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解説項目索引【ら~わ】

来迎寺(らいこうじ)

 松阪市白粉町。天台宗真盛派。永正年間の創建と伝える。もと松ヶ島にあったが、蒲生氏郷の築城に伴い移転した。
 表門は、文政4年(1821)に竣工した一間鐘楼門で、大棟には瓦の鯱を挙げる。一階が通路、二階に鐘が掛ける。鐘は門より古く貞享元年の銘文がある。扉はケヤキの一枚板。
 本堂などは、享保元年(1716)の松坂大火で焼失したが、程なく三井家などの尽力で再興された。その費用は8700両にもなったという。再興された本堂は現在、国重要文化財に指定されている。
 境内には芭蕉の句碑もある。墓地には、宣長次女・小津美濃夫婦や門人・小津信業夫婦の墓がある。近くには三井家の別荘「畑屋敷」もあった。檀家には三井家の他、安南貿易の角屋七郎兵衛一族や、豪商長井家がいた。
 塔頭・覚性院の戒言は宣長の門人。宣長もしばしば覚性院に遊び、桜や紅葉を楽しみ歌会を開いた。

【参考文献】『重要文化財来迎寺本堂』松阪市教主山来迎寺(1992)
「来迎寺本堂」
(C) 本居宣長記念館

来訪者

「今月の宣長さん」、「十一月の宣長」、「来訪者」参照
 こちらをご覧ください

来訪者対策(らいほうしゃたいさく)

 増え続ける他国からの来訪者、特に熱心な人が、松坂での勉学を願うケースが増えると、宣長も何か方策を考える必要が出てきた。

 そこで思いついたのが、歌会も講釈も、そして図書館機能も備えた宿泊施設の建設だ。 名前を「松坂学問所」と言う。場所は愛宕町、お堂が空いていたのでそこに間借りをしてと言う暫定的な構想も作成し、個人では憚りもあるので、今で言えば、松阪地区医師会の名前を借りて藩に願い出た(らしい)。請願書「学問所建設願書」の下書きが残る。
「学問所建設願書」
(C) 本居宣長記念館

離婚

「今月の宣長さん」、「十二月の宣長」、「離婚」参照
 こちらをご覧ください
「学問所建設願書」
(C) 本居宣長記念館

律儀な久老さん(りちぎなひさおゆさん)

 酒が好きで豪放なイメージが定着している久老さんだが、実は大変律儀な人である。
 次のような宣長書簡が残っている。

「一、まかのひれ返答書出来仕只今内宮辺へ遣し置申候、返り次第入御覧可申候、
(一、)御綱柏御考御見せ被下忝熟覧仕候、甚精確なる御考不堪称歎候、併猶も疑敷事共愚意書記し入御覧候間再往くはしく御吟味被成御聞せ被下度奉願候、内宮へも猶委く尋に遣し可申と奉存候、
一、為御年玉名産好墨御恵贈、毎度御厚志不浅忝奉存候、別而古地之名産文房之至宝忝奉存候、
一、書束紙一包進上仕候儀、菲薄之至御笑納可被下候、尚期後信早々、恐惶謹(言)、本居宣(長)、 月十五日、宇治五十槻様」

( )内は文字が欠落した箇所。個人所蔵。軸装、本紙痛み激しく解読も困難を極める。前文欠か。ここで注目していただきたいのは、「名産好墨」を宣長に贈ったこと。度会貞多の『神境秘事談』(『大神宮叢書』収載)に、

「宇治斎宮荒木田久老は加茂真淵に随ひ古学をよくす、著述の書もあり、今神都の産物とする神岸煙墨、とこよ橘墨、二見盃なとこの人のものすきなり、をしいかなこの人心ほこれるくせありて、徳行の学者にはあらし」

とある。自分で創案して、恐らく作らせた墨を贈ったのだろう。
伊勢の墨というと、同じ頃に、京都の藤貞幹(トウ・テイカン)も伊勢人から天岩戸の煤で作ったという墨をもらっている。関係あるかな。

 このように、久老は歳暮か新年の年玉で宣長に名産品を毎年のように贈ってきてくれた。名吉(ぼら)の筒込(つつごみ)が多かったが、このような珍しい物もあったのだ。
  また、宣長が伊勢に行った時にはごちそうで迎えた。


(C) 本居宣長記念館

竜在峠(りゅうざいとうげ)

 吉野への道は、飛鳥からの芋峠と、多武峰からの竜在峠が有名。宣長一行が越えたのは竜在峠である。峠の手前にもう一つ小さな峠。ここからは「国中」(奈良盆地)がよく見えた。そして竜在峠。峠を越える宣長の眼に飛び込んできたのは、憧れの吉野の花であった。

 「あけくれ心にかゝりし花の白雲。かつがつみつけたる。いとうれし」

 戦前まで、この峠には茶店があり、また近くに雲井茶屋があって餅や団子を売っていたという。

竜泉寺(りゅうせんじ)

 『松坂権輿雑集』に、「愛宕山竜泉寺。上福院古義真言宗。嵯峨大覚寺の末。寺領畑八石四斗御寄附」とある。芝居や見世物小屋がしばしばかかった。例えば『今井田日記』寛延2年4月7日には、「白子山アタコニテ開帳」とある。白子の観音寺の開帳であろう。また『日記』明和4年4月条には「自去月下旬至今日、丹生弘法大師、於当所愛宕山開帳」とある。境内の様子は『伊勢参宮名所図会』に載る。寛政12年(1800)3月26日、花見会をこの寺で催した(『日記』)。


『伊勢参宮名所図会』 竜泉寺



(C) 本居宣長記念館

竜門の滝(りゅうもんのたき)

 この滝に雨乞いをすると、霊験あらたかで、鰻が登ると雨が降る、宣長がこのように書いた「竜門の滝」。かの久米仙人が住んだことでも有名なこの滝を、案内人の不親切で宣長は見逃してしまった。旅館でその事に気づいたがもう後の祭り。明日、ちょっと竜門の滝に寄らないか、と同行の人に声をかけるが、誰もが吉野の桜が先決だと相手にしてくれない。結局、見ることが出来たのは寛政6年(65歳)和歌山行きの途中であった。今も車から降りて歩く山道は、いささか不安にさせる山の奥だが、宣長さんの頃はどうだったのか。その時の歌、

 竜の門 さしも名高く 聞しにも 見るはまされる 滝のさま哉

 山姫の さらせる布を たちぬはで その人ならぬ 我ぞきて見る

 昔より よゝに流れて 滝の音も その名もたかき 仙人のあと

 よりて見し いにしへ人の 言の葉に かけて名高き 滝の白糸

 此滝を けふきて見れば きて見けむ いにしへ人の おもほゆるかも

 滝見れば 見しいにしへの もゝ敷の 大宮人の おもほゆるかも

 苔深し 滝の糸見に くる人も まれにやあるらん 谷のほそ道

第2首目は、伊勢の歌
 たちぬはぬ 衣きし人も なきものを 何山姫の 布さらすらん
を踏まえたものであろう。

 見たいと思ったら、必ず実現する。宣長の意志の強さには舌を巻く。これが学者としての必要最低限の資質なのだろう。



(C) 本居宣長記念館

嶺松院(れいしょういん)

 松坂新町、樹敬寺塔頭の一つ。現存せず。もと72坪。享保8年再建。小津本家代々の手次寺。
 「嶺松院歌会」はここで開かれた。同会の初会は1723年小津長正(清水谷実業門人・小津本家)により始められたが長正の死去で中断。1731年4月25日再開。その後会員や式日の変化があるが、再開以後だけでも78年間継続した。再開のメンバー10人の内、宣長の縁戚者が4名確認できる。宣長が加入したのは、京都から帰郷した直後1758年2月11日。以後、没するまで40年に渡り宣長の松阪での活動の拠点となる。

 今、山門を入ったすぐ左手、塔頭の跡には

  「しめやかにけふ春雨のふる言をかたらん嶺の松かけの庵、宣長」

の歌碑が建てられる。また、碑の下の石には「嶺松院あと」の文字がある。

 院は明治の大火で消失。今、その跡には松の木が植えられる。また樹敬寺には「嶺松院」の名前を刻した鐘鉢が残される。


「嶺松院跡歌碑」
「碑の下に置かれた石」


(C) 本居宣長記念館

嶺松院歌会(れいしょういんうたかい)

 松坂における宣長の活動母体となった歌会。松坂新町、樹敬寺塔頭嶺松院で開かれた。

 ☆宣長加入前
 初会は享保8年(1723)、小津長正(清水谷実業門人)により始められたが、同14年、長正の死去で中断。以上のことは寺伝に依る。享保16年(1731)4月25日再開。その後会員や式日の変化があるが、再開以後だけでも78年間継続する。再開時の記録『享保十六年四月月次和歌会よろづのひかへ』冒頭には会員10名の名と、会則、当番が記される。中に宣長の縁戚者が4名確認できる。式日は25日で、朝食後集まり、弁当持参、当番が茶や炭、塩うち大豆の用意をすること、所蔵の歌書を持参することなどが書かれる。宝暦2年(1752)4月からは、『詠草会集 其一』として記録が残される。初会の出席者は、小津道円、青木貞雄、嶺松院茂鮮、小津正啓、中津光多の五名で正啓、光多以外は以前からの会員である。

 ☆宣長の加入以後
 宣長の加入は宝暦8年2月11日、歌は「風光日々新、舜庵、きのふまで桧原にくれし鐘の音も花に明けゆくをはつせの山」。この頃の会は11と25日の午後に開かれた。会日は7月、12月を除き順守された。宣長の『源氏物語』を始めとする古典講釈の聴講者も、最初は大方がこの会員である。会の名称「嶺松院会」が定まった時期は遅れる。確認できる最初は、先の『石上稿』宝暦8年に載る歌の詞書。また「詠草会集」とあった表紙(例えば宣長加入直後のものには『宝暦九卯閏七月 詠草会集 其九』と書かれていた)に、嶺松院が冠せられるのは『宝暦十一年辛巳 嶺松和歌集 其十』からである。その新しい表紙の筆跡が宣長であるのは、宣長の嶺松院会での指導者的な行為の一つの表れと見ることも出来る。確認できる最終日は文化5年7月5日(1808)。享和、文化頃は3、5日が会日か。

 ☆記録
 記録は『詠草会集』、『嶺松和歌集』として56年分26冊の内、24冊が残る。また宣長の『嶺松院会和歌序』や、会員の文集『嶺松和文集』等関連資料も多く残る。


(C) 本居宣長記念館

『歴朝詔詞解』(れきちょうしょうしかい)

 6巻6冊。本居宣長著。内題は「続紀歴朝詔詞解」。

『続日本紀』に載る62篇の「宣命」を、第一詔から第六十二詔と命名し、校訂し注釈を付したものです。「宣命(せんみょう)」は、天皇の勅命です。
本書では、最初に「まづとりすべていふ事ども」とし、宣命について字義から、時代変遷など総説を記します。

本書の中で有名なのは、第十二詔、天平21年(749)夏4月1日、聖武天皇が建設中の東大寺大仏に行幸し、陸奥国から黄金が発見されたことへの感謝を述べた聖武天皇のお言葉への宣長のコメントです。聖武天皇は、北面して、最初に「三宝の奴」、つまり私は仏の弟子だ、と宣言されます。
衝撃的なことです。
この箇所について宣長は、「あまりにあさましくかなしくて」読みあげることもはばかられるので、心ある人はここを読まないで欲しいと述べています。読みも付けられていません。
この時の聖武天皇の御心については、東大寺長老 森本公誠師が「聖武天皇の実像を追って」(第57回・奈良新聞2009年10月31日)で詳しく書かれています。

『古事記伝』が完成し70歳になった宣長は、驚くべき集中力で本書を執筆しました。大きな用紙に細字でびっしりと、いささかも停滞することが無く、流れるように書かれています。古典への強い思いが満ちた言葉です。

寛政11年6月起稿。同年10月初稿出来、翌年2月再稿本に着手、4月23日出来。刊行は没後2年目の享和3年9月。板元は永楽屋東四郎。序は殿村(大神)安守。

(C) 本居宣長記念館

廊下に座る男の影(ろうかにすわるおとこのかげ)

 真淵と宣長の対面の場に、もう一人の人物がいた。松坂日野町の町人・尾張屋太右衛門(オワリヤ・タエモン)である。
 真淵書簡(明和5年、宣長宛)に、
 「先年貴地ニ宿候時、貴兄と共ニ被来候尾張屋(か)太右衛門といひし人」
とある。貴兄、つまり宣長と共にやってきたというのだ。

 また、やはり真淵の手記に
 「先年松坂宿一宿仕候時、(中略)当所に本居舜庵と尾張屋太右衛門と申者掛御目度と申込候而、右両人来り候。舜庵は学才も有者に而、其後半年ばかり過候而門弟入いたす、於今文通仕候。太右衛門は其時漸廿余歳と見えて、一言も不申、舜庵と談候を聞居候迄に而、其後終に沙汰無之候」(「伊藤主膳と申者之事」・『本居宣長稿本全集』第2輯)
と書かれている。一言もしゃべらなかったのだ。

 所がこの太右衛門、その後、有栖川家の青侍伊藤主膳を名乗り真淵に近づくという事件があった。事の次第は先の手記に詳しい。どうしてそんな嘘を付くのだろうと真淵は不思議がっている。尾張屋は商家であったが、やがて逼塞し、天明6年(1786)、新上屋の西隣にあった家屋敷は柏屋兵助に売却された。


(C) 本居宣長記念館

論争(ろんそう)

 宣長は純粋に学問を愛した人である。だから質疑応答を好み、時には「議論は益多く候」と主張する。

「たとひあらそひても、道を明らかにせんこそハ、学者のほいにて候はめ、又よしあしをたかひに論するにつけても、我も人もよきことをふと思ひうる物にし候へハ、議論ハ益おほく候事也」
              安永元年1月22日付、谷川士清宛書簡。
 また、
「愚老説とてもいかゞニ思召候儀ハ、少しも無御遠慮、幾度も御議論承度候」
これは天明5(1785)年2月27日付・鈴木梁満宛書簡の一節である。

  宣長の論争は、儒学者・河北景木貞の『天祖都城弁』への反論『天祖都城弁々』(安永2年)、天文暦数学者・川辺信一への反論と自説の修正『真暦考不審考弁』(寛政元年)、『直霊』の草稿である「道云事之論」への批判をした儒学者・市川鶴鳴の『まがのひれ』に対する反論『葛花』(安永9年)、藤貞幹への批判、そこからの延長である上田秋成との論争『呵刈葭』(天明6年頃)など数多い。


(C) 本居宣長記念館

和歌(わか)

 「おのが物まなびの有りしやう」で、

「十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき」(『玉勝間』巻3)
と回想するように、和歌への関心の芽生えは、17、8歳であった。
 18歳の11月14日、『和歌の浦』第1冊を起筆する。本書は和歌の学習ノートである。
 翌、寛延元年(1748)1月、初めて「春立心」を詠む。
「寛延元年戊辰、詠和歌、清原栄貞(「本居」自刻印)、 此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける、
 新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空」(『栄貞詠草』)
『(今井田)日記』寛延2年の条に「△去辰ノ年ヨリ、和歌道ニ志、△今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」とある。

 京都時代には、友人に対して、
「僕の好む所、文辞よりも甚だしき者あり。和歌也。啻に之を好むのみならず、亦た之を楽しみ、殆ど寝食を忘る。足下の和歌を好まざるは、其の楽しみ為るを知らざる故也、請ふ嘗(ココロ)みに足下の為に和歌の楽しみを言はん。心を和に遊ばしめ、而うして物に大同し、六合に横たわりて、而うして逆らふ物無く、宇宙万物は、猶藩牆の物の如き也、心に任せて致さざるなし」
と言う。

 この和歌への思いは生涯変わることはなく、歌を詠むことは宣長の生活の中にしっかりと根ざしていった。歌は、楽しみでもあり、町人との接点でもあり、また、学問の中でも、歌を詠むことは特に重視された。そして、嶺松院歌会で知り合った人たちに『源氏物語』の講釈を開始し、これが鈴屋社中の萌芽となる。

 宣長が生涯に詠んだ歌は約10,000首に及ぶと推定される。家集『鈴屋集』、編年体歌集『石上稿』の外に、『自撰歌』、『鈴屋百首歌』、『枕の山』といった歌集もあり、また『菅笠日記』など紀行文中にも歌は載る。


(C) 本居宣長記念館

和歌川(わかがわ)

 3回の和歌山行きで、宣長が宿舎としたのは、中ノ店北之町(城から徒歩10分、今も和歌山一の繁華街)にあった鍼医・塩田養的(シオダ・ヨウテキ)の裏座敷だが、小浦は、船で和歌山入りする宣長を弁当を用意して迎えに行ったり、挨拶廻りの案内をしたりと、師のために力を尽くす。そして宣長が和歌の浦に遊び、玉津島神社に参詣に行く時には、自宅の前から船を出した。もちろんたっぷりのごちそうとお酒も積み込んであったはずである。

 和歌川を過ぎると右手前方に和歌山城が見えてくる。その反対側、左手に関西電力和歌山支店のある交差点。ここを左に入ってすぐ左に大平の家があった。小浦の屋敷や大平宅と、この辺り一帯「広瀬丁」は武家の町である。


(C) 本居宣長記念館

『和歌の浦』(わかのうら)

 宣長の和歌一般を学習したノート。延享4年(1747)11月14日(宣長18歳)、第1冊を起筆。内題には「倭謌之浦」、巻首には「倭謌之浦 延享四年霜月中の四日筆を染 本居栄貞」とある。本冊は和歌に関する抜書で5冊まで書き継がれた。第4冊までは、約束事や和歌にまつわる話、秀歌など種々雑多。5冊目になると、将来執筆するであろう和歌論のための抜書で、むしろ『本居宣長随筆』に近くなる。第5冊巻末近くに「宝暦十一年辛巳円光東漸大師勅加号謚慧成大姉因五百五十回忌也」とありその頃まで書き継がれたか。何れにしてもノートなので正確な起筆、脱稿年次は定めにくい。順を追って書くと言うより並行して書かれた形跡もある。


(C) 本居宣長記念館

和歌山(わかやま)

 若山とも書く。松坂を支配した紀州藩の城下町である。宣長は寛政4年、5人扶持で召し抱えられ。同6年10月発出府した。

 紀州は、木ノ国とも言われる程、緑の多い土地。和歌山市郊外の伊太祁曽(イタキソ)神社は、五十猛(イダケル)神を祀るが、『日本書紀』によれば、この神が降臨の時に多くの樹種を持ってきて日本中に蒔き、青山としたという。

 中世には「雑賀(サイカ)」と呼ばれたこの地が「和歌山」となったのは、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を平定し、吹上の浜の岡山(虎臥山)に城を築き、和歌山城と命名して以降。ちなみに「松坂」は天正16年(1588)に築城、命名で少し遅れる。和歌山の地名の語源は、南に名勝「和歌の浦」があるので、海に対して山としたという説がある。
 徳川の世となってからは、紀州徳川家55万5千石の城下町として栄える。明治8年(1875)の人口は全国で9番目という数字を見ても、江戸時代のこの町の規模が想像できる。また、伊勢国松坂町を支配したのもこの和歌山藩であった。

 北を流れる紀ノ川は、上流を吉野川と言い、全長135kmの大河。古代から江戸時代まで、和歌の浦を訪れる人はこの川沿いに下ってきた。伊勢から来た宣長一行も、橋本から船に乗り、和歌山入りをした。因みに、今回は橋本にも赴き、船着き場を探したが、大凡の位置だけしか確認することが出来なかった。地元で調べている方にも尋ねたが、遺跡、遺品と言えるものは残っていないとのことであった。

 宣長が初めてこの町を訪れたのが寛政6年(1794)。本居大平一家がこの町に住むようになったのが文化6年(1809)。明治元年(1868)に、本居豊穎は貢士(藩論を代表する議事官で定員は大藩三名、中藩二名、小藩一名)に選ばれた。このように明治初期まで和歌山と本居家は密接な関係を持つ。


(C) 本居宣長記念館

和歌山での187日(わかやまでの187にち)

 宣長が和歌山に行ったのは、65歳、70歳、71,2歳の3回。滞在日数は184泊、187日。松坂から4日をかけて赴いたのは藩主治宝への御前講義が目的だったのだが、では何日講釈をしたのかと言うと、僅かに、藩主9日、清信院と備姫3日、計12日である。

 講釈した本とその概要は次の通り。「大祓詞」と『万葉集』巻1は国学の基本を知るための本。『古語拾遺』。『詠歌大概』は和歌の基本書。『源氏物語』帚木巻(藩主のお好み)、若紫巻、初音巻。『古今集』序はやはり和歌の基本書。ここに「小野小町は衣通姫の流れなり」と出てくる。同、大歌所歌など。

 では、たった12日しか御前講義をせず、後は何をしていたのであろうか。
 公式行事(藩主出立の供揃えや改元の通知、出張旅費や拝領品の下賜など)もあるが、圧倒的に多いのが挨拶廻りである。特に最初の65歳の時には、68日間の滞在中、挨拶廻りが10日以上もある。宣長はこのようなこともきちんと抜かりなく出来る人で、挨拶廻りの順や土産物の手配(宣長の土産は「川俣茶」)などのマニュアルも作成していた。

 それにしても忙しい晩年、なぜ宣長は頑張ったのか。それは師賀茂真淵や自分が生涯をかけた新しい学問「国学」を、社会に認知させるためであった。挨拶廻りと書類提出に象徴される官僚機構はすでに確立していた。それを宣長は逆手にとったのである。

 和歌山での日も宣長は無駄にせず、旅宿では連日連夜講釈をし、日前宮での『玉鉾百首』の出張講釈や、一泊泊まりで有田にある須佐神社で付近の国学に関心ある人に話をしたり、また玉津島神社など古社や名所を廻ったりと精力的に活動した。時には、藩要人の家で開かれる歌会に招かれ、饗宴され、息女の琴や歌を聴き楽しんだこともある。

 これも最初の和歌山行きの時だが、ある日、玉津島神社の帰り、宣長は徒歩で帰ろうとするが、大平が「この前足を痛めたのに無理してはいけない」とたしなめ、船で帰ったということもあった。

 3回の和歌山行きで、宣長は10人扶持に加増され、奥詰となり、また大平の跡目を許可され、大成功裡に終わった。しかし、そんな世俗的なことではなく、この町を歩き、宣長の足跡をたどる時、宣長を迎えた和歌山の人たちの、学問をする歓びが、今も伝わってくるような気がする。

 日くるればあかずわかれて紀の川やおもかげにたつわかのうら波  宣長



(C) 本居宣長記念館

災い転じて・・

「今月の宣長さん」、「七月の宣長」、「災い転じて・・」参照
 こちらをご覧ください

忘れ井(わすれい)

 10日間に及ぶ古代史跡の探索の旅の第一番目だ。

 宣長も引くように、「忘れ井」は『千載集』斎宮の甲斐の歌に詠まれた場所だ。宣長も「前から関心があって、わざわざ行こうとも思ったほどだ」。だが、それがどこであるかは議論が分かれる。この日の朝、宣長が通ってきた市場庄の街道沿いにも「わすれ井是より半丁、宝暦改元十一月吉日、東都鳳岡関思恭書」という碑が建っている。さいたま市内にある氷川女體神社にも「関思恭拝書」と言う署名の扁額があることをご教示いただいた。「今その跡とて。かたをつくりて。石ぶみなど立たる所の。外にあなれど」がそれを指すのだろう。だが「そはあらぬ所にて。まことのは。此里になんあると。近きころわがさと人の。たづねいでたる事あり」と、中里常守説を紹介して、宮古(松阪市嬉野町宮古)説に同意をする。 碑も見ているはずだが、これは論外と無視したのだろう。

 ここでちょっと注目したいのは「里人もいひ」という文句だ。この旅で宣長は行く先々で地元の人を案内に立て、また話を聞いている。信じられる話もあるし、またいい加減な話もある。今でこそ、民俗学の調査以外では地元の人の話など無視することが多いが、当時の人、また宣長は、人との対話をないがしろにしない人であった。

 この旅の一つの見所は、この地元の人との対話にあるとも言える。

「松阪市嬉野町宮古にある忘れ井の跡」
宣長の古代探索はここから始まった。
松阪市市場庄の忘れ井を指示する道標。関思恭染筆。

渡辺清(わたなべきよき)

 安永7年(1778)~文久元年(1861)5月7日
 名古屋の大和絵画家。
 縫箔業利平の男。通称大助。号雪朝斎。周渓。
 始め狩野派を学び、上京し土佐光貞に、その後、田中訥言、吉川義信にも学んだ。故実に詳しく、著色に長けていた。
 作品数も多い。また和歌は春庭門人である。
 春庭の歌、

  名古屋の渡辺清の君いとわかかりしほどより深く心をとゝめ
  給ふとて絵をいとよくかきけるによみてまゐらす

色深く さなからうつす うつしゑに そむる心の ほとも見えけり

       (『本居宣長記念館蔵書目録』4-64)
 主な作品には、宣長と平田篤胤の「夢中対面図」や、奥墓のある山室山を描いた秀作「山室の図」など。
  >>「奥墓」

 また、当館には、二条家旧蔵「武者」〔小津茂右衛門コレクション〕も所蔵する。


(C) 本居宣長記念館

渡辺重名(わたなべしげな)

 宝暦9年(1759)3月5日(一説に16日)~天保元年(1830)12月23日。享年72歳。
 通称、造酒。名は堅石。家号、楽山二幸楼。重名は日野資枝の命名。豊前中津(大分県中津市)の神官の子として生まれた。安永5年上京。天明2年、再び上京し、その途中、荒木田久老に入門。また宣長宅にも寄る。

 『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』天明2年条に
「同十二月○豊前国中津城下、八幡社司渡辺造酒(ミキ)藤原重慎」 とある。

 同4年、衣紋家の高倉家、歌道で日野資枝に入門。同5年、『衝口発』論争の火種をつける。またこの年、橋本経亮秘蔵の『万葉集』古写本で校合をする。同6年には従五位下に叙せられ上野介に任ぜられた。同7年、本居宣長に入門した。

  『授業門人姓名録』に 「豊前中津、古表八幡社司 渡辺上野介、藤重名」 とあり二重丸が付く。

 寛政2年(1792)初夏、『馭戎慨言』序を書く。同年、中津藩校脩学館創設に伴い国学教授となる。性格は豪放磊落。「歌道に秀でた知識人で行動的」と江湖山恒明(『日本古典文学大事典』)は推測する。

  こんな話もある。東海道を旅する重名はある夜、按摩を呼んだ。按摩がそのからだに驚き、身分不相応な体で、若い時は相撲取りでもしていたかと尋ねたので、いや、持病の癪があり、痛い時には砧槌(木槌のようなもの)で叩いたのでこんなに体が固くなったのだと言うと、按摩は驚き感心した。筋骨隆々の人だったようだ。


(C) 本居宣長記念館

『和名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)

 『和名抄』とも。源順(ミナモトノ・シタゴウ)編。承平4年(934)頃成立。醍醐天皇第4皇女・勤子の依頼で作成した百科事典。但し挿絵はつかない。
 宣長書入本は、20巻本と言われる系統の本。

★書誌
版本、全5冊。袋綴冊子装。栗皮色表紙。縦28.0cm、横19.8cm。匡郭、縦23.1cm、横17.7cm。13行。墨付(1)53枚、(2)45枚、(3)41枚、(4)39枚、(5)54枚。
外題「和名類聚鈔一二(宣長朱筆で一二三四と加筆、以下同)」
内題「倭名類聚鈔巻一天部一(以下・巻数)」
柱刻「和名巻一(以下・巻数)、(丁数)」
小口「和名一」(宣長筆)
蔵書印「鈴屋之印」
【序】「題倭名鈔・・元和三年丁巳冬十一月日羅浮散人洗筆於雲母峪清処」。
【刊記】「書林、大坂心斎橋筋順慶町、渋川清右衛門」。
【奥書】「安永二年癸巳十二月十二日以活板本校合之附異是也、同八年己亥十二月十日以て古写本再校合畢、本居宣長(花押)」。

【参考】
『学業日録』安永8年(1779)条に「和名抄古本校合全」とある。宣長による付箋、書き入れ等が多い。
『和名類聚抄』宣長手沢本


(C) 本居宣長記念館
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