本文へ移動

解説項目索引【ま~も】

『毎朝拝神式』(まいちょうはいしんしき)

1巻。本居宣長撰。成立年不詳。
 従来、記念館本は円熟期の作とされてきたが、筆跡、内容からは40代前半頃執筆か。
 内容は、宣長が毎日拝していた神名や神社名20を挙げ、方角、拝礼の次第を記す。淵源は19歳の「日々動作勒記」(『覚』)にある。その中から仏教色を除き、神名も整理し、吉野水分神社などを加える。
 大平は、宣長40歳頃にその式を書写、享和3年に伴信友に示している。
 記念館本は大平本に大きな異同はなく、拍手の数も大平本と同じく「二」つであったものを、後に「四」に改めた形跡がある。大平に依れば、晩年は伊邪那岐、伊邪那美、神直日、大直日、禍日等も加えられたと言い、神名に変遷があったことが窺える。略したものを子息が唱えたという。大平も自ら改変を加えて作成し、また平田篤胤の「神拝詞廿五編」(『玉襷』)に影響を与えたとされる。

【毎朝】拝神式           ☆ここをクリック!
 卯辰の方に向ひ手を拍つ【四つ】、額突きて
○神風の伊勢の国さくくしろ五十鈴の川原の底津石根に大宮柱太敷立(フトシキタテ)高天の原に比木(ヒギ)高知て鎮り座し坐す天照す皇(スメ)大御神の大朝廷(オホミカド)を慎み為夜麻比(ヰヤマヒ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る
○外つ宮の度会の山田の原の底津石根に大宮柱太敷立(フトシキタテ)高天の原に比木(ヒギ)高知て鎮り座し坐す豊受(トユウケ)の皇大御神の大朝廷を慎み為夜麻比(イヤマヒ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
     又
○二大宮の枝宮枝社の大神たちの大前をも慎み為夜麻比(ヰヤマヒ)恐み(カシコミ)恐みも遙に拝み奉る。
 東の方に向ひ手を拍つ【四】、額突きて
○高御産巣日(タカミムスビノ)大御神、神産巣日(カムムスビノ)大御神二柱の大御霊を慎み為夜麻比(イヤマヒ)恐み(カシコミ)恐みも拝み奉る。
  戌亥の方に向ひ 同前(手を拍つ【四】、額突きて)
○八雲立出雲の国の熊野の大宮に鎮座坐す大御神の大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
  拍手額突同前
○八雲立出雲ノ国八百丹杵築(キツキ)ノ宮に鎮座坐す天ノ下造らしし大国主の大神の大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○常世ノ国に坐ス少那毘古那(スクナビコナ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○水葉八重事代主ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○大年ノ大神御年ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○宇迦能御魂(ウカノミタマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○竈(カマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○庭津日(ニハツビ)ノ大神庭高津日ノ大神二柱の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○阿須波(アスバ)ノ大神波比岐(ハヒギ)ノ大神二柱の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○土ノ御祖(ミオヤ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○御井ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。 未申方向、同前(拍手額突)
○吉野山に座坐ス水分(ミクマリ)ノ大神ノ大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
  東向、同前(拍手額突)
○伊勢の国御魂(クニミタマ)ノ大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
 ○同前(拍手額突)
○此邑(コノムラ)を総守護(スベマモリ)賜ふ産土(ウブスナノ)大神の御霊(タマ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
  北向、同前(拍手額突)
○御厨に座坐ス大神の御前(ミマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
  戌亥向、同前(拍手額突)
○此坊(コノマチ)を守護(マモリ)賜ふ山ノ大神の御前(ミマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る。
  已上一神別(ゴト)ニ手ヲ拍ツコト二ツ額突拝奉」

(C) 本居宣長記念館

前田侯の誘い(まえだこうのさそい)

 寛政4年(1792)11月29日差出、小西春村宛書簡に、

「一、我等事も、加賀殿より可被召抱之由に而、京大坂方々に而(傍書「我等事も」)聞合有之候様子に御座候、此方へも(傍書「右之義」)両三所より内々聞合有之候、禄も乍内々弐三百石は賜り可申様子に相聞え申候、惣体仕宦之事は、兼々好不申義に候故、以其心此方望事色々申遣し候得は、いかゝ可有之哉、未慥成義に而は無之候得共、先以身分に取り、大慶成事に御座候」
とある。


 200石か300石で宣長を召し抱えようと色々聞き合わせをしているらしいが、仕官などしたくないので色々条件を付けてやったけどどうなったかなあ、ということが書かれている。
 そのことと関連するのであろう、加賀の藩校の図も宣長の蔵書中にはあった。 『借書簿』寛政7年条に、

「九月朔日 一、加州学校図 同人(引用者注「小篠敏」)」

とある。

(C) 本居宣長記念館

真葛庵(まくずあん)

 在京中の宝暦4年3月5日、知恩院境内にある「真葛庵」で開かれた詩会に参加し、戒題として「少年行」と、即席「漁父」を作る。また壁に書かれた吉水和尚の歌を詠み自らも詠ず。当日作品は『詩文稿』に載る。「少年行」は楽府雑曲題。

  また『石上稿』に当日の詠3首あり。
  第1首詞書に
「三月五日に詩つくるとてかれこれ華頂の真葛の庵につとひ侍りける日しも春雨しめやかにふりくらしけるを詩のためには心もしつまりてよき日也なと人々申けれは」(15-217)。

 その後も不定期ながらここで詩会が開かれた。

 後年のことではあるが、文政6年大田垣誠(ノブ)は父と剃髪し、蓮月と名を改めこの庵に入る(『大田垣蓮月』杉本秀太郎・中公文庫)。

「真葛庵」の扁額が掛かる正面玄関。
建物は新しく建て変わっているのだろう。


(C) 本居宣長記念館

馬嶋明眼院(まじまみょうげんいん)

 尾張国海東郡馬嶋(愛知県海部郡大治町)にあった。馬嶋流眼科で知られる。祖は南北朝時代の眼科医・馬嶋清眼(?~1379)で、もとは医王山薬師寺の塔頭であったが、13世の時に明眼院と改称され、眼科治療院として隆盛を極める。

 春庭が治療を受けた頃の様子は『尾張国名所図会』に載るが、本堂に向かって右手に「男眼疾寮」として「松部屋」など5棟、「女人眼疾寮」として「新桃部屋」など8棟、また別に「療治場」や茶店まであり、規模が大きかったことがうかがえる。近代にいたり寺の規模は縮小したが、馬嶋流眼科の伝統は受け継がれ、子孫の「馬島氏」は眼科医として高名である。

 ちなみに東京国立博物館庭園にある「応挙館」は、もとはこの明眼院の書院。本堂と庫裏が再建された翌1742(寛保2)年に造営。木造平屋瓦葺き、間口15メートル・奥行き9メートル、十八畳二間。床や襖、杉戸に絵が描かれるが、その中に、円山応挙の子犬図がある。目を治療してもらった礼に描いたと伝えられるが、当時から大変な評判だった。尚、この書院は、寺の衰退後、益田鈍翁の所有となり品川御殿山に移築。大師会会場として使用された。鈍翁の晩年、博物館に寄贈され、現在に至っている。

 馬嶋は、宣長門人・大館高門の家からも5km程で、何かと春庭の世話をしたであろう。
 大垣の重門も見舞った

「馬嶋逗留中は、遠方之処度々御尋被下、何より之品々被贈下候由、度々御懇情之至不浅、忝奉存候」
         (寛政3年11月13日大矢重門宛宣長書簡)
 宣長の悲しみは門人の悲しみでもあった。

〔参考〕
「忘れ水探訪」18 長谷義隆・中日新聞夕刊2008年12月4日




(C) 本居宣長記念館

町の豊かさ(まちのゆたかさ)

 当時の松坂の様子を忍ばせる資料がある。これは、「江戸末期に於ける生活の一断面」(『佐佐木信綱随筆集 雲』京都印書館、昭和23年12月刊)に、殿村家旧蔵の大平書簡が紹介されるものだ。
 町人の町・松坂から武士の町・和歌山に居住した大平のとまどいがよく伝わる。

「拙方くらし方。八畳敷二間、十畳敷一間、台所八畳ト二畳敷ト、外ニ四畳二つ、物おき。又、二畳机の間。予、妻、娘、男児二人、上五人、下人一人、六人ぐらし。
 世領十八石。外ニ鈴屋へ三人ふち遣ス。
 右之通ニて、めしたき、妻ト娘ト、家のはきそうじ、同人。
  使ひあるき、かひもの類、湯風呂たき、庭はき、家来。 右之通ニて、まづ松坂の同心町ノくらし方ニさも似たリ。松坂のだんな衆、中商人ノくらしよりは、はるかにまづしき物也。
 松坂の江戸店持ト、わか山の千石以上ノ人トハ、くらし方同様也。
 三百石以下は、松坂の同心ト同じ事也。
 亭主か、若旦那か、米つき、臼へ五升づつ入てつく也。風呂わかし、毎朝ノ庭はき、草とり。
 妻、娘は、糸とりをしてうる也。
  また、亭主は内職とて、釘ヲこしらへ売るもあり。はりがねを引もあり。
  舟ニのりて、ナグサミニハアラズ、七八里沖へ出て魚をつり、網にて
  とりて売るもあり、
   とりをかひて売るもあり
   金魚をかひて売るもあり
   あんどう、たばこぼんをこしらへ売るもあり。
 右之通りニて、平日は御紋付の肩衣ニて歩行スル也。衣服はつむぎ以上、
 きぬ羽二重なり。
  侍一人宛つるゝもあり。
  妻、娘は、ちりめん羽二重、御紋付又は自紋にて、下女一人つれて、
 日がささせて歩行く也。
 百石以下十二三石どりも同断也。
  自ノ宅ニては、やぶれせんたく物ヲ着用也。つゞれヨリモオトル体也。
   くらし方ノ心持ハ、松坂ノばくろ町、新座町、瓦町のしやく屋がりの
    出入りの者ニもおとれり。
 七八百石千石以上でなければ、こし下げ、きん着、たばこ入の風雅ヲ楽ム場
 ニハいたらず。庭ノ樹ナドヲ楽ムモ、七八百以上ノコト也。
 五百石ぐらゐニては、中々そこどころではない。
 此書付、安守公ト健亭公へ御見せおき可被下候。大平」

この書簡は『心の花』34巻6号、『竹柏園蔵書志』P582で紹介される。


(C) 本居宣長記念館

松坂(まつさか)

 「松坂」は、戦国時代の武将・蒲生氏郷(1556~95)により開かれた町。主に現在の三重県松阪市の市街地にあたる。氏郷は、近江国日野の出身。天正16年(1588)、33歳の時に四五百森に築城、町を造り「松坂」と名付けた。秀吉が大坂城を築き、入城した5年後である。
 町は城を要に、扇形に武家の町、商人の町、職人の町、その外側に寺社を配した。
 また、参宮街道を引き込み、楽市楽座を布告し、商人を集め、活性化を図った。氏郷が会津に転封して以後、服部一忠、古田重勝、重治と領主が代わり、元和5年(1619)、松坂は紀州藩領の内、勢州三領18万石統治の中心となる。支配は松坂城代が行った。

 町の規模は、『松坂権輿雑集』(1752年11月序)に「惣町縦十九丁余、横九丁余、此家数千三百軒程、但隠居家は除之、此人数八千三百人程、但召仕は除之、内八百人程他国ニ稼居る」(『松阪市史』)。『松坂町役所支配分限帳』(1769)に、町名数は46、人数は9078人と記される。ほぼ1万人位であったらしい。参考までに、明治32年(1899)頃の松坂町人口は14,114人。
 紀州藩領になった松坂は、周辺農家などの高い生産力や街道の利便性を背景に、やがて商人の江戸への出店が始まり、延宝元年(1673)の三井高利の江戸進出で頂点を迎える。彼ら「江戸店持ち商人」は、江戸商業や藩経済にも大きな影響力を持った。1750年代には49軒の江戸店持ち商人がいたと伝える。
 町の雰囲気は、後年のものだが、宣長自身による「伊勢国」(『玉勝間』)や、松坂町西町住の森壺仙が著した『宝暦咄し』がよく伝えている。

 宣長の行動範囲は、医者としての往診など仕事やまた家の行事などを除くと、歌会と行楽が大きなウエートを占める。歌会は、市内の寺院やまた個人宅などが含まれる。行楽は、宣長自身が好きであったことと、門人との大事な交友の場でもあったので、四季を通じて行われた。



(C) 本居宣長記念館

マツサカ・マツザカ? 松坂・松阪?

 本当の話、「松阪」の読み方は定まっていない。一般には「マツサカ」と読むといっている。これは以前からあった説だ。芦田恵之助も地元では「マツサカ」と言っていると証言している。だが、一方では「マツザカ」と言う読み方も使用されていて、前からどちらだと言う議論が繰り返された。促音説もあるが、これは音便なので論外。

 文字は「松阪」と定まっている。但し、宣長の『玉勝間』「伊勢国」でも「松阪」とも「松坂」とも書いた例があり(版本)、過去には混用しても平気だったようだ。「松阪」に、いつ定まったのかというと、それは明治初年頃かな・・と言う程度でよくわからない。
 島川安太郎『松阪の町の歴史』の解説を紹介しよう。「松阪」となったのは明治22年の町村制実施の時とする。その範となったのは大阪である。「大坂」が「大阪」になったのは明治3年であると言う。『松阪開府400年史』も、「大坂が大阪になったので。「松阪」に決定したと伝えられている。町議会の記録にはないが、公文書は、このころから阪を使用している」とほぼ同じ説だ。

 このCD-ROMでは、慣用的に、明治以前つまり1867年までは「松坂」、1868年からは「松阪」を用いる。


(C) 本居宣長記念館

松坂医療事情(まつさかいりょうじじょう)

 明和6年(1769)『松坂町役所支配分限調帳』に拠れば、松坂町の人口は9078人。医者は代々御目見得医師の鹿嶋元泰以下35名。宣長もその一人。(『松阪市史』11-305)
 『宝暦咄し』で当時の松阪の医者の様子を見てみよう。

 まず、職人町に小嶋専庵という「大医」がいる(この人は、『松坂町役所支配分限調帳』に小嶋彦麟として出ている人の一族だろうか)。
 流行っている医者は、長井元慎、堤元瑞、かしま元泰。後に針医・伊藤養仙。
 魚町上の丁(宣長と同じ町内だ)に、伊豆倉元朴と言う盲人の博学がいて、長井元慎、堤元瑞が大いに尊敬した。
 山村元祥という流行らない医者がいた。「小便医者」と呼ばれてバカにされたのはこの人が最初だ。
 西町の山村吉右衛門は、町人のくせに官位を望んで医者となり通庵法橋となる。
 次に、同業者で宣長と親しかった人を見てみよう。
 菅笠の旅に一緒した小泉見庵、『制度通』を借りた鹿嶋元長、学問所建設願いに名前を連記した塩崎宋恕、また門人の村田光庸がいる。門人では外に、大館高門、服部中庸も医者もしたが、本業と言うほどではない。

【参考文献】
『松阪市史』第9巻。


(C) 本居宣長記念館

松坂大橋(まつさかおおはし)

 参宮街道、坂内川にかかる橋。伊勢神宮方面に向かう人はこの橋を渡って松坂の町に入った。渡る手前が西町。森壺仙の住んだ町。渡ったところが本町。半鐘や高札場、また小津清左衛門など豪商が軒を連ねる。魚町宣長宅から3分。
 当時は板橋で長さ24間2尺、幅3間1尺5寸。御普請橋で公儀が管理した。宣長の『日記』によれば、寛政4年(1792)に改修され渡り初めがあった。その頃はまだ擬宝珠は無かった。ちなみに擬宝珠が付いたのは文政9年(1826)である。笹川は坂(阪)内川の異称。
『伊勢参宮名所図会』 松坂大橋



(C) 本居宣長記念館

「松坂」から「松阪」へ

 明治22年(1889)4月、市町村制が実施され、松阪と隣接5ヶ村の一部が合併して「松阪町」が誕生した。初代町長は大平孝則。町役場を日野町(駅前通り)に置いたが、明治26年の松阪大火があり、その後の明治27年、魚町と大手通りの交わるところにあった町会所に移り、大正15年(1926)現在地に移った。ここは大正4年まで山室山神社(現在の本居宣長の宮)があった場所である。明治32年頃の松坂町人口は14,114人。戸数は3,172戸。まだこの時期、奥墓のある花岡村大字山室(現在の山室町)、宣長の先祖が仕えた阿坂城のある阿坂村(現在の大阿坂町)などは町に入っていない。

 大正13年(1924)8月、23歳の梶井基次郎が殿町に住む姉の家に病気静養を兼ねて滞在した。その時の体験を描いたのが翌14年2月『青空』に発表した「城のある町にて」である。当時の町の様子が繊細な描写で描かれている。

「今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。
 白亜の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ。西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好に刈られた松も見える。みな黝んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。」
 昭和8年2月1日、市制を施行した。当時の市域面積は21.75km2、人口は34,546人。戸数は7,089戸である。その後合併を繰り返し、ほぼ現在の市域となったのは昭和32年10月1日である。

 現在の松阪の人口は125,225人、世帯数は45,192世帯である(2001年9月1日現在)。

【追記】
 松阪市は、2005年1月1日、近隣の飯南町、飯高町、三雲町、嬉野町と合併して市域が広くなりました。
 またこの時に、「松阪」の読み方も「まつさか」と清音に統一されました。
現在の人口は161,998人、世帯数は74,082世帯(2021年1月1日現在)です。
「梶井基次郎文学碑」


(C) 本居宣長記念館

「松阪三百年文学史を読む」

 掲載する資料は、竹清。三村清三郎さんが桜井祐吉氏の本に寄せた一文である。竹清さんは、大西源一氏や桜井祐吉氏、四方弘克氏と三重県史談会を創設し、『三重県史談会誌』(明治43年8月15日創刊)を出した。市井の大学者である。その業績は、青裳堂・日本書誌学大系の中『三村竹清集』で見ることが出来るようになった。この一文は、今では稀覯文献に属すると思われるので敢えて掲載をさせていただく。内容は辛辣であるが、決して古びていない。


  松阪三百年文学史を読む   三村清三郎

私はかう考えてゐる、英雄とか偉人とか云ふものが出てくる、それは必しも孤立して出てくるものでは無い、思ふに当時の要求に応じて出るもので、決して其の人自身の力計りでは無い、周囲の事情が斯かる人を要求してゐる、そこへそういふ素質の人が出て大成するのである、此の故に英雄とか偉人とか云つても、つまり私達進一歩で決して大した隔りがあるものでは無い。
松阪の様な小さな町から天下の鈴屋大人の生れ出たことは誇りではあるが、それは其当時の日本が要求し、其当時の松阪町が斯かる偉人を生むべく養はれて居たと考へられる、決して、鈴屋大人が忽然として松阪町へ出現した訳では無い、鈴屋大人に於ける誇りは即松阪全体の努力の誇りである、此の事は其当時の文運を説かれた櫻井君の文中にも明瞭に見えて居る。
併し其の誇りは過去の誇りであつて昨夜の夢である、現今の松阪人士が空しく過去の夢を物語つた丈では何ンにもならぬ、松阪に第一の鈴屋大人は生れ出たが、第二の鈴屋大人は出られぬと云ふ筈は無い、より以上の偉人が出ても差支ない、時代を洞見する識量を養ひ是れに応ずる精力を尽したらば第二の鈴屋第三の鈴屋が続々出る筈である、これは松阪の諸君の志次第と考へられる、歴史の学は過去の事績を余計に覚えて物識りになる丈では無い、現在に処する道を闡明して、未来を開拓する学である、此に於いてか初めて史学に光彩が生じる、現今世界の行詰りに対し、万般の事、鈴屋大人以上の偉人の出現を切望する。
私見を申せば、私は加茂真淵、の人格には疑を懐いてゐる、人間は一寸遇つただけでも虫のすく人と、虫のすかぬ人とある、私は真淵を深く研究しては居らぬが虫がすかない、なぜと云はれると困るが、師家筋の在満に代つて、ノコノコと我儘殿様の田安宗武へ、僅の扶持だ/\と滾し乍ら出仕したり、妻君を捨てゝ妾を置いたり、妙な上ずつた服装をしたり、女弟子に気上つた名をつけて喜ばせたり、世話になつた枝直と地代の事で気まづくしたり、どうも創業の人だから多少山気も覇気も免かれぬと大目に見ても私は虫がすかぬ、学問の終局は、人格の養成、家庭の和楽、社会の共栄である筈と思ふ、古風に云へば、修身斎家治国平天下である。?外さんなどは学問は学問の為めの学問だと云つてゐた、それなら国学者は日本の古典とか言語とかに関する物識りであれば其れで能事足れりとするのかも知れぬ、若しそうならば真淵は偉い人であるらしいが、人格と云ふ点から云へば、鈴屋大人の方が遙に上であると思はれる、多分鈴屋大人に御目にかゝつたらば花々しい処の無い面白くない人であつたらう、然しそこに温として玉の如く人懐きのする所があつて門人がよく服した、門人をあれ程によく仕立てた人は木下順庵か鈴屋大人であらう。
それから昔は国学者と云へば歌人、漢学者と云へば詩文家と思つて居たが、実は国学者と歌人とは別けねばならぬ、歌人と歌学者とも分けねばならぬ、詩才は天賦である殊によると学者の様に理詰めで行く人は歌も詠めないかも知れぬ、真淵の様な人には名歌もあるが、宣長の様な実体な人は歌は拙い、歌の理屈は言へても作歌は下手で格に合つているだけで詩としての生命が無い歌が多いと思はれる。春庭といふ人も素直な人格の人と思はれる、其妻の壱岐女は、実は春庭の失明当時、鈴屋大人も苦労して春庭の補佐となる様な御嫁さんを物色した時、候補の選に落ちた婦人であつた、あれでは仕方がないと鈴屋大人に見限られた婦人であつた、縁といふものは妙なもので春庭の妻となり、盲人の夫を保護し、家政を料理し乍ら非常に勉強されたものであらう、春庭没後も、とにかく後の鈴屋後室として子弟を教導して居られた、馬琴翁に於ける路女以上に敬意を表したいと思ふ、これを思つても人事は志の如何である、天禀の才といふ事もあるが、志を立てゝ進んで倦まざれば或所までは到達出来るものである。
大平の歌は遙に鈴屋大人より勝れてゐたと思ふ、鈴屋大人が此の人を養嗣にしたのも己れの不得手な所を大平が能くしたのに惚れ込んだのではなかつたか、鈴屋没後春庭家の跡継に就いて面倒があつたらしい、有郷といふ人は出来がよくなかつたと見える、そこで春庭の方では建正か清島を養子にしたい企望があり、大平の方ではそれは迷惑らしく、其間に富樫広蔭の件もあり、色々いきさつがあつた、広蔭は篤実な人であつた、一時本居長平と言つて大平の女熊女のむこになつたかと思ふ、大平は女房縁の薄い人で三人妻君を持つた、それで出来のよかつた息子三人が次から次と若死をしてしまつた、最後に名古屋の貸本屋で狂歌なぞを詠んでゐた男を見付けて養子にした、これが内遠である、始は人も軽侮して居たが内遠の学問は中々確りしてゐるので、後には人も帰服した、これも志次第で学業の成就する例になる。大平春庭両家の問題も大平の三子が没して片付いた、伊藤仁斎東涯両先生の如き至徳の家ですら東涯没後に面倒があつと考へられる資料がある、つまり実力の無い子孫が祖先の余沢に依つて祖先同様の門戸を張らうとする所に悲惨な矛盾を来たす、伊勢店の番頭支配組織とか、名流の養子制度とか云ふ事は之に対して起つたかと認められる、家といふ事を事業といふ事よりも重く見るので斯ういふ事にある、目今では家よりも事業に重きを置く風潮になつたらしい。鈴屋大人以後春庭大平を経ての松阪は失礼乍ら大風の吹いたあとの様で僅に閨秀歌人式部を出したのと、石薬師の佐々木弘綱が暫くこゝに居た位のものである。
俳諧は伊勢は本場である、随て松阪から有数な俳人が輩出してゐる、此事は櫻井君が詳説してゐるから略する、松阪の素因と茨木素因とは同号異人かと思ふ、茨木素因は津藩士で有名な茨木騒動の家である。
馬琴の親友として殿村安守のある事は櫻井君も説かれた、鈴屋門ではあり、国学に関する著書もあるが、つまり金持の旦那藝で、櫻井君の言はれた通り馬琴に対する批評家の地位に立たれた事が安守としての価値である、馬琴に対する批評家としては、まだ外に木村黙老とか石川畳翠とかがあるが、最も馬琴に同情がありよく馬琴を理解した点で安守が一等であり、亦馬琴も此人の批評が一番胸へヒシと来たらしいので、此の人の評語に勇んで筆を執つた。然し安守は決して馬琴の為に巨資を投じて出版を援けてはゐない、其当時の出版事情は今日とは大分違ふし、実は馬琴の原稿は版元で引張凧であつた、安守が御世話申す余地が無い、而巳ならず堅偏屈なあの馬琴は一文でも余分の金は貰はない、仮令草双紙の代金でも一々明細に計算してゐる、金銭としては盆正に年玉中元を一朱か二朱貰つてゐる、これも一々返礼をしてゐる、馬琴が老て窮迫した頃、多少蔵書を買つて貰つてゐるが、それも世間相場以上には貰つては居らぬ、唯馬琴は自分の手沢の存する書を知らぬ人の手に委するよりは知人に持つて貰ひたかつたのである、殿村安守宛の馬琴の手紙の一部分でさへ癸亥地震以前東京で買価一万円と号して居た、此間京都の入札へ出た返魂余紙と言ふ馬琴が拵へた張込みの巻物二巻、只馬琴のかきこみがある丈けのもので貳千貳百十円で書賈が落札して居る金銭上から云へば安守の方が馬琴から貰つてゐる姿になる。唯狷介世と容れぬ馬琴に好意を持つてゐる体度が、非常に馬琴を慰めたと見たい、馬琴も温厚長者の風ありと安守を欽慕してゐる、琴魚は安守の手代の事務を執つて居た、馬琴も御義理に弟子にして居たらしい、琴魚は江戸にも大阪にも業務上出張してゐた、松阪札(紙幣)は殿村氏と外の人との合同事業ではあるが、重に安守が擔任して居たと見え、あの札の木版は上中下に別ち、一々別の板木師へ琴魚が註文して彫刻させてゐる、それは大阪出張中の事である。
松阪の漢学は誠に貧しかつた。櫻井君が津藩の学事を記して、東陽敬所三角竹厓と記されたが、これは書き方が穏ではなかつた、三角は有造館以前の御儒者であるし敬所は御客分である、別記して欲しかつた、敬所は日本の経学者であり最も三礼に精しく東陽も亦有数な博学であつた。
松阪では私は赤須道人を挙げたい、これは真台寺四代の住職で名は猛火、字は明了、小字は勝と申された、真台寺は真宗であると覚える、御念仏さへ一つ申せば極楽と云ふ旨い所へ行けると、善男善女の頬ぺたを牡丹餅で叩いて御座る大安買宗の坊様かと思つたら、赤須上人は豪傑の風があつた、名を猛火といふ位に気性がはげしく、熊野三山などを跋渉し、嘗ては高葛坡(かうかつぴ)が義理を失したとて絶好をした位である、よく外典に通暁し、中にも老荘に精しかつた、南宮大湫や涌蓮や蕭白と友達であつた、文字は荒木是水の流で中々佳ひ、赤須真人詩集七巻計り刊行されてゐると思ふ、天明八年五月廿九日七十三で逝くなられた、法号は東海院明了白延上人と云ふ、此の上人に次いで悟心と終南とを松阪の三詩僧と云ふ、悟心は松本駄堂翁の子で詩書印共に善い天明五年七月廿七日に示寂され墓は相可の法泉寺にある、終南名は浄寿、号は介石とも檗林道者とも云ふ、書家の伊藤益道の弟で、つまり恒庵の叔父に当る、一に小島氏ともある、黄檗の南嶺さんの法嗣になる、明和四年八月二十二日五十七歳で示寂された。
介石遺稿二冊これは文集であるが刊行されてゐる、詩集まだ偶目せぬ。鈴屋大人の和歌の手ほどきは山田の法幢和尚であるといふので一志郡の法幢上人と間違ふ、この一志郡の法幢は赤須門下である、私は此の詩僧を逸し難いと思ふ、徳川氏の代、僧と医とは世外の民であつて文学芸術に親しみ易い地位に在つた、加之松阪には殿村安守の如き袖手徒食と申ては悪いが、不労所得に衣食してゐる有閑階級が多かつた、文学は先づ此れ等の人々に因つて半ば道楽的に発達させられてゐる、其裡から真剣に、天品のある人が台頭してくるのであるから、私は血眼になつて所謂富豪は責め無い、東京でも富豪の大庭園が介在してゐるので空気も幾分浄まり、火災の予防にもなるのに無闇と開放させるのは愚策と思ふ、無用の用といふ事を知らねばなるまい。
何にしても三百年来松阪は多士斎々である、此等の文学の士以外に芸術の士もあり、歌学の士地文の士、将又経済方面に於ては、江戸開府当時、江戸文明に貢献し併て伊勢店を築き上げ伊勢屋の暖簾で売出した人々も多いと思ふ、或は此等商人の力の方が文学芸術の社会に寄与した力よりも偉大であつたかも知れぬ。 何にいたせ、懐古が懐古に止まつて居ては、夢を見てゐる丈である、古を以て今の鑑として発憤努力して行く所に始めて懐古の価値があるのである、私の知らぬ方面ではあるが、古の江戸店は今日如何なつてゐるであらうか、依然として江戸時代の旧を守つて居るのか、守つて居られるのか、私は恐らくあの制度は行詰つて居りはせぬかと思ふ、但しかう云ふ問題は関する所に利益といふ事が伴ふから早く改良進歩の実が上ると思ふが、鈴屋系の古学は今どうなつてゐるのか、鈴屋せんべい鈴屋おこしはあつても肝心の鈴屋の学問はどうなつてゐるのか、鈴屋の屋形が公園に存して居ても、それは形骸である、死馬の骨に五百金を投ずるのは、千里の馬の出づるのを求むるのである、こゝに鈴屋大人が住んで居たと知つて其れが何になる、かゝる陋屋からでもあの大偉人が出た、我れ第二の鈴屋大人たらむと志ものゝあるを待つのである。思ふに現今の国学なるものは我等の生活とは没交渉の過去の世界を教えてゐるのでは無いか前年の世界の大戦に国学者が如何に動いた単なる言語学の一部に逍遙してゐるのに甘んじてゐるなら宜しい、苟くも古の道を説くべき国学者たるものが、癸亥の大震災に如何動いたか、現下の思潮に対して如何なる態度を執つてゐるか、学校の先生に甘んじていゐるにしても子弟を如何に教導するか敬神と説く其敬すべき神とは如何なるもの乎、神の実体が確乎とわかつてゐるか、古の道とは今の道である、私達の踏み行く道であらねばならぬ、如何なる道をふむのであるか、命令で踏む道でも無い法律でふむ道でも無い、習慣でふむ道でも無い、私達が人が人としてやむにやまれぬ、どうしてもかくあらねばならぬ理由の下に踏む道であり、敬ふ神である、筧博士が古神道を説いてゐるもの多分ここであらふ、鈴屋大人の古道もここであると思ふ、遠き古の道を研究するのは、今新たに私達の活き活きて行く道に続いてゐるからである、行詰つた現代に、どれ程偉人を要求してゐるかしれぬ、私はかゝる立場から旧知の松阪の諸君に第二の鈴屋大人を出現せしむべき雰囲気を養成してほしい、併て第二の鈴屋大人の出現するのを切望する。


(C) 本居宣長記念館

『松坂勝覧』(まつさかしょうらん)

 宣長さん16歳の著述。ハンディータイプの松坂ガイドと町の略史。この時期、宣長さんが愛読して、また憧れていた「貝原益軒」本の真似だろう。益軒は儒者で、医者。また今のハウツー物の先駆けのような本をたくさん書いた。この人に、「何々勝覧」という、京都や大和(奈良県)など各地のガイドブックがある。それを模したのではないだろうか。

 延享2年(1745)3月26日成立。「伊勢州飯高郡松坂勝覧」とも。
 内容は、松坂の略史に始まり、縦横の通り別に各町を紹介、続いて近在の名所、神社、仏閣を簡略に記述。松坂の地誌としても最も古い部類に属し、また、寺社の祭礼など本書にしか見えない記事もあり、小冊ながら注目に値する。 巻末に「年代記」として四項載せ更に書き継ぐ予定であったか。奥書「延享二年乙丑歳三月二十六旦、小津真良」。「小津」姓はこれ以後の資料に見られない。
 共表紙仮綴冊子装であるが表紙には墨で題簽、綴糸を模し、書物編集の願望が窺われる。
 自筆本は、本居宣長記念館所蔵。 【翻刻】『本居宣長全集』巻20。『松阪市史』巻9。


『松坂勝覧』


(C) 本居宣長記念館

松阪神社(まつさかじんじゃ)

宣長歌碑


 境内大楠の下に建つ。牧戸正平氏の寄進。昭和33年12月18日除幕。碑は縦1.7m、横1m。碑は宣長の宵の杜(四五百森)の歌を清造氏が揮毫、根来吉三氏 が刻した。

 歌は
  「民の戸もささて月見るよひの杜めくみのかけのくもりなき世は」

『石上稿』によれば寛政9年(1797)69歳の時の歌。この時詠んだもう一首が近鉄松阪駅前にある。
 この楠の下にある大きな穴は、実は松阪城からの抜け道の出口だ、と言う伝承がある。昔、大学生等が調査したこともあるが、実証には至らなかった。


(C) 本居宣長記念館

松阪の祇園祭と鈴おどり(まつさかのぎおんまつりとすずおどり)

「今月の宣長さん」の「六月の宣長」を参照
 こちらをご覧ください

「松坂の一夜」

 宣長と真淵のたった一度の対面を「松坂の一夜」と呼ぶ。
宣長の『日記』には、

「廿五日、曇天 ○嶺松院会也 ○岡部衛士当所一宿【新上屋】、始対面」
と僅か1行の記載しかないが、この一夜の持つ重要性は、近世国学の中でもっとも重要な事件であったと言うことが出来る。既に宣長自身『玉勝間』で詳しく回想するが、それを一般の人に、子供たちに感動的に伝えたのは、佐佐木信綱の文章である。

【参考文献】
「「松阪の一夜」私見」岩田隆『鈴屋学会報』第11号。

「松阪の一夜」で真淵と宣長が語ったこと

 真淵が宣長に言ったことは、基礎を重視することの大切さであった。
『古事記』を読むためには「からごころ」を清く拭い、古代のまことの心を理解することが必要だ。そのためには古代の言葉を知ることから始めようと『万葉集』を研究したが、私はそれだけで終わる。あなたはまだ若い、いまから怠らず努めたら必ず『古事記』研究も出来るはずだと励ます。そして手紙で指導することを約束する。

 「宣長三十あまりなりしほど、県居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有りて、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われもゝとより、神の御典(ミフミ)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意をたずねえづはあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまづもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることをえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、いまよりおこたること、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみ説(トケ)る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける」
           『玉勝間』「あがたゐのうしの御さとし言」

 真淵は先生としても立派だった。この後も、時には励まし、時には激しく叱り、また共同研究を勧め、師の説であっても誤りに気づいたら訂正するように勧めた。

(C)本居宣長記念館

松坂のひな祭り(まつさかのひなまつり)

 ひな祭りは楽しい。賑やかだ。
19世紀初め(1813年頃)の松坂のひな祭りの様子を、
服部中庸の『松坂風俗記』で見てみよう。

「一、朔日二日  初の雛祭りする家はよもぎのもちをつきてひし形に切り、白き餅もとりまぜて同しく菱の形に切り、贈り物をもらひし家、又親類知己などへ此もちをおくる。
大かた女子成人するまでも此もちゐハ親類へは贈る也。
雛にも奉る。」

 一日、二日、初節句の家では、よもぎの餅、白の餅を搗いて菱形に切り、お祝いをもらった家や親戚などに届ける。女の子が成人するまで餅は配る。またお雛さんにもお供えする。


「一、上已出仕。ノシメ麻上下着。平人ニフクサ麻上下也。
町家も礼有。前の雛祭りの家は 来客ありて大に賑ふ。
さしても女子ある家々はみな琴引、歌うたひて饗宴ある也。
なめて、あさつきにきしみと貝の味をこして、是を酢味噌あへにして鱠に用ゆる也。
赤飯をむして雛に献し、来客にも進め、親類なとへもおくる。
雛祭りのかざりは都にかはる事なし。」

 三月三日(上巳の日)、役人は出仕する。着物は、のしめ麻裃。
町人たちで出仕するものは、ふくさ麻裃。
町家でも上巳の挨拶に回る。
お雛さんを飾る家は来客でごった返す。
女の子が居る家ではお琴を弾いたり、歌を歌ったり、ご馳走したりする。
浅葱と「きしみ」と貝の味付けで酢味噌和えにして鱠とする。
赤飯を蒸してお雛さんにあげて、お客さんや親類にもおくる。
ひな飾りは京都と変わりない。

 鱠に使う「きしみ」は、何かわかりません。
松阪の女性、それもちょっと年配の方に聞いたら
簡単に解決が付くのかも知れません。また調べてご報告します。


(C) 本居宣長記念館

松坂の本屋さん・落ち穂拾い

 宣長時代の松坂の本屋の作っていた罫紙と、文具商の包み紙が伝わっている。
 一つは、松阪市史編さん室移管本『妙法院宮御庭十二景歌』に使用された文海堂の罫紙である。また、『授業門人姓名録』は、柱に上魚尾と「松坂玄々堂蔵」と刻した、四周単郭一面十行罫紙である。
 包み紙は、天理図書館所蔵の『鈴屋翁随筆』第一冊表紙に使われている「伊勢土産 木石亭織部製 松坂千年織 蓬壷堂 一【松坂本町蓬壷堂】」という紙である(全集18巻解題64頁)。

 文海堂柏屋兵助は、宣長の著述刊行で知られるが、玄々堂深野屋利助は次の春庭時代である。本屋のようであるが、刊行した本は二冊しか確認されておらず、詳しく不明である。しかしそれ以上にわからないのが、蓬壷堂の紙である。一体何を包んだ紙であろう。


(C) 本居宣長記念館

松坂の本屋さん

 当時松坂には何軒の本屋があったのだろう。
 藪屋、柏屋に継ぐのが、深野屋玄々堂である。1800年代初期に職人町にあった本屋だ。当時の本屋は、出版もすれば写本も請け負う、販売もすると言った、何でも屋であったが、深野屋の場合も同じであろう。
 出版した本は『樫の若葉 初編』(文政13年刊・富樫広蔭編の歌集)、『伊勢人物誌 南勢之部』(天保5年5月中旬刊)があり、『勢遊草』版本1冊にも柏屋と並んで名前が見える。また『伊勢御機殿略記』の刊記の書肆の中にも名を連ねる。

 深野屋が宣長没後、後鈴屋社に急接近したことがある。安守や本居大平の書簡にもその噂が記される。例えば、宣長の参加していた歌会として有名な嶺松院会、この会は文化6年に大平が和歌山に転居してから休会になっていたのだが、その後を受けて歌会を主催しようとしたことがある。また宣長の『授業門人姓名録』の定本となっている筆者不明の記念館所蔵本の用紙に玄々堂の罫紙が使用される。諸本に較べ整備されているだけに、あるいは営業がらみなのかとつい勘ぐってしまう。

【参考文献】
「覚書き 後鈴屋社と玄々堂」吉田悦之・『須受能屋』2号



(C) 本居宣長記念館

『松坂風俗記』に描かれた江戸時代の「初午」風景

 一、初午  いせ一ケ国の賑ひ也。岡寺山継松寺云寺の勧世音へ参詣す。大体、前日よりして、当日の夜にいたる。

〈見せ物小屋と屋台の賑わい〉
見世物、軽業なとわづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興業す。京・大坂・名護屋(名古屋)・四日市・津辺よりも商人多くきたりて種々の物を売。大かた一ケ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人、皆参詣する。

〈厄年〉
殊に厄年の者は猶さら也。男は二十五、四十二を本厄とする。女は十九、三十三を本厄といふ。其前年、後年を、「前厄」「うしろ厄」といひて、前後三年づゝつゝしみて守る也。この観音を「厄おとし勧音」といへり。

〈厄を祓う〉
杉の葉を売るを買て、それを二ツに折りて、左右の手して左右の肩よりうしろへなげて、夫より仏前へ拝する也。
〈子供や老人では参詣できないほどの賑わい〉
当日の昼四ツ時比より八ツ時過(午前十時頃から午後二時頃)までは、寺内に人詰りて老人・子供などは参詣かなはず、一ト切一ト切に人数を入かへて参詣さする也。
又、厄年の者、皆、鏡餅を観音へ備へる。或は鳥目なとそへたるもあり。この鏡餅夥敷事にて、此寺内六月迄の飯料、此餅にて有といへり、官府よりはじめて町中へも此餅と札とをくばる。

〈弥勒院稲荷の初午〉
近年、弥勒院の稲荷ノ社にも此事あり。五十年はかり已前まではいさゝかの事なりしが、三十年ばかり已前よりいろいろ世話人ありて、当日は生花などの会などして参詣の人まれまれには有き。此二十年ばかりは漸く人も知りて、今は見せ物なとかつがつはありて、大かたの賑ひ也。されど岡寺山にくらべては何ばかりの事にもあらず。
〈松坂版 雛市〉
一、二ノ午  是も大かた初午のごとし。されと賑ひははるかに劣れり。諸国より入込商人、初午より二ノ午まで逗留して物を商ふ。二ノ午の夜は専ら商いの事のみ也。三月上巳のひゐなを此会にもとむる也。

〈厄祝い〉
一、厄年の事  前にいふがことし。大かた正月十五日の比より厄年の人、此二ノ午迄に祝ひをする也。其作法とて御鏡餅を製して親族知己におくる。又、此岡寺観音に献ず。扨、親族・知己のかたより其祝として酒肴其外いろいろありても、とりあはせて相応にいはふ也。又、吉日と其日を約して親族朋友を饗応す。類ひろく知己多きは数日此事有。力を尽して身分相応に祝ふ事也。此事、上方にては見あたらず。此一国の風か。北勢はしらず。
 神都の辺は猶さら此事をいかめし事する事也。
 大体、二ノ午ノ日を期とす。



(C) 本居宣長記念館

松平康定(まつだいらやすさだ)

康定(1747~1807)は松平周防守家12代。寛政元年(1789)4月9日、43歳で家督相続。藩主自ら国学を好み、小篠敏を中心に国学の隆盛を見た。寛政7年には参宮の途次松坂を訪い親しく宣長に講釈を受け、また参勤交代の途中、宣長を桑名の宿まで招いたこともある。寛政3年(1791)には、藩校長善館を創設。また寛政3年に藩林柿木山に植林をし、寛政10年(1798)8月6日には浜田大橋の渡り初め式を催すなど領地のために力を尽くした。文化4年(1807)3月22日で亡くなる。享年61歳。法号は「清崇院殿順誉徳風民興大居士」。墓は天徳寺(東京)と長安院(浜田)。
 長安院には、宣長の門人で松平家の家老・岡田頼母の墓もある。




(C) 本居宣長記念館

松平康定の鈴の歌

 松平康定から贈られた歌は今、故翁贈答歌と双幅(ペア)に表具されて記念館に伝わる。

(1)遠山松絵黄色紙。
本紙寸法、縦17.0cm、横19.2cm。
【歌】「かみつ世をかけつゝしぬぶ鈴の屋のいすずの数にいらまくほしも、康定」。

(2)四紙貼交。
(第1紙)桜絵黄色紙。本紙寸法、縦17.1cm、横23.2cm。
【歌】「文月ばかり桑名の宿りにて鈴屋の翁にたいめして、うみ近きやどりは涼しおなじくはながゐせよをち夜はふけぬ とも、康さだ」。

(第2紙)楮紙。本紙寸法、縦18.5cm、横10.5cm。
【歌】「かへし、沖津波君たちいなばすずしとて長居しぬともかひあらめやも、のりなが」。

(第3紙)胡蝶絵白紙。本紙寸法、縦17.5cm、横23.2cm。
【歌】「鈴屋の翁こゝちわづらひけるよし聞きて、康定、老人のやまひしますときゝしより心のゆきてとはぬ 日ぞなき」。

(第4紙)楮紙。本紙寸法、縦16.3cm、横13.0cm。
【歌】「松平康定主伏見より歌よみてとぶらひ給へるかへしによみてまゐらす、とはるゝに老も病もわすれけり君が言葉やいく薬なる、宣長」。

【箱書】 「松平周防守殿鈴歌、一幅、同殿故翁贈答歌、一幅」、蓋裏「此康定君は石見国浜田城主松平周防守殿にて故翁の教子なれば寛政八年辰七月江戸に下られけるに桑名の宿りにまねかれて参られける時の歌又其後上られけるをり参るべきよしいひおこせられたれどいさゝか病ありてえものせられざりける時の歌どもなり伏見よりのはかたはらちかくさぶらふ人の書たるなるべし、今一は故翁の鈴をもてあそばれければ隠岐国造の家に古くつたはりたる形を鋳させておくられけるにそへて給はせける歌なり、こたびよそほひ置つるによりていさゝか其よししるしおきつ、春庭」(美濃代筆)。

【参考】  寛政7年8月13日、石見浜田藩主松平康定侯(1747~1807)が参宮の途中松坂に泊り、宣長の『源氏物語』講釈を聴講した。 (1)は主君の来訪に先立って家臣小篠敏が主君の命で「駅鈴」に添えて持参した歌。(2)は、寛政八年、康定侯が江戸に下向する途中、桑名の宿に宣長を招いた時と、帰国の時の再度の招きを宣長が病気を理由に辞退した時の贈答歌。桑名行きの資料が「寛政八年桑名行勘定書其他書付」である。

松平康定、喜びの歌、悲しみの歌

 松平康定の色紙と短冊も本居家には残されていた。双幅。

(1)桜絵黄色紙。
本紙寸法、縦17.1cm、横15.5cm。
【歌】「音にのみ聞し鈴屋のをちに逢てふることきくそうれしかりける、康定」。

(2)短冊。
本紙寸法、縦34.3cm、横5.1cm。
【歌】「鈴屋のおきながみまかれるよし聞きてかなしみて、伊勢の海に千たびかづきて求むともまたあらめやは玉と見しひと、康定」。

【箱書】「松平周防守色(「懐」改め)紙、同哀傷の短冊」、蓋裏「色(「懐」改め)紙は寛政七年八月石見国浜田の城主松平康定参宮の際宣長を松坂の旅館にめしてたまへるなり、四の句ふることとふそとありしを宣長ふることきくそと直したてまつれりといふ、包紙添折紙壱通添ふ、昭和十四年七月、清造しるす」。

【付属品】付紙、成瀬、小村、都筑差出大平宛書簡。

【参考】
(1)の色紙は、『松平康定鈴歌・同故翁贈答歌』[2]第二紙と同じ紙。
(2)の短冊は、宣長が亡くなった時に詠んだ哀傷歌。不祝儀のため薄墨で書かれ判読も難しいのが一層の哀れを催させる。付属品は哀悼の意を伝える書簡である。
「松平康定喜びの歌」


(C) 本居宣長記念館

「松園管弦会之序」(まつのそのかんげんかいのじょ)

また一つ、松坂の文化資料が見つかった!
「松園管弦会之序」
文化7(1810)年、本居清嶋の長文の序だ。
内容は、後藤某の家で、中里常岳指導による管弦の会が、初めての演奏会をしたことを言祝ぐ文章である。
残念ながら、後藤某が分からない。
父が家に松を植えたことにちなみ「松園」と号したこと、
「仕えわざ」とあるので、紀州藩士と推測するなら、殿町には二軒の後藤氏がある。
その仕事の合間に、和歌や読書と雅事を好んだが、ある時、中里常岳が笛の名手だということを聞き、 熱心にその指導を願い、やがては仲間も集まり、庭の松の下で管弦の会を開くまでになった。
この、文化7年という年は、前年に清嶋の父、本居大平が家族と和歌山に転居し、 おそらくそのためであろう、長く続いた嶺松院歌会が、その歴史を閉じた、その直後となる。

松坂の管弦については、寛政6年(1794)5月17日、松坂訪問中の鈴木朖が「遍照寺歌集」に残した文章がある。

「(遍照)寺は里の東北尽くる処に在り。傍らは曠野に臨み、煙は遠林に罩、水は禾田を浸す。一望の景色、直に庭際に接す。
爽◎(土偏に豈・ガイ)閑寂、尤も雅集に宜し。
里中の管弦を善くする者、常に双日を以て、此に会し而して楽を楽しむ。蓋し洋々乎たるかな(原漢文)」
町の外にある遍照寺が水田に臨む景勝の地として雅会、とりわけ管弦の会に使われていたことを知るのである。
きっと中里もこの寺の会に集まった一人であったろう。

☆ 全文翻刻

「松園管弦会之序

後藤の何がしの庭に小高き松のあるは、父の植ゑおかれたなりとて、もていつき給ひて、
その家の名をも松園となむ名づけられける。

この松は本たちも、こなたかなたにさしかざせる枝つきも、いとおもしろく、げに常磐堅磐に栄えゆかむ。
末はたのもしき其陰には、よろしき石など所々にすゑ、庭も狭に生ひたる苔の色も、世の常ならず。
又、春は花見むとてやゝ奥まりたるところに桜などもうゑませ、このもかのもに草の真垣結ひわたし、
萩、女郎花の秋のながめもすべてしめやかに心したるさまになむありける。

さて、あるじはまめ人にて、つかへわざの暇しあれば、歌詠み、書見ることはさらにもいはず、
何くれの雅わざをも好みていそしみ給ふ人なりけり。

こゝに中里の常岳主、若きほど都に物して遊びの道の博士に笛ふくことを習ひていみじく好み給ふまゝに、
いと妙なる音を吹いだしつゝ、年経て深く悟り物し給ふ事を、
此五六年ばかり先に、この主聞きつけて、かの主の許に行きて、その笛吹わざを教へ給ひねと請れければ、
そは若きほどの戯れに吹きすさみたるにて、如何でかしか人にきかせ奉りなとせむことはと言へるを、
兎角言い唆されをれば、彼、もとより好まぬ事にしもあらざれば、うけひきて、
まつ始めに拍子うちて譜歌ふことなどせらるゝほどに、
又そをまねばむと思ふ人三四人あれば其人々と共におのれも習ひて二年三年とかくする程に、
この人々もやうやう笙の笛、篳篥、琵琶、箏の子となどをも少しづつものするを覚えければ、
いざもろともに吹あはせ引あはせみむとて、
かくて今年正月末つ方この松園に人々集ひけるに、
すのこの端近く出でて前栽を見るにひとしほの松の緑も常磐がほなりければ、

色深く 緑勝りて 松が枝に 吹く春風も のどけかりけり 
おふしたて 親の植ゑおく、松なれば、梢も千代の 春ぞ栄えむ 
此の頃は おほかたの 春の景色に、あくがるゝ、鶯のこゑきこへ、
そこはかとなく、梅の花の、かをるもえも、いそれされば、色よりも、香こそあはれとなどうち誦しつゝ居たるほどに、
あるじはあそび△(不読)しむべき、用意しおきて、
今日は年の初めのつどひなれば、をさまれきる、世のやすくたひらけきことぶきに、たひらかなる調べの五常万歳の曲をこそ為さまほしけれといへるに、
皆、げにもと言ひて例の吹き物、弾き物、ゐやゐやくしく取り出でて
まづ音取爪調べなどしてやがてはじめたる、
糸竹の調べも春の日なれば、ことにのどやかに、おもひなされて、ほどなくをはりぬ、

あるじもいたうよろこびて、酒など致してなにくれともてはやし給ふに、うちとけたる友とちなれば、心に残す隈無く物語りしてかへりぬ、
かくて其後は、花紅葉のをりは、例の人々円居(まとゐ)する事になむなりにける、
かくみやびわざのおかしくなりぬることし嬉しさのあまりに、柄短き筆とりて思ふまゝにかきしるしぬ
 清嶋
文化七年夏六月二十日」

この年、本居清嶋(島)22歳。前年、父に従い和歌山移住のはずだが、きっと行き来していたのであろう。
この「松園管弦会之序」は縦133糎という大変長い紙に書かれ、軸装されている。
四日市の伊藤宗壽氏から平成30年11月22日寄贈された。

(C) 本居宣長記念館

窓(まど)

 書斎鈴屋が、屋根裏の暗い部屋となっていないのは、この大きな窓があるからだ。

 稲懸大平が窓からの眺めを歌に詠んでいる。

 「本居君の高き家はよいほの森をまぢかく見わたさるゝ所なりければ花のさかりに人々とまゐりつどひて、

     うちわたす、むかひの岡の、花のかも、
               袂ににほふ、やどの春風  大平 上」

【大意】
四五百森の桜の香が、春風にのってここまでくるような、すばらしくものんびりした景色だなあ。

(C) 本居宣長記念館

「円居の図(すずのやまどいのず)」

「ようこそ宣長ワールドへ」、「宣長の学問」、「8、宣長の仕事場」参照
 こちらをご覧ください

(C) 本居宣長記念館

間に合わなかった入門(まにあわなかったにゅうもん)

 伴信友(バン・ノブトモ)は、若狭国(福井県)小浜の人。宣長没後の門人と言われる。

 入門を決意した信友は、村田春門に仲介を依頼した。春門は、伊勢国白子(三重県鈴鹿市)出身で、当時は江戸に住んでいた。
 ところが、時既に遅く、入門の願いが松坂に着いたのは、宣長が亡くなった後であった。信友の嘆きの深さに、春門は気の毒になり、所持していた宣長像の写しを、藤林誠之に模写させ、大平の賛を貰い、信友に届けた。そのことが、伴信友所蔵の宣長肖像の軸に、村田春門の由来書きとして書かれている。文章の調子からは、あるいは、春門の手続きが遅れたのも一因かもしれない。
 いずれにしても、当時信友は江戸と小浜を往復していたし、一方、春門は江戸にいたので、画像の複写の作成は協議しながら慎重に進められたのであろう。

【資料】
 伴信友所蔵の宣長肖像の軸の村田春門由来書き。
「大人の御もとへ名豆支を奉らん事を乞はれけるまゝに、とりかへしは享和元年十月なりけり。其文とゆきちがひて、九月二十九日に大人かむ上りましつるよし大平翁のもとよりつげこされしかば、なげきかなしびをしがり給へどかひなし。かゝりければ、せめておもひでに、春門が早く大人の鏡にむかひて、みづからものし給ひしといふ御像をうつさせてもたりければ、それを藤林誠之主にあつらへて、ふたたびうつさせて、うへにかき給へりける歌を大平翁にたのまれける。かきておくられしは、あくる年の秋の頃なり。」
       『伴信友』石田熊三郎(『伴信友全集』別巻収載)より。



(C) 本居宣長記念館

真淵先生の書簡を贈る

 宣長は所蔵する真淵書簡を、知人に贈っている。その間の事情を次のように語っている。

「宣長、県居ノ大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、その後はたゞ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける、そのたびたび給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつととらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬる」
 (「おのれあがたゐの大人の敎をうけしやう」『玉勝間』巻2)
 たった一度しか会わなかった真淵先生の指導は、書簡と質問状により行われた。その数はずいぶん多かった。大事にしていたが、ぜひ分けてくださいと頼まれたので一つ二つと上げる内に残り僅かになってしまった。

 田中道麿からも懇望されたので3通差し上げた。
「岡部翁染筆物之事、短冊等之類ハ一紙も無御坐候、書状ハ先年数十通有之候ヲ、一通もちらさず取置申候処、段々方々より所望被致、遣し申候而、今ハ殊外すくなく相成候ニ付、随分秘蔵いたし申候、夫故なみなみの人之所望ニハ遣し不申候へ共、貴君ニハ格別之御深志ノ御事ニ候ヘバ、三通授与仕候、随分御秘蔵可被成候」
            (安永10年3月18日付田中道麿宛書簡)
 『玉勝間』の回想とほぼ同じだが、真淵が没したのが1769年、道麿に贈ったのが1781年、約12年でかなり散逸したことがわかる。数十通あったそうだが、現在、本居宣長記念館所蔵の真淵書簡は8通。それ以外、個人所蔵などが9通。合計17通。田中道麿が大変熱心な人だったから贈ったのだろうが、一度に3通もプレゼントするとは気前がいい。

 また、1通は、経亮のもとに行っている。
 経亮の礼状が、
「本居宣長加茂真淵のみつからかけるふみをおくりける時よろこひにつかはす」(天明8年8月28日付)である。
 これに対する宣長の返事が「橘経亮に答へたる書」で共に『鈴屋集』に載る。その中に、やがて行われるだろう新御所への天皇の御遷幸を拝見に行った折の対面を楽しみにすることが書かれる。

「賀茂真淵書簡 」


(C) 本居宣長記念館

真淵への入門(まぶちへのにゅうもん)

 真淵と対面した翌月、宣長は改めて入門の願いと真淵から許諾してもらった『万葉集』への質問状と送った。返事の12月16日付賀茂真淵書簡と、村田伝蔵書簡が宣長のもとに届いたのは半年後、12月28日であった。
 『日記』には、

「廿八日、朝曇、雨天、○去五月、江戸岡部衛士県主真淵当所一宿之節、始対面、其後状通入門、今日有許諾之返事」とある。
 伝蔵書簡には、手続きの遅れたわびと、入門について束脩(入学金)はこちらにまかせるとのことなので了解した。誓約は見本を見せるので書いて欲しいとある。真淵書簡は、宣長の質問に対する高評が記される。この書簡を受けて、宣長は正式な入門手続きに取りかかったらしい。

 今、国立国会図書館には「宇計比言」という真淵への入門誓詞が巻子になって残っている。その中に宣長のものもある。文体は宣命体で、日付は宝暦14年正月となっている。


(C) 本居宣長記念館

満足、満足。

 本居宣長六十一歳自画自賛像の自筆は記念館蔵の1点しかない。出来映えには満足したのであろう、すぐ表具された。
 完成したのが寛政2年(1790)8月、つまり当時の季節で言えば「仲秋」。同じ年の『諸用帳』秋の支払い分に、

「金一分六百六十八文、表具ヤ万右衛門」(宣長全集・19-581)
とあるのはこの自画像の表具代だろう。宣長自身の箱書があるのでこの前後に表具されたことはほぼ間違いない。



(C) 本居宣長記念館

『万葉集』(まんようしゅう)

 『うい山ぶみ』で、

「二典(『古事記』、『日本書紀』)の次には、万葉集をよく学ぶべし」
と宣長は書き、この集の歌を真似て、自分でも古風歌を詠むことが大事であると言う。
「歌をよまでは、古への世のくはしき意、風雅(ミヤビ)のおもむきはしりがた」いからだ。

 これは師・真淵の教えでもあった。このように、宣長における『万葉集』の位置づけは、まず『古事記』を読むための階梯としてである。
 ただ門人には、賀茂真淵の「古風歌」への共感もあり、大平を始めとして、本書を好む人も多かった。そのため、宣長は晩年まで本書の講釈を継続した。宣長手沢本の『万葉集』の特徴は、門人、また鈴屋を訪れた諸国の人の意見まで、積極的に記録している点にある。活発な意見の応酬がなされたことが分かる。



(C) 本居宣長記念館

『万葉集玉の小琴』

 2冊。本巻と別巻に分かれる。本巻は安永8年(1779)11月成稿。別巻は寛政6年(1794)以前の成立。
 師・真淵の『万葉考』を補訂する目的で執筆。
 『万葉集』巻1から巻4までの語句を摘出し、注解を加える。
 小著だが卓見が多く、巻頭歌「菜採須児」を「なつますこ」と読むなどその後の定説となった。直感に頼ることが多かった真淵の研究を補正した本書は、その後の『万葉集』研究に大きな影響を及ぼした。
 刊行は、天保9年(1838)で、斎藤彦麿の序と、藤原秀英の跋が付く。



(C) 本居宣長記念館

『万葉集』の講釈

 宣長は特に『万葉集』が好きというわけではなかったようだが、『古事記』などを研究する基礎として、また門人の請いもあったのだろう、生涯に2回の講釈を行い、3回目の半ばまで進んだ。

 第1回は、宝暦11年(1761)5月24日、それまでの『枕草子』の講釈を中断し開始した。終わったのは安永2年(1773)12月14日。式日は4の日。
 第2回は会読で安永4年(1775)10月24日から天明6年(1786)10月12日に終わる。
 第3回は天明6年10月22日に始まり、やはり会読であったが、途中、『日記』の寛政2年(1790)3月10日条に、

「此書初会読也、近頃為講釈」
とあり、講釈に変わったらしい。同7年6月3日に巻12が終わった。
 また、同10年2月に鈴屋を訪れた伊豆の門人・竹村茂雄の『宮はしらの日記』23日条に、
「大人の御もとにまうでて、文などの心得がたきところどころ、かつがつとひさだむ、こよひ万葉集をなんよみとくとのたまひけらば、さらばくれつかたにまいらんとて、立かへりぬる、くれ過て例の人(引用者注・橋本稲彦)、宇治の神司なりける人と、三人していでたつ、此人はさる田の神の末にて、今もなみなみのつらにはあらぬが、此ほど古風まなぶとて、こゝにきたり居給ふ也けり、さて、うしのもとに行て、文よみ給ふなど聞はてゝ」
とありその後も継続して開講されていたようだ。



(C) 本居宣長記念館

水分神社(みくまりじんじゃ)


「吉野水分神社」をご参照ください

御厨神社(みくりやじんじゃ)

 松坂本町にある、本町、魚町の産土神。
 宣長の『日記』元旦に「詣産神祠並町山神社」等と見える「産神祠」が本社である。

 中里常守説(『本居宣長随筆』)に依れば、最初「世名浦大明神」、また「石津権現」と言い、世名浦三十余浦の海魚を神宮へ献じる神社であった。場所は、現在の松阪市石津町、荒木町あたりか。天正年間、本町大手筋伊豆蔵の近く、津嶋屋の裏に移すが、長野氏(代官・任期、元和5年~寛永14)の時、現在地、本町馬喰町に遷座。

 宣長との関わりでは、安永9年(1780)に修理終わり遷宮したときには歌3首を献じ、色紙が神宝として残る。天明5年(1785)には神社扁額の染筆を宣長より荒木田経雅に依頼。これも現存し、「御廚神社、祢宜正四位上荒木田神主経雅謹書」と刻す。裏には文字はない。また『古事記伝』刊行時には奉納し、宣長の書簡と共に今に伝わる。『毎朝拝神式』遙拝の一社。魚町宣長宅から約6分。

【参考文献】
『神道古典の研究』池山聰助著。
「御厨神社扁額」

御厨神社


(C) 本居宣長記念館

御厨神社遷宮歌

 この歌は、魚町の長谷川治郎兵衛氏が御厨神社に奉納したもの。
 宣長(51歳)が、安永9年1月29日の御厨神社遷宮の時に詠んだ歌。
 歌は古風歌で、万葉仮名で書かれている。

   「御廚神社修理成り終わりて仮殿より正殿に遷座する時の歌、平宣長

  守ります里も栄えん御廚御厨の神のみあらか仕えまつりて

  里の子が御宝(ミアラカ)運ぶ御廚の神の御幸と御宝運ぶ

  今日うつる神のみむろを万代といほきもとほし里人遊ぶ 」

                          御厨神社遷宮歌
(C)本居宣長記念館

味噌(みそ)

 『玉勝間』に「味醤」という項目がある。味醤は、今の味噌のことである。宣長は『三代実録』の「味醤二合」がこの言葉の初出で、『和名抄』には「未醤」の項目があり、別の『和名類聚抄』では、「未醤」と書かれると紹介し、実はこの「みそ」という言葉は朝鮮半島の方言からきているのだという新井白石の説も紹介する。
 宣長手沢本の『三代実録』『和名抄』味噌の箇所には、印や書き入れがあり、この項目が読書や研究の際のメモをもとに執筆されたことが分かる、『玉勝間』の執筆過程の分かる典型的な例である。



(C) 本居宣長記念館

みたまのふゆ

「恩頼図」をご参照ください

三井家(みついけ)

 本町。三井家は、伊勢商人を代表する豪商で、また近代には日本最大の財閥となった。
 創業者・三井高利(1622~94)は、14歳の時、長兄・俊次の店で働き商才を発揮するが、その才をねたまれ松坂に返される。長兄の死後、延宝元年(1673)に、長男等に江戸へ出店させ、その後、京都、大坂にも進出する。高利没したときの資産は8万両にも及ぶと言われた。現在、「三井家発祥の地」が残る。屋敷はその道向かいにも広がっていた。屋号は、越後屋。
(C) 本居宣長記念館

三井高蔭(みついたかかげ)

 宝暦9年(1759)~天保10年(1839)11月24日。享年81歳。幼名岩三郎、亀之助、総(宗)十郎。名は初め高照(ヒロ)、宗養。号は藁蔭舎(ワラビサシノヤ)。三井家鳥居坂家四代目。15歳から江戸店で修行。
 安永4年(1775)正月26日からの第3回『源氏物語』講釈に参加するが、入門は遅れて同8年。三重圏点。
 天明5年(1785)頃から「本居氏ノ門ニ於テ専ラ文学ヲ研究シ、特ニ作歌ニ力ヲ用フ」(「稿本三井家史料」)。この記事の裏付けとなるのが「三井高蔭日記」で、天明5年と7年の一部が残されて宣長との交流などその日常が詳記される。
 師の六十賀に参加、また、松坂を来訪した松平康定に大平と拝謁し、『源氏物語玉の小櫛』刊行を助ける。
 寛政11年3月16日の七十賀は、塩屋町の別業畑屋敷で開く。
 山室山奥墓の建造に尽力。
 文化6年、養子三井高延(後に春庭門人)を京都より迎え、天保3年、家督を譲る。
 著書に『弁玉あられ論』がある。京都の有職家・高橋家とも交渉があったらしいが詳しくは分からない。
「松坂地図」の「三井家」「畑屋敷」


(C) 本居宣長記念館

三井高匡(みついたかまさ)

 寛政元年(1789)12月11日~安政3年(1856)1月26日。享年68歳。三井家松坂南家第6代当主。父、高行。祖母利野は三井高蔭の姉(もしくは妹)。幼名、進蔵。15歳から京都本店、大坂、江戸で修行し、文化3年、18歳で一旦、帰郷。この時に大平の門人となる。またその後、文化6年、春庭に入門。文政3年、清水浜臣が松坂を訪れた時には春庭等と小津守良宅で歓迎の歌会を開く。墓は来迎寺にある。


(C) 本居宣長記念館

三井別業畑屋敷

 塩屋町。来迎寺傍にあった。今の田畑という石屋さんのあたりだという。明治16年頃、松阪小学校の分教場に充てられたことがある。ここで、三井高蔭は宣長七十賀を開いた。




(C) 本居宣長記念館

密蔵院(みつぞういん)

 松坂本町城坊小路にあった真言宗古義派のお堂。今は跡形もない。本山は大和国長谷寺。本尊は虚空蔵菩薩。天正17年、蒲生氏郷が城の鬼門除け祈願所とした と伝える。
 宣長の『伊勢州飯高郡松坂勝覧』には、

「浄坊小路、本町ノ会所寺也、本尊虚空像菩薩」
とある。
 会所とは今の公民館のようなものであろう。

 ここの住職、戒応(かいおう)は宣長門人。生没年不詳。『授業門人姓名録』自筆本に安永8年(1779)門とある。
 宣長たちは安永6年正月3日から、それまでの須賀直見家会に替えてこの密蔵院で歌会を開いている。同会は安永8年頃まで続いた(『石上稿』・『密蔵院月次歌集』一冊は安永7年6月3日で中絶)。戒応が入門したのも歌会と関係あるのだろう。
ひとがすれ違うのがやっとの小道「城坊小路」。
入って左手に密蔵院はあった。




(C) 本居宣長記念館

密蔵院歌会(みつぞういんうたかい)

 享保17年(1732)~天明元年(1781)9月14日。菰野藩儒。名は維遷。字は士長。文璞など。
 京都で堀元厚に医学を学ぶ。宣長とは兄弟弟子と言うことになる。景山から直接聞いたという話を『金渓雑話』で紹介しているので、景山とも係わりがあったようだ。また藩から選ばれて近江国彦根藩儒・龍草蘆にも学ぶ。
 宣長と交友があり、『古事記伝』や『勢語臆断』を貸し、また、その質問にも答えている。質疑の内、「神道」について1条、また「垂加神道」について3条が『答問録』に載る。

【参考文献】
『宣長学論攷-本居宣長とその周辺-』岩田隆、桜楓社。



(C) 本居宣長記念館

南川金渓(みなみかわきんけい)

 嶺密蔵院は、松坂本町城坊小路にあった真言宗の寺。

  『勢国見聞集』に
「明星山密蔵院 本町の裏 真言宗。本尊虚空蔵菩薩。当国田丸田宮寺末。旧は和州長谷寺の末。文禄元壬辰年、春清法師開基松坂城鬼門除にて古城主より修覆有之」とある。

 宣長等は安永6年(1777・48歳)正月3日より、それまでの須賀直見家会に替えて密蔵院会を開催、安永8年頃まで続いた。記録は、『石上稿』と『密蔵院月次歌集』(安永7年6月3日で中絶)に残る。住職戒応は安永8年、宣長門人となる。




(C) 本居宣長記念館

源義経の伝承(みなもとのよしつねのでんしょう)

『菅笠日記』の第5日目、宣長一行は、吉野水分神社の前を通り、金峰神社に参詣した。
 「日記」では、「 金御峯神社、いまは金精大明神と申て。此山しろしめす神也とぞ」と書かれている。
 山号寺号を山門に掲げる寺院と違い、神社には社名などを記す扁額がかかっていないことが多いので、
神社名は揺れがあった。話は逸れるが、宣長の氏神さん御厨神社の扁額は、宣長が寄進している。

  >> 御厨神社

 この旅の二日目にも
「岡田別府などいふ里を過て、左に近く、阿保の大森明神と申神おはしますは、大村神社などをあやまりて、かく申すにはあらじや」
と伝承を疑っている。現在は宣長の推測通り、大村神社と決し、要石のある、つまり地震除けの神様として親しまれている。

 さて、吉野奥千本にある金峰神社。社務所の左、釘抜門から下ると蹴抜塔があった。
「日記」には、
「 このお前をすこし左へ下りて、けぬけの塔とて、ふるめかしき塔のあるは、むかし源義経が、かたきにおはれて。この中にかくれたりしを、探し出されたる時、屋根を蹴放ちて、逃げ去にける跡などいひて、見せけれど、すべてさることは、ゆかしからねば、目とゞめても見ずなりぬ」
と記述される。義経伝説の蹴抜塔など興味がないので通過したというのだ。
 義経の伝承などは、宣長の時代には掃いて捨てるほどあったはず、
関心外というのも、さもありなんといったところか。
 安徳天皇と三種の神器の一つご宝剣を海に沈めた張本人義経にも、
憎しみを持っていたとも考えられるが、
一方では、依頼に応じてせっせと「常盤雪行図」への賛も行っている。
さて、源義経伝承について、法制史家・嵐義人先生に、

「山びと義経の徴証-語りから実像へ-」

という、すぐれた考察がある。
義経伝説という観点からはもちろんだが、
吉野と鉱山資源、そして源義経、
あるいは倭建命から丹生の水銀まで、
伊勢や宣長という視点からも興味の尽きない一編である。
本稿は、『図説源義経 その生涯と伝説』(河出書房新社)に掲載されたが、
同書は現在品切れのために全文を引用する。但し、写真などは省いたので、ぜひ図書館などで原本をご覧頂きたい。




(C) 本居宣長記念館

美濃(みの)

 安永2年(1773)正月2日~天保9年(1838)5月11日。享年66歳。宣長次女。寛政3年2月に松坂湊町の素封家、長井尚明に嫁し、二女一男を生むがみな早世する。結婚後も盲目の兄春庭を助け、『古事記伝』版下執筆や、『詞の八衢』執筆にも協力し、本居家の存続に貢献する。文政3年5月9日、夫信厚没。戒名は静山宗雲居士。墓は来迎寺。戒名は「閑室利春大姉」。生涯に詠んだ歌は10,949首(山田勘蔵調)を数える。
(C) 本居宣長記念館

耳が遠い(みみがとおい)

 60歳も半ばを過ぎた頃から、宣長の耳は遠くなったようです。康定と対面した時には、見当はずれのことを答えると失礼だと、小篠敏が殿と宣長の間で大声で取り次ぎをすると宣長は耳に手を当てて少し傾き加減で話を聞いていて、康定は自分の問いがちゃんと伝わっているのかと不安になったと書かれています。
 「歳は六十あまり六とか聞しを、程よりはすくよかに見ゆれど、耳なんほのほのしければ、すぢなきいらへせんも心くるしとや、御野はかのをさめきて側にひゞらぎ居て伝ふることにいと大声に物すれば耳に手をおほひ、少しかたぶきつゝ聞うるほどいと心もとなし」

  また大平の『故翁略伝』にも、
 「すべて齢の末まで物かく手つき書よむこわつかひをはじめ立居のさまも世の老人のさまにはあらで、わかく物きよげにいつこひとつおいおとろへ給へりとも見えずて、耳のみなん年月にそへてたどたどしかりけるしも、よはひ長かるべきしるしとみな人たのもしく思ひわたりけるを」

とあります。
 亡くなるまで、著作活動や講釈にも一向衰えが見えなく、若々しかったけど耳だけは遠かった。でも周りの人は耳が遠いのは長寿の印だとかえって安心していたと述べています。



(C) 本居宣長記念館

妙楽寺(みょうらくじ)

 松阪市山室町にある浄土宗の寺院で両龍山清安院妙楽寺と号する。境内地に宣長の奥墓がある。
 『伊勢州飯高郡松坂勝覧』に
「妙楽寺、山室村ニ立、本尊観世音菩薩、常念仏堂ハ、近世、樹敬寺ノ清誉上人開基、浄土宗也、山上ニ石観音トテ、大石ニ観音ノ像アリ」とある。

 元禄六年、樹敬寺を退いた清誉上人が中興し閑居、以後同寺の隠居寺となる。ここには宣長の生まれた小津家の位牌が祀られ、仏餉米を奉った。宣長も度々春秋の行楽に訪れた。また親しかった樹敬寺の法誉快遵上人(1725~1809)がここに隠居し、境内地への奥墓造営に尽力する。魚町宣長宅から約2時間。


(C) 本居宣長記念館

三輪の里

「こゝはゆきゝの旅人しげくて。この日ごろの道とは。こよなくにぎはゝしく見ゆ」
 人の行き来が激しいというのだが、裏返すと、飛鳥では人が少なかったと言うことになる。

(C) 本居宣長記念館

村井古巖(むらいこがん)

 通称は菱屋新兵衛、名は敬義、号は古巌(こがん)、勤思堂。
 京都の人。初め呉服商。学問を好み、古書を愛して珍書奇籍を集め、書籍商に転じる。
 神宮、林崎文庫の再興を志した  荒木田尚賢 の呼びかけに応じて、天明4年、蔵書を献納する。
 献納本は、和書3707部。
 天明6年、奥州塩竃神社で没す。享年46歳。
 亡くなるまで手もとに置かれた蔵書は、弟により塩竃神社に献納された。

 宣長も敬義の蔵書の恩恵に浴した。
 天明3年には、『古事記』を古巌本の古写本で校合している。
                >>「『古事記』の校合」

 また、『村井敬義所蔵書目之内』1冊を写している。
 これには、古巌(こがん)村井敬義が所蔵する蔵書の一部、
120余りの書名を記す。
 『朝野群載』、『新猿楽記』、『琉球神道記』など多様な本が挙げられる。
 これらは宣長の旧蔵書と共通する書名も多く、恐らくは村井氏の本の写しであろう。

 また、
「古鈴の図」4枚
「駅鈴図」・「河内駒ヶ谷金剛輪寺什物鏡鈴図」・「駅路鈴真形図」
これも村井敬義の所持していた図の写しである。
「鈴之図」1冊1枚は、「尾州大館高門蔵古鈴之写」1枚と、
村井敬義所蔵本を写した「下総葛飾郡吾嬬神社神宝等」である。
「東大寺宝物」1巻は本居春庭(22歳)写。
今の正倉院文書だが、これも古巌本の写しと推定される。

 古巌は伊勢行きの途中、松坂にも来訪し、宣長と対面した。
『両節算用帳』1冊は宣長が参加していた嶺松院歌会、遍照寺歌会などの会計帳簿だが、
 天明5年正月15日条には、京都の村井古巌が、嶺松院歌会に来訪したことが記される。
 その時の菓子代も、大平取り替えで2匁と記録されている。
 参考までに、三井高蔭の日記を見ると古巌は、高蔭を訪問し、一緒に会に行ったことがわかる。


(C) 本居宣長記念館

村坂高行(むらさかたかゆき)

 元文元年(1736)~寛政9年(1797)5月4日。享年62歳。通称嘉左衛門、名道生。初期の門人。諸芸に通じ、とりわけ瓶花に熱心だった。

紫式部(むらさきしきぶ)

 天延元年(973)頃~長和3年(1014)以降。父は藤原為時、母は藤原為信の女(ムスメ)。宣長の愛読書『源氏物語』の作者。『源氏物語玉の小櫛』巻1「紫式部が事」に出自などを記し、「藤式部」が「紫式部」となったのは「一条院の乳母の子の縁」、「縁」(ユカリ)から「紫」となった説を推す。また、歌の中で最も尊重したのが定家なら、和文のお手本は紫式部の『源氏物語』であった。

「倭文ハ源氏ニ過ル物ナシ、源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツハレ倭文ハカヽルヽ也」 『排蘆小船』(宣長全集・2-53)
「紫式部」像に歌を詠み賛をしたこともある。

   紫式部
言の葉に 染めずはいかで むらさきの 深き心の 色は見るべき
ことのはは たぐひなき名の 立田姫 いかに染めける 錦なるらん

   紫式部の文机によりて書見たるかたに
から人に わか紫の あやころも 見せばや染し ふかきこころを

 『源氏物語』を尊重する宣長が、その作者へも深い敬意の念を抱いていたことが分かる歌である。


(C) 本居宣長記念館

村田家(むらたけ)

 新町1008番地。母の実家。
 享保15年(1730)年、宣長が生まれたのは、当時の慣例から母の実家松坂新町の村田家であったと考えられる。村田一族は京や江戸で木綿や茶などを商う商家であった。豊かな経済力を誇り、奉納した鳥居は今も八雲神社に残る。また、文化面でも北村季吟の門人となる人や垂加神道者、浄土宗の高僧などを輩出した。このような家風が宣長を生み出す遠因となったと考えられる。1952年、改造中の壁の中から村田孫兵衛宛荷札が発見され、現在の鵜川家が、その村田家の屋敷であることが判明した。


鵜川邸

八雲神社鳥居
鳥居アップ



(C) 本居宣長記念館

村田元次と全次

 元次(もとつぐ)は、明暦元年(1655)生まれ。享保18年(1733)7月20日没。法名温新院入誉随徳居士。命日は「村田家資料」中の墓誌写しに依る。
 村田家は、江戸や京都で木綿や茶を商っていたと言う。元次は、宣長母方曾祖父・村田孫兵衛重次の兄の子。兄一念が子供を残し早世したので、弟重次はその妻を娶り、子を実子とし後を継がせた。元次、通称孫兵衛。後に孫助と改め、松坂新座町に隠居し、後を異父同母弟豊商、宣長の外祖父に譲った(『本居氏系図』「歴代諸妣伝」宣長全集・20-121)。

 元次の子が全次(たけつぐ)。宝暦元年(1751)没。寅斎。
 全次は、浅見絅斎(けいさい・1652~1711)の門人。父も垂加神道家。親子は嶺松院歌会再興メンバーにも名を連ねる。元次は、北村季吟の松坂訪問を迎えた一人(『伊勢日記』)。

 身内に垂加神道家がいたことが宣長にも影響を与えたとする説がある(西田長男『日本神道史研究』)。
 一方、森瑞枝「修学期宣長の伊勢・垂加神道影響説について」(『日本文化研究所報』147号)は、それらの説を簡略に紹介し、反論する。
 直接の影響があったか否かは簡単には結論は出ないが、宣長の叔父・察然和尚が出たことやこのような垂加神道へ傾倒する人が出るなど、母方・村田家の商人の枠に収まらない家風を軽視することは出来ない。

 また、村田家旧蔵書の一部が石水博物館に所蔵されることが最近判明した。
少年期の読書にも、この村田家が影響を及ぼしたのではないかと推測される。
 村田家の墓は樹敬寺にある。
 また村田重次奉納の石の鳥居が八雲神社境内に現存する。
近くまで行かれたらぜひ探して頂きたい。

【参考文献】
「村田元次とその周辺」岡本勝『愛知教育大学大学院国語研究』第12号
「小津勝」吉田悦之『松阪学ことはじめ』(おうふう)



(C) 本居宣長記念館

村田橋彦は真淵学伊勢出張所

 村田橋彦、享保12年(1727)~寛政11年(1799)5月27日。享年73歳。伊勢国白子の人。小笠原家の江島代官か船問屋総元締とでも言うべき格式の家であった。
 松坂で宣長と対面した翌日、真淵は橋彦宅に泊まったようだ。真淵の高弟・村田春海と同族であったことから、真淵の著作も多く所持し、また真淵亡き後の県居からその遺著を持ち帰り宣長等に貸したこともある。契沖同様、真淵の本も入手困難だった。

○『語意・書意』奥書 「明和八年四月やからなる江門邨田春海の許より加茂老翁自筆の本を得て写しぬ、邨田橋比古」(岩波文庫版)。

○『祝詞考』 「しろこの村田七右衛門といふ人岡部をぢが祝詞考もてるよし、此人の名かねても聞し事は侍りながら、いまだしる人には侍らず、いかでかの考かりて給はれかし」明和8年(1771)11月2日付宣長差出谷川士清宛書簡。
「白子より、のりとの考二巻参り候よしにて、見せ給はり、いといとうれしく思ひ参らせ候也」明和8年12月10日付宣長差出谷川士清宛書簡。
「祝詞考長々御許借被下、忝写取校合畢申候而、大慶不斜候」安永3年9月23日付宣長差出村田橋彦宛書簡

○『応要稿』奥書 「この一巻はちかきころ白子なる村田の橋彦といふ人の江門に物せしほと岡部の家にもとめえてもてこし書ともをこれかれ本居うしの許に見せにおこせたるを大人のみつからもうつしおのれらにもうつせとてわかちかし給へる中の一くさになんあるをまことにうはかきのことくかの県居翁のもとへうたかはしきことともをかたかたよりたつね給ひしをこたへおくられしをりをりの草のまゝと見えてうちけしうちけしかきあらためなどせし所々おほかるを一文字も私のさかしらはせしとてたゝ本のまゝになんうつしおきつる、稲掛茂穂、安永五(1776)年六月五日」※茂穂は後の大平。真淵没後7年後。
真淵差出橋彦宛書簡


(C) 本居宣長記念館

村田春海(むらたはるみ)

 延享3年(1746)~文化8年(1811)2月13日。江戸の人。先祖は伊勢国白子。通称平四郎、治平衛。号、錦織斎、琴後翁。干鰯(ホシカ・肥料)問屋を営むが遊びが過ぎて倒産する。服部仲英に詩文を習い、また、父春道、兄春郷と共に真淵門に入り、和歌や国語学を学ぶ。同じ真淵門人である加藤千蔭と宣長の資質が合うのに対し、春海とはどうもうまくあわなかったようだ。天明8年3月10日夜、鈴屋来訪。著書は『和学大概』、『歌かたり』、『琴後集』等。墓は深川本誓寺にある。
「春海の墓」


(C) 本居宣長記念館

村田春海はどこへ行った


 真淵のこの時の旅には村田春郷、春海等が同伴した。『賀茂翁家集』巻4「富士の嶺を観てしるせる詞」左注に「宝の暦十まり三とせの春、春郷・春海等と大和へまかる時に、此みねを見さけながらにしてしるしぬ」とある。

 また、白子の村田橋彦が、真淵の伊勢訪問を回想している中で、
「今は廿年あまり五とせ六とせのむかしなりけむ、加茂のをぢ、田安の殿の仰ごとうけたまはりて、大和と伊勢と二国の古き跡どもつばらに尋んとて、東ゆのぼり給ひし時、己がやからなりし邨田の春郷春海ふたりをしも、はるけき道の伴ひにひきゐまししそのたよりに、己家にも一日一夜とゞまりまし、のどやかにかたらひたまひし後は、をりにふれたる便毎にかならず文通はしたまひ」(宣長全集・18-302) と書いている。春海らと橋彦が同族であったことがこの記述から読みとることが出来る。一行が、春海と同族の白子・橋彦宅に泊まったのは宣長と会った次の日の夜であろう。

 さて、賀茂真淵に随行していた門人・村田春郷、春海兄弟だが、新上屋では宣長と会っていない。後年、春海が宣長の所を訪ねた時の礼状に、初対面であったと書かれている。
 師が宣長等と会っている間どこへ行っていたのだろう。
 邪推かもしれないが、きっと、盛り場をうろついていただろう。春海という人を知るほどにそう思ってしまう。



(C) 本居宣長記念館

村田光庸(むらたみつもち)

 宝暦6年(1756)~天明4年(1784)12月22日。享年29歳。通称中書。法号橙庵文貞処士。松坂住。母は宣長の実の祖父・小津孫右衛門道智の甥、小津道円の女で、宣長とは姻戚となる。安永2年以前の入門。第2回目の『源氏物語』講釈を聴講した。医業を営み、宣長もその依頼で「拝薬神詞」や、「むらたの光庸がこへるに書てあたへたる桜花詞」(共に『鈴屋集』)を書き与える。病弱であったのか『済世録』にも患者としてしばしば名前が挙がる。



(C) 本居宣長記念館

名医?それとも迷医?

 自分で名医とは言わぬが、腕を見損なってもらうと困る。京都では武川幸順の下で修行をしてきた。本を読んで見よう見まねで始めた医者ではないぞ。患者の中には奉行だっているんだぞ。
 これは『済世録』安永9年(1780・宣長51歳)7月条だ。(『済世録』第3冊)

 最初に「子盆後、七月」とある。このころは盆と暮れに集計をしたのだ。ほら「○小野藤右衛門殿」とあるじゃろう。あたまの○は初診だ。ちゃんと「殿」を付けておる。この方は恐れ多くも、御両役奉行兼船奉行だ。安永5年9月29日着任、天明3年7月1日離任された(『日記』)。
 奉行が効かぬ薬を飲むと思うかい。
『済世録』安永9年(1780)7月条
 

(C) 本居宣長記念館

明解・宣長先生

 宣長を訪問する目的の一つに、疑問点の解決がある。

 伊豆の門人・竹村茂雄は、寛政10年2月23日、松坂を訪れて、折から来訪中の橋本稲彦と宣長のもとを訪ねた。そして何をしたか。分からないことを次々に質問したのだ。『宮はしらの日記』に次のように書かれる。

  「大人の御もとにまうでて、文などの心得がたきところどころ、かつがつとひさだむ」
(大意・先生の所に行き、本の中で分からない箇所のあちこちを少しずつ質問して解決していった)

 本を読んだり考えたりする中でわからないことがある。調べてもどうしても解決できないこと、そんな疑問に宣長は打てば響くように明解に答えてくれた。

【証言1】江戸の安田躬弦
 「ならのはの古言に、心えぬ所々思ひ出てとふに、いとよくわきまへてこたふるが、露とゞこほりなければ」
 「ならのはの古言」つまり『万葉集』等の言葉で疑問点があったので、思い出すままに質問したところ、大変明解に答えて少しもよどみがなかった。

【証言2】浜田藩主松平康定
 「はじめてたいめするに、年比いかゞと思ひし本意も叶ひぬれば、何くれの事はいひさして古き典はさらなり、中昔のことばのさとりがたきふしぶしや何やを思ひ出るまゝに問きけば、いさゝかとゞこほることなく、よしあしのけぢめあきらかにこたへす」『伊勢麻宇手能日記』
  初めて対面したが、前から会いたいと思っていただけに、挨拶もそこそこに、古典のことや平安時代の言葉など、何でもかんでも質問するが、少しも言葉に詰まることなく、正しいこと、間違っていることの区別も明解に説明してくれた。 

 まさに、何でも知っている宣長先生、である。



(C) 本居宣長記念館

明治18年『詞の玉緒』の新刻が出る

 「当時明治初期の東京の俗語にあっては、後述の如く、なお「クハ」「ズハ」が残存していたことであろう。されば、「清ミテハ唱フベカラズ」(引用者注・佐藤誠実「語学指南」)、と斥けているのは、清音説の否定であるほかに、俗語性を咎めたものでもあろうか。こうした勢いもあって、明治十八年に坊間に新刻された「言葉の玉の緒」では、証歌について、元版でせっかく清音たることを示してある個所を、おしなべて「クバ」「ズバ」に改めたりもしているのである。」「「善くば」「為ずば」などの濁音形について」吉川泰雄・『近世語』(論集日本語研究14)


(C) 本居宣長記念館

明治初年の松阪(めいじしょねんのまつさか)

 佐佐木信綱は印東昌綱の歌集『家』の序で、

「昌綱さんの生れた明治十年の冬に、松阪に引越した。それは鈴屋社の歌会がおとろへたので、父がその監督を頼まれた故であつた。
 松阪では、平生町なる薬師の境内の家に住んだ。石薬師にくらべれば、松阪は大都会のやうに思はれ、かつはその翌年の春から近辺の小学校に入学するといふ喜はあったが、家も庭も狭いので、かの桐畑がなつかしかつた。家のそばの薬師さんの本堂は広かつたので、そこであつた自由党の演説や、佐田介石さんのランプ亡国論を、わからぬながらきいたことがあつた。
 やがて、櫛屋町の小路(せうぢ)に引移つた。本居先生の親類で松阪御三家の一といはれた長井さんのうしろの家であつた。そこはかなり広くて、畑の添つてゐたのが嬉しかつた。京の高畠式部が来てとまつたのは、此の家であつた。」
と書いている。

 印東は信綱の実弟である。平生町の薬師は分からないが、父親の日記では「湊町はさはる事ありて、平生町真行院を借る」(『佐々木弘綱年譜』明治 10年12月11日)とある。真行院は雲照山真行寺で、中町にある清光寺(浄土宗)であった。場所は、「松阪市市街図」(昭和25年・『松阪市史』別巻 1、「松阪地図集成」)に。「真行寺跡」とあり、平生町のちょうど真ん中あたり、現在の平生町駐車場、平生橋の周辺であったようだ。境内地の広さは、 130坪3分5厘、堂は間口9間余、奥行12間余、通りとは間口3間余、長さ13間余の参道でつながっていた。文政2年(1819)7月の「清光寺末寺真 行寺書上げ扣」(『松阪市史』12巻「御用留」)には境内地の図面が載るが、由緒などは皆不明。同じく『松阪市史』3巻「古代・中世篇)の「寺院一覧表 」では、湊町に廃寺として記載され、本尊は阿弥陀如来で、愛宕町竜泉寺に合寺とある。

 また信綱の『ある老歌人の思ひ出-自伝と交友の面影-』(昭和28年10月。朝日新聞社)には次の記述を見る。
「松阪では、はじめ平生町に住み、後に櫛屋町なる長井家の横町に移つた。七歳の春には港町小学校に入学した。校長はさながは真澄先生(姓の字はわきがたい)、受持は上野貞利先生と、今もはつきり記憶してをる。
   梅の花すこし咲けどもうぐひすは
   まだ飛んで来て枝にとまらず
 この春詠んだ歌である。
 父は毎月鈴屋の歌会に出席したが、幼い自分も伴はれて歌会の末席に列なるやうになつた。当時の鈴屋は、魚町にあつて、本居先生のお住みになつてゐた時のまゝであつた。
 会にあつまる者は皆、まづ中二階に上り、先生が古事記伝等をお書きになつた四畳半の部屋に入つて、床の間にお辞儀をする。それからお座敷の歌会の席に着く習はしであつた。その頃は、文政八年に春庭大人の門に入られたといふ久世安庭翁も健在で、歌会がはてゝからの昔がたりは、今も忘れがたい尊い思ひ出である。」

 佐佐木信綱が松阪に来たのは、明治10年(1877)12月6歳の時である。同年9月、次男昌綱が生まれている。翌年1月、湊(港は誤記)町小学校に入学。校長は真川真澄。

現在の平生橋周辺


(C) 本居宣長記念館

『名勝地名箋式』(めいしょちめいせんしき)

 本居宣長が工夫したカルタのルールブック。歌枕の知識を身につけることを目的とする。
 歌枕を題材としたカルタの法式。94枚の地名箋と、6枚の雑箋で構成する。署名は無いが筆跡から宣長と推定。カルタをしながら歌枕の知識が習得できるというもので、講釈歌会だけでなく「なぞなぞ」や狂歌等も行った宣長一門に相応しいものといえる。但し、実際に行ったという記録は見られない。
 本書は、宣長から益谷大学(荒木田末寿・天明7年入門)に贈られたと伝える。外題『詞苑名所加留多式』。内題『名勝地名箋式』。
 自筆本は、本居宣長記念館所蔵。



(C) 本居宣長記念館

明和7年のオーロラ(めいわしちねんのおーろら)

 明和7年7月28日(1770年9月17日)の「赤気」について、
『近世日本天文史料』大崎正次編(原書房)では、

「明和七年七月二十八日の極光は日本で見えた極光の記録のうち最も著しいもので、約四〇種の書物にその記録が残っており、その主なものを挙げれば、星解(京都、若狭)、村井随筆(箱根、名古屋)、折々草(京都、若狭、大和、松前、長崎、加賀)・・」
と、『明治前日本天文学史』(神田茂)を引き記述する。

 「オーロラを見た宣長」に載せた図は、
最初に挙げられた『星解』から採った。
同書の写本が、村井古巖の林崎文庫献納本の中にあった。
その後、文庫から流出し、回りまわって現在は松阪市の所蔵である。

〔村井古巖献納本 『星解』〕
『【林崎文庫塩竃神社】村井古巖奉納書目録 下一』
(皇學館大学神道研究所・神道書目叢刊六)
には、
「2381 星解 一」
とし、「参考」として、
「神宮文庫には、『星解』と題する次の一本を所蔵しているが、村井古巖奉納本そのものではなく、奉納分の写本である」
と説明する。
 目録に紹介されているのは、天明5年8月に佐藤吉大夫が林崎文庫本を写した本の再転写本で、
「村井古巖奉納する処の原本散佚あらす。則ち先考伝写するの一冊を寄贈すること然り。于時、明治四十一年中秋、荒木田氏公(印・「公」)」
と奥書にあり、明治41年には既に流出していたことになる。
旧林崎文庫本『星解』 巻首



(C) 本居宣長記念館

「明和年間本居社中歌仙像」

 個人所蔵・「鈴屋円居の図」の原本。実はこの絵には更に原本があります。作者は蜂須賀兵部。『宝暦咄し』「はやり事、奇談」安永元年の条に、松坂で絵の師匠をして繁盛と出ている人です。
  同じ年に、「本居歌の講釈」も並んで挙げられています。このような歌の会が町でも有名になったのでしょう。原画が描かれたのもこの頃かもしれません。宣長43歳、『菅笠日記』の旅があった年です。


「明和年間本居社中歌仙像」


(C) 本居宣長記念館

眼鏡と入れ歯

 寛政6年(1794)、藩主への講義の際に宣長は鈴屋衣に眼鏡使用という出で立ちであった。 「服用は翁好之袖長キころも出たち也、めかねも御免被下候てかけて仕候」(某人宛稲懸大平書状写し)

 また翌寛政7年、松平康定が松坂に来訪された時には眼鏡を頂いた。

「所持之秘蔵之目金(メカネ)も手つから被呉候」
          (寛政7年8月19日、本居春庭宛書簡)
老眼だったのだろうか。

 松坂の歯科医について、『宝暦咄し』に、
「上嶋喜三郎と言ふ歯抜きが来た。是は今の喜三郎だ」
と言う記事がある。

 宣長が入れ歯をしていたことは有名だが、当時は入れ歯師と言う人がいた。歯科医と歯科技工士を兼ねたような人だろう。宣長の場合は、次男・春村の紹介で津から呼んできている。

 寛政8年(1796)3月20日付、春村宛書簡に
「この間、紹介してくれた入れ歯師がやってきて模(カタ)を取って帰った。また20日頃にもう一回来て荒作りを当ててみて、その上で歯を植えると言っていたが、まだ来ない。もうすぐ来るだろうと思っている」と書いている。

 また、4月15日付春庭宛書簡(当時春庭は京都にいた)で、
「昨日津の入れ歯師がやってきて入れ歯を作ったが、大変いい出来で、思った程口の中の違和感もない(原文・「昨日津ノ入レ歯師参り、入レ歯致シ申候、殊外宜キ細工成物ニ而、存じ之外口中心持わろくもなき物ニ御座候」)。
そこで歌を詠んだ
  四月のころ入歯といふ物をして又物よくかまるゝ事をよろこひて
 思ひきや老のくち木に春過てかゝるわか葉の又おひんとは」

 春庭から返しの歌も来たことが同6月4日付春庭宛書簡に見える。

 また、享和元年4月18日の春庭宛書簡で宣長は
「おかつ口中いかゞ候や、又いかうわろく候はは山田へ参り血をぬき候が能候」
と言っている。山田(伊勢市)に行って血を抜いてもらえというのは、口内炎だろうか。当時から医療の世界は、かなり広域である。
 


(C) 本居宣長記念館

めかねの長歌

 「眼鏡と入れ歯」の項で、 眼鏡を拝領しましたとか、
御前講釈の時に、掛けても良いと許されたとかいう記事を紹介したが、
宣長が本当に眼鏡を必要としていたかどうかは、 実のところ、よく分からない。
 60代後半から、没する直前までの筆跡、 時に『うひ山ぶみ』〈69歳)、
『枕の山』〈71歳)、『続紀歴朝詔詞解』のいずれも草稿、
また、逝去する一月前に起筆した『鈴屋新撰名目目録』からは、
老眼をうかがわせる兆候は見られない。
 本当に老眼なのと思わせるような細字で、しかも反古を使うので裏写りしている。
 見えにくいのだったら、 もう少し書きようもあるだろうにと思わせる。
 書簡などで、行が横に流れるのは、これは左右の視力の問題である。
 老眼だったかどうかは疑わしい宣長だが、
「めがねの長哥」と題した詠草があるので紹介しておこう。


 「めかねの長歌

かゝる物 有ともきかぬ いにしへの としふる〔老たる〕人は
いかにして ふみはよみけむ いかにして物は
かきけむ もじの関 霞へだつる 春帰(り)こで

老ぬれば 春ならね共 日にそへて
霞へだゝる 文守の関
老にける 身は秋ならで 霧やへだつる (このは〈葉・歯)もおちぬ〈て〉)
 春ならで
かすみやたてる(このめもかすむ)
老木の このめさだかにも(はるならでかすみへだゝる)

久かたの 天にかゝれる
日影こそ ひるはてらせれ 月こそは よるはてらせれ
日にあらず 月にもあらで △月と日と ならべる如く
久かたの あめにはあらで うつせみの 此人のめに〈人のめにふたつならびて)
△玉くしげ 二つならべて うばたまの(よるひると)よるひるといはず 」

完成形を推定してみると・・・

めがねの長歌

かゝる物 有とも聞かぬ 古の としふる人は
いかにして 書は読みけむ いかにして物は 書きけむ
文字の関 霞へだつる 春帰りこで

老ぬれば 春ならね共 日にそへて 霞へだゝる 文守の関

老にける 身は秋ならで 霧やへだつる このは〈葉・歯)も落ちぬ
春ならで 霞や立てる このめ〈芽・目)もかすむ

老木のこのめさだかにも

久かたの 天にかゝれる 日影こそ 昼は照らせれ 月こそは 夜は照らせれ
日にあらず 月にもあらで 玉くしげ 二つ並べて
うばたまの 夜昼といはず 月と日と 並べる如く
久方の 天にはあらで うつせみの この人の目に 二つ並びて

昔はなかったが、便利なものが出来たなあという感慨と、
物を見るには明かりが必要だが、太陽と月の自然光を挙げて、
また眼鏡のレンズが二枚並んでいることへと連想を羽ばたかせた歌である。

たばこといい、眼鏡と言い、よく分からないことが多すぎる。



(C) 本居宣長記念館

本居(もとおり)

 宣長の姓。それまでの「小津」に代え使用する。
 初見は延享3年10月27日書写の『洛外指図』署名「本居真良栄貞」。正式改姓は、堀景山塾入門の宝暦2年3月16日、商賈を廃し医業の道を選んだ日である。宣長以後も子孫が使用し現在に至る。
 「モトオリ」また「モトリ」については、『別本家の昔物語』に『日本書紀』仲哀天皇紀「没利(モトリ)島」を始め、文献や地名を博捜しするが、結局は「称号本居之由縁、未詳」(『本居氏系図』)、決め手はない。家系図では桓武天皇32代の孫、尾張守平頼盛6代の後胤、本居県判官平建郷まで遡るが、事歴が明らかなのは、北畠国司家阿坂城目付を務めた11代武連まで下る。武連の次男武秀は国司家滅亡後、蒲生氏郷に仕え奥州を転戦し九戸城合戦で落命、遺児は小津村油屋に養われ、「小津」を名乗る。以後は、隠居家から江戸に出た随法信士(宣長叔父)が本居永喜を称した以外、宣長に至るまで「本居」姓の使用は中断する。



(C) 本居宣長記念館

本居有郷(ありさと)

 文化元年(1804)~嘉永5年(1853)12月26日。享年49歳。松坂本居家三代当主。幼名健蔵、通称源之助。春庭の長男。成人を待てない父は後継者としては選ばず、19歳で長谷川源右衛門、その後、本町の小津清左衛門の養子に出すが何れも離縁となり、結局、春庭没後の文政11年11月に小津久足を後見人とし家系を相続、五人扶持となる。学業においては、『詞の通路』の板下を執筆、春庭門下の歌集『門の落葉』後篇の編集を殿村常久に託しその序を書く。また小林文康『ますみの鏡』に序を寄せる。自詠は『有郷詠草』九冊(本居宣長記念館蔵)として文政12年から天保11年迄の一部が残る。著書に紀行『密岳日記』がある。後妻の国は四日市諏訪神社神官生川氏女。夫婦三絃等の趣味を共にするが、嗣無く、没後妻は実家に帰る。戒名「有学院厚言道郷居士」。墓は樹敬寺にある。

(C) 本居宣長記念館

本居内遠(もとおりうちとお)

 文化元年(1804)~ 寛政4年(1792)2月23日~安政2年(1855)10月4日。享年64歳。
 大平養子。和歌山本居家二代当主。旧姓浜田。幼名鎌次郎、通称久次郎、弥四郎。実名孝国、後に高国、秋津。尾張時代の号は木綿垣、榛園、狂歌では時曵速躬と号する。

 生家は名古屋の書肆万巻堂。屋号菱屋。15歳の時宣長の著述を読み、以後、植松有信や鈴木朖の講説を聞く。文政元年市岡猛彦(27歳)に入門。同3年(『藤垣内門人姓名録』は4年条に「浜田秋津、孝国」)大平入門。
 40歳、大平の娘藤子と結婚、養子となり、名を内遠と改める。三男二女あり。義父大平の後を継ぎ、紀州徳川家に仕え『紀伊続風土記』編纂。また『新撰紀伊国名所歌集』に携わる。安政元年江戸の藩校古学館再建で江戸に下り講釈をするが、翌年赤坂藩邸に置いて死去。長男豊穎が代わりに下向し大任を果たす。藩主の下問や病気見舞い等に多才振りを発揮。『古学本経大意』(嘉永7年9月・豊穎編)を始め『後奈良院天皇何曽之解』、新作謡曲『日前森』等は何れも藩主に呈上されたものである。また盤上遊技研究書『金枕抄稿』や紀州関係の『伊太祈曽三神考』等多くの考証を残す。
 門人には、久米幹文、小中村清矩、千家尊澄等がいる。
 画像が本居宣長記念館、和歌山市立博物館に残る。一見すると随分違うが、よく見ると風貌は同じだ。

 墓は最初、深川の恵然寺、後に東海寺に移される。また、和歌山吹上寺にもある。
 東京都品川区、東海寺大山墓地は、沢庵禅師や、賀茂真淵などの墓があることで有名。江戸で急逝した内遠は、そのまま江戸に葬られ、吹上寺に分骨されたのであろう。
 『本居内遠翁略伝 条里図帳考』には、

「安政二年十月四日病して赤坂邸の舎に身まかりぬ、時に年六十四なりき、おくり名して弥足功績道根大人(イヤタラシイソシミチネノウシ)と云、当時深川なる恵然寺に葬りしを後に改て品川東海寺なる県居翁の墓ノ側に移し葬れり」
とある。
 東海寺へ墓を移すのは豊穎の企てであろう。
 賀茂真淵の墓所への移転は妻藤子を喜ばせた。その時の藤子の文(案)が残る。

【参考文献】
『本居内遠全集』・吉川弘文館・昭和3年。
『本居内遠翁略伝、条里図帳考』(明治17年11月2日)。
「内遠翁年譜考」(『本居全集』・吉川弘文館・昭和3年)。

【参考資料】
『本居内遠翁略伝 条里図帳考』「略伝」
「翁幼名は鎌次郎また久次郎といひ後に秋津と改む実名は孝国後に高国と云」寛政四年壬子二月二十三日尾張国愛智郡名古屋に生る」本姓は浜田氏父は久八郎孝祖といひ母は尾岩氏兼子といふ」天保二年大平翁の養子となり通称を弥四郎実名を内遠と改め翁の女藤子に配して三男二女を生む長は豊頴次は利蔭荒巻氏に養れ次は正稔徳田氏に養る二女は世を早うせり藤子は才学ありてよろづ人にすぐれ翁を輔けていさを多かる中にも翁の江戸に在て身まかれる時に豊頴のいと若きをすゝめて鋭心をおこさしめつるは、もはら母刀自の力なり」初め大平翁の末子永平を養れしに早く身まかりしかば豊頴を世嗣とせり」尾張にありし間は家の号を木綿垣(ゆふがき)といひまた榛園(はりその)ともいはれき」初め尾張の人清水忠美に学ひ市岡猛彦につき鈴木朖にたよりて後に大平翁の門に入れるは文政三年なり江戸の清水浜臣滝沢馬琴なと親しき学友なりき」天保四年の比より紀伊の殿の命をうけ賜はりて紀伊国続風土記の事をいそしみて同十年に至りて撰述全くなりぬ又公命によりて紀伊国名所歌集をも撰びなせり」和歌山藩にある間は大平翁のあとをつぎて教授を専にし安政元年の冬江戸赤坂の邸に古学館を設られし時紀の国よりめしよせられて専ら教授せられき当時皇国学校を設られしは紀藩をはじめとす」安政二年十月四日」病して赤坂邸の舎に身まかりぬ時に年六十四なりき、おくり名して弥足功績道根大人(いやたらしいそしみちねのうし)と云」当時深川なる恵然寺に葬りしを後に改て品川東海寺なる県居翁の墓ノ側に移し葬れり」翁は家学をつぎて古典に精く歌文に妙なるはいふもさらなり律令已下公武の制度を考証して筆記せるものいと多く和漢道釈の書に至るまてわたらざるはなし尤も講説に長じて教導に妙を得られたり、さて今数年のほどおはしたらましかばこの学の道盛におこるべかりしを古学館を設て僅に一年ばかりにして身まかられしはいとあたらしかりき」門人凡五百人余あり世にきこえたるは衣川広滋小島備源。富永楯津。上月為彦。北浦定政。赤井夏門。早川清魚。池辺真榛。坪内重岡。新居正道。熊代繁里。中山俊彦。西田三子麿。清水高平。堀内千稲。千家尊澄。三輪田元綱。森田国胤。菊田和平。湯川潔。吉田源子。小中村清矩。久米幹文等とす一わたりの歌文を以てしられたるは猶あるべし」著書は古事記年立。神武紀巡幸路次弁。伊太祈曽三神考。熊野祭神考。紀伊国神社考。天野告門考。紀伊国造職補任考。紀伊国古昔国界考。紀伊国名所歌集。紀伊国名所弁。三穂窟考。妹背山考。条里図帳考。田租度量考。冠帽革制考。古今官位指図。官職略抄。大饗机考証。半臂考証。賎者考。宍食息(改め「忌」)考。古調考。後奈良院何曽解。尾張浜主考。小野小町考。源氏物語年立考。小倉百首証文。金枕考。真律考。黒鳥考。古学大意。独語弁なと数種ありされども多く稿のまゝなり歌集は初榛集と云随筆は佐喜美多満と云/明治十七年十一月二日翁の三十年祭を執行せし時/久米幹文述/小中村清矩訂」永5年(1853)12月26日。享年49歳。松坂本居家三代当主。幼名健蔵、通称源之助。春庭の長男。成人を待てない父は後継者としては選ばず、19歳で長谷川源右衛門、その後、本町の小津清左衛門の養子に出すが何れも離縁となり、結局、春庭没後の文政11年11月に小津久足を後見人とし家系を相続、五人扶持となる。学業においては、『詞の通路』の板下を執筆、春庭門下の歌集『門の落葉』後篇の編集を殿村常久に託しその序を書く。また小林文康『ますみの鏡』に序を寄せる。自詠は『有郷詠草』九冊(本居宣長記念館蔵)として文政12年から天保11年迄の一部が残る。著書に紀行『密岳日記』がある。後妻の国は四日市諏訪神社神官生川氏女。夫婦三絃等の趣味を共にするが、嗣無く、没後妻は実家に帰る。戒名「有学院厚言道郷居士」。墓は樹敬寺にある。


(C) 本居宣長記念館
本居内遠画像 部分


(C) 本居宣長記念館

「本居大平七十八歳像」

 この画像は、大平最晩年の天保4年(1833)に長谷川素后によって描かれた。
 賛は
「真直なるやまとこゝろにまなびては神のまことの道は得てまし」

 大平が持つ笏状の物を「歌杖」(ウタヅエ)という。宣長が書斎で使っていた笏をまねして作ったのだという。特別な用途はない。歌を詠むとき、何か考えたりするときに手慰みにするのだそうだ。また2枚を繋ぐので指を入れてハタハタと音を出したりもする。書斎の遊び道具である。門人・伊達千広が何ですか、と聞いたのに答えた由緒が残っている。それによると「歌杖」の名は千広がその折に付けたのだという。

 由来を示した紙が残る。折紙に書かれた全文を翻字する。改行と読点、濁点を付した。

  「歌杖といへる笏形のものゝ詞。本居の翁のつねに手ばなたずまさぐりもたるゝ物あり、そは桜の木をうるはしく削りなして遊ひの器なる笏拍子などいはんさましたり、こは何のためにつくられたると問けるに、こはしかじかなむと、そのおもひよられたることのもとを書つけてなむ見せられける、今そのゆゑよしは翁の筆にゆづりて更に物せず、さて名やあるととふに、もとより古の器にはあらず、はた今の世もはらもてあそふ物にもあらず、たゞわが心もて作らせて、われのみもたる物にしあれば、殊さらに名もおふせずとなん答られける故、千広おもふにおよそ物あれば名あり、名なき物やあらむ、ましてこれはいとおかしくみやひたる物なるに、名なきこそあかぬことなれ、いかでこれに名つけてむとつくづくと考ふるに、此ものよときにつけさまざまに用ふめれと、歌よむ折ふしつら杖なとにつかれんことぞ翁のおもひよられたることのもとならむ、しかあらむには歌杖と名つけたらむはいかにと問ふに、翁いとよしとそいはれける、
 咲にほふことのは山の花みんとわけいる道の歌杖ぞこれ」(上段)

  「此桜の木して笏の形に似たるものは何といふものぞ、何の為に作れるものぞと、此ごろ千広ぬしのとはれたるにこたへけらく、 こは歌の円居して題とりてあんずるほど、手に握りもちて歌思の杖にもなし、又ある時はこのゆるくむすべる紐の間に左の中指をさし入はさみて、真手におきて左の中指と大ゆひともて二枚をはじきひらきつゝたゝみ合するに、はたはたひさひさひさとなる音もおもしろく、又見さしたる書の間にはさみ置てしをりともなし侍る也、そのはじめおもひよりたるは、ありし鈴屋翁の古代の笏の形とてつくらせてつねに机の上にうち置て物考ふる時はひざにも畳にもつきたてゝ杖のごとくせられたるたるがありつるに、笏は何とかやはゞかるべくもおもはるればかくあらぬさまにつくりかへたるなりとなむこたへける、【傍書】先日歌杖の寸法も申遣候付是ももし入用もやと存見あたり候まゝ写し申候、いそがしき中にて写候間字形ち見ぐるしく候、清書して人に見せ給へ」(下段)

 上下段とも大平筆と思われる。紙背は「御供料 賀嶋綾吉」「金二朱」と書かれ本来はお供えの包み紙であったことがわかる。賀嶋は不明。千広は大平門人の伊達千広であろう。伊達千広について手元には『伊達千広』高瀬重雄著(創元社・昭和17年刊)がある。
 本居記念館所蔵【新規※「よせあつめ」桐箱】。

【参考文献】
「歌杖」については、「敬神・好学・好事」吉田悦之『須受能屋』9号に詳記する。



(C) 本居宣長記念館

本居大平(もとおりおおひら)

 宝暦6年(1756)~天保4年(1833)9月11日。享年78歳。松坂の町人、稲懸棟隆の長男。少年時代の名前は稲懸茂穂。12歳の時、隣の竹内元之に四書五経を習い、13歳の時から宣長の下で本格的に勉強を始めた。

  「伊勢本居宣長の門人に、稲掛大平といふ人あり。よみ歌は師に勝れりと世上評す。常によみ出す所は古体なるが、折節は新古今集の体をもよめり。其中に朝落花といふ題にて、宿りせし山桜戸の朝ぼらけきのふの花も春の夜の夢、其行状、殊に勝れたる人にて、唯和歌の上手なるのみにあらず。」『北窓瑣談』後篇巻1

 学問への熱意と、人柄を見込まれて、寛政11年(1799)2月、44歳の時、宣長の養子となる。文化6年(1809)6月、和歌山に居を移し、『新撰風土記』の編集や、また進講などを務める。



(C) 本居宣長記念館

本居大平の墓

 和歌山市男野芝丁の吹上寺にある大平の墓が、朝日新聞2005年1月7日第2和歌山版「わが街の自慢の史跡・記念碑」に紹介された。大平の略歴と業績に続いて、墓の現況が語られるが、「今は訪れる人もほとんどありません」という采沢玄光住職のことばは寂しい。また住職は、「寺に残る資料はなく、ここに葬られた経緯などはわからない」と話す。

 >> 「大平一族の墓」



(C) 本居宣長記念館

本居清島(もとおりきよしま)

 天明9年(1789)~文政4年(1821)9月2日。享年33歳。大平次男。母中村須磨。千枝松。兵馬。左衛次。

(C) 本居宣長記念館

本居家は大騒動(文政6年) 

宣長没後22年目にあたる文政6年(1823)、
本居家周辺は大騒動の連続だった。

年初に、和歌山では本居大平の養子・富樫広蔭が
大平を見限って、自ら縁組みを解消、
そしてその足で松坂の春庭宅を来訪、勉学に勤しむことになる。
周囲の反発などどこ吹く風。広蔭の松坂での楽しい日々は、
荒井真清宛5月18日書簡(本居宣長記念館所蔵)
で生き生きと語られる。
春庭もたいそう歓び、自分の養子とすることを望むが、
大平に愛想を尽かせて春庭に乗り換えでは、
さすがに周囲も反対し、結局実現しなかった。
『詞の通路』執筆は広蔭の協力の賜物。
春庭の手足となってその文法説の普及に力を尽くした。

7月には平田篤胤がやってきた。まず和歌山で大平に対面。
宣長使用の筆、「本居宣長七十二歳像」拝領し、松坂へ廻り春庭に会い山室山に墓参。
篤胤を迎えた京、和歌山、松坂の様子は、
『毀誉相半書』にまとめられる。
そんな騒ぎの中、九州から筑前の国学者・伊藤常足一行が松坂を訪れた。
旅の様子は、同行した米屋清蔵の『大熊言足紀行』に詳しい。
一行はそんな騒動を知ってか知らずか、充実の日々を送っている。


(C) 本居宣長記念館


『本居氏系図』(もとおりしけいず)

 本居宣長編 明和4年(1767)8月5日成立、同8年3月15日増補、20日改綴成る。脱稿後も継続して加筆した。

 内容は、本書は本居家と縁戚の系図並びに事跡と使用人一覧で、宣長の伝記研究の基礎資料である。「本居氏系図」から始まり「本家譜」「道休大徳隠居門孫右衛門家之系」「道印居士嫡男小津次郎右衛門家系」「道印居士四男小津六兵衛家系」「職人町小津喜兵衛家系」「妙輪大姉姻長嶋小津氏略譜」「秀岩大姉姻日野町内藤氏略譜」「歴代諸妣伝附略系」「歴代諸姻家略譜」「歴世手代略記」の11編と、関連する「蒲生家系図」等挟み込みから成る。

 本書は、宣長の系図一般に対する関心と、家への関心の産物といえる。後年、『家の昔物語』を執筆する時の材料となった。
 本居宣長記念館に自筆本が所蔵される。


(C) 本居宣長記念館

本居清造(もとおりせいぞう)

 明治6年(1873)11月21日~昭和38年(1958)9月7日。享年90歳。幼名、久持。号、五十鈴。信郷次男として生まれる。長男信世が高尾家を相続、代わって本居家を継ぐ。成績優秀であったが神官の父の生活は苦しく、一時は豊穎の養子にという話も出た。大阪府第二尋常中学校国語科教員となり、その後、岐阜中教諭心得、国語伝習所高等科講師、日本女学校専攻科講師、高等女学校国語読本編纂事業担任、皇典講究所神職養成部講師、文部省国語調査委員会調査事務嘱託、國學院大學講師、臨時帝室編修官等歴任し、『疑問仮名遣』(文部省内国語調査委員会・前篇大正元年・後篇2年例言)、『明治天皇紀』、『列聖全集』の編纂、執筆に携わる。また、旧宅遺品を相続した清造はその保存と整理に全力を注ぎ『本居宣長稿本全集』全2巻を刊行(最終巻3の原稿は関東大震災のため消失、未刊)で、これが村岡典嗣の『本居宣長』と共に近代の本居宣長研究の出発点となる。戦後、資料の完全保存、公開を条件に松阪市への無償寄付を申し出たが、志半ばで没し、長男・彌生がその遺志を継ぐ。家集に『本居清造詠草』がある。


(C) 本居宣長記念館

本居建正(もとおりたてまさ)

 天明8年(1788)~文政2年(1819)8月16日。享年32歳。大平長男。母中村須磨。常松、靱負。万麻呂。兵衛。宣長が『玉勝間』巻14の途中まで清書して没したため、後を継いで完成させ奥書を書く。『双玉紀行』序(文化12年正月)、『後鈴屋集』序(文化13年11月)を書く。若くして逝ったのであまり資料は残らない。記念館所蔵短冊を紹介する。

「江上春望/おのづから心ありとも見ゆるかななにはわたりの春のあま人
                               /建正」
「浦春曙/花鳥の野山思はぬみるめかなかすむ浦わの春のあけぼの
                               /建正」
「聞郭公/またでこそきくべかりけり時鳥おもひもかけぬけさの初声
                              /万麻呂」


(C) 本居宣長記念館

本居豊穎(もとおりとよかい)

 天保5年(1834)4月28日~大正2年(1913)2月15日。享年80歳。通称、中衛。号、秋屋(アキノヤ)。父内遠、母藤子の長男。母の指導宜しく父の後を継ぎ紀州藩の江戸古学館教授の大任を果たす。維新後は明治天皇に仕え東宮侍講も務めた。後継者に恵まれず、娘の没後、婿も離縁し、孫長世を育てる。神梢官、教部省などの官職を歴任。また東京帝大や国学院の講師を兼ねながら、大八洲(オオヤシマ)学会を主宰し国学と和歌の振興に尽力。『古今集講義』等の著書のほか、歌文集『秋屋集』、『秋屋集拾遺』、祭詞集『諄辞集』がある。

【参考文献】
「本居豊頴伝」鈴木淳『維新前後に於ける國學の諸問題』(國學院大學日本文化研究所)。
『大正天皇』原武史、朝日選書。 


(C) 本居宣長記念館

本居長世(もとおりながよ)

 明治18年(1885)4月4日 ~昭和20年(1945)10月14日。享年60歳。作曲家。宣長6代孫(大平系)。生後1年で母と死別、父も家を去り祖父豊穎に育てられる。明治41年東京音楽学校本科を首席卒業。同期に山田耕筰がいた。その後も邦楽調査員補助となり母校に残る。邦楽を好んだ長世の関心は奥浄瑠璃、琉球歌謡、流行歌にまで及ぶ。大正7年2月「如月社」を結成し、邦楽と洋楽の調和を探る。この活動を通してやがて尺八の吉田晴風や箏の宮城道雄と組んでの新日本音楽運動へと発展、民謡興隆の原動力となる。また山田耕筰や中山晋平らとともに大正から昭和にかけての童謡運動に参加、大正9年3月、雑誌『金の船』に「葱坊主」を発表、以後多くの作品を作る。特に同年9月の「十五夜お月さん」は、11月に長女みどりの独唱で観客に感銘を与えた。主要作品は、おとぎ歌劇『月の国』、ピアノ曲『数え唄バリエーション』、童謡の『七つの子』『赤い靴』『めえめえ小山羊』『汽車ポッポ』等。

【参考文献】
『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』金田一春彦著、三省堂。
『本居長世作品選集』金田一春彦編、如月社。


(C) 本居宣長記念館

本居信郷(もとおりのぶさと)

 文政8年(1825)5月29日~明治33年(1900)8月26日、享年76歳。旧姓高尾。幼名玖之助。通称九兵衛、健亭。号宗朝、古好斎。四日市(現四日市市)高尾家に生まれる。母牛は飛騨の娘。15歳で同家相続、18歳より上京し表千家・堀内宗完に茶道を習う。嘉永2年(1849)、25歳帰郷。同年飛騨没。嘉永6年(1853)5月5日、29歳で有郷の後を嗣ぎ本居家4代当主となる。慶応2年(1866)に松坂国学所教導。明治6年(1873)、百枝神社祠掌となる。以後、神職の傍ら茶道を指導。信郷は茶道全般に造詣が深く、国学への関心は薄かった。しかしこの時代に、松坂国学所創設、宣長61年祭、和歌山本居家からの分離、山室山神社創祀、佐々木弘綱招聘等重要事件が続いた。茶会記『会席附』5冊(安政4年から明治18年)、自作の茶道具、『信郷詠草』3冊(嘉永6年から明治31年)等が残る。長男信世は高尾家を相続、次男清造が本居家5代となる。


(C) 本居宣長記念館

本居宣長(もとおりのりなが)

 このCD-ROMの主人公。

 本居宣長は、享保15年(1730)5月7日(現在の6月21日)、伊勢国松坂本町(三重県松阪市本町)の木綿商の家に生まれた。読書を好んだ少年は学問の道を選び、23歳の年に医学修行のため京都に遊学、28歳で松坂に帰り魚町で医師を開業。その傍ら、松坂の人に『源氏物語』などの古典の講義を行い、また自らも研究に励む。34歳の時、松坂に宿泊した江戸の国学者・賀茂真淵と念願の対面がかない、『古事記』研究の志を打ち明ける。師は激励し、入門と指導を許諾する。この二人の対面が「松坂の一夜」である。感奮した宣長は、以後、35年をかけて『古事記伝』44巻を完成する。また文学の本質は「もののあわれ」を知ることにあるとする『源氏物語玉の小櫛』などの文学説や、国語学の研究、紀行、随筆など、数多くの著作を残した。

 宣長の学問により、人々は古典を再発見した。『古事記』の持つ価値、また『源氏物語』の面白さ、藤原定家の歌の味わい。また、宣長は、日本語の基準、たとえばそれまで不統一だった仮名遣いや文法、また五十音図を整然と説明した。そして、「日本」という自分の国の基準で、また言葉で、思想も宗教も、また日常生活から政治に至るまで説明することを提唱した。

 その業績は今も日本文化史上に不滅である。

 桜と鈴と歌を好み、松坂を愛した宣長は、終生この地を離れることなく、享和元年(1801)9月29日(現在の11月5日)、72歳の生涯を終える。墓は郊外の山室山と、菩提寺・樹敬寺(ジュキョウジ)にある。諡(オクリナ)は秋津彦美豆桜根大人、戒名は高岳院石上道啓居士。いずれも自分でつけた。


(C) 本居宣長記念館

本居宣長、医者になる

 松阪の木綿商の子として生まれた宣長だが、11歳で父と死別。23歳から5年半、京都で堀景山に儒学を、針灸の大家・堀元厚に医書を、高名な小児科医・武川幸順に医術を学ぶ。当時の医学は革新的実証医学である「古医方」と『素問・霊枢』を中心とする漢方医学の正統「後世方」(李朱医学)があったが、宣長の師は「後世方」である。28歳、帰郷し開業。72歳で没するまで町医者(主に内科・小児科)として働き、生計を立てた。


(C) 本居宣長記念館

本居宣長記念館

 殿町1536-7。財団法人鈴屋遺蹟保存会が管理運営する。隣接して、明治42年に移築された「本居宣長旧宅」がある。本居家などから寄贈された『古事記伝』稿本など資料16,000点を収蔵し、年に4回の企画展示などで公開する。内、国の重要文化財1949点。

 月曜日と年末年始休館。
 入館料、大人400円、大学生等300円、子供(小学4年生から高校生)200円。駐車場あり。
 電話0598-21-0312。FAX0598-21-0371。
(C) 本居宣長記念館

「本居宣長四十四歳自画自賛像」

「ようこそ宣長ワールドへ」、「宣長と日常生活」、「14、好きなもの、嫌いなもの」参照
 こちらをご覧ください
(C) 本居宣長記念館

「本居宣長七十二歳画像」

絹本着色。
井特(せいとく)画。
亡くなる直前の宣長を描いたものである。
享和元年(1802)九月。門人殿村安守は宣長の承諾を得、京都の絵師井特に師の姿を写させる。この時作成の三幅のうちの一つ。 箱書きは安守。


(C) 本居宣長記念館

本居宣長ノ宮

宣長歌碑
「敷島の」の歌を刻む。手前左手には駅鈴形の石もある。


 拝殿の南隣に東面して建つ。神社による建造。昭和34年4月8日除幕。碑は台石 とも総高3m余り。碑は根府川石で縦2,1m、横1,9m。碑は宣長の敷島の歌を弥生氏が揮毫。根来吉三氏が刻した。碑陰の建設趣旨は、山田勘蔵撰、植松茂彦書。

 歌は
「しきしまのやまとこころをひととははあさひににほふ山さくらはな」


(C) 本居宣長記念館

徹底分析・本居宣長六十一歳自画自賛像

 これが宣長像の中でも一番有名で、またその後制作された宣長像のモデルとなった画像です。

◆写真説明
「本居宣長六十一歳自画自賛像」1幅。
紙本著色。裂表装。
本紙寸法、縦115・5×横52・8cm。
本居宣長(自画自賛)。

【制作年】
 寛政2年(1790)8月。
【伝来】
 松坂本居家から記念館へ
  (弥生翁寄贈)。
【指定】
 国指定重要文化財。

【賛】
 「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手つからうつしたるおのかゝたなり/筆のついてに/しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ朝日ににほふ山さくら花」

【箱書】
 元箱(蓋のみ残る)「宣長自写肖像」裏「寛政二年庚戌八月」(宣長自筆)、
 箱(春庭時代作成)「先人自画讃遺像 春庭謹蔵」(美濃代筆)。
 同裏、印「鈴屋之印」(紙に捺印・貼付)

【解説】
 一般に流布する本居宣長像はこの画像を元にする。
 例えば、江戸時代によく流布した吉川義信の画や、また木版刷りの宣長像は何れもこの六十一歳像がモデルだ。
 本居家の伝承によれば、宣長自筆の六十一歳像はこの1点しかない。


(C) 本居宣長記念館

本居宣長短冊「鴨川納涼・嵯峨山松」

(C) 本居宣長記念館

本居春庭(もとおりはるにわ)

      「本居春庭六十歳像」
 宝暦13年(1763)2月3日~文政11年(1828)11月7日、享年66歳。本居宣長の長男。誕生した宝暦13年(1763)2月3日の宣長の『日記』には、
「晴陰、風烈、或雪散、未刻後晴、猶風○未刻半自津使来、告今巳刻前勝安産、男子出生、母子無恙之由」
とある。ちなみにこの年5月、父・宣長は真淵と対面する。

 また、『本居氏系図』には、 「春庭、宝暦十三年癸未二月三日巳上刻於津草深氏分部町宅生、童名健蔵【宣長旧名】、安永九年庚子正月二日改称健亭」 と自分のもとの名前「健蔵」を子供に付けたことが記される。

 13歳の時に賀茂真淵著『にいまなび』を写す。以後、書物や地図などを写し父の研究を助ける。また、父の調合した「家伝あめぐすり」などの売薬の販売を手伝う。『古事記伝』刊行決定後はその版下書をする。寛政2年(1790)12月、京都で御遷幸を見て帰り、その翌年(春庭29歳)正月過ぎから目を患い、尾張国馬嶋にある明眼院などで入院加療に務めるが32歳で失明。

  その後、寛政10年(1798)12月16日(春庭・35歳)の時にいとこ・村田壱岐(17歳)と結婚、翌年正月22日披露。家督が稲懸大平に譲られ、春庭は「厄介」として家に残る。但し、失明後にも歌、また詞の研究で顕著な業績を残す。助けたのは妹・飛騨、美濃や門人、また妻・壱岐であった。

 代表作に『詞の八衢』(コトハ゛ノヤチマタ)、『詞の通路』(コトバノカヨイジ)がある。家集『後鈴屋集』。妻・壱岐との間に娘・伊豆、息子・有郷がいる。


(C) 本居宣長記念館

もののあわれ

 歴史的仮名遣いでは「もののあはれ」と書く。
「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。
 これは、宣長が、和歌や『源氏物語』から見つけた平安時代の文学、また貴族の生活の底流を流れる美意識である。

 この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からその美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。『安波礼弁』で、「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとする。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説かれた。


(C) 本居宣長記念館

森壷仙(もりこせん)

 寛保3年(1743)~文政11年(1828)12月15日、享年87歳。松坂の商人。西町に生まれる。名は治助、家は通称山村屋。通称「山治」。家は米穀、繰綿、薬種を商う。曾祖父の代には江戸堀留町にも店を持っていた。父謙卿は養子。松坂近郊の櫛田村(松阪市櫛田町)の奥田氏の生まれ。同家からは名儒奥田三角が出ている。壺仙は長男。少年期より文筆に堪能で、俳諧を好み絵にも長じていたと伝えている。
  著書には『宝暦咄し』、明和8年のおかげ参りのルポタージュ『いせ参御蔭之日記』がある。



(C) 本居宣長記念館

門人(もんじん)

 門人とは弟子のこと。宣長の門人を「鈴屋門人」、「鈴門」等と呼ぶ。『授業門人姓名録』には、第1番小津正啓から第490番平田篤胤までの名前が載る。

 宣長は最初から門人を集め、謝礼を貰うなどということは考えていなかった。だから『授業門人姓名録』も、安永3年から書き始め、それ以前は安永2年以前分として一括してある。漏れもある。わざと記載しない人もいる。例えば松平康定などは「謝儀」を納めていて、門人としての資格は有しているが、名前がない。また没後門人としては伴信友を挙げなければならないが、どういう訳か平田篤胤が載り、しかも消したり再度書いたりヤヤコシイ事情があったようだ。

 また、門人録にもいくつかあり、若干記載が異なる。帆足長秋の女「京」は、帆足長秋の写本のみの記載である。では長秋が私に書いたのか、というと、享和元年夏の宣長の多忙ぶりからは、自己申告も含めた方が良さそうだ。

 門人録で現在最も信頼できるのは、『本居宣長と鈴屋社中』(鈴木淳・岡中正行・中村一基編著・錦正社)の「校本『授業門人姓名録』」である。本書には、入門しているはずなのに名前が漏れた人なども、門人録とは別に集められていて、大変役に立つ。
 階層別では、町人166人、農民114人、神官69人、医師27人、僧侶23人、武士68人、女子22人、その他2名、合計491名(伊東多三郎氏の計算による)。合計人数の違いは使用門人録による。
 地域では陸奥国から日向国、肥後国まで、つまり青森県から宮崎県、熊本県に及んでいる。

『授業門人姓名録』(自筆本)


(C) 本居宣長記念館

門人の数

 『本居宣長と鈴屋社中-『授業門人姓名録』の総合的研究-』によれば、数え方はいろいろあるが、門人総数は521名で、北は陸奥・出羽から、南は肥後・日向に及ぶ。それらの門人は多くが地方での指導者であったから、孫弟子に至っては随分多かったと思われる。


(C) 本居宣長記念館
TOPへ戻る