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解説項目索引【やゆよ】

八雲神社(やくもじんじゃ)

 日野町。松坂総産土神(ウブスナガミ)。『古事記伝』奉納の一社と推定される。『毎朝拝神式』遙拝の一社でもある。松坂の祇園祭は旧暦6月14日、15日に八雲神社、雨龍神社、御厨神社、八重垣神社で行われていた。現在は、松坂神社、御厨神社、八雲神社の祭礼となっている。

八雲神社

弥四郎(やしろう)

 宣長の通称。元文5年(1740)8、12歳から富之助に替えて命名。もと父道樹の童名。宝暦3年秋に健蔵と改めるまで使用したと思われるが、実際の使用例は『職原抄支流』(延享元年10月14日奥書)の「小津弥四郎栄貞」、また使用の「十露盤」裏面の署名など10代後半に限られる。


>>「名前」
(C) 本居宣長記念館

康定と宣長の対面(やすさだとのりながのたいめん)

 宣長は寛政7年(1795)8月13日、参宮の途次松坂に泊った石見浜田藩主松平康定を本陣・美濃屋に訪い拝謁した。この時のことは康定の『伊勢麻宇手能日記』に詳しい。この日記は、福井久蔵氏が「鈴屋大人の新資料」(『古事記伝の研究 皇国文学 第二輯』昭和16年3月刊)で紹介された。今、原本の所在が不明なので、福井氏の文章より関係部分を転写する。文中、高蔭所蔵本の原本が火事で失われたとあるが、渡辺三男氏の「福井久蔵博士の人と学問」(『列伝 人物と門流』昭和60年11月刊)に拠れば、福井氏の蔵書も戦災で大半が焼失したと云う。この日記もあるいは既に失われているかも知れない。読みやすい形にして転載する。

 余が文庫に侯の伊勢麻宇手能日記がある。一巻三十四枚半枚十行づゝ見事な筆跡でかゝれ、表紙に二見浦の略画が墨がきにしてあつて、
 「十一日つとめて伏見のやとりをいでたつ」
から始まってゐる。いろいろ面白きこともあるが、御野(敏に同じ)のことや、本居翁と会見のことばかりを摘載する。鈴鹿の関に孝子万吉に会見、関の地蔵の別当の坊に宿り留学してゐた小篠御野を呼寄せ打合せなどをされたところから抽く。
 「小篠の御野はからぶみのはかせなるにも似ず、我皇国の古き手ぶりをしたひて、よはひの七十に近きも思はで、四月ばかりより此国にものならひに来てあるを、国を出たつほどあが神まうでの事どもかつかつかたらひおきしかば、便りごとにそのすぢの事ども何くれといひおこせしを、こゝにて猶よくさだめてんとてよび出て懇に問に云々とある。七十近き漢学者を差遣して本居学を学ばせられてゐたのである。御野は朝夕鈴の屋に通 ひて本意のことかの翁に問きゝ、あるは友どちつどひて心やり侍るなど嬉しげに、かしこのめづらしき事どもいひつゞくるに」
と老人が徒歩で参つて痔疾を引起したのも推して趨謁面唔申上げた。翌十三日津の城下を経、たか茶屋曽原などいふ郷を過ぎて松阪に到り大橋の向に宿りをとられた。鈴屋には消息もしないうちに日没後間もなく翁の方より檜扇に檜破篭を添へて、
  民やすくはくゝむ君がみてくらはうれしと神も受さらめやは
と檀紙に記した一首の歌を奉つた。後程もなく大人は旅館に伺候した。侯は慇懃にもてなした。その時の状を、
「はじめてたいめするに、年比いかゞと思ひし本意も叶ひぬれば、何くれの事はいひさして古き典はさらなり、中昔のことばのさとりがたきふしぶしや何やを思ひ出るまゝに問きけば、いさゝかとゞこほることなく、よしあしのけぢめあきらかにこたへす。」
侯は旅路の事を述べ、西国の面白き海景を語り、各所にての吟詠を示されると、直に墨引き言加へなどされ、侯は
  音にのみ聞し鈴屋のをぢに逢てふるごときくぞうれしかりける
と素直に心裡の悦をのべ初夜過ぎるまで対談された。辞し去つた後大人の様子を後りうごととして次の如く書いてゐられる。
「歳は六十あまり六とか聞しを、程よりはすくよかに見ゆれど、耳なんほのほのしければ、すぢなきいらへせんも心くるしとや、御野はかのをさめきて側にひゞらぎ居て伝ふることにいと大声に物すれば耳に手をおほひ、少しかたぶきつゝ聞うるほどいと心もとなし。打むかへば筆つきのたけきには似ずてをゝしくこはごはしき気もなく、おもりかにて面やう髪のゆひさまなとは早う見し写し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし、老たるけにや、やせほそりたれど心肝はいとつしやかなりけり」
と叙してある。大人が長身痩躯、温容の人、六十六歳で耳の遠かつたことが知られる。年譜によると、寛政七年のことで二月に字を中衛と改め、大祓詞後釈が出来た年で、その前年十月には若山に到り大祓詞や古今集序などを紀伊大納言に進講し、紀行紀見のめぐみを作り、翌年には源氏物語玉の小櫛が脱稿してゐる。古事記の中巻の伝はその四年前に出来てゐる。
  侯は翌々十五日宮川を船で渡り二見浦で禊ぎを行ひ宇治に入り、三祢宜定綱三位、四祢宜経雅三位等に迎へられ、清渚集などを見、斎館に入り衣を改めて神拝を終へ、十六日雨を衝きて松阪に引かへし、大人と会見された。侯のお望みにより前年紀伊大納言より拝領の品々を御目にかけた。さうして源氏物語につき一場の講話を請はれたので、大人は衣を改め初音の巻を講じた。その時の有様を旅の日記に
「ひかる源氏物語のうへども語り出るに、言葉のれいをもて見る時は、大方しられて一わたりとくことなどは何ばかりのことにもあらさるを、たゞ式部の君のふかく心をもちひ給ひてかゝれたるほどなど、知れるもの稀也、さるを人の教ぞなどいひて、道々しきことにとりなし、中々に解あやまれるたぐひ世に多かりなどまめやかにかたる。」
と叙し、斯ういふ折でなくては大人の講話を聞かれることはできないであらうと従臣も勧め御自分もさう思はれてゐたので、一講を望まれた次第である。侯はその時の状を叙して、「翁はみやびたる衣にきかへて、初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたるいとよういひとほれり。中にも
  薄こほりとけぬる池の鏡にはよにたくひなきかけそならへる
といふ歌は源氏の御歌にて、みづから世にたぐひなきとはよも詠み給ふまじ。異本に
「曇りなき」とあるを用ふべし。又明石の姫君の御歌に
  引わかれ年はふれども鴬のすだちし松のねを忘れめや
  をさなき御心にまかせてくだくだしくぞあめる
とあるを古き抄たゞちに歌のあしきやうに説けるはたがへり。こはつくり物語なれば源氏のうへなどことごとしうほめて書かれたれど、歌は式部の君のみなみづからよめるなればこれのみならず、所々に歌はよくもあらぬ さまにかき給へり。かゝるたぐひ例のふかく心を用ひ給ひし所なりといへるなどぞことに耳にとゞまりて覚ゆ。」 と叙し、猶翁が契沖阿闍梨並に県居大人之源氏の説き方を批評した言葉を挙げて次の如く述べてある。
 契沖あさりの説は大かたよろしけれど、いとすくなきこそ口をしけれ
と評してある。源註拾遺の説明の太簡なるをさう云はれたものであらう。県居大人に関しては、
「県居のうしはあまりにもあかれる代のすがたをこのみて、中昔の物語を説くにも、さるさまにいひなせば中々にその代々にたがへる事まじれり。かきさまも人聞うとく阿闍梨のは心得やすし」
と語つたと記されてある。
 また仮名遣問題に関しては門人石塚龍麿の功をたゝへ、古言清濁考を紹介し、
「かんなの疑はしき是かかれかなどあげつらひ物するに、すべて物語ふみにはいまだ思ひ定めぬもおほかり。ふるき言葉はすみ濁れるもけちめあるを、宣長いかであまねくあきらめて今の世のひがよみを直し侍らんとはやくより思ひわたり侍りつるをえなんはたさずてありつるを、弟子なる石塚の龍まろといふもの、その心さしをつぎて清濁考と名づけて物し侍り云々」
斯ういつてゐる中に、御野がこの郷に三井高蔭や稲掛大平の如き優れて古言を好んでゐる門人がゐますから、両人をお召しになつてはと密かにうかゞひを立てると、宜しいとの御言葉があつて、両人はやがて面 謁をなした。二人とも最初はうひうひしい状態であつたが、次第にうちとけて恰も親しき友垣の如く御話を申し上げ、大平はやがて次の如き一篇の長歌を奉つた
 言霊のさきはふ国 言霊のたすくる国の 古言のことのみやひを
 まなぶ人 さはにはあれど 学ぶ君さはにはいませど
 うま人はうま人さびて そらかそふおほよそにのみますものと聞つるものを
 つぬさはふ石見の海の うら安に御城高敷て 国しらす殿の命は
 ふる言の言のこゝろを 奥山のいはもと菅の ねもころに分きためたまひ
 てる月のあきらめますと 風の音の 遠音にきゝてその海の深くたふとみ
 其御城いや高々に 年久にあふきまつるを 神風の伊勢の国
 わたらひの神の大宮に この秋はまゐでたまふと かしこくもわがまつ阪の
 御やどりにやどりたまひて すゞのやの翁とかたらひ 古言の言のこゝろを
 いや深くとひますなへに をちなきや大平すら
 をかしこくも御まへに召され 霊の神のちはひか 言霊の言神のたすけか
 あやにかしこし
これより先、大平は関のうまや有馬の日記も石見に送つて御目にかけてゐたので、侯はそれを写して返され二首の歌も腹案は出来てゐられた。また高蔭の珍襲してゐた雑要抄を借用されたことが次の如く誌されてある。
「かの雑要抄の中にてうどとも、こまかにかきたる絵巻物を高蔭がもてる。こは源氏の物語など心えぬ所々、こをもてさだむる事おほかれば、いかで見せ参らせむとて、御野が借り得てこの比おこせしを、まつ一わたり見しに、いとうるはしくかきて、世にめづらかなる物なれば、我例のくせとて、東にもて行てうつさせんはいかにといへど、そはかたき事也、こと人には見るばかり乞ふだに、かやすくはゆるさず、此ころも物のついでごとにいひ出つゝからうじてもてまゐりしなり。されど此郷にて物せんことはこしらへ置侍りしなどいらふ。さは我あへらん時、いはんとて、けふしばしばほのめかしければ、いとよく請ひきて、そが云ひけらく、こはもと高橋ぬしの家にふかくひめ置れしを我このぬしに物ならひ侍りしかば、いろいろ物して京の絵師にかたらひて、神にちかひ口かためて後三とせといふをへて事なりぬ。すべて都かたの人はかうようの事いみしうもてかくさるゝから世にも伝らす、こも既にほむすびの神のいかりにあひて、そのもとは焼失ひつるを、世に残りたるはたゞ我もたるのみ也。六巻侍れば此三巻はあづまへもておはして御写し伝へ給へ、今三巻は又後に奉らむとねんごろにいらふるに、嬉しければおしつゝませてそがはしに書きつく
  いにしへのみやびを見るはたかかげとあだにはおもはじ年はへぬとも
 こをよくふんじて長櫃にいれよと仰せはなほくさぐさ問きくに、我も人もいにしへしのぶ世の ひがものとちなれば、亥四つまで語らへどつきもせず。」
その夜のさまが思ひやられる。斯くて話ばかりではと云ふので、互いに歌を詠みかはした。
翁のは
  古言はまうせど尽ず秋の夜を千代もあかさんおまへさらずて
次に高蔭は
  伊勢のあまのすめるかひある渚とは宿れる月の光にぞ知る
大平は
  月かげはくもる今夜もたふときや君かみおもわ見まつるかよさ
侯はこれらの人々の歌にめで、
  古郷の人にかたらん旅ころもかゝるまとゐのかゝるみやびを
とよまれた。翌日侯は寅の刻出立たれ、高蔭大平が御送りをなした。」
 なお、対面後の10月20日付宣長書簡が『鈴屋集』巻9(宣長全集・15-171)に載る。



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安田広治(やすだひろはる)

 明和5年(1768)~天保3年(1832)。享年65歳。外宮御師。宣長門人。藤本正陳次男として生まれる。童名、長四郎。名は正起。後に豊秋。外宮宮掌大内人になり、天明4年(1784)の養子となる。寛政4年(1792)、山田浦口町新宅に移り住む。同7年12月三女・能登と結婚する。


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安田躬弦(やすだみつる)

 宝暦13年(1763)?~文化13年(1816)1月5日。享年54歳(異説在り)。 名、若沖、通称、快庵、また一庵。号、棗本。福井藩江戸藩邸で藩医として藩主松平治好室定姫(田安宗武女)等に仕えた。家禄100石。賀茂季鷹の門人。加藤千蔭、村田春海等の江戸の国学者や殿村安守等とも親交があった。

【参考文献】
「江戸派歌人安田躬弦寸描」鈴木淳(『江戸和学論考』)。



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安田躬弦の訪問(やすだみつるのほうもん)

 聞けば答えが返ってくる、宣長の学問の深さに驚いたのは門人だけでない。

 寛政2年(1790)4月14日、雨。躬弦は松坂で韓天寿等を訪問し、午後に鈴屋を訪れ、宣長と初めて対面する。その時の紀行『田中如真道の記』(別称『安濃の日記』)に


 「十四日、甲子、けふも猶ふる、けさ中川天寿はじめて逢り、こは鳥の跡にいみじう心とめたる人にて、よき手本共あまた写しもたりといふ、昼つかたより近きわたりにあひしれる人々をとふついでに、本居宣長がりはじめてゆく、我国の古き書にたんたる翁なれば、何くれと物語するに、東の事などねもごろにとひ聞つゝ、あるじ宣長

百重山越て来て鳴郭公おもひかけきやけふの初声
むらさきに衣するらん風流士のみやびなへ(ママ)かし武蔵野の原

などいひ出たり、ならのはの古言に、心えぬ所々思ひ出てとふに、いとよくわきまへてこたふるが、露とゞこほりなければ

 丈夫はうばら(荊)かうたち(棘)苅そけ(退)て
              たゝかし道のしるべするかも

など我もいひて、暮ちかき頃武成がりかへる」

とある。

 躬弦が、「ならのはの古言」つまり『万葉集』等の言葉で疑問点があったので、思い出すままに質問したところ、宣長は大変明解に答えて少しのよどみもないので感心して歌を詠んだとある。この時の贈答歌は『石上稿』にも載る。

 「四月のころ江戸の安田躬弦(ミツラ)がはじめてとぶらひ来けるに、

 めつらしくきなく初音の時鳥つきて日毎に(日にけに)聞よしもかも

かしこの事共語るを聞て、

 紫にころもするらんみやひをのみやひなつかし武蔵のの原
 百重山こえてきて鳴郭公思ひかけきやけふのはつこゑ」
                 (宣長全集・15-460)

  また、『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』には、「五月 一、江戸大伝馬町安田快庵」(宣長全集・248)とある。

【参考資料】
  使用した『田中如真道の記』は、本居記念館本。「蒲城文庫」「四方蔵書」等の蔵書印が有る、松阪市史編さん室移管本。



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山鹿(やまが)

「大日本天下四海画図」部分 熊本



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山形県の宣長歌碑(やまがたけんののりながかひ)

1.鶴岡市大山公園

「しき島のやまとこゝろを人とはゞ朝日に匂ふやま桜花」
 昭和13年5月、旭台桜ヶ丘碑刻。

堂々たる碑です。碑面には、
「旭臺櫻ヶ丘、加嘉山公園八景之内
しき嶋の 山とこゝろを 人とはゝ 朝日に匂ふ やま桜花 宣長」
と書かれ、裏には、
「昭和十三年五月、加藤嘉八郎有邦建之」
と刻されています。
加嘉山とは加藤嘉八郎さんのことでしょうか。
加藤さんは地元の素封家で私費で公園を開発、碑を立てられたそうです。




2.天童市舞鶴山公園建勲神社

「倭文機袁 織田乃命者 朝廷辺袁 払静米弖 伊蘇志伎意冨淤美」
 明治32年3月建碑。
歌は「しづはたを織田の命は朝廷辺を払い静めていそしき大臣」
『玉鉾百首』余り歌の一つです。

歌の横には
「織田信長公をたゝへてよめる、贈正四位宣長翁の歌、曾孫正五位本居豊穎書」。
とあります。
歌は、織田信長は国内を平らげ精勤の大臣(おおおみ)であることよ、という意味です。
織田信長を祀る神社にふさわしい歌です。
碑の裏面には、碑を建てた地元篤志家の名前が記されます。
大きな碑ですが、万葉仮名で書かれているため見る人も少ないのが残念です。


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山鹿を出た親子(やまがをでたおやこ)

 実はこの二人、帆足長秋(ホアシ・ナガアキ)45歳と娘・京(ミサト)15歳である。
 享和元年(1801)4月9日、肥後国山鹿郡(熊本県山鹿市)久原村を出た。長秋の妻も同伴し3人の旅である。

6月4日、    京都で、上京中の宣長と対面する。
6月12日、    宣長松坂に帰る。
6月下旬、    長秋、京等、松坂を訪れ、『古事記伝』の書写を開始する。
8月3日、    京は、宣長の書いた『地名字音転用例』を書写した。
8月15日、    宣長とその門人が開いた「八月十五夜二十六番歌合」に父娘で出席、各2首詠む。
8月25日、    新座町の大平宅で開かれた歌会に出席。
9月1日、    宣長より送別の歌を贈られる。滞在中に親子で写した『古事記伝』は7冊(京、巻27、28。長秋、巻24、25、26、29、30)。
9月2日、    松坂出立。伊勢神宮を参拝し、11月25日帰宅。

 京が、この旅で詠んだ歌を集めたのが『刀環集』である。「刀環」(トウカン)には、故郷に帰ると言う意味がある。

「帆足長秋、京先生像」(山鹿市立博物館前)



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邪馬台国はどこ? 宣長の説(やまたいこくはどこ? のりながのせつ)

 古代史における最大の関心事「邪馬台国」。
その所在地について、九州説と大和説がある。
大和説は、遠く『日本書紀』にまで遡り定説となっていたが、
宣長は、「魏志倭人伝」という基本文献の解釈から、
九州説を提唱した(『馭戎慨言』1778年2月30日脱稿・1796年刊行)。

 但し、「馭戎慨言」の書名に見られるように、
「内尊外卑」の立場に立つ事が禍して、
読む前から批判されることが多いが、
テキストを正確に読むといういわばミクロ的な視座、
また当時の国の概念や、この国土をよりグローバルな視点から眺めるというマクロ的な視座で展開されるので、
文献に依存する限り、部分修正や異説を唱えることは出来ても、
宣長説を覆すことは困難であろう。

「「馭戎慨言」は全篇を貫く尊内卑外の精神によって誤解される面もあるが、歴史事実の考證にかけてはすこぶる的確で、今日なお生命を持つ学説が見うけられる。有名な魏志倭人伝の耶馬臺国の九州説が立てられているのはこれであり、そこには不弥国を宇美に、投馬国を日向の妻に当てる説までが述べられている」 
「本居宣長と国史学」坂本太郎 (『本居宣長全集』月報13)


>>『馭戎慨言』
(C) 本居宣長記念館

山の神(やまのかみ)

 松坂には各町に山の神が祀られてその小祠があった。宣長の住する魚町には、坂内川近くに祀られていた。魚町宣長宅から2分。
 魚町の住人である宣長は、初詣はもちろん、寄進も行った。
 『古事記伝』刊行時の奉納先松坂3社の一つとも推測されるが確証はない。

 また、山の神祭りは、子供の祭りとして盛んに行われ、宣長も、『日記』では、宝暦9年、13年、安永5年、天明5年、寛政5年に当番を勤めている。
 例えば宝暦9年11月条には、今年の当番が清八と2軒であることが書かれ、1日の夕方から5日の夕方までの子供宿を清八が勤め、6日の振る舞いを本居家で行う。招くのは町内の男女の子供、また供を含めて35、6人。夕飯は七つ半より始まり飯、羮、平、炙り物、酒は無く、小落雁、串柿、軽焼という菓子を出す。また夜食として町中の人を招く、この夜は20人程が集まった。この席では先の食事の外に酒、取り肴が出される。7日は終日酒、などと詳細に記され、学者とは別の、町の一住人としての姿を窺うことができる。

 『毎朝拝神式』遙拝の一社。魚町山の神社は明治になり御厨神社に合祀されたが、その後再び分祠され、長谷川家の庭園内に祀られる。
長谷川家内の山の神 鳥居

山の神 社殿
社殿の中は向かって右が魚町山の神。左が長谷川家のお稲荷さん。


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山の神のご馳走

「今月の宣長さん」、「十一月の宣長」、「山の神のごちそう」参照
 こちらをご覧ください


山の神は大賑わい

「今月の宣長さん」、「十一月の宣長」、「山の神は大賑わい」参照
 こちらをご覧ください


「山びと義経の徴証―語りから実像へ―」   嵐義人

  伝承から実像へせまる
 国民的英雄である源九郎義経には、中世末以来の伝説のベールが幾重にも重なり、平安末期を代表する武将としての実像は杳として掴みがたい。
 しかし歴史学は、伝承を含む多くの資料の海に分け入って、まずは史実と虚構を峻別し、史実から遊離した伝承についても伝承形成の道程を明らかにする務めがある。とはいえ、脚色部分のみが独り歩きしている義経伝承については、考証史学も半ばお手上げの状況にある。
 明治二十四年(一八九一)、星野恆は「源義経ノ話」を発表し(『史学叢説』第二集、明治四十二年、冨山房)、『義経記』『大日本史』を批判して、『前太平記』『義経勲功記』『鎌倉実記』といった俗書から新井白石や伴信友の著作にまで見える義経は平泉で死なずに蝦夷へ渡ったとする稗史伝説の類を駁し、ほぼ『吾妻鏡』のみに拠るべきことを説いた。
 ついで黒板勝美『義経伝』(大正三年、文会堂)、大森金五郎『武家時代之研究』第二巻(昭和四年、冨山房)を経て、渡辺保『源義経』(人物叢書、昭和四十一年、吉川弘文館)、高柳光寿『源義経』(昭和四十二年、文藝春秋)等の諸論著が公刊されるが、最終の到達点には達していないと見てよかろう。
 例えば、黒板説の壇ノ浦潮流反転説にしても、のちに海軍史の金指正三による反論(「実証・壇の浦合戦」〈『歴史への招待』六〉昭和五十五年、日本放送出版協会)が出されている。歴史学としては、このような立論と反論を今後も際限なく繰り返すこととなろう。
 一方、言うまでもないが、荒唐無稽というべき伝説を擁護する俗書は跡を絶たない。中でも小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(大正十三年、冨山房)は、今なお実証史学の代表的著作を凌駕する古書価を誇っている。義経の音読ゲンギケイ訛してヂンギスとなるとか、『蒙古源流』にいう成吉思汗の生年一一六二年は義経の生年平治元年(一一五九)に近いといった類似性を強調し、衒学的ともいえる調子で論ずるが、考察の上からは一顧だに価するものでない。
 その点、民俗学や説話学・中世文学論といった分野の優れた考察は、義経伝承形成の筋道をほぼ解明しているかに見える。
 その出発点は、自らを歴史学徒に位置づけた柳田国男の「東北文学の研究」(『雪国の春』昭和三年、岡書院)に求められる。『義経記』の構成上の不自然さを論拠に、各地での小さな語りの集合と捉え、加えて熊野修験などとの関連を指摘した。やや遠慮がちなこの論文の意図を承けて徹底して発展させたのが角川源義「『義経記』の成立」(『語り物文芸の発生』昭和五十年、東京堂出版)であり、この方向でのその後の研究については三沢裕子「『義経記』成立の問題点」(軍記文学研究叢書一一『曽我・義経記の世界』平成九年、汲古書院)が要領よく纏めている。
 さて、鎌倉時代は、鎌倉新仏教といわれるように、新興寺院・再興寺院が経済的基盤の確立と貴紳家以外への布教ならびに宣教のため、寺院絡みの芸能や語りを弘めていくことになる。その傾向は南北朝期から室町時代になると、さらに顕著な動きとなり、語りの競合や荘園制の崩壊も相俟って、史実らしさから虚構化へ大きく変貌を遂げることとなる。しかしこれらの展開は、歴史の推移を忠実に反映しており、それを承けての語りの管理集団の意向を如実に示している。

  史料の読みを通して
 ところで、義経に関しては良質な資料は殆んどない。右大将家(頼朝)によって構築された鎌倉幕府が排除した謀叛人であり、庇護者であった奥州藤原氏も亡ぼされており、同時代史料の残る可能性は極めて少ない。それでも高野山金剛峯寺に自筆文書が伝えられ、藤原兼実の『玉葉』、藤原定家の『明月記』、吉田経房の『吉記』などに公家の高みから見た評や風聞が多いものの、若干の記録が見えることは珍重されてよい。
 これに鎌倉幕府による編纂書であり、承久の乱以前は史料的価値が低いといわれる『吾妻鏡』が主要史料として加わるが、幸いなことに義経関係記事については幕府保管の文書を引いたと覚しき資料が少なくない。
 さらに鎌倉期の成立と考えられる『平家物語』『平治物語』に、核となる記述が見えるが、これも同時代の記憶が風化しない前に成立した故か、多くの史実を伝えているように見受けられる。
 まずは、以上の諸資料を骨子として史実を探り、虚構の上に語りを展開する室町期以降の『義経記』以下を、伝承との関連も踏まえつつ、義経語りを増補し弘めた集団との間に何らかの共通性が認められるかどうか検証していく必要があろう。
 そのためにも諸資料の読み取りが決め手となる。例えば、『平家物語』において、福原落ち以降、壇ノ浦に滅ぶまで平家は敗け続けているように見えるが、『玉葉』などには、福原落ちの直後に「平氏其の衆を得て勢力強盛、今に於ては容易く進伐を得べからず」と見え、一ノ谷の合戦のあとでも「鎮西多く平氏に与し了ぬ、安芸国に於て官軍(源氏)と六ケ度合戦し毎度平氏理(勝利)を得」と記している。つまり史実に依拠するところ大なる『平家物語』ですら、平家の亡びを強調する余り平家優勢の部分を省略して物語の展開を図ったと見られるのである。
 例えばこのような『平家物語』『吾妻鏡』等の読みを通して見た義経の性格を見るに、どうやら懸命に戦い、御所の警衛を通して後白河法皇に忠を尽くし、鎌倉にいる兄頼朝には忠実な代官たらんと行動した人物であることは動かぬようである。つまり義経は、情の人であり行動の人であり、先の読みよりは目先の懸案にすべてをかけるタイプと見える。そして、その先読みのできぬ点と、当時の武家社会の前提である惣領制に対する理解に欠けていた点に、義経の弱点があったといえよう。
 惣領制下では家の代表は惣領であり、庶子は惣領の命を受けて行動する存在にすぎない。所領を給付・安堵されるのも惣領なら、主家の命に応じて庶子・家の子・郎等を率いるのも惣領なのである。故に頼朝は庶子を代官に命じたのであるから、鎌倉に留まっても家の勤めを放棄したことにならない。その上、「腰越状」で有名な義経への糾弾も.頼朝の命を待たずに法皇による補任を受けたにことが惣領制を踏み躙ったことになる、武家社会の常識の逸脱に対する懲罰に外ならないのである。

(腰越状の写真)

 とすると、義経は戦上手であり、目先の課題はうまく対処し、かつ敏速に行動する能力を有する人材であるが、政治家としての資質に欠けるところがあるということになろう。

  一ノ谷・屋島・壇ノ浦での戦法
 義経の戦上手を決定づける一ノ谷、屋島、壇ノ浦の三つの合戦に共通して言えることは何か。一つは、範頼や梶原らとは一線を画し、義経麾下の者だけで勝敗を決していること。そしていま一つは、『平家物語』『吾妻鏡』には記されていないものの、平家方が圧倒的勢力を誇っていた中での合戦ということである。
 一つずつ見ていこう。まず一ノ谷の戦いは、堅牢な防備を固め西方に膨大な勢力圏を擁する平家の前線基地に、東国勢が長駆遠征隊を送りこんだという状況にあり、義経による奇襲がなければ、平家は一ノ谷の陣を守りおおせたに違いないのである。
 義経の鵯越の正確なルートは不明であるが、その研究史に触れる冨倉徳次郎『平家物語全注釈』(下巻(一)、昭和四十二年、角川書店)などは、鉢伏の峯とする異本も紹介しつつ、地理的に鉄拐山ルートを提唱する。しかし問題としたいのはルートの解明ではなく、地理を知らぬはずの義経がこのような迂回コースに勝敗を賭けた背後に何があったか、ということである。
 このあたりには、明石を始め、姫路の書写山、西脇の西林寺など熊野修験関連の寺院もある。また川西や池田を中核とする多田銀山や姫路の西方には山崎の踏鞴遺跡などもある。しかし、そのような土地や集団との関係はいずれの伝承にも現れない。『平家物語』でこの場面に登場するのは、鷲尾庄司という老猟師であり、息子の熊王が元服して鷲尾三郎を名乗り、後々まで義経に仕える筋立てになっている。このように間道の途中で迎えて案内するということは、初めから何らかの結びつきのあった人物と見てよかろう。一ノ谷では、義経と山人・猟師との結びつきが何よりも大きな作用をしていることに気づかなければならない。
義経が鞍馬にいたことは『吾妻鏡』にも記述があり、「腰越状」からも諸国を転々としていた若年のころが窺われる。そこに山人の存在を想定することは異とするに足らない。
 次に屋島の戦いであるが、逆艪に反対して嵐の中を小人数で紀伊海峡を渡るということは、船の装備に詳しい人々とは無縁であったことを示す。しかも逆艪を主張した梶原の子孫は、のちに沼島・高砂を根城に活躍する梶原水軍となる(佐藤和夫『日本中世水軍の研究』平成五年、錦正社)。また水主・揖取も義経に反対している。義経と水軍の関係は無いと見てよかろう。
 しかしこの無謀とも思える賭に出て無事対岸に辿り着いていることは、この海峡を庭のように知り尽した集団との結びつきを示唆する。嵐の中を対岸に漕ぎ着くと、案の如く平家方はさしたる備えもなく、のちの展開から出迎えの勢と考えられる近藤六の一隊が待ち構えている。
 続いて近藤六は、夜を日に継いで阿波と讃岐の境なる大坂越を駈け通す案内人となっている。鷲尾父子と同じ役目を負っているのである。その上、大坂越の途中、白鳥・丹生屋という土地を過ぎるが、白鳥は日本武尊の伝承と関係し、草薙の剣から製鉄と結びつく地名である(谷川健一『白鳥伝説』昭和六十一年、集英社)。また丹生屋(現入野)の丹生は水銀鉱脈の地名で(松田寿男『丹生の研究』昭和四十五年、早稲田大学出版部)、ここからも山人との結びつきを読み取るべきであろう。
 最後に壇ノ浦であるが、『吾妻鏡』にも、熊野の湛増と讃岐の橘次公業、そして周防の船所正利の加勢があって初めて平家方と五分以上の戦いが可能になったことを記す。
 ところで熊野の湛増は、のちの伝承では弁慶の実父となる(『義経記』では「弁せう」)。義経が大物浦で遭難したあと吉野の山中を徘徊し、北陸落ちの際に山伏姿になるのも、湛増を介して熊野修験との関連が伝承を支えていったことを示していよう。
 また「橘次」は、金売吉次と同名であり、どうやら鉱山師と無縁ではないことを示唆している。
 そして船所氏は、防府の近くに周防鋳銭司(今、鋳銭寺の地名がある)や、さらにそれと関連の深い鋳物師という地名もあって、水軍ではあるが、これまた鉱山師と関係のある集団だったのではなかろうか。
 このような山人縁りの勢力を率いて平家方と戦った義経は、戦法においても水軍出では取り得ない奇策を放つ。つまり、平家方の水主・揖取を射殺すのである。これは水軍仲間であれば決して犯してはならない禁じ手である。
 いずれにせよ、義経の戦法は、山びと流であり、各地に勢力をもつ山人との結びつきの上に作りだされたものといえよう。

  金売吉次と蝦夷渡り
 所領をもつ武士を配下に持たず、伊勢三郎、鷲尾三郎を始め山道に明るい山人系の剛の者を従え、やがて弁慶など修験系の荒法師を活躍させる義経伝承が伝える義経の実像とは、武家貴族にして武家の棟梁源家の御曹司ではなく、山びと義経であった。
 その義経が金売吉次に見出され(『平治物語』以下)、いつしか伝承の中で平泉で死なずに「御曹子島わたり」(『室町時代物語集』所収)などに蝦夷行きが語られる。これは単なる追放や逃避ではなく、「金」との関係があり、山びと義経が鉱山師と結びついていたことが核にあることを示唆する。そこで最後に、義経の実像と伝承を結びつけていた「金」との関係に触れておきたい。
 吉野の金峯山であれ、黄金咲く奥州平泉の藤原秀衡であれ、義経と関係のある土地は何故か「金」と結びつく。どうやら義経と「金」との結びつきは、そもそもの初めから存在し、後年ますます強められていったものらしい。おそらく奥州藤原氏滅亡後も、奥州の砂金は京に運ばれ中国大陸に流れ、その対価として勝れた文化を伝えるルートが永く廃れなかったことによるものであろう。
 語りの徒は、金売吉次を以て奥州藤原氏の代役を勤めさせたと見ることもできる。「吉次」は、柳田国男「炭焼小五郎が事」(『海南小記』大正十四年、大岡山書店)に指摘がある如く、父は炭焼藤太、息子は金売吉次として登場することが多い。砂金取りであり、鋳物師(鉱山師)であり、金売商人でもあるのだろう。
 その主な伝承については太宰幸子「『金売吉次』の伝承」(『金属と地名』平成十年、三一書房)に纏めがあるのでここでは略し、義経伝承の核となる奥州へ誘った「吉次」の名について考察しておきたい。
 「吉次」はいうまでもなく「橘次」であり、橘の名を負う。その橘は金色の実であり、南殿(紫宸殿)の右近の橘も、秋に実がつく(左近の桜は、春に花が開く)だけでなく、五行で西方に当たることから西に植えられ、木火土金水の「金」とも一致するなど、二重三重の意味を持たせていることになる。
 この橘が、永遠の生命の象徴であることは、記紀におけるタジマモリの伝承により広く知られている。また、橘を井戸の傍に樹えると、その水は万病に効くという「橘井」伝承が古代中国に伝えられている。
 葛洪(二八三~三四三)の『神仙伝』蘇仙公の条に次のように見える。「先生曰く。明年、天下疾病あらん。庭中の井水、簷(軒の意)辺の橘樹、以て食に代るべし。井水一升、橘葉一枚、一人を療すべし。……来年、果たして疾病あり。……皆水及び橘葉を以てするに、愈えざる者なし。」『続日本紀』天平八年(七三六)の橘諸兄らに橘宿禰姓を賜う条では、「寒暑を経て彫まず……金銀と交わりて逾々美し」と言って杯の中に橘葉を浮べて賜姓の詔を下す。井水ではないものの、橘と水が結びつき、その神秘性に肖かろうとしている。『日本書紀』の反正天皇(瑞歯別)の段では、「是に井あり、瑞井と曰う。則ち汲みて太子を洗いたてまつる。時に多遅の花、井の中にあり。因りて太子の名とす。多遅の花は今の虎杖の花なり」とある。虎杖か橘樹かは問わぬこととするが、よく似た名の花である。
 新井白石『藩翰譜』(巻四)に載せる井伊家の伝承は次の如くである。「系図の伝うる所、……遠江国に下り、……此国井の谷という所に八幡の宮居まします。其瑞垣のほとりに御井ありけり。かしこの宮司、ある正月元日の朝、社頭に参りしに、今生れたらん頃の赤子、忽ちに御井の内より現れ出づ。……ゆえに井桁を採て幕の紋とす。また橘を紋につける事も彼の現はれし時、橘一つ御井のほとりにありしを見て、宮司此児の産衣に絵がきてければなり。」
 日蓮伝承も同類ゆえ、井伊と同族ではないかと考えられているが、右の井伊谷とのちに移った彦根に、竜潭寺つまり竜の住む池の名をつけた寺がある。古くは井伊谷八幡の神宮寺に出るものであろうが、ここでも橘、井戸、竜(蛇)が揃って出る。しかもこの地は、古く和田峠の黒曜石の交易が行われ、鉄鐸・銅鐸を運んだ古道のほとりにある。
 因に、韓国にはさほど古くないかも知れないが、「薬水」の伝承がある。秋葉隆『朝鮮民俗誌扁(昭和二十九年、六三書院)に見え、薬水の近くには蛇または竜が出ると伝える。
 蛇にはまた鉱脈に現れる伝承が多く、出雲の八岐大蛇も、砂鉄を産する川の赤錆と、洪水などで暴れる状から出ていると解されている。
 これに、柳田国男以来知られている如く、鉱山師たる鋳物師を「井戸掘り」(勿論「芋掘り」も)と称する点を勘案すれば、「金売吉次」の「吉」すなわち「橘」の意味が明らかとなろう。
 山びと義経の存在を鉱山仲間から聞き知ったであろう吉次は、黄金の都平泉へ義経を誘う。京と平泉を往復する吉次と結びついた義経は、『義経記』では鞍馬山から平泉、そして再び鬼一法眼の許へ、そこからまたも平泉へ、ついで黄瀬川で兄頼朝の陣に参上し、京へ、さらには西国へ赴き、また京へ戻っては兄と仲違いをして今一度平泉へと、聴き手には何度となく行き来する印象を与える。
 鉱山師は特殊な技術と組織を必要とする。そこへ地域的に重なり合い、語りの組織を持つ修験との結びつきが発生すれば、いくつかの物語が形成されることは自然の成りゆきであろう。戦国以後、大名は鉱山師の他領移住を禁じたであろうから、その後は伝承が独り歩きすることになる。
 こうして山びと義経が黄金の御曹司となるに及んで、橘の如く永遠の生命と黄金郷の主としての資格が伝承上に加わることとなる。
 衣川で義経は泰衡らに討たれるのであるが、文治五年(一一八九)閏四月三十日に持仏堂で自害しても暫く放置され、六月十三日になって首実検されている。一ト月半たった首が本物か偽物か分かるだろうかとして、義経は蝦夷へ渡ったとする伝承が形成されていくのである。
 蝦夷にはまた、古くから黄金伝承が伝えられている。紙幅の関係で以下の考証は省略するが、金田一京助「義経入夷伝説考」(『東亜之光』九巻六・七、大正三年、東亜協会)「日の本夷の考」(『国学院雑誌』二〇巻九・一〇、大正三年、国学院大学)など先人の論も少なくない。それにしても、義経を蝦夷に逃がすところまでは、山人系の黄金伝承の影響下にあることは間違いないと言えよう。

(金色堂の写真)

「山びと義経の徴証―語りから実像へ―」(吉岡吾郎)
『図 説源義経 その生涯と伝説』・河出書房新社・平成16年10月


(C) 本居宣長記念館

山室山の桜(やまむろやまのさくら)

肉眼ではもちろんのこと,双眼鏡でもなかなか見えない奥墓の山桜を、
松阪市内在住の,松田稔さんにお願いして、写真に収めていただきました。
青空をバックに美しいですね。
時間は、2018年4月7日14時頃です。
お楽しみください。




(C)本居宣長記念館

山室山神社(やまむろやまじんじゃ)

 明治4年(1871)、川口常文と野呂万次郎は、本居信郷、久世安庭等と山室山奥墓の横に祠を建て祀ったのが濫觴。同七年、本居豊穎、信郷が霊祠造営を出願し、また奥墓の隣に祠殿を建て祭祀を行うことを追願し共に認可された。この間に、野呂万次郎等が平田篤胤合祀を求め、異論もあったが相殿に祀られることとなり、その結果社名を「山室山神社」とした。

  社殿は翌8年3月21日竣工、遷座式では、宣長翁の御正体を信郷が、篤胤翁は野呂万次郎が奉載した。同13年明治天皇巡幸の時、勅使として侍従富小路敬道を遣わし社域拡張のため金一封を賜る。
  同14年、社殿改築の計画が出て、場所の狭さなどにより、移転が決定。
  同15年4月、松阪町殿町追手筋の畑(奉行所跡)を新社地とすることを出願し、認可される。
  同16年、宣長に正四位追贈。
  同22年9月26日遷宮式が行われる。
  同34年、宣長没後百年で山室山保存会が出来、奥墓周辺の旧社地の整備が行われる。
  同36年、県社となる。
  同38年、宣長に従三位追贈。
  大正4年(1915)11月8日、殿町地内、四五百の森に遷座。
  昭和6年(1931)、社号を「本居神社」と改称。
  平成7年(1995)4月1日、再び社号を「本居宣長ノ宮」と改称。

【参考文献】
『遺徳を称えて-山室山神社の祭祀と鈴屋遺跡の保存-』岩出忠次。

奥墓傍らにあった頃の神社。


奥墓傍らにあった頃の神社。


現在の市役所にあった頃の山室山神社。
高札に「本居宣長壹百年祭山室山神社」の文字が読み取れる。



(C) 本居宣長記念館

友人(ゆうじん)

 京都遊学時代の友人と言えば、山田孟明、堀蘭沢、岩崎栄令(藤文輿)、草深玄周、岡本幸俊、遊郭が好きな片岡吾一郎などがいた。孟明は帰郷後も訪ねてきてくれたほどの親友。蘭沢は景山先生の息子で、孟明と共に宣長のよき遊び相手。国に帰る時、「藤文輿が肥に帰るのを送る序」を贈った位だから栄令はまじめな友達。玄周は、後にその妹を妻に迎えることになる。片岡は紀州藩御留守居役の子。親しいが祇園辺りで顔を遭わすとひどい目にあう友達だ。以上は、『在京日記』や歌にしばしば名前が出る人たちである。彼らは、僅かに草深と堀を除き、経歴、素性など一切不明である。無名な人だが、宣長には忘れられない人たちであった。
 この他にも書生仲間というか、数多くの知己がいたことは言うまでもない。その一人に本庄七郎と言う人物がいた。後の小沢蘆庵である。




(C) 本居宣長記念館

友人(36の窓)

 宣長にはたくさんの友人がいた。ただ、本当は友人でも、門人録に名前が載ることで先生と弟子という関係になった人も多い。稲懸棟隆や須賀直見、戒言などがその代表だ。このCD-ROMに登場する宣長の友人は次の人たちだ。


> >「友人」
> >「荒木田経雅」
> >「荒木田久老」
> >「律儀な久老さん」
> >「韓天寿」
> >「橋本経亮」
> >「塩崎宋恕」

(C) 本居宣長記念館


雪の堀坂山(ゆきのほっさかさん)

  此朝け堀坂山に初雪降りぬぬば玉のきその夜嵐うべもさえけり

 安永6年(1777)、冬の夜、徹夜して研究する自らを詠んだ連作の一つ。宣長宅から2分も歩けば坂内川。その上流には松阪の最高峰堀坂山(757m)を望むことが出来る。伊勢冨士の名に違わぬ秀麗な姿である。山頂から少し下がった処に、伊勢寺村から与原村に越える堀坂峠が通る。明和9年、吉野飛鳥からの帰路、この峠からの眺めを楽しんでいる。

雪の堀坂山



(C) 本居宣長記念館

夢の中で宣長先生と会う(ゆめのなかでのりながせんせいとあう)

 平田篤胤は、夢で宣長の弟子となった人だ。弟子になった夢を見たよ、というのではない。夢の中ではあるが師弟の契りをしたのだから、私は正真正銘、宣長先生の弟子だ、と主張するのだ。同じ様だが、実はまったく違う。
 本居宣長記念館に平田篤胤が春庭に出した一通の書簡が残されている。  そこには次のようなことが書かれている。
 篤胤は、享和3年頃(1803・宣長没後2年目)に、宣長の『馭戎慨言』、『大祓詞後釈』を読み、その内容に、まるで夢から覚めたような心地がし、同じ時代を生きながら宣長先生に会えなかったことを悔やんでいた。すると、去年の春、夢に宣長先生が出てこられ入門を許された。その時の様子を斎藤彦麿に描いてもらい掛け物にして朝夕拝んでいる。先生は目がご不自由ということだが、どうか私を弟子にして頂きたい。それが許されるならば、学者としての名誉この上ないことだ。
 宣長と篤胤の対面を「夢中対面」という。  いつ篤胤が宣長の名前を知ったのかということには諸説あるが、この書簡で見る限り、宣長没後である。
 ところで、彦麿に描いてもらったという「夢中対面図」は今は所在不明。その代わり、春庭などとも親交のあった渡辺清の描いた図が残っている。


らんさんと和歌子さんの会話

らん
和歌子
ら ん
宣長さんと真淵先生の出会いもたった一晩だけ、篤胤さんは夢の中だけ。あまり先生の側で勉強しない方がいいのかもしれないですね。
和歌子
先生が立派すぎると、圧倒されると言うこともあるかもしれないけど、この二つの場合は、先生に会いたい、会いたいという気持ちの強さが、研究をしていく原動力になったのかもしれないわね。
ら ん
夢で宣長先生と会った人は他にもいるのかしら。
和歌子
松坂の門人・青木茂房がやはり夢で先生に会っています。
十月十日夜師の翁の君をゆめに見たてまつりて と言う詞書で歌を詠んでいるわ。

【原文】
「今般、小田清吉と申仁、其御表江被参候に付、任幸便未得拝顔候得共、一筆啓上仕候。先以追日春暖相成候所、愈御清建に可被成御坐、珍重御儀奉存候。然者私義、弱年之砌より道之学に志御座候所、兎角聖人之道より外に無之義と僻心得仕候而、数年出情謹学仕候。然る所去々年中、始而古翁之馭戎慨言、大祓詞後釈拝見仕候而、数年之旧夢一時に相覚、其節迄所蔵仕候漢籍等は不残相払、取あへず古翁之御著書共相尋、大略は蔵書に仕候而、昼夜に拝見仕候所、誠に天地初発已来、無比之御事と深信無限奉存候、乍去御名をさへに始而承知奉り候程之義故、此地にも御弟子之御坐候事も不存、人々に相尋候而、漸此地にも和泉和麻呂主、平野芳穀ぬしなど有之候事をも存、知人と相成候而、倶に日々相励み勉学仕候、扨亦私義、古翁之御書物共拝見仕候より已来、奉欽慕候情、昼夜相止候事無御座、世にましまし候間に御名も不存、同じ時代に生合候身之、御弟子之数にも入り侍らざりし事、本意なくうらめしく、実ニ不堪悲痛存つづけ奉り候所、去春不思義にも翁に見え奉り候而、乍夢師弟之御契約申上候。是偏に私義斯計り慕へ奉り候心庭を、御霊之見そなはし賜候而之御事と、如何計如何計難有奉存候。則右夢中之事共、松平周防守様御家中斎藤彦麻呂と申仁、是は大平大人之御門人に而、古翁之御像を絵書れ候事をよく得られ候故、相頼候而掛ものに仕候而、朝暮仕奉候事に御座候、扨亦君には久々御眼病に被成御坐候由、乍遠音承知仕居候而、申上候も千万に恐入奉存候得共、已来者君之御門人之数に被召加被下候はば、学文仕候身之可為名誉大悦何事歟此上可有御坐哉、幾重にも幾重にも御承知被下候様、神以奉願上候、彼の漢人も申候如く、書は意を尽しがたく、実に心庭之百分一も難書取、余は推而御察し可座下候、委曲は小田氏へ口達相頼候通りに御坐候。先は右御願申上度、乍略義如斯御座候。恐惶謹言。
 三月五日       平田半兵衛篤胤(花押)
本居健亭様
尚々、時候折角御凌被遊候様、奉存候」    
    
「平田篤胤書簡」
「夢中対面の図」


(C) 本居宣長記念館

宵の森の歌

宣長は、寛政9年(68歳)の時に、

「民の戸も さゝて月見る よひのもり めくみのかけの くもりなきよは」
「よひのもり 小高き陰に 里人の 家居もしげく 今ぞ栄ゆく」

と言う二首の歌を詠みました。

「民の戸も」は、
松阪の町の人たちは、今宵も戸締まりもしないで
「よひ(宵)の杜(四五百森)」の月を眺めているね。みんな世の中が
うまくおさまっているおかげだなあ。
また
「よひのもり」は、
「よひ(宵)の杜(四五百森)」の下で、今を盛りと、賑やかに人々は暮らしているよ。
という意味です。

「民の戸」は、松阪神社 「旧蹟意悲之杜名木大樟」の傍らに、
歌碑が建っています。字は本居清造さんです。
なお、このくすの木は、 伝承では1092年に芽生えたそうで、なんと918歳!
「よひのもり」は、松阪駅東口ロータリーに碑があります。
宣長の自筆をもとに、書家 久松貫道氏が配字されました。
櫛田川上流の石に銅板はめ込みです。

この松阪の繁栄を詠んだ二首の歌は、
宣長さんの画賛歌としても人気があったようで、困ったことに贋物まであらわれています。

宣長短冊(実は養子大平筆)


松阪神社境内の碑



(C) 本居宣長記念館

四五百森(よいほのもり)

 宵の森、千五百森とも言う。松坂城跡あたりの森。松坂の歌枕として宣長も歌に詠み、またそれを画賛に所望されることも多かった。

 宣長に『千五百森伝説』(チイオノモリデンセツ)と言う本がある。原本は天理図書館所蔵。内容は、「千五百森伝説」と「四五百森神社之考」(草稿・再稿)。2作は一連のもので、「千五百森伝説」では、松坂城のある一帯「四五百森(ヨイホノモリ)」に関わる伝説や記載を集め、「四五百森神社之考」では同社の名前の変遷を考証する。「神社之考」の文体から、藩などからの下問に答えたものか。

 名前の由来だが、本書に依れば、『延喜式』所載「意悲(オヒ)神社」を「いひ」と誤読し、「飯」からの連想で稲荷社、また瑞穂宮が出て、更に、「瑞穂」が『日本書紀』「千五百秋之瑞穂国」の連想を呼び「千五百森」となったのではないか。また、「おひ」が「よひ」(宵)となり「宵の森」と言われ、そこから「四五百森」という訛伝が生じたのだろう。成立年は不明だが、引用する『神宮雑例集』書写の安永3年(1774)12月12日以降、類似する内容を有する『敏太神社考』の成立した同8年前後かと推定する説がある。

【翻刻】
『本居宣長全集』18巻。



(C) 本居宣長記念館

四五百森周辺(よいほのもりしゅうへん)

 松坂城跡あたり。「宣長先生の四五百森行き」と言う伝説が伝わる。医者を開業したがまだ患者が付かない頃、薬箱をぶら下げて散策したというのだが、このあたりは城内なので、ちょっと町医者が散策できる場所ではない。但し、「鈴屋」からはよく見えた。


(C) 本居宣長記念館

要注意人物(ようちゅういじんぶつ)

 中村幸彦氏は「総体この頃の国学者の書簡や行動につくに、個人的な功よりも、国学全般の隆盛を考えて、これを同慶し合っている態度があって、心よくも羨ましく感じることである」と述べられた。これは特に宣長の時代の国学における感想であろうが、その伝統は師・賀茂真淵から始まっていると言ってよい。真淵は同学の者の紹介に熱心であった。あるいは、真淵の遺産の一つは、ネットワークの形成にあったと言っても過言ではない。宣長が「師の説になづまざる事」を主張した時、それは真淵自身の教えであったといっているが、この教えもまたその流れの中で考えるべきであろう。

 その真淵が紹介どころか、警戒するように注意した人物がいる。建部綾足である。

「綾足といふもの、仰の如く今時のはいかい・発句てふものをせしものにて侍り、此者従来虚談のみにて交りかたし、されども己が門人に宇万伎といふ人の近所に借宅して、こゝかしこ聞そこなひしを、片歌とやらんをいひなんとて、京へのぼりつとか承候、必御交は有まじき事也」(明和6年7月4日付蓬莱尚賢宛書簡・『賀茂真淵全集』23-172)
 真淵の警告より一年前の明和5年夏、既に綾足は伊勢路を訪い、津では谷川士清とも会っている。




(C) 本居宣長記念館

養老(ようろう)

 名古屋の国学者・田中道麿は、岐阜県養老町の近く、美濃国多芸郡榛(飯)木村に生まれた。『玉勝間』には、「とねりこの木」など道麿から聞いた飯木村やその周辺のことを記した項がいくつかある。


(C) 本居宣長記念館

横井千秋(よこいちあき)

 元文3年(1738)~享和元年(1801)7月24日。享年64歳。門人(天明4年入門)。尾張藩重臣(700石)横井氏の三男。本姓、平。名、宏時、通称十郎左衛門。号、木綿苑、田守(宣長命名)。家督を継ぎ御用人に至る。寛政4年(1792)致仕(チシ・辞職のこと)。賀茂真淵十三回忌追慕歌集『手向草』に歌を出していることから、最初は、田中道麿に師事したと思われる。道麿が没した翌年、宣長に入門。尾張藩の漢学偏重に対して、国学をもって藩政改革を進めようと、天明7年、『白真弓』を藩に提出し、宣長を藩に迎えようとするが、成功しなかった。また、『古事記伝』刊行を支援し、最初の2帙の経費も出資した。また、宣長に『神代正語』(カミヨノマサゴト)、『古今集遠鏡』執筆を依頼した。
 このように、『古事記伝』が出版され、また『古今集遠鏡』が書かれたのは千秋のおかげである。宣長に心酔し、時には宮重大根を贈ったりしたこともある。宣長からの書簡も27通残っている。

 ところで、『古事記伝』の草稿本は巻16までが散逸した。つまり一番重要な『古事記』上巻部分が無い。どこに消えたのかいろいろ憶測は飛び交っているが、その一つに、千秋に差し上げたのではないかというのがある。
 つまり、一番大事な本が宣長の手元から離れたとすると、それは一番大事な人への寄贈以外には考えられないからだ。一番大事な人、それは何人もいるが、でも『古事記伝』について言えば、千秋以外には考えられない。
 千秋の旧蔵品の行方は不明。わずかに、幕末、嘉永5年に『直毘霊』(宣長自筆か)が刊行された時、千秋の家にあったと記され、その頃までは残っていた可能性がある。



(C) 本居宣長記念館

横井千秋宛書簡(よこいちあきあてしょかん)



(C) 本居宣長記念館

横手(よこて)

 秋田県横手市近郊、保呂羽山にある延喜式内社・波宇志別(ハウシワケ)神社。ここの神主・大友親久は松坂を訪い、宣長に、続いて春庭に入門し、松坂で客死した。



(C) 本居宣長記念館

横山秀世の訪問

 先生、私のことを忘れないで・・といって帰った人もいる。

 横山秀世は遠江国平尾村の人、同地の国学者・栗田土満に学び、寛政10年3月17日、遠江横須賀西尾殿家中の潮田景福等と鈴屋を訪問し入門する。鈴屋訪問時の短冊が残る。
  歌は

「いせの国に物まなびにまてきて(詣で来て)かへりなんとするとき鈴のやの大人によみて奉

   としのはにわれはまゐこんかしこけど
             大人の命やわすれたまふな  秀世」



(C) 本居宣長記念館

 吉川義信(よしかわよしのぶ)

 宝暦13年(1763)~天保8年(1837)。尾張国(今の愛知県の一部)名古屋の画家。通称小右衛門、号は養元、自寛斎、一渓。家は代々狩野派の画家で、父は英信。狩野派という絵の流派に属したが、藩などには所属しないので「町狩野」と呼ばれる。天保6年、尾張藩より名古屋城本丸御殿障壁画鑑定を命ぜられた(『金城温故録』)。植松有信の仲介と思われるが、宣長像を数多く描いた。宣長像以外の作品として「花卉図衝立」(瀬戸市定光寺所蔵)、「四季花鳥人物図押絵貼屏風」があり、『部門展 尾張の絵画史 狩野派の画人たち』(名古屋市立博物館図録)で見ることが出来る。




(C) 本居宣長記念館

栄貞(よしさだ / ながさだ)

 宣長の実名。寛保元年(1741・12歳)3月から使用。『日記』に、「同三月。実名(シツミョウ・ナノリ)。称栄貞矣」、また『本居氏系図 本家譜』に、「寛保元年辛酉三月名栄貞」。『家のむかし物語』「寛保元年、実名栄貞(ナガサダ)とつく」とあるが、振り仮名はヨシサダとあるべきところである。

 使用例は寛保3年9月24日、『新板天気見集』奥書「寛保三癸亥稔九月廿四日、小津弥四郎栄貞」。寛延2年(1749・20歳)9月16日から読み方をナガサダに改めた。『日記』には、「実名栄貞、元来与支沙駄(ヨシサダ)唱フ、今年九月十六日、自改唱奈賀佐多(ナガサダ)」、また『今井田日記』に、「九月十六日 実名自栄貞(ナガサダ)ト改ム、モトハ栄貞(ヨシサダ)トトナヘタリ」とある。『万覚』の裏表紙に「栄貞」と書き、「栄」の脇にサカエル、ヨシ、ゑい、やう、「貞」の脇にサダムル、サダ、てい、ぢやうと書く。「栄貞」の署名は「宣長」改名後は使用例がない。但し、「栄貞」印の最後の使用例は享和元年(1801)の受取米の証文である。

『万覚』裏表紙




(C) 本居宣長記念館

吉野(よしの)

古代は「えしぬ」と読み、

「上代より今に至るまで、絶れたる名地なることは云も更にて、山も河も、万葉集より始め世々の歌等など、計るに勝ず、又地の広きことは、此郡は大和国の半にも過て、南は木国の熊野に続けり」(『古事記伝』巻18)。
 現在の奈良県吉野郡一帯。桜の名所として知られる吉野山、また周辺には竜門の滝、妹背山がある。吉野と宣長との関わりは、吉野水分神社が中心となるが、明和9年(1772)3月には、蔵王堂、吉水院、竹林院から金峰山寺、西行庵、大滝、宮滝など周辺を隈無く採訪、旅の詳細は『菅笠日記』に載る。竜門の滝はこの時には立ち寄れず、寛政6年(1794)、紀州行きの途中に訪れている。妹背山については宣長は紀伊国説を採る(『玉勝間』)。
 また、寛政11年、紀州からの帰路には「よし野の歌」を詠み、後に「吉野百首」として『鈴屋集』に載り、また『吉野古風百首』として写本でも流布し、稲懸棟隆の評が『鈴屋翁七十賀会集』に載る(宣長全集・別2-424)。


(C) 本居宣長記念館

吉野の桜は何時が満開か

「1、『菅笠日記』について その2」参照
こちらをご覧ください

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)

 奈良県吉野町吉野山。延喜式内社。「御子守の神」「子守明神」とも。「恩頼図」に、「御子守ノ神」と書かれる。宣長は、父定利が同社に祈誓した授かった子である(『日記』表紙裏)。このことを母から事ある毎に聞かされ育ったが、特別の信仰心が芽生えた時期は不明。『毎朝拝神式』制定の40歳頃からは毎日遙拝した。直接の参詣は、お礼参りの13歳、花見を兼ねた43歳、和歌山からの帰途の70歳の3度。参拝の感慨を述べた歌が『菅笠日記』(43歳)、「吉野百首」(70歳)に載る。

 同社は、名前の通り水を分けてくださる神である。昔は、「芳野水分峯神」として吉野山山頂青根ヶ峯(857.9m)に鎮まり、頂上から1km西北の山腹の字ヒロノに旧拝所があったといわれている。後に現在地に遷座した。
 本来、雨乞いの神(『続日本紀』)であった同社が子守の神となる過程を宣長は、ミクマリ→ミコモリ→コモリと推定する(「吉野の水分神社」『玉勝間』)。

 鳥居を潜り石の階を上り楼門がある。中に入ると、南に本殿、西に楼門と回廊、北に懸造の拝殿、東に幣殿があり、本殿と拝殿は向かい合って建つ。
 境内地は決して広くない。その中にすべてがきれいに納まっている。神社と言えば、広々した感じの所が多いが、ここは箱庭に入ったような不思議な空間である。

 慶長9年(1604)豊臣秀頼によって再興された本殿は、桁行9間、梁間2間の流造(ナガレヅクリ)の形式をとり、正面に千鳥破風を三つ並べる。檜皮葺。本来は中央に一間社隅木入春日造で、この両側に三間社流造が配置されていたのを、相の間を設けて連結し一つの屋根に納め、両側の流造に千鳥破風をつけた。だから、現在も各社殿ごとに別 々の茅負(カヤオイ)、木負(キオイ)、軒付をもっている。組物、虹梁、長押(ナゲシ)などに極彩色をほどこし、蟇股(カエルマタ)、木鼻などに桃山時代の特徴をよく表している。【国・重文】
 潜ってきた楼門も、三間一戸楼門、入母屋造、栩葺である。【国・重文】
 祭神は、天水分神(中殿)。天万栲幡千幡姫命・天津彦彦火瓊々杵命・玉依姫命(子守三女神・国宝)(右殿)。高皇産霊神・少名彦命・御子神(左殿)。

 祭神の中でも、玉依姫神像【国宝】は有名だ。この像は、二座の女神を左右に従えるので子守三女神とも呼ばれている。玉依姫の体内に「建長三年(1251)」の造像銘あり。寄木造、極彩色、左右に流れる衣文、静かな容貌。像高83cm、日本女性の平均的な座高に近い、等身大の像。拝することは出来ないが、写真はいくつかの本に載る。まことにお美しい姿である。
吉野水分神社正面鳥居。
吉野水分神社本殿。



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四日市(よっかいち)

 三重県四日市市。長女飛騨の嫁ぎ先・高尾家があった。宣長の孫・有郷が死去した後に高尾家の当主となる宗朝を松坂に迎えた。本居信郷である。このため、高尾家は一時断絶したが、その後、信郷の長男・信世が高尾家を相続し、現在に至る。門人は田中満喬、伊達是保など。田中は白子の村田橋彦の甥と伝える。また、近郊の菰野には菰野藩儒・南川金渓がいる。 




(C) 本居宣長記念館

44歳の宣長・なぜ自画像を描いたの?

安永2年(1773)癸巳。
妻勝、33歳。春庭、11歳。春村、7歳。飛騨、4歳。美濃、1歳。
1月2日、次女美濃が誕生。2月5日、脱稿した『天祖都城弁弁』を谷川士清に見せる。この本は、士清の友人で津の儒学者河北景サダ(木偏に貞)の「高天原」論への反論書。閏3月7日、『古事記伝』巻7(版本巻8)清書が終わる。『古事記』上巻、須佐之男の暴虐から天の岩戸開きの所である。その後引き続いて巻8の執筆に着手した(翌年4月7日清書終わる)。6月19日、松坂、大洪水。本居家の被害記録は残らないが床下浸水くらいはあったかもしれない。9月、宇治(現、伊勢市)の蓬莱尚賢が訪問する。『古事記伝』稿本巻1借覧し、以後順次借り写す。尚賢(1739~88)は伊勢神宮内宮の神官。谷川士清の娘婿で、その交友は賀茂真淵から儒学者、好事家など広範囲に及んだ。宣長にもしばしば諸国の情報や珍しい書物をもたらした。10月、『おちくほ物語』(全4冊)写本が出来たので奥書を書く。巻1、2は自分で写し、巻3、4は人に頼んで写してもらった。11月18日、『職原抄』の講釈が終わる(開始は明和8年10月28日)。12月12日、『和名類聚抄』を校合する。この本は平安時代に源順によって書かれた百科事典。12月14日第1回目の『万葉集』講釈が終わる(開始は宝暦11年5月24日)。 『源氏物語』の講釈は2回目も終わりに近づき、この年は、「総角巻」から「宿木巻」の途中までを読んだ。 同年、もしくは翌安政3年、『授業門人姓名録』を作成し、安永2年以前の入門者43名を挙げる。

44歳の宣長・なぜ自画像を描いたの?

安永2年(1773)癸巳。 妻勝、33歳。春庭、11歳。春村、7歳。飛騨、4歳。美濃、1歳。

1月2日、
次女美濃が誕生。
2月5日、
脱稿した『天祖都城弁弁』を谷川士清に見せる。この本は、士清の友人で津の儒学者河北景サダ(木偏に貞)の「高天原」論への反論書。
閏3月7日、
『古事記伝』巻7(版本巻8)清書が終わる。『古事記』上巻、須佐之男の暴虐から天の岩戸開きの所である。その後引き続いて巻8の執筆に着手した(翌年4月7日清書終わる)。
6月19日、
松坂、大洪水。本居家の被害記録は残らないが床下浸水くらいはあったかもしれない。
9月、
宇治(現、伊勢市)の蓬莱尚賢が訪問する。『古事記伝』稿本巻1借覧し、以後順次借り写す。尚賢(1739~88)は伊勢神宮内宮の神官。谷川士清の娘婿で、その交友は賀茂真淵から儒学者、好事家など広範囲に及んだ。宣長にもしばしば諸国の情報や珍しい書物をもたらした。
10月、
『おちくほ物語』(全4冊)写本が出来たので奥書を書く。巻1、2は自分で写し、巻3、4は人に頼んで写してもらった。
11月18日、
『職原抄』の講釈が終わる(開始は明和8年10月28日)。
12月12日、
『和名類聚抄』を校合する。この本は平安時代に源順によって書かれた百科事典。
12月14日、
第1回目の『万葉集』講釈が終わる(開始は宝暦11年5月24日)。 『源氏物語』の講釈は2回目も終わりに近づき、この年は、「総角巻」から「宿木巻」の途中までを読んだ。 同年、もしくは翌安政3年、『授業門人姓名録』を作成し、安永2年以前の入門者43名を挙げる。
なぜ自画像を描いたの?
 年譜を見てもこの年に画像を描く決定的な理由は見あたらない。
 強いて理由を求めるならば、前年の吉野水分神社参拝、つまり『菅笠日記』の旅、自分の命の源ともいうべき吉野に行った、その気持ちの高揚がまだ続いていたのだろうか。また、『授業門人姓名録』が、安永2年44歳以前と以後で別れて、45歳以降は整備された門人録として入門年次順に記されていく。門人と師と言う関係の自覚である。重大な心境の変化がこの前後にあったことは窺えよう。

心境の変化はなぜ生じたの?
 仮説だが、『直霊』と『ひも鏡』の成立によってではないかと思われる。42歳の10月に稿が成った『直霊』は宣長の古道論、つまり日本という国の本来の姿をどう考えるのかという、立場、見方を表明した本である。また同じ月に刊行された『ひも鏡』は発見した「係り結びの法則」を図解したもので、「てにをは」研究の骨子である。「古道論」と「てにをは研究」という宣長学を支える、いわば理念と方法が出来たことの持つ意味は大きい。これにより学問的、思想的に宣長の学問の方向が一応の定まった。自分の進むべき道を自覚したと言ってもよい。
「本居宣長四十四歳自画自賛像」(顔部分)


 
(C) 本居宣長記念館

44歳像の種類

44歳像には下書きを含め4種ある。内2点が下書きで、その一つは戦火で焼失し写真だけが残る。後の2点は完成作であるが、完成度は、1より2の方が高い。では、2が決定作かというと、そう簡単に結論付けることはできない。

1,本居宣長四十四歳自画自賛像   1幅
紙本(唐紙半折)著色。裂表装。本紙122.0×46.5cm。
【伝来】和歌山本居家から記念館へ。
【指定】国指定重要文化財。
【賛】賛「めつらしきこまもろこしの花よりもあかぬいろ香は桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春みつから此かたを物すとてかゝみに見えぬ心の影をもうつせるうたそ」

2,本居宣長四十四歳自画自賛像   1幅
紙本(著色。裂表装。本紙115.0×44.6cm。
【伝来】個人所蔵、記念館寄託。本居春庭より、宣長門人・堀口光重に譲られ、その後現在の所蔵者に移った。
【参考】賛は文章、字体ともに1と同じ。絵もほぼ同じだが、たとえば花瓶の彩色、花片に少異あり。
【箱書】(内箱)「本居中衛平宣長大人肖像自画自讚/松蔭堀口光重珍蔵/印『堀口六兵衛』(陽刻)印『光重』(陰刻)」。裏「いまの鈴乃屋春庭うしより此像を譲りたまひければいともくうれしくありがたくてひめおく箱にかきつく/わかれしは雲ゐはるかに入る月のひかりをこゝうつしとめける/源(花押)印(陽刻)」
【解説】1が10枚の紙を継ぎ足した上に描かれているのに対して、こちらは1枚の料紙に描かれている。その点では本幅のほうが完成度は高いとも言える。画は1と同じだが花瓶の彩色の仕方はやはり1より優れている。賛は1と同じ。ここに重大な疑問が生じる。

3,本居宣長四十四歳自画自賛像下絵   1幅
紙本著色。裂表装。本紙111.1×56.8cm。
【賛】「めつらしきこまもろこしの花よりもあかぬいろ香は桜なりけり 宣長 四十四(以下欠失)」
【箱書】「宣長翁自画像」、(裏)「鈴屋之印(陽刻)」〔紙貼〕
【伝来】本居春庭家伝来 本居宣長記念館蔵(弥生翁寄贈)。
【解説】左四分の一欠失。補彩、補筆あり。『備忘録抄』に「其ノ二ハ家蔵ノ一軸ニテ四十四歳ノ秋書ケルナリ、図柄讃ノ詞其ノ一ト異ナリ(引用者注其ノ一は1を指す)、此ノ家蔵ノ肖像ハ宣長意ニ満タザル所アリテ反故トナシ棄テタルモノナルベシ、婦女用鏡台ノ覆ヒニ作ラレテアリキ、亡父健亭コレヲ発見シ多少損ハレタル部分ヲ補筆セシメテ掛物ニ装幀セルモノナリ」とある。「秋」というのは、賛の「四十四」の下が「の」でさらにその下に火の旁のような字が見える所から「四十四の秋」と判読したことからの推定。

4,本居宣長四十四歳自画自賛像下絵   1幅
紙本白描。
【伝来】松坂本居家から高尾家、その後戦災消失。
【参考】写真は『本居宣長翁書簡集』等に載る。




(C) 本居宣長記念館

44歳像の制作

 4幅の制作順序を推定してみたい。清造翁が「四十四歳ノ秋」と推定したのは賛の火の旁を「秋」と読んだためである。この左の欠けた字が何であるか不明である。しかし、構図や賛で完成度の高い1,2が賛の通り春の制作であるならば、それより後に制作されたとは考えにくい。もちろん、秋に桜は、61歳像を始め、後年の『枕の山』という例もあるが、やはり不自然の感をまぬがれない。秋を「とき」と読むかとも考えたが、いかがであろうか。一つの可能性としては、春に思い立って制作に着手したが、未だ完成せず、秋でもこの位であったという推定だが、やはり無理があるように思える。

 構図から考えると、3では宣長の視線も定まらず、桜と宣長の関係が明らかでない。むしろ、4は心持ち目線が上を向くことで桜を眺めていることが明らかとなり、1,2に近くなる。従って3の賛の問題は残るが、3,4,1,2の順で描かれたものと考えられる。

 宣長は、まず3を描き彩色したが満足できず、4の素描を描き構図を確定した。次に手元にあった美濃紙を繋ぎ合わせた紙に清書、着色し(1)、さらに唐紙に転写した(2)。細かい疑問は残るが、この順序は変わらないであろう。



(C) 本居宣長記念館
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