 ◆4月の学問

◇ 4月の参宮  

 この月には参宮も多かった。 寛政7年4月9日には、浜田藩(今の島根県浜田市)儒者・小篠敏と松坂門人三井高蔭、山崎義知、森光保、村上円方らと参宮している。
 寛政11年4月にも参宮をした。4月3日、三女能登の嫁ぎ先、安田広治宅泊。4月4日、両宮参拝。門人の宇治土公(ウジトコ)宅に泊。この時に詠んだ歌が、現在猿田彦神社で歌碑になっている。4月5日から8日まで再び安田宅に泊り、9日に帰宅した。



◇ 4月の学問  

 余り勉強のことが出てこなかったので、学問関係記事を集めてみます。
宝暦5年(26歳)4月30日、『倭音通語』(谷川士清)書写。
明和2年(36歳)4月26日、『源註拾遺』(契沖)書写。
明和5年(39歳)4月、『古事記上巻真淵訓』書写。
明和6年(40歳)4月、『講後談』起筆。
安永3年(45歳)4月9日、松坂奉行御両役渋谷氏に『古今集』講釈。
天明7年(58歳)4月14日、真福寺本『古事記』で校合。


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五月の宣長

◇ 5月

 さつき5月のサは神稲。稲を植える月の意(『岩波古語辞典』)。「田植る農業(ワザ)を、凡て佐(サ)と云ふ、(中略)又其業する月を佐月と云」『古事記伝』。
 むかしの5月は、五月雨の五月蠅い季節。暑くてジトジト。 「(須佐之男命の)泣きたまう様は青山を枯山なす泣き枯らし海河は悉く泣き干し、ここを以て悪神(あらぶるかみ)の音(おとない)狭蝿なす皆わき、万の物の妖いは悉くおこりき」『古事記』
 この「狭蝿」(サバエ)とは、『日本書紀』に「五月蝿」と書くように、陰暦5月の蝿のこと。騒がしくて、うるさくて仕方ない。そう言えば、「うるさい」も「五月蠅い」と書く。
  5月も下旬になると次第に暑くなってくる。


◇ 時候の言葉 (寛政10年書簡)

「向暑之節」(5月4日・野井安定宛)
「段々暑候ニ成申候処」(寛政9年5月9日・本居春庭宛)
「一両日は能天気相成、目切と向暑申候」(5月21日・三井高蔭宛)
「次第暑気相成申候」(5月24日・植松有信宛)


◇ 3つの大きな出来事
享保15年5月7日、松坂町本町、小津定利、勝の子として宣長誕生 。
宝暦13年(34歳)5月25日、松坂町日野町、新上屋で、賀茂真淵と対面する。
明和4年(38歳)5月9日、『古事記伝』巻2(再稿本)出来る。

◇ 5月の歌
    早苗
かりはてぬ かたへは麦の 秋風に 
      いつしかそよぐ 小田の若苗
                  (明和8年・42歳 )
    山家樗
山里は ただ青葉のみ 茂りあふ 
      をりにあふちの 花もめづらし
                  (安永3年・45歳)
※「木の様にくげなれど、樗(楝とも)の花いとをかし、枯れ枯れに様異に咲きてかならず五月五日にあふもをかし」『枕草子』


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>>雨・端午 ・鯉のぼり?
>>梅雨の準備・誕生・松坂の一夜
>>5月の宣長・医者の不養生

 

【もっと知りたい】◆雨 ◆端午 ◆鯉のぼり?

◇ 雨  

 宝暦7年(1757)5月、「五月、うづき廿日あまりより雨ふり侍て、いまに晴れやらず、五月雨のならひ、いとはれがたきもの也や、所々水高く出けるよしなり、
五日、けふはあやめのせく(節句)、からうじて日のけしきもなをりぬべく見えしが、又ふりいでぬ、四日のよいなづまひかり、神もすこしなりて、雨いとつよくふりしかば、けふはれんと思ひしに、まだはれやらぬ、いとうつとうし、
七日、けふは日もなをりぬれど、時々ゆうだちのけしきになりて、雨なをふる、けふなんいとあつし」『在京日記』


◇ 端午 

「端午」とは月の5日を指す。特に5月5日は五節句の一つで、端午と言えば5月の専売特許となった。ジトジトした季節だけに、菖蒲を身に帯びて邪気を払う風習があった。
「菖蒲」は「尚武」に通じる。やがて端午(菖蒲)の節句は、男の子の祭となった!
 菖蒲湯に入ったときに私達を包むあの薫りは、時空を越えて昔と今をつないでくれる。鮮烈な薫りは日本でも中国でも魔よけであり、根は長寿の薬となった。


◇ 鯉のぼり? 

 松坂でも幟(ノボリ)をあげた。でも鯉のぼりだったかどうかはわからない。
「五月節句前には紙幟木太刀を店々にかざりて多くうれる」『宝暦咄し』。また、宣長『日記』明和2年5月1日条にも 「幟建事不苦」とお触れが出たことが書かれる。


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【もっと知りたい】◆梅雨の準備 ◆誕生 ◆松坂の一夜

◇ 梅雨の準備  

 雨が多いと傘の修理も必要だ寛政6年5月4日には、17匁5分を唐傘屋に、同9年5月19日に、19匁6分を唐傘張り替えで出費。同12年5月30日にも3匁を唐傘代として出している。


◇ 誕生 

 享保15年(1730)5月7日(陽暦6月21日)深夜、宣長、伊勢国飯高郡松坂(三重県松阪市)に生まれる。もう梅雨に入っていたか。父は同町本町の木綿商小津三四右衛門定利、母は村田孫兵衛豊商の娘、お勝。幼名は冨之助。宣長は、父定利が大和国吉野水分神社に祈誓して生まれた子であると言うことを終生信じた。


◇ 松坂の一夜 

 宝暦13年(34歳)5月25日、嶺松院会。松坂の旅宿新上屋にて始めて賀茂真淵に対面する。世に言う「松坂の一夜」。「又一夜やどり給へるを、うかがひまちて、いといと嬉しく、急ぎ宿りに詣でて、初めて見え奉りたりき」と『玉勝間』にある。『日記』には、「廿五日、曇天○嶺松院会也○岡部衛士当所一宿
【新上屋】、始対面」(宣長全集・16_202)とある。

>> 「松阪の一夜」

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【もっと知りたい】◆5月の宣長 ◆医者の不養生

◇ 5月の宣長  

 この月の重大な出来事として、「3つの大きな出来事」以外に次のようなことがありました。
寛保元年(12歳)    5月14日    宣長と母子、本町より魚町の隠居家に移居。この住まいが現在「本居宣長旧宅」と称している建物である。
延享3年(17歳)    5月    『大日本天下四海画図』を描き始める。
寛延元年(19歳)    5月2日    京で朝鮮人入洛を見る。
宝暦2年(23歳)    5月12日    堀景山が書入れた『勢語臆断』説を書写する(『和歌の浦』巻4)。「臆断」の著者である契沖、この人の学問との出会いが宣長のその後を決定した。
宝暦4年(25歳)    5月1日    武川幸順法橋に入門、医術修行。
宝暦8年(29歳)    5月3日    『安波礼弁』起筆、『紫文訳解』も同時か。
宝暦13年(34歳)    5月5日    健蔵(春庭)初節句により親戚や出入りの者に夕飯をもてなす。
明和5年(39歳)    5月    最初の著作『草庵集玉箒』前篇5巻3冊が刊行される(刊記)。
明和6年(40歳)    5月9日    賀茂真淵、宣長宛書簡執筆。宣長の宣命への着眼を誉める。また、自分は、小を尽くして大へ、人の代を研究して神代へと言う態度で学問してきたことを言う。愛弟子・宣長への遺言とも言える1通。

◇ 医者の不養生 

 宣長は宝暦4年(25歳)5月1日から医者の勉強を始めたが、医者の不養生か、宣長自身も病気になること多かった。
宝暦2年(23歳)5月17日、
『史記』会の日であるが病気のため欠席する。
同年5月19日、
『晋書』会の日であるが病気が平癒しないので欠席する 。
宝暦4年(25歳)5月16日、
母は手紙で「しだいにあつさになり候間、随分随分ねびへ(寝冷え)も致し不申やうに、心がけ申さるべく候、灸もいたし申さるべく候」と気遣う。
天明6年(57歳)5月上旬頃、病気になる。
☆6月21日付、内山真龍宛書簡(大平代筆)に、「且又私義も、去ル五月上旬より不快罷在、此節漸ク大抵ハ快気仕候へとも、未諸方状通等、一向ニ相止メ罷在り候」とあり、又、10月15日付海量宛、閏10月16日付栗田土満宛書簡等に快復記事がある。
天明7年(58歳)4月頃、病気になる。
大平『万葉会評聞書』天明7年4月条に、「四月来ヨリ本居家御持病、五月末平快、然レドモ五、六、七、八月世上困窮ニテ門人ドモ不参。依之師家御会、源氏、万葉、新古今トモニ休会也。九月世上秋作宜、十日ヨリ会始ル」とある。
寛政元年(60歳)5月19日、
松坂滞在中の栗田土満に書簡執筆。一昨日夜、昨夜と来訪しなかったがどうしたのかと様子を問う。自分の病気ではなく、門人を気遣っている。
享和元年(72歳)5月8日、
京都で講義を続けていた宣長は、風邪発熱のため講義を一時中断する。
☆『鈴屋大人都日記』「八日師風の御こゝちになほおこたり給はず、朝のほど厠にものしたまひけるに、いかがし給ひけむ横さまにたふれ給ひければ、人々むねつぶれて、たすけまゐらせておましにものしけるに、汗はしとゝにながれて目をのみふたぎ給へれば、せむかたなくさぶらふかぎり、御かたはらにつとそひゐて、やゝおどろかしきこえつつ、たゞ神をぞいのり奉る、しばしありて御目をひらき給ひて、夢のやうになむありし、今はこゝちさはやぎぬとの給ふに、草の葉の色なる人々の顔すこしなほれり」(宣長全集・別3_144)



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六月の宣長

◇ みなづき

 水無月6月は暑さも本番。ミは水。ナは連体助詞。田に水を湛える月の意か(『岩波古語辞典』)。水無月の祓えの季節である。京都では祇園祭。神輿洗いの時から連日のように見物にいく。

◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「先日頃よりあつさ強く、扨々例年通りこまり申候」(寛政7年6月3日・本居春庭宛)
「甚暑御座候へ共」(6月14日・高尾吉宛)※尚々書に「暑中随分御自愛」とある。
「時分から殊外之あつさニ御座候」(6月14日・高尾飛騨宛)
「酷暑之節」(6月17日・荒木田久老宛) 「先以酷暑之節」(6月20日・植松有信宛)


◇ 3つの大きな出来事
宝暦13年(34歳)6月7日、『紫文要領』上下2巻の稿成る。
明和3年(37歳)6月30日、第1回『源氏物語』講釈終わる。開始より8年目。
寛政10年(69歳)6月13日、『古事記伝』第44巻の最終丁の清書終わる。全巻終業。

◇ 6月の歌
 
    廬橘驚夢
しばし見る 夢路なやます 袖の香も 
          同じむかしの 軒の橘
                  
    杜五月雨
かた岡の 杜のこずゑの ひまなきに 
          雫もしげき 五月雨のころ
                     (天明4年・55歳)

【もっと知りたい】

>>菅相寺の西瓜・京都の6月『源氏物語』の講釈
>>6月の写本・『紫文要領』・古体の歌
>>『古事記伝』の執筆終わる・『日記』に見る松坂祇園祭

>>毎月の宣長さん

【もっと知りたい】 ◆菅相寺の西瓜 ◆京都の6月 ◆『源氏物語』の講釈

菅相寺の西瓜

菅相寺 碑

◇ 菅相寺の西瓜  

「 夏の比、菅相寺にて和歌会しける時、むかひに見ゆる山里をいつこそととへは駅部田となんいふ、此里の名を句の上にすへて蚊遣火の烟の立を見てよめる
 まつ陰の 宿のかやり火 野をとをみ へだつる雲に たちまがふ也
※各句の頭を取ると「まやのへた(駅部田)」となる。

  同し時西瓜をふきの葉にもりていたしたるをくひてよめる狂歌
 すずしやと 飽かずいく葉も もりかへて くふ気味よさに 夏も忘れぬ
※「すいくは(西瓜)」と「ふき」を読み込む。

  同時 西瓜
 くふからに 涼しき身(実)にぞ 成にける 秋くる方の 名にしふうり
※「秋来る方」とは西のこと。

 宝暦10年6月20日、菅相寺歌会での作。宣長が行事を勤める。この日は他に「当座 橋杜若」2首も詠む。同会ではこの月が最も盛会であった。兼題出詠は小津正啓、稲懸棟隆、須賀直躬、山口昭方、宣長。探題は正啓、義方、宣長、明達、光多(名前だけで歌は未載)、昭方、棟隆、直躬。また当座もあった。

>>「菅相寺歌会」


◇ 京都の6月  

宝暦2年(23歳)         6月10日、四条河原で納涼。その水面に映る美しさと賑やかさに感激する。
宝暦4年(25歳)    6月下旬、諸国で雨乞いの噂を聞く。
宝暦5年(26歳)    6月29日、母宛書簡執筆。黒綿入れ羽織(長け2尺9寸)、木綿綿入れの寝間着と普段着を依頼する。この年は5月まで余寒が続いたので、早めに準備を依頼したのかもしれない。
同年6月上旬、雨が多く、鴨川増水し、四条河原の納涼がない日が多かったので、延長を願い出て受理される。この頃、宣長は糺の森の納涼に出かけるか。
宝暦6年(27歳)    6月14日、祇園祭。大夕立有るが暮れ方には上がる。はじめて涼み有り。三条での用事の帰り「大橋へ出て、川原のけしき見侍るに、星の如くにともしひ見えて、いとにきはゝし、かゝる事は、江戸難波にもあらしと思ふ、ましてさらぬゐなかなとはさら也」と感動する。四条川で水死者との噂を聞く。母宛書簡執筆する。
宝暦7年(28歳)    6月末、京極押し小路の南で夜毎つぶての怪事のあること、また霊山の化け物の噂を聞く。
宝暦8年(29歳)    6月11日、嶺松院会。兼題「松風如秋」で「住吉」を詠み、同月25日兼題「夕風」でもやはり「住吉」を詠むのは京都養子の件が不調に終わり松坂住みを決めたことと関係あるか。
     歌は、

   松風如秋
 おきつ波よるは涼しき住よしの
     まつのこづゑにかよふ秋風

   夕立
 うら風にあはちの嶋の夕だちに
     すゝしさをよぶすみよしの松

で「住みよし」と「住吉」を懸けたとも推定されている。

◇ 『源氏物語』の講釈  

 宝暦8年(29歳)夏、第1回『源氏物語』講釈を開始。明和3年(37歳)6月30日終わる。開始より8年目。
【関連項目】 「『源氏物語』講釈」

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>>菅相寺の西瓜・京都の6月『源氏物語』の講釈
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【もっと知りたい】 ◆6月の写本 ◆『紫文要領』を書く ◆古体の歌

◇ 6月の写本  

 暑さの中でも学事は怠らず。夏も宣長は学問に励む。
宝暦9年(30歳)6月1日、『伊勢物語』を書写する。奥書「宝暦九年丁卯六月朔日、清蕣庵本居宣長」。美しい写本。
同年6月2日、『老槐集』を書写する。奥書「宝暦九年丁卯六月二日、蕣庵宣長写」。本書は、中院通茂の家集。連日の写本。


◇ 『紫文要領』を書く  

 宝暦13年(34歳)6月7日、上下2巻脱稿。「もののあわれを知る」ことを基調とする『源氏物語』論。しかし、ほとんど人に見せることはなく、晩年執筆の『源氏物語玉の小櫛』は、本書をもとに加筆している。
◇ 古体の歌  

 宣長の詠む歌は「後世風」ですが、『古事記』や『万葉集』研究のためには「古風」(古体)の歌を詠むことが必須です。真淵と会った直後の、宝暦13年(34歳)6月、この頃初めて「古体」の歌10首(春2・夏1・秋2・冬2・恋3)を詠んでいます。これらの歌は、書簡と『万葉集』の質問と共に師・真淵に送られ、添削と入門の許諾を請うことになります。
 この「古風」か「後世風」か、大平が宣長にした質問とその回答が残されています。
「歌風問答」という仮題がついたこの質疑応答の概略を紹介しましょう。
 茂穂(後の大平)
「生は直く正しい上代を尊びながら、歌は新古今風のものを手本とするのはどうしてですか。」

 宣長
「最近の俳諧などは論外だが、古ければいいと言うものではない。三代集(『古今集』、『後撰集』、『拾遺集』)以前は、優れてはいるが、世界が狭い(「めでたけれど事ひろからで、足はず」)のだよ。ちょうど人間でも20代、30代は、まだ心が「ゆきたらはぬ」ものだ。40,50頃に至って、盛りで、また万事整うものだよ。」


このようなことが書かれています。全文は『本居宣長全集』別巻1に載っています。
また、この問題については『宇比山踏』でも詳しく書かれています。

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【もっと知りたい】◆『古事記伝』の執筆終わる ◆『日記』に見る松坂祇園祭

◇ 『古事記伝』の執筆終わる  

 寛政10年6月13日、今の暦で7月26日。『古事記伝』第44巻の最後のページを宣長は汗を拭いながら書き終えました。真淵先生と会った「松坂の一夜」から36年目、『古事記』研究に着手して35年目の全巻完結です。宣長はもう69歳になっていました。

>>『古事記伝』書き終わる


◇ 『日記』に見る松坂祇園祭  

宝暦12年6月9日、将軍一周忌で祇園の物真似、音曲、浄瑠璃が停止。
宝暦13年6月10日、前年と同じ。
寛政2年6月1日、「弥勒院天王神輿修理成、今日自船江迎来、氏子町々有風流」
寛政4年6月7日、「惣産神神輿町中巡幸【西至新川井町、東至平生町橋、南至黒田 町】此事久中絶之由、然今年再興」
☆『松坂権輿雑集』「六月十四日産神の祭礼なれば麺類等を製し家内を令賑、弥勒院 には七日より十四日迄神輿を拝殿に遷し、巫乙女夜神楽を奏す、雨竜御厨社には獅子 頭を被(カブリ)きて代神楽を舞」
☆『服部家文書日記類記』「(寛政三年六月朔日)元禄十三辰年神輿再興町中巡行之 処、享保十四酉年当寺焼失、神輿無難ニ候ヘ共巡行ハ相休境内ニて式例相勤来候処、 去年再興ニ付先規之通仕度との事」
☆『平生町永代控』「当町弥勒院神輿巡行之儀、寛政四年子六月より相初り候也」

松坂祇園祭

七月の宣長

◇ 7月

 文月7月は、もう秋です。暑さも残暑となります。「又師の考へに、七月(フミヅキ)は穂含月(ホフフミヅキ)、八月(ハヅキ)は穂発月(ホハリヅキ)、九月(ナガツキ)は稲刈月(イナカリヅキ)なり、と云れたるなどは、さもあるべし、其の余はいかゞあらむ、・・・己も考へ出て、さもあらむと思ふ彼此はあれど、十二月みながらは、未だ考へ得ざれば、今云はず、なほよく考へて云べし」『古事記伝』巻30


◇ 時候の言葉 (寛政10年書簡)
「残暑之節」(7月4日・小西春村宛)
「いまた暑さつよく候へ共」(7月4日・高尾飛騨宛 )
「一両日ハ又々残暑甚候へ共」(7月10日・小西春村宛)
「残暑之節」(7月25日・早川文明宛)
「如御申残暑未退候処」(7月27日・小西春村宛)


◇ 3つの大きな出来事
元文5年(11歳)閏7月23日、父定利(46歳)江戸店で没す。
寛保2年(13歳)7月14日、吉野水分神社にお礼参り。大峰山から高野山、長谷寺へ廻る。22日帰着。
寛政12年(71歳)7月『遺言書』を書く

◇ 7月の歌
    早涼
かはるとは 目にも耳にも まだしらで 
      袖に驚く 秋の初風
                  (明和8年・42歳)
    早秋山
けさははや 身にしむ風の 立田山 
     夜はには越えて 秋やきぬらん
                  (天明4年・55歳)

【もっと知りたい】

>>たなばた・7月大好き人間「堀景山」
>>母の手紙・魁星・7月の宣長     

【もっと知りたい】◆たなばた ◆7月大好き人間「堀景山」

らん
和歌子
◇たなばた

和歌子    『古事記伝』に「たなばた」について書かれています。
抄訳してみます。 「棚機(タナバタ)というのはもともと機(ハタ)のことである。(機の構造は棚状になっているのでこうよぶ)、これを織る女神を棚機姫とよぶわけである。また、機を織る女を昔から棚機つ女という。そこで、和歌などで例の織女星(ショクジョセイ)をも「たなばた」と読みを当てる。つまりは、棚機というのは、「機を織る女」という意味である。(七月七日の夜、牽牛織女の二星が会うというのは中国の書物にある話であるが、わが国でも広まって歌にも多く詠まれている。しかし、中国の天漢を天之安河(アメノヤスカワ)とよみ、織女を棚機つ女と読むのは、よく似たものをあてはめただけである。中国で詩に作るようにわが国でも歌の題材にするが、もともと同じものではない。しかし、この伝説の方がよく知られているので、今では、かの棚機の姫神も、またこの『古事記』の歌の弟棚機をも、あの織女星とのことと解しているのはまちがいである)。さて棚機つ女というのを略して単に棚機とだけ言う例も古くから多い。また、「たまもゆらにはたおるむすめ」などとあるのは、機織り娘の着けた珠が玲瓏(ゆらゆら)と鳴るのを、仕事をしながら取る拍子のように表現したのだろう」
ら ん    まだ難しい!
和歌子    ではもっと簡単に、
 日本では、機を「たなばた」と言った。「たなばたつめ」は機を織る女性である。
 中国には、織女星と言うのがあり大変有名だ。詩にも、また日本では和歌にも題材として使われている。
 本来、たなばたと織女星は同じではない。
 だから『古事記』の「弟棚機」を織女星とするのは誤りだ。
ら ん    たいしたことは言ってないのですね。
和歌子    簡単なことのようですが、文献(証拠)を駆使してこれを言うのがむずかしいのです。珍しい資料を出し、こんな話がある、こんな説もあると紹介するのは存外簡単ですが、絞り込んでいくことは容易ではありません。
ら ん    「七夕」は宣長さんと関係ないの?
和歌子    宝暦7年の夏は、6月から雨が降らず、皆々困っていた。諸国では雨乞いも行われた。7月7日、やっと雨が降った。でも、都の人々は呑気なもので、お二人さんのためには残念だと言っていたそうで、宣長も同調しています。「七月七日長生殿、夜半人無く私語の時、天に在りては願わくは比翼の鳥とならん、地に在りては願わくは連理の枝とならん、天は長く地は久しきも時ありて尽きても、この恨みは綿々として絶ゆる時無からん」という『長恨歌』の一節は思い浮かべたでしょうね。歌も詠んでいます。でもあまり宣長さんは7月7日は特別視はしていないようです。やはり七夕は晴れるにこしたことはないようです。

【原文】
「されどこよひ雨すこしにてもふり侍れば、天の川のあふせ(逢瀬)なきとかや、京わらんべのことぐさに申し侍れば、二星のためには、けふの雨はいかがとぞ思ふ」『在京日記』。


◇ 7月大好き人間「堀景山」

和歌子    ある夏の日のことです。堀景山先生は常々「月は七月が一番だね」と言われる。今日は7月16日、大文字の送り火でも見ながら先生宅に遊びに行こうと宣長は友人と誘い合って出かけました。 「十六日、いとあつし大方昨日今日の暑さは、あまり覚へぬ暑さにて、いと凌ぎがたしや、こよひ暮かたに、如意が嶽に大文字の火をともし侍る、奇観なり、(中略)三条の橋の上より上下を見れば、火共多く見わたされて、げに都の内ならでは、かゝる繁華はあらじといとど目驚かる。まして今宵は、精霊のおくり火とて、川瀬に臨みて松火ともし、仏の食供養の物ながし侍るとて、川原へ皆人の出侍るなり、それより縄手を過て、四条河原へ出て、西石垣を通り、屈氏(師堀景山)の木屋町の座敷へ訪い侍るに、何くれ物言い侍るほどに、東山より月の出るさま、いはむかたなくおかし、この月は、例よりも月遅く出るやうに覚て、まことにこよひは、山の端にいざよふ(十六夜・イザヨイ)といふべし、山際少し雲かかりて、しばし中空より雲を出侍る月、絵にかけらんやう也、先生のつねに月は七月にまさることなしと宣へるが、げにやはらかにて、しかも秋のけしきすみわたりたる影、いとおもしろし、川水に影うかみてぞ、さらに涼しく覚え、孟明のぬしなどと和歌詩などの物語して、夜ふかく迄居たり。川原へ出て、月影にうかれありきたるなど、もろこし人のふるまひも思ひ出られて、いとおかし」(宝暦6年・宣長27歳)
ら ん    「唐土人(モロコシビト)の振る舞い」ってなに?
和歌子    「壬戌の秋七月既望、蘇子客と船をうかべて赤壁の下(モト)に遊ぶ。清風おもむろに来たり、水波おこらず。酒を挙げて客に属して、明月の詩を誦し、窈窕の章を歌う。しばらくして月東山の上に出でて斗牛の間に徘徊す。白露江に横たわり、水光天に接す。一葦のゆく所をほしいままにし、万頃の茫然たるを凌ぐ。浩々乎として虚により風に乗りて其の止まる所を知らざるが如く、飄々乎として世をわすれて独立し羽化して登仙するが如し」。これは1082年、宋の詩人蘇東坡が作った『前赤壁賦』の冒頭、きっとこんな情景を指すのでしょう。
ら ん    唐土人のまねをして宣長もお酒を飲んだのかな?
和歌子    「味噌の味噌臭きと学者の学者臭いのは鼻持ちならぬ」と言い憚らない堀景山先生だから月を眺めて番茶を啜るという不粋はしなかったと思うけど・・・

>> 「堀景山」


【もっと知りたい】◆母の手紙 ◆魁星 ◆7月の宣長

◇ 母の手紙 

 月影に浮かれ歩いていた、その数日後、宣長のもとに伊勢の国から爆弾が飛んできた
 盃3杯以上は禁止! 「そもじ殿事、ことの外大酒被致候様に、其御地にて伊兵へ殿へ物語御ざ候承申候、さてさておどろき入候てあんじ申候、(中略)酒のみ申され候毎に、おやへふかうとわれらが事も思い出し候て、さかづきに三つよりうへたべ申されまじく候、もし又ふかくしい候人々御ざ候はば、遠方ながら母見てゐ申、かたく申越候故、日々のせい言と存、此うへたべ申さぬよし御申、かたくかたくつつしみ申さるべく候」(宝暦6年文月19日付)



「母勝書簡」 【国・重要文化財】
◇ 魁星 

『菅笠日記』の袋 写真をご覧下さい。ご存じ『菅笠日記』の袋です。右上に何か絵があるのお分かりですか。これは魁星といいます。7月7日は北斗七星の魁星の生まれた日とされてました。
 魁星は文昌星とも言われ学問の神様です。鬼に枡(斗)で魁ですね。そこで、江戸時代には本の袋(今のカバー)にこの文昌星の判を押すことが広く行われました。
 但し中国の風習ですから宣長にはあまり関係がありません。でも本屋のお守りですから、このように著作に押されることもあったのでしょう。黙認でしょうか。
「袋へ印押し候事、書林望の由、是は袋の事に御座候へば、いかやうにても不苦候」(宣長差出・植松有信宛、寛政7年12月12日付書簡)
 宣長の本をたくさん刊行した名古屋の永楽屋では、深く翁の恩恵を思い、今も神棚に、翁の霊を、文将(昌)星と孔子と並べ祭って毎夜灯明をあげている。これは佐佐木信綱翁の「宣長伝補遺」に出てくる話です。

◇ 7月の宣長 

延享3年(17歳)7月28日、『都考抜書』起筆。
同年7月、浜田瑞雪に弓を習い始める。
寛延元年(19歳)7月7日、『秀歌抄出』起筆。
宝暦元年(22歳)7月13日、江戸からの帰路、富士山に登る。
宝暦6年(27歳)7月26日、『日本書紀』校合する。同月『古事記』『旧事記』購求。
明和3年(37歳)7月26日、第2回『源氏物語』講釈開始。
寛政10年(69歳)7月26日、『家の昔物語』清書できる。
寛政11年(70歳)7月26日頃、入門式出来る。
 残暑厳しいせいか、7月は学問関係の記事は少ないようです。でも『古事記伝』やその他著作の方はこの月も着々と進展していたことは言うまでもありません。




八月の宣長

◇ 8月

 8月は涼しさを覚える季節。稲穂も青々として刈り入れももうすぐだ。「八月(ハヅキ)は穂発月(ホハリヅキ)」『古事記伝』巻30。


◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「朝夕涼気相催候節」(8月14日・小西春村宛)
「如仰秋冷之節」(8月19日・川村正雄宛)
「秋冷之節」(8月25日・小西春村宛)


◇ 3つの大きな出来事
元文2年(8歳)8月、西村三郎兵衛を師として手習いを始める。
明和2年(36歳)8月4日、谷川士清に書簡を送り交友が始まる。
寛政2年(61歳)、六十一歳自画自賛像を描き、賛を書く。

◇ 8月の歌

 今月の歌はやはり八月十五夜の作が多いようです。
 安永8年、宣長50歳の歌を見てみましょう。
    八月十五日の夜川辺にて月を見て
河水に みちぬる影は 井せきにも 
         あまりて落る秋の夜の月

    八月の廿日ころ月を見て五十になりしとし
あはれとは 見ずや五十の 秋の月 
         やどかす袖の 露の深さを
前年、やっと『古事記伝』巻17を書き終えました。『古事記』上巻部分の注が終了です。ほっと一息、迎えた50歳。月を見て感慨もひとしおだったようです。


【もっと知りたい】



【もっと知りたい】 ◆手習い◆「本居宣長六十一歳自画自賛像」を描く ◆松平康定との対面 ◆8月の宣長 ◆ 八月十五夜の歌◆八月十五夜と九月十三夜は比較される

◇ 手習い 

>> 正月の宣長・「正月は入学の季節」


◇ 「本居宣長六十一歳自画自賛像」を描く 

>>「本居宣長六十一歳自画自賛像」


◇ 松平康定との対面 

 寛政7年8月16日、宣長(66歳)は、松阪の本陣美濃屋で浜田城主松平康定に拝謁し『源氏物語』を講釈する。この講釈がいたく気に入った松平康定は、やがて宣長に『源氏物語玉の小櫛』を完成するように懇望することになる。
【関連項目】 「『伊勢麻宇手能日記』抄」


◇ 8月の宣長 

元文5年(11歳)、名を弥四郎と改める。
宝暦9年(30歳)8月30日、『勢語臆断』4巻4冊書写が終わる。
宝暦13年(34歳)8月10日、『源氏物語年だての図』起筆か。
天明2年(53歳)8月18日、『天文図説』成る。春庭が清書する。
天明3年(54歳)8月7日、『春秋左氏伝』会読開始する。会読の目的は何か?
享和元年(72歳)、『伊勢二宮さき竹の弁』刊行。


◇ 八月十五夜の歌 

「 八月十五夜くもりて月見えざりければ
 晴がたき こよひは雲の ひまをのみ 月のいるまで まちやあかさむ」(安永7年・49歳)
「 八月十五夜の夜川辺にて月を見て
  河水に みちぬる影は 井関にも あまりて落る 秋のよの月」(安永8年・50歳)
「 八月十五夜にはかならず歌の会して皆よむを一年さる事せでさうざうしきに月はことにおもしろかりければ
 望月の かけぬ円居の かけぬるぞ こよひの影に 思ふくまなる」(寛政6年・65歳)


◇ 八月十五夜と九月十三夜は比較される 

「 八月十五夜はくもりけるに九月十三夜の月のいとさやかなりければ、
 さやかなる影はこよひのためとてやなかばの月のをしみおきけむ」(安永9年・51歳) 寛政7年9月16日付本居春庭宛書簡「八月十五夜、其御地雨降候よし、此方も大雨天ニ而候、びしやもんじニ而会致候、当月十三夜ハ、晴天ながら少々おぼろニ而御座候」(宣長全集・17-288)。

>> 9月の宣長・「九月十三夜」

九月の宣長

◇ 9月

 長月9月は「九月(ナガツキ)は稲刈月(イナカリヅキ)」『古事記伝』巻30。秋冷を覚える季節。庭の桜も紅葉し、散り始める。
「なが月の十日ごろ、せんざいの桜の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろろおつるを見て、よめる
 花ちりし 同じ梢を もみぢにも 又ものおもふ 庭ざくらかな これをもひろひいれて、やがて巻の名としつ」『玉勝間』巻2。
 享和元年(1801)9月29日、宣長はその生涯を閉じる。享年72歳。


◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「秋冷逐日相増候節」(9月8日・栗田土満宛)
「次第冷気相成候処」(9月21日・小西春村宛)
「追日冷気之節」(9月27日・大円宛)


◇ 3つの大きな出来事

延享元年(15歳)9月1日、『神器伝授図』書写、同4日『職原抄支流』書写に着手。
寛政2年(61歳)9月10日、『古事記伝』版本第1帙(巻1~5)出来、届く。
享和元年(72歳)9月29日夜子刻、宣長死去。

◇ 9月の歌

    月下菊
月影の まがきの西に うつろへば 
      菊はそなたぞ 盛なりける
                  (安永5年・47歳)
    田家擣衣
いかならむ 寒き田面の ひとつ屋に 
      ひとりおきゐて 衣うつよは
                  (天明4年・55歳)

【もっと知りたい】

>>『古事記伝』版本第1帙刊行・九月十三夜・9月の宣長 ・お米と雀

【もっと知りたい】 ◆『古事記伝』版本第1帙刊行 ◆九月十三夜  ◆9月の宣長 ◆お米と雀

◇ 『古事記伝』版本第1帙刊行 

 寛政2年9月7日、伊勢神宮の林崎文庫で遷宮祝賀歌会が開かれました。
 両宮の遷宮が終わり、諸国からおびただしい参宮人が来た(『宣長日記』)のがちょうど一年前。歌会に出席した宣長は、深い感銘に浸っていました。
 その時詠んだ宣長の歌。

    寄鏡祝
 くもりなき御代も宮居もやた鏡千たび八千度うつりますまで

    社頭杉
 五十鈴川あらたにうつる神垣に年ふる杉の影はかはらず

 実は、宣長にはもう一つ大変嬉しいことがありました。掲示されていた文庫への奉納書の中に『古事記伝』の名前があったのです。
 賀茂真淵と対面し、『古事記』研究の決意を打ち明けたのが34歳の夏。それから既に27年がたち、『古事記伝』も27巻目まで書き終えました。一方、全巻書き終えるのを待たずに出版も開始され、ようやく最初の5冊が完成し、さっそく伊勢神宮や熱田神宮、また関係する神社に奉納されたのです。
 その時の歓びを、出版作業最大の功労者である横井千秋に宛てた手紙の中で、
「生涯の大悦、申し尽くし難く忝なく存じ奉り候」
と述べています。    
 さて、この時の千秋宛書簡が、この度、本居記念館の収蔵品に加わりました。
 内容は、既に知られていますが、宣長生涯のなかでもきわめて重要な書簡として展示していきたいと考えています。

 この時刊行された『古事記伝』第一帙5冊の値段は、銀25匁。今のお金に換算すると、4万円位かな。

>>「『古事記伝』の刊行」
◇ 九月十三夜 

  国学者は、九月十三夜の月見を日本独自の風習と考え、好んで月見をしました。門人・長瀬真幸も宣長さんに「八月十五の夜、月を賞するも、漢にならへるなるべし、皇国には何の比より始れる歟。歌は続古今に初めて見える見えたり、此比より始れる歟」、また「(九月)十三夜の月を賞するは源氏にも見ゆ、歌は金葉集に始て載たり、源氏の比、既賞することありし歟」と質問をしています。宣長さんは九月十三夜の起源は「宇多延喜ノコロハジメ也」と書いています。
 国学者の九月十三夜の中でも有名なのが「県居(アガタイ)の九月十三夜」です。宣長さんから離れて真淵さんの所を覗いてみることにしましょう。
 佐佐木信綱に「県居の九月十三夜」と言う文章があります。「松坂の一夜」後日談と言った内容で、真淵の住まい「県居」や、主人の様子を窺うことの出来る面白い一文です。 また、この時の歌が次の連作です。真淵一代の絶唱として知られています。

  九月十三夜県居にて
 秋の夜のほがらほがらと天の原てる月影にかりなきわたる
 こほろぎの鳴やあがたのわが宿に月かげ清しとふ人もがも
 あがたゐのちふ(茅の生い茂ったところ)露原かき分て月見に来つる都人かも
 こほろぎのまちよろこべる長月のきよき月夜はふけずもあらなん
 にほどりの葛飾早稲の新しぼりくみつつをれば月かたぶきぬ『賀茂翁家集』巻1
【注】  宇多、延喜の頃は、『古今集』、『延喜式』の編纂が開始された頃です。

>> 「県居の九月十三夜」


◇ 9月の宣長 

寛保2年(13歳)、岸江之仲から「源氏供養」、「野宮」等を習う。
寛保3年(14歳)9月24日、『新板天気見集』書写。
安永4年(46歳)9月19日、父の命で春庭(13歳)『にひまなび』(賀茂真淵著)を書写する。春庭最初の写本である。
天明2年(53歳)9月12日、『真暦考』脱稿。
寛政5年(64歳)9月中旬、『古今集遠鏡』の原稿出来る。 寛政9年(68歳)9月4日、『源氏物語玉の小櫛』版下出来る。


◇ お米と雀 

 8月下旬から、三重県でもお米の刈り取りが始まりました。今年の作柄は良だそうです。
ここでは収穫期の話を二つ紹介しましょう。

1,にふなひといふ雀
 宣長は諸国からやってくる人の話を注意深く聞き、時にはそれを古典研究にも活かしました。以下に紹介するのは、愛知県からやってきた人の語った「雀」の話。古典によく出てくる「稲負鳥」との関わりもあり、宣長は興味深く感じたようです。

「尾張国人のいはく、尾張美濃などに、秋のころ、田面へ、廿三十ばかりづゝ、いくむれもむれ来つゝ、稲をはむ、にふなひといふ小鳥あり、すずめの一くさにて、よのつねの雀よりは、すこしちひさくて、嘴の下に、いさゝか白き毛あり、百姓はこれをいたくにくみて、又にふなひめが来つるはとて、見つくれば、おひやる也、此すずめ、春秋のほどは、あし原に在て、よしはらすずめともいふといへり、のりながこれを聞て思ふに、入内雀といふ名、実方中将のふる事いへる、中昔の書に見えたり、されどそれは附会説にて、にふなひは、新嘗といふことなるべし、新稲を、人より先に、まづはむをもて、しか名づけたるなるべし、万葉の東歌にも、新嘗をにふなみといへり、又おもふに、稲負鳥(イナオホセドリ)といふも、もし此にふなひの事にはあらざるにや、古き歌どもによめる、いなおほせ鳥ののやう、よくこれにかなひて聞ゆること多し、雀はかしがましく鳴く物也、庭たたきは、かなへりとも聞えず」『玉勝間』巻3

2,お米と宣長
 宣長には食物に対する信仰とも言える感謝の念がありました。『玉鉾百首』に。
  たなつもの百の木草も天照す日の大神の恵みえてこそ
  朝宵に物くふごとに豊受の神の恵みを思へ世の人
の歌がそれをよく表しています。宣長が日本を考えるときに、「稲」は一つの鍵となるものでした。『古事記伝』に、「稲は殊に、今に至るまで万の国にすぐれて美(メデタ)きは、神代より深き所由あることぞ、今の世諸人、かゝるめでたき御国に生れて、かゝるめでたき稲穂を、朝暮に賜(タ)ばりながら、皇神の恩頼をば思ひ奉らで」とあります。『玉くしげ』でも同じ意見が繰り返され、これが、『伊勢二宮さき竹弁』のおける外宮論の基調となっていきます。

 米は、宣長の生きた社会の基盤でもありました。米価の安定が世情の安定につながったのです。『日記』宝暦12年以降、寛政11年まで、各年末には米価が記されるのもそのためです。



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十月の宣長

◇ 10月

 神無月10月、次第に寒くなってくる。この月は、出雲に神様が集まるので、出雲では「神有月」、ほかでは「神無月」という。門人・長瀬真幸が、このことは古い本には見えないがいかがですか。また真淵先生の「雷無月」説はどうですかという質問をした。宣長さんは、この「出雲大社神集」のことは、出雲でも言い、どこかの神社に何かあると聞いたが、忘れたよ、真淵先生説は、いかがかね、つまりダメと答えている。


◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「如御申逐日冷気之節」(10月2日・小西春村宛)
「寒冷之節」(10月22日・野井安定宛)
「寒冷之節」(10月27日・荒木田久老宛)


◇ 3つの大きな出来事
宝暦7年(28歳)10月6日、医術修行を終えて松坂に帰る。医事を以て生涯の業とする。
寛政10年(69歳)10月13日、『うひ山ぶみ』脱稿。
寛政12年(71歳)10月18日、夜半の寝覚めに桜の花を思い、「桜花三百首」(『枕の山』)を詠む。

◇ 10月の歌
    愛牡丹
くらべ見ん いづれか色の ふかみ草 
         花にそめぬる 人の心と
あかず見る 心の色は くさの名の 
         廿日すぐとも 花にあせめや
                    (宝暦10年)

【もっと知りたい】

>>神無月は大忙し ・ 牡丹の歌

【もっと知りたい】 ◆神無月は大忙し ◆牡丹の歌

◇ 神無月は大忙し 

 明和8年(1771) 宣長42歳の大厄。この年は4月からお蔭参りが始まる。さてその10月を見てみよう。講釈歌会の多さもさることながら、『直霊』の稿が書き上がり、また『てにをは紐鏡』が刊行される。いずれも、その後の宣長の方向を決定づける重大事件である。
2日、『源氏物語』講釈、「横笛巻」終わる。谷川士清、宣長宛書簡執筆か。
3日、須賀直見家歌会。
4日、『出雲風土記』(谷川士清蔵本)書写。またこの頃、『和訓栞』4巻(稿本)も借覧する。『万葉集』講釈?
6日、『源氏物語』講釈、「鈴虫巻」開始か?
8日、『古今集』講釈終わる(前年1月26日開始)。
9日、『直霊』(なほびの御たま)稿成る。
10日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
11日、嶺松院会。
12日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
14日、『万葉集』講釈?
15日、稲懸棟隆家歌会。
16日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
17日、遍照寺歌会。
18日、『源氏物語』講釈、「鈴虫巻」?
22日、『源氏物語』講釈、「鈴虫巻」終わる
24日、『万葉集』講釈、「巻十五」終わる(9月4日「巻十五」開始?)。
25日、嶺松院会。
26日、『源氏物語』「夕霧巻」開始か?
27日、竹内元之家臨時会。元之は本町住、屋号津島屋。宣長門人。
28日、『職原抄』講釈開始。 同月、『てにをは紐鏡』刊行。たった一枚の図だが、波紋は大きかった。 同月、母の喪に服す村坂高行に歌を送る。嶺松院住持(空白)追善の歌会に参加する。


◇ 牡丹の歌 

 10月の歌で引いたのは牡丹の歌だが、牡丹にはたくさんの異名がある。深見草、山橘、二十日草、花王、富貴草など。この歌の中に「草深たみ」への思慕の情が隠されていると深読みする人がいる。



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十一月の宣長

◇ 11月

 霜月11月は、寒に入り冬本番。


◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「寒ニ入殊外冷申候」(寛政7年11月27日)
「如仰寒冷之節」(11月3日・坂倉茂樹宛)
「先以寒冷之節」(11月10日・衣川長秋宛)
「寒冷甚候節」(11月22日・三井高蔭宛)


◇ 3つの大きな出来事

延享4年(18歳)11月14日、『和歌の浦』起筆。宣長と和歌との関わりの一番最初である。
寛延元年(19歳)11月14日、今井田氏養子となり山田(現、伊勢市)に移る。
寛政6年(1794・65歳)11月、和歌山城内で御前講義。
講義書目は、3日、5日「中臣祓」、6日、「詠歌大概」。

◇ 11月の歌
ますらをははだれ霜ふり寒きよも
      こころふりおこしねずてふみよめ
寒けくてふみて(筆)とる手はかがむ共
      なおこたりそね長き此夜を
【セドウ歌】此朝け堀坂山に初雪降ぬ
        ぬば玉のきその夜嵐うべもさへけり
滝つ瀬のはゆま駅の鈴鹿山
      ふりさけみれば雪ふりにけり
【セドウ歌】うち渡す矢川の原の一松あはれ
        霜枯に残りてたてる一松あはれ
矢川野の冬の田面を見渡せば
      麦まきすててもる人もなし
※はだれ=斑雪。きそ=昨夜・うべ=全く
※最後の2首は遍照寺会の作か?(安永6年・48歳)。


【もっと知りたい】



【もっと知りたい】◆11月の宣長

◇ 11月の宣長 

宝暦6年(27歳)11月1日、顔見せ始まる。山田孟明と東福寺通天橋に紅葉を見る。
 同 11月23日、堀蘭沢等と南側顔見せ芝居見物。
 同 11月、『古今余材抄』(契沖著)書写終わり跋文を書く。
宝暦7年(28歳)11月1日、参宮。帰国報告か。
宝暦11年(32歳)11月9日、草深氏に納幣。
宝暦12年(33歳)11月13日、妻・勝、出産のため里帰り。翌年2月3日出産。
明和元年(1765・35歳)11月18日、『日本紀』神代巻上巻講説終わる(開始は1月18日)。
安永3年(1774・45歳)11月10日、『古事記伝』巻10(版本巻11)浄書稿成る。
安永8年(50歳)11月5日、『万葉集玉の小琴』本巻1冊稿成る。
安永9年(1780・51歳)11月22日、『葛花』2巻2冊稿成る。
天明元年(1781・52歳)11月9日、宣長家にて賀茂真淵十三回忌追慕会。
寛政元年(1789・60歳)11月、『玉くしげ別巻』刊行。
寛政2年(1790・61歳)11月14日、御遷幸拝見のため京都に出立。28日帰着。
寛政10年(1798・69歳)11月13日、『神代巻髻華山蔭』起筆、21日稿成る。
寛政12年(1800・71歳)11月20日、和歌山に出立。
 同 11月29日、和歌山城、御前で『源氏物語』「帚木巻」を講釈。



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十二月の宣長

◇ 12月

  師走12月に入ると、門人などから「寒中見舞い」が届く。寛政12年には鯛が8軒から、みりん酒、そばきり、卵等々。また、この月は一年の締めくくり。宣長の家計は、当時の慣例に従って、盆と暮れに集計をする。盆は7月14日までが前期「春」で、大晦日が「盆後」だ。大晦日にはそろばんを片手に計算したのだろうか。


◇ 時候の言葉(寛政10年書簡)
「如御申頃者目切と寒気強相成申候処」(12月6日・小西春村宛)
「先以甚寒之節」(12月12日・植松有信宛)
「寒気強候へ共」(12月12日・小西春村宛)
「先以寒中愈々御安全」(12月13日・長谷川菅雄宛)
「今日は別而寒気強候処」(12月15日・小西春村・春重宛)
「先以寒中御家内様御安全」(12月18日・衣川長秋宛)


◇ 3つの大きな出来事
延享元年(13歳)12月21日、宣長元服する。
天明2年(54歳)12月上旬、書斎鈴屋竣工。
寛政4年(63歳)12月3日。紀州藩召し抱えとなる。

◇ 12月の歌
    年の暮れに
あまぎらひ ふりしく雪の しくしくも 
         おもほゆるかも 年のわかれは
                  
    歳暮
とりあつめて 惜しきは年の 別れ哉 
         きえなん雪も つもる齢も
                  (明和2年・36歳)


【もっと知りたい】


【もっと知りたい】 ◆明和2年(36歳)12月の宣長 ◆歳暮の歌 ◆煤払い ◆鯨汁を食べにこい ◆大晦日鏡供え

◇ 明和2年(36歳)12月の宣長 

3日、夜、須賀直見家歌会。
4日、『続古今集』大本で校合終わる。
5日、煤払い。この日の夕食は恒例の「くじら汁」であろう。
6日、遍照寺会。
10日、講釈。年内最終講。
11日、嶺松院会。
21日、賀茂真淵、宣長宛書簡執筆。
26日、餅つき。(明和6年の記事から推測)


◇ 歳暮の歌 

    述懐
定なきうき世のわざにほだされて
        長き闇路はいかむとすらん(19歳) 
    歳暮
今年をばことしといふは今日計
      明日は去年とて遠く過なん(同)
    歳暮
おひてのみ惜しき物かは年の暮
      わかきも同じ心なりけり(21歳)
    としのくれによめる
なほざりにくれぬくれぬといひし日も
      つもれば年となりにける哉(70歳)
過ぎぬれば長き春日も秋の夜も
      みじかかりけるとしのくれかな(同)
    としのくれによめる
故郷にかへらん春を思ふとて
      くれゆく年もをしまれぬかな(71歳)
としのくれをしむいとまもなかりけり
      ただ故郷を思ふ心は(同)
もちひつくとなりの音もふるさとの
      いそぎ思はすとしのれ哉(同)

◇ 煤払い 

 煤払い(煤掃き、煤取り、煤納めとも)は、年の終わりを締めくくる行事だった。今の大掃除である。江戸時代には、宮中・武家ともに12月13日に行うことが多く、庶民もこれにならい、同じころに煤払いをした。
 また、地方によっては、煤払いのあとで「鯨汁」(鯨の白身を汁に仕立てたもの)を食べる風習もあったようである。
 『玉勝間』巻12「年のくれの煤払い」には、『中原康富記』の宝徳元年(1449)12月20日と、中御門宣胤卿の記の文明12年(1480)12月9日のそれぞれに、禁裏御煤払の記事があると書かれている。


◇ 鯨汁を食べにこい 

 5日付与三兵衛宛宣長書簡。文面は「与三兵衛殿、春庵、夕飯にくじら汁致し申し候、御出可被成候、以上」。江戸時代は煤払いの時に食べたというから12月5日か。与三兵衛は弟の村田氏ではなく出入りの者であろう。


◇ 大晦日鏡供え 


 大晦日には神棚、仏壇に鏡餅を供える。その覚えが「大晦日鏡供へ覚」である。
 覚えは2通ある。内容はよく似ているが、2通目のは「道啓居士」(宣長)、「恵鏡大姉」(妻・勝)、「道永」(春庭)が加筆されていて、恐らく春庭妻・壱岐が加筆しながら使ったものだろう。
【データ】 「大晦日鏡供え覚」1幅1枚。巻紙、軸装。(1)楮紙巻紙。縦15.5糎、横83.5糎。巻首「備え鏡覚」。 (2)軸装。楮紙。第一紙、縦15.7糎、横72.0糎。第二紙、縦15.7糎、横7.2糎。
【参考】宣長が大晦日に神棚及び仏壇に供えた鏡餅についての覚書。家の宗教、また慣習を蔑ろしてはならない(『玉勝間』)と云う主張の実践。(1)は戒名の追記から明和5年には既に出来か。(2)は、戒名から寛政12年末の成立と推定される。(1)は洋紙封筒に入る。上書は「供へ鏡の覚、春庭筆、壱通」、裏は清造の住所印。但し、明和5年以前の成立説と春庭筆とは合致しない。
【箱書】「大みそか鏡供への覚え、宣長の書記」、蓋裏「宣長翁の筆なり、但し後半の改補は翁および春庭翁の没後つぎつぎに加へらたるなり、清造しるす(花押)」。
【翻刻】『本居宣長全集』。


>>毎月の宣長さん    
>>十二月の宣長


13. 医者としての宣長 其の壱

宣長
私の本業は医者です。内科と小児科を中心にしています。このように自宅での診察もしますが、多くは、往診です。往診の時に使うのが「薬箱」です。まず当時の医者の様子から見てみましょう。

>>「本居宣長、医者になる」
>>「宣長さんは
  何のお医者さんか」

>>「松坂医療事情」
>>「往診」
>>「名医?それとも迷医?」

13. 医者としての宣長 其の弐

当時の医者『人倫訓蒙図彙』

脈をとる医者(真ん中)、薬を調合する医者(右)
 江戸時代の医者はお坊さんのように剃髪している人が多かった。でも宣長の頃には、髪を剃らない人もいた。宣長もその一人だ。右の人は本を見て薬タンスに入った薬を取り出し調合している。四角い紙が3枚あるだろう。これが薬を包む紙だ。
 もう一人は脈をとっている。よく見て、匂いを嗅いで、耳を働かせ、そして触って脈を取ったり患部を探すのが当時の医者の基本だ。

>>「櫛を集める宣長」
>>「古医方」

13. 医者としての宣長 其の参

当時の医者『人倫訓蒙図彙』

按摩(左上)、小児科医(左下)、鍼師(右)
 こちらは、鍼医者、按摩、そして「小児科医」。宣長に一番近いのが、これだろう。頭の髷は違うけどね。

>>『済世録』
>>「医療収入」
>>「医学観」

13. 医者としての宣長 其の四

箱がある。紙の覆いを取る前に周りを見てみよう。

どうやら「薬箱」らしい。
  字は宣長筆だ。
  覆いを取ってみよう。

桐の箱だ。こちらが前だ。つまみがあるぞ。

つまみを下げると蓋が開く。中は4段。一番下の段は引き出しだ。下に台がつく。これに指をかけて引き出すんだね。 出してみよう。
これが薬か。茶色の紙に包まれてラベルが貼ってある。
  一番上が20種、2段目が29種、3段目が51種類ある。この薬を調合したんだ。
 引き出しは何が入っているのかな。
匙や袋だ。薬を調合する道具だな。
この箱で宣長さんは一家を養ったんだね。







14. 好きなもの、嫌いな物 其の壱

「本居宣長四十四歳自画自賛像」

1幅。紙本(楮紙大小各5枚で10枚継)著色。裂表装。本紙122.0×46.5cm。

【伝来】
 和歌山本居家から記念館へ。

【指定】
 国指定重要文化財。

【賛】
 「めつらしきこまもろこしの花よりもあかぬいろ香は桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春みつから此かたを物すとてかゝみに見えぬ 心の影をもうつせるうたそ」

【解説】
 正座し机に向かう姿を描く。前には花瓶に挿した山桜が置かれる。机には本が広げられ、脇には数冊の本が積み重ねてある。描かれた点景物は、宣長が着す「鈴屋衣」、山桜、短冊、色紙、懐紙、机の脇の本に至るまで宣長の趣味やまた学問を象徴するものが選ばれている。このように宣長と、その人を象徴する文物で埋め尽くされた画面 であるが、しかし実景というより、鈴屋衣というハレの着物を着たこの像は、宣長という人物を網羅的にまた象徴的に捉えたものであり、そこに演出や作意もある。例えば宣長の机は桐の白木であったがそれを朱で描くのは絵としての完成度を高めるための工夫であろう。また瓶の桜、これも実景ではないかもしれない。

>>「44歳の宣長・
  なぜ自画像を描いたのか」

>>「宣長の顔」
>>「宣長のまなざし」
>>「瓶の桜」
>>「44歳像の種類」
>>「賛」
>>「鈴屋衣」
>>「机」
>>「机の下の本」
>>「机の上の本」
>>「机の上の短冊、 色紙 など」
>>「書斎の鏡」

14. 好きなもの、嫌いな物 其の弐

14. 好きなもの、嫌いな物 其の参

 どうやら宣長は「豆腐」が好きだったらしい。
 豆腐を誉めた宣長の文章がある。
「豆腐は値が安くて、さりとて俗っぽい食べ物ではない。味は淡くて品がある。毎日毎日、いろいろと趣向を凝らした食べ方で、高貴なお方も庶民も、朝に夕においしいおいしいと食べるそんな食べ物である」
 普段の食事は簡素でいいよ、と言った宣長の趣向に豆腐はぴったりだった。
 豆腐屋の朝は早い。仕事はつらい。宣長の門人須賀直見は体が弱く、ついに豆腐や家業を断念した。その跡を継いだのは、やはり門人稲懸棟隆、その子茂穂である。
 やがて茂穂は、大平と名前を変えて、宣長の後継者となる。
  豆腐の好きな先生が豆腐屋の子を養子にする。ウソのような本当の話である。

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