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解説項目索引【あ~お】

「愛国百人一首」(あいこくひゃくにんいっしゅ)

 「一九四〇年代の「愛国百人一首」となると、今日なおホロ苦い思い出を伴って、記憶の片隅にある人も多いであろう」。「宣長のうた」岩田隆(『本居宣長全集』月報3)

 『愛国百人一首』とは、戦時下、日本文学報国会が、情報局と大政翼賛会後援、毎日新聞社協力により編んだもので、昭和17年11月20日、東京市内発行の各新聞紙上で発表された。
 選定委員は佐佐木信綱、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、折口信夫、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、土屋文明、松村英一の11氏。選定顧問に委嘱された15名には川面情報局第五部長など政府、翼賛会、軍関係者に交じり徳富蘇峰、辻善之助、平泉澄、久松潜一が名を連ねる。
 選考は、毎日新聞社が全国から募集した推薦歌と、日本文学報国会短歌部会の幹事、選定委員の数氏より提出された推薦歌の中から前後7回にわたって厳選したという。選ばれた歌は、「愛国」ということばを広義に解釈して、国土礼讃、人倫、季節などの歌も加え、万葉集より明治元年以前に物故した人に限った(以上、『定本愛国百人一首解説』凡例)。「佐佐木信綱先生略年譜」(『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』)には選者についてもう少し詳しい。
 東京日日新聞発案、情報局後援を背景に、愛国百人一首選定を日本文学報国会が行なう。 「選定委員は信綱七一歳をはじめ、尾上柴舟六七歳、太田水穂六五歳、窪田空穂六六歳、斎藤瀏六四歳、斎藤茂吉六一歳、川田順六一歳、吉植庄亮五九歳、釈迢空五六歳、土屋文明五三歳、松村英一五四歳。北原白秋五八歳はこの月に逝去し、土岐善麿五八歳は自由主義歌人として人選に漏れたのであろう。近代短歌の代表者たちが、熱心にこの挙に参加している。」
 「毎日新聞社」という名前は昭和18年1月1日から使用された。

 さて、『定本愛国百人一首解説』に戻る。同書の「諸論」には、選定条件などが詳しく記される。また、宣長の項は川田の執筆である。この本は日本文学報国会編で昭和18年3月20日毎日新聞社より刊行された。手元にあるのは同年7月1日再版70,000部の1冊。表紙は安田靫彦、題簽は小松鳳来。
 愛国百人一首には、宣長以外に、直接の門人としては栗田土満の「かけまくもあやに畏きすめらぎの神のみ民とあるが楽しさ」が選ばれ、また、平田篤胤の「青海原潮の八百重の八十国につぎてひろめよ此の正道を」も載る。
 手元にもう1冊『愛国百人一首評釈』という本がある。こちらは川田順の単独執筆である。本書そのものは、発表された翌21日から朝日新聞に載せたものを補正したもので、更に宣長の項は自著『幕末愛国歌』からそのまま載せたと断ってある。
 その転載したという解説を読んでみると、同一人の執筆でも『定本愛国百人一首解説』とは自ずとその観点は異なる。前著が作者略伝を中心とするのに対して、本書は歌の解説が中心となる。要点を述べると、宣長の桜の美が散る趣ではないと言い、桜と日本精神について高木武の説を紹介。その上で、しきしまの大和心とは日本精神であることを明言する。また井上文雄の「いさぎよき大和心を心にて他国には咲かぬ花ざくらかな」という歌が、散り際の潔さという「最も普遍的な桜花礼讃であり、維新志士の吟詠中にしばしば現はれて来る桜花の歌は、悉く此の思想に属するものだ」と言う。また巻末には、川田の「愛国歌史」と、高瀬重雄の「作者略伝」が付く。本書は昭和18年5月10日、朝日新聞社から刊行された。カバーは斯光と署名のある兜の絵である。

 次に朝日版の解説のもととなった『幕末愛国歌』だが、本書は昭和14年6月1日第一書房から刊行された。本書は「戦時体制版」と銘打ってあり、巻末広告には社長長谷川巳之吉の「戦時体制版の宣言」が載る。
 この本では、序篇「国学者と歌人」に宣長は載る。歌は「敷島の」他2首が選ばれる。
 さし出づる此の日の本の光より高麗もろこしも春を知るらむ
 百八十の国のおや国もとつ国すめら御国はたふときろかも
解説は類歌との比較などをして詳しい。

 もう1冊類書を紹介する。『日本愛国歌評釈』である。藤田福夫著。昭和17年12月20日葛城書店から刊行された。構成は、皇室篇と民間篇に分かれ神武天皇より本書の編集されたときにまで及ぶ百十首。宣長の歌は、
 さし出づる此の日の本のひかりこまもろこしも春をしるらむ
 思ほさぬ隠岐のいでましきく時は賎のをわれも髪さかだつを
の2首が選ばれ「敷島の」は洩れている。各歌には簡単な語釈、通釈、後記が付く。装丁は山本直治で、富士に桜である。
 何も断り書きはないが、本書と「愛国百人一首」は同時期ながら、一応別 個に選ばれたものである。もちろん重なる歌もある。

 紹介するもう1冊は書道の手本である。『愛国百人一首』神郡晩秋書(大日本出版社峯文荘 昭和18年9月10日刊)、本書は巻末に釈文と略解が付き、巻頭には阿部信行、吉川英治の色紙が載る。

 大変な意気込みで作られたこの百人一首について、『【昭和】文学年表』で当時の様子を窺ってみよう。
【昭和17年】
11月14日    「国民操志の培養へ-”愛国百人一首の意義“-」太田水穂・
『朝日新聞』〈東京〉
11月21日    「新た世に贈る-”愛国百人一首“選定を終りて-」佐佐木信綱・「皇国民心の精華-反映した万葉歌人の心〈上代〉」斎藤茂吉・「戦につれて-ほとばしる至誠至忠の念〈平安朝より吉野朝へ〉」尾上柴舟・「志士の雄叫び〈幕末〉」斎藤瀏。『朝日新聞』〈東京〉
【昭和18年】
1月1日    「愛国百人一首の意義」井上司郎・『文学』
2月1日    「寄世祝-愛国百人一首のうち伴林光平の歌-」上司小剣・
『文藝春秋』
4月1日    「日本精神を伝ふ-愛国百人一首のドイツ訳-」茅野蕭々・
『朝日新聞』〈東京〉
6月1日    「愛国百人一首小論」佐藤春夫・『改造』
 通覧して「愛国百人一首」と明らかに関わりのあるものを抜いてみた。遺漏もあるかと思う。いずれにしても、このような大新聞や雑誌ではどの程度国民の間に浸透したのかまではわからない。授業で強制的に覚えさせられたとか、カルタをしたとか、もう少し当時の人の証言を捜す必要がある。また以前、松本城前の古本屋で横文字の「愛国百人一首」を見かけた。てっきり英語だと思っていたが、あるいはドイツ語だったのだろうか。逃した魚はいつも大きい。


(C)本居宣長記念館

青根ヶ峰(あおねがみね)

 青根ヶ峰(858m)山頂に降った雨は東に流れると音無川となり蜻蛉の滝を経て吉野川に入り、南へ落ちると黒滝村から丹生川になり遙か下流五条市で吉野川に注ぐ。西へ流れては下市町の秋野川となり吉野川へとなっていく。北に流れると「象の小川」となって喜佐谷を流れ下り宮滝で吉野川に合流する。つまりここが「水分峰」である。

「神さぶる 磐根こごしき み吉野の 水分山を 見れば愛しも」(『万葉集』1130)


(C)本居宣長記念館

青柳種信 (あおやぎたねのぶ)

 明和3年(1766)2月20日~天保6年(1836)12月17日  福岡藩士。初め種麿、通称、勝次。号は柳園。天明年間江戸に出仕し井戸南山に儒学を学ぶ。寛政元年(1791・24歳)4月、江戸下向の途中松坂に寄り、宣長に入門する。 『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』に
「筑前家中、青柳勝次【来ル亥ノ年マテ江戸ツメ、古学者、田尻友、実名種信】」
とある。

  宣長は松平定信へ種信を推挙したことがある。話は不調に終わったが、その時の宣長の推薦文には、 「筑前に青柳種信と申門人可然人材と心附候」 とあったという。また、長瀬真幸にも再三に渡って、厚志の人だから会うようにと書き送っている。もちろん千家俊信に送った「出精厚志」の中にも名前は挙がる。ただ、藩士としての身分は低く、後年のことであろうが、幕府の監察使が筑前を来訪した時、郡役人が知らずに恥をかいた話が伝わっている。

「貴藩の青柳種信先生ありと聞く、今何れの職にあるやと、郡宰、青柳先生を知らず、汗顔答ふる所を知ざりし」 (「筑前の国学と青柳種信」上、武谷水城、『筑紫史談』16集・大正7年)。

  文化11年(1814)には、その功を認められ「国学家業城代組」となり、次いで「御右筆記録方」に進み切米13石4人扶持を給せられた。その業績は、明治33年に紹介された三雲・井原遺跡の発掘、調査の中で、その先駆者として種信の『筑前国怡土郡三雲村古器図説』などの著作が再評価され、復刻や写真掲載の形で紹介された。また、宣長の所にも「筑前国那珂郡井尻村大塚ヨリ出土セルモノ」の図などを送ってきて今も本居記念館に現存する。著述は、『筑前国続風土記拾遺』、『防人日記』など。



(C)本居宣長記念館

県居(あがたい)

 賀茂真淵の旧居「県居」は江戸日本橋浜町山伏井戸にあった。今の東京都中央区日本橋浜町である。現在は、約100m南西、東京トヨペットの壁面に表示板が出ている。

 真淵がここに移り住んだのは、明和元年(1764)であった。多くの伊勢商人がいた大伝馬町からは徒歩で10数分の近さである。そのこともあって、宣長は大伝馬町で働く実弟・村田親次に、師への手紙や礼金を託している。

  佐佐木信綱「県居の九月十三夜」の舞台でもある。
県居跡解説板


(C) 本居宣長記念館

県居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)

 (C) 本居宣長記念館

「県居の九月十三夜」(あがたいのくがつじゅうさんや)

 「この文章は、『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』の略年譜に拠れば、大正5年(1916)年九月『中央公論』に発表されたものである。今は、『増訂 賀茂真淵と本居宣長』(昭和10年1月10日発行・著者佐佐木信綱・発行所湯川弘文社)から全文を掲出する。注の形式は改めた。

「県居の九月十三夜」
 幕府中興の名将軍八代吉宗の孫なる家治が、十代将軍の職を襲うたのは、四年の前となつた。後桜町天皇の践祚し給うたのは、二年の前となつた。図書集成一千巻が舶載し、朝鮮の正使鄭尚淳が来たのは二月のこと、その六月に、宝暦十四年は改元して明和元年となつた。この年九月十三日の夜は、空に塵ばかりの雲もなく晴れ渡つて、清くさやかな月の光は、江戸の八百八街を照らした。
 当時六十八歳の高齢に達し、幾百人の門下の師と仰がれて、江戸に門戸を張つてをる多くの儒学者の中に一敵国の観を為してゐた賀茂真淵は、かねて浜町(1)なる本矢倉(やのくら)に地を卜し、旧居を引移して半ば改築の工事にかかつて居たところ、落成を告げたので、この(2)夜親しい門人の誰彼を招いて、月見の宴を催したのであつた。家(3)は山伏井戸から東に当る中通で、福王甚左衛門の東隣に位し、細田丹波守時俊とて御勘定頭で名のあつた人の子、細田主水時行といふ御扈従組の旗本で、五百石を領じて居る人の地百坪あまりを借りたのである。
 隅田の流に近い東の方の本屋(おもや)には、二階もあり、土蔵も添うて居るが、今宵月見の宴を開いたのは、福王家に近く建てた隠居家で、そは真淵が特に心を用ゐた古へぶりの家である。屋根は板葺で(4)、西の方に入口があつて、そこは板敷になつてゐ、上にあがると四方は庇の間で、中央の高くなつた長押の上に四畳半の母屋(もや)がある。南庇と西庇の半とは開き戸で、常は簾をおろすやうにしてあるが、今宵は捲き上げてある。東庇の下半は板壁、上半は半蔀で、その間の南の隅には、瓶中に松を挿したのが置いてあり、其の傍に、今宵の祝にと贈られた、菊の造花をたて遣水をあしらうてある州浜が飾つてあり、北の隅には、書架と文机と柳筥が据ゑてある。北庇は襖でしきつて、勝手に通 ふやうにしてある。
 家は南に面し、数十坪の庭の面が、月の光に隈なく照らされて居る。西の方に当つて、いささか土を盛り上げ、廻りに若松植ゑて穴蔵をこしらへた。-真淵はさきに火の災に遇つたが-当時江戸には屡大火があつたので、市人の家の余地ある者は、万一の際の用意にとて、多く庭中にかく穴蔵を設けたのであつた。
 穴倉の東の方は、殊更(5)に野辺や畑のやうに造りなしてあつて、青菜(6)も植ゑてあれば、野蒜も垣根に近くある。むかし笏にしたといふ(7)ふくらの苗木を、箱根山から掘らせて来たのも二本ある。小ざさ(8)も植ゑてある。また、かねがね万葉集中の産物をあつめて居るので、越前(9)の青木松柏に頼んで送つてもらつた堅香子(かたかご)もあり、上総から取りよせた黒慈姑の小さい恵具(方言よぐ)、相模から弟子がもつて来た山菅(方言みのぐさ)なども植ゑてある。叢のここかしこには、清い月の光を仰いで、蟋蟀や鈴虫が頻りに鳴いてゐる。
 真淵はすでに老境に達し、かつ近年病がちであつたが、髪は茶筅結び(10)にして、長い眉、清い眼、頬はゆたかに赤みを帯びて、意気は少しも衰へなかつた。この夜は殊に心地よげに、門人等とさまざまの物語に興じた。歌(11)はおのづから成るもので、しひて詠むものでないと、常にいうて、かゝる席上などでは詠まぬ ことのある彼も、今夜は数首を詠じ、好物とて故郷からとりよせた山蕎麦や、干した松露、干魚(12)などを味はうて、枸杞(くこ)の実を入れた(13)やはらかい自用の古酒を、数盃かたむけた。人々が散じて後も、母屋を片づけさせ、縁近く端居して、清い月影に向つてゐた。
月の光は、人をして物おもはしめる。老いたる真淵の心にも、千々の想が往来した。
 思は、自分の門に集まりくる門弟等の上に及んだ。まづ今夜の宴に列なつた人々に就いても、今年二十六歳の春郷は、真淵が江戸に来るや、まづ世話になつた村田春道の子で、葛飾早稲の新しぼりを土産(つと)として、葛飾の別野から来た。彼は町人ながら人品のけだかい(14)上に、長歌に秀でて、今宵も即興の作を詠じた(15)が、如何にも身体が弱くて、大きな事は成し得さうにもないのが遺憾に思はれる。その弟で、はやくから教へた春海はまだ二十歳にもならぬ が、漢学に長けて文才がある。老友加藤枝直の子で、これも少年の頃から導いた千蔭は、はや三十歳の男盛りになつた。しかし春海も千蔭も、歌は巧みではあるが、どうも自分の上古風の真意を十分に解して居るとはいひがたい。伊能魚彦(なひこ)と河津美樹(うまき)とは年齢も相似た四十二と四十四である。魚彦は学才は乏しい(16)が、多年いそしんだので、歌に於いては頗るわが意を得て居る。美樹は、歌(17)はとかくに出精せぬ が、道の学問にはよほど才があり、望がある。余人(ひと)よりもさきに来てさきに帰つた平賀源内(四十二歳)は、今年の春朝鮮の使が来て、その宿所なる東本願寺で唱和の詩会があつた時、その和韻を逆書して満座の舌を巻かしめ、また火浣布(くわくわんぷ)を工夫して香敷(かうしき)を作り、来朝の紅毛人を驚かした。彼は非凡の才子ではあるが、吾が道の人でない。去年の九月入門した建部綾足(四十三歳)は、書もよくするが、これ亦翩々たる才子である。山岡浚明(五十三歳)は、年もたけ学問も深いが、畢竟一学究であらうなどと思つた。また今宵来なかつた中にも、かの枝直(七十三歳)は中々重んずべき学者で、其の説にまま聴くべき卓見はあるが、最早あまりにも年老いて居る。小野古道は、江戸で最初に入門した弟子で、先年八年間つづけて(18)成し了へた万葉の講筵にも、欠かさず出席した熱心家ではあるが、好人物といふに過ぎぬ 。女弟子の中では、親のやうに自分を慕つた天才の女歌人油谷倭文子は、十三年前、二十歳の年若さで世を去つたが、なほ土岐新左衛門の妻なる筑波子や、片野孫兵衛の女で紀伊家に仕へて居る(19)紅子(もみこ)や、かの州浜を祝つておこせた紀伊御殿の年寄の瀬川(三十六歳)などが、彼の心に数へられた。
 先刻春郷が、去年の旅で共に摺つて来た仏足石の碑を掛物にしたよしを話したことをふと思ひ出して、連想は、つづいてその大和路の旅のことに走せた。
大和は上代文明の故地として、年久しく彼のあこがれた国土であつた。その宿年の望を果たして、或は三山をめぐつて藤原の御井の古へを偲び、或は軽の里の夕ぐれに立つて、人麿の妻に別れた悲しびを想ひ、或は薬師寺にかの仏足石の六句体の古歌を自ら摺り(20)、また吉野を訪うて、万葉歌人の吟詠のあとを忍んだ感興が、あざやかに浮んでくる。つづいて、壮年春満の門にあつた頃、馴れ親しんだ京都の優美な景色、東山や嵯峨あたりの今夜の月はいかにと思ひやつた。それとともに、かねて彼が主張する丈夫(ますらお)ぶりの大和から、たをやめぶりの今の京への遷都が、当時の人心の好尚や傾向を一変し、また歌風をも一変したといふことが、今更ながら想い出された。しかして、思いをその平安旧都における皇室の上に馳せると、文永に綸旨を忝うした遠江敷智(ふち)郡なる賀茂の新宮の祠官の裔に生れ、しかも数代の祖は東照神君の軍に功をたてて太刀を賜はり、自らは致士の身であるが、なほ田安家の禄を食んで、徳川幕府に対しても忠順の心を忘れなかつた彼の胸にも、その本来の精神たる勤王主義の炎は燃え立つた。それにつけても、皇室が江戸に遷都(21)ましまして、幕府の上に立つて大御勢(おほみいきほひ)を振ひましまさむにはと、思こゝに至つては、彼の眼(まなこ)は曇った。
 十三夜の月はいよいよ冴えた。庭の叢の虫の音は、いよいよ清くきこえる。彼は傍らなる杯をとつて、酒をのみつゝ静かに家のうちを見めぐらした。その(22)古へを慕ふ心から、家作(やづく)りや調度の上にも凡て古へぶりにならつた此の県居(あがたゐ)を作らうとて、尽くして来た苦心の数々が胸にうかんだ。今までの家の近所の物騒がしさに堪へかねて、いづこかに移りたいと地を求めたが、初め神田のお玉が池(23)の辺りを望んで無く、漸うこの地を借ることが出来たのであつた。弟子の中でも魚彦が程近いところに住んでも居、また世話ずきでもあつたので、大工の事ども一切を托して、三十両余り(24)で渡しにした。もとの家を引いて来たのではあつたが、しかも造作は予想外にかかつた。田安侯からは内々に拝領金(25)があつたが、それでも足らなかつた。平素門弟に対しては、師として一歩もかさないで、厳然たる態度をとつてゐた彼も、さずがに此度は、縁故の深い男女の門弟から、応分の金子の寄与を心ならずも請ふに至つた。其の他種々の煩はしい事があつて、著述に専らならんとする彼の心を乱す事が多く、寧ろ中止しようかとも思うたほどであつたが、それが漸く成つたのであると思つて、あたりを見まはした。机の上には、今朝ほど、浜松の実子真滋のもとから来た手紙が置いてあつた。
 思は転じて故郷へ往つた。
 浜松の宿を西へ出はなれる(26)処の右の山下に見える里、昔は岡部郷(をかべがう)といひ、いま伊場村といふ。其処(そこ)こそは彼の生れたところである。祖先が斎(いつ)きまつつた賀茂神社のうしろから、松の生ひ茂つた丘陵は、宇布見村へ通ふ道を十町あまり西に続いて居る。南は水田で、その向こうに東海道の松並木が見える。棟の木と榎とが枝をさしかはして居る垣の内の広い一かまへ、そこで彼は廿余年の春秋を送り迎へた。その家に間近く住んでゐた従兄岡部政長の女(むすめ)のおもかげが、ふと浮かんだ。
 彼の面わには、若さがかゞやいた。
 思ひあうた少女を妻とし得た春、弥生の光うららかにたゞよふ浜名の湖(うみ)に船を浮かべた。名も美しき引佐細江(いなさほそえ)の、水尽きんとして尽きざる細江また細江の幾つを見つゝ、館山寺の裏山にのぼつて、岩躑躅のかげに割籠(わりご)を開いた。
-花は散り春は逝いて、物悲しい秋の風に、うら若い妻は涙と彼とを此の世に残した。深い歎に沈んだあまり、一度は真言の僧に(27)ならうとまでしたのを、そはあるまじき事といさめられて、美くしい面影の忘れがたさに、一しほ深く親しんだ古代の書や、友とし交はつた浜松諏訪の大祝(おほはふり)杉浦国頭、五社の神官森暉昌(てるまさ)などとの上(かみ)つ代のものがたりは、彼の心を全く転ぜしめた。運命の手はゆくりなくも、彼を浜松の本陣梅谷の若き主人たらしめた。真滋は生れた。しかも読書人たる彼の性行は変らなかつた。政長が女(むすめ)のうつくしさ、やさしさにかふるに、梅谷の女(むすめ)には賢(さか)しさがあつた。一逆旅の主人として終るべきであつた彼は、この賢しき妻の激励により、家を捨て妻子を置いて、古学を究むべく京都に上つた。そこには、東山に国学校を創設しようとした老学者-かの杉浦国頭の妻まさきの伯父なる荷田春満が彼を待ち迎へた。
若く(28)てうせた妻、年たけ(29)てうせた妻、謹厳な亡き師、また遠く離れ住んで居る吾が子の面影は、浮んでは消えた。
 一度雲に入つた月は、再び出でて光り輝いた。千年の昔から千年の後に不朽の光を放つ月の光といふことを思ふと、彼の思は、その畢生の事業とする古道の上に馳せた。もはや残んの齢幾許(いくばく)もないといふ感は、たゞひとり古道の奥処(おくか)を極め尽くしたとの自覚ある彼の心に、しみじみと感ぜられた。今にしてわが身死すとも多く遺憾はない。わが実子は、江戸なるわが家の跡を嗣ぐやうにならなかつたが、わが精神上の子たる数々の著述、殊に自分の為に最も決心の文字たる冠辞考、万葉考は、一は刊行し、一は稿しをへた。吾が道はこれらの書によつて不朽に伝はるであらう。しかも筆を以てしても或程度以上は伝へがたい吾が古道の真精神、或は老荘の末流とそしり、或は古文辞の模倣とののしると聞く儒者一派の攻撃のごときは、もとより吾が道を真に解したものでないが、後世虚偽の世の心を以てしては到底解しがたい吾が古文明の、ををしくもたけく、又おのづからなる精神、かの万葉の歌のうちに現はれた不朽の古文明のけだかい意(こゝろ)、こは如何にして伝ふべきであらうか。思ここに至つて、彼の心はいふばかりなき寂しさにとらはれた。
 この時彼の眼にうかんだのは、松坂の一夜、旅宿の行燈のもとに対した若い宣長の面影であつた。
 去年の五月、大和路の旅を終へ、神宮に詣でて五十鈴川の清き流れに心をそゝぎ、鳥羽の日和見山に遊んで、伊良虞が崎を遠見はるかした帰途であつた。松坂日野町なる新上屋(30)に宿をとつて、間もなくおとづれたのは本居宣長であつた。同行の年若い弟子の春郷、春海は別室にくつろがせ、座敷に通して引見した。うち見たところ、三十を越えて間もない壮年で、温和な為人(ひとゝなり)のうちにも、才気が眉宇の間にほとばしつてゐる。その語るところをきけば、少壮にして京都に遊学し、医術を学び、廿八歳の冬松坂に帰り、医を業として居るが、京都留学時代に、契沖の著書を読んで古学に志し、帰郷の後わが冠辞考を得て読んだが、初めはその真意をさとるを得ず、数回読み味はつて、古へぶりの心詞のまことの意をさとり得たよしで、その造詣も中々深く思はれた。なほその語るところをきけば、古事記を注釈する志を抱いてゐるとの事で、その質疑も肯綮を得てゐて、学殖識見頗る称すべく頼もしく思はれた。年こそ違へ、好知己を得たおもひがして、自分もかねて神典を説かうと志したが、その階梯として万葉にかゝり、今や年たけて、日くれ道遠しの感がある。是非御身によつて古事記の研究が大成されむことをまつ。併し順序として、万葉の研究から入らねばならぬといふことを、委しく説いた。この訓戒を聴いた宣長の顔のは、燃えるやうな熱心と、貴とい敬虔の情とがあふれた。その夜の光景こそは、今まさに彼の心にまさやかに思ひ浮べらるゝのであつた。
 こをえにしとして、今年正月誓詞(31)をおくつて入門してからは、絶えず文通して、道の学について、問はれもしつ、教へもするにつけて、いよいよ道のため頼もしく思はれる。おもうて斯の人の上に至つた時、高い峰の頂に立つて、ひとり月明に対するにも比ぶべき彼(かれ)の孤独の心にも、いひしらぬ喜びが湧きあふれた。
彼はまた杯をとつた。
 うまらに(32)喫(おや)らふる哉(がね)や一杯(つき)二杯(つき)
 ゑらゑらに掌(たなそこ)うちあぐるがねや三杯(つき)四杯(つき)
 言直(ことなほ)し心直しもよ五杯(つき)六杯(つき)  
 天(あま)足らし国足らすもよ七杯(つき)八杯(つき)
彼は声たからかにうたつた。月は静かに沈まむとした。
    付言
 近代の歌人の中にて、予が最も景慕にたへざるは賀茂真淵なり。去年の六月浜松なる彼の旧居を訪ひ、今年六月熱田なる岡部譲氏をとひ、史料を探り得し結果、蒙庵と真淵、ふぶくろ抄の二篇をものしぬ。今また史料をもととし、幾分の想像まじへて此の一篇を試みぬ。かの「詩と真実」のたぐひといひつべくや。(大正五年七月)

註(1)(2)真淵贈真滋書(梅谷甚三郎氏所蔵)
 (2)懸居の歌集
 (3)真淵贈魚彦書(佐久間長敬氏所蔵)

豊田長敦の文詞(竹柏園所蔵)
 懸居大人の旧跡、師岡正胤
 浜町の今昔、相賀調雨
 懸居考、戸川残花
 (4)内山真龍書県居図(岡部譲氏所蔵)
 (5)県居の歌集及ふぶくろ
 (6)村田春郷家集
 (7)真淵贈飯田弥兵衛書(根岸氏所蔵)
 (8)真龍が岡部翁の霊を祀る詞
 (9)真淵贈松珀書(浜千鳥)
 (10)真龍画真淵像(竹柏園蔵)
 (11)ふぶくろ
 (12)(13)1に同じ
 (14)村田春郷墓碑
 (15)6に同じ
 (16)真淵贈宣長書(本居清造氏所蔵)
 (17)さきくさ
 (18)小野古道家集
 (19)県門略伝
 (20)真淵贈祐利書(福田氏所蔵)
 (21)都うつし
 (22)賀茂翁家集序
 (23)ふぶくろ
 (24)真淵贈魚彦書
 (25)真淵贈真滋書及ふぶくろ
 (26)賀茂の川水
 (27)玉だすき
 (28)岡部政長女享保九年九月四日没
 (29)梅谷方良女寛延四年九月十日没
 (30)サザナミ(さんずいに百)筆話及増補県居門人録
 (31)賀茂翁家集


(C)本居宣長記念館

秋津彦瑞桜根大人(あきづひこみづさくらねのうし)

 『遺言書』で自ら後諡(ノチノナ)として付けた。
 同書では「日々手馴候桜木之笏」にこの名を記し影前会の時に使用するよう指示がされる。
 「青柳資料」の「鈴屋翁葬送・諡名之事」に、世の常の諡は高岳院石上道啓居士であるが、「門人中ヨリヲカミトナフルトキハ、秋津彦瑞桜根大人(アキツヒコミヅサクラネノウシ)、コノ後ノ名モ大人ノ御心ニテ出来タル也」と書き添えられる。
 意味は、『古事記伝』に「秋津日」は「黄泉の穢を速に祓ひすてて、清らかに明らけきをいふ名」、「美豆」は、「みづみづしきを云なり、瑞の字になづむべからず」とあるのが参考となろう。


(C) 本居宣長記念館

秋成と綾足(あきなりとあやたり)

 上田秋成には、国学修学時にやはり綾足の影響があったのに、やがてそれは回想の中から削除されていったことはよく知られている。

 「江戸の宇万伎といふ人の城番にお上りて、あやたりか引合して、弟子になりて、古学と云事の道かひらける。はしめはあや足か、教よ、といふについて学んたれと、とんと漢字のよめぬ わろて、物とふたひに、口をもしもじとして、其後にいふは、幸い御城内へ宇万伎といふ人か来てゐる、是を師にして、といふたか、縁しやあつた」『胆大小心録(異文二)』(『上田秋成全集』中央公論社刊・9-249)

 これが推敲されると、「ふしきに、江戸の藤原の宇万伎といふ師にあひて、其いふかしき事ともをつはらに承りしか」(同書P133)と、もはや綾足の影はどこにも見ることはできない。

 この削除について、綾足の上京年次などから秋成との関係を疑う人もいるようだが、原雅子氏が「秋成自身が唯一の師として崇めた宇万伎を紹介した人物名の記憶違いはなかろうと思う」(「加藤宇万伎の下坂」『【共同研究】秋成とその時代』)と言われるように、まず秋成の言を信じるべきであろう。

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秋成の『菅笠日記』評(あきなりの『すががさのにつき』ひょう)

 秋成は天明8年(1788)3月の吉野行き紀行文「岩橋の記」で、

「ここ(引用者注・安倍文殊院)の岩屋の事、又是より三つ山の事、初瀬飛鳥わたり吉野山の枝折ことごと、いにしへを引き出でて今のうつつにかうがへ、或はたがへるをろうじなどしたる菅笠の記とか、伊勢人の書きし物をさきに見しが、世につばらかにもるる事無くしるされたるには、野べの新草つかみじかき筆して、などやまなび出でん、其人は御国のふりたる事どもをあなぐりとめて、天の下の物識になんおはせりき、さればよ、旅ゆき人の日記てふ物にはいみじきまめ文也けり」
と『菅笠日記』を評している。

 宣長と秋成は、まるで天敵のように言われるが、少なくとも秋成は、宣長著作をよく読んでいた。この評も、激しい論争の後であるが、見るべきところは見、評価すべきところは評価していて穏当なものである。両者の関係はもう一度冷静に考えた方が良さそうだ。

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『赤穂義士伝』(あこうぎしでん)

 時は延享元年長月、今の暦では1744年10月の終わりから11月の始め、松坂の樹敬寺で江戸の説経僧・実道和尚により赤穂義士討ち入りの話が演じられた。宣長も早速に聞きに行き、目をつむって静かに座っていると、眠るくらいなら帰った方がよいと意地の悪いことを言うやつがいる。こんな手合いには何を言っても仕方がないので、家に帰ってから書きとどめておいた一巻を持参し、指し示すと、いやこれは参ったと相手は平身低頭したという。
 本居清造は、松阪魚町小学校に通っていた頃に校長野口坦から訓話としてこの話を聞き、後年、あながち虚坦ではないと書いている。
 宣長が示した一巻が、今も本居宣長記念館に伝わっている。本紙の寸法は縦が15.5センチ。長さが362センチ。
 最初の所に、執筆事情が記される。( >> 赤穂浪士と宣長
 宣長15歳。

  中根道幸氏は、「わたしは高校の国語教育で機器を使わぬころからの聞書指導もしてきたが、栄貞のこの聞書はかなりすぐれていると思う」と評価する。
「口演の口ぶりが栄貞のもつリズム(おそらくこの種の物は読みなれていたであろう)とかさなって生きている。記憶力と言うよりむしろ聞きとる力であろう。それにはや習慣化した筆記の能力が結びついている」(『宣長さん 伊勢人の仕事』和泉書院)
 中根氏は、この義士伝から、宣長における意味を考え出すが、一方、近世の舌耕文芸研究の立場からもこの宣長版赤穂義士伝は重視されている。舌耕は、演じたそばから消えていくものだけに記録は貴重である。しばらく前には英訳もされ、また最近発表された今岡謙太郎氏の「忠臣蔵と舌耕文芸」(服部幸雄編『仮名手本忠臣蔵を読む』吉川弘文館)にも、比較的詳しく論じられている。
  ちなみに今岡論文では挿絵に『御入部伽羅枕』をつかっているが、この物語のモデルは松阪市射和の豪商富山家。従って『松阪市史』文学編で『御入部伽羅枕』翻刻する。挿絵の中に彦八が出ている。これは初代だが、二代目彦八の芸は宣長も京都で楽しんだことはよく知られている。



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赤穂浪士と宣長(あこうろうしとのりなが)

 宣長は延享元年9月 (1744年・15歳)、『赤穂義士伝』を著した。これは、樹敬寺における実道和尚の説経の聞書である。巻首には、
「予、延享元年九月の比より、樹敬寺ニて実道和尚説法ノ次ニ、播州あこノ城主浅野内匠頭長□(ノリ)の家臣、大いしくらの介藤原のよしを巳下ノ家臣、主ノ敵を討シ物語をせられしを、我カ愚耳ニきゝしとをリヲ書キシルシをく也、しかれども、聞わすれし所も有りければ、次第ふつゝにして定らず、又ハをちたる所も有べし、わすれし所も有り、然レ共先ツ記ス、凡ソ此事をしるしたるもの、廿余とをり有りとかや、此レハ大石ノしゆかんと云書を以て説といわれたり」
とある。聞いてきたことをそのまま書いた。なにぶん記憶したことだけに忘れたりして首尾一貫しないし、聞き漏らしや誤りもあるかもしれないというのだ。それにしても全長362センチに細字で記され、記憶力のすばらしさには驚くばかり。内容は、実録の義士伝物の流れに属するとのこと。全文は『本居宣長全集』第20巻に載る。
  これ以後の宣長と赤穂義士を少々記す。
  京都遊学中の宝暦6年(1756・27歳)5月23日、堀蘭澤と清閑寺に参詣したそこで江戸・泉岳寺の出開帳として四十七士の遺物や泉岳寺墓の模造が並べてあったので拝観料5文を出し見物している。
  宣長の書籍目録『経籍』には、「赤穂忠臣ノ事ヲ記ス書ドモ也」として関連書が載る(宣長全集:20-624)。また宣長の師の堀景山は『不尽言』で義士論を展開している。当然、宣長も読んだはずだ。
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朝椋神社(あさくらじんじゃ)

 南海線和歌山市駅近くにある朝椋神社(和歌山市鷺の森明神丁)の社頭に宣長の歌碑がある。
 広まへに緑も深く枝たれてよにめづらしき神がきの松 和歌山滞在中の宣長が、この神社に遊び、お昼をよばれた時、社頭の「社霊の松」に奉納した歌と伝える。歌碑は倉田績筆。建立年代は不明。社殿は昭和20年7月戦災焼失。現社殿は昭和36年再建。 

足代弘訓(あじろ・ひろのり)

 天明4年(1784)11月26日~安政3年(1856)11月5日。享年73歳。本姓、度会。名、弘訓。幼名、慶二郎。通称、式部、権太夫。号は寛居(ユタイ)。伊勢神宮外宮の神官。
 享和元年(1801・18歳)、荒木田久老に入門、師から「寛居の詞」を贈られる。文化2年(1805)には芝山持豊、本居大平に入門。同6年春庭に入門。大平が伊勢に来るたびにその講義や歌会に参加する。時には、大平に主たる著述がないことで師を激励もする。また、春庭からも「我は盲人なり、語学は足代に学べ」と言われたと伝える(『日本古典文学大辞典』)。経世の志も篤く、大塩平八郎、吉田松陰とも交わった。

【参考文献】
『足代弘訓』榊原頼輔・千歳文庫。

> >「荒木田久老」
                                             (C) 本居宣長記念館
 

『排蘆小船』(あしわけおぶね)

 本居宣長著。恐らく処女作。内容は、和歌とは何かを問答体で書く。66項目から成り、歌は心のありのままを表出するものだとする実情論を根幹とし、和歌を政治や道徳から解放しようとする和歌自立論、因習にとらわれた中世歌学からの脱却を目指す伝授思想批判、そしてそのような学問を打ち立てた契沖への賛美が書かれ、宣長の処女作にふさわしい清新な内容である。

  ちょっと最初を読んでみよう。引用に当たって、漢字片仮名文を漢字平仮名文に改めた。
  「歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず、この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。答曰、非也、歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又国家の害ともなるべし、身のわざわい共なるべし、みな其人の心により出来る歌によるべし」

 ところが、この本には署名もなければ、いつ書いたという奥書もない。そのため、過去には、これは堀景山の話を聞いて書いた本だという極端な論も出たことがある。

 今も、京都へ行って直後執筆説や在京執筆説、帰郷後説などさまざまである。私は帰郷直後説を考えている。歌会への加入する前に自説をまとめてみたのではないだろうか。構想は在京中にあったはずだ。だが京都時代は知識の吸収で精一杯で執筆には到らなかっただろう。また、「物のあわれ」との出会い後ならもっと「物のあわれ」が前面 に出てきても良さそうなものだ。だから宝暦7年(1757・28歳)年末執筆説を提唱する。
 それと、料紙がこの年の6月8日に写した『潅頂唯授一子之大事』と同じなのも傍証となるかもしれない。

 書名は、内題「あしわけをふね」とあるが、『万葉集』「湊入の葦別小船障多みわが思ふ君にあはぬ頃かも」と言う歌や、その後の歌集にも見える歌の言葉に依る。行く手には邪魔が多いと言うことだ。『蘆分船』という書名は大坂の地誌や浄瑠璃などでもよく使われている。
  
『排蘆小船』関係文献抄
「排蘆小船と宣長の歌論」佐佐木信綱(『賀茂真淵と本居宣長』大正6年4月)
 ※氏が松阪で『排蘆小船』を見たのは「丙辰の年八月」とあり、大正5年である。
【在京中説】
「石上私淑言以前に於ける宣長翁の国学-主として『排蘆小船』と『草庵集玉箒』に就て」佐藤盛雄(『国文学』第22二輯 昭和4年4月)
【帰郷後説】
「『あしわけをぶね』考」山本嘉将(『和歌文学研究』15号、昭和38年7月)
【堀景山説筆記】
「『排蘆小船』の成立に関する私見」岩田隆(『名古屋大学国語国文学』15号、昭和39年11月・『宣長学論攷』所収)
【帰郷後説】
「排蘆小船の成立」大久保正(『藤女子大学国文学雑誌』昭和46年3月)
【在京中説】
「『排蘆小船』は宝暦八・九年の作か」尾崎知光(『文学・語学』昭和47年9月)
【係結などの使用による帰郷後説】
「『あしわけをぶね』論-自己意識のゆくえ-」清水正之(『日本思想史学』13号、昭和56年9月)
【成立に触れず】
「『排蘆小船』述作の由来と成立」高橋俊和(『国語国文』60巻3号、平成3年3月・『本居宣長の歌学』)
【餞別詩文による
  帰郷後説】


                             『排蘆小船』
                                             (C) 本居宣長記念館

飛鳥(あすか)

 飛鳥は、奈良県高市郡明日香村一帯を指す。古く、允恭天皇、顕宗天皇がこの地に都を定めたと伝えられるが、592年、推古天皇が飛鳥豊浦宮に即位して以後、710年、元明天皇が奈良に118年間皇居がおかれ、数々の重大な事件、また『万葉集』などの舞台となった。宣長にとっては『古事記伝』執筆のためにも最重要地の一つで、明和9年の菅笠の旅では古墳の中まで徹底に探索を試みている。その旅の詳細は『菅笠日記』に詳しい。

  宣長の飛鳥の歌
「飛鳥寺いく世か年のつもりても跡はのこれる雪のふるさと」



                                             (C) 本居宣長記念館
 

飛鳥・川原寺の「めのう石」

 宣長は川原寺で「めのう石」という珍しい石の礎石を見ている。と言っても本当の瑪瑙ではない。白大理石である。
「やゝゆきて。左のかたに見ゆる里を。川原村といふ。このさとの東のはしに。弘福寺とて。ちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて。がらんの石ずゑ。今も堂のあたりには。さながらも。又まへの田の中などにちりぼひても。あまたのこれり。その中に。もろこしより渡りまうでこし。めなう石也とて。真白にすくやうなるが一ッ。堂のわきなる屋の。かべの下に。なかばかくれて見ゆるは。げにめづらしきいしずゑ也。尋ねてみるべし」
 今は、また川原寺(カワハラデラ)と呼ばれるこの寺は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。弘福寺(グフクジ)ともいう。天智天皇がその母斉明天皇の川原宮の旧地に創建。天武2年(673)一切経の書写が当寺で行われ、朱鳥元年(686)新羅の客をもてなすため、当寺の伎楽が筑紫へ運ばれている。つまりここには優れた楽団がいたのだ。

  藤原京の時代は四大寺の一つに数えられたが、平城京遷都に際して、奈良へ移転されず飛鳥にとどまったので第一級の官寺の地位を失った。天長9年(832)空海が京都と高野山の往復に宿所として当寺を賜ったと伝え、9世紀後半には真言宗の僧が検校となり、しだいに東寺の支配下に入った。建久2年(1191)焼失の後、円照の弟子如蓮房教弁が復興に尽くしたが、17世紀ころにはすっかり荒廃した。

  現在の川原寺は、めのう石(白大理石)の礎石が残る中金堂跡に小さな本堂を残すだけであるが、1957、58年の奈良国立文化財研究所以後の発掘で遺構のおおよそが判明した。74年の橿原考古学研究所の発掘では、西北の山腹から多数のせん仏、塑像片等が出土し往時をしのばせた。これらは1191年の伽藍焼失後に埋められたと考えられる。10世紀に相当規模の普請のおこなわれたことが出土瓦より推定され、1191年の焼失後13世紀半ばころから後半にかけて塔、金堂はもとより食堂、僧房まで再建されたが16世紀に再度雷火により焼失、小さな寺となった。ただ寺の前には、発掘により判明した遺構に、礎石のレプリカを置いている。たたくとボコボコ音のする礎石として今は珍しがられている。
                          川原寺を南より眺める。
                             めのう石
                                             (C) 本居宣長記念館
 

「安波礼弁」(あはれのべん)

  「或人、予に問て曰く、俊成卿の歌に
  恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる
と申す此のアハレと云は、如何なる義に侍るやらん、物のあはれを知るが、即ち人の心のある也、物のあはれを知らぬが、即ち人の心のなきなれば、人の情のあるなしは、只物のあはれを知ると知らぬにて侍れば、此のアハレは、つねにただアハレとばかり心得ゐるままにては、せんなくや侍ん、
予心には解(サト)りたるやうに覚ゆれど、ふと答ふべき言なし、やや思ひめぐらせば、いよいよアハレと云言には、意味ふかきやうに思はれ、一言二言にて、たやすく対へらるべくもなければ、重ねて申すべしと答へぬ、さて其人のいにけるあとにて、よくよく思ひめぐらすに従ひて、いよいよアハレの言(コトハ゛)はたやすく思ふべき事にあらず、古き書又は古歌などにつかへるやうを、おろおろ思ひ見るに、大方其の義多くして、一かた二かたにつかふのみにあらず、さて彼れ是れ古き書ともを考へ見て、なをふかく按ずれば、大方歌道はアハレの一言より外に余義なし、神代より今に至り、末世無窮に及ぶまで、よみ出る所の和歌みな、アハレの一言に帰す、されば此道の極意をたづぬるに、又アハレの一言より外なし、伊勢源氏その外あらゆる物語までも、又その本意をたづぬれば、アハレの一言にてこれをおほふべし、孔子の詩三百一言以蔽之曰思無邪との玉へるも、今ここに思ひあはすれば、似たる事也、すべて和歌は、物のあわれを知るより出る事也、伊勢源氏等の物語みな、物のあはれを書のせて、人に物のあはれを知らしむるものと知るべし、是より外に義なし」

 これを執筆した前年、宝暦7年(1757・宣長28歳)10月、宣長は京都より帰り医者を開業した。年改まって宝暦8年(1758)1月、『古今選』編集開始した。2月11日には嶺松院歌会に参加。4月28日『論語』再読か。そして5月3日『安波礼弁』起稿する。

 宣長の内の、大きな流れが見えてくる。
 京都時代からの課題であった、歌とは何か、なぜ人は歌を詠むのかを考え続ける宣長は、まず『二十一代集』を始めとする日本の古典和歌を通覧し、『古今選』というアンソロジーを編む。また松坂の歌人との交友を始めるが、そこで「物のあわれ」という言葉と出会う。歌とは孔子における『詩経』のようなものではないか、そこで『論語』を再読し、自らの考えをまとめる。それが「安波礼弁」である。
  この言葉と出会った宣長は、古典の秘密を解く鍵を貰ったように嬉しかっただろう。だが、この時期に書いたと思われる『排蘆小船』には余り出てこない。どうしてだろう。



                                             (C) 本居宣長記念館
 

 宝暦7年(1757)5月、「五月、うづき廿日あまりより雨ふり侍て、いまに晴れやらず、五月雨のならひ、いとはれがたきもの也や、所々水高く出けるよしなり、
 五日、けふはあやめのせく(節句)、からうじて日のけしきもなをりぬべく見えしが、又ふりいでぬ、四日のよいなづまひかり、神もすこしなりて、雨いとつよくふりしかば、けふはれんと思ひしに、まだはれやらぬ、いとうつとうし、
七日、けふは日もなをりぬれど、時々ゆうだちのけしきになりて、雨なをふる、けふなんいとあつし」『在京日記』

                                             (C) 本居宣長記念館
 

『阿毎莵知弁』(あめつちのべん)

 本居宣長著。宝暦11年3月の奥書がある。内容は、「天地」の読み方についての考証。宣長は従来の「アメツチ」説に対して「アメクニ」説を提唱するが、後に賀茂真淵の説により自説を撤回する。『古事記伝』でも「アメツチ」と読み、その注に「己前に思へりしは、阿米都知(アメツチ)と云フは、古言に非じ。其故は、古書(イニシヘブミ)どもを見るに、凡て阿米(アメ)に対へては、必久爾(クニ)とのみ云て、都知(ツチ)とは云ハず・・・後に師の久邇都知(クニツチ)の考ヘを見れば、なほ阿米都知(アメツチ)ぞ古言なりける」と言う。
 本書は、宣長の『古事記』研究の一番最初の著作。使用した罫紙は、京都時代に師事した堀景山の使用のもので、家号「曠懐堂」の文字が入る。この罫紙は『古今集序六義考』でも使用される。

【書誌】折帖。楮紙。本紙寸法、縦22.9糎、横31.6糎。墨付4枚。片面9行(罫紙、第1.2紙柱刻「曠懐堂」)、10行(罫紙、第3.4紙)。外題(題簽)「阿毎莵知弁、宝暦十一年三月」(清造書)。内題書名同。
【奥書】「宝暦辛巳三月、本居宣長撰」。
【翻字】『本居宣長全集』。

  

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雨の花見

 13日の道中について宣長の記述(『菅笠日記』)はあまりにも簡単なので、大平の『餌袋日記』を引く。

 「十三日、かくて、もとこし同じ道を、またかへらむよりは、まだ見ぬかたをこそとて、戒言大徳なンど、よべさだめられしまゝに、あかばね越とて、此里の右のかたへ、山路をゆく、この道いとさがしときけば、いそぐとも、とかくゆきやらじとて、いと夜ふかく立いでたるに、雨さへふり出て、いとわびし、石わりといふ山里を、すぎて、さがしき坂ども、のぼり行く、さて赤羽根といふ里より、田口といふ所を過て、桃の俣といふまで、三里ばかりもあらむ、このあひだ、こちごちしき、名ども付て、いひしらずいみじうくるしき、坂峠どもを、いくつといふかずもしらずこえぬ、そのほど花ども、おほく咲みだれたる、所々ありけり、猶のぼりたる山の手向に、山神と、ゑりたる石のたてる、かたはらに、いとことにおほきなる、さくら一本咲みちたり、  雨ふれば道いそがれてなかなかにえぞたちよらぬ花の下陰、 あはれてけ(天気)よからましかば、かくなほざりにやうちすぐべき、又山路を、のぼりくだり、菅野といふ宿に、しばしためらひてゆくほど、いとどいみじうふりいでて、道はぬまなンど、ゆかむやうに、足ふかくふみ入て、えもゆきやらぬを、ひたぶるに、杖をたのみて、さしおよぼし、ためらひつゝ行く、さかぢを、くだるほど、谷風はげしう、みのかさもとりはなつばかり、吹きいでゝ、雨もよこさまにふる、谷より立のぼる、雲霧のけしき、はたいとおそろしきにかろうじて、石手原(イシナハ ゛ラ)といふ里、見つけたるうれしうていそぎ付ぬ、けふはたげまでゆくべう思ひまうけて、こしかばまだ日は高し、おきつといふ里までだにと、供なるをのこはいへど、さらにさらに、足もうごかねば、雨もらぬ屋のあるを幸に思ひて、この里にやどりぬ、かのよこさま雨に、みのも、いたづらになりて、きたるかぎりの衣はひぢにひぢとほりて、さむくさへあれば、火をけに、炭おこさせて、みな人かしらさしつどへて、袖うちひろげあぶりほす、こゝは早いせの国なりければ、こよひは故郷もちかきこゝちす」

 「雨もらぬ屋」とはひどい、と石川義夫氏は言う。石川氏の調査によれば、この日の宿は「中子九右衛門」宅であったと思われる。調査当時は、美杉村伊勢地出張所の少し先の反対側にあった中子家は老舗の旅館で、宣長が泊まったと思われる家は天明9年(1789)に消失したが、同じ規模で再建した家は、間口8間以上もある広大な屋敷であったようだ。
 また、当主、光夫氏の話では、宣長が泊まったという言い伝えもあったそうだ。

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雨降れば

 いろは歌は47文字を使って一つの歌とした傑作だが、これに代わる歌が古来多くの人により試みられた。宣長もことばに対して関心の深さでは人後に落ちるものではない。そこで作ったのが次の「雨降れば」である。
 普及はしていないが、さすがに上手く作っている。

 「同じ文字なき四十七文字の歌
 あめふれは ゐせきをこゆる みつわけて やすくもろひと おりたち うゑしむらなへ そのいねよ まほにさかえぬ 」(『鈴屋集』巻5)。

 大意を得るために漢字を充て、濁点を加えると
 「雨降れば 堰関を越ゆる水分けて 安く諸人 降り立ち 植ゑし群苗 その稲よ まほに栄えぬ 」となる。

 「いろはの四十七字は無情の歌にて、めでたからずとて、鈴屋大人、慰みにつくり給ふとて松坂書林、柏屋某より写 し来る。寛政十年といふとし四月五日出しにて五月十三日届。雨降れば 堰関を越ゆる水わけて やすく諸びと おり立ち植ゑし、むら苗、その稲よ、まほに栄えぬ 。」(『国学文献集解』近藤佶・P168)

 
                                             (C) 本居宣長記念館

荒木田経雅 (あらきだ・つねただ)

 寛保3年(1743)9月4日~文化2年(1805)3月。享年63歳。伊勢神宮の神官。宣長の友人。姓中川。
 安永2年(1773)、八の禰宜に任ぜられた時に感謝し、『皇大神宮儀式帳』の注釈を開始した。この本は延暦23年(802・空海が入唐した年でもある)に出来た、伊勢神宮に関する現存最古の文献である。安永4年『大神宮儀式解(ダイジングウギシキカイ)』の初稿が出来、その後、宣長の校閲と序文を添え完成。今も神宮研究の基礎資料として利用される。序文は400字詰め原稿用紙約6枚にも及び、宣長の序文としては異例に長い(『鈴屋集』掲載)。

 また、宣長も『古事記伝』が1冊書き上がるたびに、経雅の意見を聞いている。経雅は宣長に入門していない。経雅の身分が高いと言うことがあったのかも知れない。だが大変親しく、本の貸し借りや質疑応答は頻繁だ。またそうめんを宣長に贈ったことがある。安永6年、宣長が春庭、春村を同伴し参宮した時には、経雅の所にも立ち寄った。また、宣長も経雅を蛍狩りに誘ったり、鈴屋が出来てからは訪れ歌を詠んでいる。

 「平宣長が書斎を鈴屋といへり、そこにのぼりて
 おとにきく これの鈴の屋 いにしへを したへる心 見るやすずの屋」
              『清渚集』巻47(『神道古典の研究』P154)

 また、天明3年、浅間山の噴火の鳴動を伊勢神宮で聞き、病弱だった経雅は病に罹る。その時には宣長も往診し見舞っている。

 「医師中村早田但見定義、楠部村山崎典治末典、松坂駅本居舜菴宣長、其余按摩等各心神労倦の上、時気に中りぬる由にて薬用せしめぬ、神明の恩頼にかゝり、諸医の力を用るによりて、九月下旬快復に向へり、此月昼夜親類朋友家来等の保護大かたならぬ事なり」(『慈裔真語』)

 天明5年には、宣長の求めで御厨神社の扁額を揮毫した。

 【参考文献】
 『神道古典の研究』池山聡助、国書刊行会。

 
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荒木田久老の歌(あらきだひさおゆのうた)

 伊勢からは友人荒木田久老も歌を贈ってきてくれた。

 「鈴の屋のうた
はしきやし、吾せの君の、造らしし、五十鈴のすずの、鈴の屋の、高きその屋は、見わたしの、海も真広く、み渡しの、山なみ高し、彼山の、いやたかだかに、上つ代に、い立のぼらひ、其海の、真広が如、いにしへの、大御国ぶり、世に広く、をしへ給へば、鈴がねを、聞の継々、石ばしの、間近き郷ゆ、雲離れ、た遠き国よ、人さはに、来いりつどひて、月に日に、栄る宿は、千とせにも、今も見る如、有こせぬかも 鈴の屋に、ゆらぐ鈴が音(ね)、世の人の、聞の継々、ともし振るが音、荒木田久老神主」

「有こせぬかも」とは、あってくれないものかという意味。
  例・『万葉集』119番歌「吉野川、行く瀬の早み、しましくも、淀むことなく、ありこせぬかも」弓削皇子
  
 ところで、どうして鈴なのだろう。
 さっき引いた宣長の歌に、「物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけばここちもすがすがしくおもほゆ」 とある。勉強に疲れたときの気分転換というわけだ。

 では「鈴」ってなんだろう。


 
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荒木田久老(あらきだひさおゆ)

 延享3年(1746)11月21日~文化元年(1804)8月14日。橋村(度会)正身二男。初め正恭(マサタダ)また正董(マサタダ)と名乗る。号、五十槻園。外祖父の養子となるが離縁、荒木田(宇治)久世の養子となる。宣長と共に賀茂真淵門。宣長とも親しく交わるが、距離も置き『万葉集』研究に生涯を捧げた。豪放磊落な性格で、誤解されがちだが、中々繊細なところのある人であった。「律儀な久老さん」をご参照いただきたい。その人柄を慕う門人など幅広い交流と、御師としての身軽さ、また師・真淵譲りともいえる柔軟な発想で、1700年代後半、宣長一門の活躍により伊勢が国学の拠点となった時代、その一翼を担った人物である。万葉調の歌を得意とし、筆跡も性格をよく表す。

  娘・菅は射和村竹川政信(宣長門人)に嫁ぎ、竹斎を生む。

 著書には『万葉考槻落葉』、『信濃漫録』、また本居記念館所蔵に、「御綱柏考」1冊(奥書「安永九年十二月出羽国人の問に答/荒木田神主久老」)がある。また、下に載せた画像だが、最近、息子の久守像ではないか疑う人がいる。写真では省略されているが、賛は久守である。しかし箱書は竹川竹斎で、自分のおじいさんである久老の画像を間違うはずはないと思うのだが。今はそのまま載せておくことにする。

 【参考文献】
 『荒木田久老歌文集並伝記』神宮司廳・昭和28年3月刊。
                       「荒木田久老像」(射和文庫所蔵)
 
                   「五十槻の園の詞」部分・(宣長作・射和文庫所蔵)



  
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荒木田尚賢(あらきだ・ひさかた)

 元文4年(1739)9月18日~天明8年(1788)7月2日。享年50歳。家名「蓬莱」により「蓬莱尚賢」とも。通称雅楽(うた)、瓢形(ひさかた)。号は琢斎。伊勢内宮に近い宇治今在家(伊勢市宇治中之切町)、あるいは赤福おかげ横町近くと言った方がわかりやすいかもしれない、に生まれた。
 仕事は、内宮禰宜兼副大物忌で、また宇治会合衆年寄役も務めた。
 学問を好み、宝暦10年(1760)、津の谷川士清の洞津(どうしん)塾に入門。翌年には師の娘・八十子と結婚。宝暦13年には賀茂真淵に入門。一方では士清の垂加神道を学び、他方では真淵の古学を学ぶという二股を掛けたことから、真淵からいぶかしく思われたこともある。ただ、明和2年(1765)に宣長と対面してからは、真淵、宣長、士清の間の連絡係を務め、国学発展に大きく貢献する。士清の『日本書紀通証』や『倭訓栞』への協力と、天明2年(1782)の内宮林崎文庫の整備拡充を図り神宮教学の発展に寄与したことは大きな功績である。天明7年(1787)になってようやく宣長に正式入門するが翌年急逝する。

○ 宣長との交流
 宣長への正式入門は遅れたが、二人は学問のよき仲間として交わった。
 『古事記伝』稿本を読んで感銘した尚賢は、宣長が頭をひねっていたクラゲの生態について、安永3年(1774)に長崎に遊学したときの体験をレポートにして送り執筆を助けた。彼の写した『古事記伝』は神宮文庫に伝わる。
 同9年4月12日には宣長、春庭親子を招き五十鈴川の河鹿の声を楽しんだ。
 また、「桧垣女像」、「酒折宮火揚命像」、「八頭蛇出現図」など、宣長も首をひねる妙な史料や、これは珍物中の珍物「十字鈴」をプレゼントした。しかし尚賢の一番の貢献は、珍しい本を届けたことだろう。一二をあげてみると、まず、『御湯殿のうへの日記』。
  宣長旧蔵の『御湯殿のうへの日記』は計4冊(記念館蔵)ある。参考のために奥書を載せる。当時の本の伝播する様子がよく分かるはずだ。
  1. 『元亀三年 御湯殿のうへの日記』、奥書「安永四年乙未の夏五月九日に曽我部式部源元寛か本もて写しぬ、されとよみわきまへかたき事さはなれとそれかまた/\かいつけき 荒木田ひさかた 安永四年乙未十月廿六日書写校合畢 本居宣長(花押)」。
  2. 『寛永二十一年 正月御湯殿のうへの日記』、奥書「右寛永廿一年正月御ゆとのゝうへの日記は転法輪殿の御内なる源の元寛のぬしの蔵本をかりてうつしぬ 安永九年なかつき廿日 あらきたの経雅 大神宮八祢宜あらき田経雅神主の本にて春庭におほせて写さしめてみづからけうかうしつ 安永九年庚子神無月廿三日 本居宣長(花押)」
  3. 『慶長三年 御湯殿のうへの日記』、奥書「天明元年十二月に曽我部式部源元寛か本もて写さしむ 荒木田瓠形/天明二年壬寅五月十九日人に写させて校合しをえぬ 本居宣長」
  4. 『大永六年より慶長十四年まで 御湯殿のうへの日記』(校合年次不詳・春庭写)奥書「此一冊は柳原蔵人弁殿より拝借せりもと抄本ナルヲ元寛又思フ事アル所々を抄出せり原本ハ帥中納言【公廉卿】の許より妄に人に見せしめ給ふへからさるよしにてかり給ふと侍中仰せられぬゆめ/\ 明和戊子正月 源元寛 御ゆとゝ(のか)のうへの記慶長三年一部もとより収蔵せりコレハ年中全シテいさゝか闕タル事ナシ」。曽我部元寛から尚賢、また中川(荒木田)経雅、宣長という本のながれが見えてくる。
 次に、『多気窓蛍』。本書は、伊勢国司北畠材親(かずちか)の随筆。伊勢についての記述に富むが、偽書説もある。谷川士清本を尚賢が写し、さらに宣長が転写させた(筆写不明)。奥書「安永六年丁酉六月朔日書写校合 本居宣長(花押)」。本書はその後も転写され、大山峻峰氏旧蔵本の奥書「安永六年丁酉六月朔日書写校合 本居宣長(花押)/安永六年丁酉十月以師本書写 中里常国(花押)/寛政十一年己未七月十九日写之 橘光延/寛政己未秋八月借橘光延以令大木吉良謄写之 橘秀晧(花押)」と有る。常国は松坂の宣長門人である。

 曽我部元寛については、『御湯殿のうへの日記』第4冊奥書の上に宣長の筆で「元寛称曽我部式部阿波国人淤子京師名于国学」と記す。宣長旧蔵書には元寛本の『和歌うち聞』もある。
 荒木田経雅と尚賢は、身分こそ違うが同じ内宮の神官で、安永5年2月14日には二人は小篠敏父子と連れだって宮崎文庫を見学し、『古文尚書』を閲覧したこともある。

 【参考文献】
 北岡四良『近世国学者の研究』(皇學館大學出版部)


  
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荒木田麗 (あらきだ・れい)

享保17年(1732)3月10日~文化3年(1806)1月12日。名隆子。麗女と呼ぶ。伊勢神宮内宮権禰宜・荒木田武遠の娘として伊勢山田下中之郷町(八日市場から宮川寄りの町)に生まれる。13歳の時に、叔父で外宮の御師・武遇(タケトモ)の養女となる。16歳で連歌を学び、17歳の年に西山昌林門に入る。寛延3年(1750)、西山昌林が豊宮崎文庫に『三籟集』を奉納するために伊勢を訪うた時、慶徳武遇宅で隆子(19歳)と対面。印象を
「この少女なむ、つくバの道に志深く、きのふの会席にもつらなりて、いひ出る言の葉もたぐひなかりき」(『神道山路次記』)
と語る(「『三籟集』について」野間光辰『談林叢談』)。

  22歳で慶滋(笠井)家雅(イエタダ・如松とも)と結婚。夫も学問を好み、妻の読書や執筆を助けた。
 
 麗女は、『池ノ藻屑』、『野中の清水』といった擬古文の物語で知られるが、その『野中の清水』を宣長は読んだ。安永6年4月26日付荒木田経雅差出宣長宛書簡に
「山田隆女著候野中清水と申物語様之物、御覧も可被成候ハハ差上可申候」(宣長全集・別3-417)
とある。 そこで借覧した宣長は添削をする。それが麗女の激高を買った。麗女は宣長を 「田舎のゑ(ママ)せ書生」 と罵る。だが、宣長はあまり深く考えていなかったようで、天明8年に伊勢を訪れた雲史という人物に、麗女と対面することを勧めた(『雲史伊勢紀行』・『森銑三著作集』巻7に紹介される)。

 添削は丁寧。見ず知らずの人の作にここまで加筆するのも不自然だ。全くの想像だが、今井田家時代、才気活発な宣長が、同じ山田(伊勢市)に住む才女隆子の噂を耳にせぬはずはない。隆子も同じだ。そのような因縁が尾を引いていたのかもしれない。
 麗女は文化3年正月12日、山田八日市場の自邸で亡くなった。墓は浦口町旦過の山上(天神山)。法名、宝寿院霊雲浄光大姉。跡は養子佳包(29歳)が継いだ。
【参考文献】
  • 『慶徳(荒木田)麗女遺墨展覧会目録』(昭和30年3月12,13,14日) 神宮文庫。目録の他、略伝と年譜を載せる。
  • 『国学者伝記集成』巻1に自伝「慶徳麗女遺稿」が載る。そこには、宣長との論争が、途中から奥田三角取り次ぎとなったことが記される。
  • 「安井家蔵荒木田麗女書簡1(~5)」倉本昭 『伊勢 郷土史草』第32~35号
  • 『江戸女流文学の発見』門玲子 藤原書店
 
  
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有田の宣長歌碑

 宣長は『古事記』を研究していたから、今より昔の方が理想的な社会だと思っていたのだろう、復古主義者だ、と思われがちだが、そんな姑息な考え方ではない。昔がよかったこともあるし、今が勝ることももちろん多いという柔軟さがあった。例えば卑俗な例が蜜柑と橘である。『玉勝間』巻14「古よりも後世のまされる事」にそのことが書かれる。また蜜柑と橘については『古事記伝』巻25(宣長全集・11-150)に詳しく書かれるが、やはり蜜柑の方が美味しいという基本線の上で論は展開される。
 さて、若山の宣長の旅宿にも蜜柑が差し入れされたことは日記などに詳しい。

1.毛見(ケミ) 浜宮神社 御由緒末。

   紀の国のいせにうつりし跡ふりてなくさの浜にのこる神がき

  『伊勢の闇から』川村二郎、講談社。
                 浜宮神社御由緒。末尾に宣長歌が書かれる。
                       楠の大木に覆われた浜宮境内
2.須佐神社有田市千田。昭和54年11月。社殿手前にある。

 いたけるの神のしきます紀の国といはふかぶろの神の宮これ、
                         のりなが。
裏面「昭和五十四年十一月吉日建碑、氏子総代上野山長一、息清」
脇碑「寛政六年十一月本居宣長が須佐神社に詣でて、いたけるの神のしきます紀の国といはふかぶろの神の宮これ、と詠まれた。紀の国を治めた五十猛命の親神戔鳴尊を祀っているのはこの宮であるの意味「かぶろ」とは御親のこと、筆跡は宣長の真筆による」
 毎年10月14日の千田祭は、『有田川』有吉佐和子にも出る。                                         
                           須佐神社歌碑
3.有田市星尾有田川畔(国道沿)。昭和62年11月。

 山遠くこえこしかひも有田川見渡し清き瀬々の白波

「国学者本居宣長翁が寛政六年十一月(一七九四年)紀州藩に滞在していた折須佐神社宮司が国学の教授を招請し同社への紀行中有田川を詠んだ歌である、昭和六十二年十一月吉日建之、有田市千田東、上野山長一、息清」

                        星尾有田川畔(国道沿)歌碑
4.有田郡吉備町田口西芳寺。みかん山の中腹、こんもりした雑木林。

 年をへて通ひなれたる艫見えてよるべたどらぬ和歌の浦舟

大江可道(享和2年没)の墓の台石。『吉備町誌』にも載る。大江はこの地の旧家。可道は宣長の記録には名前が出ない。須佐神社に講義に来たときに聴講した一人であろう。碑面の字は宣長の筆跡に似る。恐らく、その時宣長にもらった自筆の歌を刻したと思われる。今は、子孫も奈良県に出て参拝する人もない。思いがけないところにも宣長の足跡は残っている。
                           大江可道墓碑
                          大江可道墓碑(部分)
               可道の墓は蜜柑山の中腹、こんもりした雑木林の中にある。 写真中央。
5.有田市千田東 上野山家。平成元年十一月吉日。

はしけやし有田の山は冬枯に青葉しげりてこがね花さく、宣長

 「この歌は国学者本居宣長翁が寛政六年十一月(一七九四年)紀州藩主徳川治宝候(ママ)のもとに滞在中須佐神社宮司岩橋氏の古学教授の求めに応じ同社への道中このあたりの「みかん山」を眺めて詠んだものである。平成元年十一月吉日建立、有田市千田東、上野山長一、息清」
 この近く、日高郡日高町比井若一王子には大平の歌碑がある。歌は、
  磯ちかくわかめかりほすあまの子のやどもしられずかすむ春かな
 で、『紀伊名所図会』収載。但し、碑面には「阿田能子」とある。
  
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ある午後の女湯

 ここは、江戸のあるお風呂屋さん。午後2時くらい。女湯で物静かで人柄のよさそうな二人の女性が楽しそうに話をしています。 どうやら二人は、本居さんの愛読者らしい。「侍る」がたくさん出てくる平安時代の物語が好きで、自分たちも宮仕えする女房気分。ちょっと盗み聞きしてみましょう。
「(本居信仰(モトヲリシンカウ)にて、いにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかに人がらよき婦人二人。おのおの玉だれの奥ふかく侍(ハベ)るだらけの文章(モンザウ)をやりたがり、几帳(キチヤウ)のかげに檜扇(ヒアフギ)でもかざしてゐさうな気位(キグラヰ)なり)
けり子「鴨子(カモコ)さん。此間は何を御覧(ゴロウ)じます
かも子「ハイ、うつぼを読返へさうと存じてをる所へ、活字本(ウヱジボン)を求めましたから、幸ひに異同を訂(タダ)してをります。さりながら旧冬は何角(ナニカト)用事にさへられまして、俊蔭(トシカゲ)の巻を半過(ナカハ ゛スギ)るほどで捨置(ステオキ)ました
けり子「それはよい物がお手に入(イリ)ましたネ
かも子「鳧子(ケリコ)さん。あなたはやはり源氏でござりますか
けり子「さやうでござります。加茂翁の新釈(シヤク)で本居大人(モトヲリウシ)の玉の小櫛(ヲグシ)を本(モト)にいたして、書入(カキイレ)をいたしかけましたが、俗(サトビ)た事にさへられまして筆を採(ト)る間(イトマ)がござりませぬ
かも子「先達(センダツ)てお噂(ウハサ)申た庚子道(カウシミチ)の記は御覧(ゴロウ)じましたか
けり子「ハイ見ました。中々手際(テギハ)な事でござります。しかし疑(ウタガハ)しい事は、あの頃にはまだひらけぬ古言(コゲン)などが今の如(ゴト)ひらけて、つかひざまに誤(アヤマリ)のない所を見ましては、校合(キヤウガフ)者の添削なども少しは有(アツ)たかと存ぜられますよ
かも子「何にいたせ、女子(ヲナゴ)であの位(クラヰ)な文者(ブンシャ)は珍らしうござります。先日も外(ホカ)で消息文(セウソコブミ)を見ましたが、いにしへぶりのかきざまは、手に入(イツ)た物でござります
けり子「さやうでござります。何ぞ著述があつたでござりませうネ。世に残らぬは惜(ヲシ)いことでござります。ホンニ怜野集(レイヤシフ)をお返し申すであつた。永(ナガ)々御恩借いたしました。有(アリ)がたうござります
かも子「いへもう、おゆるりと御覧なさりませ。わたしはうけらが花を一冊かし失ひましたが、トント行方(ユクヘ)がしれませぬ
けり子「イヱ、どうもかし失ふでこまりますよ。此間はお哥(ウタ)はいかゞでござります
かも子「何か埒明(ラチアキ)ませぬ。先日(センジツ)どなたにか承(ウケタマハ)りましたが、あなたはひなぶりをもお詠(ヨミ)なさるさうでござりますネ
けり子「ハイサもう、お恥(ハヅ)かしい事でござります。あまり本哥(ホンカ)で対屈(タイクツ)いたす時は、なぐさみがてら俳諧哥(ハイカイウタ)をいたしますが、何もうお恥(ハヅ)かしい。お耳に入(イツ)てはおそれ入(イリ)ます
かも子「イヱサ、万葉(マンエフ)の中にも、大寺(オホデラ)の餓鬼(ガキ)のしりへにぬかづきの哥(ウタ)、ヱヽ夫から夏痩(ナツヤセ)によしといふものむなぎとりめせのたぐひ、その外あまた見えますし、殊(コト)には続万葉に俳諧体(ハイカイテイ)と申す体(テイ)がわかりましたから、無心体(テイ)の哥(ウタ)もおなぐさみには宜(ヨロシ)うござります
けり子「イヱモウ、松のおもはん事もはづかしでござります。此間ネ、あまりいやしい題でござりますが、おかちんをあべ川にいたして、去る所でいたゞきましたから、とりあへず一首致(イタシ)ました  うまじものあべ川もちはあさもよし  きな粉まぶして昼食ふもよし といたしました。ヲホヽヽヽ
かも子「ヲホヽヽヽヽ、冠辞(クワンジ)がふたつ立入て、至極面白ううけ給はります。まぶしてなどが、どうか古言のやうにきこえまして、ヲホヽヽヽヽ
けり子「イヱモウ、ほんのなぐさみでござります。先生などのお耳に入(イツ)たらお叱(シカ)り遊(アソ)ばすでござりませうよ
かも子「何おまへさん。いづれ雅(ミヤビ)の道でござりますものを。「ヲホヽヽヽ。うまじものあべ川とかゝり、あさもよし、きとうけて、昼くふうもよし。どうもいへません。ヲホヽヽヽ。あなた、お這入(ハ イリ)なさりますか
けり子「ハイ、まづおさきへ(トざくろ口へはいる)
【注】
 「うつぼ」、『宇津保物語』平安初期の物語。10世紀後半の成立か。作者不詳。20巻(版本30巻)江戸時代初期に古活字本として刊行された。ここで言う「活字本」はこの本であろう。宣長門人の田中道麿も本書については研究し、宣長に報告して意見を聞いている(「うつほ物語の事」『玉勝間』巻2)。また松坂の門人殿村常久も師から与えられた課題として『宇津保物語年立』を執筆した。でも、一番最初の「俊蔭巻」も終えられずに中座するところが面白い。

 「加茂翁の新釈」、賀茂真淵『源氏物語新釈』。宝暦8年成立。 「玉の小櫛」、

>>『源氏物語玉の小櫛』

 「庚子道の記」、享保5(1720)年、尾張徳川家に仕える武女(タケジョ)が、江戸へ里帰りした時の日記。『十六夜日記』、『更級日記』など女流の紀行文学の伝統につながるものとして、清水浜臣の注釈で文化6(1809)年に刊行された。『浮世風呂』三篇刊行は同9年。 『怜野集』、『類題怜野集』加藤千蔭の門人清原雄風が、中古以来の歌を集めたもの。文化3年刊。

 「うけらが花」、加藤千蔭の歌文集。7冊。享和2年刊。

 「ひなぶり」、夷振り。狂歌。

 「本歌」、正統な和歌。

 「俳諧歌」、滑稽な歌。

 「大寺の」、笠郎女が大伴家持に贈った歌24首の中の一つ。
 「あひおもはぬ 人をおもふは 大寺の 餓鬼のしりへに 額ずくがごと」(『万葉集』巻4、608)

 「夏やせ」、大伴家持が吉田連老に贈った歌の一つ。「石麻呂に 我もの申す 夏痩せに よしという物ぞ むなぎ(ウナギ)取り食せ」(『万葉集』巻16、3853) 「続万葉」、『古今集』のこと。この巻19に「俳諧歌」が載る。

 「無心体」、鎌倉時代、機知・滑稽を主とする連歌。反対は「有心体」。

 「松のおもはん」、『古今六帖』に「いかでなほ ありと知られじ 高砂の松の思はむ 事もはずかし」とあるのをふまえる。

 「おかちん」、餅の女房詞。

 「あべ川」、安倍川餅。黄粉をまぶした餅。

 「うまじもの」、「あべ橘」に掛かる枕詞。 「あさもよし」、「き(着)」に掛かる枕詞。

 「冠辞」、枕詞のこと。賀茂真淵『冠辞考』は、冠辞・枕詞の辞典。

>>『冠辞考』

 「ざくろ口」、洗い場から浴槽にはいるところ。湯気を逃がさないようにしてある。入れ墨をした怖い男も、ざくろ口ではごめんなさいと頭を下げるのは、「銭湯の徳」(銭湯が人間の人格形成から見ても優れたところ)であるとは『浮世風呂』の説。『守貞漫稿』に挿絵有り。
【参考】
『浮世風呂』式亭三馬著。三篇巻之下(神保五弥校注・角川文庫P241~244)


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安心(あんじん)

 宣長は、人の問いに答えて、「小手前の安心」は無いと明言する。 「小手前」(オテマエ)とは聞き慣れない言葉だが、どうやら「個人レベル」と言うことらしい。「安心」(アンジン)とは心の平安。例えば浄土教なら、阿弥陀如来の本願を疑うことなく、その救済により極楽往生が出来るから、死んでも平気だと安心する。あるいは、悟りを開く。これは個人レベルでの安心だ。こういったものは無いと宣長は言う。

  個人は社会の一員であり、社会の掟に背くことは出来ないのだから、その社会の一員としての務めを果 たせば、「安心」など無くても生活できると宣長は考えた。
  だいたい、「安心」を得るための理屈はいい加減なものが多いではないか。天地の道理も、また生死の道理も分からないのに、どうして「安心」が得られるのか。皆、こじつけだ。その事は古書(『古事記』等)を読めば明らかだ。
  だがそれでも「安心」が無くては不安で居れないと言う人がいるので敢えて答えるならば、人は死ねば皆、黄泉の国に行く。黄泉の国は汚くて悪しき国だ。だから悲しい。それだけだ。だから「此世に死ぬ るほどかなしき事は候はぬ也」(『答問録』)。

  結局、すべては神のしわざであり、「人の力にはいよいよかなわぬわざ」で、人はただそれに従順であるよりほかはない。この世には悪事も凶事も多いが、それもまた神の仕業である。それに逆らうことをしないでいること、それが「真実の神道の安心」であるとした。

  「安心」と「悲しみ」。宣長にとってこの二つは矛盾するものではなく、ここから歌も生まれてくるのである。


 
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家の宗教

◎浄土宗信者の家に生まれる
 宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。塔頭法樹院が取り次ぎを行った。曾祖父、祖父はとりわけ熱心な浄土宗信者で、帰依した様子は『家の昔物語』に詳しい。父は「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)、母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は増上寺真乗院主を勤めた高僧である。
 また、後年のことではあるが、母も善光寺で剃髪、妹・はんも30歳で出家し、末妹・俊も夫死没後に剃髪する。

 ◎南無阿弥陀仏の少年時代 
 宣長は、元文4年(1739)、10歳、小石川伝通院27世主走誉上人を戒師として血脈を受け法名「英笑」を与えられた。「英」は「英才」という言葉もあり、すぐれたと言う意味があるが、「笑」は何か。この「法名」は19歳の時にもまた使われる。14歳で『円光大師伝』を写す。その後も「浄家名目」等の書写と、修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。延享5年(1748)、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺と縁の深い通誉上人の墓に参詣。特別に御座敷を拝見し、大僧正より御十念を授かる。「南無阿弥陀仏」の名号を十遍念じることを「十念」という。同年7月、父の命日に「南無阿弥陀仏」を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。この時期の信仰については『覚』の「精進」、「日々動作勒記」に詳しい。またこの前後しばしば融通念仏、十万人講等の仏事を修している。
 将来への漠然とした不安の中で、「南無阿弥陀仏」や「五体倒地」の繰り返しで陶酔感を味わっていた・・というのはうがち過ぎか。

 ◎仏を好む一青年
 今井田家時代については分からないが、浄土宗信仰は帰宅後も続き、京都時代友人宛書簡で「少来甚だ仏を好む」(岩崎栄令宛)とも、「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好みこれを信じこれを楽しむ」(宝暦7年上柳敬基宛)とも言う。本当に「仏教書」を好んだのだろうか、寺への参拝をちょっとカッコをつけて書いたのかもしれない。

 ◎変化の兆し
 『古事記』研究の深化につれ仏教信仰に変化が見られる。一つの転機として考えられるのが『直霊』執筆(42歳)頃か。但し、家の宗教としての仏事を執り行うことは以前と変わることなく、日常生活に於ける寺院との関わりにも全く変化は見られない。晩年、書斎で『浄土三部経』を読誦したというのは根拠のない説であるが、旧蔵書中には『法華経』や『浄土三部経』等仏書も混じり、仏事の際には読誦することもあったと思われる。安永6年樹敬寺住職となった法誉快遵との交友や、『遺言書』での葬儀次第、また戒名「高岳院石上道啓居士」など自ら命名するなどは樹敬寺との深い信頼関係に基づくものと言える。一族の墓は樹敬寺。宣長より4代目・信郷の代に神道に改宗。先代・弥生氏と妻・佐久さんの墓は松阪市の郊外、篠田山霊園自由墓地にある。

 【参考文献】
 『宣長少年と樹敬寺』山下法亮・昭和43年9月29日 

 
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『家の昔物語』(いえのむかしものがたり)

 本居宣長が自分の家の歴史をまとめた本。この書名を有する本は3冊ある。
 一つは、『別本家の昔物語』と清造が仮称した1冊で、「本居の事」に始まり御師、祠堂、定紋など10箇条を事項別に記載。第7項「当家代々宅地の事」に天明4年(1784)正月28日の奥書がある。

 その後も加筆、更に書き継ぐ予定であったが、『古事記伝』全巻終業した直後の寛政10年(1798)6月20日(草稿本巻首識語)、新たに同一書名で本居家の遠祖より宣長に及ぶ歴代当主とその妻子について詳述する手記を起筆した。 用紙は『続草庵集玉箒』稿本紙背を使用。更に浄書本は巻末に「本居といふ氏の事」「略系図」を添えて同年7月20日成立(奥書)。これが現在一般に言われる『家の昔物語』である。
  文中
「君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへかくれぬれば、いさゝか先祖のしなにも、立ちかへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもかきあらはして」
という一節が当時の心境をよく著している。巻末の
「吾家の先祖世々の事ども宣長なほ別にくはしくしるしおけるを此一巻はそれが中の大かた也」
は材料として『本居氏系図』を使用したことを示唆する。
 記述は伝聞や憶測を努めて廃し正確、平明で、本居家の歴史としてのみならず、松坂商人の消長の具体例としても貴重である。特に宣長自身の項は簡にして要を得た自伝で、『玉勝間』と共に伝記研究でまず拠るべき資料である。
 本書に結実した家に対する宣長の関心の萌芽は既に10代の頃から見られる。諸書を博捜し、機会を見ては縁の地である大阿坂村、美杉村多気などに足を運び、また京の橋本経亮や南部や会津からの訪問者への質問など調査は生涯に及び、本書脱稿後も、安田道卓からの報告をもとに『本居右京武秀之事実』(寛政12年4月3日成)を書いている。本居へ復姓、平氏の名乗り等もこの調査の産物である。
 自筆本は、本居宣長記念館所蔵。
 
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医学観

 病気は薬で治すのではない。自分の「気」が治すのだ。
これが宣長の医学観。

 京都遊学時代の友人岩崎栄令(藤文輿・本姓「藤」、号「文輿」)が肥前国大村に帰る時に贈った「藤文輿が肥に帰るのを送る序」(「送藤文輿還肥序」)という文章がある。岩崎も医者なので、自ずと医論となっている。その中に、
「其れこれを養う術はまた他に無し。食を薄くして飽かず、形を労して倦まず、思慮は常に寡くす。則ち気に従って順となり、周流して滞らず、その政は四末に溢れ、衆官闕失有ることなし。その病いずくんぞ発せんや」
とか、
「養気は医の至道」
という言葉がある。

 薬や鍼灸はあくまでも補助的なものであり、病を治すのは「気」(患者の持つ自然治癒力)である。この医論は在京中に書かれたものだが、この態度は生涯余り変わらなかったようである。

 だから、「親試実験」の古医方や、「究理実測」の蘭医方には距離を置いた。実は、宣長在京中の宝暦年間は、京都では古方派が最も活発に動き出した時であった。新しい医学の胎動は始まっていた。山脇東洋の解剖、香川玄悦の回生術などは、宣長も聞き知っていたに違いないが、彼の興味を引かなかったようである。ただ、香川太冲にだけはちょっと関心を示している。

 『ターヘルアナトミア』翻訳の推進役であった前野良沢とも、阿蘭陀語のことでちょっと関係もあった。また開業後も医学書を見て研鑽していたことは、当時流行の医学書『温疫論』の批評や紙の裏に残された調薬覚からも推測される。


 
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医学修行


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壱岐(いき)

 春庭の妻。安永10年(1781)正月24日夜、松坂新町に村田親次、知加の四女として生まれた。寛政9年(1797)12月16日、17歳で従兄・本居春庭の妻となり入家、翌10年(1798)正月22日、晴れて婚礼を挙げた。子供は娘・伊豆と息子・有郷。
 縁談当初は「とかく物書き候事、今少しらち明き申さず、間に合ひまじく」と、教養面で宣長の目からは不足の言葉も聞かれた。考えてみれば、春庭の俊敏な頭脳に即応できるような才媛が近在にいるはずはない。望蜀の嘆というものだ。
 だが、義姉、美濃等の薫陶宜しく、歌を詠み、また夫の代筆を勤めた。その中でもよく知られたものに柱掛鈴の由緒がある。足立巻一は言う。
「壱岐の字は美しかった。格別すぐれた手跡というわけではないが、やわらかで素直で、奔放なほどのびのびしている。
 この記事が書かれたのは文政五年冬である、春庭は六十歳、壱岐は四十二歳、結婚してすでに二十五年の歳月が経過し、長女伊豆はこの年に松阪の浜田伝右衛門にとつぎ、長男有郷を小津清左衛門の養子にした。その二十五年の生活が、この鈴の記事に象徴されているように思われたのである。」(『やちまた』上巻P214)
 天保12年(1841)閏正月23日没。享年61歳。戒名は雅静院淑和恵厚大姉。夫婦の墓は樹敬寺にある。

 【参考文献】
 『本居壱岐女の歌』出丸恒雄編、光書房。


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医業繁忙で学事廃れる

 病気が流行し忙しくなれば当然学問の時間は割かれる。
 「はしか流行にて昼夜一寸隙なく、ただ俗塵中に月日を送り申し候」(荒木田尚賢宛書簡・47歳)
 「十月霜月両月の間、大いに風病流行いたし、甚だ俗用しげく、一向に学問事廃し」(田中道麿宛書簡・52歳)
 この年の医療収入は96両と、記録に残る限り生涯最高額となる。この翌年、書斎「鈴屋」を増築したのも関係があるのかな?

 「世上殊の外病人多く、家用手透き無く昼夜奔走いたし、久々一向廃学、諸方の状通も打捨て甚だ無風流にくらし申候、御憐察可被下候」
これは56歳の時の小篠敏宛書簡の一節。また、同書簡に『温疫論』について「今の症に符合いたし候を以て是を信じ候は、医の愚昧に御座候」とあり、新しい医学書も見て研鑽怠りなかったことが窺える。

 
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生洲

 宣長が青春時代を過ごしたちょうど同じ頃、その京都の町ではやりだしたのが、「生洲」である。活作りの店である。

 『角川古語大辞典』に、「京都では、昔は後の生洲町(イケスマチ)にあったが、近世も後半には、四条当たりの鴨川、高瀬川のほとりに生簀を構えて、鯉鰻などの川魚の生料理を売る店が何軒もあった。「生洲は高瀬川をまへにあてたれば、夏はすゞし、柏屋、松源などはやる」『羇旅漫録、中』「御料理、生洲、西石垣四条上ル、扇長」『京都買物独案内』」とある。
 『在京日記』には、宝暦6年(1756)11月、西石垣の池洲で貝焼きを食べたという記事が出ている。
 また、最晩年の、『享和元年上京日記』を見ると、池洲記事が三箇所に出てくる。享和元年(1801)4月7日「今日、池洲ニ遊」、同25日「帰路、二条川岸ナル生洲茶屋ニ休ミ物喰」、5月23日「帰路ほんと町生洲ヘ寄リ、支度シテ帰ル」。

 宣長の好みにあったのか、それとも多かったので利用しやすかったのだろうか。
 外食記事の乏しい宣長資料の中で、たいへん珍しい例である。

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池大雅(いけの・たいが)

 参宮街道の町、また裕福な町松坂には多くの文人墨客が立ち寄り、滞在し、作品を残していった。池大雅もその一人。

 大雅は京の人。享保8年(1723)5月4日~安永5年(1776)4月13日。江戸中期の文人画家で書家。祇園南海や柳沢淇園、彭城百川(サカキヒャクセン)らのあとを受けて日本の文人画を大成した。幼名を又次郎、のちに無名と改めた。字は公敏、子職、貨成など。号は、大雅堂、待賈堂、九霞山樵、三岳道者、霞樵、玉海など。父・池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが、大雅4歳のとき死去、母と2人で住み、15歳の頃にはすでに待賈堂,、亀堂などと号して扇屋を構え、扇子に絵を描いて生計を立てていた。7歳の時に黄檗山万福寺に上り、第12世山主であった杲堂(コウドウ)禅師等の前で大字を書し「神童」と言われた。20歳代後半頃から富士、白山、立山から松島など各地を旅する。この時に同行したのが、高芙蓉であり韓天寿であった。
 松坂への来訪は、『宝暦咄し』に「一、池の周平と言ふ画師来ル、後大雅と言ふ」、「一、玉瀾の扇うりものニ来ル、弐百文つゝ」とある。玉瀾は大雅の妻である。作品は柏屋文海堂の暖簾のほか、看板には湊町・桜井七郎右衛門の家の「黒丸子」、「万能千里膏」(以上、松阪市歴史民俗資料館所蔵)など、また扁額が岡寺山継松寺に残る。

 「黒丸子」の看板について、こんな話が伝わっている。
 京都から有名な書家が来ていると聞いた桜井家では、「黒丸子」の看板を頼もうと木を削って待っていた。ある日、薄汚い男が店にやってきて、小僧の制止も聞かず看板を書いていった。帰ってきた主人が腹を立てながら見るとなかなか立派な字なのでそのままにして置いたら、やがてそれが大雅の字だとわかり大層悦んだ。(『松坂文芸史』桜井祐吉)

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石崎融思(いしざき・ゆうし)

 明和5年(1768)~弘化3年(1846)江戸後期の画家。荒木元融の子として長崎に生まれ、父に画法を習う。父の師・石崎元徳の孫の夭折により養子となり「唐絵目利職」を継ぐ。友人田能村竹田が「西洋画を善くす」(『竹田荘師友画録』)。写生を交えた諸様式を描き分け、ガラス絵も得意だったと言う。文化年間には門人277人を教えたという。代表作に「ブロンホフ家族図」、「蘭船図」がある。

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医師・春庵


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石塚龍麿(いしづか・たつまろ)

 明和元年(1764)~文政6年(1823)6月13日。遠江国敷智郡細田村(静岡県浜松市)の人。庄屋・石塚司馬右衛門の次男。通称、八十右衛門。名は矩慶、後に龍麿。天明6年内山真龍に入門。
 寛政元年8月24日夕刻、宣長を訪ね、この時に入門する。寛政11年正月にも宣長を訪ねる。享和元年、宣長最後の上京には、随行し『鈴屋大人都日記』を執筆。「出精厚志」の門人として名前が挙がる。特に、宣長より任された上代語研究に優れた業績を残す。著書は、『古言清濁考』、『仮名遣奥山路』などがある。

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医者の不養生

 宣長は宝暦4年(25歳)5月1日から医者の勉強を始めたが、医者の不養生か、宣長自身も病気になること多かった。

宝暦2年(23歳)5月17日、
 『史記』会の日であるが病気のため欠席する。

同年5月19日、
 『晋書』会の日であるが病気が平癒しないので欠席する 。

宝暦4年(25歳)5月16日、
 母は手紙で「しだいにあつさになり候間、随分随分ねびへ(寝冷え)も致し不申やうに、心がけ申さるべく候、灸もいたし申さるべく候」と気遣う。

天明6年(57歳)5月上旬頃、病気になる。
 ☆6月21日付、内山真龍宛書簡(大平代筆)に、「且又私義も、去ル五月上旬より不快罷在、此節漸ク大抵ハ快気仕候へとも、未諸方状通等、一向ニ相止メ罷在り候」とあり、又、10月15日付海量宛、閏10月16日付栗田土満宛書簡等に快復記事がある。

天明7年(58歳)4月頃、病気になる。
 大平『万葉会評聞書』天明7年4月条に、「四月来ヨリ本居家御持病、五月末平快、然レドモ五、六、七、八月世上困窮ニテ門人ドモ不参。依之師家御会、源氏、万葉、新古今トモニ休会也。九月世上秋作宜、十日ヨリ会始ル」とある。

寛政元年(60歳)5月19日、
 松坂滞在中の栗田土満に書簡執筆。一昨日夜、昨夜と来訪しなかったがどうしたのかと様子を問う。自分の病気ではなく、門人を気遣っている。

享和元年(72歳)5月8日、
 京都で講義を続けていた宣長は、風邪発熱のため講義を一時中断する。
 ☆『鈴屋大人都日記』「八日師風の御こゝちになほおこたり給はず、朝のほど厠にものしたまひけるに、いかがし給ひけむ横さまにたふれ給ひければ、人々むねつぶれて、たすけまゐらせておましにものしけるに、汗はしとゝにながれて目をのみふたぎ給へれば、せむかたなくさぶらふかぎり、御かたはらにつとそひゐて、やゝおどろかしきこえつつ、たゞ神をぞいのり奉る、しばしありて御目をひらき給ひて、夢のやうになむありし、今はこゝちさはやぎぬとの給ふに、草の葉の色なる人々の顔すこしなほれり」(宣長全集・別3_144)

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伊豆(いず)

 寛政11年(1799)6月18日~弘化3年(1846)2月25日。享年48歳。
 春庭長女。宣長最初の内孫。享和元年(1801)、京都からの宣長の手紙にも伊豆の成長に悦ぶ祖父の姿がある。24歳で松坂平生町の江戸店持ち商人浜  田茂敬(31歳)に嫁し、34歳で夫と死別、48歳で自身も短い生涯を閉じた。
 浜田家の開祖は、道寿居士。菩提寺は松阪中町通称職人町、真如山実相院本覚寺。浄土真宗高田派に属する。

 伊豆の墓は山門を入って左手の塋域にある。花崗岩質で、台座は後補のようである。碑面には「釈/如空斎清雲道光居士/雅亮室清風妙婉大姉」脇に「居士諱茂敬浜田氏本同姓宗寿之子母妙喜道證之姉也故道證以無子養而為嗣称伝右衛門性質沈慎能幹家事天保三年壬辰九月廿二日死歳四十一」「大姉名伊豆本居氏之女道光居士妻也弘化三年丙午二月廿五日没行年四十八歳」裏に「浜田」と刻する。隣には「一得斎深入道證居士/清浄室超常妙倫法尼」の墓もある。

 また、浜田家の開祖の碑には次のように録されている。
 「悟心斎覚誉道寿居士ノ碑、道寿君、諱信定、称伝右衛門。少壮在江戸、晩帰乃創業。勤励勉強、夙夜不怠。以故家道遂成。子孫是頼焉。実浜田氏開基之祖也。以宝暦四年甲戌之歳二月十七日死。年六十四」(『勢国見聞集』本覚寺条・『松阪市史』8-525)
                 
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和泉真国(いずみ・まくに)

明和2年(1765)?~文化2年(1805)5月7日。江戸の人。通称東吉郎。屋号渡辺屋。宣長門人。宣長に心酔した。村田春海の令の講義に対して疑問を呈したことを発端に論争となった。この時の真国の主張をまとめたのが『明道書』である。
 ところで、『和泉真国画像』と言うのがあった。現在所在不明だが、なかなか面白い画像だったようなのでちょっと紹介文を引いてみよう。

 「肖像画」(『佐佐木信綱随筆集 雲』京都印書館、昭和23年12月刊)に、「一日三村竹清翁を訪うたに、翁はさきに得られた和泉真国の肖像一幅を示された。それは斎藤彦麿が描いて、上部に曽槃が、真国の長歌言挙歌と反歌三首とを細楷で精写し、それに小伝が附してあつて、没日や内君の名もこれによつて明らめ得られるのである。そのことは三村翁が「集古」に書かれるはずであるから、自分はその像のことのみを記さう。像は裃を着用して端座した彩色の図で、向つて右手の床には宣長の歌の幅の半が見えてをり、「みゝなしうねひかぐ山 宣長」とあり、背後には二段に積まれた九箇の本箱があつて、其の蓋に、上段の第一には、日本書紀から三代実録まで、第二には類聚国史、第三には律、令義解、類聚三代格、延喜式、第四のところにも上段にも本が積みかさねてある。下段第一には古訓古事記、古事記伝、第二は像に隠れて見えず、第三には万葉集、二十一代集、第四には礼儀類典、第五には須受乃屋群書と書いた紙が貼つてあり、其の蔵書の一般、随つてその学風も知られて、まことに興味深い画像であつた。道麿の像を語つて間もなく、斯うした品を見たことの因縁も奇しく、ここに備忘のため記しておく」(P129)とある。

 「須受乃屋群書」、つまり宣長著作群とは洒落てるね。床の間の軸が宣長というのは、真国だけではないぞ。


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出雲

                     「大日本天下四海画図」部分 浜田・大社                 

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出雲大社(いずものおおやしろ・いずもたいしゃ)

 島根県簸川(ヒカワ)郡大社町に祀られる。主祭神は大国主命。国譲りの後、大国主命の隠棲地として天照大神が造営し、天穂日命を以て奉斎させた起源伝承を持つ。天穂日命の子孫が出雲国造が奉仕する。同家は南北朝時代に千家と北島家に分かれ、現在に至る。大国主命は縁結び、農業の神として知られ、10月には全国の神が集まるので、出雲では同月を神在月、他の地域では神無月と言う。本殿(国宝)は大社造りで、現在高さ24m。
                       「古代の出雲大社・雲太復元模型」
                          「現在の出雲大社」     

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『出雲国造神寿後釈』をもっと詳しく

 出雲国(今の島根県の一部)には、出雲国造(イズモノクニノミヤツコ)と言われる人がいる。過去にはこの地域を支配した人だ。今も「出雲大社」の宮司を務めている。さて、昔、この国造が新たに任命されたとき、一年間身を清め、その後に朝廷に行き、神からの祝福の詞を申し上げると言うことが行われていた。出雲国造だけに許された特別なことだ。その詞を、「出雲国造神賀詞」と言い、『延喜式』(エンギシキ)巻8に載る。

 宣長が執筆を開始したのは、寛政4年(1792・63歳)1月22日。閏2月11日脱稿。50日ほどで書き上げたことになる。刊行は寛政8年初秋。版元は永楽屋東四郎。序文は出雲国造千家俊秀。 『古事記伝』執筆で大忙しの宣長が、それを一時中断して本書を書いたのは、この年の3月、出雲の千家俊信が江戸に下向のため名古屋を通り、ちょうど同じ頃に宣長も名古屋に行くので、その時までに書き上げて俊信に託し、俊信の兄である出雲国造・千家俊秀の序文を貰おうと考えたためである。
 結局、多忙な宣長は名古屋での用事を終えて直ぐに帰郷し、俊信には会えなかった。
 その後、この稿本を俊信に見せて、念願の序文も貰うことができた。

 一方、借覧した俊信は宣長に祝詞全体の注釈、つまり『祝詞考』の後釈を要望するが、宣長は「大祓詞」だけは注釈するつもりだと答えた。
 その約束は『大祓詞後釈』で果たされる。
 ではどうして祝詞を研究するのか、それは「祝詞・宣命の研究の目的」を見て下さい。


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『出雲国造神寿後釈』  (いずものくにのみやつこかむよごとごしゃく)

 本居宣長著。
 出雲(今の島根県の一部)は、スサノウ、オオクニヌシで知られる古代出雲神話の舞台として、『古事記』でも重要な場所だ。そこに出雲大社という大きな神社がある。そこに古くから伝わった「出雲国造神賀詞」(イズモノクニノミヤツコカムヨゴト)という文章がある。古代の出雲を知る上でも、また昔の言葉を知るためにも重要だ。そこで宣長は研究し、注釈した。

 ところで、「注釈」(チュウシャク)ってなんだ。
 これは、文章や言葉をわかりやすくすることで、ある人の説では、固い土に水を注ぎ柔らかくするからサンズイが付くのだそうだ。宣長先生はこの「注釈」というスタイルを重視した。有名な『古事記伝』も『古事記』の注釈だ。

 また、書名に「後」が付くのは、既に賀茂真淵(カモノマブチ)先生が『祝詞考』(ノリトコウ)という本でこの注釈も書いているので、その後に宣長が自分の意見を付け加えたという意味。まず「考云」として先生の説を掲げ、その後に「後釈」として自説を述べるという形式を採る。これも宣長の得意な形式で、真淵先生は偉い。だから先生が言ったことはみんなが鵜呑みする。だからあえて直すのだ。「師の説になづまざること」は宣長の大事な教えだ。
 でも他の真淵先生の門人(弟子)からは、先生の説の悪いところをあげつらうとは何事だ、という批判もあった。


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伊勢

 伊勢神宮が鎮座する。山田と宇治に分かれる。宣長との直接の関わりは、19歳から21歳までの今井田家養子時代である。その後は、知人、門人との係わりが中心となる。また参宮も折に触れて行い、また前山では花見をしたことがある。晩年には。3女能登が安田家に嫁したので、宣長も同家に滞在したことがある。

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「遺跡の階段」

 詩人・中野嘉一に鈴屋を読んだ「遺跡の階段」という詩がある。
『詩と批評 暦象』48集(1959年5月25日刊)
※同誌の発行所は「暦象誌社」松阪市殿町1256番地、発行人は中野氏。

「  遺跡の階段
 箱梯子 それをはずしてしまうと
 誰も昇って行けない あの一室
 そこには かつて
  学者ひとりの世界があった
 くらい光りが しづかに
 室を包んでいた
 つまれた版木の間で
 強い蝙蝠の種族が 昨日まで
 生きのびていた

 ある意味で
 ここは有名な遺跡になった
 箱梯子がぎしぎし揺れる
 参観人が昇ってくる
 あの学者の書いた色紙や短冊が 壁に向かって
 菖蒲やあやめの花のように
 輝き始めるときがある
 この部屋にはもう蝙蝠のすむくらがりがない
  この遺跡にはもう管理人が要らない」
                                            (C) 本居宣長記念館

「伊勢暦」(いせごよみ)

 中世後期から現在に至るまで、主に伊勢神宮から刊行される暦。寛永9年(1632)から従来の丹生(ニュウ)(三重県多気郡勢和村)に加えて伊勢の宇治・山田でも板行され、貞享以後は、徐々に暦師も増え、やがて主流となる。宣長が生まれた享保年間(1716~35)には、印刷部数は毎年200万部に達し、また一軒の御師で10万部必要とした者もいる。農事暦として農業に有益で、江戸時代、御師(オンシ)たちが大麻(タイマ・お札)と一緒に諸国の旦那に配った。
 御師や旦那によってランクがあったようで、今も残る江戸時代の「伊勢暦」には金泥で模様を描いたものから無地の物まで色々ある。
 宣長さんの家も昔は、御師からすれば上得意様。初穂料を減額しても「暦ばかりは、昔にかはらで、今もうるはしきをおくる也」(暦だけは昔通り立派な物を送ってくる)とは『別本家の昔物語』(宣長全集・20-44)の一節。

【参考】
「伊勢暦について」岡田芳朗『三重県史研究』第10号
「伊勢暦発行一覧」『三重県史』資料編・近世5
                            「伊勢暦」

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伊勢神宮

 皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称。神道における信仰の中心として、江戸時代以来、日本の大多数の人々がせめて一生に一度でもと参詣を望んだ場所であった。
 今では伊勢市という一つの町であるが、当時は内宮があるのが宇治で、外宮が山田と分かれていた。また神宮も内宮、外宮と独立色が強かった。
 両宮にはそれぞれ神職とまた御師がいた。内宮は荒木田氏、外宮は度会氏の世襲であった。宣長の友人の荒木田経雅は内宮の禰宜である。また久老は、外宮の師職の家に生まれたが、内宮の師職の養子となった。

 宣長は若年より神宮参拝を度々行った。特に、山田の今井田氏養子時代は頻繁に参詣したが、これは式年遷宮の年とまた今井田氏が御師を兼ねた事とも関わりがあるだろう。
 また、内宮の文庫「林崎文庫」は宣長門人となった荒木田尚賢等の尽力で復興したこともあり、天明2年(1782)10月18日「林崎ふみぐらの詞」を書いた。この詞は文政10年正月、殿村安守、三井高匡、長谷川元貞、小津久足により建碑された。書と額は幕府右筆所詰支配勘定格・屋代弘賢の書。また文庫で開かれた遷宮祝賀歌会にも参加した。
 伊勢両宮は、『毎朝拝神式』でも遙拝し、また『古事記伝』刊行時には奉納もした。
 両宮の祭神については『伊勢二宮さき竹の弁』でも論じた。

 神宮参詣を「参宮」という。参宮が大名から庶民に至るまで盛んに行われたことが、宣長の学問にも計り知れない影響を与えた。賀茂真淵との対面も、また松平康定の松坂訪問も、また書簡の冒頭に「参宮幸便」もみな参宮のお蔭である。


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伊勢神宮より大きなものを造って問題ないの?

 出雲大社の由来は『古事記』、『日本書紀』、また『延喜式』の「出雲国造神賀詞」に書かれている。特に『日本書紀』国譲り神話異伝(第9段1書第2)には詳しい。それによれば、国造りを終えた大国主命に代償として、社が高く太い、床板を広く厚くした宮を造営すること、さらに天穂日命(出雲国造の祖)に依る祭祀で承認させたとある。だから立派に造ることが出来たと考えられている。

 
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『伊勢二宮さき竹の弁』

 宣長は、伊勢神宮の内宮・外宮の望ましい両宮関係の回復を考えていた。そのためには外宮祭神「豊受大神」の神格を明確にしなければならない。宣長の外宮論の目的はここにある。
 その概要は、  
  1. 豊受大神は天照大御神の重く祀らせ給う「御食津大神」である。  
  2. 豊受大神は「供奉臣列の膳部神」(吉見好和説)であるという説に対して、天孫降臨の時に天照大御神が鏡に副えて授けた御霊実であり、現御身の供奉神ではない。
だから尊いというのだ。

 外宮問題への最初の論究は、守屋昌綱に与えた『神都考僻説弁総論』に見える。真淵説がここでも影響を及ぼしていると言われる。
 その後、『古事記伝』巻15(安永7年・1778)のいわゆる「外宮論」でこの問題を再び取り上げる。

 さらに約20年後、この問題を詳しく論じたのが『伊勢二宮さき竹の弁』である。 『自撰歌』に「さき竹の弁のしりに書ける歌」と言う詞書で2首載せる。

「外つ宮を 国のとこだち とこだちと よそりなきごと いふはたが言」
 とつ宮の 神は天照 日の神の いつきまつらす 御食の大神」

 宣長の論に対しての批判は激しかった。
 まず『古事記伝外宮論弁語』外宮権祢宜・亀田末雅は、「内宮」という語が古書に見えないと言うのに対して『神宮雑例集』や「神宮三印」を引き反論した。 また門人益谷末寿は『伊勢二宮割竹弁難』で師説を批判した。末寿の言うのは、高天原でお祭りしたということは証拠がない。現世における天皇のお祭りであっても、天照大御神と関与するわけではない。
 しかし、宣長の主張には、信仰に根ざすものがあり、かえって文献的な証拠をさがす門人たちの困惑は大きかった。
 「豊受大神」とは則ち、食べ物の神様である。

【参考文献】
 「益谷末寿の両宮観」中西正幸『伊勢の宮人』

 
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石上(いそのかみ)

 宣長の号。『本居氏系図』に「別号石上」とある。
 また著書に使用。初見は宝暦12年2月編の自選家集『石上集』上巻。
本来、「石上」(イソノカミ)は大和国布留(フル)一帯の地名。そこから「古」、「降る」に掛かる枕詞となった。古代への憧憬の念から選ばれたのであろうが、関心が『古事記』へと集約される時期だけに注目される。また、和歌に係わり使われることが多い。

  書名では『石上私淑言』、『石上永言随筆』等に使用。

  号としては、「石上散人」(『梅桜草の庵の花すまひ』・宝暦14年頃、『湖月抄』奥書・明和3年7月1日)、「石上居士」(『古今題彙』・明和3年6月14日)等。使用の際には「石」に一点加えることが多い。

  後年、自ら付けた戒名にも「高岳院石上道啓居士」と使用(但し音読・『遺言書』)される。
                           「点のある石」 

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『石上私淑言』(いそのかみささめごと)

 本書は本書は未定稿。宝暦13年に書かれたという説がこれまで定説となっていたが、あるいは翌明和元年、2年頃と考える人もいる。物のあわれ説を基軸とした和歌論である。従来は『排蘆小船』からの延長、展開と見られてきたが、あるいは和歌論から国学論への展開と考えた方が正確かも知れない。『国号考』の初稿にも当たる部分が入っていたりする。また「石上」というのは、古代への憧憬からの命名だ。
 本書は宣長没後、文化13年(1816)に斎藤彦麿により刊行された。中断した巻3だけは除外し、2巻2冊本とした。1冊合本もある。序は岸本由豆流、藤原(斎藤)彦麻呂(麿)。附録、藤原彦麻呂。跋、高田与清(藤原常彦書)、片岡寛弘。刊記「文化十三歳次丙子初秋万笈堂英平吉蔵板」(附録末に載る)。万笈堂出版目録9丁添。その中に『石上私淑言』「鈴舎翁像」「鈴屋真蹟本末歌」の広告も載る。
 その翌年、紀州藩主にも献上された。その間の事情を伝える大平の書簡が残っている。

「○私淑言は、故大人御好ノ物ニあらねとも、君前ニもよい物ちやとのやうに、御目にとまり候よし伝へ承り候」(文化14年5月29日付本居春庭、三井高蔭、殿村安守三人宛) 

 宣長自身は気に入らなかったようだが、藩主に見ていただくには適当だろうという判断が下されたのだ。(「鈴屋余響 その一」村岡典嗣『本居宣長全集月報第4号』) 
                      『石上私淑言』 【国・重要文化財】
 

                                           (C) 本居宣長記念館

一日の始まり

 一日はいつ始まるのか。この問題について、例えば伊地知鐵男氏「昼と夜の変り目」(『汲古』創刊号)は、子、丑刻は前日、寅刻が日付変更時刻である(大雑把には午前4時くらい)とする。宣長でも『在京日記』宝暦7年7月25日に、
 「廿四日の夜の丑の刻過に、はや門をたゝき」
とあり、やはり丑刻は前日であったことが確認される。だが御承知の通り『遺言書』第一条では、通例に背き「夜之九ツ」を日付変更線としている。

 宣長は
  「享保十五年【庚戌】五月七日夜子之刻【夜之九矣】」 (『日記』)
 に生まれ、享和元年9月28日夜9ツ半没した。生まれたのは翌8日にかかる午前零時頃であり、没したのは29日にかかる午前零時頃であった。命日は『遺言書』の指示通り9月29日と定められた。日付変更時刻に密接に関わった生誕と死であった。 

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いちやかひとよか

 「松阪の一夜」、最初は「松坂の一夜」であったが、後「阪」に改められた。
 問題は、一夜の読みだ。言葉としては「ひとよ」であろう。実際、佐佐木信綱が書いた「松阪の追憶」には「松阪の一夜」に「ひとよ」とルビがある。歌「ひとよをうけしおしえぐさ」とある。
 ところが、実際教壇で教えた松阪の久野九右衛門先生は、「いちや」と教えたと証言する。また、芦田恵之助がこの教材の模範授業を行ったときの記録に、 「松阪の一夜
   と、題目を板書し
 これはね、松阪(マツサカ)の一夜(ヒトヨ)と読むんぢやね、一夜(ヒトヨ)と読んでも一夜(イチヤ)と読んでもよい。どちら読んでもあやまりではない。
 それから、松阪(マツサカ)と三重県ではにごらずにいつて居る。それで三重県でいつてゐるやうに読んだ方がよいと思ふ。松阪(マツサカ)の一夜(ヒトヨ)ね・・・。」(原本ルビは平仮名)
                   『教壇叢書第2冊 松阪の一夜』
 とあるのは、現場でも揺れがあったことを窺わせる。
 
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一回の講義のペースは?

 明和8年(1771・42歳)10月18日に終わった、『源氏物語』「鈴虫巻」を見てみよう。

  6日、『源氏物語』講釈、「鈴虫巻」開始か?
  10日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
  12日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
  16日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
  18日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈?
  22日、『源氏物語』「鈴虫巻」講釈終わる。

 「鈴虫巻」は『湖月抄』で12丁(本文11丁・今の注釈本では20頁)。それを6回で終えるので、1回、約2丁(枚)のペースとなる。意外と少ない。講釈の時間も短かったのかもしれない。

 特別の講義では、時間により、まちまちである。
 寛政6年閏霜月12日、紀州藩主祖母・清信院への講釈では、
「四ツ時より吹上御殿へ参ル、清心(信)院御前ニ而、源氏物語若紫巻講尺申上、廿枚余読ム、四切リ、夜ニ入古今集俳諧部読ム、御姫様ニも吹上御殿へ御出に而御聴聞、其外御医師中一列、御役人中一列聴聞也」
とある。4回に分けて、20丁(枚)読んでいる。

 寛政7年8月13日、本陣美濃屋での松平康定への講釈では、
「初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたるいとよういひとほれり」
とある。『源氏物語』「初音巻」の冒頭、3、4丁(枚)を読んだ。

 寛政12年11月29日、紀州藩主への御前講義では
「講尺、源氏帚木巻、始より五枚読、尤御好ミノ巻也」
とある。『源氏物語』「帚木巻」の冒頭、5丁(枚)を読んでいる。


 
                                           (C) 本居宣長記念館

一ヶ月に何回くらい講義をするのか?

 宣長は一ヶ月に何回講義をしたのだろうか。

 宝暦14年(1764)正月18日、年始開講で、『日本書紀』「神代紀」の講釈を開始、定日は8の夜、『源氏物語』は、2、6、10の夜で小の月は1座欠、『万葉集』は、4の夜と定める。
『日記』
 「十八日 曇 今夕神代紀開講、以後八之夜為定日、且又、二六十之夜源氏、四之夜万葉、如此相定【小月則一座欠】」(宣長全集・16-216)。
  例えば、宝暦14年(明和元年)2月は小の月で29日までしかない。
 この月の講義は、
  2日、『源氏物語』
  4日、『万葉集』
  6日、『源氏物語』
  8日、『神代紀』
  10日、『源氏物語』
  12日、『源氏物語』
  14日、『万葉集』
  16日、『源氏物語』
  18日、『神代紀』
  20日、『源氏物語』
  22日、『源氏物語』
  24日、『万葉集』
  26日、『源氏物語』
  28日、『神代巻』
 合計、14回。

 明和8年(1771) 宣長42歳の10月の講義回数(一部推定)は、『源氏物語』8回、『万葉集』3回、『古今集』1回(最終回)、『職原抄』1回(初回)。合計、13回。

 また大平の記録を見ると、『源氏物語』の講釈と、『万葉集』の会読(読書会)が同じ夜に開かれたこともある。


>>「毎月の宣長さん」10月「神無月は大忙し」

                                           (C) 本居宣長記念館

伊藤東涯(いとう・とうがい)

 寛文10年(1670)4月28日~元文元年(1736)7月17日。儒学者。伊藤仁斎の長男。諡号を「紹述先生」と言うが、その名の通り、父の学問を継承し古義堂の発展に尽力した。中でも、仁斎の『論語古義』を刊行したことはよく知られている。学問は幅広い。著書に『制度通』、『用字格』等。門下には松坂近郊豊原村出身の奥田三角がいる。

 仁斎から徂徠へと発展する儒学の影響について、小林秀雄は次のように言う。
 「宣長は、堀景山の塾で、初めて学問上の新気運に、間近に接した。即ち「古学」や「古文辞学」によって行われた、言わば窮理の学から人間の学への、大変意識的な、鋭敏な転回によって生じた気運である。仁斎によって、大胆に打出された考え、「卑ケレバ則チ自カラ実ナリ、高ケレバ必ズ虚ナリ、故ニ学問ハ卑近ヲ厭フコトナシ。卑近ヲ忽(ユルガセ)ニスル者ハ、道ヲ識ル者ニ非ザルナリ」(童子問、上)、「人ノ外ニ道ナシ」、或は進んで「俗ノ外ニ道ナシ」とまで言う「童子問」を一貫したこの考えは、徂徠によってしっかり受け止められて、徹底化された」
                  『本居宣長』第12章。

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稲懸茂穂(いながき・しげほ)

 後の大平。宝暦6年(1756)~天保4年(1833)9月11日。享年78歳。稲懸棟隆の長男。12歳の時、隣の竹内元之に四書五経を習い、13歳の時から宣長の下で本格的に勉強を始めた。また、宣長の側に居る須賀直見にも習う。
             ら ん     
 
             和歌子
 
ら ん
勉強家ね。
和歌子
大平は、「私は勉強や学問が秀でているから宣長先生の養子になったのではありません。12、3の頃から先生の下で勉強を始めましたが、先生を思う心は他の人以上に強かっただけです。何も深い学問を継承しようとしたわけでもなく、ただ初歩的なこと、歌や文章の書き方を習っている子どもに過ぎなかったのです」と言っています。
 大変真面目な人だったので宣長は養子としたのでしょう。図の中では一番長生きして、記念館所蔵の「鈴屋円居の図」を写させました。常雄と同じく『菅笠日記』の時のメンバーの一人です。
        「鈴屋円居の図」大平アップ

稲懸豆腐店

   本町。参宮街道沿い。門人・稲懸棟隆、また宣長の養子となった大平の家。魚町宣長宅から約4分。実はこの家、道沿いは豆腐屋だが、奥はなかなか風流な屋敷だった。明和8年(1771)8月15日に宣長が作った「八月十五夜稲掛棟隆家の月見の会にこゝちわづらひてえ物せでいひやれりける詞」(『鈴屋集』)によれば、坂内川の橋から2町(200m位)離れた、街道沿いにあるこの家の奥には、こぢんまりしてしっとりした庵がある。春は桜が楽しめるようにと桜の林を作り、また秋は月を眺めるためにと南向きに遣り水を流し、堺の所には草むらを作り、その中には萩、女郎花などを植え込むと言う念の入れようだ。主人は仕事の合間にはここで本を開き歌を詠む、と嘆賞している。

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稲懸棟隆(いながき・むねたか)

 享保15年(1730)正月19日~寛政12年(1800)4月7日。享年71歳。門人(安永2年以前入門)。童名安次郎、後に安兵衛。通称十兵衛、十介(助)。名為昭、後に棟隆。天明7年(1787)5月13日剃髪し実入、また悦可と号す。法号華落院実入日成信士。飯高郡塚本村(松阪市塚本町)山口左兵衛昭達の長男。本町の稲掛導孝の養子となり豆腐業を営む。 
 妻理遠(りお)。長男大平、次男昭隆。嶺松院歌会の会員で、宝暦8年夏からの『源氏物語』講釈や、明和9年3月の吉野、飛鳥行に同道。「鈴屋円居の図」に姿を留める。

 また、『草庵集玉箒』の執筆、刊行に深く関わる(「玉箒のはし書」棟隆筆)。屋敷の様子は宣長の
「八月十五夜稲掛棟隆家の月見の会にこゝちわづらひてえ物せでいひやりける詞」(『鈴屋集』)に詳しい。

 また師の七十賀会に歌を寄せる。著書に語学書『三集類韻』、紀行『身延杖』、家集『棟隆詠草』、自選歌集『かるも草』等がある。
【参考文献】
 「稲掛棟隆年譜考-本居宣長の門人伝-」中村一基(『中央大学國文』23号)。
        「鈴屋円居の図」 棟隆アップ

                          
                (C)本居宣長記念館

「稲羽の素兎」と出合った兄弟たち   嵐義人

 旧臘中、小学校・中学校の新学習指導要領が告示され、平成14年度からの実施が定められた。今や教育に携わる多くの人々の関心は、恐らくこれに集中していることであろう。その小学校社会、6年の内容(1)アには「……大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際、神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」とあり、中学校社会、歴史的分野の内容の取扱い(2)オには、「古代までの日本」の学習につき「……神話・伝承などの学習を通して、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせるよう留意すること」とある。その趣旨は従前の指導要領を踏襲したものであるが、それ以上に、教材として用いられる神話・伝承が殆んどヤマトタケルの話に固定された観の強い点が気にかかる。歴史学習の導入として、新たな展開例の発掘が待たれるところである。
 偶々、今年は「己卯」年でもあり、兎の登場する神話を例に、新たな展望を摸索してみたい。
 「稲羽の素兎」は、『古事記』だけに見られる神話である(「因幡風土記逸文」か?と言われる『塵袋』所載の類話はあるが、『日本書紀』には見えない)。梗概は周知のところと思うが、『尋常小学唱歌』(明治38年)から、石原和三郎作詩「大こくさま」のうち、一番と三番を引いておこう。
 ○おおきなふくろを、かたにかけ、だいこくさまが、きかかると、ここにいなばの、しろうさぎ、かわをむかれて、あかはだか。
 ○だいこくさまの、いうとおり、きれいなみずに、みをあらい、がまのほわたに、くるまれば、うさぎはもとの、しろうさぎ。
 類似の伝承は、インドネシアなどに伝えられているが、それらは兎ではなく仔鹿の話であり、鰐も、『古事記』は恐らく鮫(山陰地方の方言で鮫をワニという)で、東南アジアの類話はクロコダイル(インドネシア)であったり虎や森の魔物であったりする。想像するに、かなり広がりをもった説話を基に、蒲の穂綿からの連想で白兎になったものではなかろうか。『日本書紀』に見えず、色の白を『古事記』ではここだけ「素」と記すなど、やや特殊な伝承である。
 ところで、このとき大国主は一人で因幡(今の鳥取県東部)の海岸を歩いていたのではない。八十神とよばれる兄弟たちと一緒だったのである。
 八十神、おのおの稲羽の八上比売を婚わんの心ありて、共に稲羽に行きし時に、大穴牟遅神に袋を負わせ、従者として率て往きき。ここに気多の前に到りし時に、裸の兎伏せり。…… この「古事記」の文によると、兄弟全員、何故か八上姫と結婚したくて連だって東の方へ歩いていたと読める(「大穴牟遅神」は大国主のこと)。
 八上は今の鳥取県八頭郡の旧名「八上」郡を指し、鳥取市から八東川を遡った支流・曳田川との合流点付近には八上姫を祀る神社がある。気多は旧郡名「気多」郡(今の気高郡の西部〉の名に因むが、『古事記』の気多の崎はその東の旧高草郡(『塵袋』所載の文は高草郡での出合いとする)内にあった可能性が高い(今いう白兎海岸も旧高草郡に属す)。
 さて、八十神たちは、本当に兄弟で、偶々同じ女性と結婚したいと考えて、出雲から因幡へ旅行していたのであろうか。そう考えては、この神話から古代の人々の考えを読み取ることはできなくなる。無理に意味を求める必要はないが、文化人類学でよく知られている、外婚制(エクソガミー)、双分制(デュァリズム)を導入すれば、大国主の部族の男性は八上姫の部族の女性を婚姻対象としなければならない半族関係にあったと見てよいであろう。また八十神は兄弟というより、同族の若い男性すべてなのであろう。その八十神たち男性が、長老の許可の出た農閑期に女性の許に通うという古代の習俗が投映された神話と見れば、「八上比売を婚わん心ありて共に稲羽に行きし時」という設走の不自然さが、むしろ合理性をもつことになる。『古事記』で次に語られる八十神の迫害(大国主が八上姫と結婚したことに怒った八十神が、二度に亘り大国主を殺し、母神が蘇生させる話)がイニシエーションの投映であり、須佐之男命の許での須世理毘売との出会い(大国主はスサノオに難題を突きつけられ、スセリビメなどの助けで解決し、二人の結婚をスサノオが許す話)が結婚の前提としての婿いじめの投映であると見るなら、この集団求婚旅行も、結婚にまつわる古代の人々の習俗を織りこんだ神話・伝承と解することができよう。
 このような、古代の人々の生活や考え方に、大らかなところと、今日とは違うタブーのような規制のあったことを読み取る作業は、古代に関する歴史学習や、時代の隔りが如何に人々の営みを変えていったかを学ぶ上で、十分教材化しうるものであろう。
 時聞の特定と事象の闡明を以って歴史というのであれば、神話・伝承は歴史にはならない。しかし、シュリーマン(1865年来日)が『イリアス』からトロヤの遺跡を発見し、「魏志倭人伝」を歴史資料として扱うのは、素材自体に一見して歴史であるか、歴史でないかの区別があってのことではない。のちに発掘や考証をへて学問的に広く承認されたからである。中には、殷墟の発掘により神語・伝承と考えられていた周以前の中国古代王朝が歴史的に究明されたり、飛鳥の水落遺跡からの漏刻の発見により『日本書紀』の斉明6年(660)の記事が裏付けられたりしたように、歴史事実そのものへ繋がるものもある。また、個別の歴史事象とは結びつかなくとも、ある時期の習俗や考えを示唆する神話・伝承もある。『古事記』垂仁天皇の段の沙本毘古の乱の文中や、『日本書紀』天孫降臨章(第九段)の一書に、新生児の名は母が付けるという話が見える。これなども、いつということは特定できないが、古代の人々の習俗の一端を示すものと解してよいであろう。
 振り返って、戦後の小・中学校での神話・伝承についての指導要領上の取り上げ方を見てみると、小学校社会、6年では、昭和43年版指導要領で「内容の取扱い」において、52年版以降は「内容」において、国の形成(52年版までは更にものの見方にも触れる)に関する考え方に関心をもつ旨が記されるようになった。また特に44年の指導書では、「指導例」において「出雲の国ゆずりの神話や日本武尊の物語」が挙げられ、53年の指導書では、「高天原神話、天孫降臨、出雲国譲り、神武天皇の東征、即位の物語など」が列記されるに至った。
 一方中学校では、昭和26年版「日本史」単元Cの「展開例」中に、「神話伝説を正しく批判すること」、また30年版指導要領、歴史的分野の「具体的目標」の中では「日本の神話や伝承などの内容を通して、古代日本人のもっていた信仰や、物の見方や考え方について考えるとともに、外国のそれらの一端にもふれて、その相違や共通点に気づかせる」と記したのを始め、33年版では「内容」において、44年版以降では「内容の取扱い」において、「……当時の人々の信仰やものの見方など」に触れたり気付かせる必要があるとしている。
 神話・伝承の扱いには確かに難しい面もあるが、神話・伝承を歴史そのものとして扱うのではなく、今日とは違う古代の人々のものの見方・考え方があることに気付き、多面的、多角的な見方にも繋がる興味深い歴史へのアプローチの一つとして、新しい観点から取り上げられ、従来とは違った光が当てられることを期待したい。
                                           (C)本居宣長記念館 

稲荷祭の日

 旧暦4月、京都では稲荷祭が行われます。
 五基の神輿が3月、中の午日(うまのひ)に油小路西九条の御旅所に遷り、4月、上の卯日に伏見稲荷大社に還幸します。その時、東寺で寺家の神供を受けます。
 景山先生の講釈や武川先生の医療活動もこの日はお休みなのでしょう、宣長も友人と遊びに行きます。
 宝暦6年(宣長27歳)4月6日、上天気のもと宣長は友人の堀蘭沢たちと連れ立ち、稲荷祭とは逆方向の洛北・等持院の開帳に行きました。
 足利尊氏の守り本尊の地蔵菩薩など寺宝や庭園を見た後、衣笠山に登ると掛茶屋(よしず張り簡素な茶店)がたくさんあり賑やかで、山頂では夢合観音を拝見しました。それ以上に印象深かったのは町の眺めです。

 「此山の上より、京中よく見えて、いとよき風景也、酒のみなどし、休みて帰る」

帰りには、連れて行った馬に交代で乗ったものの物足りなかったのでしょう、北野の右近の馬場で乗馬を楽しみました。宣長も、久しぶりだったが一鞍二鞍乗るうちに心浮き立ち楽しいものだと感想を述べています。

 宝暦7年(1757)4月6日は、東寺に住む友人岡本幸俊の案内で稲荷祭見物に行きました。
 この日も日より良く、暑ささえ覚える程でした。東寺の境内は人で溢れ見物どころではありません。そこで幸俊の顔で八幡宮近くの「よろしき殿舎」にもぐり込みました。ここは東寺の僧正や寺家といった特別の人が入る場所です。特に何がいうわけではないけれど、古雅の趣が漂っていました。甲冑を身につけた者や公儀役人の警護する中、やがて神輿が西から入り東へと抜けていきます。
 見物の後は、東寺の五重塔にお詣りしました。

  「おほよそ洛中洛外にて、此塔ばかり高きは侍らじ」
と書く宣長の筆からは、登ってみたいなあと言う気持ちが窺えるようです。念願がかないこの塔に登るのはこの年9月のことです。
  近くの沼はかきつばたの花盛り。しばし茶店で休み、岡本氏の家に移り、暮れ方頃、提灯をともしにぎやかな町をそぞろ歩き室町四条南にある寄宿先に帰りました。

                                            (C)本居宣長記念館

医療収入

 記録に残る限りでは、一番医療収入が多かったのが天明年間である。天明元年(宣長52歳)には、約8,000服の薬を調合し96両の収入があった。寛政年間にはお弟子さんからの収入が増え、反対に医療収入は減っていく。寛政5年(64歳)、つまり紀州藩仕官が決まった翌年には、学問関係収入が49両、全収入の47%、医療収入が35両、33%、その他収入が19両となっている。収入合計は103両だ。(北原進氏の調査による。)


(C)本居宣長記念館 

イルカのレポート

 『古事記』中巻、「仲哀天皇」の条に鼻の欠けたイルカが登場します。
 後に応神天皇となる太子が敦賀に宿った夜、夢にその地の神様が現れ、名前をさしあげましょう、明日の朝、改名のお祝いの贈り物を浜辺に置いておきますと告げられた。その贈り物が、浜を覆いつくすほどのたくさんの鼻の欠けたイルカだった。

 さて、イルカを見たことがなかった宣長は、この箇所を読んで首をひねります。
 なぜ鼻が欠けているのか。そもそもイルカってなんだ?
 『古事記伝』草稿本では、「私はイルカを知らないから自信はない」と問題を留保しました。
 こうして「イルカ問題」は、宣長の頭の引く出しに大切に仕舞い込まれます。
 やがて日が立ち、イルカに詳しい人がいるという情報がもたらされ、やがてその生態のレポートが届けられました。それが、古座浦(今の和歌山県東牟婁郡串本町)に住む漁師・久七の談話でした。
  レポートは、使用していた『古事記』の該当箇所に貼り付けられ、再稿本執筆の時に活用されたのです。
 「イルカ鯨の事、いるかの千本づれと申候て、数多くつれ沖よりをか(丘)寄るも、又をか(丘)より沖に出るも、かしら(頭)もたげてくろて来るもの也、釣には一向かからぬ物にて、早き事船に櫓五丁だて候ても近付がたく、依て見付次第もりを負せそのもりにや縄と申て四十ひろの縄をつけ、此はしに浮けを付る。扨もり負なから行を又尋て二のもりを負せぜひに取り申也。一本取り候へば必ず二本とれ候。其故はもりを負候へばあまたの内に友をいたはるが一本は必ず遠くは行ざる也。扨此鯨を心がけて取るといふにはあらず。見当り候時ばかり取候也。至極の大は一丈二尺、夫より九尺位のところ多候よし。右紀州古座浦久七と申猟師に人して尋申候」
 真淵は宣長に「参宮人などに問い給え」と教えたが、旅人のもたらす情報は、宣長の研究をいっそう豊かにした。
                        『古事記』イルカのレポート
 
                                            (C)本居宣長記念館 

岩観音(いわかんのん)

 宣長の奥墓造営予定地を示した「山室山墓地の図」(宣長筆・寛政12年(1800)9月17日)に、ルートは「岩観音道」とあります。
 これは、岩肌観音ともいい、制作年代、制作者等一切不明です。
 私の知る限り、この観音についてふれた文献は『伊勢州飯高郡松坂勝覧』 (延享2年3月26日奥書)だけです。
 この本は、宣長の最初の著述で、松坂のガイドブックです。
 そこには、「山上ニ石観音トテ、大石ニ観音ノ像アリ」と紹介されています。
 つまり延享2年、1745年には既にあったことになります。
 この岩観音は、今も宣長奥墓から、山室山新吉野事業の推進者であった土居光華碑(実は分骨されていたことが昨年分かりました)に行く途中にあります。
 松阪方面が見える、現在では稀少なビューポイントです。
 つまり、岩観音はいつも松阪の町を見守ってくださることになります。

 奥墓手前の石の道しるべに、「寛政九巳五日(?)」「南無阿弥陀仏」(矢印指示あり)とありますから、信仰する人もいたのでしょう。
 宣長の『伊勢州飯高郡松坂勝覧』からでも既に270年以上の時間がたっています。 彫られてからは、きっと300年はたっているはずです。
 風雨にさらされてだんだん見えにくくなってきて、20年くらい前には、地殻変動でしょうか割れまで走りました。

   さて去年、土居光華のご子孫の赤塚さんご夫妻が宣長と光華のお詣りに行かれたときに、この写真を撮ってきてくださいました。
   その写真がとてもよく、実際これほど鮮明にお姿を写すことは至難の業です。 そこで撮影者の赤塚利夫さんに了解を得て、紹介することにしました。

   宣長も見ている稀少な石仏です。
   ぜひ皆さんも奥墓参拝時にはお立ち寄り下さい。
                              岩観音
                                          (C)本居宣長記念館 

印東昌綱、松阪の歌

 歌集『家』(昭和9年12月31日、竹柏会・心の華叢書)に「松阪」の題で6首載る。

 櫛田川のあら砂ここだまかれつとふ境内をゆくに音のさくさく(樹敬寺)
 ますらをの真心こめて巨きわざ尊き業を世に残しましき
                         (原田嘉朝翁歌碑)
 春雨の音をきくきくいねがての枕にたどるをさな思出  (松泉閣二首)
 雨戸なきはなれ座敷の扇の間ややひえびえし春の雨夜を
 この釘にかけたる鈴を折々にひきましけむか尊き大人も
                          (鈴屋翁旧宅二首)
 端座してせばき部屋ぬちに我はありかしこき書ぞここに生れし

 「松泉閣」は殿町にあった料理旅館で、梶井基次郎の「城のある町にて」にも登場することで有名。


                                            (C)本居宣長記念館

『うひ山ぶみ』

本居宣長著作原文資料  
                                   (C)本居宣長記念館

上田秋成 (うえだ・あきなり)

 享保19年(1734)6月25日~文化6年(1809)6月27日。享年76歳。俗称、東作、後に余斎。号は、無腸公子、鶉居等。大坂に生まれ、紙商・上田茂助に養われる。5歳の時に痘瘡にかかるり、加島稲荷の加護で危うく一命を取り留めるが、指に傷害が残る。のらものとして青春時代を送り、俳諧に遊んだり、浮世草子『諸道聞耳世間狙』、『世間妾形気』を執筆する。火災で家産をなくしてから一時は医者をする。また、賀茂真淵門人の加藤宇万伎(美樹)に師事して国学を学ぶ。宣長の著作を広くまた深く読むが、やがて『鉗狂人』を巡り論争となる。『呵刈葭』はその論争を宣長がまとめたもの。

 同じように商家に育ち、子供の時に神の恩を受け、賀茂真淵門に学びながら激しく論争した2人だが、これは国学というものの両極を示すのかもしれない。ある意味では。読本『雨月物語』、『春雨物語』、『よしやあしや』、『冠辞考続貂』、家集『藤簍冊子』等。性は狷介峭直、世事に拘らず、名利を事とせず、嘗て謂う、人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。蓋しこれは蟹の異名である。住居も定まらず、常に転転とする。故に鶉居と号す。煎茶を好み、酒、煙草は喜ばず。他の文人、学者を見ること蛇蝎のようであった。『胆大小心録』はそれを文章化したもので、周囲の凡てを批判する、悪口三昧。文化4年に草稿類を井戸に捨てた。墓は、京都西福寺。蟹の台座に乗る。

                                            (C)本居宣長記念館

上田百樹(うえだ・ももき)

 文化9年(1812)5月8日没か。京都錦小路室町の町人。本姓、波伯部。通称、藤助、平左衛門。屋号、鍵屋。古典、古書を好み、寛政9年(1797)本居宣長に入門。享和元年の上京を迎えた。この時、所蔵する出雲国意宇郡湯の山の青石に歌を請う。宣長は要望に応え、この石が古代の玉の原石であることを書いた詞書と歌を贈る。また、丹波国桑田郡小幡神社に奉る灯籠の長歌をやはり百樹に与えている(『鈴屋集』)。同じ町内の城戸千楯と共に、京都における宣長門の中核となった。伴信友とも親交を結んだ。古写本の知識が該博で、『日本書紀』、『新撰姓氏録』などの書写校合を行い、地名の考証にも成果を示した。宣長の『神代紀髻華山蔭』にも「上田百樹説」を採用する。著書に『大祓詞後釈余考』など。妻・秀子は大平門人。

 
                                            (C)本居宣長記念館

植松有信(うえまつ・ありのぶ)

  版木職人・植松有信像(部分)
 宝暦8年(1758)~文化10年(1813)6月20日。享年56歳。父が浪人したために名古屋で板木師を職業としていたが、『古事記伝』の刊行に関わってからは、宣長学に傾倒し、寛政元年(1789)、本居宣長が名古屋に来た時に入門し、板木職人として宣長著作の多くに関わる。また、松坂や和歌山滞在中の宣長の下に来訪し勉学に勤しむ。師が没した時には山室山奥墓で7日間奉仕、『山室日記』はその時の記録。また『古事記伝』の版下を書き、『詞の八衢』に跋文を寄せる。門人の一人、小林茂岳を養子として迎える。墓所は名古屋市平和公園内称名院墓地。

 
                                             (C)本居宣長記念館

植松茂岳(うえまつ・しげおか)

 寛政6年(1794)12月10日~明治9年(1876)3月20日。享年83歳。小林氏の男。名、繁樹。文化5年(1808)、植松有信の養嗣子となる。大平門人。尾張藩士となり、天保8年(1837)からは藩校「明倫堂」で講じる。安政5年(1858)致仕。幕末尾張国学の中心人物で、藩政の中枢に参画し、また勤王家としても活躍した。著書は『天説弁』など。

 【参考文献】
 『植松茂岳』植松茂・愛知県郷土資料刊行会。


                                          (C)本居宣長記念館

植村禹言(うえむら・うげん)

 大和国疋田村の人。天明2年(1782)2月27日没。享年不詳。
字は之兪、号は琶山。「禹言」はノブコトとも読む。著書に『広大和名勝志』などがある。

 安永9年(1780)頃、宣長を訪問した。宣長の回想が、『玉勝間』巻3に載る。
 『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』、「南都疋田村○植村禹言、字之兪、号琶山」とある。日付は不記。

 ほぼ同じ時と思われるが、久老の所も訪問(「をとゝしまろがもとにも尋来まして」とある)した。
 久老自身も同地の案内を乞うため、天明2年4月2日に禹言を訪ねたが、既に禹言は没しちょうど五七日(三十五日)であった。
 久老は虚しく遺著を拝見して帰った。(『やまと河内旅路の記』・『荒木田久老歌文集並伝記』P386)

 藤貞幹の寛政2年(1790)3月13日付立原翠軒(水戸彰考館総裁)宛書簡に、
  「(鎌足武智麿伝)異古本ノ方ハ大和国郡山ノ人家ヨリ出申候、
   植村禹言【書林ノ致隠居候者】取出し大島逸記へ売り申し候」
   (『日本藝林叢書』第9巻「無仏斎手簡」13頁)とある。
 大意は、本屋の主人で隠居している植村禹言が大和郡山から見つけ出して大島逸記に売り渡したという意味か。
 奈良晒の産地という村らしいが、そんなところで本屋の主人とは、ちょっと意外。

 『広大和名勝志』は、内閣文庫に自筆稿本があると言うが、一冊欠本と聞いた。
 また写本も数本あるが、やはり欠本があるという。
 同書を継いで編さんされたのが『大和名所図会』である。

 禹言が、木村蒹葭堂(けんかどう・1736~1802)とも交友があったことは、蒹葭堂の日記から知ることが出来る。
 また、和歌山県立博物館で所蔵する「熊中奇観」(ゆうちゅうきかん)2巻1帖(制作年、江戸時代後期)は禹言の旧蔵本(高芙蓉題に依る)だが、この絵巻と同系統とされる「南紀巡覧図」には、蒹葭堂の墨書と蔵書印がある(「博物館だより」No.10・2005.3、館蔵品コーナー10)。きっと資料の貸し借りなども行われたのだろう。
 高芙蓉、蒹葭堂、貞幹、だんだん禹言を取り巻くネットワークが鮮明になってきた。


                                          (C)本居宣長記念館

歌合の謎

 和歌を楽しむ方法はいろいろある。

 一人で楽しむならば「百首歌」など。グループならば、決められた題で歌を詠む「兼題」や、その日の自由詠のような「当座」、また題をくじのように引く「探題」、また狂歌や沓冠などことば遊びのようなものまで実にさまざま。なかでも、宣長一門がしばしば行ったものに「歌合」がある。

 「歌合」とは、歌人が右と左に別れて歌を詠み、判者が勝ち負けを決める一種の遊び。平安時代以来、宮廷や貴族の間で流行した。宣長一門に限ると、名古屋や津や松坂の人の歌が競うことがあり、事前に歌を募っておいてそれを配列したらしく、実際に一堂に会して行うものではなかったようだ。詳しいことは分からない。

 また、宣長一門の「歌合」では、宣長や春庭が判者になることが多いが、その写本の末には判者の歌が添えられることが多い。例えば、石水博物館に「鈴屋翁判歌合」がある。写本で2冊。中に、寛政2年10月の日付があり、21組で競う(二十一番)。作者は直章、常成。題は「船中時雨」。末に次の3首が載せられる。

   船中時雨
 山本のあけのそほ船これも又今一しほとしくれきにけり

   遠近落葉
 冬くれは同しむかひの山の名に小倉の山もちる紅葉かな

   乍立帰恋
 うしつらしよりて音なふこたへたになくなくかへる槙の板戸は
                         宣長

 最初の「山本の」の歌は、寛政2年12月の詠である。1首目の「冬くれは」は、2句目が「さそふむかひの」と変わるが1首目と同じ時の歌である。3首目は『石上稿』では確認できない。
  これらの内、題が同じものは判をしたときに詠んだ歌と推測されるが、それ以外は新作かそうでないのかは分からない。何れにしても、歌合の判をした時の特別の感慨を詠んだものではなさそうだ。

                                          (C)本居宣長記念館

歌会(うたかい)

 和歌を詠む会。通常、あらかじめ題を決めて詠む「兼題」、その場で詠む「当座」で進められるが、くじを引いて当たった題で詠んだり、歌合をしたりと色々なやり方がある。

 宝暦8年(1758・29歳)2月11日、嶺松院歌会に参加した後は、「歌会」が宣長の松坂での活動拠点となった。歌会のメンバーを中心とした『源氏物語』講釈が、夏から始まる。また「もののあわれ」論のきっかけとなった稲懸棟隆との出会いもこの歌会であった。『冠辞考』もこの会員の一人がもたらしたのではないかと推測される

 賀茂真淵と出会った翌年、明和元年1月21日には、遍照寺歌会が始まる。嶺松院歌会の開催日は11日と25日。遍照寺歌会は17日となる。これ以外にも様々な歌会が臨時、また定期的に開催された。
 最盛期の明和8年(1771・42歳)11月を見てみよう。この月の歌会は3日、直見家会、11日、25日、嶺松院会、17日、遍照寺会、24日、庚申会の5回。 『宝暦咄し』の安永元年の流行として「本居歌の講釈」と書かれる、その前年である。

 訪問者を歓迎して臨時歌会も開かれた。鈴木朖が参加した遍照寺会も、定例とは言え、当時は途切れがちだったので、臨時であったとも言えよう。寛政9年4月3日、菅相寺の歌会は熊本の高本順等歓迎の会であった。
  これらの歌会も、会によって、純粋に歌を研鑽するとか、いろいろ話をしながら楽しむとかそれぞれ特徴を持っていたはずだが、詳しくは分からない。ただ、一番基本となるのが嶺松院歌会であった。



                                          (C)本居宣長記念館

歌会の会場

 定例の定例の歌会は、嶺松院(式日11日、25日)と遍照寺(17日)。一時期開かれたところでは、菅相寺、密蔵院、臨時は覚性院、また宣長自宅、門人宅。例えば今のお茶会でもそうだが、普段、歌会では顔を会わさない人、つまり流派が違ったり、師弟関係が別の人の家に招かれることもあったようだ。
 歌会では、通常、兼題と当座の歌を詠む。また、たまには「歌合」も行われる。


                                          (C)本居宣長記念館

歌会のくじを持ち帰った話

 天理図書館所蔵の『鈴屋集』(西荘文庫旧蔵)は、一部に別筆も混じるが、宣長自筆の編年体歌集で、『本居宣長全集』では『石上稿』の底本として採用している。
 その明和8年辛卯詠の本文第11丁目に挟み込みがある。雲母引き美濃紙2枚継で
 「第廿九、得弁才智願、説我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚」
と書かれている。
 これは本文詞書に、「嶺松院住持(空白)追善に弥陀四十八願の心を人々よみける中に得弁才智願を、文曰、説我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚」あるのに対応している。恐らく席上引いた札を記録のために持ち帰ったものと思われる。本書が自筆稿本であることの傍証にもなろう。

                                          (C)本居宣長記念館

歌になった「松坂の一夜」

 この「松阪の一夜」はその後、歌になった。2つある。
 松阪市在住の森岡さんが記憶する「松阪の一夜」は、作詞・作曲者不明。記憶をたどり書いてもらった歌詞は、

一、ほたるとびかう松阪の、夏の夕べの旅の宿、初めてあいし碩学の、つきぬ話に夜は更けぬ

二、ふみをきわめん心もて、たづね入りにしうたの道、わけいるままに老いにきと、かたる真淵を仰ぎみつ

三、教えとうとび師と仕え、学びはげみし宣長の、心に残るかの一夜、永久の別れとなりにけり


 佐佐木信綱作詞・下総皖一作曲は、歌詞は、

一、軒の釣忍風にゆれて、ほたる火におう夜の窓、行燈のもとに語らふは、年たかき賀茂の真淵、うら若き本居宣長

二、若き宣長は今宵ここに、まみえし幸(サチ)を感謝して、けがれなき古代精神を、究(キワ)むべき案内(シルベ)問へば、ねもごろに真淵は答へつ

三、伊勢は松阪の旅の宿に、一夜(ヒトヨ)をうけしをしへぐさ、新上屋のくらきともしびは、学問の道の上に、永遠(エイエン)の光を放てり

 この歌は「本居宣長大人顕彰会事業計画」に「一、「松阪の一夜」の唱歌・作詞作曲○佐佐木信綱作詞・下総皖一作曲(昭和二十七年十月発表)」とあるのでこの頃の制作であろう。この会は昭和27年8月1日、当時の松阪市長・庄司桂一が会長を務めた。
 森岡さんのは、もう少し古いのかもしれません。
                                            (C)本居宣長記念館

内山真龍(うちやま・またつ)

 元文5年(1740)1月1日~文政4年(1821)8月22日。遠江国豊田郡大谷村の庄屋の家に生まれた。幼名、市六。通称、弥兵衛。宝暦10年、浜松を訪れた真淵に出会い、同12年入門。国学を習う。また、明和2年(1765)、渡辺蒙庵に師事する。蒙庵は竹亭と号し、遠江の古文辞学派の拠点でもあり、真淵の漢学の師でもある。師・真淵没後は宣長と連絡を取り合い研究に勤しんだ。古典の中でも『風土記』研究に熱心で、諸国を実地踏査して『出雲風土記解』、『遠江風土記伝』を相次いで完成。また、『日本書紀』の注釈の集大成を目指した『日本紀類聚解』は朝廷に献上された。著書はほかに『新撰姓氏録註』等。門人には石塚龍麿がいる。

 
                                            (C)本居宣長記念館

写す

 帆足長秋は、宣長の主要著作のみならず、蔵書への書き入れも写している。今の人ならアルバイトしてお金を貯めて本を買えばよいと思うだろうが、当時は本は写すものというのがむしろ一般常識だったのかもしれない。

 コピーのなかった時代、すべての勉強や学問は写す事から始まった。宣長も生涯にたくさんの本を写している。たとえば国学の先駆者契沖(ケイチュウ・1640~1701)の本も大部分は自分で写した。忙しくなってからは息子の春庭らの手を借りて、また人を頼んで写させているが、それらと宣長自身の写本を比較してみると、宣長の写した方が正確で、字もていねいだ。宣長の性格がそのまま文字に現れている。

 宣長の写本で一番早いのは14歳の時の「円光大師伝」で、50代からは、『本居宣長随筆』というノートに写すくらいで、あまりまとまった本は写していない。門人に手紙を書いたり、また自分の研究のまとめをしたりしなければならなくなったからだ。
 現在残る宣長蔵書を見ても、写本の割合は高い。
 もちろんそれまでの時代に比べれば、出版物は多くはなっている。特に宣長の著作はまず刊行されるものと考えてよい。だが、高価で、出版まで時間がかかる。
 それに、写す喜びというのも忘れてはならない。どうやら長秋にとって、松坂の宣長先生の傍で本を写すこと自体が喜びだったようだ。 



                                            (C)本居宣長記念館

十六島海苔

 十六島海苔と書いてウップルイノリという。出雲海苔とも言い、島根県平田市十六島の名産である。

 『音信到来帳』によれば、出雲の千家俊信は「出雲海苔」をしばしば土産にしている。珍しい、軽い、日持ちがするなどの理由だろうか。寛政11年(1799)12月12日条には「十六嶋のり、千家清主」(宣長全集・20-356)と書いてある。
 また、年次不詳だが、「二月三日非時献立」(宣長筆)に
    「二の汁 うつふるいのり、へぎくわゐ」とある。

 十六島海苔、また千家俊信が宣長に贈ったことについて、高塚久司氏の「北浜のり物語」(『出雲北浜誌』北浜自治協会・平成23年9月)が詳しい。

 また、この珍しい名称については、山崎美成の『三養雑記』(旧版『日本随筆大成』2期3巻P572)に、水底の海苔を採り、露うちふるい日に干し置く所からと考証するが、金関丈夫にも、「十六島名称考」(『発掘から推理する』・朝日選書)がある。                                    


                                         (C)本居宣長記念館   

馬に乗る宣長

 在京中の宣長は藤森神社(京都市伏見区深草鳥居崎町609)でしばしば乗馬を楽しんだ。
 宣長が最初にこの神社を訪れたのは延享5年4月15日、19歳の時。『日記(万覚)』には、「十五日、誓願寺、東本願寺、西本願寺、東寺、石清水八幡宮、【八幡中食】伏見藤森、稲荷」とある。中京区の誓願寺を出発し、午前中に大きなお寺三つ、山の上にある石清水八幡宮まで参拝という強行軍である。午後は、藤森神社と伏見稲荷を参詣している。
 また、上京してまもなくの宝暦2年5月5日、宣長(23歳)は再び藤森神社に参拝した。この時の主目的は藤森祭の見物である。
 藤森神社は、昔から武術、また馬の神様として有名で、今も5月5日の祭礼日には、武者行列、駈馬(カケウマ)神事が行われる。この日の宣長が見たのも恐らくこのような祭であったろう。
 同じ宝暦2年9月6日、宣長は友人堀蘭沢、藤重藤伯と連れ立って、伏見大亀谷即成院、泉涌寺を参詣し、藤森馬場にて乗馬を楽しむ。
 10月16日、再び藤森で乗馬、その後、東福寺通天橋で紅葉を見る。
 宝暦3年2月11日、蘭沢、藤伯、伊四郎と連れ立って、藤森で乗馬、小栗栖野で観梅。
 宝暦4年2月15日、蘭沢、府生、周治、岡本幸俊と連れ立って東福寺で涅槃像拝見、藤森で乗馬、小栗栖で観梅。

 また宣長は壬生でも乗馬を楽しんでいる。弓を習ったり、乗馬も楽しむ、ちょっと後年の和歌を詠み鈴を鳴らし桜を愛でるイメージとは違う。
  この神社では、『日本書紀』を編纂した舎人親王を祭神として祀るが、名前を「イエヒトシンノウ」と読み慣わしている。                                 
                           「藤森神社の馬場」
                           「藤森神社本殿」
                もと御所賢所。712年中御門天皇より賜る。国重文。


                                         (C)本居宣長記念館   

海と宣長

 夏は海に出かける人も多いと思います。宣長も生涯の内には何度か海との接点はありましたが、海水浴などほとんどの人とは縁のない時代、また水族館があるわけでもなく、海の知識は今の人とは比較にならないほど貧弱でした。

 ところで、『古事記伝』を読んでいると、海の生き物の記事が目を引きます。
 たとえばクラゲのように漂っていたと書いてあるが、クラゲってなに?
 イルカの鼻が欠けるのはどうして?
 ミチは、アシカか、それともラッコかな?
など色々疑問を持ち、見聞情報を集め考えています。今はもちろんですが、『古事記』の時代に比べても、海と町の生活が隔絶していただけに苦労も多かったようです。

>> イルカのレポート

 また、江戸時代と海で忘れてならないのが、大黒屋光太夫などの漂流です。
 記念館には『南部人漂流唐国記』(現在展示中)や、「唐国南京商船漂著安房国千倉浦記」を収蔵しています。何れも宣長の旧蔵書です。後者は、千倉浦漂着事件として数々関連記録が流布しているようです。
 『日記』安永4年7月26日条には、去5月鳥羽に漂着した琉球船の乗員が迎えに来た薩摩藩の役人と大坂経由で帰る途中、松坂に泊まったと言う記事。
 『寛政十二年紀州行日記』享和元年1月27日条には、和歌山滞在中の宣長と養子大平・門人植松有信の話ですが、紀州国有田郡塩津浦に漂着した唐船を大平と有信が見物に行ったが宣長は行かなかったと書かれています。
 大黒屋光太夫事件と宣長の接点は不明ですが、色々耳にすることも多かったと思います。二人の接点をいくつか揚げてみましょう。まず大黒屋光太夫は白子の人で、宣長と同じ紀州藩に属します。次に、積荷は松坂長谷川家のものです。また、長谷川家は宣長の家の筋向かいです。

 『大黒屋光太夫史料集』第4巻(山下恒夫編、日本評論社刊)には、服部中庸が光太夫に面接した時の聞書が載っています。中庸は松坂殿町に住む紀州藩の役人で、宣長門人です。また同書には、光太夫の書簡が掲載されていますが、宛人である一(市)見諌右衛門は、光太夫の船・神昌丸の船主で、宣長の門人・一見直樹の叔父です。
 世の中の動きには敏感だった宣長ですから、きっと光太夫についての情報に接していたことは充分に推測できます。
 
                                         (C)本居宣長記念館   

浦上玉堂の琴を聴く

 浦上玉堂(1745~1820)は、国宝「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」で知られた、近世中期を代表する南画家。玉堂は、それまでの多くの南画家が中国の南宋画を目指したのとは異なり、日本人の南画を志向し、独自の境地を得た。また、琴をよくした。

 もとは鴨方池田家(備前岡山池田家支藩)に仕えた武士であったが、寛政6年(1794・50歳)に4月、春琴、秋琴の二児と城崎から出奔し、諸国遊歴を開始する。脱藩の原因はよくわからないが、風雅を好んだことや、寛政異学の禁で交友のあった河本家が弾圧をうけたことも一因とされる。

 脱藩した年の9月、玉堂は松坂の宣長を訪うた。
  「九月来ル、一、備前岡山、玉堂、俗名(以下空白)」
                  (『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』)
  
 国学への関心もあり、また河本家やひょっとしたら木村蒹葭堂、海量などからも話を聞き、寄ったのだろう。
 宣長に会った玉堂は、自慢の琴を披露した。

 「師翁玉堂老人がいせのうみの曲うたひて弾琴けるを聞給ひて
  よにたらし ことの音きゝ いせの海や いけるかひをも ひろひける哉
 (端詞改)備前国浦上玉堂翁伊勢国松坂里に遊はれける時鈴屋主人前にていせのうたの曲うたひてこと弾かれけるときよみ給へるうたとて彼翁より伝へ聞侍る 
 をさかしおきつる其歌」
          田中大秀『ひとつまつ』(『田中大秀』第5巻37頁・勉誠出版)

  「師翁」は宣長、「彼翁」は玉堂。大秀が玉堂と対面した時に聞いたものだという。
 きっと宣長には、画より琴士としての方が興味深かったはずだ。
 読書人 富岡鉄斎が、玉堂の作品を集めた帖に『鼓琴余事帖』と命名したその識見や、熊本の長瀬真幸が宣長に請われて催馬楽「席田(むしろだ)」を謡ったことも思われて興味は尽きない。

 〔参考文献〕『浦上玉堂』(日本の美術148・鈴木進編)

                                         (C)本居宣長記念館   

雨竜神社(うりゅうじんじゃ)

殿町。門人・笠因(カサヨリ)直麿が神主を勤めた。明治になって松阪神社に合祀される。外観の写真が『松阪市史』近代1の口絵に載る。                                      

雲太(うんた)

 『口遊』に、「雲太、和二、京三【謂大屋誦】。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿【在出雲郡】。和二謂大和国東大寺大仏殿【在添上郡】。京三謂大極殿、八省」と言う記述がある。これは当時の大建築の順位を表したのだという。
  1位は出雲大社。
  2位は東大寺。
  3位は京都御所、大極殿。
   「雲太」と言う名称はここから出た。
 出雲大社の口伝では、上古32丈、中古16丈、その後8丈という。1丈は3.0303m。

 中古の出雲大社本殿は、平安時代末頃の平面図が残る。3本柱を金(カネ)の輪で縛るので「金輪造営図」と呼ばれるこの図を最初に紹介したのが宣長だ。 『玉勝間』巻13「同社(出雲大社)金輪の造営の図」に「出雲大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈也。古の時の図を、金輪(カナワ)の造営の図といひて、今も国造の家に伝へもたり、其図、左にしるすが如し。此図、千家国造の家なるを、写し取れり。心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のまゝ也、今世の御殿も、大かたの御構は、此図のごとくなりとぞ」と書かれている。
 長さ1町の階段といい、高さ32丈とか16丈といわれても想像のつかない規模である。しかも三本柱が一本に金の輪で縛られるなど誰の目にも荒唐無稽な話であった。
 だが宣長はその伝承に、疑問を持ちながらも、真実が含まれるのではないかと、借覧して写し、そして『玉勝間』に載せた。
 そこに描かれているのは、高さは16丈(48.5m)の社殿である。また「引橋(登り桟橋)長一町(109m)」とある。長さ1町の桟橋に適当な勾配をつけると、高さ16丈に見合うものとなる。建築史家・福山敏男氏は、それをもとに復元図を作成した。しかしその図面を見た多くの建築史家は、構造上実現不可能と考えていた。

 宣長の想像が的中し、金輪造営がほぼ真実であったことが判明したのは、200年以上たった、実に昨年(2000年)のことである。
 出雲大社境内拝殿と八足門の間の、地下0.5~1.5mから平安時代末と考えられる巨大な本殿跡の一部が確認された。発見されたのは、推定幅約6mの細長い柱穴一箇所(1号柱穴)、同4m以上の柱穴一箇所(2号柱穴)で、1号柱穴には柱材(長径1.35m)三本を一本に束ねた、直径約3mの柱(1号柱)の根本部分が遺存していて、これは平面図と同じである。三本柱を束ねた直径1丈(3m)のものであることから、平面図の信憑瀬が高まり、高さ16丈説が有力となった。

 【参考文献】
 『出雲大社の本殿』出雲大社社務所。
 『古代出雲大社の復元-失われたかたちをもとめて-(増補版)』大林組、学生社。



                                         (C)本居宣長記念館   

永楽屋東四郎(えいらくや・とうしろう)

 宣長の著作は、松坂の柏屋や、また京都の銭屋などでも刊行されたが、最大の出版元は名古屋に永楽屋であった。

 永楽屋の初代東四郎、寛保元年(1741)~寛政7年(1795)。享年55歳。姓は片野。名、直郷。通称、東四郎。初め、名古屋の書肆・風月堂孫助に奉公。35歳で独立、名古屋本町4丁目に開業。後、同7丁目に移り、尾張藩校・明倫堂の御用達となってその基礎を固めた。天明年間、横井千秋が『古事記伝』刊行を企図し、永楽屋に刊行を働きかけた。努力が実り、第1帙として巻5までが寛政2年、第2帙が同4年に刊行される。同7年には初代店主が没するが、2代の善良によって出版は継続され、同9年には第3帙17巻までが刊行された。寛政12年、風月堂孫助と永楽屋で版木の一部を購入した。これ以後、出版は書肆先導で進んでいくことになる。

 享和元年(1801)、宣長没後も出版は継続し、順次刊行。文政5年(1822)に完結する。宣長著作の出版は永楽屋に利益をもたらしたようで、明治に至るまで、神棚で文将星(魁星)と孔子、そして宣長を祀っていた。善良も天保7年(1836)69歳で没し、3代善教も宣長一門の出版に熱心で、同13年には『鈴屋翁著述書目 諸人著述書目』を出している。善教は安政5年(1858)、62歳で没す。鈴屋遺跡保存会が出来て、佐佐木信綱の計らいで『古事記伝』版木を同会に寄託した。昭和26年、書肆を廃業する。

 江戸時代の店の様子は、名古屋市博物館に復元されて見ることが出来る。



                                         (C)本居宣長記念館   

描かれた「松坂の一夜」

 本居神社(現在・本居宣長ノ宮)に、昭和31年8月27日奉納された深沢清の油絵。                                  

描くのも大変だ

 伴信友の『秋廼奈古理』(アキノナゴリ)に、 「大人の六十歳はかりのころとかや、自の像をゑかきおかんとおもひおこして、をりをり鏡にむかひて物し給ひけるか、月日へて書うつし給ひぬ、それかうへに、
   師木嶋の倭心を人問はゝ朝日に匂ふ山桜はな とかきおき給ひけるとそ」

 【大意】
 宣長先生と60歳頃であっただろうか、自画像を描こうと思い立ち、おりおり、鏡に向かって試みておられたが、しばらくたってようやく完成した。その上に、しきしまのという歌を書いて置かれたということだ。 と書いてある。

 着手より完成まで時間はかかったようだが、その作業が終わりに近づいたのが八月であった。『石上稿』の同年秋頃に「おのかかたを書てかきつけたる歌」と言う詞書で「敷しまの」の歌が記録されている。また、「手つからうつしたる」とあり、本像が自画像であることが明らかにされる。



                                         (C)本居宣長記念館   

駅鈴 (えきれい)

 駅鈴とは、律令制で駅馬を利用する時に携行を必要とする鈴。中央官庁と地方国衙に備えてあって、使者の位に応じた剋数によって人馬を調達した。使者はこれを鳴らしながら往来した。

 松阪と駅鈴の関係は、実は大変古い。
 『延喜式』巻4「伊勢大神宮」に
「凡そ駅使大神宮の堺に入らば、飯高郡の下樋小川に到りて鈴の声を止めよ」
とある。
  松阪郊外に位置する「下樋小川」から神宮領になるので、駅鈴の使用は出来なくなる。その地が「鈴止村」と呼ばれるようになった。 「下樋小川(シタヒオガワ)」の場所については、『玉勝間』巻3「下樋小川」で、ある人の説として、岸江村と朝田村の間、東岸江村を離れてすこし東に鈴止の森があるという紹介がある。
  

                                         (C)本居宣長記念館   

江戸

                      「大日本天下四海画図」部分 江戸

                                         (C)本居宣長記念館   

江戸店(えどだな)

 『玉勝間』に「富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて、手代といふ物をおほくあらせて、あきなひせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびをり、うはべはさしもあらで、うちくはいたくゆたかにおごりてわたる」とある。
 また、大平は、「松坂の江戸店持ト、わか山の千石以上ノ人トハ、くらし方同様也」という。紀州藩士で言えば千石取以上の武将、「江戸店持ち商人」であった。

 彼らは、本拠地を松坂、またその近郊に置き、普段は主人はそこにいる。店を三都に構え、各店では伊勢国出身者を中心に雇用し、家訓と店掟で厳重に管理した。1750年代には49家あったという「江戸店持ち」の代表が、三井、小津、長谷川、長井、殿村等である。宣長の家も、また門人にもその関係者が多かった。

 江戸店は商売の最前線であり、使用人などの生活規則は厳重で、読書も禁止されていたことはよく知られている。また、松坂との連絡も密で、魚町長谷川家では月に3度の定期便があり、火災などの情報も5日位で届いた。また、賀茂真淵への連絡にも、江戸店にいた弟・親次に託することもあった。
【参考文献】
 『郷土の本居宣長翁』桜井祐吉(郷土会館出版部、昭和16年)
 『江戸商業と伊勢店』北島正元(吉川弘文館)
 『三重県史・資料編、近世四、上』


                                         (C)本居宣長記念館   

江戸と松坂

 現在、松阪から東京へは、最速で3時間だが、当時は普通に歩くと10日かかった。だが、今の松阪市民が持つ東京への親近感よりも、宣長の頃の松坂の人にとっての江戸への親近感の方が強かった。なんといっても、江戸の経済の一翼を担ったのが、この松坂の商人達である。江戸に店を持つ人が約50軒、その親戚縁者で働く人も含めると、ずいぶんたくさんいたはずだ。だから、江戸へ行く人、帰る人。ごく日常的に江戸が話題となっていた。

 豪商、例えば魚町の長谷川家では、月に3度の店の報告が松坂に送られてきていた。これは定期便である。また、急ぎの連絡は、5日もあれば充分届く。 「火事と喧嘩は江戸の花」なんていうが、宝暦10年(1760)2月6日、江戸で大火があった。その報せは、5日目の11日に松坂に伝わっている。
 宣長の『日記』には、
「(二月)十一日、去六日江戸大火事之由、今日相知、六日暮六時、神田旅篭町出火、紺屋町飛移、自夫石町、伝馬町、本町三丁目四町目、室町、堀留舟町、小船町、南北新堀辺不残焼、永代橋深川迄焼通、凡松坂店之分、八九分通此度焼失、其内土蔵等多焼失之由、殊外之大火也、同日七時、芝神明前亦失火、大成候由也、且又三日大火事有之候上也」(宣長全集・16-148)
とある。2月12日、叔父小津源四郎、手代彦兵衛江戸下向(『日録』)もその関係であろう。源四郎店は大伝馬町一丁目にあり、宣長も一年滞在したことがある。
 火事だけではない。例えば『冠辞考』も「江戸」で出版されたその直後に、宣長は「松坂」で見ているのだ。本の取次店は当時はない。江戸で買った人が松坂に持って帰ったのだ。

 情報の量やスピードでは現在の方が勝るけど、質では当時の松坂の方が上だったかもしれないよ。


                                         (C)本居宣長記念館   

江戸の誘惑

 宣長が1年を過ごした大伝馬町という場所は、江戸の中心街である。近くには鶴屋喜右衛門という有名な本屋もあった。

 子を思ふ夜の鶴やへ草そうし(『柳樽』)

 この店は仙鶴堂とか丹頂堂という屋号で、暦や往来物(今の教科書)と言う堅いものから、やがては錦絵、草双紙まで手広く商うことになる。この川柳は、夜も営業する鶴屋へ子どもの欲しがる草双紙を買いに行く情景であろうか。宣長当時の店頭ではどんな本が並んでいたのだろう。
 今の日本航空のような鶴のマークを暖簾に染めた店先の様子は『江戸名所図会』にも載る。
 若き宣長もこの店先を通ったはずなのだが・・


                                         (C)本居宣長記念館   

エピキュリアン堀景山

 味噌の味噌臭いのと学者の学者臭いのを嫌った景山は、平曲が得意だったようです。
 平曲とは琵琶に合わせて『平家物語』を語ること。起源ははっきりしませんが、平安時代からいた琵琶法師が、鎌倉時代になって『平家物語』を新曲として採用したことに始まるのではないかと思われます。『徒然草』によれば生仏という人が最初だそうです。

 宝暦6年1月9日の夜、宣長(27歳)は友人の山田孟明宅を訪れました。先客には、景山先生や横関斎も居ます。しばらくは高尚な話に打ち興じていましたが、やがて平曲が始まり酒が出てきて、賑やかな会となり、結局お開きは夜更けとなりました。
 『在京日記』には続いて次のような記述があります。
「そも堀先生は、もとより平家をよくし給ひけるが、横関斎、山田両人は、去年の春より心かけて学ばれけるが、いとうよく成て、冬の会にも出られける、やつがれ(私)もせうせう(少々)語らばやと思へば、かたはしならひ侍るが、いとむつかしき物也。古風成(る)物にて、いとう殊勝に聞え、おかしき物也、我もとより声音あしければ、三重などはつやつやあがるべうもなく、中音をすこしならひ侍る、になう(比較する物がないほど)おもしろき物也、琵琶のねはさら也」
と書き、その後に孟明が横関に贈った詩と、それに唱和した宣長の漢詩が載せられています。漢詩には、人の寝静まった夜更け、宣長が一人で苦労しながら声を張り上げ稽古する様子が描かれています。

 さて、この記述で気になるのは、「我もとより声音あしければ」です。宣長は本当に声が悪かった、あるいは音感がずれていた、音痴だったのでしょうか。 残念ながら不明です。
 ところで、宣長が「中音を少し習った、三重はとても」と言っていることについて少し説明します。
 平曲は、節無しの朗読である「白(シラ)声」と「引句」に分かれます。「引句」はさらに「口説」「初重」「中音」「三重」など9種となります。
 「三重」は音階も一番高く、曲折多く。秘伝書には「三重は鶴の晴天に舞うが如く澄み渡るように語るべし」とあるそうです。

 【参考文献】
 「平曲」沼沢竜雄・『岩波講座 日本文学』・昭和7年9月。



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「『延喜式』って何の本だ?」

 『延喜式』(エンギシキ)とは、「養老律令」の施行細則を集大成した古代法典。延喜5年(905)、藤原時平ほか11名の委員によって編纂を開始したから「延喜の式」だ。この延喜5年という年は、勅撰集第1番目の『古今和歌集』の編纂が開始された(一説に、出来た)年でもある。

 さて、式は延長5年(927)、藤原忠平ほか4名が奏進する。その後も修訂が加えられ、40年後の康保4年(967)に施行された。全50巻。条数は約3300条で,神祇官関係の式(巻1~10)、太政官八省関係の式(巻11~40)、その他の官司関係の式(巻41~49)、雑式(巻50)と、律令官制に従って配列されている。神祇官関係の分量が多いことについて宣長は次のように言う。
 「延喜の式、すべて五十巻にして、はじめ十巻は神祇式也、されば、朝廷天の下もろもろの公事(オホヤケゴト)のうち、五分(イツツ)が一つは神事にて有し、これを以ても、古ヘ神事(カムワザ)のまつりごとの、重くしげく、盛(サカリ)なりしほどを、思ひはかるべし、もろこしの国などは、神を祭ること、いとおろそかにして、周の代よりこなたは、いよいよなほざりに思ふめり、然るを此神の御国の人、さるたいたいしき戎国(カラクニ)ぶりにおもひならひて、よろしからめや」『玉勝間』巻6「延喜式五十巻にして十巻は神祇式なる事」
 三代格式のうち、ほぼ完全な形で今日に伝えられているのは『延喜式』だけであり、しかも規定の内容が微細な事柄に及ぶため、日本古代史の研究に不可欠の文献となっている。

 宣長も『うひ山ぶみ』の中で、記紀、万葉、六国史に次いで見るべき書として本書をあげている。また、「延喜式の祝詞の巻、又神名帳などは、早く見ではかなはぬ物なり」(延喜式の祝詞の巻と神名帳は早くから見ないといけない)と言っている。



                                         (C)本居宣長記念館   

老蘇の森(おいそのもり)の宣長歌碑

 老蘇の森(滋賀県蒲生郡安土町東老蘇)は歌枕。上田秋成『春雨物語』「目ひとつの神」の舞台にもなった鬱蒼たる森であったが、近年新幹線が横断し、昔を偲ぶことは出来ない。歌碑は奥石神社社殿前にある。

 歌は
    「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」。

 寛政5年4月13日、京都から名古屋に行く時に立ち寄った際の歌。この時同行した大平は、駕籠で行く宣長先生から、老蘇の森を見落としては大変だからお前が気を付けていなさいと言われたという話が、その時の宣長の歌日記『むすび捨てたる枕の草葉』に載る。書は吉田豊照(三重県出身、滋賀県日野町住)。昭和49年6月3日除幕。石は安土山の自然石。 
                          老蘇の森宣長歌碑
                                         (C)本居宣長記念館   

追廻門から吹上寺

 追廻門は、僅かに残る和歌山城の遺構の一つであるが、解体修理をした時、朱塗りであったことが判明した。朱の門と言えば東大赤門が有名だが、それと同じようにこの門も御守殿門ではという説が出た。御守殿とは将軍の娘で三位以上に嫁いだ人を言う。該当するのは、初代藩主浅野幸長(ヨシナガ)の弟で二代藩主長晟(ナガアキラ)の奥方、家康の三女振姫である。振姫の最初の夫は、蒲生氏郷の子秀行。秀行と死別した姫は、やがて蒲生家から出て、浅野家に嫁ぐ。しかし藩主の子を生んだ振姫は、産後の肥立ち悪く亡くなる。
 今は、御守殿振姫の屋敷への門と言う説より、裏鬼門説が有力。

 この門を出ると、扇の芝。
 「春雨の降ごとにみどりの色まさりてさながら青地の紙を張れりともいふべく、うらうらと和暖なる日近きあたりの童部ども招くとなしに寄合ひ菓子屯食等をとり出て野遊びのまねす」
 と『紀伊国名所図会』に書かれている。
 ここから藩の医学館の跡を通ると、吹上寺はもう間近である。
 長晟妻振姫の遺骸を火葬した場所にその後、寺が建つ。吹上寺である。


                                         (C)本居宣長記念館   

往診

 1704年、松坂では病家で調合するように通達が出る。これにより使用人のいない家では大変助かったという(『松坂権輿雑集』)。
 宣長も薬箱を持って往診したらしい。
  「ついで郊外に趨きて人の病を診、薄暮にしてまさに還る」
                 (須賀直見宛書簡・35歳)

  「先日は貴辺へ療養に罷り越し候処、帰路差し急ぎ候品これあり」
           (荒木田経雅宛書簡-内宮神主-・53歳)
 『済世録』には1月28日「宇治泉館」とある。片道25km近くもある伊勢まで往診したのだ。やはり内宮の荒木田経雅を見舞ったこともある。



                                         (C)本居宣長記念館   

大垣

 岐阜県大垣市。大矢重門はこの地で材木商を営んだ。天明6年(1786)に宣長に入門。松坂に来て講義を聴講した。『新古今集美濃の家づと』は重門帰国に際して贈ったと言う初稿に因む書名。重門は地元名産の焼き鮎を宣長にレシピをつけて送ったことがある。 



                                         (C)本居宣長記念館   

大坂

                      「大日本天下四海画図」部分 京・大坂


                                         (C)本居宣長記念館   

大館高門(おおだち・たかかど)

 明和3年(1776)2月17日~天保10年(1839)12月13日。享年74歳。門人(天明4年入門)。尾張海東郡木田村の庄屋木田家の次男。名、大煕、信煕。号瓊主、清蘆、梅の屋等。藤木田左市とも。最初、田中道麿に学び、道麿没後は宣長に師事した。医者をしたこともある。また後年は京に住んだ。宣長門人としては、大変熱心で、一族も門人の列に加えさせ、宣長の名古屋来訪時には、道中の宿を提供すること4度(寛政元年、同4、5、6年)に及んだ。その間には自宅で師・宣長の60歳祝賀会(現代のような宴会ではなく、歌会を中心としたのだろうか)を開催。寛政3、4年頃に、春庭が眼病治療のため馬嶋明眼院に入院した際には宣長の手紙を届けるなどその世話をした。木田村と馬島は約5km位しか離れていない。また、宣長の著作では。『仰瞻鹵簿長歌』や『手枕』。その他の本としては『口遊』等を自費で刊行した。
 但し、国学への関心を越えて、好事家的な要素も強かったことは否定できない。


                                         (C)本居宣長記念館   

大伝馬町の店

 宣長の家が所有した江戸店(エドダナ)は、曾祖父道休が大伝馬町1丁目に開いた3店。2軒は木綿問屋で開業は正保初年(1644頃)と寛文初年(1661頃)、1軒は諸国から木綿を仕入れ各店に売る「売場」で、開業は貞享初年(1684頃)。祖父唱阿が、売場と問屋1軒を統合、本店とし、残りの1軒は隠居家に譲った。本店は元文5年(1740)に閉鎖。隠居家は明和元年(1764)に閉鎖された。また、唱阿は延宝5年(1677)に堀留町に煙草店と両替店を創業。共に寛保2年(1742)閉鎖。従って、宣長が生まれた頃には、本店1軒と、煙草、両替店各1軒があったことになる。また、16歳の時から1年を過ごした江戸店は隠居家に譲られた1軒である。

  『家のむかし物語』
「(道休は)かの地大伝馬町一町目に、木綿店三所を創置給ふ、
 【件の三ツの店のうち、二ツは木綿問屋、一ツは売場といふものなりき、そは、まづかの一町、多くは木綿店にて、みな木綿問屋と称するを、別に又売場と称するもの二三家有、それは諸国よりおくれる木綿を、口銭蔵敷などいふを取て、町内の店々へ売て、外へはうらざるもの也、かくて此道休君の開き給へる売場、唱阿君に至りて、停て今一所の木綿店に併せられ、本店とてありしが、元文五年に亡びたり、又今一所の店は、隠居の跡小津孫右衛門家に属給ひてありしが、明和元年にいたりてほろびにき】」(宣長全集・20-17)

 
                                         (C)本居宣長記念館   

大友親久(おおとも・ちかひさ)

 宣長門人、大友親久は、波宇志別神社の神主である。青雲の志を抱き、松坂に着いたのは、享和元年(1801)9月13日。すぐに入門する。だが非情にも師は、僅か数日後に病の床に伏し、29日に没する。

 悲しみの親久であったが、気を取り直し、師の没後も松坂に留まり、春庭に入門、歌会などに参加する傍ら、師春庭の語学研究を助けた。春庭宛大平書簡(文政9年10月20日付)に
 「八ちまたを御こしらへの時に大友永太なとにぬきがゝせ被成候古歌の反古(ほうぐ)あらは私へ御めくみ可被下候」
 とある。今で言う「用例カード」を作成し、『詞のやちまた』執筆に協力したのだ。

 だが、その完成を見ることなく、文化元年(1804)12月20日、松坂にて客死。9月頃から病に臥せっていたという。葬儀は宣長の菩提寺・樹敬寺で執り行われた。記録には「大友久磐處士」とある。葬儀の請け人は「茂兵ヱ、河原町」で、田中茂兵衛とされる。身元引受人の地主惣右衛門から葬儀が鄭重に執り行われたこと、墓石を作ったことが郷里に報じられた。墓石はやがて無縁となったのであろう、今は確認することが出来ない。親久の逝去や葬儀については、秋田大学の金児紘征さんの丹念な調査で、2006年秋に判明した。享年不詳。一説に、安永年間の生まれと言うから、30代後半くらいであったか。

 出羽国平鹿郡波宇志別神社祠官。本姓藤原。通称栄太、永太、八十尋。名久磐。羽後秋田藩儒中山菁莪に師事。松坂を訪い入門。宣長の葬儀記録『大平翁御手記の写』の筆写でも知られる。春庭等の追悼歌が残る。文化3年4月28日、甥の大友直枝が大平に入門する。直枝は、蒲生君平の弟子でもある。


 【参考文献】
 「二つの国学関係資料」新野直吉『神道史研究』5巻3号。
 「館蔵大友親久関係資料」木下泰典『須受能屋』3号。
 『近世秋田の学問と文化 和学編』渡部綱次郎(平成11年9月25日刊)
 「大友親久の墓所発見 松阪で客死した本居宣長門人」金児紘征
                 (「秋田さきがけ」2006年9月7日)


                                         (C)本居宣長記念館   

『大祓詞後釈』(おおばらえのことばごしゃく)

 「大祓詞」は、今も毎年6月と12月に宮中や各神社で行われている「大祓」の時に宣読される詞。宣読者が中臣氏だったので「中臣祓」とも、また「六月晦大祓」(ミナヅキノツゴモリノオオハラエ)とも言うが、12月の大祓でも読まれる。「出雲国造神賀詞」と同じく『延喜式』巻8に載る。

 なぜそんなものを研究するのか。それは「祝詞・宣命の研究の目的」でも書いたように、言葉を知る基本文献であるからだ。宣長は「神に申し上げる詞だから、詞は正しく、後世の音便も含めず、清濁もきちんとしている」と言う。また、この詞が、古代人の罪や穢れといった、精神生活を知るための基本文献であり、そして「此祝詞は、あるが中にたふとく、古くめでたき文にしあれば」と文学的にも優れているからだ。

 内容は、朝廷に近い聖なる河原に集まった親王、諸王、諸臣、百官の官人たちを前に、その庭が高天原と等しいことが宣言され、新年から半年の間に積もっり積もった国中の罪汚れを祓い流し、それを「瀬織津比売」(セオリツヒメ)が大海へと運び、海の「速開都比メ(口偏に羊)」(ハヤアキツヒメ)が呑み込んでしまい、それを「気吹戸主」(イブキトヌシ)が霧にして根の国、底の国に撒いてしまう。それを根の国、底の国にいる「速佐須良比売」(ハヤサスラヒメ)が持って歩き全てを消してしまうと言うダイナミックな内容だ。詩人の高橋睦郎は「かつてこの国に生まれた最も堂堂とした、最も美しい詩文のひとつとおもわれる」と言う。

 注釈の形態は、『出雲国造神賀詞後釈』と同じく、師・真淵説を「考云」、自説を「後釈」として載せる。
 寛政7年3月30日起稿。5月15日初稿書き終わる。この日、村田春海宛書簡に「祝詞全釈は無理だ」と書き送る。同19日再稿着手。7月15日再稿終わる。同21日版下書き始める。9月30日上巻版下66丁を書肆・柏屋に渡す。10月18日版下書き終わる。同24日下巻版下60丁を柏屋に渡す。寛政8年4月6日版本出来、届く。
  

                                         (C)本居宣長記念館   

大平一族の墓

 和歌山に移り住んだ本居家の菩提寺は、臨済宗妙心寺派吹上寺(和歌山市男野芝丁)である。寺の辺りは、江戸の昔は「眺望真妙」「松樹鬱蒼」の地で、炎暑の折には涼風を求めてやってくる人を「羲皇上人」(泰平の逸民)となった気持ちにさせると書かれている。
 この寺が菩提寺に選ばれた経緯は不明だが、逆縁となった長男・本居建正等の墓や、遙拝石があるところから、早くから決められていたことが知れる。
 大平の臨終と葬儀について書いた「藤垣内翁終焉の記」には、
「湊といへる所の吹上寺といふにをさむ、禅林寺といへる大寺の和尚引導といふことす」
とある。禅林寺は鷹匠町にある。禅宗なのであまり抹香臭い葬儀ではなかったという。
 大平の墓の様子について同書は、
「奥都伎所はいと高き所にて、西さまに海辺いとよく見えてひろくよき所なり・・石ふみの文字は、なには(浪華)なる長田鶴夫にあとらへてかかす、長三尺五寸の石に本居大平奥都伎と七文字彫たり、台の石一重高さ一尺五寸ばかり、此下は地の上より二尺ばかり高く石にてつみて、ひろさ七尺に八尺あまり也、うしろのかたに小山をつき芝生になして、前にかの石を立つ。こは山室なるおほぢ翁の奥都伎所のさまにすべてをならひうつせるなり。さてめぐりに方なる木の垣をめぐらしてかたへに大なる年ふるき松一もとあり」
と叙述する。
 だが、景観は戦災で一変した。

 今、残る本居家の墓は八基。大平(1756~1833・78歳)、その子建正(1788~1819・32歳)、清島(1789~1821・33歳)、大平三人目の妻つてこ(?~1842)、娘藤子(1804~58・55歳)、永平(1819~42・24歳)、藤子の夫内遠(1792~1855・64歳)、その子豊穎の妻雪子。また、墓の間には、「先祖親族墓遙拝所」と刻された自然石がある。ここから父祖の地松坂を遥拝した。位置関係は、「本居大平奥都伎」の左が「本居兵衛平建正之墓」、右が「本居永平之墓」、その隣が遙拝石。大平の墓を右手に見た並びは、右が「本居内遠之墓」、左はその妻藤子の「布地子墓」。左手に見た並びは左から「都弖子墓」、「本居豊穎妻雪子霊」、「本居清島之墓」。

 また、吹上寺には、須賀直入の墓がある。墓石には「伊勢、十葵薗主人、須賀直入墓、紀藩侍医兼和蘭訳学、伊勢、武部子藝甫墓、享年六十一」とある。   
 直入については、宣長の『授業門人姓名録』一本に門人として名前が挙がり、また青柳種信宛大友直枝書簡に
 「須賀直入と申ハ、本居氏江長ク同居之人ニ御座候」
と書かれていて、本居家、また宣長とも密接な関わりがあった人物である。もと武部氏であったとも、文化4年頃から須賀姓を名乗ったともいうが、未だに謎に包まれたことも多い。但し、昨今研究も進展している。

  明治維新を迎え、和歌山本居家は東京に出、以後の墓所は谷中霊園となった。大正天皇の皇太子時代の侍講「本居豊穎之墓」と妻「本居鎮子墓」、以後の子孫を葬る「本居家之墓」で、高名な作曲家長世(豊穎孫)、詩人菱山修三(長世三女・若葉夫)もここに眠る。                                  
                         吹上寺「本居大平奥都伎」
                           吹上寺大平等墓
                        吹上寺「先祖親族墓遙拝所」
                           吹上寺内遠等墓
                          吹上寺都弖子墓等
                         吹上寺本居家墓所俯瞰
                        吹上寺須賀直入、武部藝甫墓


                                         (C)本居宣長記念館   

大平の気持ち

 感涙にむせぶ宣長、だが、同行する者は呑気なものだ。

 「子守の御社にまうで、とかくするほどに日もくれぬ」(『餌袋日記』)

 子守の社に詣でているうちに日が暮れた(早く旅館に行きたいなあ)。
これは稲懸茂穂、後の大平の感想だ。この時は先生が一人で感動している位に見ていたが、27年後に再び師と参詣した時、気分は一新している。

 「むかし此山の花見に物したりしは明和九年にてことしまでは廿八年になむなりにけるそのをりしれるさと人も有まじけれどあやしうこと所にはかはりてむつましう覚ゆるまゝに、

  朝夕に面影さらすなりぬればげにふる里の心地こそすれ

水分の御社にまうづ、さきのたび師のよまれける歌をおもひいでゝ

  手向けせしその神垣の言の葉をけふ又神も思ひいづらん
  神の道おなじながれをくむわれもあふがざらめや水分の山

 此神の御恵によりてうまれ出給へる翁の君にしたがひてかくおのれもまたまうで来たることのいとうれしうすゞろになみださへとゞめがたくなん此翁ことし七十の齢にてかくまうでられたることをよろこびて

  のぼりこし君が齢ひをよし野山猶みね高く神ぞ守らん
  春毎の初花よりもまれにとふ君をぞ神もめづらしと見ん」
                        (『己未紀行』)

                                         (C)本居宣長記念館   

大平、養子となる

 寛政11年(1799)2月、稲懸大平(44歳)を養子とする許可が藩から下りた。
 願い出る宣長はこのように言っている。

 「私弟子大平と申者、松坂出生町人ニ而御座候所、実体成者ニ而、幼年より学問執心ニ罷在、格別心懸宜出精仕、和学歌学共段々上達仕候、私義不被召出已然より厄介同様ニ仕、取立遣候処、昼夜随身仕、他出等之節も暫も不離附添居候而、此度之出府ニも召連罷越候候事ニ御座候、私義段々年罷寄候ニ付、此上猶以介抱致貰ひ申度御座候、右之通幼年より倅同前ニ仕、不便を加、年久敷随身仕候恩義も厚ク御座候付、厄介ニ仕遣度御座候間、格別之御慈悲を以私厄介ニ被仰付被下候様仕度奉願候、以上」

 私の弟子大平は松坂の町家の生まれですが、真面目で、幼年の頃から学問に熱心で、人並以上によい心掛けで、努力し、和学も歌学びも段々上達してきた。私も紀州藩に召し抱えられる前からこの大平を、家族の一員のようにして目をかけてきたが、それに答えて、大平も昼夜私の傍にいて、余所に行く時も少しの間も離れず、今回の和歌山行きでも同行してもらった。私も年を取り、これからは面倒も見てもらいたいと思っているが、このように子どもの時から息子同前に扱い、大平には不便な思いをさせて、長く仕えてくれた恩義もあるので、厄介として家に入れたいと思います。格別の慈悲で許可をお願い致します、と言う文面だ。

  同年2月29日付、土屋安足差出宣長宛書簡で、大平を宣長の厄介とする許可が下りたことが報じられる。そして「大平生義、町方之戸籍を離、御家族ニ成候事ニ付、諸事右之通御心得御取扱可被成候」と書く。土屋は通称惣五郎、紀州藩奥御祐筆、大御番格である。
 以後、「親類書」への加筆、大平とその妻の寺請状や送手形など手続きが終わったのは3月であった。
 3月1日、本居家で内祝いが行われた(同日春村宛宣長書簡)。これは大平入家に伴うものであったと思われる。
 3月15日、長瀬真幸宛書簡に、大平が「此度拙者家族ニ相成」と報告される。
 寛政12年正月3日、宣長は机を大平に譲る。事実上の学統継承である。


 
                                         (C)本居宣長記念館   

大峰山参り

 松坂近郊には、今も「サンジョマイリ」と呼ばれる、大峰山山上ヶ岳に行く風習が残っている。「御嶽詣で」だ。成人前の男が、山伏の格好の先達に連れられ、女人結界の山に登り、崖から落とされそうになり、「親に孝行するか」と怒鳴られる。一種の通過儀礼、大人になるための儀式だ。
 これは、「十三参り」と言って、全国的に見られる行事だ。福島県耶麻郡では13歳の3月13日、柳津の虚空蔵にお参りする。京都近郊では嵯峨法輪寺に行く。13歳の宣長が吉野水分神社に行ったのもこの「サンジョマイリ」を兼ねてであった。
 父は、男の子が生まれたら13になれば大峰山に行く。その時に自分も同行して吉野水分神社にお礼を申し上げようと考えたに違いない。吉野水分神社は大峰山の入り口だ。
 その父、早くに逝き、残された母は、亡夫の宿願をかなえようと、手代を2人も付けて息子を吉野に旅立たせた。

 この旅については、『家のむかし物語』が一番詳しい。

「恵勝大姉(母・勝)、道樹君(父・定利)の、かの願たておき給ひしことをおぼして、七月に吉野の水分の神社にまうでしめ給ふ、此里に御嶽まうでする人々あるに、たぐひてなりけり、われいまだいときなかりければ、うひ旅をうしろめたくおぼして、ふる手代なる茂八といふ者と、宗兵衛とて年久しくつかふ従者と、二人をそへて、出たゝせ給ふ、かの社にまうでて、かへり申シして、たぐへる人々とともに、御たけにもまうでて、事なくかへりぬれば、恵勝大姉涙おとしてぞよろこび給ひける、道樹君の御事、いかがおぼし出けむ」

 後年の旅の記録を併せ考えるに、和歌山街道を行くならば14日は七日市泊、15日に高見峠を越えて大和国に入り鷲家の辺で泊る。16日吉野着。また長谷街道を行くならば、14日は伊勢地泊。15日大和国に入り多武峰辺りで泊る。16日吉野着。以下は、『日記』の通りだ。16日夜から17日に、吉野から吉野水分神社を通り金峯山寺を経て大峰山に行く。山上ヶ岳には夜中に着いたか。17日の朝から、例の崖で宣長も山伏に怒鳴られ冷や汗をかいたことであろう。午後には洞川という村まで降りて泊まったか。18日には高野山に行く。これも今も山上参りのセットで行くコースだ。19日には参詣を済ませた後、一気に山を下り、五条辺りまで来る。帰りは長谷街道、あるいは途中榛原から伊勢本街道をとったかも知れない。

 書くと簡単だが、後年の菅笠の旅に比べてもかなり厳しい日程である。
 帰ると母は涙を流して喜んだ。ところが、肝心の宣長には、お礼参りの意識は余りなかったようだ。 『日記』には、

    「同二季【壬戌】七月参詣大峰山上也」

 と実にあっさりと書いてある。
  もう一つの「万覚」と呼ぶ『日記』には、

   「○寛保二年七月十四日ヨリ廿二日マデ、吉野ヘ参【十六日夜ヨリ十七日参○十九日高野ヘ参○廿日長谷寺ヘマヒル】」

 と少し詳しく書かれるが、やはりどこにも「吉野水分神社」にお参りするなど出てこない。
   これが後年逆転する。


 
 
                                         (C)本居宣長記念館   

大矢重門(おおや・しげかど)

 寛政8年(1796)秋頃没。享年40歳位か。美濃国大垣俵町の野口屋5代目、河地十兵衛の次子。同所、材木商大矢藤助の養子となる。通称仁左衛門。最初、重角、後に重門。天明6年(1786)入門。山鹿の帆足長秋と同期だ。三重丸が付くから優等生だったのだろう。「出精厚志」としても名前が上がる。寛政2年1月下旬、松坂に来訪し講釈を聴く。この時宣長から与えられたのが「新古今集の抄」。やがて『新古今集美濃の家づと』となる本だ。

 学問だけでなく、歌も上手だった。
「これについては、同門の友人、加藤磯足の証言がある。磯足はかれの歌集『磯の寄藻』の中で、「花の歌あまた詠みけるに、大矢重門が詠み口に及び難きことを嘆きて」と書いている。私見では、磯足は鈴屋門約五百人の中でも有数の歌詠みだと思うのであるが、そのかれがカブトを脱いでいるのである。
 なお、磯足は、「大矢重門家集」に序(「寛政七とせといふ年の文月」)を寄せており、その文も知られているが、当の「家集」の存否は定かでない」
               『東海の先賢群像』岩田隆著、桜楓社。
 
 さみしい話がある。大矢重門が亡くなった後にその蔵書はすぐに処分されたそうだ。

 「大垣大矢重門死去後右所持ノ書類うり払申候由只今残りノ分別紙四品書付来り申候、大本廿一代集ハ書入よき本ニ御座候。貴家ノト御うり替ニても被遊間敷哉。併七両一分ハ高直ナ物と奉存候。御思案可被遊候。早々御返事御申こし可被下候。外ノ品々も御入用御座候ハヾ御申こし可被下候」寛政9年11月19日稲懸大平差出篠原秋風宛書簡(高橋コレクション)

  没後2年目である。やはり家業の障りとなったと思われていたのだろうか。 

                                         (C)本居宣長記念館   

オーロラを見た宣長

 明和7年(1770)7月28日夜、宣長は不思議なものを見た。
 当日の『日記』には、
  
「廿八日、今夜北方有赤気、始四時頃如見甚遠方火事、
 其後九時頃至而、赤気甚大高而、
 其中多有白筋立登、其筋或消或現、
 其赤気漸広而、後及東西上及半天、至八時頃消矣、
 右之変諸国一同之由後日聞」(宣長全集16-318)  とある。  

今夜、北の空が赤くなっていた。10時頃は遠くの火事のように見えたが、
深夜零時には赤みがものすごく大きくなり
その中に白い筋が立ち上り、現れたり消えたり、
やがて赤気は広がり、後には東から西の半分まで覆い尽くした。
午前2時頃、消えていった・・・・
変事は各地で見えたそうだ

 この変異は宣長も言うように全国的なもので、
江戸のことを記した『武江年表』には、
「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」とあり、
『想山著聞奇集』によれば長崎でも見えた。
 また、神田茂『日本天文気象史料』によれば京都でも見えたそうで図が載る。
現在ではオーロラではないかとされている。
(「気候からみた江戸時代」西岡秀雄『図説日本文化の歴史』第9巻月報所載)。

昔の人はよく空を見ていた。
宣長さんも熱心に見ている。
こんな不思議を目の当たりにして、
宣長さんは、世の中は不思議が多いと思ったのだろうか。
でも諸国の情報も集めている。
このほかに、怪異星も見たし、また名月八月十五夜の月食も体験した。
『天文図説』は自分知識の限界まで考えた一つの成果だ。
知を信じる人は、知の限界を知る人でもあった。

皆さんも、夕涼みをかねて夜空を眺めてみませんか。
何か、見えるかもしれませんよ。
               「『星解』に載った明和7年7月のオーロラ」【松阪市郷土資料室蔵】


                                          (C)本居宣長記念館   

おかげ参り

明和8年のおかげ参りの様子を 『おかげまうての日記』 稲懸(本居)大平から少し引いてみよう。

まず、おかげ参りの始まり。例年に比べると参宮客が少ないな、などと噂していたら、 洪水と同じだ。最初はひたひたと水がつくように兆しが現れ、あっという間に人の渦に松坂は巻き込まれてしまう。
むかし見た、という人がいた。
60年というのは、当時の人にとっては記憶の限界でもある。

「ことし明和八年辛卯春のころは例よりすくなく見ゆなどいひたるほどに、四月の七日ころより、にはかに山城国・丹後国などより、にぎはゝしく、ここらともなひいでゝ、いくむれともなく、詣でくるも怪しくなん。かくていと怪しと思ふに、日毎に見えまさりて。昨日よりは今日といや増しに増さりもてゆく。さるはその人ごとに、おかげてさぬけたとさ、といふことをなん、道行く足の拍子にいひつつ行くを、七十、八十になれる老人の聞きて、昔もかく多く詣できけるを、おかげまゐりといひて、その折もかくこそといひつゝ物(詣)せしか、この度のさま専らその折の様なりなど言ふ・・・」

参宮客の持つのぼりも、その風俗がだんだん乱れてくる。
物恥ずかしい若い女性までが・・
16歳の大平の筆もさえる。

「初めの程は、伊勢詣で何人連れなど書き、国所など麗しく記したりけるを、後には打ち戯れゆきて、さまざまの絵様などを、かきたるなん、多く混じり来ぬる。さるはいと浅ましく、あらぬものの形などを描きたり。さるは烏滸がましくて、顕はには、えこそまねばね。ただ思ひやるべし。又、幟の絵のみにもあらず、物の形をことさらにも造り出て、杖の先などにさして、口々に、大口とていみじきことどもを言ひ囃しつつ、或は手打ちならしなどもして、浮き立ちて、若き男はさらにも言はず、老人老女、また物恥しつべき若き女まで、よろづうち忘れて、物苦ほしく、かたはらいたく、世にうちし心とも見えず、万に戯れつゝ、行き交う様よ、あさましなど言ふも愚かなり・・・」

仲間からはぐれたら大変だ。幟だけでは危ないぞとひもを持っていく人たち。子供の電車ごっこと同じだ。
 これでは町の人は、道を横断することもできないね。

「さてまた人数多く伴ひたるなどは、かの幟を捧げ持たるが先に立ちて、長き縄を引はへゆけば、それにも取り付きつつ、己が一むれ迷はじと心してゆくも有り・・・」

子育てがある女性は、実は「旅」から一番遠い存在だが、
 おかげ参りの時ばかりはと、子連れでやってくる。

「かうをさなき子どもを具したるが多く見ゆるは、例は大方旅路煩はしとて、留めおきても物し、又多くは、それにさはりて、え物せぬならひなるを、此度ばかりはともかくも思ひたどらずて、ともなひ立出くるなるべし・・・」

この後、迷子で一騒動も起きるのだが、それは原本をご覧ください。

 夜も人通りは絶えない。うるさくて眠れない。
 いくら人が多いといっても、現在のおかげ横町は夜は静かなはずだが・・

「夜中といへど旅人の行き交ひたゆる間もなし。伏し居て聞けば、いも寝られずなん・・・」

急な用事で向かいの家に行こうと思っても、先の電車ごっこやら狂乱の渦で、思いとどまらざるを得ない。
 町の生活も大混乱。

「とみの事などありて、向かひなる家に、あからさまに物せんとするにも、今ぞ少し行き来のたゆめるほどよとためらひて、その程を伺ひて、横様に押し分けつゝ、からうじて向ひの家に行いたるなど、いといといみじき事になんありける・・・」

今年は、県もまた近隣市町村も遷宮で一儲けをねらっているが、昔も変わらない。
お酒に、なんといっても伊勢路はお餅。今と違うのはわらじなどに使う藁(わら)の不足である。
松坂の豊かな商家だけでない、道中各所では、無料でわらじや食い物、路銀を渡す「施行(せぎょう)」が行われる一方で、 金儲けを考える人もいる。
あまりにも目に余ると役人に叱られる者もいたそうだ。

「此の伊勢詣での道の程、宿々所々の茶屋、旅籠など言ひて、物売り、人宿しなどする家々には、蓄へ置きて売る物どもゝ、今は尽きなんなと言ふめる。中にも酒、餅ひなど言ふも更なり。其の外も全て旅人に売る物つくる家々には、例よりも人雇ひ加へ、長き日に夜をさへかけていかで多くと急ぎ作れど、限り有りて、さしもえつくりあへずなん。中にも藁うづは、いづこもいづこも残り無く売り果てて、近き渡りに今は一つも無きよしなど言ひあへば、まれまれなほ蓄へたる者は、物の哀れも知らぬ商人心に、いとかしこき事と思いひて、こよなう高くなん売るめる・・・」

続きは、『おかげまうでの日記』でご覧ください。
この本は『松阪市史』第9巻地誌2 などで読むことができます。
 
                         「おかげ参りの図」(部分)
                                          (C)本居宣長記念館   

岡田頼母(おかだ・たのも)

 岡田頼母は、宣長門人の中で恐らく唯一人であろうと思われるが、切腹した人である。
 頼母(1763~1836)は浜田藩家老。3,000石。本姓源。諱元善(モトヨシ)。字長卿、号秋斎。通称権平次。天明3年(1783)、21歳で宣長門人となった。寛政7年には妻・鍵子も入門する。因みに、浜田市に現在も頼母と夫婦合作の作品を遺す「玉春」は後妻。一旦は隠居するが、後、息子の早世で現職に戻り、天保の密貿易事件(竹島事件)により自刃する。享年74歳。
 長安院は5代松平康員(ヤスカズ)が宝永6年(1709)松平家菩提寺として開いた浄土宗の寺院で蛭子町にあった。松平家転封に伴い寺も移り、今は墓所だけが残る。この墓所も昭和58年7月23日、昭和63年7月15日、二度の洪水で被害を被ったが現在は修復されている。
                         
              「長安院」松平家の墓。
               奥、向かって左端が康定。手前右端が家老岡田頼母の墓。
               近くに康定妻の墓もある。碑面に嶺暁院殿祐誉愍念性貞大姉霊位と刻す。


                                          (C)本居宣長記念館   

岡寺山継松寺

 ここでも宣長とは別 のグループによる『源氏物語』講釈や漢籍の講釈も開かれていた。天寿、また大雅ゆかりの寺。初午で有名。
                            岡寺初午風景

                                           (C)本居宣長記念館   

岡山

 吉備国の吉備津神社には高弟の藤井高尚がいた。またここは上田秋成『雨月物語』の一編「吉備津の釜」の舞台でもある。

 岡山船著町の海産物問屋・河本(こうもと)忠五郎公輔は、河本立軒の息子で、寛政7年(1795)4月3日松坂に来訪、享和元年4月17日、上京中の宣長に対面する。「備前岡山忠五郎事、今ハ京住ノヨシ、河本文太郎入来」(『享和元年上京日記』)。また賀茂末鷹、本居大平にも学んだ。

 父の立軒は、学問は陽明学や国学に及び、古物や蔵書の収集で知られた。現在所在の分かるものでは、『餓鬼草紙』(国宝・東博本)、天文版『論語』、宋版『春秋左史伝』など。文庫を「経誼堂書院」といい、蔵印は「備前河本氏蔵書記」。松平定信の『集古十種』にも蔵品の提供をしているが、寛政異学の禁で文庫の閉鎖などの弾圧をうけた。

 その河本家と親交のあった浦上玉堂が、松坂の宣長を訪ねたのは、河本忠五郎公輔が来訪する半年前の、寛政6年(1794)9月であった。


                                           (C)本居宣長記念館   

隠岐

                        「大日本天下四海画図」部分 
                                           (C)本居宣長記念館   

荻生徂徠(おぎゅう・そらい)

 寛文6年(1666)2月16日~享保13年(1728)1月19日。江戸中期の儒学者。名は双松(ナベマツ)。通称は惣右衛門。字は茂卿(シゲノリ)。物徂徠とも言う。父は徳川綱吉の侍医。故あって独学で儒学を修め、後に柳沢吉保に出仕。吉保失脚後は藩邸を出て学問に専念する。朱子学や伊藤仁斎の学を批判し、四書五経の正確な読解のための古代語重視の立場に立つ古文辞学を大成する。学問の特色は、道徳よりもむしろ客観的な秩序を重視する政治論に重きを置く。道とは古代聖人がうち立てた礼楽刑政にあるとする。また詩文を人間性の表現として道徳から解放した。弟子に太宰春台、服部南郭等がいて、政治論だけでなく幅広い影響を及ぼした。
 宣長の先生、堀景山は朱子学者だが、徂徠学にも関心を持ち、質問状を送ったことがある。その影響もあり、京都時代には、著作の書き抜きを行っている。また学問も、徂徠学から方法的にも大きな影響をうけた。

 
                                           (C)本居宣長記念館   

奥墓(おくつき)

 宣長の墓所。松阪市山室町字高峯にある。
 奥墓(オクツキ)とは墓のこと。宣長は『万葉集』4096番歌「於久都奇(オクツキ)」に、「墓ナリ」と書き添える(『寛永版本万葉和歌集』手沢本)。樹敬寺が一族の墓で夫婦合葬であるのに対し、奥墓は個人の墓で宣長はここに埋葬される。

 「本居宣長之奥墓」と自書した墓石は南面、碑の後ろには山桜が植えられる。墓石以外は、明治8年の山室山神社創祀等度々の改変があり当初の姿を想像することは困難。当初の構想は『遺言書』に図解されるが、その後更に手を加え「改正墳墓図」を作成。碑面文字も『遺言書』の「奥津紀」から、碑面下書「奥墓」と文字を改める。

 奥墓の準備の記録上の初見は寛政12年7月、『遺言書』の執筆に始まる。秋某日、宣長より大平に山室へ墓地の下見に行く相談があったが、大平は吉事でもなく古意に背くと疑義を申し立てた。9月16日夜、講釈終了後、宣長より門弟に明朝5つ(午前7時頃)に下見に出発する旨告げられる。翌17日、12、3人を従え妙楽寺を訪ね、山内に自らの墓所を定める。予定地は「山室山奥墓図」に略図で示す。当日の詠として「山室行詠草」15首が残る。10月4日、土地代1分支払う(『諸用帳』)。寺との交渉は門人三井高蔭が仲介し、譲渡面積の拡張と場所の変更が決定される。10月付本居中衛宛譲り渡し状一札が届けられる。11月17日、住職法誉宛書簡執筆し、礼を述べ和歌山行きのため参上できないことを謝罪。同20日、石屋喜兵衛に石碑代として金1両2分を払う(『諸用帳』)。同日、和歌山に出立し、造営は高蔭が監督した(『夏衣』)。
 翌享和元年3月、和歌山から帰宅後、花見を兼ね山室山に行き植えた桜の花に満足する。また「山室に千年の春のやとしめて風にしられぬ花をこそ見め」はこの頃の心境を詠んだ歌であろう。
 9月29日宣長死去。10月1日夜、この奥墓に埋葬された。『山室の図』の春庭賛(美濃書)によれば、日によっては富士山を眺望することも出来たという。脇には平田篤胤、下がった所に植松有信の歌碑がある。

 【参考】吉田悦之「山室山奥墓再見」(『須受能屋』10号)。

起(おこし)

 美濃路起宿。ここにある本陣11代主人が、門人・加藤磯足である。宣長もここに一宿した。つまり、宣長さんも本陣に泊まったのだ。磯足は最初、田中道麿門人。師の没後、宣長門人となった。
 起字堤町にある神明社境内には宣長の歌碑がある。
歌は、

「旅衣 きその川辺に 宿りして すずしき瀬々の 月をみるかな 宣長」

  寛政5年、京都から名古屋に行く途中、磯足の家に泊まり、そこで詠んだ歌である。『結び捨てたる枕の草葉』に出る。



                                           (C)本居宣長記念館  

お米と雀

 8月下旬から、三重県でもお米の刈り取りが始まりました。今年の作柄は良だそうです。
ここでは収穫期の話を二つ紹介しましょう。

1,にふなひといふ雀
 宣長は諸国からやってくる人の話を注意深く聞き、時にはそれを古典研究にも活かしました。以下に紹介するのは、愛知県からやってきた人の語った「雀」の話。古典によく出てくる「稲負鳥」との関わりもあり、宣長は興味深く感じたようです。

「尾張国人のいはく、尾張美濃などに、秋のころ、田面へ、廿三十ばかりづゝ、いくむれもむれ来つゝ、稲をはむ、にふなひといふ小鳥あり、すずめの一くさにて、よのつねの雀よりは、すこしちひさくて、嘴の下に、いさゝか白き毛あり、百姓はこれをいたくにくみて、又にふなひめが来つるはとて、見つくれば、おひやる也、此すずめ、春秋のほどは、あし原に在て、よしはらすずめともいふといへり、のりながこれを聞て思ふに、入内雀といふ名、実方中将のふる事いへる、中昔の書に見えたり、されどそれは附会説にて、にふなひは、新嘗といふことなるべし、新稲を、人より先に、まづはむをもて、しか名づけたるなるべし、万葉の東歌にも、新嘗をにふなみといへり、又おもふに、稲負鳥(イナオホセドリ)といふも、もし此にふなひの事にはあらざるにや、古き歌どもによめる、いなおほせ鳥ののやう、よくこれにかなひて聞ゆること多し、雀はかしがましく鳴く物也、庭たたきは、かなへりとも聞えず」『玉勝間』巻3

2,お米と宣長
 宣長には食物に対する信仰とも言える感謝の念がありました。『玉鉾百首』に。
  たなつもの百の木草も天照す日の大神の恵みえてこそ
  朝宵に物くふごとに豊受の神の恵みを思へ世の人
の歌がそれをよく表しています。宣長が日本を考えるときに、「稲」は一つの鍵となるものでした。『古事記伝』に、「稲は殊に、今に至るまで万の国にすぐれて美(メデタ)きは、神代より深き所由あることぞ、今の世諸人、かゝるめでたき御国に生れて、かゝるめでたき稲穂を、朝暮に賜(タ)ばりながら、皇神の恩頼をば思ひ奉らで」とあります。『玉くしげ』でも同じ意見が繰り返され、これが、『伊勢二宮さき竹弁』のおける外宮論の基調となっていきます。

 米は、宣長の生きた社会の基盤でもありました。米価の安定が世情の安定につながったのです。『日記』宝暦12年以降、寛政11年まで、各年末には米価が記されるのもそのためです。

                                           (C)本居宣長記念館  

お酒

 京都遊学時代の母からの手紙の一節に、大酒は「何れ身のがひ(害)」をなすもので、「さかづきに三つよりうへたべ申されまじく」と戒め、「遠方ながら母見てゐ申」とあるのが有名で、宣長が酒好きだと思われているが、残念ながら、その推測を裏付ける根拠がない。
 
 なるほど、京都遊学時代の宣長はよく祇園や二軒茶屋あたりに出かけている。酒を飲む機会は多かった。だからといって、大酒のみであったともいえない。もちろん嫌いではなかったろうが、それ以上に、雰囲気というか、そのような交友が好きではないか。

 松坂に帰ってからも、歌会や講釈の節目には一献出したことが、講釈の回章や日記から窺える。

 宣長さん酒飲み説を疑うのは、地元や各地の門人からの到来物を見ても酒が無いからだ。あるのは金平糖や羊羹など甘いものか、鯛など菜となるもので、あってもせいぜい長命酒や梅酒くらいである。先生は梅酒は好きだったとは岡山正興の証言である。
                           「本居家の盃」    


                                           (C)本居宣長記念館  

小篠敏(おざさ・みぬ)

 宣長の高弟・小篠敏は、藩主の命を受けて、何度か松坂を訪ねている。
 天明4年(1784)4月9日に来訪、数ヶ月滞在。翌5年7月18日付荒木田久老差出栗田土満宛書簡に「石見小篠氏去夏松坂逗留に而拙方へも度々被相尋候。追々国学行れ候勢に而御互に大慶仕候」とある(『荒木田久老歌文集並伝記』P431)。『漢字三音考』序(「天明四年甲辰五月石見浜藩文学小篠敏謹序」)を書いたのもこの来坂時であろうか。
 天明6年にも来訪し、数ヶ月滞在後、8月頃帰国した。
 また、寛政7年春から松坂に滞在し、宣長の講釈を聴講。翌8年4月、復命のため江戸藩邸に赴く。この時、宣長が贈った長歌が『鈴屋集』巻5に載る。帰国の時にも松坂に寄り、「小篠御野が石見国に帰るに」と言う歌が『自撰歌』寛政8年条に載る。また藩主が資金助力をする『源氏物語玉の小櫛』刊行に際しては仲介役を果たした。また自身、長崎に赴いたときにオランダ人と会い、その報告を宣長に送っている。

 墓は、島根県浜田市真光町の観音寺にある。正面に「東海篠先生之墓」、背に事績を記す。碑文は大泉屈正筆。
「東海篠先生之墓、浜田之儒臣轡龍歿。歿之二年澱藩大夫惟恵、以其状来泣曰、轡龍逝矣、我与足下善、今為其子者、請使足下銘其墓曰先人之治命也、異日所藉二君以報先人地下者也、余聞悲其意不敢辞按状、君諱敏、轡龍其号也、先世三州人。国初称巖瀬某者也、孫子漸微。業農圃。至考玄統君、釈褐西尾侯。正保甲申致仕、老于浜松、娶内田氏生三子。君其仲也、君少小玉質頴悟、家貧好書考死其遺著又薄、或謂、君遺箸薄是不可当数歳力耶読書窘寧学国老焉。君徐対曰吾聞学也禄米在其中何耕而餒為哉。独負笈挟其遺箸従西京之山道作、遊走伏見謁稲大進学瘍医、共入其室。宝暦壬申四月小篠氏以義定所食十口仕浜田侯。君奉職不懈。最以読書六年丙子侯賞之以十口。以所初食共為二十口数役江都入観海先生門、問道与諸名家交遊、帰藩与賢大夫士謀初創営学官。巖倒篠教不数年豪傑鬱記。至寛政辛亥賜百石為儒臣五年。癸丑袖簪義子名記高士綱一字行蔵襲其禄。君娶柳氏生三男長者献字彦可冒二宮氏居江都名于善医。次名知是冒犬飼氏以武弁仕本藩季為威美嗣小野寺氏仕津和野侯。君博覧多聞、素健少疾。晩而食履聴夜不衰口以吃好弁交朋友必信燕会郷慾善蔵誰人不厭之蓋天性也。其学自経史至医卜和歌之書。旦夕業之尤精於易、作周易蠡測為蔵于家。或請侯行勢南従本居氏講究国学奥秘而帰。至藝州則為士大夫説易士大夫悦至講周易。初西紫海之長崎己多聞生数至焉。凡自少壮往来東西四十年。所至皆卓然有声。哀哉。享和辛酉十月八日病而歿。生享保戊申得年七十五。知友門生聞訃哭。越十日葬城外観音寺。作銘曰等如而室一丘之深式者雖絮墓者哀呼、文化乙丑夏六月、大泉屈正孝撰、江戸木翹之書」

 碑文は判読が難しく、過去にこの碑に言及した矢富熊一郎著『小篠御野』、中村幸彦「小篠敏伝攷」(「賢愚同袋」)、加藤隆久「本居宣長と小篠御野」の何れにもかなりの異同があり定まらない。仮に句読点を付したがこれも誤りの多いことと思う。
 小篠敏の家系については不明。長男二宮彦可(ゲンカ)は『正骨範』を著し整形外科の基礎を築いた。また、『諸国文通贈答並認物扣 二』享和元年条に「小笹行蔵、大記孫、詠草アリ」とある。観音寺にも同家の墓があるが、誰のものか判然としない。

【参考文献】
『小篠御野』矢富熊一郎著。

      「東海篠先生之墓」浜田市史跡指定。
            「同背面」
          (C)本居宣長記念館  

小沢蘆庵(おざわ・ろあん)

 享保8年(1723)~享和元年(1801)7月11日。享年78歳。
名、玄仲(ハルナカ)。通称、帯刀。号、観荷堂。図南亭。大坂生まれ。冷泉為村に師事するが破門となる。伴蒿蹊、香川景樹と親しく交わる。技巧を廃した「ただこと歌」を提唱した。歌論書『振分髪、歌集『六帖詠草』など。
 蘆庵、宝暦年間には本庄七郎と名乗っていた。

  『在京日記』宝暦7年8月6日条に、未頃より友人山田孟明、清水吉太郎等と高台寺に萩を見に行った。途中、霊山に登り、4人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる、と言う記事がある。

 蘆庵は宣長より7歳上。寛政5年(1793)、宣長が上京したときに対面、唱和する。その時の蘆庵の詞に
  「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」
とある。宣長が京都に遊学した年には既に30であるから「わがはたち余り」はあるいは記憶違いか。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

 小沢蘆庵の歌を宣長が評したことがある(「蘆庵歌宣長評」【新規 雑331,332】)。また、蘆庵には宣長の『玉あられ』を批判した『玉霰難詞』と言う著書がある。

 【参考文献】
 小沢蘆庵画像(成瀬正胤画・小川萍流賛)は、『マールカラー文庫 肉筆浮世絵3奈良県立美術館』に掲載。


 
                                           (C)本居宣長記念館   

押入

 5代目の本居清造翁が、押入の襖にはもと淡彩 の山水を描いていたが破損したため、門人の短冊に張り替えた、と書いている(『校訂古事記伝』巻7)。

 中は上下2段に分れる。何を入れていたかわからないが、恐らく、拝領したものや、本箱、軸類が入っていたのだろう。また『本居宣長随筆』のようなノート、書簡、また大事な鈴なども入っていたはずだ。


                                           (C)本居宣長記念館   

押入の中

 書斎の押入の中には何が入っていたのだろう。恐らく、本箱や軸、また『本居宣長随筆』のようなノート、書簡、また大事な鈴なども入っていたはずだ。

                                           (C)本居宣長記念館   

叔父・小津孫右衛門(おづ・まごえもん)

 元禄10年(1697)~明和5年(1768)4月17日、享年72歳。
 通称源四郎。名は躬充(チカミツ)。父・定利の実弟。兄の元閑が29歳でなくなったので家を継いだ。この元閑の妻がお清、実子が宣長の義兄・宋五郎である。宣長が一年過ごした大伝馬町1丁目の店は、曾祖父三郎右衛門が開いた3店の内の1つで、後年、隠居家孫右衛門に譲り与えられたものである。木綿を商う。宝暦13年(1763)江戸店閉店、明和元年(1764)倒産。

『本居氏系図』
「諱躬充、号松誉貞巌道有大徳、元禄十丁丑年誕生、嗣元閑居士之後、娶栄林法尼生五男一女、享保年中自職人町宅移居本町今宅、【此旧小津七右衛門法名重願之家也、七右衛門者、移干西町一丁目】宝暦十二年壬午五月廿日剃髪、号道有、明和五年戊子四月十七日巳刻卒去、享年七十二歳、同月十九日火葬矢川野」
                   (宣長全集・20-90)。

                                           (C)本居宣長記念館   

おしゃれ

 「個」としての自分を強く意識していたせいか、宣長は自分の好みがはっきりとしていた。
 例えば、装丁や色紙、短冊にまで好みがあった。
 鈴屋衣というオリジナルの着物を着用したこともよく知られている。
  「宣長さんはおしゃれだった」という指摘もあるが、これは「見られる自分」という意識と共に、宣長を考える上で、重要な問題だ。


                                           (C)本居宣長記念館   

意須比(おすひ)

 「意須比」は飯高に係る枕詞。
 『古事記伝』巻11に淤須比遠母は意須比と通うとして、
 「倭姫命世記に、意須比飯高国とあるは、食器に物を盛を、余曽布とも意曽布とも云、その言にて、意曽比たる飯高しと云意の、枕詞なれば、此とは異なり、されど事の意は、本は一ツにおつめり、此ノ意須比を儀式帳には、忍とあるは、比ノ字の後に脱たるなるべし、強てよまば、忍ノ一字をもオスヒと訓べし」
と記す。


                                           (C)本居宣長記念館   

おちょぼ口ですね

 この像について、「素人としてはよく描けてゐるが、口のあたりに不自然の感を拭えない」(「松笠拾ひ・六」安西勝・『比較民俗学会報』8-12)と言う評がある。
 でも、口元の描写には別の見方もある。歯が抜けているからこのようになったので、その後、入れ歯を入れた七十二歳像では不自然さは無くなっていると言うのだ。
  宣長が入れ歯を入れたのは寛政8年4月。歯が抜けたのはいつ頃だろう。寛政初年では、ちょっと早いようにも思える。


                                           (C)本居宣長記念館   

小津(おづ)

 松阪近在では「オウヅ」と読む。姓として扱われるが、本来は屋号。商用文書では「小津屋」と記した物もある。『本居氏系図』に「(道印)居士亦以小津為家号」とあり、二代目道印居士が小津村油屋源右衛門に養われたことに由来する。近世松坂で「小津」を称した家は多くこの油屋、後の角小津清兵衛家を祖とし、『松坂権輿雑集』に「松坂小津党根本也、枝葉繁茂して小津と称する屋、当時町中ニ五十軒余有」と書かれる。宣長における「小津」の使用の下限は『伊勢州飯高郡松坂勝覧』奥書「小津真良」(延享2年3月26日)。その後は、「本居」を使用。但し正式改姓は宝暦2年3月16日である。


                                           (C)本居宣長記念館   

小津勝(おづ・かつ)

 
 母・勝の深い配慮は宣長に大きな影響を与えた。

 宝永2年(1705)4月14日~明和5年(1768)正月1日午の刻。64歳。
 小津定利後妻。松坂新町村田孫兵衛豊商四女。母は西町荒木太左衛門女・お初(光誉忍室元寿法尼、定治後妻のお勘は同母妹。享保13年(24歳)、小津定利と結婚。享保15年5月7日、富之助(宣長)同17年(1732)12月7日、おはん 同20年2月26日。親次、元文5年2月7日、しゅん出産。元文5年、36歳で夫定利が死去、以後4人の子を育てる。

  宣長は、
「すべて此恵勝大姉は、女ながら男にはまさりて、こゝろはかばかしく、さとくて、かゝるすぢの事(引用者注・資産管理)も、いとかしこくぞおはしける・・恵勝大姉のはからひは、かへすかへすも有がたくぞおぼゆる」
と感謝する。
「遠キ慮リ」である。宝暦12年(1762)、宣長が民と結婚後、名を譲り、閏4月、信濃善光寺で剃髪する。


                                           (C)本居宣長記念館   

小津家跡

 本町。宣長生誕地。
 実際生まれたのは新町の村田家かもしれないが、「生誕地」はここを挙げた方がよかろう。宣長も「生国者。伊勢州。飯高郡。松坂。本町矣」と書く。
 参宮街道に面している。承応3年(1654)に道休が小津太兵衛より、魚町の宅地と共に買い取ったもので、寛保元年(1741)5月14日魚町への転居まで、宣長は僅か12年間だが、江戸店持商人小津家の本宅としては88年間に及ぶ。同年9月、義兄・道喜が家を本町・津嶋屋彦市に売却、残った宅地に借家3軒を建てたが、その後、明和8年春、中嶋屋治右衛門、桶屋八右衛門に土地建物を売却した。最近までニシキ古書店があった場所とされている。魚町の宣長宅(もとの隠居屋敷)とは背あわせの場所に位置した。今も旧宅跡の裏庭から背割り排水をはさんで見えるところだ。

【資料】
『日記』「生国者。伊勢州。飯高郡。松坂。本町矣。姓者小津氏矣。小津三四右衛門定利【法名道樹】二男。【実者長男也。長男者養子矣】母者。村田孫兵衛豊商【法名堅誉元固大徳】之娘【法名清誉光雲。俗名於勝】也。享保十五年【庚戌】五月七日夜子之刻【夜之九矣】誕矣。名号冨之助。【同姓八郎治(心誉道林)某所名也】」
『鈴屋・近鉄沿線風物誌、文学2』「宣長が生れたと推定される本町の小津家本宅のあとはいま貸本屋になて、店さきでは子どもがマンガを立ち読みしている・・」(昭和30年6月、足立巻一著)

                                           (C)本居宣長記念館   

小津定利(おづ・さだとし)

 父定利は熱心な仏教徒だった。
 元禄8年(1695)11月~元文5年(1740)閏7月23日。享年46歳。
 隠居家・小津孫右衛門道智の次男。母は寿光大姉。童名、大助。後に弥四郎。享保元年(1716)本家を相続する。通称、三四右衛門。同3年、兄の元閑没しその妻・お清を娶る。同13年5月28日、お清没。村田勝と再婚。子無きを嘆きて吉野水分神社に祈誓する。同15年5月7日、長男・富之助(宣長)誕生。元文5年3月江戸店に行き、同年閏7月23日同地で没す。法号、場誉直観道樹大徳。墓は深川本誓寺。また樹敬寺に分骨する。
「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)
とあり、敬虔な浄土宗信者であったことがうかがえる。恵勝大姉との間に二男二女がある。

 

                                           (C)本居宣長記念館   

小津三郎右衛門(おづ・さぶろうえもん)

 慶長17年(1612)~元禄元年(1688)12月27日。享年77歳。法名・道休大徳。宣長の曾祖父。父は七右衛門道印、母は栄感大師。次男であるが家を継ぎ、小津家三代目当主。また隠居家初代。叔父小津清兵衛の江戸店に勤め、後、独立。正保2年(1645)、大伝馬町1丁目に木綿店を出す。店は3つ。2軒は木綿問屋で、1軒は売場(諸国より送られてきた木綿を町内の木綿問屋に売る店)。手代・三十郎の働きもあり商いは成功し、承応2年(1653)には小津清左衛門の大伝馬町出店の資金援助をするに至る。帰郷後、松谷氏女(樹宝法尼)と結婚。承応3年(1654)12月、松坂町本町と魚町1丁目に宅地を求む。ここが宣長の生地、また生涯を過ごす場所である。実子無く、実弟の子を養子(唱阿)に迎える。また隠居家を興し、清兵衛家の子(道智)と妻の姪(寿光)を迎え家を継がす。仏教に帰依し樹敬寺に十日十夜の祠堂を寄進する。墓は樹敬寺にある。 


 
                                           (C)本居宣長記念館   

小津清左衛門宅

 本町。参宮街道に面し、大橋を渡るとすぐ左。江戸で紙商として今も栄える。床下に万両箱が埋められていたことと、同家の先祖が開業するときに、宣長の曾祖父が融資したのは有名な話。今は「旧小津清左衛門家」として公開されている。
 
                                           (C)本居宣長記念館   

小津清左衛門家と本居家

 「三十郎法名宗心の主家にて大伝馬町一丁目に木綿店を営む小津三郎右衛門道休(松阪本町の人、本居宣長の先祖なり)より金二百両を借用して、大伝馬町の井上仁左衛門の紙店(通り三間、横町二間)を百三十両にて譲受け、三郎右衛門法名道休より其店の印(鱗に久)と小津といふ屋号は繁盛する目出度屋号なりとて許され、始めて小津屋清左衛門と称し、承応二年癸巳年(一六五三)八月九日大伝馬町一丁目に紙店を開業す、斯くて家城多兵衛を手代とし、弟長兵衛七郎右衛門を呼寄せ共に力を合せて経営せしかば、日に月に隆昌に赴き幾くもなく借用の二百両の外に一百両の礼金を添へて三郎右衛門法名道休に返済、茲に全く独立して営業することを得、遂に巨富を積み云々」『小津商店由来』(『松阪市史』12-270)

 「実は、この幸運な話がもちあがったとき、長弘は店を買い受ける資金らしい資金はもっていなかった。店の代金は百三十両だった。九年間働いてきたとはいえ、奉公人生活ではそんな大金はとてももてるものではない。困惑する長弘に力を貸してくれる人がいた。同じ松阪出身で平素から親しく、長弘の父の長継からも「長弘のことをよろしく頼む」と常づね依頼されていた小津三重郎で、彼が奔走してくれて、大伝馬町の有力な木綿問屋として知られているやはり松阪出身の小津三郎右衛門道休から二百両の融通をとりつけてくれた。道休も郷里の後輩の独立創業に手を貸してやろうと乗り出してくれたのである。乗り出してくれた三重郎は長弘の弟の孫大夫(後の長生)と妻が姉妹であった。そうした縁で長弘に大きな支援の手を差し伸べてくれたのである。/周囲の好意に囲まれて、清左衛門長弘は江戸大伝馬町一丁目に店を構えた。紙商小津清左衛門の創業である。承応二年(一六五三)八月九日、長弘二十九歳のときであった」(『温故知新-小津三百三十年のあゆみ』P3)

 「小津清左衛門家は、その先祖昌山玄久といふ者、本は森嶋氏也。始めて江戸大伝馬町一町目にて紙店を開く。然りと雖も力弱くして殆ど支え難し。是に於て宗心(小津三十郎・引用者注)の縁を以て【玄久の弟浄久は宗心の手代たりし也。其の妻と宗心の妻兄弟也】道休大徳の助力を願ふ。大徳之を憐れみ、若干金を補入して姑く自分の店と為し、鱗形久の字の識(しるし)を用ひ、小津氏と為給い、玄久に謂ひて曰く、此の店若し栄ふるときは則後汝が店とせん、若栄えずんば我が店と為さん。玄久其の厚意を感ず。其の後店稍栄ふ。是に於て店を以て玄久に返し与へ給ふ。是より彼の運上として毎年金三十両を本家に献ず。道休大徳晩年に至りて亦之を許し給ふ」(原漢文)『本居氏系図』「歴代手代略記」「小津三十郎」条(宣長全集・20-131)
 
                                           (C)本居宣長記念館   

小津久足(おづ・ひさたり)

 文化元年(1804)~安政5年(1858)11月13日。享年55歳。松坂百足町の富商。通称、与右衛門、安吉、与吉、進(新)蔵。号、桂窓。文化14年、春庭に入門。また滝沢馬琴と親しく交わり、蔵書家として創作を側面から支える。文庫を「西荘(セイソウ)文庫」という。百足町のある西ノ庄にちなむ。墓は養泉寺。

 ところで、馬琴との初めての出会いが『馬琴日記』に出てくる。
 
文政11年12月4日、
「いせ松坂人大津新蔵といふ者、殿村佐五平紹介のよしニて来る。依之対面。雑談数刻、此節多務中、殆迷惑、やうやく帰去」

 ちょっとひどいね。小津を松坂では「オーヅ」と発音するので「大津」に誤ったのだろうが、でもこの後、馬琴にとって、資料面からも、また経済面からも一番大事な人になるなどとは、この時は気が付いていない。「西荘文庫」には馬琴の稿本、また書簡がおびただしく蔵されていたという。

 久足の宣長学批判については「 宣長と小津安二郎をつなぐもの」を参照してください。
                   「桂窓好み鯉の封筒」
                 



                                              (C)本居宣長記念館   

小津茂右衛門(おづ・もえもん)コレクション

小津茂右衛門コレクションは、小津勝久(1878~1964)の旧蔵品。
  長男茂郎に継承され、茂郎の没後、月僊の作品は三重県立美術館に、その他の作品は松阪市(本居宣長記念館)に寄贈された。
  寄贈者は小津順子氏、小津昭氏、久保村幸子氏、小津由美子氏、小津宣子氏の5名。
  平成4年8月29日に、304種346点(内、器物20点)が、同年8月30日に、81種135点が寄贈された。
  第1回目の寄贈品には、宣長書簡や蒲生氏郷関係資料が含まれる。中には殿村安守旧蔵品もあり、伝来面でも興味は尽きない。
  第2回目の寄贈品は、松阪万古作品が中心である。

  小津家は、松阪市本町矢下小路に住した豪商。
  勝久氏はその12代。京都帝国大学卒業後、松阪銀行鑑査役や、伊勢殖産株式会社、三重セメント株式会社社長などを兼務し、実業界で活躍した。また松阪町議会議員を5期にわたって務めた。
  号は笹川庵、浜荻。松阪万古命名者でもある。
 伝記は、小津茂郎編『笹川庵浜荻』(昭和40年9月1日・私家版)がある。
                                           (C)本居宣長記念館   

驚く

 「即ち恋ほど人心を支配するものはない。その恋より更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
 「曰く習慣(カストム)の力です。
 我々の誕生は眠りと忘却にすぎぬ(「霊魂不滅を思う」ワーズワースの一節)
この句の通りです。僕らは生まれてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々の事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於いてかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立っているかの態度を以てこの宇宙を取り扱う。
 やがて汝の魂は浮世の重荷を背負い、習慣は、霜のごとく重く、まさに生命のごとく根深く、汝の上にのしかからん(「霊魂不滅を思う」の一節) このとおりです、このとおりです!
 「すなわち僕の願いはどうにかしてこの霜をはたき落さんことであります。どうにかしてこの古びはてた習慣(カストム)の圧力からのがれて、驚異の念をもってこの宇宙に俯仰介立したいのです」             
                                      「牛肉と馬鈴薯」国木田独歩


 宣長のCD-ROMで独歩が出てきて驚かれましたか。
  大人になると驚かなくなる、とよく言われるが、なぜ驚かないのか。宣長の思想からいけば、それが「からごころ」に毒されているからだ。世界は解釈がつく、不思議はないと平然と言い切る人がいるが、本当にそうだろうか。
「されば此天地も万物も、いひもてゆけばことごとく奇異からずといふことなく、こゝに至ては、かの聖人といへ共、その然る所以の理は、いかに共窮め知ることあたはず、是をもて、人の智は限りありて小きことをさとるべく、又神の御しはざの、限なく妙なる物なる事をもさとるべし」
                                                『葛花』

 「驚く」こと、これが宣長の学問の出発点であった。生きていること、また自分を取り巻く世界への純粋な驚き、それを宣長は大事にした人である。そこから全ては始まったとも言える。宣長には、百科事典編纂願望とも言えるようなものがある。少年の夢のようなものだが、この、知りたいという欲求を生涯失うことはなかった。

 
                                           (C)本居宣長記念館   

おのが京のやどりの事

 享和元年(1801)宣長は最後の京都行きを行う。その時に滞在先となったのは四条烏丸であった。宣長青春の地でもある。
 帰ってから書いたのが「おのが京のやどりの事」と言う短い文章だが、宣長にとって京都が理想の地、と言うよりやっぱり京都が好きだ、という気持ちが伝わってくる文章である。

「 おのが京のやどりの事
 のりなが、享和のはじめのとし、京にのぼりて在しほど、やどれりしところは、四条大路の南づらの、烏丸のひむかしなる所にぞ有けるを、家はやゝおくまりてなむ有ければ、物のけはひうとかりけれど、朝のほど夕ぐれなどには、門に立ち出つゝ見るに、道もひろくはればれしきに、ゆきかふ人しげく、いとにぎはゝしきは、ゐなかに住なれたるめうつし、こよなくて、めさむるこゝちなむしける、京といへど、なべてはかくしもあらぬを、此四条大路などは、ことににぎはゝしくなむありける、天の下三ところの大都(オオサト)の中に、江戸大坂は、あまり人のゆきゝ多く、らうがはしきを、よきほどのにぎはひにて、よろづの社々寺々など、古のよしあるおほく、思ひなしたふとく、すべて物きよらに、よろづの事みやびたるなど、天下(あめのした)に、すままほしき里は、さはいへど京をおきて、外にはなかりけり」(『玉勝間』巻13・1-398)
                         「宣長が借りた家の図面」

                                            (C)本居宣長記念館   

『尾花が本』(おばながもと)

 本居宣長著。『おもひ草』とも。尾花が本、思い草はともに「たばこ」の異称。

 「思ひ草は秋の野の尾花がもとにおふるとかや、または、こ(煙草)のけふりも、其名にたぐふ心地して、室の屋しまもとをからず、とことはにこがれつゝ、人の口のはにのみぞかゝる、さるはいひけたれてもなをふかくおもひいれ(火入)て、もゆるけしきは、いぶき(灰吹き)の山のさしも草にもことならず、かくのみたえずなげきせる(キセル)、はてはいぶせくきたなげになりてすてらるゝよ」
と、たばこにまつわることばを織り込んだ雅文。

 本居宣長記念館には2冊の『尾花が本』がある。
 その内の1冊は自筆本と言われている。表紙左肩に題簽がある。朱の紙に書かれ一部欠失しているが、「尾花か本」と読める。墨付13丁、遊紙(巻首)1丁。奥書「癸酉仲秋/神風伊勢意須比飯高本居健蔵草」。朱で振り仮名、注など書き入れる。巻末1行、並びに奥書部分切り接ぎあり。岩田隆氏寄贈。また、もう1つの本は、本居家伝来、堀内千稲旧蔵本。

                                            (C)本居宣長記念館   

尾張国の門人

 尾張の門人は、天明4年に入門した大館高門が一番最初で、享和元年の桜山典直まで、合計88名を数える。このうち21名が田中道麿の門人、あるいは門人と推定される人である。横井千秋(推定)、渡辺直麿、稲葉通邦、植松有信(推定)、加藤磯足など錚々たる人物が名前を連ねる。道麿の影響の大きさが窺われる。

  また『新修名古屋市史』では次のように言う。

 「国学者の田中道麿は、明和の初めに名古屋に移住し、安永の初めごろから桜天神で和歌や国学の塾を開く。ここに、暁台門の都貢・羅城・亜満らが入門しているのは、興味深い事実である。寛政期には、士朗・亜満・臥央らの暁台門の有力者が本居宣長に入門している。宣長の和歌論は、万葉ではなく流麗な新古今を最高とした。暁台自身は道麿や宣長に直接入門していないが、「物のあわれを知る」という創作主体の論や作品の「風雅」や「風体」を論ずる宣長の文学論には十分関心があったと思われる。暁台の俳諧の特徴について、「優雅」「清明流麗」との評価がされるが、漢詩文・和歌・国学の展開という、名古屋の上層から中層にかけての文化状況が、「俗談平語」の美濃派や雑俳と異なった文芸的世界を創造する条件であった。」



                                            (C)本居宣長記念館   

御師(おんし)

 御師(オシ)は全国あちこちの大きな寺社にいるが、御師(オンシ)と言えば伊勢神宮の下級神職。太夫とも言う。下級と入っても全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったと言う説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。
 仕事は祈祷の委託や参拝者の宿泊、案内を業とし、地方の檀家に御祓、伊勢暦、また土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を勧誘した。つまり今の旅行代理店、ホテル、そして伊勢神宮出張所を兼務したものと考えて頂くとよい。

 宣長の所にしばしば出入りしていた蓬莱(荒木田)尚賢、荒木田久老、また宣長が19歳から2年養子に入った今井田家、娘・能登の嫁ぎ先である安田家、みな御師である。
 御師は地方では丁重な待遇をされた。

「これは伊勢の御師で御座る、毎年今時分は、国々旦那廻を致す、当年も廻らうと存ずる、誠に大神宮の御影程有難い事は御座らぬ、斯様に国々廻れば、何方にても御馳走にあふ事で御座る」(狂言『禰宜山伏』)

 資料としてはいささか古いが、江戸時代もそう変わることはなかったはずだ。
 毎年定期的に地方を回って伊勢神宮のお札を配る御師(オンシ)たちは、宣長の学問の普及にも寄与した。地方の檀家に神宮のお札と共に、女性にはおしろいを、農家には伊勢暦を土産とし、勉強の好きな人には、伊勢にこんな事を調べている人がいると、宣長の本を見せてやったのである。さらに興味のある人には、参宮を勧め、帰りには松坂で勉強していきなさいと、宣長への紹介状を書いたのである。
 御師が宣長の学問を普及した例としては、加藤吉彦のケースがある。
 情報の伝播と言うことでは蓬莱尚賢や荒木田久老の功績が大きい。

 本居家の御師については、『別本家の昔物語』(宣長全集・20-43・44)に詳しい。
 もとは角の小津(清兵衛家)と同じで、山田(伊勢市・外宮のある地域)の中津長大夫だった。ところが、ある時、2代目道印さんが角の小津家の人と参宮をした。道印の奥さんは角の小津家2代目道運の姉だから両家は極めて懇意だった。ところが繁栄する角の小津家の着る物にくらべ、道印夫婦は粗末だった。そのため、御師のところでの待遇に差が出てしまった。道印は不快に思ってその後は参宮しても中津に行かず、古川善大夫に泊まるようになった。それでも、宣長の幼い頃まで中津から祓(大麻)を送ってくるし、また5匁の初穂料を納めていた。だが、その後はそのようなことも無くなってしまった。角の小津は今も中津の檀那である。中津の家は前野町にある。
 古川では、当家は大檀那で、火事で古川が焼けたときには、祖父の唱阿は松阪で材木を整え船で送り、すぐに再建した。しかしその家も最近また焼けて、今は妙見町の小さな家に住んでいる。もとは下久保にあり、座敷なども立派な家であった。初穂料は、元文頃までは年に金100疋、江戸店閉店後は金100疋となった。それでも他の家とは一緒にならないと、最近まで正月、5月、9月には祓や肴などを、立派に整えて届けてきたがそれも最近は途絶えてしまった。でも暦だけは今も立派な物を送ってくる。当家の手代も皆古川の檀那である。
 内宮、宇治の御師については聞かないが、北畠家臣時代の縁もあるので、これから家が豊かになったら僅かでも初穂を納めたいものだ。(頭注・天明9年から向井館へ毎年初穂料銀札5匁納める)
 寛政8年、古川善大夫は檀那株を全部、浦口町の安田伝大夫に売ったので、我が家もそこの檀那となった。祓の銘は最初の年だけ「古川善大夫」、翌年から「安田伝大夫」と書かれている。
 以上が『別本家の昔物語』のあらすじだが、最後に出てくる「安田伝大夫」、ここの若旦那が宣長の3女・能登とやがて結ばれるのである。
                            大神宮御札


                                            (C)本居宣長記念館   

御師邸内図

                                            (C)本居宣長記念館   

御師の台所

 これが伊勢の御師の台所です。伊勢参宮の楽しみの一つが、山海の珍味。伊勢国は食べるものがおいしい。宣長も「かくて此国、海の物、山野の物、すべてともしからず」と「伊勢国」で言っています。これは今も昔も変わりません。

 さて、向かって左端の客人、寝そべっている人、手ぬぐいを以て一風呂浴びてくるかという人。今、御師の屋敷での御神楽が終わった、さあ待ちに待った御馳走じゃという情景かな。

 帳場では帳面の確認作業。台所では「神風」という薦被りも運び込まれ、膳の用意もたけなわ。白い着物に烏帽子はここの主人でしょう。

 よく目を凝らすと、伊勢エビや鯛やキジに松茸、実にいろんな食材が並んでいます。

  右手のかまどからは湯気がたなびき、みんな忙しそうだけど、楽しそう。
  御馳走は恐い顔しては作れません。
  御師の台所が一度に沢山の料理を、しかも少人数で作ることは、井原西鶴の『西鶴織留』に驚きを以て描写されています。

  この絵は、大正4年、伊勢の画家川口呉川が、昔の絵巻を写したもの。

恩頼図

 これは宣長没後に、殿村安守のため大平が書いたもの。原本は再稿を個人が、草稿を天理図書館が所蔵している。「恩頼」は「オンライ」、また「ミタマノフユ」とも言う。神や天皇などから受ける恩徳、ご加護、また恵み深い賜物。平易に言えば「お陰」と言うことだ。
 宣長さんは誰のお陰であのような偉い人に成られたのか。宣長さんのお陰を蒙った人は、つまり門人は誰か。また門人でなくとも著作のお陰を蒙る人もいるから代表著作まで載せている。

 考えてみれば、なかなか壮大な宣長アトラスである。
 脇に記したのは、「源氏」は『源氏物語』講釈で、例えば(1)は第1回目参加者を指す。「円居の図」は明和年間の様子を描いたと推定される「鈴屋円居の図」、「菅笠の旅」は明和9年(1772)の吉野、飛鳥旅行参加者、「出精」は寛政5年に宣長の選んだ「格別出精厚志」の人である。

 天理図書館本のデータは、縦41.3cm、横27.7cm。『本居宣長全集』別巻3では解題と凡例で所蔵者が逆転していたが、天理図書館の所蔵本は草稿本である。紙背は「御題字のしりへにしるす詞」。胡粉での訂正有り。大きな違いは、右図「母刀自ノ家政(ケイサイ)教育」、左図「孔子」の下に「古文辞家」と書いて胡粉で消している点。
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