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解説項目索引【た~と】

大工町(だいくまち)

今の松阪市新町。新町から白粉町に抜ける真台寺のある通りを言う。名前に違い住人に大工さんは少なかった。『松坂権輿雑集』には「往古より名にも似ず。 大工は一軒にて青染屋多かりし由」とある。町の名前は太子堂を祀ることからついたか。

 この町に、宣長二女・美濃の夫婦が住んだ。美濃は長井に嫁ぐが、夫婦で同族の小津を継ぎこの町に住んだ。残念ながら場所はわからない。また町の中ほどに小さな橋がある。一説に番匠橋と呼ぶ。宣長の頃、一葉庵という俳諧師が庵を構えた所という。


                                          (C)本居宣長記念館

太子堂(たいしどう)

松阪新町(旧町名は大工町)にある真台寺表門入り口右側にある。聖徳太子を祀る。大工さんは聖徳太子を信仰することが多かった。聖徳太子像に中には曲尺を持つ像もある。この聖徳太子を親鸞上人は「和国の教主」とたたえた。真台寺、大工、太子堂はこのように密接な関わりを持つ。大工町の名前も、このお堂に因むのだろう。

                             太子堂
                                          (C)本居宣長記念館

『大神宮儀式解』の奥書

経雅の『大神宮儀式解』は、宣長の『古事記伝』と共に、近世国学の水準の高さを示す業績であるが、また両書が二人の友情の産物であったことも忘れてはならない。
 石水博物館所蔵の『大神宮儀式解』は、全30巻。神宮の高官が写し、宣長晩年の門人で一癖も二癖もある殿村安守が奥書を書き、その伝来には深野屋という謎に満ちた本屋が介在するという、興味の尽きない写本である。

 奥書は安守の自筆である。字体は、書簡や歌、また、例えば天理図書館所蔵『座右雑記』の序のような強い癖こそ出ていないものの、安守らしさは随所に見られる。また、この写本こそが、流布する本の中でも特に勝れたものだ、と書いてくれと深野屋に頼まれたので書く、つまり頼まれたから誉めるという、まことに安守らしい奥書だ。


【翻字】
此延暦儀式解三十巻は、内宮の故三祢宜中川従三位荒木田経雅神主のあらはされたるを、同宮の故二祢宜薗田従三位荒木田守諸神主の清くかゝれたるにて、彼家にひめおかれたるを、ゆゑありて文化四年五月に此郷の書賈深野屋利助小泉公忠かあかなひ得て、其家の蔵本にはなりたるなり、この儀式のあるか中にふるきよし、此解の出来たるよしは、作者のみつからの跋、故本居大人のはし書、薗田神主、末偶ぬしなとのしりへかきに述おかれたれば、今さらにいはず、また式のもともたふとみおもみすべき事、解のつばらにあきらかなることは読て知るべし、さるたふとくあきらかなる書にしあれば、二宮の神官たちをはしめ、いにしまなひするともから、をちこちに写しつたへてもていつくめるを、数多の巻々なればおのつからうつしたかへ、かきもらせる字はたおほかりなむ、それよみかむかへ見あはせむにはこれそ此原本なりといふことのよしを一くたり書しるしてよ、と公忠かこふまゝにかくしるしおくになむ、文化十一年八月 伊勢松阪 大神安守
【大意】
この延暦儀式解は故中川経雅神主が書かれた本を、やはり故人の薗田守諸神主が丁寧に写された本で、薗田家の蔵書として大事にされてきたが、故あって文化四年五月に松阪の本屋深野屋利助こと小泉公忠が買ってきて、深野屋の物となった。そもそもこの儀式帳と言う本が類書の多い中で大変古い本であり、それに経雅神主が注を付けて儀式解としたことなどは、経雅神主自身の跋文、故宣長先生の序文、薗田神主や、荒木田末偶の後書きに書かれているので詳しいことは省略する。また、この儀式帳がどんなに大事な本であるかとか、この儀式解が非常に詳しい注釈であることはこの本を読めば分かるので、これ又省略する。その様に大事な本であるから、内宮外宮の神主や、国学者はあちこちで写して大事にしているが、何しろ巻数の多い本であるから、どうしても写し間違いや、書き漏らしが生じるのは仕方のないことである。そのような杜撰な写本が多い中で、校合し訂正するにはこの薗田神主の写本こそが原本となるべきだ、とそのような事訳を書いてくれと公忠が頼んできたのでこのように書き記す。文化十一年八月 伊勢松阪 大神安守。

【参考文献】
『特別展伊勢神宮2000年・神宝の美』(会期1996年9月29日~11月11日)図録、四日市市立博物館。


                                          (C)本居宣長記念館

代表的な門人 全国編

宣長門人は北海道、沖縄、鹿児島を除く全県に及んでいる。その中から代表的な人を挙げてみよう。
 と言っても、何を以て代表とするか、基準は難しい。例えば、宣長自身が、出雲大社の千家俊信の問いに答えて熱心な門人「格別出精厚志」の名前を挙げている(寛政5年11月9日付書簡)のも一つの参考となろう。

〔松坂〕稲掛大平・長谷川常雄・三井高蔭・中里常岳・岡山正興・服部中庸
〔津〕七里松叟・柴田常昭
〔白子〕坂倉茂樹・村田並樹
〔内宮〕菊家末偶
〔尾州〕横井千秋・横井十郎左衛門・稲葉通邦・鈴木真実・鈴木朗・
    川村正雄・大橋直亮・堀田元矩・加藤磯足・大館高門
〔遠州平生〕栗田土麻呂
〔遠州細田〕石塚龍麻呂
〔近江彦根〕松井邦
〔紀州〕小浦朝通
〔美濃大垣〕大矢重門
〔甲州田中〕萩原元克
〔石見浜田〕小篠敏
〔筑前福岡〕田尻真言・青柳種麻呂
〔豊前中津〕渡辺重名
〔越後高田〕倉石為光

 これ以前に亡くなった人、例えば須賀直見や田中通麿が入っていないし、これ以後の入門者にさらに重要な人もいる。あくまでもこれは宣長64歳の時点の主要門人である。
  もう一つ、参考となるのが「恩頼図」である。





                                          (C)本居宣長記念館

代表的な門人 松坂近郊編

宣長の門人組織は、大雑把な言い方をすると、嶺松院歌会のメンバーたちへの、宝暦8年(1758)に開始された『源氏物語』講釈から成長していった。どちらかいうと自然発生的だ。講釈は、生涯にわたり都合3回行われ、4回目が途中で終わった。松坂周辺の門人は、この聴講者が核になったとも言える。この人たちが代表門人だと言うこともできる。そこで、『源氏物語湖月抄』巻末、宣長の覚えから出席者を見てみよう。

第1回(1758~66)の出席者は、
浅原十左衛門義方【発起人也、半而死】
小津清右衛門正啓(1773以前)
中村伊右衛門光多(1773以前)
稲垣什助棟隆(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「恩頼」
須賀正蔵直躬(1773以前)「鈴屋円居の図」「恩頼」
浜田八郎兵衛明達【中廃】(1773以前)
覚性院戒言(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「恩頼」
折戸重兵衛氏麻呂(1773以前)
村坂嘉左衛門道生(1773以前)「鈴屋円居の図」  

第2回(1766~74)の出席者は、
小津清右衛門正啓入道審斎(2度目)
竹内彦一元之(1773以前)「鈴屋円居の図」
山路喜兵衛孝正(1773以前)
稲垣十蔵茂穂(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「出精」「恩頼」
中里重五郎常朝(1773以前)
長谷川武右衛門常雄(1773以前)「鈴屋円居の図」「菅笠の旅」「出精」「恩頼」
中里大三郎常道(常岳)(1773以前)「出精」「恩頼」
村田中書光庸(1773以前)
谷恵左衛門高峯(1773以前)
長谷川彦之助高古(1773以前)  

第3回(1775~88)の出席者は、
稲掛十介大平(2度目)
中里伴蔵常秋(1775)
三井総十郎高蔭(1779)「出精」「恩頼」
岡山八郎次正興(1779)「出精」
竹内彦一直道(1784)
森義平光保(1784)、
村上吉太郎有行(円方・潔夫)(1785)
服部義内中庸(1785) 「出精」「恩頼」
青木半右衛門親持(1785)
笠因鈴之丞直丸(1787)


 寛政年間という宣長60代、門人が急増した時期が欠けているので、寛政年間の回章2通の宛人を載せる。

◆回章1・寛政6年(1794)5月12日付回章宛人
三井総十郎(高蔭)【既出】
竹内彦市(直道)【既出】
稲掛十介(大平)【既出】
中里新三郎(常岳)【既出】
中里平兵衛(常秋)【既出】
伊豆田瀬三郎(清三郎・金甫)(1793)
殿村助吉(安守)(1797)
三谷景助(景介・比曽牟)(1791)
小津次郎左衛門(信業)(1776)
谷文蔵(高当)(1790)
服部義内(中庸)【既出】

◆回章2・寛政8年(1796)正月18日付回章宛人
馬嶋掃部(1796・河芸郡神戸の人・松坂滞在中か)
長谷川武右衛門(常雄)【既出】
竹内彦一(直道)【既出】
稲掛十介(大平)【既出】
中里新三郎(常岳)【既出】
中里平兵衛(常秋)【既出】
殿村五兵衛(安守)【既出】
小篠大記(敏)(1780・石見浜田の人・松坂滞在中)
林伊右衛門(利長)(1791)
岡山八郎次(正興)【既出】
深田佐兵衛(年雄)(1795)
村上三介(円方・潔夫)【既出】
三谷景助(景介・比曽牟)【既出】
森伊右衛門(光保)【既出】
谷文蔵(高当)【既出】
笠因鈴之丞(直丸)【既出】
服部義内(中庸)【既出】


 ほぼ松坂主要門人の名前が出ている。脇に(1773以前)等と記したのは入門年。「円居の図」は明和年間の様子を描いたと推定される「鈴屋円居の図」、「菅笠の旅」は明和9年(1772)の吉野、飛鳥旅行参加者、「出精」は寛政5年に宣長の選んだ「格別出精厚志」の人、「恩頼」は「恩頼図」に出る人である。「回章」の【既出】は既に名前が出ていることを示す。
 これは、一つの目安にすぎないと言うことである。早く亡くなった人、入門の遅かった人、宣長より年長だったので名前が出ないと言うこともあるかもしれない。
 面白いのは、第3回になると講釈聴講が終わる位に入門する人がいることである。つまり宣長の講釈は門人にならなくても聞くことが出来たのだ。
                                          (C)本居宣長記念館

平(たいら)

宣長の家の本姓。阿坂村(現、松阪市阿坂町)郷士本居林之右衛門に伝わる系図(明和8年3月15日書写、考証)によれば、宣長の祖は桓武天皇32代の孫、尾張守平頼盛6代の後胤、本居県判官平建郷まで遡ることが出来る。「平」姓もそれに因む。但し、初見は明和4年頃からの歌を記した『自撰歌一』署名「平宣長」。天明2年(1782)1月16日の『手向草』以後はあまり使用されない。但し、和歌山藩に出す履歴では晩年まで使用し、また養子大平も引き続いて使用する。


                                          (C)本居宣長記念館

鷹部屋

門人で紀州藩役人の服部中庸はここに住んだ。魚町宣長宅から約6分。
                                          (C)本居宣長記念館

高見山

松坂を出立し和歌山街道を西に行くこと2日、旅人は街道一の難所、標高1248.9mの「高見山」を越える。峠は頂上から少し下がった標高904mを通る。
 寛政6年(1794・宣長65歳)10月、初の和歌山行きの途中、宣長もここを通った。その時の歌、

  「白雲に 峯はかくれて 高見山 見えぬもみちの 色ぞゆかしき」

が、碑に刻まれて峠の頂きにある。高さ2m、横1.5mの大きな歌碑は、1995年11月1日、奈良県東吉野村により建てられた。
                            高見山の宣長歌碑
                                          (C)本居宣長記念館

高本順(たかもと・したごう)

元文3年(1738)~文化10年(1813)12月26日。享年76歳(一説に78歳)。熊本藩校時習館第3代教授。初め原田氏。名順。通称慶順、慶蔵、敬蔵。号紫溟、せきの屋等。藩医高本氏の養子となり、同氏の本姓李を称する。
 朱子学を信奉する儒学者ながら国学にも関心深く、寛政4年(1792)閏2月、国学振興を藩に提言し、同9年3月30日、門人の長瀬真幸らを従えて鈴屋を訪れた。西から伊勢に来る一行は、『菅笠日記』の行程をたどって松坂入りするという念の入れようであった。土産は、国府煙草、筆。
 宣長は、愛宕町菅相寺で歓迎の歌会を開いた。その時の高本の歌

  「菅笠日記のみちをとめて鈴屋大人をとぶらひて、
 みよしのの花をわけてぞとひ来つる君がしをりの道のまにまに」

 また、熊本での宣長追慕の影前会にも出席する。

【参考文献】
『高本順大人百年祭記念先哲遺稿』大正元年12月。
                                          (C)本居宣長記念館

高本順(たかもと・したごう)の訪問

寛政9年3月30日、熊本藩の儒者・高本順が、門人の長瀬真幸らを従えて鈴屋を訪れた。西から伊勢に来る一行は、『菅笠日記』の行程をたどって松坂入りするという年の入れようであった。土産は、国府煙草、筆。宣長は、愛宕町菅相寺で歓迎の歌会を開いた。

 その時の高本の歌
  「菅笠日記のみちをとめて鈴屋大人をとぶらひて、
  みよしのの花をわけてぞとひ来つる君がしをりの道のまにまに」


                                          (C)本居宣長記念館

高山

岐阜県高山市には、宣長最晩年の門人・田中大秀がいた。
                                         (C)本居宣長記念館

「鐸」と「鐘」

銅で出来た「鐸(ヌデ)」を銅鐸と言います。
 弥生時代の青銅製品で、一種の「鐘」です。ではどうして「鐸」なんて難しい字を書くのでしょう。
 鐘は、お寺の梵鐘のように、外側を叩いて音を鳴らします。
 鐸は、中に「舌(ゼツ)」がぶら下がっていてこれで叩くのです。お寺の堂塔の隅に下がる「風鐸」も同じものです。
 松阪市笹川町山村からは、昔この辺りで朝廷の命で猪を飼っていた人が寄進した高さ16.5cmという小さな鐘が出土しました。貞元2年(977)の銘文がある大変古いものです。その出土地に立つと今もかなたに「白猪山」を眺めることが出来ます。
                            「飯高郡上寺鐘」
                                          (C)本居宣長記念館

竹内直道(たけうち・なおみち)

弘化4年(1847)8月5日没(石水博物館『授業門人姓名録』書入)。松坂本町の人。父は、初期の門人津島屋竹内元之(彦一)。天明4年11月入門。『源氏物語』の講釈を聴講する。記憶よき人と伝えるが、大平とは必ずしもうまくいかなかったようである。歌集に『月花百首』(文化11年5月刊)、『道しばの露』(文化)13年刊)、『峯の松風』(文化14年刊)がある。


                                          (C)本居宣長記念館

武川幸順(たけがわ・こうじゅん)

享保10年(1725)1月30日~安永9年(1780)3月28日。諱は健徳(ケントク)。号は南山。父は幸哲(元順)。京都で代々小児科を営んだ。住所は室町四条の南。景山先生のすぐ側だ。最初に師事した堀元厚が没したので、宝暦4年(1754)5月1日、宣長(25歳)は武川幸順に入門する。幸順も景山門であり、また年も近かったので、宣長は幸順に従い行動を共にすることが多かった。幸順は、医者として明和年中(1764~72)には英仁親王(後桃園天皇)の御殿医を勤め、その功もあって、法橋、後に法眼となる。また、宣長が『馭戎慨言』を執筆したときにはその内容に感銘し、摂政・九条尚実に献上を企てるがその事半ばで死去、子がその遺志を継いだ。

【資料】
『在京日記』
「五月朔日、入武川幸順法橋之門而修行医術矣、去月廿四日、正大夫【貞治改名】娶小堀十左衛門臣堀田清八女、此夜婚礼矣」(宣長全集・16-41)。

『家のむかし物語』
「同四年五月より、武川幸順法眼の弟子となりて、くすしのわざをまなぶ、【此先生、南山先生と号す、世々児くすしにて、其業いよいよ盛に行はれ、後桃園天皇の、いまだ親王と申せし御ほどより、典薬としてつかうまつり給へりき、宣長、同年の十月より、かの室町四条の南なる家に寄宿せり】(宣長全集・20-29)。

母の手紙(4月28日付)で、「いしや衆ノ方弥々御出候よし、めて度悦申候」(宣長全集・別3-320・来簡3)と書くのは、幸順への入門を指すのだろう。

4月晦日付宣長宛村田光阿(清兵衛)差出書簡
「然バ兼而得御相談候貴殿医行入学之義、藤伯老御セ話ニ而、武川氏え通ヒ修行之積ニ相成候由、先ハ一段之義ニ被存候、何様武川氏被申候様子、同苗より承候所、御尤之義ニ存候間、先通ヒ被致修行可然存候、併通ヒニ而は、外ニ物入等も可有之哉と、気毒存候」(宣長全集・別3-367・来簡69)。



                                          (C)本居宣長記念館

武川幸順の授業料

「寄宿弟子衆入門式」(武川支配人)が残る。

 法橋方には金子1両、御酒3升1樽、堅魚10節1連、
 法橋内証方、法眼方、法眼内証方各金子100疋、
 法橋舎弟、子息仙蔵方に各白銀2両、
 仙蔵内つ方に白銀2朱、
 若党方に白銀1両、
 惣家来中並びに出入の親方に鳥目150疋、
 この他に、1ヶ月に寄宿飯料炭油諸雑用として銀子29匁、是は毎月晦日に支配人に銀で支払うこと、
 中元歳暮の祝儀として正月3日、7月16日に金子200疋、
 また挨拶料として惣家来男女共に一人あたり鳥目100文を遣わすように書かれる(宣長全集・19-解題7)。

 2ヶ月で寄宿料として1両弱かかることになる。


                                          (C)本居宣長記念館

武川幸順の墓

四条河原町、少し南に下がったところ、ビルが林立する谷間、仏光寺通 河原町西入に勝円寺はある。敷地は、昔は3000坪、今でも1000坪もある立派なお寺だ。墓苑「无玄来苑」に宣長の先生「武川幸順」のお墓がひっそりと建っている。 「南山先生武川君(剥落)・」。幸順の墓である。

 天保2年辛卯冬孫男幸順の再建で、墓石表「南山先生武川君墓」と大書、
裏面「考諱幸順、字建徳、世業医、幼俊邁募豪士風遊於景山屈先生之門、長益励学、執志勇壮、遍続方書深造其旨、遂以童科鳴於海内、明和中徴除東宮侍医進法眼、享保十年正月晦生、安永九年庚子三月念八寿五十六、南山其号也、不肖孤医官幸伯謹建」と記す。碑文は『京都名家墳墓録』に依る。残念ながら今は剥落して全文を読むことは出来ない。

 また向かって右脇に「文政庚寅秋因地変毀損於旧碑今模刻北海氏誌文再建之、于時天保二年辛卯冬、孫男幸順誌」、「武川」と刻されているのを今回の調査で確認することが出来た。ただ、『宣長の青春-京都遊学時代-』出丸恒雄著(初版昭和34年10月)掲載写真に比較しても、碑面の痛みは深刻である。

 幸順の命日を碑文では3月28日。死を報じた宣長宛畑柳敬書簡には「三月廿七日長去」、つまり27日没とある。また『法事録』でも命日を27日として供養していた。
            武川幸順墓
          武川幸順墓(側面)
                                          (C)本居宣長記念館

武川幸哲夫妻の墓

武川幸哲(1689~1757)の墓もやはり勝円寺墓苑「无玄来苑」にある。幸哲は幸順の父。墓石はひいきとか言う亀の背に載っているが、残念なことに一部剥落して読めない。智芳院は妻か。

 碑面「有誠院法眼聖岳素賢元順居士・智芳院浄誉諦岳清真禅定尼」
(側面)「(剥落)元順元禄二年六月二十四日生・(剥落)五月廿一日清晨端坐逝六十九」。

 「端座して逝く」、つまり正座して亡くなった。
 葬儀に参列したであろう宣長の記録に次のように記す。

 宝暦7年5月21日の朝、武川幸哲没、享年69歳。23日、酉の刻(今の午後7時過ぎか)、綾小路南の勝円寺で武川幸哲葬儀。法号有誠院法眼聖岳素賢元順居士。元順は生前の諱である。

 この前年3月23日、宣長は堀景山と武川幸哲、幸順に同道し高台寺春光院にて花見をし、歌を詠んだことがある。当日の歌は『石上稿』載る。
 この他、「南海先生武川(一字不明・君か)墓」、「南汀先生武川君墓・南堂先生君墓・南室妙(一字不明・徳か)大姉墓」等も確認できた。有名な医家であったにもかかわらず倒れた墓あり、剥落し、また各所に散らばり、嗚呼無情。
(C) 本居宣長記念館

           武川元順夫妻墓
          倒れた武川南海墓
(C) 本居宣長記念館

竹内元之(たけのうち・もとゆき)

 延享4年(1747)~文化3年(1806)。享年60歳。通称彦一。屋号津島屋。
 大平は元之追悼歌の詞書で、7月4日に60歳でなくなったこと。同じ宣長先生門下ではあるけど、元之はきちんとした先生について勉強し、国学も儒学も大層詳しかったので、人にも教え、かくいう私も若い頃から教わった。そんなこんなで悲しくてしかたがないと嘆いている。
  年譜によれば、大平は12歳の時から四書五経、つまり儒学を教えてもらった。趣味で学問していたのだろう。
  第2回の『源氏物語』聴講。
  息子が直道。やはり宣長門で歌では優秀であった。
(C) 本居宣長記念館

竹村茂雄の訪問

諸国からたくさんの人がやってくる。しゃべる言葉の違いに驚き、またサイン帳をもって、出会った人に歌を書いてもらう人もいた。

 伊豆の門人・竹村茂雄が鈴屋を訪問したのは寛政10年2月22日であった。 『宮はしらの日記』の翌23日条に、大平の紹介で松坂滞在中の橋本稲彦を訪ね、

「いみじう遠きさかひの人なりければ、うちいづることのはも何となくめづらかに、きゝもなれぬわたりのことなど、かきくづしかたらふ、しばしありて、稲がけの主はかへり給ひぬ、ひつるかたになりて、此人とともに大人の御もとにまうでて、文などの心得がたきところどころ、かつがつとひさだむ、こよひ万葉集をなんよみとくとのたまひけらば、さらばくれつかたにまいらんとて、立かへりぬる、くれ過て例の人(引用者注・橋本稲彦)、宇治の神司なりける人と、三人していでたつ、此人はさる田の神の末にて、今もなみなみのつらにはあらぬが、此ほど古風まなぶとて、こゝにきたり居給ふ也けり、さて、うしのもとに行て、文よみ給ふなど聞はてゝ、我もたるちひさきさうし(小さき冊子)とりいだして、これに行さきざきの、みやびをたちの歌をなんかゝせまほしきに、其こころしたる歌かきて、たまへといふに、とみに書つけて給ひぬ、かくて、かれこれをしへ子たちの、あまたつとひゐたると、国のものがたりなどして、夜ふけてやどりにかへりぬ 」『宮はしらの日記』

太宰春台(だざい・しゅんだい)

 延宝8年(1680)9月14日~延享4年(1747)5月30日。荻生徂徠門下の儒学者。信州飯田藩士の家に生まれたが、後に、但馬出石藩に出仕。その後、他の藩にも仕えるが最後は浪人する。屋号を「紫芝園」と言い、著作に『紫芝園稿』や『弁道書』などがある。その性格は正直に過ぎ、狷介な所もあった。
 春台は儒学中心で、日本固有の思想を認めなかった。『弁道書』で、「神道は本、聖人の道の中に有之候・・神道は実に聖人の道の中にこもり居候、聖人の道の外に別に神道とて一の道あるにては無く候」と発言し、神道家から激しい批判を受けた。

 真淵の先生、渡辺蒙庵は春台の弟子だが、真淵は宣長宛書簡で「近頃見しニ、先年太宰純が弁道書といふ物を一冊出せしを、鳥羽義著といふ人悪みて破却し、から国の聖人と称せる人を證を挙て皆罵下せし弁弁道書といふ一冊有之、皇朝之大意ハよく得たる人と見ゆ」(明和6年正月27日付)と批判的だ。

 だが、宣長は『弁道書』、と言うか太宰に理解を示す。太宰のような態度こそが儒学者であるというのだ。儒者でありながら、また神道家でありながら、また仏家でありながら他の学問や宗教に理解を示すと言う態度に比べれば、「余が心には真の儒者と思はるゝなり」。だいたい神道家は儒学をうらやんで神道説を整えてきたではないか、と宣長は批判する。もちろん、太宰は真の儒者であるが、儒学そのものが無ければ世の中が治まらないと言うのは誤りであると太宰を批判することも忘れない(『講後談』)。
 また宣長は、『独語』から和歌と漢詩を対比しその盛衰を論じ、歌を詠む心構えにふれた条や(『本居宣長随筆』)、『紫芝園稿』から「八橋詩」や「朱子詩伝膏肓後序」を孫引き(『和歌の浦』巻5)したりしている。
(C) 本居宣長記念館

『多度神宮寺資財帳』の発見

 小玉道明氏「鴎外再見 桑名郡多度寺の資財帳を追う」(『棧 文芸・論索同人誌』26号・2010年12月)は、『多度神宮寺資財帳』(国重文)が発見紹介される過程を追い、同資財帳の謎に迫る。
 東寺旧蔵と伝えられるこの「資財帳」が世に出たのは18世紀後半。

 三つの動きがある。
 まず、藤貞幹が写した(大東急記念文庫蔵)。貞幹は寛政9年(1797)8月19日没で、それ以前の写本であることは間違いない。
 次に上田百樹の写本(津市立図書館稲垣文庫蔵・文化7年写)と、伴信友の『神名帳考証』への引用で、この二つは両者の交友から関わりがある可能性が大きい。
 最後は、市場に出た「資財帳」は竹包楼から狩谷掖(木偏・夜)斎の手に渡り、模刻本が作られた。狩谷本が現在の多度大社所蔵の重要文化財指定品である。

 これらの三つがどのようにつながるのかは今のところ不明。そこに「資財帳」が内包する問題や、掖斎の模刻本の謎、さらに史料批判のないままに研究が続けられてきた杜撰さが絡み合い複雑な様相を呈する。この成果は近く論文として発表される予定で、本編はその途中経過。
 今のところ宣長との直接の関係はなく、周辺で起こった出来事の一つにすぎないが、和学者の世界の出来事として興味深い。
(C) 本居宣長記念館

田中大秀(たなか・おおひで)

 安永6年(1777)8月18日~弘化4年(1847)9月16日。享年71歳。高山の薬種商。後に荏野神社神主。通称弥次郎、後に弥兵衛、兵助。名は紀文(トシブミ)、大秀、八月麿。宣長に入門した頃は紀文と名乗っていた。号は千種園、湯津香木園。荏野翁。最初、熱田神宮神官・粟田知周、伴蒿蹊に学ぶ。
 享和元年(1801)、参宮の途次、松坂を訪ねるが、宣長は上京中と聞き、京都に廻り、4月13日、滞在中の宣長を訪ね入門する。そのまま京都に滞在し宣長の講釈を聴講、その後、飛騨高山に帰る。帰国後間もなく宣長の訃報に接す。
 著書は、『竹取翁物語解』、『落窪物語解』、『土佐日記解』、『養老美泉弁』など。自撰歌集『荏野集』(エナシュウ)は文政8年(1825)成立515首を載せる。四季(春84、夏57、秋100、冬61首)や雑部(147首)に比較し恋部の歌26首と少ないのが特徴。
 亡くなる前年、福井に招かれ講釈する。その時の『万葉集』講釈の記が残る。そこには上段に「鈴屋万葉講説」と書かれ、京都で45年前に聴講した宣長の講釈の進捗状況が記されている。それに併せて大秀も講釈したのだ。聴講者の中には橘曙覧もいた。宣長門人の少ない飛騨の地で、宣長の追慕会を毎年のように主催したことと併せて、宣長敬慕の念の篤さに驚く。僅か2ヶ月しか教えてもらっていないのに・・。遙か彼方に乗鞍岳を仰ぐ荏野神社、その近くの松室岡に「田中大秀之奥墓」はある。

「田中道麿像」部分

                            「田中道麿像」部分
(C) 本居宣長記念館

田中道麿の訪問

 安永6(1777)年、松坂の宣長を訪問した田中道麿は、係り結びの法則を聞かされ、次のように云っている。

 10年前に出された『てにをは紐鏡』を、ことあるごとに見てましたが、充分理解ができませんでした。今度、松坂で『詞の玉緒』を見せてもらい(この時にはまだ稿本しかなかった)、おおよそ理解でき、帰ってからは夜に目が覚めたときも古歌を当てはめて検証していますが、ぴたりと先生が発見された法則に当てはまります。神代から今までこの様に「てにをはの法則」があるとは、実に尊いことです。
 これまで人に、お前は「てにをは」について知っているかと聞かれると、時と場合によっては、知っているとも、またよくわからないとも答えていましたが、心の底ではだいたい理解できているつもりでした。今になって考えてみると、全然わかっていなかったことに気づきます。この春、松坂から帰ってからは、本当に、本当に「てにをは」について理解していると自信を持って言える道麿に生まれ変わりました。

 宣長は答える。
 「てにをは」についてのご意見、全部私の考えと同じです。私は長い間この問題を考えてきて、やっと「てにをは」の一番大事なことを見つけることができましたが、はたして理解してくれる人はいるものでしょうか。たとえ、誰も理解してくれなくとも、道麿さんだけでも私の仕事を評価してくださるなら、私の努力は報われたというものです。悦びに耐えません。

【原文】
  「○此折り本、十ヶ年以前に出し給へるを、それより此かたも、よりより見ざりしにあらず、見は見ながらとくと得られざりしを、此春、玉の緒をあらあら見奉りてより、大かた得られて、大にあきらけくなりぬ、此ごろは、夜のねざめも専ら古歌にあてて見るに、悉違ふ事なし、神代より今に及びて、かくてにをはは違はぬ物なるをと、いといたうたふとくなん(中略)もし人ありて問ん、てにをはをしれりやと、道丸答てしれりといはん日もあらん、又しらすと答ん日もやあらん、されど心の底には、不知としも思はじ、然るを、今日と成て、去年を思へば、実には其事しらすてくらし来りし也、然るを、此春、松阪より帰りて後は、誠に誠に其事しれる道丸と生れ替りたり。」
  「(宣長)てにをはの事の玉へる条々、ことごとく当れり、己れ多年此事に心をつくし、自然のてにをはの妙所を見出たるに、誠に然りと信する人、天下にありやなしや、よし知る人なくとも、道麻呂主一人己か功を知り玉へは、己か功むなしからずと、悦ひにたへすなん」(宣長全集・6-416)


(C) 本居宣長記念館

田中道麿(たなか・みちまろ)

享保9年(1724)~天明4年(1784)10月4日。61歳。美濃国多芸郡榛木村(岐阜県養老郡広幡村大字飯木字居村)に生まれた。家は農業を営んだ。子どもの頃から読書が好きで、読む本を求めて大垣俵町の本屋平流軒に奉公したと言う伝説もある。また、故郷を出た道麿は、駕籠を担ぐなどして生計を立てていたとも言う。

 近江国彦根(滋賀県彦根市)の大菅中養父(オオスガ・ナカヤブ)という賀茂真淵の門人と知り合い日本古典を学ぶ。その後、宝暦9年(1759)、道麿36歳頃には既に尾張国に住んでいたことがわかっている。安永の始め頃から桜天神で和歌や国学の塾を開き(『新修名古屋市史』)、門人も出来た。古典の中でも専ら『万葉集』などを研究した。

 安永6年(1777)7月、松坂を来訪。同9年(1780)5月にも再訪。この時門人となる。
  『玉勝間』のなかで宣長は、道麿は、自分より年長だったが、入門してきて、二度三度は松坂まで勉強しにやってきたし、普段は手紙で質疑応答を繰り返していたが、この人ももう亡くなった。だが、名古屋の日本古典の学問は、道麿の努力で始まったのである、とその努力と功績を讃える。

 道麿像の筆者は不明だが、賛は、道麿十七回忌の時の宣長の歌である。

 懐旧 さそはれし時雨の雲の跡とほく年のふるにも袖はぬれけり  宣長

 また、その逝去を聞き春庭(22歳)が詠んだ追悼歌が残る。

 歌は
   「田中道麻呂の君身まかりたまふときゝてよめる 本居春庭

  人皆のかばかり惜しむものぞとも知らずて君は過ぎにけらしも
  世中のことにしあればと思へども落つる涙は留めかねつも
  我せこは誠死にきや今も世にますと思ほゆ誠死にきや 」

  宣長が言うように、名古屋の国学者で主要な人は道麿門である。
その一人、起宿の加藤磯足は師の小伝を書いている。『しのぶぐさ』という。文化3年5月に成った。

【参考文献】
『本居宣長稿本全集』(1-754)。
                       「田中道麿像」 原本、本居記念館所蔵。

谷川士清(たにがわ・ことすが)

宝永6年(1709)2月26日~安永5年(1776)10月10日。
 歩くデータベースのような人。
 伊勢国安濃郡刑部村(三重県津市八町)に生まれる。
 本業は産科の医者。垂加神道家。
 通称、養順。号、淡斎。社号、振々霊社、森蔭社。
 代表作は、『日本書紀通証』35巻(1751年脱稿・1762年刊行)、『倭訓栞』93巻(ワクンノシオリ・ワクンカン)。
 特に今の国語辞典の先駆けとなった『倭訓栞』では、学問の幅が和漢にわたった士清の博識ぶりを遺憾なく発揮。

 賀茂真淵は士清の学問を批判的に見ていた。宣長も、一番最初に士清に送った書簡はその学問を批判する内容。
 しかし、真淵が没後は、宣長と士清は親しく交わり、『古事記伝』や『倭訓栞』(序は宣長筆)などの著作については忌憚なく意見を述べあい、蔵書の貸し借りなども頻繁。二人の間を取り持ったのは、最初は宣長妻の実家・草深家。その後は蓬莱尚賢。尚賢は士清の娘婿で、後に宣長に入門。

 没する前年の安永4年5月、近くの古世子明神(現在の谷川神社)境内に草稿類を埋め「反古塚」を建てた。
 碑の裏面に「何故に砕きし身ぞと人問はばそれと答む日本魂」と言う歌が刻まれる。
 原稿を捨てるというのは旧派の学者がよく行ったこと。余談だが、上田秋成も原稿を井戸に捨てたが、門人が密かに拾ってきたと言う話もある。
 「反古塚」が出来てから、三日にわたり玉虫がそこに集まった。
 これは奇瑞だと士清は諸家に歌を募集し、宣長はじめその一門も歌を寄せた。

 晩年、藤堂藩に水戸学が入ってからは、士清やその一門は排斥されたが、『倭訓栞』の刊行は家の仕事として継承された。結局、後編18巻が出たのは明治20年(1887)で、刊行が開始された安永6年(1777)から実に110年が経過していた。
 また銅鐸を所有(現在、津市専修寺所蔵)していたことからも分かるように考古趣味もあり、『勾玉考』と言う著書もあり、石の長者・木内石亭とも交わる。
 国指定史跡・谷川士清旧宅は今も津市八町三丁目に残る。近くに墓、反古塚がある。

谷川士清先生略年譜

記号:○士清関係記事 ☆関係記事 ★不慮

典拠:
1『谷川士清先生伝』(谷川士清先生事績表彰会・明治44年11月30日)
2『谷川士清先生』(三重県立津中学校・昭和10年11月1日)
3『復刻近世国学者の研究-谷川士清とその周辺』(北岡四良・平成8年12月23日)
4『国学者谷川士清の研究』(加藤竹男・昭和9年12月3日)
5『山崎闇斎学派』(日本思想大系・昭和55年3月25日)
6『近世神道論・前期国学』(日本思想大系・昭和47年7月25日)
7『近世神道と国学』(前田勉・平成14年2月10日)
8「契沖年譜」(『契沖全集』)
9『山崎闇斎の政治理念』(朴鴻圭・平成14年3月15日)
10『垂加神道の人々と日本書紀』(松本丘・平成20年7月30日)
11「士清の学問その二 『和訓栞』について」
   (三澤薫生・平成19年3月4日谷川士清顕彰講座第三回資料)
12『改訂谷川士清小伝』(津市教育委員会・平成11年7月30日)
13『本居宣長全集』
14「本居宣長と『和訓栞』 その影響について」
   (三澤薫生・平成20年10月18日宣長十講「明和期の宣長」第五講資料)

この年譜は、2008年11月8日に津市で行われた講演会「谷川士清について」(講師吉田悦之)で配布した資料に若干の訂正を加えたものである。


1   1 歳 ~19歳(1709年〔宝永6年〕~1727年〔享保12年〕)
2   21歳~25歳(1729年〔享保14年〕~1733年〔享保18年〕)
3   26歳~32歳(1734年〔享保19年〕~1740年〔元文5年〕) 
4   33歳~35歳(1741年〔元文6年・寛保元年〕~1743年〔寛保3年〕)
5   36歳~42歳(1744年〔寛保4年〕~1750年〔寛延3年〕)
6   43歳~48歳(1751年〔寛延4年・宝暦元年〕~1756年〔宝暦6年〕)
7   49歳~56歳(1757年〔宝暦7年〕~1764年〔宝暦14年〕)
           (1751年~1764年)

8   57歳~61歳(1765年〔明和2年〕~1769年〔明和6年〕)
9   62歳~63歳(1770年〔明和7年〕~1771年〔明和8年〕)
10  64歳    (1772年〔明和9年・安永元年〕)(1764年~1773年)
11  65歳~66歳(1773年〔安永2年〕~1774年〔安永3年〕)
12  67歳~没後1年(1775年〔安永4年〕~1777年〔安永6年〕)
(C) 本居宣長記念館

谷崎潤一郎の回想

「あの鈴屋の、抽出の附いた急な段梯子を持つたさゝやかな中二階、-窓を開けると、前に松の古木の植わつたちよつとした庭があつて、その葉越しに表の人通りなども見えたであらうあの部屋、-翁は彼処に机を据ゑて書き物をし、仕事に倦むとあの壁にかゝつてゐる鈴をならしたと云ふことであるが、私はあの家がもと建つてゐたと云ふ物静かな松坂の街通りと、あの中二階を思ふと、何だかあれが、四五十年前の日本橋の家であるやうな気がし、自分の少年時代の夢があのうす暗い間取りの中に漂つてゐるやうに感じるのである。」『初音・きのふけふ』昭和17年12月刊。
                     『初音・きのふけふ』より。 鈴屋への階段
(C) 本居宣長記念館

たばこ盆

宣長の書斎にたばこの煙が立ちこめていて煙くて仕方ない、という話が伝わっているが、これは宣長がことあるごとに「日本」と口にするのを面白くないと思っている人が、外国から伝わったたばこが好きなことを皮肉ったのであろう。 実際、土産でたばこやたばこ入れをもらうことは多かった。だが、宣長の蔵書や、所蔵した掛軸などにヤニの付着は見られない。果たしてどの程度吸っていたのか疑問である。

【資料】
  「或年、長瀬真幸松阪ヲ辞シテ郷里熊本ニ帰ル。一日予ヲ訪ヒ、談遊学中ノコトニ及ブ。曰ク、宣長喫烟ヲ嗜ムコト甚シク、談笑ノ裡、常ニ烟管ヲ放タズ。タメニ室内濛々トシテ白烟満チ、コトニ粗葉ナレバニヤ、臭気甚シク、座ニ堪ヘズト。烟草ハモト本邦ノ産ニアラズ。然ルヲ、国学者ニシテコレヲ嗜ムハ、其ノ意ヲ得ザル所ナリ」
        (上田一道の手記・『本居宣長稿本全集』第1輯)。


(C) 本居宣長記念館

旅立ち

明和9年3月5日(1772年4月7日)曇りのち雨。 『日記』には、「(明和九年三月)五日、行吉野観花、今朝発足、同伴、覚性院、小泉見庵、稲垣十助、同常松、中里新次郎也、今夕宿伊賀国伊勢地」(宣長全集・16-327)とあります。
(C) 本居宣長記念館

旅の新たな位置付け

行為は一度でも、新しい意義付けは何度も繰り返される。
 13歳の旅は、実感としては、「若くて記憶していない」(『菅笠日記』43歳)、事実としては『家のむかし物語』(69歳)の記述通りだが、心の中でのとらえ方は変化する。
 宣長に、吉野水分神社の申し子としての自覚の芽生えてきたのはいつだろう。母が繰り返す話が、いつしか宣長の中で大きく育っていった。
 この旅は、やがて御嶽詣でから、お礼参りの旅と位置付けられる。

 その最初は、『日記』表紙裏に書かれる次の文章だ。

 「嘗父定利嘆無子而祈嗣於和州吉野山子守明神誓曰若生男子其子至十三歳即自供使其子参詣願望不虚室家有妊産男児然所誓不遂父早逝矣児至十三歳随亡父宿誓参詣彼神祠賽謝焉」、
 「亡き父の宿誓に随い、かの神祠(吉野水分神社)に参詣し賽謝する」
と書かれる。
 書いた時期は不明だが、19歳頃、今井田家養子の前ではないかと推定される。成長して意識が変わったのだ。
  『本居氏系図 本家譜』でも、
「同二年壬戌七月詣吉野水分神社、報賽先人祈請、時十三歳也」
と、お礼参りのことだけが記される。
 菅笠の旅の時、社頭に立った宣長の脳裏に浮かんだのは、父母の思い出であり、そこからの連想としての13歳の旅であった。

旅の持参品

 宣長は「たいした日数の旅ではないので特に準備という程のこともないが、そわそわする」と書いているが、実際は、山間部を行くため、宿と言えば木賃宿。ある程度はお米や味噌なども持参したかもしれない。したがって、かなりの荷物となったはずだ。
 宣長自身が持っていた物としては、

 『大和国中ひとりあんない』木版1枚。正徳4(1714)刊。宣長書入。大和国(奈良県)の概略図。当時の旅はこの程度の簡単な地図を頼りとしていた。

  『和州巡覧記』木版1冊。貝原益軒著。宣長書入。元禄9年(1695・益軒57歳)成立。和州(奈良県)のガイドブック。平明な表現で、地域の特色をよく伝えている。広く普及し、宣長も若い頃から愛読し、簡略だが要所に宣長は書き入れをしている。

  「ぬさ袋」宣長使用。袋には宣長の「うけよなほ花の錦にあく神もこころくだきし春のたむけを」の歌が付いている。また『菅笠日記』には「明日たたんとての日はつとめてより麻(ぬさ)をきざみそそくり」とある。ぬさ(幣)は旅の途中、峠や道に祀られている神(道祖神)ささげる物。もとは木綿(ゆう)や麻で作ったが、後世は布や紙が多い。
  「このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神かみのまにまに」菅原道真『古今集』

  「伊勢茶」これは木賃宿に泊まるための、つまり自分たちで飲むお茶でしょう。思いがけず、知り合った人へのプレゼントになりました。(但し、この人との出会いはフィクションだとする説があります) このほかに、雨具、それから手帳や矢立は必携だったはずです。
                  『大和国中ひとりあんない』 『和州巡覧記』 「ぬさ袋」
(C) 本居宣長記念館

食べることより学問だ

おもしろきふみよむときは寝ることももの食ふこともげにわすれけり

  朝夕に物食ふほどもかたはらにひろげおきてぞ書はよむべき

  食ふものは満ちても消ゆる腹のうちに長く残るはよめる書なり

 これは『鈴屋集』に載り、一般に「ふみよみ百首」(実際は68首)と呼ばれている作品。「本を読むことが好きで好きでたまらない」そんな宣長の気持ちがよく表れている。こんな宣長であるから、食事はやはり二の次となったのではないだろうか。

 こんな話もある。
 宣長さんが大和国を旅していて、長谷寺を過ぎた黒崎と言うところで茶店に入った。ここは饅頭が有名で、茶店は何軒もある。有名なのは、「親の乳よりまだ甘いものは松屋の饅頭か城の口」と言われた黒崎名物松屋の夫婦饅頭だが、宣長さんは一向お構いなく、年寄りのいる店を探して入っていく。昔、年寄りの子どもの頃の話ではない。一千年以上も昔の話を聞くために茶店を選ぶのである。味より学問。
 ちなみに、この饅頭は現存しないが、大和郡山の城之口餅は今も健在である。

(C) 本居宣長記念館

『玉勝間』って面白い本?

             ら ん     
 
             和歌子
 

らんさんと和歌子さんの会話

■書名について
らん     「玉勝間」はどう読むの?
和歌子    「たまがつま」と読んで下さい。草稿本の内題には、宣長の自筆で「玉賀都万」とあり、また、巻1の巻頭歌も「言草のすゞろにたまる玉がつまつみてこゝろを野べのすさびに」とあります。本来、この言葉は、玉と言う美称と、かつま(密に編んだ篭)が結合して出来た語で、それが連濁で「たまがつま」となったのです。
らん     じゃあ、「玉勝間」というのは美しい篭という意味?
和歌子    そう。先程の歌をもう一度よく読んでみて下さい。言草(ことば)が、すずろに(思いがけなく)たまったので、美しい篭に摘もう。そうすれば、自分の心を述べる、つまり気持ちを伝えることができるし、野原での遊びとなる、気分転換となるだろうと言うの。若い頃から読書や考察を怠らなかった宣長が、その中で気付いたことを、随筆という形でまとめ、また、学者としての自分の歩んできた道を素直に語った本なのです。
 歌に「野」が出るのは、この本の清書を始めたのが、正月の子ノ日だったからよ。正月18日が子ノ日というのは、この前後だと寛政4年(1792)と、翌5年(1793)だから、どちらかの年に書き始めたということね。
 昔、宮中では、正月子ノ日には、野に出て若菜を摘む習慣がありました。美しい篭と正月子ノ日、この連想から命名されたのです。
らん     宣長の書いた本の書名には「玉」がよくついていますね。
和歌子    『草庵集玉箒』、『続草庵集玉箒』、『万葉集玉の小琴』、『玉くしげ』、『玉くしげ別巻』、『玉あられ』、『源氏物語玉の小櫛』、『玉鉾百首』、『詞の玉緒』、『玉椿』、ざっとこれだけあります。一番最初に「玉」がついたのは、39歳の時に刊行された『草庵集玉箒』かもしれません。実は、34歳の時に書いた『紫文要領』は、後に『源氏物語玉の小琴』と改められ、更に『源氏物語玉の小櫛』となったので、玉箒が最初とは明言しにくいのだけど。
らん     「玉勝間」という名前が初めて出るのもやっぱり書き始めた頃かしら?
和歌子    ところが、既に40年以上前、19歳頃に書いた『和歌の浦 二』に、「万葉拾穂抄口訣【季吟撰】」からの引用として「十二○玉勝間(タマガツマ)【本文アリ、秘訣別ニ注ス云々】」とあるのが、宣長のこの言葉との出会いの最初なのよ。
■『玉勝間』の内容
らん     ところで『玉勝間』ってどんな本ですか?
和歌子    国学者本居宣長の随筆集です。随筆と言っても、今の随筆と違って、近世考証随筆のひとつで、非常に知的な内容です。寛政5年(1793)に書き始め、亡くなるまで書き続けられました。刊行は、寛政7年から、宣長没後の文化9年(1812)にかけてされました。本文が14冊、目録が1冊で全15巻です。
らん     『玉勝間』は小項目に分かれていますが、全部で何項目ありますか?
和歌子    1,005項目です。
らん     これで完成しているわけですね?
和歌子    書簡に依れば、宣長は、もっと書き続けて行くつもりだったようです。亡くなったので果 たせなかったのですが。
らん     全部を一度に書いたの?
和歌子    材料は、二十代の頃から書き始めた『本居宣長随筆』など、長年の書きためたものですが、それを寛政元年から編集にかかり、同5年から現在のような『玉勝間』として執筆しています。先程の寛政5年着手とはそういう意味です。この時に、文章は一文字一文字まで検討され、書かれていったことは、現在記念館に残っている草稿の加筆や訂正からよくわかりますし、また、佐竹昭広氏の「玉勝間覚書」(『日本思想大系 本居宣長』)で詳しく検証されています。
らん     宣長自筆の草稿は全部残っているのですか?
和歌子    残念ながらわずかしか残っていません。またその中の一部は、現在写真でしか見ることが出来ないのです。
らん     どうしてですか?
和歌子    実は、その草稿は『草庵集玉箒巻六、七』(重要文化財)という本の裏に書かれているのです。その後、『草庵集玉箒』の稿本として綴じられたので見ることが出来ないのです。但し、重要文化財保存修理作業の時に綴じ糸を外して写真を撮影しました。
『玉勝間』の読み方
ら ん    でも、正直な話、200年も前の随筆集を今も読む人はいるのかしら?
和歌子    宣長の本の中では、よく読まれていると思います。どんな人が読むのか大ざっぱに言いますと、まず、宣長を研究する人や、宣長に関心を持つ人です。この本の中には、宣長の読書遍歴、また、研究を続ける中で巡り会った人との思い出が書かれています。また、随筆ですから、宣長が何に関心を持っていたのかが分かるのです。次に、国語の先生。先程「文章は一文字一文字まで検討され」と言いましたが、文法や語法の正しい文章で書かれているので、教材や、テストに最適なのです。但し、使われ過ぎたためか、最近の大学入試では同じ宣長の著作でも『菅笠日記』や『秘本玉くしげ』が使われているようです。次に、古典研究者です。この本には、宣長の50年に及ぶ研究の成果 がびっしり詰まっていますが、気になって書き留めはしたものの未解決なこともたくさん書かれていて、研究者にとっては宝の山となっているの。あとは、暇な読書家です。拾い読みすると実に面白いのです。たとえば、針の穴をミミヅといったとか、三味線を和歌に詠めと頼まれた話とか。1,005項目ですから、色々楽しみ方はあります。
らん     絵は入ってないのですか?
和歌子    説明のためのごく簡単な挿絵が2枚入っています。
らん     読もうと思って開いてみたら最初のページでいやになってしまいました。
和歌子    最初から読まずに、たとえば次のような順序で読んでみて下さい。
 資料編に『玉勝間抄』がありますから、次の段を探して読んでみてください。
 まず、宣長が生まれ育った伊勢の国についての概説「伊勢国」(巻14)があります。この段は「宣長さんの松坂評」をみてください。
 次に宣長の読書遍歴を見てみましょう。巻2の「ふみども今はえやすくなれる事」、「おのが物まなびの有しやう」、「県居の大人の御さとし言」、「おのれ県居の大人の教をうけしやう」を読んでいただくと、少年時代から、契沖の本との出会い、賀茂真淵(県居大人)との対面、いわゆる「松坂の一夜」までが書かれています。
 宣長の考え方を知るには、「道にかなはぬ世中のしわざ」(巻2)、「富貴をねがはざるをよき事にする論ひ」(巻3)、「うはべをつくる世のならひ」(巻4)、「金銀ほしからぬかほをする事」(巻12)、「しづかなる山林をすみよしといふ事」(巻13)、「一言一行によりて人のよきあしきをさだむる事」(巻14)を読んで下さい。たとえば、「金銀ほしからぬかほをする事」では、お金が有れば本も買えるから、ありがたいが、あまり金々言うよりは、いらとぬ言っている方がよいと言っています。私たちの感覚、価値観と大変よく似ていると思いませんか。しかし、宣長はそのような中でも自分の考えはしっかりと持っていて、本質を見逃すことはありません。「世の人仏の道に心のよりやすき事」(巻7)や「道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事」(巻7)は、そのような冷静な目で見た文章です。
 学者、また師としての宣長の意見は、「師の説になづまざる事」(巻2)、「わがをしへ子にいましめをくやう」(巻2)、「玉あられ」(巻6)、「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」(巻7)の外、あちこちに出てきます。
 宣長は、好みがはっきりしていた人ですが、好きな花や場所などを知りたかったら「花のさだめ」(巻6)、「絵の事」(巻14)、「おのが京のやどりの事」(巻13)や、先にあげた「伊勢国」を見て下さい。
らん     聞いているだけで頭がくらくらしてきました。
和歌子    読んでみると存外面白いと思います。読み方は、ざっと飛ばし読みして、また後から読み直す、これが秘訣です。宣長が『うひ山ぶみ』でも言っているように、「初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつ」るようにして下さい。音読するのも良いかもしれません。
らん     ところで、宣長の悩みとかは書かれていませんか?
和歌子    学者としての悩みは、最後の段「道」(巻14)にも書かれてますし物忘れするようになったと言う程度のことは書かれています(巻4「わすれ草」)が、本書の執筆目的は、国学者として、後世に書き残しておきたいことですから、自分の回想でも、書く以上は、何か意味があるのです。まったく個人的なことは、求める方が無理ですよ。
らん     この本に一番よく出てくる人は誰ですか?
和歌子    日本人では契沖、賀茂真淵、神武天皇の順です。また、日本人以外では、孔子が多いですね。
らん     ほかに面白い箇所はありませんか?
和歌子    「もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事」(巻10)では、百科事典があったらなあと言っています。もちろん百科事典ということばはありませんが。
 余談だけど、その中で『和名類聚抄』についても触れていますが、例えば宣長の使った『和名類聚抄』への書き入れが『玉勝間』の「味醤(噌)」と言う項目へと発展していったの。  
  また、これから子供が生まれるという方には「今の世人の名の事」(巻14)はぜひ読んでいただきたいと思います。また「十二支の巳を美(み)といふ事」(巻8)を読むと、宣長っていろんな事を考えていたんだなあと感心されると思いますよ。「手かくこと」(巻6)もぜひ読んで下さい。宣長が自分の書く文字についてどう考えていたか分かります。
らん     最後に、もし全部見たい時はどうすればいいのかしら。
和歌子    残念ながら、すぐに買える本はありません。でも、岩波文庫本はたまに再刊されるので気を付けていると入手できます。索引が付いていて便利です。また岩波書店の「日本思想大系」の『本居宣長』にも入っています。これは簡単だけど注釈が付いています。もう一つは筑摩書房『本居宣長全集』第1巻です。これは少し高いけど定本となる本です。
 あとはこのCD-ROMのあちこちに引用してあるからぜひ色々な画面を開いてみてね。


『玉勝間』(たまがつま)

 本居宣長の随筆集。14巻、目録1巻。刊行は、寛政7年(1795)から文化9年(1812)。読書の時の抜き書きや、読書遍歴、また賀茂真淵との出会いなど、読んでもらうことを目的として選び、また書いた1005項目を載せる。数多い近世随筆の中でも、刊行されたものとしては、分量が多い部類に属するだろう。
 文章の妙を見せ、個人的な感想を述べる現代の随筆(エッセイ)と違い、近世随筆と呼ばれるジャンルは、考証や抜き書きが多く、自らの感想や意見を述べることはむしろ少ない。だが、本書は硬軟バランスよく配列してあり、読み物としても最上のものとなっていて、愛読者が多い。また、「宣長」と言う人を知る上でも基礎資料となっている。巻14の途中まで清書して没したため、大平の息子・建正が後を継いで完成させ、奥書を書く。
                       「玉勝間」 国重文 草稿本 第一冊

『玉くしげ』

天明7年(1787)12月、宣長は門人で紀州御勘定方役人(服部中庸か)の勧めで本書を藩主・徳川治貞に奉った。
『キ(玉偏に幾)舜問答』に

「紀公ノ仰ありて、著せしには非ず、紀州御勘定方の小役人に、我門人あり、先紀公の節に申は、御国の為なる事、何にぞ著せ、取次て御覧に入べしと、誘ひしによりて書し也」
とある。

 その内容は、宣長が研究し明らかにした「古道」精神を政治に反映させようとするもので、書名は、本書に添えた「身におはぬしづがしわざを玉くしげあけてだに見よ中の心を」という歌に由来する。

 また、その時に『玉くしげ別巻』も添えた。本巻は上下2巻で、その内容は実際具体的な政策論である。例えば、藩政のスリム化や百姓一揆などへの対策などが語られる。別巻はその「大本のわけ」つまり理念編である。本書はその後享和元年(1801)、時の藩主・徳川治宝から大平に対して、清書して献上するように命ぜられたこともある。(『本居宣長稿本全集』1-791所収、4月15日付大平書付)。
 理念編である『玉くしげ別巻』は、『玉くしげ』と名前を改め、寛政元年(1789)、横井千秋の序を附して刊行された。一方、本来の『玉くしげ』は、宣長没後、嘉永4年(1851)5月、座間(イカスリ)神社・佐久良東雄により『秘本玉くしげ』2冊として、木活字版で刊行された。
(C) 本居宣長記念館

『手枕』(たまくら)

 雅文体の物語。舞台は『源氏物語』。六条御息所と光源氏のなれそめを描く。書名は光源氏の「かはすまもはかなき夢のたまくらになごりかすめる春の夜の月」から採る。展開はもとより文章まで『源氏物語』をよく模し、宣長の『源氏物語』研究、また読み込みの深さを遺憾なく発揮している。
 成立は宝暦13年。北岡四良「宣長の「手枕」」(『近世国学者の研究』・皇學館大學出版部刊)、また源氏物語研究者の立場からその説を検証した中川タダ(立偏に争)梵「宣長の源氏学-『手枕』について-」(『源氏物語の研究と鑑賞』・翰林書房刊)に詳しい。今その説に従う。大館高門により刊行された。また『鈴屋集』にも載る。


(C) 本居宣長記念館

魂の行方

 死んだら夜見国に行くかもしれない、と宣長は考えた。

「されば人の死て後のやうも、さらに人の智(サトリ)もて、一わたりのことわりによりて、はかりしるべきわざにはあらず、思ひのほかなるものにぞ有べき、これを思ふにも、皇国の神代のつたへ説(ゴト)に、夜見(ヨミノ)国にまかるといへるこそ、いといとたふとけれ、から国のことわりふかげなる、さかしき説どもは、なかなかにいとあさはかなること也かし」「人のうまるゝはじめ死て後の事」
『玉勝間』巻11 。
 ところが、篤胤は、『霊能真柱』(タマノミハシラ)で、人が死ぬと黄泉国に行くという宣長説は、先生がふと誤られただけであるという。そして、先生の魂も黄泉の国には行かず別の場所に行かれたのだ。その場所を私は確認している、と自信を持って断言する。
 篤胤が言うには、宣長先生はそこで穏やかに泰然としておられ、先だった学兄たちを集め、歌を詠み、文を作り、そして生前の自分説の洩れたところや誤った点を、再度考え直し、新しい説を立てられる。そして、自分では発表できないので、これは誰それが熱心だから彼の頭に思いつかせようと、お考えになっておられることは、間近に見るように疑う余地のないことだ。【原文・1】

 では、肝心の宣長先生の魂はどこにいると言うのか。
 篤胤は断言する。「山室山」であると。
 宣長先生は、人の霊魂が黄泉国に行くという説を訂正することが出来なかったが、だが、昔から墓は魂を鎮めるために築くのだからと、墓所を予め造って置かれた。その時の歌が「山室に」であり「今よりは」だ。これは霊魂は、予め定めたところに鎮座することが出来ることに気づかれたからで、まして山室山は、生前からここに自分の千世のすみかを決められたのだから、ここに師の霊魂が鎮座することは明白だ。そのさっぱりした気持ちを詠まれたのが「敷島の」の歌だ。その花と一体となる魂の宣長先生がどうして汚い黄泉国に往かれようか、往かれるはずはない。【原文・2】

 (魂の行方を生前決めることが出来るとするなら)私が死んだらどこに往くか、それは早くから決めてある。 「なきがらは・・」つまり遺体はどこに埋葬されても魂だけは先生の側に参ります。
今年亡くなった妻と連れ立ち、いぶかしく思うかもしれないが、可哀想にこの妻は私の国学研究を助けるところ大で、その苦労で病気になり死んだのだ。だから連れ立ってと言うのだ。それについては別に書いて置いた。 死んだら直ぐに空を飛び、先生の前に参り、生前は怠った和歌について聞かせてもらい、春は先生が植えられた桜を先生と一緒に愛で、夏は青葉を、秋は紅葉や月を見よう。冬は雪を見てゆったりとした気分で永遠の時を過ごしたい・・【原文・3】

 この篤胤の遺志を尊重し、幕末、時代が明治に代わる直前、宣長先生の奥墓前に「なきがらは」の歌碑が建立された。また、明治になって、山室山神社と言う、宣長、篤胤を祭神とする神社が奥墓の横に祀られたのもこのためである。  その歌碑も、現在の場所から、植松有信歌碑の近くに移転する計画が進行中である。このCD-ROM完成の頃にはきっと付近の景観は一新しているはずだ。

【原文・1】
「師の翁も、ふと誤りてこそ、魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、彼処(カシコ)ぞといはれつれど、老翁(オヂ)の御魂(ミタマ)も、黄泉国(ヨオツノクニ)には往坐(イデマ)さず、その坐(マ)す処(トコロ)は、篤胤(アツタネ)たしかにとめ置きつ、しづけく泰然(ユタカ)に坐まして、先だてる学兄達(マナビノイロセタチ)を、御前に侍(サモ)らはせ、歌を詠(ヨ)み文(フミ)など作(カ)き、前(サキ)に考(カンガ)へもらし、解誤(トキアヤマ)れることもあるを、新(アラタ)に考へ出(イデ)つ。こは何某(ナニガシ)が、道にこゝろの篤(アツ)かれば、渠(カレ)に幸(チハ )ひて悟らせてむなど、神議々(カムハカリハカリ)まして、現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬ をや」

【原文・2】
「然在(シカラ)ば、老翁(ヲヂ)の御魂(ミタマ)の座(オハ)する処(トコロ)は、何処(イヅコ)ぞと云ふに、山室山(ヤマムロヤマ)に鎮座(シヅマリマ)すなり。さるは、人の霊魂(タマ)の、黄泉(ヨミ)に帰(ユク)てふ混説(マギレコト)をば、いやしみ坐(マ)せる事の多(サハ)なりし故(カラ)に、ふと正(タダ)しあへ給はざりしかど、然(シカ)すがに、上古(イニシヘ)より墓処(ハカドコロ)は、魂を鎮留(シヅメトド)むる料(タメ)に、かまふる物なることを、思はれしかば、その墓所を、かねて造(ツク)りおかして、詠(ヨ)ませる歌(ウタ)に、
  山室に ちとせの春の 宿(ヤド)しめて
          風にしられぬ 花をこそ見め
また、
  今よりは 墓無(ハカナ)き身とは 嘆かじよ
          千世の住処(スミカ)を 求め得つれば

と詠(ヨマ)れたる、此は凡て神霊(タマ)はこゝぞ住処(スミカ)と、まだき定めたる処に鎮居(シヅマリヲ)るものなる事を、悟(サト)らしゝ趣なるを、まして彼山は、老翁(ヲヂ)の世に坐(マシ)し程(ホド)、此処(ココ)ぞ吾が常磐(トコトハ)に、鎮坐(シヅマリヲ)るべきうまし山と、定置(サダメオ)き給へれば、彼処(カシコ)に坐(マ)すこと何か疑(ウタガ)はむ。その御心(ミココロ)の清々(スガスガ)しきことは、

  師木島(シキシマ)の 大倭心(ヤマトゴコロ)を 人とはゞ
          朝日(アサヒ)に匂(ニホ)ふ 山さくら花

その花なす、御心の翁(オキナ)なるを、いかでかも、かの穢(キタ)き黄泉国(ヨミノクニ)には往(イデ)ますべき」

【原文・3】
「さて、此身死(マガ)りたらむ後に、わが魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、疾(ト)く定(サダ)めおけり、そは何処(イヅコ)にといふに、

   なきがらは 何処の土に なりぬとも
          魂(タマ)は翁の もとに往(ユ)かなむ

今年先(コトシサキ)だてる妻(イモ)をも供(イザナ)ひ【かくいふを、あやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此女よ、予が道の学びを、助成せる功の、こゝらありて、その労より病発りて死ぬれば、如此は云ふなり、それは別に記せるものあり】
直(タダチ)に翔(カケ)りものして、翁の御前(ミマヘ)に侍居(サモラヒヲ)り、世(ヨ)に居(ヲ)る程(ホド)はおこたらむ歌のをしへを承賜(ウケタマ)はり、春は翁の植置(ウヱヲ)かしゝ、花をともども見たのしみ、夏は青山(アヲヤマ)、秋は黄葉(モミヂ)も月も見む、冬は雪(ユキ)見て徐然(ノドヤカ)に、いや常磐(トコトハ)にはべらなむ」

玉津島神社

 宣長が、和歌山に到着するのを迎えた人の中に、玉津島神社の神主高松房雄がいた。早くから宣長と文通して、『古事記伝』や『馭戎慨言』を借覧していた門人である。
 この神社の祭神は、稚日女(ワカヒルメ)尊、息長足姫(オキナガタラシヒメ)尊(神功皇后)、衣通姫(ソトオリヒメ)尊。特に余りの美しさが衣を通して輝いたという衣通姫は、和歌の神様でもあり、宣長にも特別な宮だったと思われる。和歌山滞在中、何度かここに足を運んでいるが、行けば神主は喜び、饗宴が始まるのだった。

  玉津嶋の神主高松房雄主の家にてひるのあるじせられたる、
  あるじに盃さすとて
 道守る此の神垣ともろともに千世もめぐらむけふのさかづき

  此のわたりめづらしき石の多かるを一つ二つひろひて
 来て見ても玉しらぬ身は石をのみひろひてかへるわかのうら波

 和歌山は美しい地名が多い。秋月、鳴神、鷺の森、そして和歌の浦には芦辺、片男波(カタオナミ)、名草山(ナグサヤマ)、玉津島などなど。特に玉津島は、奠供山、雲蓋山、妙見山、船頭山、妹背山、鏡山の六つが、昔は海に浮かぶ島であったのを、眺望し、玉のような島だという意味で命名されたという。
 拝殿後ろには、山の中程には美しい社殿、その下には根上松がある。玉津島神社は、中世には社殿が無く、代わりにこの松を拝んでいたという有名なもの。根上松というのは、これ以外にも周囲には多かったようで、宣長も歌に詠んでいる。また、反対側の山道を登ると、ここが奠供山(テングサン)。和歌浦を一望の下に望むことが出来る。
神社の扁額。
後奈良天皇宸翰を写したもの。
神社に植えられたサキガケザクラ。
和歌山大学名誉教授多田道夫先生推奨の桜の花。



(C)本居宣長記念館

『玉鉾百首』

 本居宣長詠。古道精神を詠んだ100首と、「あまり歌」として歴史上の事件を詠んだ歌32首を載せる。万葉仮名で書かれていて、歌のために文字の数など制約もあり、読むのは困難。そこで門人たちが注釈を試みたが、完成したのは大平の『玉鉾百首解』2巻である。天明6年(1786)頃成立。翌天明7年(1787)刊行。
 明治になってからも刊行されたが、徳川家康を讃美した歌を削り、代わりに「本末歌」を載せる。以前は岩波文庫でも読めたが、今は読む人はいない。でも、宣長思想を理解するためにも、また古代日本人の世界観とか価値観を知る上でも一読に値する。

誰が真福寺本『古事記』を持ってきたのか?

 宣長は、この『古事記』を、どうやって見たのだろう。

 通説では、真福寺本『古事記』調査の命が、尾張藩から藩士・稲葉通邦に下ったのは寛政9年7月とされている(『尾張名古屋の古代学』・名古屋市立博物館)。
 でも、宣長の証言では、天明6年に「写本」をするように藩命が下ったという。ここに11年の開きがある。
 恐らく、正式な調査命令の前に、事前調査として稲葉通邦あたりが写本を作り、宣長に内容についてコメントしてもらい、その後の藩命による正式調査が行われたと言うことではないだろうか。

 宣長が校合した天明7年、通邦はまだ宣長門ではないが、尾張徳川家の中では重臣・横井千秋などが宣長の『古事記伝』刊行に向けて尽力していた時期であり、通邦もそのことは熟知していたはずだ。あるいは千秋からの働きかけがあったかもしれない。
 
  宣長自身は、提供者について、何も言っていない。

【参考資料】
宣長手沢本『古事記』の奥書に、宣長による次の一文が貼り付けられる。

「右真福寺ハ尾張国愛智郡名古屋城下ニアリ。北野山真福寺宝生院ト号ス。俗ニ大須(オホス)観音ト云。真言宗也。往古在美濃国中島郡大栖ノ庄北野村ニアリシトゾ。サテ此寺ニ五百年前ノ写本ノ蔵書多シ。コレ根来ノ蔵書ヲ写セル也ト云伝フ。又、北畠氏ニ所以アリテ、伊勢神宮ノ蔵書ヲモ多ク写シ取テ蔵ス。古事記モ其内也トゾ。天明六年丙午年尾張殿ノ命ニテ右蔵書ヲ写セラルヽトキ、写手ノ人別ニ私ニ写シ取レルトコロノ本ヲ、此度借リ寄セテ全部校合スルモノ也。天明七年丁未四月十四日校合終業。本居宣長(花押)」
                        『古事記』宣長手沢本奥書

端午(たんご)

「端午」とは月の5日を指す。特に5月5日は五節句の一つで、端午と言えば5月の専売特許となった。ジトジトした季節だけに、菖蒲を身に帯びて邪気を払う風習があった。
「菖蒲」は「尚武」に通じる。やがて端午(菖蒲)の節句は、男の子の祭となった!
 菖蒲湯に入ったときに私達を包むあの薫りは、時空を越えて昔と今をつないでくれる。鮮烈な薫りは日本でも中国でも魔よけであり、根は長寿の薬となった。
(C) 本居宣長記念館

短冊

 短冊とは和歌などを書く細長い紙だ。
 本来は、メモ用紙だった。今も七夕では笹の葉にぶら下げたりするのがその名残だ。物の本によると、「短冊」と言う言葉は平安時代からあった。メモ用紙として、古代の「木簡」に代わり使用されていた。それが歌会での題を引く「くじ」に使われたことからいつしか(鎌倉時代中頃か)和歌を書くようになり、やがて寸法や料紙なども定まってきた。昔のごく一般的な短冊は材質は鳥の子紙か檀紙、模様は雲形(内雲り)、寸法は縦30cm、横6cm位である。

 宣長は好んで短冊に歌を書き、またそれを与えた。『本居宣長四十四歳自画自賛像』の机上にも置かれている。
「はたかなへ頼之歌扇面へ相認候義は、近年何方も断申候事故、別にたんざくへ相認遣申候」(寛政10年5月24日付植松有信宛書簡)
と、扇面へ歌を書くことを断わるかわりに短冊は許諾したこともある。師の賀茂真淵が短冊を備忘書とし、遺さずまた人に与えなかったのとは対極を為す。参考までに、真淵の短冊は「珍短」と愛好者の間では言われ、現存する自筆は10数枚と言われている。

 さて、宣長は短冊を歌会でも使用し、題は他筆、歌が自筆というものも残る。宣長の好みの短冊は、打曇で上が藍、下が紫のものが多い。金などの派手なものは余り好まなかった。大きさは平均すると縦35cm、横5.5cm位である。小短冊はあるが、大短冊はない。

 短冊は宣長にとって和歌はその学問の一つの柱、あるいは基礎であると共に、生涯を通しての楽しみでもあり、また、晩年にはその家計を助ける術ともなった。宣長はあまり派手な短冊は使用していないが、一族の短冊は美しい図柄のものがあり、個人の好みやまた書かれる書体美ととともに目を楽しませてくれる。また門人たちも師に倣い、多くの短冊が今も残される。
                      本居宣長短冊 「鴨川納涼・ 嵯峨山松」             

誕生

 享保15年(1730)5月7日(陽暦6月21日)深夜、宣長、伊勢国飯高郡松坂(三重県松阪市)に生まれる。もう梅雨に入っていたか。父は同町本町の木綿商小津三四右衛門定利、母は村田孫兵衛豊商の娘、お勝。幼名は冨之助。宣長は、父定利が大和国吉野水分神社に祈誓して生まれた子であると言うことを終生信じた。
(C) 本居宣長記念館

『胆大小心録』(たんだいしょうしんろく)

 上田秋成の随筆。文化5年(1808)成る。163章。異本もある。晩年の秋成が思うままに書きつづったもの。というより大半は毒舌。
 京都は「不義国の貧国じや」、富士谷成章は「あほう」、書家・加藤千蔭は字もたいしたことがないし歌も下手で文盲だが、上手いこと大黒様が家に入ったので繁盛するだけだ。宣長は「尊大のおや玉」で、
 「ひが事をいふて也とも弟子ほしや古事記伝兵衛と人はいふとも」
と言いたい放題。その中にも、自分の生い立ちや、また狐や狸が人を化かすことを真面目に論じ、秋成という人を知る上では欠かすことが出来ない資料である。

【翻刻】
『日本古典文学大系』「上田秋成集」 『上田秋成全集』第9巻。

知恩院(ちおんいん)

 19歳の時、宣長は浄土宗の総本山・知恩院に参詣。御座敷を拝見し、通誉(ツウヨ)上人御塔前に参詣している。また、この時、大僧正より十念を授る。通誉上人(1647~1716)は、樹敬寺23世・超誉祖山上人の直弟子。知恩院44世となる。本居家過去帳の「南無阿弥陀仏」と言う字は通誉上人の筆であるから、懐かしく墓参したのだろう。
                           「知恩院三門」

地図と系図

 宣長は地図と系図が好きだ。空間の広がりと時間の流れ、これは「国学者・宣長」の背骨である。宣長はその背骨に、歴史書や和歌、また物語、説話などで肉付けをしていった。反対に言えば、歴史書はもちろん、物語や和歌、また言葉にでも宣長は時間の流れとか空間の広がりを見ていた。

 少年の頃から、地図や系図が好きだった。 15歳の時に『神器伝授図』と『職原抄支流』を書写する。いずれも長さが10mもある紙に細字でびっしり書かれている。『神器伝授図』は三皇五帝から清に至る中国の王朝、皇帝の推移を細密に図示したもの。写しであるが原本については不明。『職原抄支流』は北畠親房が書いた故実書『職原抄』の注釈書。今のませた中学生や高校生が図書館や祖父の書架でちらりと覗くことはあっても、全巻精写するような本ではない。ここで宣長を理解する一つの鍵がある。「連続」、「断絶」である。中国の歴史で皇帝の家系が交代したときには赤の線が引かれる。長い中国の歴史は常に権力抗争の歴史でもあった。一方、『職原抄支流』は、日本の宮廷の制度を書くが、こちらは時間は短いとはいえ連綿と続いている。
 やがて京都の町への関心(『都考抜書』)、また和歌への関心も芽生える(『和歌の浦』)が、そこにも連続するものへの尊重の念があることは言うまでもないことである。

 また、17歳の時、『大日本天下四海画図』を作成した。縦122.0糎、横195.0糎。畳一畳よりも少し広い。売っている地図では満足できずに工夫をしながら描いたというのだが、ここからは「日本」と言うレベルで把握する「国学者・宣長」の萌芽を見ることが出来る。

 また、18歳頃から、不思議な系図を作成し始めた。『端原氏物語系図』である。出てくる端原氏もまた元号もすべて架空。その翌年延享5年(1748)3月27日には、端原氏の町も作った。『端原氏城下絵図』である。
 宣長は物語を創作しようとしていたのではないか、という岡本勝氏の説もあるが、日野龍夫氏は、「宣長には「端原氏物語」を小説として書く意図は、はじめからなかったのではあるまいか」(「本居宣長と地図」『新潮』・1983-11)と言う。氏も指摘するように、少年期の地図や系図に対する関心、とりわけ細部へ細部へと向かうその指向性を見る時、宣長は「物語」ではなく「世界」を想像しようとしていたのかなも思えてくる。

【参考文献】
 端原氏の系図と絵図は『松阪市史』巻7で見ることができる。


(C) 本居宣長記念館

父・定利の死

 元文5年3月、父定利、は江戸店建て直しのため江戸に出立する。体の調子が思わしくなかったのか、同月、遺言を執筆する。
 元文5年3月付、小津源四郎、同宗五郎、両家手代中宛の主たる内容は次の通り。

1.唱阿の遺言で小津八郎治と共同経営していたが、八郎治に損失が生じ「五年以前辰ノ年町内より合力を請相続致候得とも、借金夥敷有」ったので、有金も借金共に引き取った。依って八郎治分は無い。ただ小遣いだけは渡していた。所が今回の不都合で店の存続も危うくなってきたので、有り金を以て借金の返済に充て、残った金はたばこ店で運用するようにした。蔵店名代など資産を処分すると少々は残金も出るだろうが、その時も八郎治分は無い。ただ余裕が出てきたら小遣いとして渡すとよい。金額はその時による。
2.嘉兵衛、八郎兵衛に渡す金額。
3.宗五郎に相続の意志がないときは、富之助に相続させること。
4.八郎兵衛が店をつぶしたやり口は何とも理解が出来ないので以上のように記す。 また、「覚」に嘉兵衛等に渡す分その他を記す。(『松阪市史』・12-513)。 定利は、経営破綻の遠因は八郎次の失敗と、その息子の八郎兵衛の悪行にあると考えていたようである。因みに八郎次は「富之助」命名者である。
 5月、江戸の父定利は、再度、遺言を執筆する。
 5通ある。1枚は付紙。
(1)おかつ宛・「申ノ五月日」。主たる内容は次の通り。
1.私が死んだら、体に気を付け、子供を育て、先祖の名跡を相続させるようにすること。そちら(其元)の借金は返済したはずである。
2.「覚」として金の分配方法。
3.江戸店はどうなるか分からないが万が一の時はそちらで残した資本で渡世すること。 付紙、おかつ宛・八郎兵衛の所業は理解に苦しむ。世話など頼むことはしてはいけない。宗五郎が次いでくれない時は、(隠居家)源四郎の手代の力を借りて小さくても店を維持し、富之助の成人まで持ちこたえて欲しい。
(2)小津忠兵衛、同武兵衛、左七宛  
伊勢には別紙で指示しておいたが八郎兵衛には50両渡すこと。名跡は宗五郎の病気が快気したら江戸に来て相続させたいが、望み無いときは富之助にしたい。
(3)小津忠兵衛、同武兵衛、左七宛
八郎兵衛の所業は理解に苦しむ。世話など頼むことはしてはいけない。名跡は宗五郎に譲りたいが、望み無いときは富之助にしたい。
(4)小津忠兵衛、同武兵衛、左七、八郎兵衛宛  
私の死亡時には手続きを行い、借金を返済し、こちらが済んだら伊勢の方を片付けてほしい。詳しくは伊勢に書き記した物を置いてあるのでそのようにして先祖名跡相続するようにしていただきたい。(『松阪市史』・12-514)

 それから3ヶ月後、閏7月23日、父定利は江戸店にて病死した。法号は場誉直観道樹大徳。遺骨は江戸本誓寺と樹敬寺に分骨した。『本居氏系図』「本家譜」には、「元文五年庚申閏七月喪考」(宣長全集・20-85)。『家のむかし物語』には
「元文五年庚申の三月に、江戸に下り給ひ、其年の閏七月病して、廿三日の夜の戌ノ時ばかりに、かしこの大伝馬町一町目の店にして、四十六歳にてかくれ給ひぬ 、忌日をば廿四日とす、火葬して、遺骨をかの地の本誓寺と、こゝの樹敬寺とに分ちをさめぬ」(宣長全集・20-23)
とある。
 訃報が届いた夜を次のように回想する。
「元文五年、十一歳の時、道樹君におくれまゐらせぬ、そもそもそのをりの事よ、かくれ給ひぬるよし江戸より、早便して告おこせたる、それよりさきに、おもく病み給ふよし告たる状と、事きれ給へるよし告たると、同じ夜に、ふけて来つきて、門たゝきてもて来たるに、恵勝大姉のいみしく驚きて、かなしみ泣給ひしこと、われもわらは心に、いとかなしかりし事など、今もほのかにおぼえたるを、思ひ出るも、夢のやうにかなし、かの御面影は、たしかにおぼえてある也」(宣長全集・20-27)。


(C) 本居宣長記念館

父と母

 43歳の春、吉野水分神社に詣った宣長は、亡き父母のことを思い、歌を詠んだ。

「思ひ出る そのかみ垣に たむけして 麻よりしげく ちるなみだかな」

 父母の思い出のある神社に参詣し、神の手向けにと撒く幣(ぬさ・麻)よりも、涙は止めどなく流れてくる。
父は早く11歳の時に逝き、母も39歳の時に逝った。

 これからさらに27年後、再び社頭に立った宣長は、
 父母の むかし思へば 袖ぬれぬ 水分山に 雨はふらねと
 みくまりの 神のちはひの なかりせは うまれこめやも これのあかみは

などの歌を詠む。(『寛政十一年若山行日記』「よし野の歌」・推敲後『鈴屋集』巻4に「吉野百首」として載せる)

 この社は、父母へと宣長を導く場所となったのだ。

【原文】 『菅笠日記』
 「此御やしろは、よろづのところよりも、心いれてしづかに拝み奉る、さるはむかし我父なりける人、子もたらぬ事を、深く嘆き給ひて、はるばるとこの神にしも、ねぎことし給ひける、しるし有て、程もなく、母なりし人、たゞならずなり給ひしかば、かつがつ願ひかなひぬと、いみじう悦びて、同じくはをのこゞえさせ給へとなん、いよいよ深くねんじ奉り給ひける、われはさてうまれつる身ぞかし、十三になりなば、かならずみづからゐてまうでて、かへりまうしはせさせんと、のたまひわたりつる物を、今すこしえたへ給はで、わが十一といふになん、父はうせ給ひぬると、母なんもののついでごとにはのたまひいでて、涙おとし給ひし、かくて其としにも成しかば、父のぐわんはたせんとて、かひがひしう出たゝせて、まうでさせ給ひしを、今はその人さへなくなり給ひにしかば、さながら夢のやうに、

  思ひ出るそのかみ垣にたむけして麻よりしげくちるなみだかな、

袖もしぼりあへずなん、かの度は、むげにわかくて、まだ何事も覚えぬほどなりしを、やうやうひととなりて、物の心もわきまへしるにつけては、むかしの物語をきゝて、神の御めぐみの、おろかならざりし事をし思へば、心にかけて、朝ごとには、こなたにむきてをがみつゝ、又ふりはへてもまうでまほしく、思ひわたりしことなれど、何くれとまぎれつゝ過ぎこしに、三十年をへて、今年又四十三にて、かくまうでつるも、契りあさからず、年ごろのほいかなひつるこゝちして、いとうれしきにも、おちそふなみだは一つ也」


(C) 本居宣長記念館

『地名字音転用例』(ちめいじおんてんようれい)

 本居宣長著。寛政11年(1799)6月刊。
 「信濃」でどうして「シナノ」と読むのか。本当ならシン・ノウではないか。「相模」を「サガミ」となぜ読むのか。このような、本来の漢字の音が地名表記の際に転用されていく実例を挙げその法則性を探ろうとした本。

  上代の日本の地名表記は、和銅6年(713)5月の詔勅で「畿内七道諸国郡郷の名、好(ヨ)き字を著(ツケ)よ」とされ、『延喜式』「民部式」で「みな二字を用い必ず嘉名(カメイ・好い名)を取れ」と書かれるように、好い字二文字という原則があった。そのために本来の漢字音とは異なる文字の使い方が見られた。古代の地名については『古事記雑考』でも地名として挙げ、また「雑考」からは少し遅れる明和6、7年頃には、『地名字考』を書く。それを改訂補正したのが本書である。

 寛政10年11月11日版下、袋、外題を板木師に送る。翌寛政11年2月、初稿。3月7日、2校。6月11日版本出来る。

【翻刻】
『本居宣長全集』5巻

【参考文献】
「『地名字音転用例』が論じたもの」犬飼隆『鈴屋学会報』15号。


(C) 本居宣長記念館

茶店の女

 俗曲に、「お伊勢参りしてこわいとこどこか、飼坂、櫃坂、鞍取坂、つるの渡しか、宮川か」と歌われた「飼坂」を越える。峠の上には名物の茶店がある、店の女が旅人の袖を引く。 この日の大平の『餌袋日記』の記述は次の通り。

「十四日、明わたるほど、霧やうやう晴ゆきて、見まはせば、この里も、いとふかき山のおくなりけり、空はなほくもりたれど、雨はふらず、かのおきつといひし里より、いとけはしき坂をのぼる、これぞこの、道のあひだにいみじき物に、きゝわたりたる、かひ(飼)坂なりける、からうじて、たむけ(峠)にのぼりいたりたる、道のかたはらにあひむかひたる茶屋ありて、こゝらのをんなども手うちならして、まねきなどして、まを(申)しまを(申)し、こなたに、こなたにと左右より、かしがましう、よびさへづるも、めづらし、さて山をくだれば、やがて多気なりけり、こゝはむかし北畠の君の、よゝへて、すみ給へりし所にて、大人は、例のねもごろにそのふりぬる跡どもたづね給ふ、また下たげといふを過て、同じやうなる山道を遠くゆきて、小川といふ里に来たるほど、堀坂山の、うしろのかたをむかひに見渡したる、わが郷より、あけくれに、見なれたる山なれば、まづいとなづかし、
 故郷を思ひやりつゝいつしかと見まくほりつるほり坂の山、 伊福田、与原を過て、この堀坂のたむけに、のぼりたつきたるほど、入海はるかに見わたさる、日ごろの山ぶところを、出はなれて、かく見はらしたる、いはんかたなくめづらし、
 住なれし故郷ながらかへり来て見るめめづらしいせの浦波、 さていせ寺にくだりて、家には日くれはてゝなん、かへりつきぬる」
 客引きの女が「もうし、もうし、こなたに、こなたに」と旅人の袖を引く。

 明和5年、つまり宣長が通過する4年前の「幸講定宿帖」には、「茶屋二軒あり、ちから餅とて小豆のもちうる、五文づつ、下女あまた出てとめる」とある(『伊勢本街道』下・上方史跡散策の会編・向陽書房)。大平17歳の春である。
(C) 本居宣長記念館

中衛(ちゅうえ)

 宣長の通称。寛政7年(1795)2月16日より使用。『日記』に「予改春庵称中衛」とある。実は、寛政5年に門人・横井千秋のために改名案として宣長から提示された内の一つ(この時にはやはり提示された中から「田守」が選ばれた)。「中衛」と言う官職名については宣長自身が寛政7年8月11日付長瀬真幸宛書簡に

「愚老俗称相改申候、中衛(チウエ)ハ古ヘノ官名ニ而、後ニ改リ申候、古ヘハ近衛中衛ト相並候を、近衛ヲ左近衛ト改メ、中衛ヲ右近衛ト改ラレ候也、万葉ニモ中衛閣下ト御座候」
と説明する。「中衛府」は神亀5年(728)8月に置かれた専ら禁中警護を掌る令外官。天平神護元年(765)授刀衛が近衛府となり天皇の親衛を相対するまでは特権的地位にあった。大同2年(807)、近衛府を左近衛府、中衛府は右近衛府と改称され名称は消滅した。


(C) 本居宣長記念館

中衛時代の始まり

                            本居中衛
中衛の署名
 「3つの大きな出来事」の中でも書いたが、2月の出来事の中に「春庵」名を「中衛」に改めたことがある。紀州徳川家に仕官し、初出府も無事に済ませて十人扶持となったことが改名の理由だが、数多い宣長書簡が、この改名以前を「春庵」時代、以後を「中衛」時代とすることでも分かるように、これ以後の書簡が急激に増えてくる。現存する書簡の半数以上が中衛時代6年間の執筆である。超多忙になったのだ。晩年に向けてのラストスパートが始まる。
(C) 本居宣長記念館

中学生に導かれて

 国語学者・山田孝雄に「中学生に導かれて」という文章がある。転載する。

「中學生に導かれて 山田孝雄

 私は今世間から日本文法の専門研究をする為に生まれた人間のやうに見られてゐるやうであり、又辞書の編纂に心を専らにしなければならぬ為に大学を辞したので、これも亦私の畢生の事業といふ事になりさうな様子である。所が実はいづれも私としては予期しなかつたのに、かやうになつたので、いはゞ運命なのであらう。こゝにその一である文法の研究に没頭するやうになつた事情を簡単に物語る。
 私は明治二十九年に丹波篠山の鳳鳴義塾といふ私立中学校の教員として赴任した。この時はじめて中学校の教師となつたのであるが、赴任して間も無い頃に起つた事と覚えてゐる。元来この国語の教科書は私の赴任前から定められてゐて、私はたゞそれを用ゐて教授すればよいだけになつていた。その時の教科書の著者も署名も今、公にいふ事を控へるがとにかくにその教科書を使つて形の如くに教授してゐた。所が二年生の文法の教授に当つて思ひもよらぬ問題に出逢つたのである。その教科書には主格を示す助詞として「の」「が」「は」の三をあげてそれぞれの説明を加へてあつた。ここに或る一人の生徒が(その人は今、軍人として将官の地位にゐる人であらうと思ふ)「の」「が」が主格を示すというふ事はわかるが、「は」が主格を示すものであるといふ事はわからぬ。「は」は主格で無い場合にも用ゐるでは無いかといふ様な意味の質問であつたと記憶してゐる。文法に関する私の知識の貧弱な事は今も、もとよりであるが、その当時はお話にもならぬ程度で、ただ教科書の取次をするに過ぎなかつた事はいふまでも無い。この質問を受けた私は頗るまごついたのであつた。どうも考へてみると、その生徒の質問は道理の在るやうに考へらるゝ。さりとて教科書にでたらめを書いてある筈も無いと思はるゝによつて私はこゝにはたと行き詰つたが、みだりに生徒の質問を排斥するのは不都合な事であり、さりとて教科書を誤りとするだけの見識も私には無かつた。そこで次の授業時間まで熟考するといふ事にして、一時その場はのがれた訳であつた。さて一週日の間千思万考するに、その教科書の説を生かすべき理由はどうしても見出されず、その生徒の質問はますます道理あることが明かに考へられて終には動すことの出来ない事であると考ふるやうになつた。そこで止むを得ず、私は次の授業の際に、私の研究の結果、教科書の説明が承認し難いものであつて、その某生の質問の方が道理であると思ふ旨を告げた。なほ当時著名な大家の著でもあり、又文部省が検定して、よいと銘を打つた書をば、青二才の私が否認するのは僭上の沙汰ともいふべき事である。さりとて真理はごまかす事の出来ぬものである。そこで私は上述の事由をそのまゝ生徒に告白してかやうな教科書を、盲目的に用ゐてゐる事の不明を、公に生徒にあやまつたのである。
 それから、私はこの問題について正しい説を延べてゐる本が他に有るであらうと、手広く文法書を見たが、更にそのやうな点に触れているものが無い。そこで考へた。かやうに中学二年でもその誤がわかるやうな事を天下の大家先生に分からぬといふ道理が無いによつて、いづれ、何等かの方法で、この正しい説を発表する人があるであらうと、新聞、雑誌又新刊の書等について日本文法に関して発表する諸説に注意を極端にむけてゐた。かやうにして一箇年以上を過ぎてしまつたが、一向何等の事も見られないのである。私はこゝに更に考へた。これは容易ならぬ事である。大家といはるゝ人が、中学生でもわかるやうな誤謬を平気で説いてさて誰一人もそれを改め訂す人も無いとは余りにも情無い事である。かやうな事ではわが国語は将来といはず、遠からぬうちに悲惨な状態に陥るのでは無いか。誰がこれを救ふんであるかと世界を見まはせどもいづれも殆ど同様に、白日夢まどかといふ様な有様であつた。こゝにふと我にかへつて考へたのは、自分の本来の目的は文法といふ如き小問題には無いのではあるけれども、この悲惨事を見過して知らぬ顔して通る訳には行かぬと思ふ。これは誠に止むを得ぬ事である。火事は見付けた人間が首唱して消さねばならぬといふ事はこの事であらうとこゝに決心の臍をかため、本来の目的はまづあとゝして、この文法の悲惨事を消し止めねばならぬとこゝに自ら研究に着手した訳である。即ち私は中学二年生の指導によつて爾来、日本文法を研究して他を顧みること能はざる運命に置かれたのである。
 かやうな訳で私の文法研究の中心点は「は」といふ助詞の本性の研究であつた。所で、これについては当時の古今の文法書が一として役に立つものが無いといつてもよい程の有様であつた。たゞ「は」を特色あるものとして取扱つてあるのは本居宣長の「詞の玉緒」である。しかるに宣長の係詞といふものゝ本体が一向にわからないのであつた。そこで、私は禍源は「詞の玉緒」にあるのであらうと思ひ「詞の玉緒」を打破するにあらずは国語の真価は分らぬのであらうと思つた。そこで一方では「詞の玉緒」をめの敵のやうにし、一方では一切の文法現象の上に横はる理法とその奥に存する本性とをつきとめようとした。これについては随分むだな事をしたと思ふ事もあるが、しかし、それもやはり一の学問で在つたと今は思ふ。かやうにして種々の方面から研究した為に、日本文法の全体の上には国語独自の本性に基づいた新たな体系なり理法なりが漸次に見出されやうになるといふ予想がつき、それが段々煎じつめられて、具体的にわかるやうに思はれて来たが、やはりわからないのは「は」の本質であつた。それが為に、いろいろと研究したものが、いつもこゝで行詰りになり、ほとほと進退谷まつたといふ有様であつた。所が明治三十四年の秋頃と思ふ。一旦豁然として「は」の本来の面目が分つた。その時は真に愉快でたまらぬ。誰一人、私の説を理解してくれる人も無かつたけれども、自分は愉快で愉快で三日許は、毎晩床に就いてもうれしくてねむられなかつた事は今日もありありと記憶に存する。
 さて、さやうにして「は」の本質が分かつた後に、「詞の玉緒」をよみなほして見れば、私の研究して得た結果と実は同じ精神で「詞の玉緒」に書かれてあるので、それを後の学者が、曲解した為に分らなくなつたといふ事の真相をつきとめた。こゝに於いて私は流石に本居宣長といふ人の頭脳の明晰なのに驚いたと共に、今まで敵のやうにして来た罪にをのゝいたのである。かやうにして「は」の本質がわかつてからは、以前に研究しておいた部分が、皆一の生命によつて生くるものゝ如く、ばたばたと組織と系統とを有することになつたのである。即ち私の文法研究は「は」の疑問にその緒を発し、「は」の研究の結果によつて結末をつけたのであつた。
 私の文法研究が中学生に指導せられたといふ事は、以上述べた通りの事で一の誇張も無い。最近、故郷の中学校で、中学二年であつた私の事を物語つた際に、右の様の事も述べたのであつたが、本誌の求めにより、それを思ひ出してこゝへ書きつけたのである。」
         『読書随筆』昭和13年3月7日・矢の倉書店発行。
(C) 本居宣長記念館

注釈とは創造でもある

 注釈というと、古い本を辞書などをひっくり返し、意味を書いていく、辛気くさい仕事だと思うだろう。でも、それは学校の英語や古文の時間の注釈で、宣長の生涯をかけて行ったのはもっとダイナミックで創造的な営為であった。
 注釈は、テキストの背後にあるものまで解読する作業だ。そのためには、言葉はもちろん、風俗から、法律やまた自然環境まで把握していないといけない。
 それだけなら、博識な人でも出来る。ところが宣長は違う。それに時間の流れまで加わっていた。言葉なら意味がどのように移り変わってきたのか、また和歌のスタイルの変遷など、あらゆる事柄の変化の過程が頭に入っていた。そして、テキストをしっかり読み、想像力を働かせていたのだ。

 「今の大阪市街は中世以前は葦のしげった低湿地でした。『土左日記』や謡曲の『葦刈』などで、はっきりしますので、今の読者なら、容易に理解できますが、そういうものを読んでも、(地理の知識や地学観念の無い・引用者注)近世の研究者はただ扱い方に困るばかりで、丹念な名所研究をしている契沖でさえ殆んど手がつけられない有様です。他は推して知るべし、でしょう。
 例外は本居宣長です。「すみのえとすみよし」の場合でも、各時代の文学(又は、文献)にあらわれた地名を綜合しながら、古代の低湿地が次第に陸化してゆく進行過程を的確に把握しているのは壮観というより偉観というべきでしょう。所謂「地学」とは関係がなくなされている作業です。
 こういうことは宣長の学問の一端だと言ってしまえばそれまでですが、「地名とは註釈されねばならないものだ」、という訓詁への情熱の激しさと考えられることです。宣長によって、その意味が宣揚された地名は枚挙にいとまがないことです。 『菅笠日記』(宣長四十三歳、『古事記伝』の著作が軌道に乗ってきた充実した時です)なる紀行文があります。昔、私どもの旧制中学の教科書にその文章がよくとりあげられていました。この旅行の動機は、宣長の父が吉野水分神社に祈って宣長が誕生したというので、その参詣は宣長にとっては宿願となっていた、そのためです。文章は雅文調で、吉野・初瀬をへて、飛鳥に出て大和平野を北上するというコースで、途中の名所旧跡を丁寧にたどっています。一読すると、満ち足りた老風流人の気のはらない遊山、という印象をうけます、しかし、『古事記伝』と比較してみると、内容はよく『古事記伝』に摂取されています。つまり、充分な準備を整えた上での、『古事記伝』述作のための調査研究旅行であることは明らかです。そうわかると、おだやかな文体の紀行文が俄に緊張した油断のない調査研究旅行であることに衝たれる思いがします。
 『菅笠日記』について斯様な理解をしたものはまだないように思います。この件を追求すれば、『古事記伝』或いは宣長学の理解に新しい展望をひらくことが出来る、と思います。 その土地土地の固有の意味についての激しい興味が宣長の学問の核心部分を形成していることは明らかでしょう。
 『古事記伝』の魅力の重要な部分も、そういう情熱であるように思います。」
「篠田君の場合、宣長の議論が註釈すべき対象から目をそらすことなく、的確に柔軟に問題にすべき事にせまってゆくところ、それが「美しいのだ」と考えていたようである。その「美しさ」こそが篠田君の宣長への傾倒の中心をなしていた。」
 (「歌枕書問 篠田一士氏との往復書簡」奥村恒哉・奥村最終書簡、同添え書きより)


(C) 本居宣長記念館

注目の的「鈴屋衣」

             ら ん     
 
             和歌子
 
らん     『キ(玉偏に幾)舜問答』にはどんな話が載っていますか?
和歌子    本書は、『人見キ(玉偏に幾)邑本居宣長 面話之次第』とも言い、寛政4年3月9日、名古屋における尾張藩の儒学者人見キ(玉偏に幾)邑と宣長の対談筆記です。関係箇所を引いてみましょう。
「○翁の着物は、何と云ふ物ぞ、拠ある事にや、
△拠はなし、唯物数奇にして、工夫して拵しなり。
○左には非じ、何ぞ拠あるべし、神代の服など学びたらんには、美し過たり。(賓主 ともに嗤ふ。)
△誠に拠なし。本田伊勢君(清造注・伊予君ノ誤ニテ、伊勢国神戸ノ城主ナルベシ)の御隠居なども、強て問玉ひし。其後借りて、型など出来し。」
 本田の御隠居は、寛政4年閏2月16日に、家来で俳諧師の川素里を連れて宣長を来訪した本田瑞翁殿のことです。瑞翁は神戸藩2代藩主忠永(1724~1817)で、号は清秋、俳諧を得意としました。没後、儒臣長野潜が「思徳之碑」を観音寺境内に建て、徳を讃えた。『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』には「俳人 歌学ズキ」とコメントがあります。
らん     変わった着物ね。
和歌子    人見に古代の服ではと勘ぐられたのには訳があります。師の真淵がどうやら古代の服を作って着ていたらしいのです。
「(枝直は)与加茂真淵友善、加茂氏歳首歌会、真淵製古服衣之、枝直之不懌曰、生今之世、当服今時服耳」(『続近世叢語』角田九華著・弘化2年)。加藤枝直は真淵の門人でもあり、庇護者でもあった人ですが、その彼が、新年の歌会で真淵が着ていた古代風の着物をよろこばず、今の時代に生きるものは今の服を着るべきだと言ったというのです。儒学全盛の時代に日本の古典を尊重して、しかも変わった服を着ていると、まるで好事家の親玉みたいに見られると思ったのかも知れませんね。でも宣長は、古代に復えるなどと考えてこの衣を作ったのではありません。拠り所は無いと明言しています。結局は好みね。
「本居宣長四十四歳自画自賛像」(衣部分)

(C)本居宣長記念館

丁(ちょう)

 綴じられた冊子の1枚、表裏2ページ分を言う。「枚」、「葉」とも。本来は「帳」だが、同音の「丁」が通用する。江戸時代までの本では、何ページとは言わずに何丁という。でも2ページ分が1丁であるため、表(オと略称)、裏(ウと略称)で表示する。例えば2丁ウは今の4ページ目に相当する。本来あるはずの紙が抜けていたら「欠丁」、「落丁」と言い、順番が間違っていたら「乱丁」という。
(C) 本居宣長記念館

長女飛騨の証言

 「宣長ノ肖像ニツキ祖母飛騨ヨリ聴ケリトテ父ノ語リシ所次ノ如シ
 宣長ノ像ハ義信有慶及ビ井特等ノ描ケルガアリサレド容貌ノ最モ能ク似タルハ六十一歳ノ自画自賛像ナリ。六十一歳ノ像ハ趺坐ノ体ニ描カレタレドモ実際ニハ趺坐セラルヽコトナシ四十四歳ノ自画像ノ如ク正坐セラルヽガ例ナリ」【『備忘録抄』本居清造録 弥生抄】
 つまり残る肖像の中で、この像が最も似ているという。また、宣長さんは趺坐が嫌いだった。
 ☆趺坐(フザ)とは足を組んで座ること。仏教の結跏趺坐の略。ここではあぐらのことをいうのかな。


(C) 本居宣長記念館

 藤堂藩の御城下。宣長の妻・勝は藤堂家藩医の娘。また次男春村は薬種商・小西家の養子となった。友人もいる。妻の兄・草深玄周は堀塾で一緒だった。また谷川士清。門人は柴田常昭、芝原春房、川喜田夏蔭、七里政要など。みな熱心な人たちだ。


(C) 本居宣長記念館

通信教育

 賀茂真淵からの指導は、「しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける」(『玉勝間』)と、書簡とそれに添えた「質問状」により行われた。書簡による、つまり「通信教育」とか「遠隔教育」の実践例、またその成果の大きさを考えると、「日本で最初に通信教育で勉強した宣長」と言うのも誇大評価ではない。
 また、宣長が師として門人に指導をしたりするときもやはり書簡と質問状が中心となった。

 これは、文化が地方にまで広まったこと、また、宣長の学問の新しさ、通信網がかなり整備されてきたということが大きな要因だが、実はそれ以上に大きな理由が2つもある。  

宣長は、質疑応答と議論が大好きだった。質問者が門人であろうがそれ以外の人であろうが、聞かれたら答える。そして納得するまで質疑応答、議論を繰り返す。いや、しつこいぞ。
 
宣長は、特に間違った語法などがあると、訂正したくなる、直し魔、添削魔だった。荒木田麗女が、頼んでいないのに直したと言って怒ったこともある。だから、今も夥しい数の宣長の添削詠草や文章が残っている。 それに、松坂の地の利、「筆まめ」と言う性格が合わさるのだから、まさに鬼に金棒だ。
 また、宣長は通信教育のための、確実に速く伝達する方法を自分なりに工夫した人であった。それは『文通諸子居住処并転達所姓名所書』というアドレス帳にまとめられている。通信教育

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 賀茂真淵からの指導は、「しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける」(『玉勝間』)と、書簡とそれに添えた「質問状」により行われた。書簡による、つまり「通信教育」とか「遠隔教育」の実践例、またその成果の大きさを考えると、「日本で最初に通信教育で勉強した宣長」と言うのも誇大評価ではない。
 また、宣長が師として門人に指導をしたりするときもやはり書簡と質問状が中心となった。

 これは、文化が地方にまで広まったこと、また、宣長の学問の新しさ、通信網がかなり整備されてきたということが大きな要因だが、実はそれ以上に大きな理由が2つもある。  

宣長は、質疑応答と議論が大好きだった。質問者が門人であろうがそれ以外の人であろうが、聞かれたら答える。そして納得するまで質疑応答、議論を繰り返す。いや、しつこいぞ。
 
宣長は、特に間違った語法などがあると、訂正したくなる、直し魔、添削魔だった。荒木田麗女が、頼んでいないのに直したと言って怒ったこともある。だから、今も夥しい数の宣長の添削詠草や文章が残っている。 それに、松坂の地の利、「筆まめ」と言う性格が合わさるのだから、まさに鬼に金棒だ。
 また、宣長は通信教育のための、確実に速く伝達する方法を自分なりに工夫した人であった。それは『文通諸子居住処并転達所姓名所書』というアドレス帳にまとめられている。


(C) 本居宣長記念館

 「本居宣長四十四歳自画自賛像」では朱に描かれているが実際に使用していたのは桐の白木である。
 宣長の机は寛政12年(1800)正月3日に後継者・大平に譲られた。その時の歌が『鈴屋集』巻8に載る。詞書と歌を引く。

  「おのれわかゝりしほど京にてつくらせてそのころより七十といひしこぞの冬まで四十余年があひだもちたりし机をことし寛政十二年正月三日大平にゆづるとてよみてそへたる

    年をへて此ふつくゑによるひると
               我せしがごとなれもつとめよ」

  この代わりに宣長は新しい机を購入した。『諸用帳』寛政11年に

  「十二月、一、机、造り、代金一分ト三匁八分、但し板代外、右ハ健亭より出す」
                
 とある。
 健亭は、机が使えなかったはずだ。宣長が使ったのだろう。
 机を譲ると言うのは、芸事などで家元の代替わりで行われる。
 宣長の弟子の田中大秀もその机を弟子に譲っている。
「本居宣長四十四歳自画自賛像」(机部分)
宣長さんの机

机の上の短冊、色紙など

「本居宣長四十四歳自画自賛像」机の上の短冊、色紙など 机の上の短冊は内曇の図柄で宣長の好みのものである。師賀茂真淵が短冊は備忘書であると言ってほとんど残さなかったのに対して、宣長は短冊を好んで使用した。短冊そのものも宣長の好みにより選ばれた和歌の画面(様式)であった。色紙もまた同じで、古歌でなく自詠を好んで書くのは鈴屋派からであること城戸千楯『詠歌したためぶり』に記す所である。
(C) 本居宣長記念館

机の上の本

机上の本は著書である。表紙は縹色、宣長好みの色である。模様は描かれていないが、もし描かれていたとするなら布目であろう。やはり宣長好みである。

 執筆途中の本をよく見ていただきたい。
中にもう一冊が挟まれている。理由は判らない。普通なら書いている本の下に重ねられる所であろう。想像を逞しくするならばクロス・リファランス、つまり相互参照、前に書いたところを確認しているのであろうか。そう考えると、これは学術的な著作ではなく、『石上稿』など編年体家集など自分が詠んだ歌の本である可能性がある。あるいは本を執筆しているのではなく、過去に詠んだ歌を料紙に書く、あるいは歌を思案している最中と見た方がよいのかもしれない。


(C) 本居宣長記念館

机の下の本

「本居宣長四十四歳自画自賛像」机の下の本 これらの本は蔵書である。表紙の題簽の位置を見ると上の2冊は左上に、下3冊が中央にあることに気付く。「通常の短冊題簽は表紙左肩というのが普通だが、歌書・俳書・絵本・御伽草子等は表紙中央に貼られる場合も多いのは、何がしか我が国の平安朝、中世以来の伝統に根ざした意識のようであり、その他やや趣味的な内容のものに中央貼付のものが多い。」(『書誌学談義江戸の板本』中野三敏著・P155)

 宣長も、その旧蔵書、例えば『源氏装束抄』への題簽貼付けを見ると、この原則を概ね遵守していたようである。従って、積まれた本は、上が歴史や思想書、下は物語や歌書となり、「道」と「歌」という宣長の学問の方向性が明らかにされる。因みに、宣長の著作は原則として左肩題簽であるが、中央題簽のものもある。
 例えば『詞の玉緒』の寛政年間補刻本はその例である。現在は国語学書として評価の定まった本書だが、当時は詠作の手引きとしてみられていたのだろう。儒学者・松崎慊堂の『慊堂日暦』文政8年11月16日条に

   「○詞の玉の尾、紐鏡/本居著。作歌の人必用の書」

とあるが、題簽の位置からもそのことが証せられるのである。
(C) 本居宣長記念館

蔦屋重三郎がやってきた

 3月になると訪問客も増えてくる。
 寛政7年(1795)3月25日、珍しい人が来訪した。江戸の蔦屋重三郎、通称「蔦重」である。
「同廿五日来ル、一、江戸通油町蔦ヤ重三郎 来ル、右ハ千蔭春海ナトコンイノ書林也」(『雅事要案』)
 蔦重と言えば、『吉原細見』から始まりやがて狂歌・戯作へと手を広げた江戸の書林。自らも狂歌師としてまた戯作者として、そしてプロデューサーとして、当時の江戸の俗文学の最先端を走った人である。懇意だという村田春海や加藤千蔭は共に賀茂真淵門人で、宣長とも昵懇の間柄。
 しかし蔦重と言えば、なんと言っても有名なのが写楽の版元としてだろう。寛政6年から7年にかけて錦絵140種余りが出しその後ぷっつり途絶えてしまった。謎の絵師・写楽の出版直後の来訪だけに、ひょっとしたら話題にのぼったのでは・・。でも錦絵には批判的な宣長だけに無理かな。

 なぜ蔦重は宣長の所に来たのだろう。おそらく、宣長の本を江戸でも販売することへの挨拶だったと思われる。当時急成長していた名古屋の書林、中でも永楽屋東四郎、その永楽屋の主力商品が『古事記伝』など宣長本であったことは周知の事実。そちらへの接近にあわせて、著者にも会っておこうかということだろう。
 実際にこの後、『玉勝間』や『出雲国造神寿後釈』が蔦重経由で江戸に広まっていった。

 蔦重と宣長の関係で忘れることが出来ないのが、『玉勝間』の記事改変事件だ。
 儒学や儒者を批判した章を、ちょっと危ないですよと宣長に忠告したのがどうやら蔦重であったらしい。万事に慎重な宣長がその項目を差し替えたのは言うまでもない。
 戯作者・山東京伝が手鎖50日、版元蔦重が身代半減の重過料という筆禍事件を寛政2年に経験しているだけに、蔦重としては危ない橋は渡りたくなかったのだろう。この一件については、杉戸清彬氏『初版本玉がつま三の巻』(和泉書院)に詳しい。

 余談だが、蔦重の危惧したのは時の老中・松平定信の思想統制であったと推測される。ところが逆に、写楽の版画を蔦重に発注した人としても、松平定信の名前が挙がってくる。美術評論家・瀬木慎一氏の『写楽実像』説だ。
 氏は、定信の文人としての一面を取り上げ、庶民の歌舞伎離れからその将来を憂えた幕府が振興策として写楽版画を利用したのだという。また、写楽、定信をつなぐ人物として村田春海を想定する。写楽説もある阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛は八丁堀地蔵橋の住人。その斎藤の隣に春海は住み、または春海の非凡な才能を評価した定信は屋敷にも出入りを許していたのだという。(以上「日本経済新聞」2000年2月20日「美の巨人たち・東洲斎写楽・リアリズムの悲劇(下)」松岡資明氏執筆による)

 蔦重・宣長・春海・定信、そして写楽、この人たちはどんな糸で結ばれるのだろう。
 謎は多い。


(C) 本居宣長記念館

妻・勝(かつ)

                        「本居宣長夫妻墓」樹敬寺
  寛保元年(1741)12月12日~文政4年(1821)3月21日。享年81歳。父は藤堂藩侍医・草深玄弘、母は園。父玄弘は恕庵とも名乗り、宣長が真淵に入門する時に、真淵が恕庵生まで話しておいたと言う人と同一人であろうとされるがよく分からない。兄は丹立、また玄周とも言う。堀景山塾での友人だ。結婚前はたみと名乗った。最初、津の藤枝九十郎に嫁すが、死別し実家に帰る。その後宣長に再嫁。義母の名をもらい「勝」と名乗る。2男3女を生む。『本居氏系図』では「三男四女」と書くが、2名は死産。法号の円明院清室恵鏡大姉は宣長が付ける。


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梅雨の準備

 雨が多いと傘の修理も必要だ寛政6年5月4日には、17匁5分を唐傘屋に、同9年5月19日に、19匁6分を唐傘張り替えで出費。同12年5月30日にも3匁を唐傘代として出している。
(C) 本居宣長記念館

徹底分析・本居宣長六十一歳自画自賛像

                        「本居宣長夫妻墓」樹敬寺
これが宣長像の中でも一番有名で、またその後制作された宣長像のモデルとなった画像です。

◆写真説明
「本居宣長六十一歳自画自賛像」1幅。
紙本著色。裂表装。
本紙寸法、縦115・5×横52・8cm。
本居宣長(自画自賛)。

【制作年】
 寛政2年(1790)8月。
【伝来】
 松坂本居家から記念館へ
  (弥生翁寄贈)。
【指定】
 国指定重要文化財。

【賛】
 「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手つからうつしたるおのかゝたなり/筆のついてに/しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ朝日ににほふ山さくら花」

【箱書】
 元箱(蓋のみ残る)「宣長自写肖像」裏「寛政二年庚戌八月」(宣長自筆)、
 箱(春庭時代作成)「先人自画讃遺像 春庭謹蔵」(美濃代筆)。
 同裏、印「鈴屋之印」(紙に捺印・貼付)

【解説】
 一般に流布する本居宣長像はこの画像を元にする。
 例えば、江戸時代によく流布した吉川義信の画や、また木版刷りの宣長像は何れもこの六十一歳像がモデルだ。
 本居家の伝承によれば、宣長自筆の六十一歳像はこの1点しかない。


(C) 本居宣長記念館

『てにをは紐鏡』

  明和8年(42歳)10月、『てにをは紐鏡』刊行。
 いわゆる「係り結びの法則」を図解したたった一枚の図だが、波紋は大きかった。
 奥書「明和八年卯十月、松坂、本居宣長」。
 刊記「皇都書林、景雲堂梓行、伊勢松坂書物所、南華堂蔵」。
 初版の紙質は間似合紙で、版形大きく伝本稀。また、再版以降には重大な誤りがある。なぜ宣長が再版刊行を許可したのだろう。理由は不明。



 

寺子屋の増加

 寺小屋は天明期以降激増する。『日本教育史資料』による年平均開業数は、宝暦が2,6、明和が3,8、安永が3,2、天明が12,6、寛政が13,8、享和が19.3と増加していく。
 (『夜学【こころ揺さぶる「学び」の系譜】』上田利男・人間の科学社・1998・5刊)


(C) 本居宣長記念館

奠具山の猿(てんぐさんのさる)

 夏目漱石は『行人』で、奠具山にエレベーターがあり、上には茶店があって猿が飼われていることを面白くなさそうに書いている。この猿、波瀾に満ちた生涯を終えるにあたり、「私の一生は檻の中だったけれど、この和歌の浦の素晴らしい景色を毎日眺めながら過ごして、本当に幸せでした」と言って息絶えたそうだ。本当だろうか。

 即位して間もない聖武天皇(24歳)は、神亀元年(724)紀伊国に行幸し、素晴らしい景色に感動し、地名「弱浜(ワカノウラ)」を「明光浦(アカノウラ)」と改め、この地が荒廃することのないように指図をし、春秋二回は遣いを出し玉津島の神、明光浦の霊を祭れと仰せられた。この時に供奉したのが山部赤人である。
 その後、765年、称徳天皇が「望祀の礼」という、国を治める人が美しい自然を眺めその神々を祭るという儀式を行った。以後絶えていたこの祭祀を復興したのが10代治宝である。上にある仁井田好古(ヨシフル)の碑「望海楼碑」は称徳天皇の故事を書く。

  手前に見えるのが不老橋。その先が悪評高いあしべ橋。彼方には片男波が見える。
 下に降りたら、不老橋から名草山が眺められる。汀にはシオマネキがいる。悲しい男の性を思う。伽羅岩(石墨片岩)に囲まれた塩竈神社を巡ると、芭蕉の句碑「行く春をわかの浦にて追付たり」がある。その右手の小島が妹背山である。


   神亀元年甲子の冬の十月五日、紀伊の国に幸す時、
   山部宿禰赤人が作る歌一首  併せて 短歌

 やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野(さひかの)ゆ 
 そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ
 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

   反歌二首

 沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば 思ほえむかも
 若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る     
                 『万葉集』巻6(917~919)  

                       奠供山から見おろす新旧不老橋。
(C) 本居宣長記念館

天皇陵・古墳への関心

 飛鳥での探索に限らず、宣長は古墳や天皇陵に関心を寄せている。2日目、倉梯の岡の陵崇峻天皇陵が、既に通過してきた忍坂から5丁ほど辰巳の「みささぎ山」であると聞き、「いとくちをし。こゝよりは廿町あまりもありといへば、えゆかでやみぬ」と残念がっている。また、安倍文殊院傍の古墳(今、艸墓古墳と呼ぶ)では横穴式石室に入り石棺の中に手を突っ込んでいる。また今、見瀬丸山古墳と呼ばれる古墳でも横穴式石室内まで入っている。懐中電灯がなかったので暗い中での手探り調査だ。勇気があるね。

 畝傍山の麓、吉田村では土地の人との話で、幕府の命で調べに来た時(元禄12年、徳川綱吉の時の修理であろう)の、担当者らの態度への不満を聞き、陵墓を守るためには地元民へ格別の恩沢を与えて、皆が喜び守るようにすべきだと言う意見を述べるが、実はこのことが、陵墓の保存で重要なことであった。簡単に言えば、村にあったら迷惑だ、という事態を招いていたのである。

 また、並河誠所の『五畿内志』での陵墓調査に、疑問点はあるとしながらも、その労を讃えている。実は陵墓調査が本格化するのは、この並河の調査を批判的に継承する宣長からと言ってもよい。ここでも宣長は先駆者である。

                          天武・持統天皇陵

天明年間

 宣長50代が、ちょうど天明年間(1781~89)となる。世の中は飢饉に噴火、政変、大火と混乱甚だしいが、宣長はその学問業績を着実に積み重ねていく。執筆中の『古事記伝』も、全国の有識者の知るところとなり、宣長の名声が高まる。諸国からの入門者、来訪者も増えていった。

天明元年(1781) 52歳
spacer    1月23日     『古事記伝』執筆、『古事記』中巻の伝に着手。
     11月9日     宣長宅で賀茂真淵十三回忌を開催。
     
この年の薬価料96両。記録に残る限りでは最高額。
藤貞幹『衝口発』刊行。醒狂道人可必醇著『豆腐百珍』刊行。
海の向こうでは天王星が発見された。
 
天明2年(1782) 53歳
     3月2日    伊勢の前山に花見に行く。
     3月    『詞の玉緒』版下出来る。
     7月15日    このころより瘧(マラリア)に罹る。
     8月18日    『天文図説』成る。
     9月12日    『真暦考』成る。
     12月上旬    書斎「鈴屋」竣工。
     12月    大黒屋光大夫が松坂商人の物資を積んだ神昌丸で白子港を出て、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着した。
     
この年、西日本大凶作。宣長『日記』に、「諸色高直世上困窮」と書く。
中国では『四庫全書』が出来た。
 
天明3年(1783) 54歳
     3月9日    新書斎「鈴屋」で歌会。
     7月6日    浅間山鳴動。また冷害(やませ)となる。各地で一揆や打ちこわしが起こった。影響は同7年にまで及ぶ。直接被害の無かった伊勢でも、地鳴りして、灰が降り、また諸国の混乱の噂が伝わってくる。宣長の『日記』にはそれらが記録される。友人荒木田経雅は不安のために病に罹った。
     
この年、菅江真澄が故郷の三河を出て信濃、越後、出羽、陸奥、蝦夷地へ旅立つ。
 
天明4年(1784) 55歳
     2月23日    志賀嶋で金印発見。
     3月24日    若年寄・田沼意知、江戸城内で斬りつけられる。
     9月15日    次男・春村(18歳)、津の小西家に養子となり入家。
     10月4日    門人・田中道麿没。享年61歳。
 
天明5年(1785) 56歳
     2月    『漢字三音考』刊行。
     5月    『詞の玉緒』刊行。
     
春以降9月まで病人多く学業を廃する。 冬、藤貞幹『衝口発』を論駁した『鉗狂人』を執筆。隠岐第40代国造幸生、駅鈴をもって上京する。
この年の入門者には、横井千秋、服部中庸、栗田土満、村上円方等重要人物多し。
江戸では山東京伝『江戸生艶気樺焼』や唐来参和『莫切自根金生木』などのんきな黄表紙が出て大評判となる。
 
天明6年(1786) 57歳
         小篠敏来訪、8月まで逗留。
     5月    病気に罹る。
     10月14日    『古事記伝』巻2板下を名古屋に送る。いよいよ出版作業開始である。
     閏 10月19日    『玉鉾百首』出版許可下りる。
     11月3日    長女・飛騨(17歳)、草深家に嫁す。
     
この年、上田秋成との論争が始まる。
 
天明7年(1787) 58歳
     4月14日    『古事記』を真福寺本で校合する。
     4月15日    将軍11代・家斉となる。
     5月    大坂、江戸で打ち壊し。
     5月    「木枯森碑文」執筆。
     6月    松平定信老中となる。
     10月    『国号考』刊行。
     12月    政道論『秘本玉くしげ』成る。『玉くしげ』を添えて紀州藩主に献上する。世上不安の中で、国学者・宣長の意見が聞かれる機会が多くなってきた。中には藩政改革にもと考える人が出てきた。
     この年、シラー『ドン・カルロス』執筆。
 
天明8年(1788) 59歳
     正月30日    京都で大火。2月2日鎮火。御所を始め町のほぼ75%が焼失。
     3月10日    江戸の村田春海来訪。
     6月2日    『源氏物語』講釈第4回目開始。
     7月1日    門人・荒木田尚賢没。享年51歳。

東京にある本居家の墳墓

 和歌山本居家の内遠の墳墓は、東京都品川区、東海寺大山墓地にもある。大山墓地は沢庵禅師や、また賀茂真淵などの墓があることで有名。二つの墓の関係は、江戸で急逝した内遠は、そのまま江戸に葬られ、分骨したのが吹上寺と考えられる。『本居内遠翁略伝 条里図帳考』には、

「安政二年十月四日病して赤坂邸の舎に身まかりぬ、時に年六十四なりき、おくり名して弥足功績道根大人(イヤタラシイソシミチネノウシ)と云、当時深川なる恵然寺に葬りしを後に改て品川東海寺なる県居翁の墓ノ側に移し葬れり」
とある。
 明治維新を迎え、和歌山本居家は東京に出、以後の墓所は谷中霊園となった。大正天皇の皇太子時代の侍講「本居豊穎之墓」と妻「本居鎮子墓」、以後の子孫を葬る「本居家之墓」で、高名な作曲家長世(豊穎孫)、詩人菱山修三(長世三女若葉夫)もここに眠る。
東海寺大山墓地内遠墓
谷中霊園豊穎、妻鎮子墓
谷中霊園「本居家之墓」
谷中霊園「浜田延寿之墓」
谷中霊園本居家墓俯瞰

同行者

 旅に同行したのは次の5人と従者。

◆小泉見庵
 魚町宣長宅の向かいに住む医者。37歳。宣長の友人。
 元文元年(1736)~天明3年(1783)8月28日。享年48歳。見菴とも書く。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。小泉家4代。見卓の長男。
  『系譜』には、
「字子啓、号五林、称見菴、幼名文太郎、宅辺嘗有金松樹、因名其室曰金松斎、子啓作金松斎記、性好学、及没年耽仏学以故恒勤知因果道理、其所著有余力稿二巻、天明三年癸卯八月廿八日没、年四十八、法名蒙光院道徹見菴居士。葬願證寺先営之側。妾名近、子啓死而後嫁」とある。 『勢国見聞集』には、「見菴、松坂の人。垣斎君の嫡男なり。名は蒙、字は子啓、五林と号す。詩文を好み、其所著紀鑑及余力稿あり」とある。
  【墓石】願証寺「小泉見菴墓、天明三年癸(卯)八月廿八日、四十八歳」  見菴は、父の後を嗣ぎ、紀州藩御目見得医師。本居宣長の知人、或いはその吉野飛鳥への旅の同行者として、人々に記憶されている。見菴と宣長との係わりについて見てみたい。
  商家に生まれた宣長が医を志すのに、小泉家をその手本としたとする説がある。
 城福勇氏は、「(本来学問の道に進みたかった宣長が医業を生業とすることについては)親類のなかに医者が少なくなかったということが、かつにも宣長にも、大きな影響を与えたことであろう。だいいち筋向かいの小泉見庵がそうで、彼の医業は大いに栄えていたのである」と『本居宣長』で書く。親類で医者といえば、遠縁に山村通庵がいる位で、決して多くはない。また、小泉家を範としたとか、同家が大いに繁栄していたという根拠を今確認することは出来ない。
 ただ確証はなくとも、息子の行く末を案じた母と宣長が、向かいの小泉家の生活を眺めていて、これならばできると考えたとしても決して不思議ではない。
 在京中の宣長を見菴が訪ねたことがある。「むかひ見菴殿先比のほり申され候」と、宝暦4年6月3日付宣長宛母勝書簡に見え、対面記事が『在京日記』に載る。
 だが二人の関係で最もよく知られているのは、この「菅笠の旅」であろう。宣長43歳、見菴37歳の時であった。参加者で、見菴以外はその後に整備される宣長の『授業門人姓名録』に名を連ねた人たち、つまり宣長の古典講釈や歌会のメンバーである。どうしてその中に見菴は入ったのであろうか。
 まず考えられることは、近所だったという点であろう。小泉見菴の家は、松坂町魚町上ノ丁の長谷川家に隣してあった。宣長に家の向かい側である。年齢も宣長が6歳年長と近い。
 ただ、吉野旅行中も見菴は、旅で知り合った尾張の人と漢詩を贈答しあっているように漢詩文を好み、和歌の宣長とは道を別にしたため、門人に加わることもなかったのかもしれない。つまり二人は友人だったというところに、旅への参加の一因を求めることが穏当だろう。
【写真】 「小泉見庵夫妻像」 「見庵墓石」 「歌碑」

>> 「歌碑の謎 宣長歌碑はなぜ建てられたのか」

◆稲懸棟隆
  中町の豆腐屋。宣長と同い年43歳。後に門人となる。息子・茂穂と参加。
>> 「鈴屋円居の図」

◆稲懸茂穂
  棟隆の長男。後の大平。17歳。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

◆戒言
  白粉町来迎寺覚性院の僧。年齢は不明。棟隆と親しかった。同い年くらいか。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

◆中里常雄
  中町の豪商の息子。後に長谷川の養子となる。16歳。大平の友達。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

◆従者
  恐らく一人付いていったと思われる。屈強な人だろう。名前、年齢不明。
 14日、飼坂越えの条。歩く者は息も絶え絶え、従者は荷物を持っているので、これまた遅れているが、つづら折の道なのですぐそこに見えるなんて、気分が優れない宣長は駕籠に乗り、呑気なことを言っている。

【原文】「とものをのこは。荷もたればにや。はるかにおくれて。やうやうにのぼりくるを。つゞらをりのほどは。いとまぢかく。たゞここもとに見くだされたり。」 また、飯福田寺辺りで、供の人は一人先に松坂に帰る。各家に、帰ってきたから迎えにこいと触れるためだ。
【原文】「いぶたにまはりし所より。供のをのこをば。さきだてゝやりつれば。みな人の家よりむかへの人々などきあひたる」
(C) 本居宣長記念館

東寺五重塔に登る

 帰郷直前の宝暦7年(1757)9月、友人岡本幸俊に招かれ、六孫王祭礼見物。祭礼後、食事をして、念願の五重塔に登る。同行したのは、高村好節、山田孟明等。五層から京の町を眺望する。また、塔の構造に感心する。
 今では登るなど夢のまた夢。そこで宣長さんの記述によって登った気分に浸りましょう。

「とし比のぞみ思ひしことにて、此寺の塔へのぼらんことをこふ。幸俊たやすくうけかひて、預りのかたへ鍵かりにやりて、さて行く、けふは高村好節と同道せしが、まつりの所にて孟明に出あひしかば、これも同道してゆく、さて東寺の熊八といへるおのこと幸俊と五人ゆく、幸俊さきだちて、鍵して扉をひらき、内にてはおり(羽織)わきざし(脇差)やうの物みなぬぎおきて、さて手のごひ(手ぬぐい)被り、すそからげ、ゆかたなどうちきなどしてのぼる、上はいとくらきやう也、時刻は七ツ過なりしかば、鳩おほくとまりゐたるが、おどろきさわぎまどふ、羽音いといとかまびすしくおどろおどろし、其上、いとすごき内のさまにて、鳩のふんなど所せくつもりみちて、いといぶせし、いとすごくそぞらさむきやうなれども、心をおこしてのぼる、のぼるさまは、東西南北かたたがひに、板のやうなる物をわたりのぼる、さて二重三重四重五重、重ごとに、ゑんへ出て四方をながむる、いと興あり、五重めの屋根九輪へ出る所に窓あるより、かしらさし出して見れば、いと高くそびへあがりて、下をのぞむにいとおそろしく覚えて、手足わななかる、遠近いづこもいづこもいとよく見えわたる、さておるる程、のぼりこし道まどふやう也、中のしん柱は、上のくりんより地形までとをりて(通りて)ちうに(中に)つりたる物也、塔といふものは、げによくたくみてたてたりける物なりけり、さておりはててぞ、かのおどろきまどひてたちたりし鳩、みなかへりとまりぬ、此塔高サ廿七間とか有とぞ、洛中洛外にて第一也、さておりて、ちりはらひ、あたりの沢水にて足あらひなどしてかへる」

【参考文献】
『東寺の建造物-古建築からのメッセージ』東寺宝物館、(改訂版)1997年5月。
東寺五重塔。1644年の再建。高さ57m
東寺五重塔(部分)

唐紙ってなに?

 中村清兄氏「松月堂とわずがたり(20)」(『茶道雑誌』)に
「最初に絵を習うときは、唐紙(とうし)を用います。この唐紙は、ご存じのように、吸水性が高く、筆をおろせばただちに筆毛の墨液の水分を吸いとってしまいます。ですから、この紙に絵を描くのはなかなか難しいのですが、あえてこの紙に描くのです。その理由は、筆がすばやく運ばれることをもとめているからです。運筆の急所を最初に覚えるわけです」と言い、また「この唐紙では、粉本の敷写しはできません。というのは、さきほど申しましたように、この紙は水引が強いので、紙の表(おもて)に描かれた墨が背に浸透し、粉本を汚(けが)してしまうのです」とある。
(C) 本居宣長記念館

藤貞幹 (とう・ていかん)

 享保17年(1732)6月23日~寛政9年(1797)8月19日 本姓は藤原。名は貞幹(サダモト)、字は子冬。通称は叔蔵、号は無仏斎、亀石堂等。父は、京都仏光寺中の坊の院家久遠院権律師玄煕。11歳で得度するが、18歳で還俗。和歌は日野資枝(ヒノ・スケキ)、有職故実は高橋宗直(図南)、書は持明院宗時に、儒学を後藤芝山、柴野栗山に学ぶ。古代への関心が深く、書画や器物、古文書を求め諸国を歩く。
「尤モ古書画ヲ好ンデ、片楮半葉トイヘドモ、必ズ模写シテ遺サズ。金石遺文ヲ索捜シテ、寸金尺石、破盂欠椀ノ微トイヘドモ、古ヘヲ徴スベキモノハ皆模造シテ捨テズ」

 知人には篆刻の高芙蓉(コウ・フヨウ)、韓天寿(カン・テンジュ)など、またコレクター木村蒹葭堂がいた。また、裏松光世(ウラマツ・ミツヨ)が『大内裏図考証』を執筆するときに協力し、「寛政新内裏復古の考案を秘かに助成した」(『日本古典文学大事典』)。
 貞幹はモノマニアックな人である。このような人は他にも多かった。石の長者・木内石亭、貞幹の知人で難波の木村蒹葭堂、宣長門人の大館高門など。だが彼らと違い貞幹は「生涯家貧」であった。  

 そして、この人には暗い影がつきまとう。
 貞幹が天明元年(1781)に出した『衝口発』は、真摯に研究する人たちの反感を買った。なかでも宣長の『鉗狂人』は徹底した論駁であった。
 この中で宣長が批判するのは、証拠として採用して「或る記」や『日本決釈』が偽書であることだ。実は貞幹は「偽書」「偽証」と言う、禁断の実を食べ、その味を知ってしまったのだ。貞幹は外にも古瓦を偽造している。ある人は生活のためだろうと推測する。だが、自説を補強するためとか、生活の糧とか言うのではなく、むしろ偽証が目的化している。

 「古書画に淫し、古器物に淫し、古代一切に淫した貞幹の偽証には、思うままに支配し得る世界を、いよいよ放恣に、いよいよ執拗に構築する喜びが画されているように思われてならないのである」(「偽証と仮託-古代学者の遊び-」日野龍夫『江戸人とユートピア』朝日選書)

 貞幹は一度覚えたこの禁断の実の甘さを楽しんだ。『衝口発』こそ宣長に見破られたが、だが、ちゃんと敵は討っている。 「彼の偽作した『南朝公卿補任』は、後に塙保己一が『南朝公卿補任考』を著わして、その偽書であることを考証した。しかし『衝口発』の偽証を看破した宣長もこれにはだまされたらしく、『玉勝間』巻七「吉野朝の公卿補任」の項で、「いとめづらしきふみなり」と賛えている。『玉勝間』巻七の刊行された寛政十一年(1799)は貞幹歿してから二年目、泉下の貞幹はさぞ快哉を叫んだことであろう」 (日野・前掲論文)
『古瓦譜』序文。
『古瓦譜』武蔵国国分寺瓦。

豆腐

 膨大な記録を残した宣長だが、存外、食べ 物についての好みは書き残していない。晩年『玉勝間』の中で、食事は、普段は羮(アツモノ)一つ、菜(アハセ)にて充分で、松坂の飽きたらぬのは鯉・鮒・ くわい・蓮根が少ないことということから、普段は粗食で、食材も京風がお好きだったのかと思うくらい。
 そこで、諸状況から推測するのだが、まず婚礼や行事の際の本膳料理は除く。すると日常的には「豆腐」という食べ物の存在が際だっていることに気づく。

 豆腐のような碁盤の目の京の町で、宣長は23歳から5年間を過ごしているが、その『在京日記』の中でも、京都各所で豆腐を食べ、豆腐茶屋の娘の噂を書き、一時帰国の道中の際にも東海道目川の名物・菜めしと田楽豆腐をうまいうまいと食べ、翌日、鈴鹿峠を越えた関宿でも湯豆腐を賞味し、京都にも劣らぬ位と評している。

 宣長の時代は豆腐料理のピークであった。天明年間(1781~1789)、『豆腐百珍』(天明元年序)が出て、豆腐と「百珍物」がブームになった。豆腐の 調理法を、木の芽田楽から真のうどん豆腐まで、尋常品、通品、佳品、奇品、妙品、絶品の6等に分かち記した本で、醒狂道人可必醇著。この人は曽谷学川では ないかと推定されている。学川であるなら片山北海、高芙蓉の弟子である。北海は武川幸順の知人で、その墓誌を書いた人だ。芙蓉は池大雅、韓天寿と三岳道人 と称される。
 但しこれは、宣長の豆腐好きとは直接は関係ない。
 松坂には、「白菊」という典雅な名前の豆腐もあった。
 宝暦9年(1759)正月14日、宣長は、友人・小津正啓から「白菊」という豆腐をもらった。さっそく歌を詠みお返しとした。



   正月十よ日正啓もとより白菊といふ豆腐ををくられけるかへりことに

  きえあへぬ 雪かと見つる 春なれは それともいさや 白菊の花
  めつらしと 思はざらめや 雪のうちに おりまがへたる 春のしらきく


  65歳の時の和歌山行きには、弟子の大平が小遣い帳を残すが、やはり豆腐一丁12文の記事が目に付く。豆腐の値段が各地で同じというのも面白いが、「廿六 文、醤油、とうふ」とあるのは二丁としょうゆを合わせて買ったのだろう。冬のことだから、冷や奴ではなく、湯豆腐にでもしたのだろう。

 そういえば、大平も家業は豆腐屋である。豆腐の目利きが豆腐を買って先生の食卓に供するのである。
 宣長は大平の父棟隆(実はこの人も宣長の門人であり友人であるのだが)の求めで、豆腐の雅名を「みかべ」と付けたことがある。
 その「稲掛大平が家の業のみかべの詞又其長歌」の中で宣長は豆腐を次のように賞賛する。
 「値安くて卑しからず、味わい淡くて雅びたれば、月に日にけにいやめづらに、くさぐさ調えて、高き短き人皆の、朝な夕なと愛で食う物なり」

 お世辞ではなく、存外本心から言ったのかもしれない。

到来物

 『音信到来帳』は宣長がもらったものの控えである。寛政7年からの分しかないが、それでも、諸国からの来訪者が多いだけに、中には、カステラやコンペイトウ、紅毛人筆扇、多賀城の古瓦など珍しいものや変わったものもある。寛政7年(1795)正月にもらいものから食品だけを抜き出してみよう。

  阿波そうめん 1箱 阿波光善寺
  蜂屋柿 1箱 (横井)千秋
  はりま焼塩箱入 坂本屋善八
  甘海苔 海蔵寺
  尾張大根切ほし 大館左市(高門)
  さからめ (栗田)ひちまろ

 珍しいものをもらったら食べ方に困る場合がある。その点、宣長の知り合いはみんな丁寧だ。食べ方をきちんと指示してくれる。
 安永7年(1778)年7月、伊勢内宮の神主荒木田経雅は宣長にそうめん1折を贈った。「当地産刀禰やそうめん」、当地名産と言うところだが、書簡ではその後に「件索麺調方」(件のそうめん調え方)という別称を設けて調理方法を教えている。  

「先、醤(ヒシオ・味噌の仲間)の中に干かつをと蕃椒(トウガラシ)【五人前位の汁ならばとうがらし二十計入べし】の破れざる計(バカリ)を入て【破れたるを入る時はその汁辛(カラク)して食がたし】よくせんじ冷(サマシ)置べし
 次、件のそうめんをゆでるなり、湯少くては不宜(ヨロシカラズ)、沢山にすべし、煮上り候はば、その後はそろそろ焚候而よくゆで、少し酒をも入べし、此そうめん胡麻油にて油少く製し候間、不洗にも食ひ、又洗ひても食す。久しくゆで、随分熱く致し、右の冷醤にて食すべし、なまゆでにては一向不宜、煮抜にすべし、煮事に飽候まま大凡にて食するより風味不宜」
 今の言葉で言えば、
 「醤の中に干しがつおと唐辛子、5人前なら20位入れてください。唐辛子の袋が破れていると辛くて食べられませんから注意してください。よく煮て冷まして置いてください。これが付け汁です。
 次にそうめんのゆで方ですが、たっぷりのお湯で、一回煮立てて、その後は弱火でよく茹でてください。お酒を少し入れてもいいですね。このそうめんは胡麻油で作っていますから、油分が少ないので、水洗いはしてもしなくても結構です。しっかりと煮た上で、熱いのをよく冷やした付け汁で召し上がってください。煮るのが足りないとおいしくないですよ。しっかり煮てください。もういいやと適当に煮るとおいしくありませんから注意してください。」

 見事なレシピだ。厳密な学問の経雅のような人は、そうめん一つもおろそかにしないと言うことだ。
                          経雅書簡「そうめんのレシピ」  

遠眼鏡

 宣長の書いたものを読んでいると、ひょっとしたら宣長さんは遠眼鏡を持っていたのではと思うときがある。
 たとえば『菅笠日記』』(1772年3月・宣長43歳)最終日、堀坂峠の眺望の段を見てみよう。
「さて与原といふ里にいでゝ。寺に立入て。しばしやすみて。堀坂をのぼる。こはいと高き山なるを。今はそのなからまでのぼりて。峯は南になほいとはるかに見あげつゝ。あなたへうちこゆる道也。このたむけよりは。南の嶋々。尾張三河の山まで見えたり。日ごろはたゞ。山をのみ見なれつるに。海めづらしく見渡したるは。ことにめさむるこゝちす。わがすむ里の梢も。手にとるばかりちかく見付けたるは。まづ物などもいはまほしき迄ぞおぼゆるや。さてくだる道。いととほくて。伊勢寺すぐるほどは。はや入相になりにけり」
「山ばかり見てきた目には海が新鮮だ。わがすむ里の梢も手を伸ばせば届きそうに見えるので、声をかけたくなってくるよ」
 ここで宣長さんに遠眼鏡を持ってもらうと、
「山ばかり見てきた目には海が新鮮だ。遠眼鏡をのぞくと、わがすむ里の梢も手を伸ばせば届きそうに見えるので、声をかけたくなってくるよ」となるし、

また松阪郊外、というか堀坂峠の麓にある横滝寺からの眺望を詠んだ時も、
「海の手にとるばかりまぢかくみやるゝに在五中将のふる言
 思ひ出て我も又
   塩がまにいつかきにけん軒近きまがきの嶋を出るつり船」
                 『石上稿』(1776年・47歳)
と「手にとるばかり」とあるからここでも遠眼鏡を持ってもらうとすっきりわかる。

 もちろん『菅笠日記』の旅でそれを持参していたというのではないが、遠眼鏡を見た体験がこのような描写となったと言うことは充分に考えられる。
世之介が屋根の上から隣の行水をのぞいた時からほぼ百年。
松阪の町にも遠眼鏡はあっても不思議ではない。
もし松阪で見ていなくても、たとえば京都なら清水寺、それに大阪の高津宮には貸し望遠鏡もあった。宣長の目に触れていないと考える方が不自然でもある。高いところから見下ろすことの好きな宣長さんだからなおさらだ。
(C) 本居宣長記念館

常盤雪行図(ときわせっこのうず)

常盤(ときわ)は源義朝の妾。今若、乙若、牛若(源義経)の三人の子を産む。
平治の乱で一時は大和国龍門に隠れるが、
母を救うために六波羅に子どもと一緒に出頭する。
絵はその場面を描く。
この絵のために詠まれた宣長の歌の評判もよく、
子どもを連れた絶世の美人が雪の中で難渋するというこの画賛は、
宣長の画賛では最も注文の多い画題の一つ。
津の石水博物館にも宣長賛が収蔵されていて、
記念館で公開したこともある。
                       「常盤雪行の図 」 美濃賛 1幅

徳川光圀(みつくに)

 西山公(徳川光圀公)。ご存じ、水戸光圀公だ。
 寛延5年(1628)6月10日~元禄13年(1701)12月6日。享年72歳。 水戸徳川家2代藩主。「本朝の史記」を目指し『大日本史』編纂に着手する。また契沖に『万葉代匠記』執筆を依頼する。その『大日本史』を宣長は、唐めきているが、皇統を大切にし考索が広く、「万代之重宝」と評価(安永8年11月20日荒木田久老宛書簡)。『うひ山ふみ』では『礼儀類典』をめでたき書と推す。『和歌の浦』第5冊には『扶桑拾葉集』の収載書目が引かれ、天明元年には『烈祖成蹟』を抜書、寛政4年6月5日付横井千秋宛書簡では『千年山集』に光圀の事が記され面白いと推賞する。『本居宣長随筆』第13巻には同書や『年山紀聞』の抜書があり事跡や逸話が紹介される。
(C) 本居宣長記念館

特別な時の食べ物

 当時、庶民が口に出来る最高のごちそう、それは伊勢にあった。
 『日本書紀』に

「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰(ヨ)する国なり、かた国の可怜(ウマ)し国なり」
と書かれる伊勢国、気候温暖。雨が多く、海に面し、山と平野があり、文字通り山の幸、海の幸に恵まれた場所である。

  伊勢神宮は、心のふるさとだと言われるが、人々はここにお参りすることを夢見ていた。
 講を作り、金を貯め、代表者を選び参詣してもらう。
 60年に一度位の御陰参りの時にはさらに多くの人が参宮することが出来た。
 全国からの参詣者の世話をする人、それが御師である。
 御師はきめ細かいサービスを売り物にしていた。参拝、神楽、観光まで、インテリ層には宣長への紹介取り次ぎも行った。中でも、伊勢参りの時のもてなし、つまりごちそうには特に気を遣った。

 宣長の友人、門人にもそのような御師がいた。その一人、荒木田久老が宣長を迎えた時(寛政7年4月16日・宣長66歳)の料理の献立が残っている。  
  想像しながら召し上がってください。

 「当乙卯四月十六日夜、伊勢の御師久老といへる和学者の方へ、同国の本居春庵を招きける時の献立、
客本居宣長中衛【春庵事】、小笹道冲【周防守殿儒臣】、三井高蔭【本居宣長門人】、濃州白山社人、石州小笹門人。
取持相伴橋村修理之介、喜早山跡、廣田内膳、橋村図書、主人、久敬。
床掛物【賀茂翁の長歌】
料紙入【奉下皮籠。住よしの硯箱】  【南京花入】
芍薬【銘ぬれ鳥。明月】 
足附重箱【くわし。みかん砂糖漬。紅梅糖。むすびのし】 
茶【新茶山吹】
吸物【根来小盆。黒いと縁の椀。だしときからしみそ。越後冬至鳥、塩。御池のじゆんさい】
【南京仙山瓶】梅酒
【水精】石杯
右沈金彫の盆に居へ、本居へ出す。 【六角大盆】
取肴【打あわび。一塩かれい。糖漬筒込。露いも。柚の塩漬】
【仙斎わりぶた】大重箱【大かまぼこ。花柚。湯仕立。】
【南京色絵】大鉢【わが細作り。かきがつほ。またみる】
【南京新渡】ちよく【いりざけわさびからし酢】
【黄うるししのぶの絵】くわしわん【御汐殿浦大はまぐり】
【にしき手古いまり】中皿【氷ずし。大うなぎ】
【青磁うきぼたん】どんぶり鉢 【水ぜんじ菜。くり。はりせうが。ひたし】
なしもの【土州にとり】
夜食【根来朱不切平折敷】
【白南京深皿】皿【さば。めうが。ぼうふ。みそぬた】
【神事汁すまし】汁【あまのりせうが】
香のもの【夕顔花おち。沢庵漬】
めし【黒金いかけわん】
ひらき【うす葛。加賀かつらこ。生椎たけ、宮山産。あらせいとう】
焼物【ごす大皿。半白干。大ぎす干魚。つる藻】
【いまり錦手】茶わん【鯛のそぼろ。またゝび若菜】
飯後酒【南京大皿したみ添】
葵皿【子籠あめの魚。粕漬たら子。生姜糖】」
『蕉斎筆記五』平賀蕉斎著・8丁ウ、寛政七年條。(『本居宣長稿本全集』第1輯P920~921より再掲)。

  このメニューを再現した、松坂の老舗料亭「武蔵野」7代目竹中貞治氏は、「当時、三の膳まで出るのは大名膳ぐらいのもの。魚介の種類も豊富で、相当ぜいたくなものですね」(『伊勢人』No.120)と語る。
                           「御師邸内図」

『都考抜書』 (とこうばっしょ)

 延享3年7月28日、第1冊起筆する。表紙「都考抜書 京志 巻之一 延享三七月廿八日」(別1-3)。
  本書は現存6冊。宝暦元年年末ぐらいまで書き継がれたと推定される。
「古今の諸書から歴代の京都、特に平安京に関するあらゆる事項を抜書して考證に備えた大部の自筆稿本」(別1-解題5)。

 いわば京都文献集覧とも言うべき本で、宣長の京都憧憬の念から編まれた。『大日本天下四海画図』が空間の広がりの中で日本を捉えようとした試みであるのに対して、本書は京都という場所を史書や文学作品の記述という時間の流れの中で捉えようとしたものである。
(C) 本居宣長記念館

床の間の掛け軸

 鈴屋の軸というと、「県居大人之霊位」が有名だが、実はこれは特別なもので、普段は堀景山先生の書幅などが掛けてあった。床は、天井が斜めになり奥が高く設えてある。従って少し長めの軸でも掛かるようになっている。

「県居大人之霊位」

 読みは「あがたいのうしのれいい」。宣長自書。県居は賀茂真淵の号。大人は先生の意味。
  「あがたいのうし」と訓むことは、『玉勝間』巻6「県居大人の伝」で、本文中に「あがたゐの大人」とあり、同巻1「あがたゐのうしは古へ学びの親なる事」では、やはり本文中の「県居大人」に「ノ」の字を傍らに添えていることから明らか。
  『古事記伝』巻3のウシ、ヌシの説(宣長全集・9-127)では、「の」があれば「うし」、なければ「ぬし」となる。「県居之大人」と之の字が入らないのは「大人」の場合ウシと訓むためである。
  『文物類纂 一』に
 
「半切、虫食アリ、料紙唐紙、表装、箱書殿村安守 県居大人之霊位ト自ラ謹書シ祭祀ノ際用ヰラレシソ(天明元年十月大人十三年祭ヲ行ハレシ際ノ筆カ)」

とある。

「春思」(しゅんし)

  読みは「紅粉ロ(土偏に盧)に当たって弱柳垂る。金花の臘酒(ロウシュ)トビを解かす。笙歌日暮れて能く客を留む。酔殺す長安の軽薄児」(『唐詩選解』荻生徂徠)。賈至(カシ)作、堀景山書。『唐詩選』収載の七言絶句。

  大意は、「紅おしろいをつけてお店に出れば、道にはしだれ柳の木が美しい。その柳にも似た私の姿。黄金の花の浮かぶ今年の新酒、さあ春のお酒の口を開けましょう。笙を吹き、歌を歌い、日の落ちるまでお客を帰さずに、長安の浮かれ男たちを酔いつぶしてみせましょうぞ」。

  題の「春思」に、楽しげに見える春の景色も自分にはちっともおもしろくないという気持ちが込められているが、宣長は、この詩に京都での楽しい日々を投影していたのだろう。
  それにしても、景山の字はすばらしい。記念館以外にこの先生の字が残されていないのは不思議だ。

「上皇西巡南京歌」

 読みは「剣閣重関蜀の北門、上皇の帰馬雲の如く屯す。少帝長安に紫極を開き日月双べ懸けて乾坤を照らす」(『唐詩選解』荻生徂徠)。李白作、堀景山書。『唐詩選』収載。
  玄宗皇帝が、愛妃楊貴妃を喪うものの、安禄山の乱を平定し、少帝都に凱旋するのを詠んだ詩。故郷に帰る宣長へのはなむけとして書いたのであろう。

床の間の宣長

                       「常盤雪行の図 」 美濃賛 1幅
 えー、ここに掲げましたのは『犬夷評判記』の口絵でございまする。この本については「殿村安守」の項をごらんいただくとして、まず火鉢のそばで寝そべったりして本を読む女、これは別。めがねをかけて頭巾をかぶったおじいさん、何を隠そう、天下の読本作家・滝沢馬琴でございます。

 難しい人だったそうですが、ここでは機嫌がよい。オウオウ口には笑みも浮かべております。上の五言絶句も「頼」に「鳥」それに「斎」難しい字ですが、馬琴の別号。わしが馬琴じゃという案内でございます。

 何を馬琴は読んでいるのか、それはもう一枚をご覧ください。

                       「常盤雪行の図 」 美濃賛 1幅
 2枚の画には恐らく100里、つまり400キロの距離差がございます。馬琴が住むのは「江戸」、もう一方は「松坂」でございますが、では床の間の前に座る御仁はどなたかな。床の間をご覧ください。軸が掛かっておりますがそこに僅かに見えるのが「宣長」と言う署名。宣長の歌でございます。

 歌はなんて書いてあるの、ここで問題。これがわかった人は本居記念館までご連絡ください。正解者には粗品進呈致します。

 それはともかく、その脇には柱隠し、聯というものが掛かっております。ここのは「楽無極」とあります。

 ここまで言えばわかる人にはわかる。宣長の門人で、快楽主義者、そして本書『犬夷評判記』の関係者といえば「殿村安守」さんでございます。

 では、その横の役者みたいな男ぶりのいいのは誰?
 着物を見てください。魚の模様ですね。この人は安守の弟と言われる「櫟亭琴魚」(レキテイ・キンギョ)さんでございます。キンギョだから魚ですね。馬琴に入門し、読本も書きましたが若くして亡くなった。本書の校閲者です。

 馬琴は、自分の数少ない理解者として安守の名前を挙げている。安守からの手紙でも読んでいるのかな。これは冊子だから手紙じゃないよ。でも、安守の手紙はこんな冊子形態が多かったのですよ。でもちょっと厚すぎるかな。
 

 このように、宣長の書は広く普及し、その事が宣長家の家計を助けることにもなったし、また宣長の名前を有名にする力にもなった。
 今では床の間の軸なんて誰も見ないが、昔は、その家に訪れると座敷に案内される。挨拶が終わると次は床の間の軸の話になったものだ。絵に描かれるのはその人のバックボーンなのだ。
 例えば「鈴屋」、いくつかの軸が掛けられるが、一番有名で、また写真になるのは「県居大人之霊位」、つまり宣長は真淵先生の弟子ですというこれは「看板」のようなものだ。
 このほか、床の間に宣長の軸を掛けた例としては、「和泉真国」像がある。
 もう一つ大事なことがある。宣長の画像も同じように床の間に掛けられた。その様子は「4,浜田の殿様、宣長と会う」を見ていただきたい。

殿村常久(とのむら・つねひさ)

 安永8年(1779)~文政13年(1830)7月4日。享年52歳。安守の異母弟として安守に兄事し、また安守も良く慈しんだという。寛政12年(1800)には宣長の門人となり、師没後は春庭門人となる。春庭が亡くなった時には、『詞の八衢』の例語を詠み込んだ29首と、『詞の八衢』、『詞の通路』の書名を詠み込んだ歌2首を手向けた。また、滝沢馬琴のよき読者であったが、その交際も安守の影響であったと思われるが、常久没後の天保3年(1832)5月刊の『南総里見八犬伝』第8輯上帙の冒頭に、『八犬伝』の登場人物を詠み込んだ常久の8首の歌を載せ、追悼文を記している。その中に「性謙譲、而不遊於名利間」という句は、常久の人柄をよく表している。江戸で没して、松坂常念寺に葬られたのは同月18日であったという。著作には『宇津保物語年立』(文政4年刊か)、動詞の活用表『かたばみ草』、また『枕草子』の植物を考証した『千草の根ざし』(文政13年刊)、紀行『但馬日記』などがある。
                        伝・殿村常久像 鴨川井特画

殿村道応と安守

  宣長門人・殿村道応と、同じく門人・殿村安守の関係は、従来、道応(整方)の養嗣が安守と云われてきた。だが、天明4年に73歳で亡くなった道応と、同年6歳(安永8年生)の安守では年齢差が大きい。『座右雑記』(天理図書館所蔵)の安守序(天保11年3月)に「曾祖父翁の老のすゑに先師ともましはられたれはさて得られたるか」とあり、この老いの末に宣長と交わったとは、天明元年入門の道応を指すと考えられるので、二人は曾祖父と曾孫の関係であったことが明らかとなる。また大平差出三枝園(殿村安守)宛7月29日付書簡に、鈴屋同門の歌集を作りたいので「御曾祖父道応公同大刀自並浜口氏の歌の内たいかい成品にてもほしく御座候」と見える。
(C) 本居宣長記念館

殿村安守(とのむら・やすもり)

安永8年(1779)~弘化4年(1847)7月1日。享年69歳。何かと目立つ人である。
 「本居宣長72歳像」や「恩頼図」、また妙楽寺に宣長追善のため「本居社中」と書いて金十両を納めたその筆跡は紛れもなく安守だ。平田篤胤がやってきた時にも出迎えたのも安守、「柱掛鈴」の模造を春庭に作ってやったのも彼だという。しかも、馬琴の友人としても著名であるし、慶事には台所に「倹約無用」と書いた紙を貼ったという伝説もある。

 家は松坂中町。寛政6年、宣長に入門。同7年、富商であった本家を嗣ぐ。本姓、大神。通称、佐五平。号は三枝園、篠斎。常久の異母兄。宣長門人として、講釈や歌会に参加し、『古事記頒題歌集』の編に宣長と従事。また京都の鴨川井特(カモガワ・セイトク)を招き「本居宣長七十二歳像」を描かせた。また師の没後は、『歴朝詔詞解』の序文を執筆し、平田篤胤が松坂を訪れた時には、殿村常久、小津久足等と出迎えた。春庭の後見人としてもよく本居家を助けた。また、師の遺墨を集めた『座右雑記』を編む。安守は、馬琴の理解者、協力者としても知られるが、その馬琴の安守評を挙げる。

「(安守は)近頃隠居いたし佐六と改名いたし、紀州和歌山へ退隠いたしかの地に罷在り号をも篠斎と改候、全体本居宣長弟子にて、和学者に御座候へ共、性として和漢の小説をよみ、本をこのみ多く蔵弄いたし候故、見巧者にて評判も此ものゝ評よろしく御座候、さりながら一癖ある男子にてとかく人をほめてのみおかぬくせありて槍を出したがり候。才物に御座候、歌も上手にてよきうた折々聞え候也」
という。
 安守が馬琴の『八犬伝』と『朝夷巡島記』を評した『犬夷評判記』(ケンイヒョウバンキ)は、やがて近代へとつながる小説批評の先駆的な作品として評価されている。

殿村安守の命日

 安守の命日には諸説ある。足立巻一氏「篠斎の道楽」(『季刊・歴史と文学』1978年春、21号)に拠れば、  

『著作堂雑記』巻38に「伊勢松坂なる友人篠斎殿村佐六、弘化四年七月朔日死、享年六十九歳、丁未七月十九日誌」とある。  
菩提寺常念寺過去帳には「二日」とある。  
同寺墓石には「三日」とある。
の三つの説が挙げられる。参考まで墓誌を記す。

「実心斎意正道誠居士、願生室心精寿全大姉、覚玄斎正真道意居士」。裏面 「実、弘化四年丁未七月三日。願、安政七年庚申正月廿六日。覚、寛政十二年庚申七月三日」

 「小津清左衛門日記」の7月1日条に安守死去が、
また前日には重篤のことも記されていて、
命日問題は、7月1日と決しました。
                           殿村安守の墓
(C) 本居宣長記念館

富之助(とみのすけ)

 宣長の童名。命名者は一族の長老、紺屋町の小津八郎次。享保15年5月25日の生誕より、元文5年(1740)8月に弥四郎と改名するまで使われる。改名の理由は、徳川宗将(後に7代紀州藩主)正妻・富宮と同じ文字であることを憚ったため(『日記』)。
(C) 本居宣長記念館

「富松の歌」

 懐紙。荒木田久老(度会正董)詠。奉書紙(上藍下紫の雲形文様を漉いた内曇)。全17行。漢字平仮名(振り仮名は片仮名使用)。寸法 縦36.6cm、横49.3cm。製作年、宝暦13年(1764)10月頃か。田中繁三旧蔵。

【内容】
 宝暦13年10月4日、山田の祠官(伊勢神宮外宮神主)・橋本主計正身(橋村の誤りか、橋村なら久老父)、榎倉雅楽末雅、堤織部盛箕、橋村監物正令(久老実兄)、小田主殿正董(久老)、沢田將蔵永世の6名が、松坂郊外の射和村富山家に所蔵される『元暦校本万葉集』を調査に行った時、同家の主人定豪(サダカツ)の請いにより、庭園の富松を詠んだ万葉調の長歌。本懐紙は久老弱冠18歳の作のため、歌そのものは稚拙であるが、筆跡は見事である。

 「富松の歌」には「従五位下度会正董」の署名がある。正董(マサタダ)は若い頃の名乗り。またこの調査の直後の11月27日、従五位上に叙せられた(『荒木田久老歌文集並伝記』)。
                           「富松の歌」

頓阿(とんあ/とんな)

 正応2年(1289)~応安5年(1372)3月13日。南北朝時代の歌人。二条為世門の和歌四天王に数えられ、二条為明を助け『新拾遺和歌集』を完成した。著書には歌論書『井蛙抄』(セイアショウ)、家集『草庵集』等。平明温雅な歌風は、室町・江戸時代を通じて二条派、堂上派和歌の規範となる。また、宣長の評価も同じで、歌人としては定家などとは比ぶべくも無いが、ただ自分たちが歌を詠む時のお手本として、宣長は尊重、というかひいきにした。和歌史上の位置付けは『排蘆小船』に詳しい。
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