西行庵
『在京日記』
話は飛ぶが、フランス文学者・辰野隆の遊学が、やはり楽しいことで埋められている。
「彼の留学譚の、どこまでが本当なのかと書いたのは、もちろん嘘が臭うという意味ではない。いやな、苦しい体験もたくさんあったはずだが、それは言わない。報告しない。うーん、面白い、といってもらえそうなことだけを披露する。その、猛烈といいたいほどのサービス精神のせいで、ただもう指をくわえて羨むほかない贅沢三昧の留学生活と見えてしまう。七十何年も昔の東洋人のパリ留学となれば、それなりの傷を負わずにはすまなかったろうに。私が言いたいのはそのことだ。」『辰野隆 日仏の円形広場』出口裕弘・P72
事情は宣長も同じであろう。利息暮らしの中からの仕送りでやっていくことは困難であったことは容易に想像がつく。
母・勝の書簡には、
「ちりめんわた入致しかけ申候、つきつき故、気ニにも入申ましくとそんし候。まつ致し進し申へく候まゝ、下着ニ被成へく候」
最初の三輪参詣
「神のみあらかはなくて。おくなる木しげき山ををがみ奉る。拝殿といふは。いといかめしくめでたきに。ねぎかんなぎなどやうの
『済世録』(さいせいろく)
- 安永7年(1778)49歳。
- 安永8年(1779)3月から年末まで。50歳。
- 安永9年(1780)51歳。
- 安永10年(1781)52歳。
- 天明2年(1782)53歳。
- 天明3年(1783)一部欠失。54歳。
- 寛政4年、5年(1792/1793)63歳、64歳。
- 寛政6年、7年、8年(1794/1795/1796)65歳、66歳、67歳。
- 寛政9年(1797)から11年(1799)一部欠失。68歳、69歳、70歳。
- 寛政12年(1780)から、宣長没後の文化4年(1807)まで。71歳、72歳。裏表紙に「卅八」(38)と書かれていて、併せて38冊あったことが分かる。
斎藤彦麿(さいとう・ひこまろ)
坂倉茂樹(さかくら・しげき)
坂内川(さかないがわ)
桜
酒を飲む大平
佐佐木信綱の松阪時代(ささきのぶつなのまつさかじだい)
佐佐木信綱の「松坂の一夜」
また教科書の本となった「原文」は佐佐木の『賀茂真淵と本居宣長』(大正6年4月10日)、『増訂賀茂真淵と本居宣長』(昭和10年1月10日)に載る。両者には措辞上の修訂があるほか、一番最後の「吾が国文学史の上に、不滅の光を放ってゐるのである」(初版)が、「国学史」(増訂版)と変わっている。
【関連資料】 | |
◆ 資料 |
佐佐木信綱の「松坂の一夜」 資料
昭和10年1月10日発行・著者佐佐木信綱・発行所湯川弘文社。175頁~177頁。
松坂の一夜
時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢参りの群も、春さきほどには騒がしからぬ 伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけたのは、魚町の小児科医で年の若い本居舜庵であつた。医師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇国学の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主(とくい)であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ残念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立ちよりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここへ」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は、「何でも田安様の御用で、山城から大和とお廻りになつて、帰途(かへり)に参宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫(むくみ)が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、参宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは残念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の様子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生(ひらお)町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次なる垣鼻(かいばな)村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて来た。
数日の後、岡部衛士は神宮の参拝をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に再び、松坂なる新上屋に宿つた。もし帰りにまた泊まられることがあつたらば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使いを得た。樹敬寺の塔頭なる嶺松院の歌会にいつて、今しも帰つて来た彼は、取るものも取あへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は廿五、その弟の春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衛士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。
賀茂県主真淵通称岡部衛士は、当年六十七歳、その大著なる冠辞考、万葉考なども既に成り、将軍有徳公の第二子田安中納言宗武の国学の師として、その名嘖々(※さくさく)たる一世の老大家である。年老いたれども頬豊かなるこの老学者に相対せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才気を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壮年。しかも彼は廿三歳にして京都に遊学し、医術を学び、廿八歳にして松坂に帰り医を業として居たが、京都で学んだのは啻(※ただ)に医術のみでなくして、契沖の著書を読破し国学の蘊蓄も深かつたのである。
舜庵は長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき対面を喜んで、かねて志して居る古事記の注釈に就いてその計画を語つた。老学者は若人の言を静かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意を清く離れて古へのまことの意を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには万葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は専ら万葉を明らめて居た間に、既にかく老いて、残りの齢いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。しかし世の学問に志す者は、とかく低いところを経ないで、すぐに高い処へ登らうとする弊がある。それで低いところをさへ得る事が出来ぬのである。此のむねを忘れずに心にしめて、まづ低いところをよく固めておいて、さて高いところに登るがよい」と諭した。
夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門(かど)のみな閉ざされ果てた深夜に、老学者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律義者で、いつも遅くまで夜なべをしてをる。今夜もとんとんと桶の箍 をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳蔵の仲介で名簿(みやうぶ)をさゝげ、うけひごとをしるして、県居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾来松坂と江戸との間、飛脚の往来に、彼は問ひ此(これ)は答へた。門人とはいへ、その相会うたことは纔(※わず)かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
今を去る百五十余年前、宝暦十三年五月二十五日の夜、伊勢国飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老学者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が国学史の上に、不滅の光を放つて居るのである。
附言、余幼くて松阪に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの数節等をあざなひて、この小篇をものしつ。県居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、当夜宣長と同行せし者(尾張屋太右衛門)ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
以下、「和泉和麿の宣長評」まで十篇は、大正六年四月以前の執筆にかかる。 (※の後のふりがなは、後補)
楽声舎(ささのや)
察然和尚(さつぜんおしょう)
去ってゆく友
猿田彦神社の宣長歌碑
二見(宇治土公)定津(1783~1822)は、宇治土公定静の子として当地に生まれ、伯父にあたる宇治土公定哉を嗣ぐ。寛政4年大内人に任ぜられた。通称は右兵衛。内宮権祢宜。文政5年閏正月3日没、享年40。その筆による御神号碑など全国に多い。貞幹前宮司から5代前にあたる。寛政8年(1796)2月宣長に入門。『授業門人姓名録』に圏点一。
宣長は、寛政11年4月4日、両宮参拝の途次二見定津を訪い、その夜一宿する。宣長の『日記』に「参宮、其夜宿宇治二見左兵衛定津宅」とある。
碑面の歌並びに筆跡は、猿田彦神社所蔵懐紙から採る。
あるしによみてまゐらす、宣長
神世より神の御末とつたへ来て名くはし宇治の土公わかせ
この前年2月から4月、定津が松坂に来ていたことが、竹村茂雄の日記や、栗田土満「寛政十年伊勢日記」に見える(「岡の屋年譜考(二)」高倉一紀『皇學館大學神道研究所紀要』10号)。
また思文閣目録(平成3年10月)に載る荒木田経雅短冊には
「寛政十一年八月の一日の日宇治土公定津五十鈴川の歌よみて
たうへよとこひよこすに よみて送りたりける
五十鈴川しき浪のよるひるとなくすむをためしにいのる君か代 経雅」
とある。
賛(四十四歳自画自賛像)
30年ぶりの上京
「わかゝしほどしばしば京に通ひしも卅年のあなたに成にけることを思ひて鈴鹿のあたりにて
すずか川六十のおいの浪こえて八十瀬わたるも命なりけり
年ふりしひたひの浪を鈴鹿川かはらぬ水やいかに見るらん
命あれば六十の老の坂こへて又も鈴鹿の山路をぞふる
あしひきの岩根こごしき鈴鹿路をかちよりゆかばゆきがてむかも
かごといふ物にのりてこゆとて也」
「ひたひの浪」とは額の皺だ。
賛の歌
相坂や行来も絶て深き夜にあらしぞこゆる関の杉むら、
高行
したふぞよ色音になれて花鳥のゆくへもしらぬ春の別を、
常雄
暮深き花の木間に見え染めてひかりも匂う春の夜の月、
茂穂
梢ふく風も音そふまつがねの岩もるし水むすぶすずしさ、元之
暁の夢は跡なき手まくらに露吹のこす秋のはつ風、戒言
花の雪うづむ山路を尋ねつつおいたる駒にまかせてや見む、中行
あふと見し夢の面影かき絶て物おもはしきさよの手まくら、直見
庭の面は桜ちりしく春風にさそはぬこけのいろぞきえゆく、宣長
ふじの根はなかなか雲にうづもれてすそ野につもる今朝のしら雪、棟隆
☆宣長の歌は『鈴屋集』には出ているが、編年体の歌集『石上稿』等に載っていないので詠んだ年は不明。
賛(四十四歳自画自賛像)
賛の文字
だが、不思議なことに1と2の字は細部に至るまで同じである。このようなことは可能であろうか。そもそも複製を作るのならともかく、歌の文字は別に寸分違わぬものを書く必要はないし、また容易なことではない。では透き写しの可能性はないのだろうか。でも、自分の字を透写するだろうか。
また、2の料紙は唐紙であり、透き写しは先ず無理である。方法としては臨模しかない。それでこれだけ似せられるとすると、ひょっとしたら2は本職の手になる、つまり宣長ではない、臨模の可能性が出てくる。
塩崎宋恕(しおざき・そうじょ)
『鈴屋集』巻6には「塩崎某が家の白猪楼の詞」を載せる。
『日記』は「十三日、夜月清明」と簡略だが、『自選歌』巻2の詞書に
「八月十三夜はくもりたりけるに九月十三夜の月のいとさやかなりけれは」(宣長全集・18-232)
とあり、また『石上稿』に
「九月十三夜塩崎某か家の白猪楼といふ高き屋にて月を見て、高き屋の名におふ山も月影にそれとしら猪の峯そまちかき」(宣長全集・15-413)
とある。
宋恕の名は『(明和六年)松坂町役所支配分限調帳』(『松阪市史』11-306)にも見える。『諸用帳』によれば、壱岐の出産(寛政11年6月18日)後の7月12日頃に、24匁を支払っている。あるいは産科であったか。また、『学問所建設願書下書』に宣長と名を連ねる。松阪市立歴史民俗資料館所蔵「引札」に「黒丸子引札、先師後藤友一郎直伝竹内純製、弘所勢州松坂新座町塩崎宋恕」とある。
『字音仮字用格』
内容は、漢字音を仮名で書く場合の同音の書き分けを、古代の用法に則して正し、仮名遣いを定めたもの。
まず、アヤワ3行の音の違いについて「喉音三行弁」「おを所属弁」で論じ、五十音図で「お」は「ア行」に、「を」は「ワ行」に所属することを明らかにした。
次に「字音仮名総論」の項において中国の音韻書『韻鏡』と仮名遣いの関係を説き、イヰ、エヱ、オヲ、及びこれを含むもの、ウ、フと書かれて紛れやすいものについて項目を立てその下にその仮名で書く漢字を列挙し、『韻鏡』と古文献の用例によって説明を与え、漢音、呉音の別も指摘する。
字音仮名遣いについては、それまでも研究があったが、本書はそれを本格的に取り上げ、その説明に『韻鏡』と万葉仮名を結びつけたのは本書が最初である。また、オヲの所属を改めたことは画期的なことであった。
志賀島 (しかのしま)
『万葉集』にも巻16の「筑前国志賀の白水郎の歌十首」など島の海人を詠む歌が多い。
今、その白水郎(アマ)の歌の左注を要約すると、
神亀年間、太宰府が筑前国宗像の宗形部津麻呂に対馬まで食糧を送る船頭役に任じた。津麻呂は志賀村の白水郎荒雄の所に行き、ちょっと頼みたいことがあると言うと、荒雄は、君とは住むところも違うが、船乗りとして長く一緒に仕事をしてきた。心は兄弟より篤く、君のために死ぬことがあっても平気だよと答えた。津麻呂は言った、役所から対馬まで食糧を運べと言うが、私は年をとって無理だ。だから頼みに来たのだ。代わってくれないか。荒雄は承知し、肥前国松浦県(アガタ)の美禰良久(宣長訓・ミミラク)から船出して対馬に向かったところ、突然空が曇り暴風が吹き、雨が降り、天候回復しない内に沈没してしまった。荒雄の妻や子は子牛が母牛を慕うようにこの歌を詠んだのだ。また一説に山上憶良が悲しむ家族を見て同情し思いを述べてこの歌を作ったのだという。
『万葉集』宣長手沢本からその中の一首を引いてみる。
歌は(3863)
荒雄らが ゆきにし日より 志賀の海人の 大浦田沼(タヌ)は
さぶしかるかも
頭注
「宣云志賀ハ上古ヨリ海士ノ名高キ処ナレバ海士ノ大浦ト云フベシ、サレバ荒雄ガ去シヨリ此志賀ノ浦ハサビシク思ハルト也、田沼ハソノ浦ニアル田沼也」
「宣」は「宣長」のこと。宣長の解釈という印。
歌の下にも宣長の注が付く。
「荒雄ガ行テカヘラネバ妻子ガワザニハ田ヲ作リカネ、水ヲマカザレカヌル心也」
海人は漁業の外、製塩や航海に携わっていた。この島で金印が発見された。
仕官した宣長・断った曙覧
「重く召せどいなみしは曙覧これは又
低く召すに仕へてはぢざりし宣長 常憲」
「五人扶持に召せば召されていなまざる
このすなほさは君ひとりのもの 常憲」『春雷』
と言う歌がある。
橘曙覧(タチバナノアケミ・1812~68)は越前国福井の人。田中大秀門人。宣長を敬仰し、奥墓を参詣、鈴屋を訪う。
「楽しみは鈴屋大人の後に生まれその御諭をうくる思う時 曙覧」
『志濃夫廼舎歌集』
色紙
「敷島の歌」(しきしまのうた)
この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。
賛の全文は、
筆のついでに、
しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
歌は、画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。
宣長は答えます。
「敷島の歌」その後
うるはしきよしなりと、先師いひ置かれたり」
【『藤垣内答問録の一』】
この回答は享和3年(1803)5月28日で、信友が質問したのは、宣長没後一年余しか経っていない、享和2年暮れから3年初め頃であったと思われる。信友が藤林誠継に写させた宣長像に大平の賛(「しきしまの」の歌)を貰い、「鈴屋大人の肖像を写したる由縁」(『秋廼奈古理』所収)を書いたのが享和2年11月29日であったこともこの質問の背景にはある。
また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。
田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。
「い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞(い)ては信ずべし。京の者が聞(け)ば、王様の不面目也。やまとだましいと云(ふ)ことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましいが国の臭気也、おのれが像の上に書(き)しとぞ。
敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花
とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで「しき嶌のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云(う)て笑(ひ)し也。」『膽大小心録』第101条【『日本古典文学大系 上田秋成集』岩波書店】
信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。
この歌は、第5期国定国語教科書初等科国語7(昭和18年刊)「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられた。山中恒氏『御民ワレ ボクラ少国民第二部』【1975年11月刊、辺境社】の記述によれば、この教材は「散文 国体観念教材。五首の短歌とその解説。」といった内容である。教材の表題は、巻頭の歌
御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
から採っている。また、宣長の歌は次のように紹介されている。
さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」 『御民ワレ ボクラ少国民第二部』P312。
特別攻撃隊を讃える歌
忘るな昭和十六年
極月八日大君の
醜の御盾と出で立って
朝日桜の若ざくら
散った特別攻撃隊
岩佐中佐と八烈士
このほかに「しきしまの」の歌が武士道と結びついた例を挙げる。最初は安政4年12月7日生まれで、父は幕臣で表銃隊取締役だったと言う人の文章。他の一つは奈良女子高等師範学校教官の本からの引用だが、こちらは手元に本が無いため、正確な引用ではない旨先にお断りしておく。
「花は佐久良」山下重民、『国民雑誌』第3巻8号、明治45年4月15日刊(『風俗画報・山下重民文集』収載)。
「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、
敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花
という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館。
敷島の歌はなぜ『鈴屋集』に載らないか
四条烏丸の宣長
ここから南西に徒歩5分。堀景山の宅跡がある。
碑が建つ。「本居宣長先生修学之地」。
右側面には
四書五経を学ぶ
時代
文化に目を転じると、18世紀は文化東漸期であり、地方へ拡散した時代であった。
元禄以降、文化は漸次江戸にその中心が移っていき、約100年後の文化文政期、江戸に文化の花が開く。この時代、前半期は、地方出身者が京都や大坂で学び、江戸で職を得ると言うパターンができる。その一人が宣長の師の賀茂真淵であった。また、真淵門人でもある平賀源内もその一人だ。宝暦年間(1751~64)以後の後半期となると、江戸に独自文化が形成される。京都も伝統文化の中心地というポジションを保持する。また、全国各地で、知的好奇心に目覚めた人たちが出てきた。これは、貨幣経済が農村部にまで浸透し、数々の矛盾が生じてきたこととも関係がある。彼らの中には、宣長の学問を積極的に受け入れ、支持する人たちも出てきた。
自著を勧める
質疑応答の勧め
だから、先生に対しても、また自分自身に対しても、納得できるまで質問をし、考えます。
友人の荒木田経雅(ツネタダ)に対してこんなことを言っています。
この前の麻笥(オケ)や鈴についての私の回答について、疑問点が有れば何回でも質問してきてください。このようなことは得てして何回も質疑応答を繰り返すうちに段々良い考えが出てくるものです。だから遠慮無く何回も質問してきてください。
この質問と回答は『答問録』に載っています。
【原文】
「一、先達而申上候麻笥・鈴ノ事、御不審御座候ハハ、幾度も可被仰下候、ケ様之事ハとかく数へん往復仕り候へば、段々よき考へ出申し候物ニ御座候ヘハ、無御遠慮いく度も可被仰下候」(安永7年6月24日付 宣長差出、荒木田経雅宛書簡)
質疑応答
優れた質問は、師の学問も鍛えてくれる。
安永7年6月24日付荒木田経雅宛書簡。
質問
ある日のこと、友人が、藤原俊成(シュウゼイ)の「恋せずは人は心もなからまし物のあはれもこれよりぞしる」と言う歌を示し、ここに出てくる「あわれ」という言葉には何か深い意味があるのか、と聞いた。
この歌そのものは宣長も何度も目にしていたが、改めて考えてみると、この「あわれ」と言う一語により、和歌や『源氏物語』など物語を結ぶ一本の線がありありと浮かびあがってくることに気づいた。
早速に、有り合わせの紙に書いたのが「阿波礼弁」(あわれべん)である。
人の心は、嬉しいとき悲しいとき、いつも揺れ動く。その時に出る「ああ」という嘆息が、「あわれ」である。心の振幅の大きな時、その嘆息の声は歌となる。
有名な「物のあわれを知る」説の誕生だ。
この「物のあわれ」の発見も決して偶然ではない。一つには、京都時代からの和歌や物語についての問題意識が生み出したと言えるし、また質問を真剣に考えたことの結果とも言える。
宣長への質問を集めたのが『答問録』である。
「師の説になづまざること」
柴田常昭(しばた・つねあき)
最近、津の石水博物館で、家集『常昭家集』が発見された。同書は寛政2年7月、それまでの和歌を自ら整理し、更に増補したもの。
宣長は
宣長の追悼歌
夏柴田常昭が身まかりけるに寄夢無情【追善勧進】
さめぬるかけし頼みのいふかひもなき玉のをのみじか夜の夢
また、寛政8年8月、桑名の帰り津の小西宅に宿った宣長は、夜、芝原春房と語らい、常昭が生きていたらきっとこの場にやってきたであろうにと悲しみ、歌を手向けている。
なきたまも通ふ夢路は有ものをなどてこよひも見えこざりけむ」
『石上稿補遺』
芝原春房(しばはら・はるふさ)
『紫文要領』(しぶんようりょう)
本書は、『源氏物語』研究に一区切りつけて『古事記』研究の着手しようとしてまとめていた物であろう。上下2巻で140丁(280ページ)もある本を、真淵と対面後2週間で書くとは考えられないので、それ以前の着手と推定される。真淵と会って『万葉集』の質疑を開始するべく大急ぎで完成を急いだのかもしれない。
自分の作品を人に見せること 1
詠んだ歌や、また著作を見せることへの宣長の思いが語られている。
まず歌を見せたときのこと。
歌でも何でも、誰かに見せたときに、
ああ結構ですねえとだけ言ってそれに対しての批評をしないのは誠意に欠けていると思います。
あなたのような批評をしてくださってこそ、見せた甲斐があるというものです。
大変嬉しかったので、またまた下手くそな歌、古風も近風も、
長歌も短歌も書き連ねてお見せします。面倒に思われることでしょうが、
一覧いただき、良いこと悪いこと思われたことを包み隠さず聞かせてください。
「かんのくたり〔上の条〕さまざまの事、くはしくあげつらひの給はせし事、
かへすがへすうれしくなん思ひ給ふる。歌も何も、人に見せたるに、たゞよしとのみ物して、
わろき事いはぬは、いとまめならぬわざ也。君のしめし給へるごとくてこそ、
見せ奉しかひありけれ。これがうれしさに、又しもひがひがしき歌ども、
ふるきふり近きふり、長きみじかき、かきつらねて見せ奉る。
うるさくはおぼすとも、一わたり見給ひて、
又々もよきあしきおぼさんまゝに、つゝみ給はでしめし給へ。」
自分の作品を人に見せること 2
詠んだ歌や、また著作を見せることへの宣長の思いが語られている。
この間お会いしたときに話されましたね。
これは、まだきちんとしたものではなく、
ただ一応考えてみて、思いつきのまま書いたもので、
ごく近しい一人二人にそっと見せたのですが、
どうやって士清さんはそれをごらんになったのですか。
どう考えても不思議だなあ。
� 『古事記』はもっとも古い本で、『日本書紀』のように文章を飾ることなく
我が国の「真実の道」がどのようなものであるのか、
この本の中に書かれているので、そんな大事な本を、
中途半端な研究で読み解けるはずがありません。
たとえ解けたと思っても、そう簡単に結論を出すものではないと思います。
「古典」というものは、底がないといって良いほど奥深いもので、
何度も考えていると、前に言ったことの誤りに気づくものだ。
『日本書紀』研究を見るとそのことがよくわかりますね
(意訳:一部省略)。
そのことを考えると、後世に恥をさらすようなもので、
神様の御心にも背くことなので、今回の『記伝』執筆は、
書いたあともまた読み直して、その上でやっと見ていただけるわけで、
そこに到らぬ内はどうしてお見せすることが出来ましょう。
すでに一部をごらんになったことも、本当は不本意なことです。
ましてや私から書いたものをお見せするなどとても出来ることではありませんが、
しかし熱心に言ってくださることのにお答えしないのも失礼なので、一冊お届けします。
「まことや、おのが『古事記』をとける物、一まき見給へるよし、
一日の御物語にうけ給はりき。これはいまだよくもとゝのへず、
たゞ一わたり考へこゝろみて、思ひうるまゝにまづかきつけおきしを、
よそならぬ一人二人に、ひそかに見せつるを
、いかにして見給ひつるにか、いといといぶかしくなん。
そもそもかの『記』は、ふるきが中のふるき書(フミ)にて、
『書紀』のやうにかざりおほき物ならず。
大よそわが御国の道のまことの有様は、かれになんそなはりにたれば、
末の代のおほろけのまなびにて、明らめしるべきわざにあらず。
たとひ明らめ知たりと思ふ共、たはやすく思ひ定むべきにあらず。
すべてふるき書は、そこひ〔底〕もなき物にて、
くりかへし思へば、思ふまにまにさきざきの誤を覚ゆるわざにし侍れば、
いともいともだいじになん侍る。
世々の名ゞたる人々の、『書紀』の神代の巻をとける説共を見るに、
とりどりにわれかしこしと思ひいへるも、みなからぶみにへつらひたる私事にて、
古への道の意(ココロ)にかなへるはひとつも見えず、誤れる事のみなるを思ふに付ては、
いとど後のかしこき人の見んことはづかしく、かつは神の御心もかしこければ、
かの注釈は、猶いく度(タビ)もいく度もかへさひ考へ定めて後こそ、人にも見せ奉るべけれ、
まだしき程にはいかでか物し侍らん。さきにかたはし見給ひしだに、心ならず思ひ給ふる物を、
まして全くはいかでかと、いとつゝましく思ひ給ふる物から、
此度も又いともねんごろに、見まほしうのたまはするを、
猶いなみ申さん はた いとかたじけなければ、
えしもつゝみはてず、又一巻見せ奉る。ゆめおしむと な おぼしそ。あなかしこ、
本居宣長
八月の十二日
谷川の君の御もとにまうす」
『事文類聚』(じぶんるいじゅう)
樹敬寺(じゅきょうじ)
松阪市新町884番地。浄土宗。
小津家(本居家)の菩提寺。村田家の菩提寺でもある。魚町宣長宅から約12分。
宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。境内には8つの塔頭(タッチュウ)があった。山門近くの嶺松院は宣長歌会の会場。また法樹院は、宣長の家と寺の取り次ぎを行った。
境内の一族の墓の中に、宣長夫婦、また春庭夫婦の墓もある。
春庵(しゅんあん)
床の間の掛け軸
読みは「あがたいのうしのれいい」。宣長自書。県居は賀茂真淵の号。大人は先生の意味。
「あがたいのうし」と訓むことは、『玉勝間』巻6「県居大人の伝」で、本文中に「あがたゐの大人」とあり、同巻1「あがたゐのうしは古へ学びの親なる事」では、やはり本文中の「県居大人」に「ノ」の字を傍らに添えていることから明らか。
『古事記伝』巻3のウシ、ヌシの説(宣長全集・9-127)では、「の」があれば「うし」、なければ「ぬし」となる。「県居之大人」と之の字が入らないのは「大人」の場合ウシと訓むためである。
『文物類纂 一』に
「半切、虫食アリ、料紙唐紙、表装、箱書殿村安守 県居大人之霊位ト自ラ謹書シ祭祀ノ際用ヰラレシソ(天明元年十月大人十三年祭ヲ行ハレシ際ノ筆カ)」
とある。
読みは「紅粉ロ(土偏に盧)に当たって弱柳垂る。金花の臘酒(ロウシュ)トビを解かす。笙歌日暮れて能く客を留む。酔殺す長安の軽薄児」(『唐詩選解』荻生徂徠)。賈至(カシ)作、堀景山書。『唐詩選』収載の七言絶句。
大意は、「紅おしろいをつけてお店に出れば、道にはしだれ柳の木が美しい。その柳にも似た私の姿。黄金の花の浮かぶ今年の新酒、さあ春のお酒の口を開けましょう。笙を吹き、歌を歌い、日の落ちるまでお客を帰さずに、長安の浮かれ男たちを酔いつぶしてみせましょうぞ」。
題の「春思」に、楽しげに見える春の景色も自分にはちっともおもしろくないという気持ちが込められているが、宣長は、この詩に京都での楽しい日々を投影していたのだろう。
それにしても、景山の字はすばらしい。記念館以外にこの先生の字が残されていないのは不思議だ。
『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)
■書誌■
版本。宣長手沢本。30巻15冊。袋綴冊子装。薄茶表紙。
縦28.5cm、横20.5cm。匡郭、縦22.3cm、横17.2cm。片面行数8行。
墨付(1)76枚、(2)53枚、(3)76枚、(4)63枚、(5)56枚、(6)73枚、(7)83枚、(8)70枚、(9)70枚、(10)70枚、(11)72枚、(12)74枚、(13)65枚、(14)56枚、(15)91枚。
外題「左伝、一之二(以下・巻数)」。
内題「春秋経伝集解隠公第一」。
小口「春秋、一之二(以下・巻数」。柱刻「左伝一(以下・巻数)、丁数」。
蔵書印「鈴屋之印」他。
【奥書】
第1冊(巻2) | 「右書入改点等皆是、景山先生所是正也、予以其自筆本写之云爾、本居栄貞」。 |
第2冊(巻4) | 「右書入改点等、景山先生所是正也、本居栄貞」。 |
第3冊(巻6) | 「右書入改点等、景山先生所是正也、本居栄貞」。 |
第4冊(巻8) | 「右書入改点等皆是、景山先生所考正、而予以其自筆本写之云爾、宝暦三年癸酉十月卅日、本居栄貞記」。 |
第5冊(巻10) | 「右書入改点等皆是、景山先生所考正也、予以其自筆本写之云爾、宝暦四年甲戌正月六日、本居栄貞記」。 |
第6冊(巻12) | 「右書入改点等、我、景山屈先生所是正也、予以其自筆本写之云爾、宝暦四年閏二月十三日此一策畢、本居栄貞」。 |
第7冊(巻14) | 「右標註改点等、我、景山屈先生所考加也、予以其自筆本写焉云爾、宝暦四年甲戌五月二日畢此一策矣、門生本居栄貞」。 |
第8冊(巻16) | 「右標註音点等皆、景山屈先生所考正也、即以、先生自筆本写之、宝暦五年乙亥二月八日此一册畢、後学、本居栄貞謹識」。 |
第9冊(巻18) | 「右鼇頭旁註訓点等皆是、景山先生所是正也、予以其自筆本改正之云爾、宝暦五年乙亥四月八日、本居春菴清宣長謹書」。 |
第10冊(巻20) | 「右訓点句解旁註等皆是、景山屈先生所考正也、以自筆本写之矣、宝暦五年乙亥六月朔日、清春菴本居宣長謹識」。 |
第11冊(巻22) | 「右句読訓点旁註鼇頭是、景山先生所考校也、以其自筆本瀉之畢、宝暦五年乙亥九月四日、清蕣菴宣長謹書」。 |
第12冊(巻24) | 「右鼇頭旁註訓点者、景山先生所集識考正也、予今以其家蔵自筆之本書写之、宝暦五年十一月五日畢此一策矣、蕣菴清宣長謹書」。 |
第 13冊(巻26) | 「右訓点句読旁註鼇頭者、景山屈先生所校正也、予以自筆本書附之云爾、宝暦六年二月三日畢此一策、清蕣庵本居宣長謹書」。 |
第14冊(巻28) | 「右国読訓点句読訓点旁註皆頭是、景山屈先生所校正也、予以其家蔵自書本附之、雖一字半点不加臆断矣謹写云、宝暦六年丙子四月二日、本居宣長謹書」。 |
第15冊(巻30) | 「右春秋左氏伝全十五本訓点国読旁註句読是校正也、予以其自書之本写之全部正畢矣、時宝暦六年丙子年六月二日、伊勢飯高春庵本居宣長謹書乎平安寓居」。 |
『衝口発』論争の仕掛け人
史料から反論の経過を推測してみよう。
天明5年、京都の高橋某(あるいは橋本経亮の師・高橋図南の子宗澄であろうか)から、『衝口発』を借りて読んだ渡辺重名は、内容の杜撰に驚き、先生の久老や宣長に徹底反論して貰おうと考えた。
まず山田(伊勢市)に持ってきて久老に見せた。
9月8日には三井高蔭が重名の書簡でこの本のことを知った。この書簡は、大平が参宮で蓬莱尚賢の所に寄った時に言付かってきたものである。そこには、高橋氏がこの本を宣長にも見てもらえと言うので連絡する。ちょっと曰くのある本らしいので、高橋氏はまず三井高蔭に見せてそれから山田や松坂でも広めるようにと言う。
さて、一覧した久老は、稲懸大平を介して宣長に送った。
宣長は直ちに『鉗狂人』を書き、それを大平は重名に告げ、同時刊行という久老のもまだ見ていないが出来ているのだろうと言う。今、久老の反論は残っていない。
貞幹と重名は、同じ日野資枝の門人だ。また、高橋が高橋図南、また宗澄であるとすると、貞幹は図南に師事しているので、高橋が見せろと云った趣意もわからない。
不思議な論争だが、これがその後、上田秋成と宣長の論争へと展開していく。
【史料】
1,宣長『鉗狂人』(ケンキョウジン)に付く度会神主正兌の序(文政2年)
「ひとりのたぶれありて、ゆゝしともかしこしともいはむかたなきたは言ども、かきはなちたる物ありけり、さるを、そのころ豊後人重名、京にものまなびしてありけるに、或人その書をみせければいたくうれたみて、かゝるふみをなむ見得はンべる、いかでこのたはわざとくうちきため給へかしと、鈴屋翁がりいひおこせたるに、うべなひていととく物せられたる此の書になむ云々」(宣長全集・8-303)
2,『三井高蔭日記』天明5年9月8日条
「宗十郎様、造酒、先刻可申上奉存候処及失念候間申上候、衝口発と申候書高橋氏より借用仕候而山田ヘ持参仕候、右之書本居大人ヘ入御覧候様ニ高橋生も被申候、少々趣意有之候書物之義ニ御座候間、高橋氏より貴家へ被指出候而山田御当所等ニも流布致候由趣ニ仕度候下略之」
3,天明5年11月12日付、荒木田久老宛大平書簡(射和文庫所蔵)
「日外は京高橋家之写 本一冊飛脚へ御出し被下早束入手本居翁へ相渡候、甚にくむへき書之由御同懐之至ニ奉存候、評論も何角多用ニて段々延引相成候、本月中ニハ相成候半と奉存候」
4,天明5年12月、渡辺重名宛大平書簡(『国学者伝記集成』P945)
「右衝口発の評、鉗狂人と申す書一巻、此度鈴屋大人述作相成候間、御約束の通早速御地へ相登せ候。右論評、先達て御約束には、山田五十槻園と鈴屋と両先生の評、一時に相登せ可申のよしに御座候所、もはや五十槻園にも、御出来とは奉察候へ共、いまだ杉(引用者注「松」か)坂へ到来無之候て待兼申候」。
浄土宗(じょうどしゅう)
このような環境下で育った宣長は、元文4年(1739)、10歳、小石川伝通院27世主・走誉上人を戒師として血脈を受け法名英笑を与えられた。その後も『円光大師伝』や「浄家名目」等の書写と、修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。延享5年(1748)、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺縁の通誉上人の墓に参詣。御座敷を拝見し大僧正より十念を授かる。同年七月には父の命日に南無阿弥陀仏を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。この時期の信仰については『覚』の「精進」、「日々動作勒記」に詳しい。またこの前後しばしば融通念仏、十万人講等の仏事を修している。今井田家時代については分からないが、浄土宗信仰は帰宅後も続き、京都時代友人宛書簡で「少来甚だ仏を好む」(岩崎栄令宛)とも、「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好みこれを信じこれを楽しむ」(宝暦7年上柳敬基宛)とも言う。
その後、『古事記』研究の深化につれ仏教信仰に変化が見られる。一つの転機として考えられるのが『直霊』執筆(42歳)頃か。但し、家の宗教としての仏事を執り行うことは以前と変わることなく、日常生活に於ける寺院との関わりにも全く変化は見られない。晩年、書斎で『浄土三部経』を読誦したというのは根拠のない説であるが、旧蔵書中には『法華経』や『浄土三部経』等仏書も混じり、仏事の際には読誦することもあったと思われる。安永6年樹敬寺住職となった法誉快遵との交友や、『遺言書』での葬儀次第、また戒名「高岳院石上道啓居士」など自ら命名するなどは樹敬寺との深い信頼関係に基づくものと言える。
【参考文献】
『宣長少年と樹敬寺』山下法亮著・昭和43年9月29日。
常念寺
書簡
食事
> >「食べることより学問だ」
> >「普段の食事」
> >「豆腐」
> >「到来物」
> >「特別な時の食べ物」
> >「十六島海苔」
> >「毎月の宣長さん」「お米と雀」
> >「資料編」『玉勝間』「うはべをつくる世のならひ」
> >「生洲」
書斎の鏡
学者と鏡、この取り合わせをいぶかしく思われるかもしれないが、実は宣長の机の近くには鏡が置かれていた。師の没後に鈴屋の書斎の整理に通った門人青木茂房は、書斎の本棚と机の傍らの鏡を歌に詠み、亡き師を偲ぶ。記念館に収蔵される『門人哀傷歌』と題した包みの中の詠草(縦17.5cm、横46.5cm)から引く。
あさよひに見ましゝふみをこのごろの
あさよひにきてみるぞかなしき
又御つくゑのわたりにおきてもてあそび給ひしかゞみを見ゐでゝ
なき君のかげはとまらでいたづらに
月日うつろふますかゝみ哉 茂房」
大平による特に事実関係の添削と書き入れ多く、その松坂での見聞記事は信頼に足ると見てよい。滞在中、殿村安守から宣長遺愛の八花稜鏡を見せられた大秀は、日記に「古き鏡」と書いた。それを、大平は新しいものであると訂正(「故大人の鏡古きにあらず新鏡也」)し、本文は「めてたき鏡」に改められた。拓本の注書きもその後の加筆であろう。
この鏡は、八花形の形から、また新しいことから、寛政6年若山からの帰りに購求したものであろう。
「〃(銀)八匁 八花形鏡 同断【先生御懐中より】」
(『寛政六年若山行道中小遣帳』 宣長全集・16-538)
本居宣長と鏡、もしくは鏡的な存在、あるいは自己観察と言ってもよい、それが宣長を理解するための重要な手がかりとなると私は考えている。例えば、宣長の自画像である。四十四歳像の賛で「此かたを物すとてかゞみにみえぬ心の影をも」と鏡の使用をほのめかしているが、自画像が成立する必須条件は「鏡」の存在である。
作家黒井千次氏によれば、
(『自画像との対話』文藝春秋社・1992年2月、P154)
初版と再版
有名なのは『玉勝間』で、これは内容の差し替えが為された。
また『源氏物語玉の小櫛』は、刊記の「須受能屋蔵板」が「受須能屋蔵板」となっていたので再版で訂正された。本居記念館に所蔵される版木では埋め木(修正)の後が確認できる。
実際には確認していないが、『てにをは紐鏡』にも重大な異同があるという。
また、細井金吾の所でも書いたが、『古事記伝』版本巻5にも初版と再版の異同がある。
この巻には「おひつぎの考」がある。つまり増補した項だ。
例えば、『本居宣長全集』や岩波文庫の『古事記伝』では、「女嶋」、「両児嶋」、「比婆之山」と「おひつぎの考」が3項目ある。これは再版された版本を底本とするためである。初版には「女嶋」と「両児嶋」2項目で、「比婆之山」は無い。また「女嶋」と「両児嶋」も初版には「筑前ノ国人細井氏云」と情報提供者が書かれるのに、再版では「筑前国のある人」と細井の名は消え、増補された「比婆之山」が沢真風の話と明記されるだけである。
このように一枚の版木で印刷する版本ではあるが、異同もあるのだ。
庶民の日本歴史への関心
書物
白猪山(しらいさん)
「飯高郡上寺金/貞元二年(九七五)正月十一日/願主亥甘部子村子」
猪甘(イカイ)については、『古事記伝』巻40に詳しい。白猪山の名前も関係があるのだろうか。最近の歴史事典を見ると、猪甘部の飼っていた猪とは、日本の原生種の豚で、近代になり外国から入ってきた豚に駆逐され絶滅したという。
芝蘭(しらん)
宝暦3年(1753・24歳)11月より使用。『在京日記』に「此月、余号称芝蘭矣」とある。下限は宝暦五年三月三日「春庵」改号までか。
使用例は「日本音韻開合仮字反図」、『和歌の浦』第5冊『遊仙窟』摘録の箇所等。
白子(しろこ)
ここは、江戸時代ロシアに漂着した大黒屋光太夫の故郷でもある、また、松坂と同じく紀州徳川家の勢州三領の一つ。松坂とはかかわりも深い。
この地には宣長の高弟がいた。先駆的なのは村田橋彦、それに続くのが「白子の三樹」と言われた、橋彦の息子、村田並樹、神官・坂倉茂樹、そして一見直樹である。
白子国学略年譜
宝暦13年(1763) | ||
5月25日 | 松坂新上屋で宣長と賀茂真淵が対面する。 | |
| 5月26日 | 賀茂真淵、白子村田橋彦宅に泊まる。 |
| この年、坂倉茂樹生まれる。 | |
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天明2年(1782) | ||
| 「藤原広近神主霊、広・天明二壬寅年八月十八日、寿八十一才」※比佐女と合祀。 | |
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天明3年(1783) | ||
| この年、白子の村田橋彦、宣長に入門。但し、橋彦は天明8年入門説もある。 | |
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天明4年(1784) | ||
| この年、白子の村田並樹、一見直樹、坂倉茂樹、倉田実樹4名宣長に入門。 | |
| ||
天明5年(1785) | ||
| この年、一見直樹(俊徳)父七回忌で宣長歌を送る(宣長全集・15-439)。 | |
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天明8年(1788) | ||
| 1月4日 | 坂倉茂樹、宣長を来訪。一見直樹母六十賀歌文、村田並樹から文の依頼がある(宣長全集・20-257)。 |
| 1月8日 | 白子の書簡と歌届く。24日返す(宣長全集・20-257)。 |
| 1月10日 | 村田橋彦の書簡届く。同日返事書く(宣長全集・20-257)。 |
| 1月16日 | 村田橋彦から書簡と進物届く(宣長全集・20-258)。 |
| 1月 | 坂倉茂樹から書簡、白子から詠草届く。3月中旬返事(宣長全集・20-258)。 |
| 1月20日 | 村田橋彦から書簡と珍物届く(宣長全集・20-258)。 |
| 3月10日 | 夜、村田春海、橋彦、並樹来訪。橋彦から詠草添削依頼(宣長全集・20-258)。 |
| 3月27日 | 村田橋彦の書簡届く(宣長全集・20-259)。 |
| 4月17日 | 坂倉茂樹の書簡届く(宣長全集・20-259)。 |
| 4月26日 | 村田並樹の詠草届く(宣長全集・20-260)。 |
| 7月20日 | 白子から書簡と金子届く。8月19日返事書く(宣長全集・20-261)。 |
| 11月 | 坂倉茂樹『能褒野陵考』執筆。 |
| 12月13日 | 宣長、村田並樹、坂倉茂樹両名宛書簡執筆(宣長全集・17-113)、『能褒野陵考』を褒める。 |
| この年、白子の白子昌平、村田橋彦2名宣長に入門。但し、橋彦は天明3年入門説が有力。 | |
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寛政元年(1789) | ||
| 2月27日 | 一見直樹から「本末歌」(横物)依頼(宣長全集・20-261)。 |
| 3月19日 | 宣長、名古屋行きのため白子に立ち寄る。田鶴か屋(橋彦)、萩の屋(並樹)に寄り、同夜は並樹宅に泊まる。 |
| 3月29日 | 宣長、名古屋からの帰路、坂倉茂樹等の案内で能褒野陵、山辺御井を廻る。一見直樹宅に泊まる。 |
| 4月17日 | 宣長、白子(村田橋彦)への書簡と詠草送る(宣長全集・20-263)。 |
| 4月 | 坂倉茂樹から人麿歌を依頼される(「一、人丸賛 茂木誂 尤茂木所蔵ノ像ヲ見テヨメルヨシ端書スヘシト也」・宣長全集・20-263)。村田並樹から「本末歌」依頼される(宣長全集・20-263)。 |
| 5月10日 | 夕、一見直樹来訪。「琴之屋文」依頼される(宣長全集・20-263)。 |
| 5月 | 坂倉茂樹から「楽声屋文」依頼される(宣長全集・20-263)。 |
| 閏6月6日 | 村田並樹、坂倉茂樹、一見直樹3名宛書簡執筆(宣長全集・17-123)し、渡辺直麿から村田橋彦宛書簡の転達を依頼。この時人麿歌も届けられる。 |
| 8月 | 村田橋彦から竹の賀歌依頼で書簡届く(宣長全集・20-264)。一見直樹から掛物賛に、万葉日本琴、もしくは新歌の依頼(宣長全集・20-264)。 |
| 10月5日 | 村田橋彦へ『神代正語』を、また並樹詠草を橋彦宛に送ることを『雅用録』に記す(宣長全集・20-265)。 |
| ||
寛政2年(1790) | ||
| 夏頃 | 白子昌平、渡辺重名の『馭戎慨言』序を清書する。 |
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寛政3年(1791) | ||
| 7月 | 坂倉茂樹、『寛政三辛亥七月楽声舎筆記』起筆。 |
| 9月 | 「藤原広丸霊、広丸・寛政三辛亥歳九月」※筆書き判読困難。藤原共近と合祀。「神道宗門」(西田長男)に「茂樹には嗣がなかったので、笠因直麿の次男の菅雄を養子に迎えた。通称を広丸といったのがこの菅雄のことである。しかしてその兄の笠因元彦にまた嗣がなかったので、今度は広丸の子が養子になって上総介直麿と称した。この直麿を称したのはもとより祖父の名乗りを受けたものである。ただし、のち故あって離縁せられ(『松阪神社文書』)云々」とあるがいかがであろう。笠因は松坂雨竜神社の神主で宣長の門人。 |
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寛政4年(1792) | ||
| 1月 | 坂倉茂樹、鈴屋来訪か。1月5日付七里長行宛書簡で「此間白子坂倉氏入来之節」と書く。 |
| 1月6日 | 坂倉茂樹宛、村田橋彦宛各書簡執筆。坂倉宛は来訪と年玉礼、橋彦は賀状(宣長全集・17-169・年次推定根拠薄弱)。 |
| 9月10日 | 坂倉茂樹、市見直樹両名宛書簡執筆。肖像画の件を述べる(宣長全集・17-568)。年次は小山氏の推定による。根拠は、先頃並樹が江戸に行ったと言う記述。 |
| 9月12日 | 坂倉茂樹宛書簡執筆。江戸行き恙なく済んだことを喜ぶ(宣長全集・17-184)。7月の松坂洪水が年次推定の根拠(7月13日に洪水があった)。 |
| ||
寛政6年(1794) | ||
| 8月24日 | 坂倉比佐女没。「比佐女御魂、比・寛政六庚寅年八月廿四日、寿七十七才」※藤原広近と合祀。 |
| ||
寛政7年(1795) | ||
| 1月2日 | 夕、一見直樹来訪(宣長全集・20-269)。 |
| 1月5日 | 坂倉茂樹来訪(宣長全集・20-269)。 |
| 1月29日 | 村田並樹来訪(宣長全集・20-269)。 |
| 9月20日頃 | 村田並樹から布目上半切50枚贈られる(宣長全集・20-341)。 |
| 10月7日 | 坂倉茂樹から短冊50枚、扇2本贈られる。 |
| この年、坂倉茂樹等、紀州藩に神葬祭を願い出て許可。 | |
| ||
寛政8年(1796) | ||
| 1月8日頃 | 坂倉茂樹から竹の絵、梅の絵に賛の依頼(宣長全集・20-275)。 |
| 2月4日頃 | 村田橋彦、また、村田並樹、坂倉茂樹、一見直樹3名よりの依頼の件有り(宣長全集・20-276)。 |
| 4月17日頃 | 坂倉茂樹より大祓の依頼有り(宣長全集・20-278)。 |
| 5月28日頃 | 坂倉茂樹、村田橋彦より依頼有り(宣長全集・20-279)。 |
| 7月8日 | 松平康定侯に対面するため桑名に行く。四日市泊まり。 |
| 7月11日 | 桑名からの帰路、白子の村田橋彦宅に寄るか。津泊まり。 |
| 7月26日 | 村田並樹、一見直樹、坂倉茂樹3名宛書簡執筆。中元の礼と、桑名行きでは橋彦の所にだけ立ち寄ったことを詫びる。 |
| 9月18日頃 | 村田橋彦の依頼物あり(宣長全集・20-281)。 |
| 10月18日頃 | 村田橋彦の依頼物あり(宣長全集・20-282)。 |
| ||
寛政9年(1798) | ||
| 7月22日頃 | 村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-288)。 |
| 12月頃 | 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-291)。 |
| 12月16日 | 坂倉茂樹から画賛2枚依頼。ウスヒキと三番叟(宣長全集・20-291)。 |
| ||
寛政10年(1798) | ||
| 1月10日頃 | 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-292)。 |
| 3月20日頃 | 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-293)。 |
| 6月16日頃 | 村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-296)。 |
| 9月3日 | 坂倉茂樹から画賛と長歌の依頼(宣長全集・20-297)。 |
| 11月3日 | 坂倉茂樹宛書簡執筆。「武備神社縁起」添削の件(宣長全集・17-436)。 |
| ||
寛政11年(1799) | ||
| 1月8日頃 | 坂倉茂樹からの依頼物あり(宣長全集・20-301)。 |
| 3月11日頃 | 村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-302)。 |
| 4月12日 | 坂倉茂樹から亀の絵画賛依頼あり(宣長全集・20-302)。 |
| 8月12日 | 坂倉茂樹没。享年37歳。「先神主坂倉大和守従五位下藤原朝臣広善神霊、于時寛政十一己未年八月十二日歳三十七神去」。嗣がなかったので笠因直麿の次男を菅雄を養子に迎え、広丸を名乗る。また、笠因氏は実兄元彦に嗣子無く、広丸の子が養子になって上総介直麿を名乗った。 |
| 8月22日頃 | 一見直樹からの依頼物あり(宣長全集・20-304)。 |
| 9月8日 | 植松有信宛書簡で村田家不幸と坂倉茂樹死去に触れる(宣長全集・17-473)。 |
| 10月5日 | 坂倉越後守から松茸を貰う(宣長全集・20-356)。茂樹の養子であろう。 |
| 10月22日頃 | 一見直樹から文の依頼有り。11月5日には終わる(宣長全集・20-305)。或いは『日々諸用事扣』「白子一見元常琴の屋文章ノ事」(宣長全集・20-320)と同じか。 |
| 冬 | 村田並樹、治九兵衛と名を改める(宣長全集・20-320)。 |
| ||
寛政12年(1800) | ||
| 1月11日頃 | 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-306)。 |
| 1月17日 | 一見直樹から短冊の依頼(宣長全集・20-307)。 |
| ||
享和元年(1801) | ||
| 3月26日 | 一見直樹から依頼物あり(宣長全集・20-312)。また同人からの依頼物の記事『諸国文通贈答並認物扣』にあり(宣長全集・20-313/314)。 |
白子昌平(しろこ・まさひら)
信仰
『新古今集美濃の家づと』
内容は、本編は『新古今集』から選んだ696首の注釈。「折添」は十三代集、及び『千載集』から選んだ新古今歌人の歌358首の注釈。序文は加藤磯足、大矢重門。本編跋文は尾張明倫館教授・秦鼎。
宣長は『新古今集』を「歌の真盛り」読み上げて面白く心深くめでたき集とし、歌集最上位に置いた。講釈は、明和3年から同6年、天明7年から寛政3年まで行った。
本集には宣長の主観的な評価が加わっているので、注釈書としての評価とは別に、論議も呼んだ。
新座町
『晋書』
「「晋書」という中国の歴史書は、三四世紀晋王朝を特徴づける風流曠達の人物、その伝記を中心とするのであって、荻生徂徠の尊重する書物であった。堀塾での会読のテクストも、半世紀早くの元禄年間、徂徠がみずから和点を施し、柳沢吉保に刊行させた和刻の本であったろう。そうして徂徠派の対蹠であった当時の普通の朱子学、中でも厳格の派であったあった山崎闇斎の門流などからは、聖道の敵として排斥されたであろう書物が、堀塾の課本であったことは、堀景山の学風が、朱子学を標榜しつつも、徂徠に親近であったことを示す。」「鈴舎私淑言」吉川幸次郎(『本居宣長』・筑摩書房刊・P131)
新上屋の位置
柏屋、新上屋の並びを記すと、
(和歌山街道起点より北西に)
鳥谷屋三郎右衛門
柏屋兵助
白塚屋勘太郎
藪屋庄兵衛
新上屋・芝山氏
尾張屋太右衛門
大和屋清右衛門
となる(「松阪新上屋の話」山田勘蔵)。
鳥谷は戦時中の家屋疎開で今は大通りとなってしまった。柏屋、白塚あたりが今の岩井たばこ店だという。また尾張屋の敷地はその後柏屋が購入した。
壬申の乱(じんしんのらん)
『神代紀髻華山蔭』(じんだいき・うずのやまかげ)
寛政10年(1798・69歳)11月13日起筆、21日稿成る。12月10日清書終わる。12年春刊。内容については『本居宣長全集』(筑摩書房)解題に詳しい。
書名は
(『万葉集』巻13・3229番歌)
書名に込められた意味は、
今、「『古事記伝』を音読する会」では巻三を読んでいるが、ここまで読み進める中で、宣長は『日本書紀』を尊重しているのですねえ、と感想を述べられた人がいる。その通りなのです。
西宮論文の最後の告白を引いておく。
真台寺
正徳6年(1716)6月11日~天明8年(1788)5月29日。母は射和村竹川氏の女。 宣長より15歳年長。赤須真人は号。セキスシンジンと読むのだろうか。また猛 火とも号した。不動明王に子どもを祈願したためとも、また一説に、生まれた年 に真台寺が火災で焼失したからだともいう。彼は漢詩を得意とした。法号東海院 明了白延上人。性は磊落。行脚を好み、仏典以外の儒学の本や老荘思想にも詳し かった。また多趣味。漢詩集に『赤須真人詩集』(安永6年刊)がある。
◇赤須真人の自伝
椿馬東が描いた「赤須真人寿像」には自ら賛を書き、そこに自分のプロフィー ルを詳しく記す。全文が『松阪文藝史』(桜井祐吉)に引いてある。 さて、興味関心によって当然見えるものが違ってくる。宣長さんに関心を持っ て居ると松阪は宣長さんの住む町だとなるが、当時、文学と言えば「漢文学」、 そして「漢詩文」である。漢詩に関心のある人にとって松阪は、韓天寿、郊外相 可の天啓に住む悟心、そして真台寺の赤須真人、また医者の長井元恂の住む町と なる。たとえば細合半斎がこのあたりをまわった時の『続神風集』にも、天寿を 訪ねて、帰る時間もあるので真人さんには失礼して、挨拶は長井元恂に言付けた とある。
実は以上挙げた人の中で赤須真人だけが宣長との交友がはっきりしていない。 おそらく人口一万の狭い町、真人と宣長の接点はあったはずだが、それを明らか にするのはこれからの課題である。
真福寺
真福寺本『古事記』
校合作業が終わったのは、天明7年(1787)4月14日。
さて、真福寺本『古事記』への宣長の評価はいかが。 『古事記伝』版本・巻1に
神武天皇陵
この会話が、
また宣長の見た神武天皇陵は、畝傍山から500から600m離れた北東、田圃の中の1m位の山であった。上には松と桜が植わっている。おかしいよ、と宣長は思った。
そして最終的には、『古事記伝』巻20の次の記述となる。
まず、『前皇廟陵記』や『大和志』の説を引き、
信頼度抜群義信像
真良(しんろう)
垂加神道(すいかしんとう)
末田芳麿(すえだ・よしまろ)の訪問
寛政9年(1797)4月3日、安芸国の末田芳麿が山まゆ1反を土産に来訪した(『音信到来帳』)。そして、諸国の学者参集の様子を見て肝をつぶしている。書簡での報告は、
【参考文献】
芳麿の書簡は末田氏所蔵。書簡2通、但し内1通は断簡。「末田芳麿の書簡について」新見吉治、『鈴屋祭記念』収載。
図解
『菅笠日記』の碑
青山町から名張市にかけて、この日記にちなむ文学碑・歌碑が5つある。
1,「本居宣長大人菅笠日記抄」
【場所】名賀郡青山町伊勢路☆R165伊勢路を過ぎてすぐ左
「本居宣長大人菅笠日記抄、宣長、からうじて伊勢路の宿にゆきつきたるうれしさもまたいはん方なし、そこに松本のなにがしといふものの家にやどりぬ」
「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」
2,「河づらの」歌碑
【場所】名賀郡青山町下川原中山橋畔☆R165トンネル手前旧道入ってすぐ。ガードレールに阻まれ見ること困難。
「河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら 宣長」
「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」
3,「河づらの」歌碑
【場所】名賀郡青山町阿保橋畔☆R165阿保の町学校手前橋を渡ってすぐ左
「本居大人菅笠日記抄。河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら、かくいふはきのふ9こえしあほ山よりいづる阿保川のほとり也、朝川わたりて、その河べをつたひゆく、岡田別府なンどいふ里を過て左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは大村ノ神社なンどをあやまりてかくまうすにはあらじや、なほ川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる、昨日の雨に水まさりて橋もなければ衣かゝげてかちわたりす、水いと寒し、明和九年三月六日」
「昭和卅一年四月吉祥日、山本隆夫、建之」
【写真】 suga2 2,阿保橋傍にある宣長の碑。
4,「いとざくら」歌碑
【場所】名張市新田、豊浜徳氏宅
「いとざくらくるしきたびもわすれけりたちよりてみるはなの木かげに、宣長六世孫本居弥生書」
「昭和五十四年四月、建之」
【写真】 suga4 4,新田、糸桜の碑。
5,「きのふ今日」歌碑
【場所】名張市安部田・鹿高神社前
「名張より又しも雨ふり出て、このわたりを物する程は、ことに雨衣もとほるばかりいみじくふる、かたかといふ所にて、きのふ今日ふりみふらずみ雲はるゝことはかたかの春の雨かな、本居宣長」
「昭和六十年三月吉日、建碑安部田区、書上出軒山、協力名張金石文研究会、米山造園、功労者坂上芳正」
関連する碑として、後年、宣長が同行者小泉見庵に贈った歌の碑が松阪にある。
『菅笠日記』図書館
版本の翻字は「資料編」に載せました。ここではその参考となるいくつかの本を載せます。
テキスト |
◇『本居宣長全集』第18巻。筑摩書房。 ◇『新日本古典文学大系・近世歌文集、下』岩波書店。 ※菅笠は鈴木淳校注。語釈も宣長の他の著作を引くなど、 宣長に則した注が付けられる。 ◇『菅笠日記』尾崎知光、木下泰典編。和泉書院。 ※一番手軽なテキスト。 ◇『現代語訳 菅笠日記』三嶋健男、宮村千素著。和泉書院。 |
研 究 |
◇「「菅笠の旅路」を辿る」1~4 (その3から、「「菅笠日記」の研究」) 石川義夫『新潟明訓高等学校研究紀要』1972年10月~ ※実際に宣長の足跡を探訪した記録。可能な限り旧道を辿り、 また地元での調査を行う。 これ以上の研究は、今後は出ないであろう。 |
随 筆 |
◇「大和路の秋成と宣長」佐藤謙三『日本文学論究』25冊 (昭和41年3月25日) ※宣長と秋成の紀行を比較しながら両者の資質の違いを浮き彫りにする。 優れた国文学者だけに随筆としては面白い。 >> 「秋成の『菅笠日記』評」 ◇「宣長の歩いた飛鳥」和田萃『季刊・明日香風』第47号 (平成5年7月1日) ※考古学の第一人者の目で見た宣長の飛鳥探索の意義を説く。 また、古代の景観を偲ぶためにも、『菅笠日記』で近世の道筋を たどるのがよいと勧める。 |
2、『菅笠日記』行程 第1日目
2、『菅笠日記』行程 第2日目
2、『菅笠日記』行程 第3日目
2、『菅笠日記』行程 第4・5日目
8日 千俣出立→上市→吉野川(桜の渡し、船・妹山、背山)→飯貝(イガイ)→丹治(タンジ)→(吉野山口)→四手掛明神(吉野山口神社?)→(七曲)→茶屋(攻めが辻・一目千本)→銅(アカガネ)の鳥居→仁王門→箱屋某(宿・休憩、食事)→吉水院・茶屋?→蔵王堂→実城寺→桜本坊→勝手神社→竹林院→滝桜・雲井桜→世尊寺→吉野水分神社→茶屋→箱屋某(泊)
【5日目】
この日は吉野山の徹底探索。吉野水分神社から金御峯神社、ここまでは13歳の時に来ているはずだが。ここからは西行庵に行く。宣長さんと西行の関係は、ちょっと複雑。戻って、今度は山を下り、西河で紙漉を見て、大滝村に行く。吉野川の筏流しを見ながら一杯飲み、次はせいめいが滝、滝上までよじ登ってみる。来た道を戻り、次は宮滝へと向かう。ここが吉野離宮の場所であることが分かったのは、戦後のこと。宣長さんは知るよしもない。岩の上から急流に飛び込む「岩飛び」というすさまじい芸を見て、喜佐谷を通 って箱屋に帰る。この日、宣長一行の歩いた跡を今の人が歩いてみると、当時の人の健脚ぶりがよく分かる。
9日 箱屋某出立→竹林院→吉野水分神社→二の鳥居(修行門)・金御峯神社→けぬけの塔→茶屋(休憩?)→安禅寺・蔵王堂(東に青根が峯見える!)→苔清水→(西行庵)-(戻り)→茶屋(休憩?)→(道標・大峰山との分岐点)→(東の谷底に夏箕の里が見える!)→(東北の谷底に国栖の里が見える!)→西河(ニジコウ)・紙漉→大滝村・川を覗き、筏流しを見ながら酒と乾飯→せいめいが滝・滝上に登る→西河-(戻り・急坂登り)→分岐点→仏が峯→茶屋(休憩・鹿塩神社のことを尋ねる)→樋口(向かいは宮滝)→宮滝の柴橋・岩飛び見物→桜木の宮→喜佐谷村→高滝(象山はこの辺り?)→箱屋某(二泊目)
2、『菅笠日記』行程 第6日目
2、『菅笠日記』行程 第7日目
ひたすら歩く、どん欲に見る、質問する、考える、そしてそれを覚える。『菅笠日記』の圧巻とも云うべき飛鳥二日目です。脚力も弱く古典の知識もない現代人の私たちはどこまで一行の後がつけるでしょうか。頑張って行きましょう。
まずこの日は岡寺に参詣。次は酒船石。飛鳥寺では大仏の古さに驚く。近くの入鹿塚はちょっとどうかなど色々批評しながら北上。安倍の文殊院から西へ行き南下。天香具山に登り周辺を探索する。古墳では中に明かりを入れてみたり手を突っ込んだりし、夜は見瀬の家に宿る。このあたりの話を聞こうと主人を呼ぶ。主人は50歳位でひげ面の無愛想で、何かもったいを付けたようにいかめしい顔や物言いで「いでこのわたりのめいしょこうせきは」とやらかしたので、若い連中は笑いをこらえきれずにいる。聖徳太子の頃に弘法大師が作ったなど年代も何もあったものではない話で、神功皇后を「ジンニクン」と言うのには参った。そこでこの主人のあだ名は「ジンニクン」とする。充実した一日が終わる。
11日 岡寺の宿→岡寺(龍蓋寺)・八幡社→岡→長者の酒船石(いと心得難き)→飛鳥→飛鳥寺(丈六の釈迦・古めかしく尊く見える)→入鹿塚(古そうには見えない)→飛鳥井の址(?)→飛鳥神社(飛鳥坐神社)→鎌足出生の地(?・飛鳥井か)→大原寺(藤原寺・大原明神)→上八釣村→山田村(柏に栗のなる山あり?)→荻田村(生田村)→安倍村→安倍文殊院・岩屋・奥の院岩屋→安倍晴明の宝蔵(草墓古墳)→安倍文殊院→安倍村→安倍仲麻呂塚・屋敷跡(?)→芹摘み后の七つ井(?)→戒重→(横大路)→横内→岐・地蔵堂(弘安年刊の銘がある地蔵で今700mほど離れた寺に移す)→吉備村→吉備真備墓(?)→火葬場に鳥居!→池尻村→膳夫村・荒神社→池(埴安の池)→天香具山・竜王社・干飯など食べて休息・国見をする→上の宮→南浦村・日向寺・下の宮・御鏡池・香具山文殊の寺・大官大寺址・神代伝説石(天の磐戸?)→湯篠藪→別所村・高市社(?)・高殿村→膝つき山・飛鳥川眺望→神膝村(上飛騨村)→飛鳥川を渡る→田中村→豊浦村・豊浦寺址・榎の葉井を探すが分からず・対岸に雷村→和田村→剣の池→孝元天皇陵→大軽村→古墳(見瀬丸山古墳)→見瀬村(ジンニクンの家に泊る)
2、『菅笠日記』行程 第8日目
2、『菅笠日記』行程 第9日目
伊勢本街道は道が険しいと怖じ気づく一行をせせら笑うかのように戒言は、「人もみなゆくめれば。なにばかりのことかあらん。足だにもあらば。いとようこえてん」と平然と言う。そこで、帰りは道を右手にとったのだが、やはり厳しい道中であった。雨が降り、道がぬかるみ、室生寺は近いと言っても寄る気にもなれず、ゆけどもゆけども山道続き。雨風は激しく、山道では蓑や笠も飛ばされそうになる。ヘタをすると谷底に落ちそうなほど吹き付ける。この先、難所「飼坂」越えはとても無理と予定を変更し、石名原に泊まる。道の途中に桜も見えたが、それどころではなかった。歌も詠めなかった。
ああ残念、宣長さんは何も書いていないが、この間には真福院があり、その参道には「三多気の桜」があったのに。この手前が、大阪湾と伊勢湾の分水嶺だ。
13日・雨。榛原→石割り坂→田口→(山粕)→(鞍取峠)→桃の俣→菅野→(三多気)→石な原(泊)
2、『菅笠日記』行程 第10日目
1、『菅笠日記』について その1
「すががさのにっき」と読みます。「すげがさ」ではありません。
自筆稿本題簽「すがゝさの日記」、版本題簽「須我笠の日記」とあります。
また、本文一番最後に「スガヾサ」とルビがあります。 【別称】「吉野の道の日記」(『玉勝間』)
◆ 43歳の宣長
後厄。妻勝32歳、長男春庭10歳、次男春村6歳、長女飛騨3歳。
明和9年(1772)4,5月頃か。5月7日付・谷川士清書簡に、借用を希望することが、また7月晦日付の士清
宣長は「たいした日数の旅ではないので特に準備という程のこともないが、そわそわする」と書いているが、実際
宣長自身が持っていた物としては、
『大和国中ひとりあんない』木版1枚。正徳4(1714)刊。宣長書入。大和国(奈良県)の概略図。当時の旅はこ
『和州巡覧記』木版1冊。貝原益軒著。宣長書入。元禄9年(1695・益軒57歳)成立。和州(奈良県)のガイドブ
「ぬさ袋」宣長使用。袋には宣長の「うけよなほ花の錦にあく神もこころくだきし春のたむけを」の歌が付いてい
「このたびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神かみのまにまに」菅原道真『古今集』
1、『菅笠日記』について その2
明和9年3月5日(1772年4月7日)曇りのち雨。 『日記』には、「(明和九年三月)五日、行吉野観花、今朝発足、同伴、覚性院、小泉見庵、稲垣十助、同常松、中里新次郎也、今夕宿伊賀国伊勢地」(宣長全集・16-327)とあります。
花見で難しいことは、当日の天気と開花予想。これは昔も今も変わりない。
天気だけはどうしようもないが、テレビもラジオもない時代、どうやって吉野の花盛りを予想したのだろうか。
宣長は次のように書いている。
1、『菅笠日記』について その3
1、『菅笠日記』について その4
旅に同行したのは次の5人と従者。
◆小泉見庵
魚町宣長宅の向かいに住む医者。37歳。宣長の友人。
元文元年(1736)~天明3年(1783)8月28日。享年48歳。見菴とも書く。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。名は蒙。
『系譜』には、
「字子啓、号五林、称見菴、幼名文太郎、宅辺嘗有金松樹、因名其室曰金松斎、子啓作金松斎記、性好学、及没年
【墓石】願証寺「小泉見菴墓、天明三年癸(卯)八月廿八日、四十八歳」 見菴は、父の後を嗣ぎ、紀州藩御目
城福勇氏は、「(本来学問の道に進みたかった宣長が医業を生業とすることについては)親類のなかに医者が少な
ただ確証はなくとも、息子の行く末を案じた母と宣長が、向かいの小泉家の生活を眺めていて、これならばでき
在京中の宣長を見菴が訪ねたことがある。「むかひ見菴殿先比のほり申され候」と、宝暦4年6月3日付宣長宛
だが二人の関係で最もよく知られているのは、この「菅笠の旅」であろう。宣長43歳、見菴37歳の時であった。
まず考えられることは、近所だったという点であろう。小泉見菴の家は、松坂町魚町上ノ丁の長谷川家に隣して
ただ、吉野旅行中も見菴は、旅で知り合った尾張の人と漢詩を贈答しあっているように漢詩文を好み、和歌の宣
【写真】 「小泉見庵夫妻像」 「見庵墓石」 「歌碑」
>> 「歌碑の謎 宣長歌碑はなぜ建てられたのか」
◆稲懸棟隆
中町の豆腐屋。宣長と同い年43歳。後に門人となる。息子・茂穂と参加。
>> 「鈴屋円居の図」
◆稲懸茂穂
棟隆の長男。後の大平。17歳。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」
◆戒言
白粉町来迎寺覚性院の僧。年齢は不明。棟隆と親しかった。同い年くらいか。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」
◆中里常雄
中町の豪商の息子。後に長谷川の養子となる。16歳。大平の友達。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」
◆従者
恐らく一人付いていったと思われる。屈強な人だろう。名前、年齢不明。
14日、飼坂越えの条。歩く者は息も絶え絶え、従者は荷物を持っているので、これまた遅れているが、つづら折の道なのですぐそこに見えるなんて、気分が優れない宣長は駕籠に乗り、呑気なことを言っている。
【原文】「とものをのこは。荷もたればにや。はるかにおくれて。やうやうにのぼりくるを。つゞらをりのほどは。いとまぢかく。たゞここもとに見くだされたり。」 また、飯福田寺辺りで、供の人は一人先に松坂に帰る。各家に、帰ってきたから迎えにこいと触れるためだ。
【原文】「いぶたにまはりし所より。供のをのこをば。さきだてゝやりつれば。みな人の家よりむかへの人々などきあひたる」
1、『菅笠日記』について その5
版本の翻字は「資料編」に載せました。ここではその参考となるいくつかの本を載せます。
テキスト |
◇『本居宣長全集』第18巻。筑摩書房。 ◇『新日本古典文学大系・近世歌文集、下』岩波書店。 ※菅笠は鈴木淳校注。語釈も宣長の他の著作を引くなど、 宣長に則した注が付けられる。 ◇『菅笠日記』尾崎知光、木下泰典編。和泉書院。 ※一番手軽なテキスト。 ◇『現代語訳 菅笠日記』三嶋健男、宮村千素著。和泉書院。 |
研 究 |
◇「「菅笠の旅路」を辿る」1~4 (その3から、「「菅笠日記」の研究」) 石川義夫『新潟明訓高等学校研究紀要』1972年10月~ ※実際に宣長の足跡を探訪した記録。可能な限り旧道を辿り、 また地元での調査を行う。 これ以上の研究は、今後は出ないであろう。 |
随 筆 |
◇「大和路の秋成と宣長」佐藤謙三『日本文学論究』25冊 (昭和41年3月25日) ※宣長と秋成の紀行を比較しながら両者の資質の違いを浮き彫りにする。 優れた国文学者だけに随筆としては面白い。 >> 「秋成の『菅笠日記』評」 ◇「宣長の歩いた飛鳥」和田萃『季刊・明日香風』第47号 (平成5年7月1日) ※考古学の第一人者の目で見た宣長の飛鳥探索の意義を説く。 また、古代の景観を偲ぶためにも、『菅笠日記』で近世の道筋を たどるのがよいと勧める。 |
1、『菅笠日記』について その6
小泉見卓に送った宣長の歌に見られるように、僅か10日間の旅であったが、同行者には忘れられない思い出となった。
5年後の安永6年2月3日宣長は旅を懐かしみ歌を詠んでいる。
もとへ二月の比いひ遣はしける
君やしる 夢かうつつか あかざりし 吉野の山の 花の旅寝は」
ふみ分し 昔恋しき みよしのゝ 山つくらばや 花の白雪
かきあつめて、例の巻の名としつ、雪の山つくられし事は、物に見えたり」
「姿は似せがたく、意は似せやすし」
須賀直入(すが・なおいり)
須賀直入書簡
須賀直見(すが・なおみ)
嶺松院歌会の会員で、宝暦8年夏からの『源氏物語』講釈に参加するなど、宣長と早くより親しく交わる。学問は日本文学だけでなく漢文学にも造詣が深く、旧蔵した『事文類聚』はやがて宣長の蔵書となる。
講釈を聴くだけでなく、自邸で、明和2年(1765)10月3日より月次歌会を(『石上稿』)、明和9年2月7日からは『栄華物語』会読、終了後の安永4年6月13日から『狭衣物語』会読を始め、没する直前の安永5年10月5日に終業した。また、戒言、稲懸棟隆と協力して宣長の『草庵集玉箒』を刊行した時には漢文序「題玉箒首」を執筆。また、『字音仮字用格』に序を寄せ、刊行にも「松坂本町田丸屋正蔵」として加わる。
実は、直見は大平の師。また大平から見ると直見は祖父の異母姉の孫。父の従姉の子である。
大平は『田丸屋系譜』で
「性学問を好み和漢の書を博覧して詠歌の道に秀給ヘリ、本居宣長先生の高弟也」
と書く。また、直見が居たら自分が養子になることはなかったとまで言っている。
若くして逝った弟子への宣長の哀惜の念は深く、『講後談』や『玉勝間』にも名前が載り、天明8年、菩提寺法久寺での一三回忌には宣長も出て歌を手向ける。
絵のように小首を傾け、頬に手をやり歌を考えるのが須賀直見のおきまりのポーズだったようで、直見没後、宣長がその姿を懐かしがり歌を詠んでいる。
「うなかぶし歌思ひけるすがのこがその面影を忘らえぬかも」
うなかぶしは首を垂れてと言う意味。
墓は法久寺篠田山墓園。法名「智進院本良慧菅居士」。
少彦名社(すくなひこなしゃ)
鈴
鈴木朖(すずき・あきら)
「鈴」ってなんだろう。
鈴の町「松阪」
鈴屋(すずのや)
《見学者のみなさまへ》
宣長は、12歳の時から72歳で亡くなるまで住んでいました。
宣長の昼間の仕事は医者です。薬箱を持って患者さんの所をまわります。
夕方帰ってきてから、町の人や、また全国から訪ねてくる人たちに『源氏物語』や『万葉集』など日本の古い本、
たまには中国の本も講釈していました。
夜も更けてみんなが帰ったあと、一人で『古事記』を解読し『古事記伝』を書きつづけました。
当時の部屋の静けさ、暗さを体感してください。
また、奥の八畳の間に静かに座って目を閉じてみてください。
この部屋は、来客との応接間ですが、宣長の勉強部屋、また大きくなってからは教室にもなりました。
受付でお渡ししたパンフレットに、
17歳の時に描いた「大日本天下四海画図」の写真が入っていますね。
幅が2メートルもある大きな地図を作成したのはきっとこの部屋でしょうね。
宣長は7人家族。奥さんと5人の子供がいました。
お母さんや子供たちはどこでお話をしたり、遊んだり、寝たりしていたのでしょうか。
窓の大きな明るい部屋です。
勉強に疲れたときにならす鈴を掛けたので、「鈴屋」という名前も付けました。
いまは、二階に上がっていただくことはできませんが、
家の向かい側、石垣の上から部屋の中をのぞくことができます。
百年ほど前に、松阪の人が町の誇りを火事などから守ろうと魚町からこの場所に移しました。
たたいたり、飛び跳ねたりせず、やさしくしてあげてください。
「鈴屋」の由来
をとめらが、ま手にまきもつ、さく鈴の、五十鈴のすずの、鈴の屋は、しこのしきやの、丸木屋の、を屋にはあれど、しなたてる、梯ふみならし、のぼりたち、ふりさけ見れば、御城のへの、そらみつ山は、みつえさし、しじに生ひたる、はしきやし、君まつの木も、うるはしく、見かほし山ぞ、いさなとり、海のはまひに、よる浪の、いやしくしくに、とこしへに、来入つどひて、まそかがみ、見し明らめね、みやびをのとも、
鈴の屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれてはしらなどにかけおきて物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけばここちもすがすがしくおもほゆ、そのすずの歌は、とこのべに、わがかけていにしへしぬぶ、鈴がねのさやさや、かくて此屋の名にもおほせつかし」(『鈴屋集』巻5)
『鈴屋翁略年譜』と『鈴屋門人姓名録』
鈴屋衣
いつ、何のために創案したのか分からないが、文献上の初出は35歳の5月で、歌会などに着用したものと思われる。
今さらに何とがむらむから衣やまと言葉にいひなれぬるを」
(『石上稿』明和元年5月頃)
この衣について、宣長の子孫である本居清造が『本居宣長稿本全集』第2輯(P99-101)でおおよそ次のようとをなこ書いている。
寸法は次の通り。
一、袖たけ 一尺五寸五分
一、袖はゞ 一尺六寸六分
一、袖ぐち 一尺三寸
但し平袖で幅二寸六分の裏(紫縮緬)が付く。
一、人形 一寸二分
一、身たけ 三尺七寸
一、ひこ幅 一尺六寸 四ツ折に畳む。
一、肩はゞ 八寸
一、後はゞ 八寸
一、前はゞ 五寸八分
一、襟はゞ 一寸九分
一、腰あげ 七分
一、襟かた 二寸
襟肩より一尺九寸の処に、幅八分長一尺に縫紐あり。古代紫の縮緬で作ってある。また紐を縫い附けた襟の裏には、角製のこはぜとこはぜかけがある。
ら ん | 本物は残っていないのですか。 |
和歌子 | 宣長が着用した鈴屋衣は、現在記念館に残っていますが劣化著しく全体を広げて見る事は出来ません。ただ、布地を見る限りでは、井特画の「本居宣長七十二歳像」がかなり忠実に写しているようです。また袖口の裏地の色は濃紺で、清造さんの記述とは異なるが、七十二歳像でもやはり濃紺ですね。 |
ら ん | 当時も「鈴屋衣」と言っていたのですか。 |
和歌子 | 寛政11年7月の「鈴屋社中通達案文」(大平筆)と言われる一通には、「正月開講之節者、例年大人十徳着用有之候」、「正月歌会始之節、大人居士衣之類御着用有之候」(本居宣長・別3-630)とあり、この「居士衣」が鈴屋衣であろうと言われています。この記述だけ見ると、学問と歌会で衣を替えていたようにも見えるが、例えば駅鈴をお土産に持ってきた松平康定侯に源氏を講釈する時には、「みやびたる衣にきかへて、初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたる」(『伊勢麻宇手能日記』)とあり、寛政6年の吹上御殿での清信院への講釈にも、「服用ハ翁好之袖長キころも出たち也」(某人宛稲懸大平書状写し、宣長全集・16-572)と書かれていて、講釈でも着用したようです。また和歌山での御前講義や、京都での公家衆への講釈の時にも、持参し着用したことが『日記』に記されています。医者である宣長は、藩主の前では十徳が正装です。このように貴人の講釈で鈴屋衣を着用したのは、特に所望があったのかも知れません。この衣は宣長のトレードマークだったと言えるでしょう。 |
ら ん | 身丈が3尺7寸というのはどのくらい? |
和歌子 | 鯨尺で1尺が38cmだから、約140.6cm位かな。 |
ら ん | 意外と短いけれど背が低かったの。 |
和歌子 | 当時の成人男子の平均身長は150cm代だったという説もあります。みな低かったようです。また、「鈴屋衣」自体、特殊な着物でそこから身長を推測することも難しいかと思います。但し、松平康定は、先の日記で「髪の結ひさまなどは早う見し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし」、髪型などは画像(61歳像でしょう)と同じで、身長は相撲取り位と書いています。これだと長身ですね。実際に宣長と会った人の証言として貴重です。 |
『鈴屋集』(すずのやしゅう)
収録歌は、短歌約2,500首、長歌約50首、旋頭歌5首、今様3篇、文詞66篇。
書名案には、「著書目」の『鈴屋文集』、『鈴屋歌集』の各下に「玉かつま」と記され、『玉勝間』もあったことを窺わせる。 鈴木淳氏は、本書は自費出版であること、また作者生前中に「家集」としての組織と内容を備えたものとして出版された、恐らく初の試みと評価する。
刊行は、「近調歌部」巻1、2、3が寛政10年(1798・宣長69歳)11月9日、「古風歌・長歌部」巻4、5は寛政11年12月、「文詞部」巻6、7は寛政12年閏4月。いずれも宣長の手許に届いた日である。鈴屋蔵板で、売弘所は最初は柏屋、後に江戸の須原屋茂兵衛、京都の銭屋利兵衛、松坂の柏屋となった。
巻1の巻首に本居春庭の「はし書」(寛政10年2月)があり、詠まれたままとなっていた父の歌を、古風と近風に分け、また並び替え、さらに詞や長歌も集めたと書く。但し、草稿などからも宣長自身が編纂したと考えた方がよい。春庭編としたのは、宣長の後継者であることの表明を宣長自らが企図したのであろう。巻7の末尾にやはり春庭の「言の葉の花ちりばめて遠き世ににほふもうれしさくら木の板」という歌を載せる。
「補遺」巻8、9は、宣長没後に本居大平が刊行し、「後書」(享和3年8月付)を添える。
【参考文献】
「『鈴屋集』の初刊本について」尾崎知光(『愛知県立大学説林』第29号・昭和56年2月刊)
「鈴屋集の開板」鈴木淳(『國學院大學日本文化研究所紀要』57輯)。
鈴屋翁(すずのやのおじ)
鈴屋の漢籍
鈴屋訪問
最初から、街道近くに住む宣長のもとには来訪者が絶える事がなかった。早い時期、まだ宣長無名時代は、学問好きな伊勢神宮の神主などが、立ち寄ることが多かった。特に全国各地に旅する御師は、行き帰りに宣長の所に立ち寄る人もいた。蓬莱尚賢(ホウライ・ヒサカタ)はその筆頭だ。谷川士清の娘婿で、また賀茂真淵の所にも出入りしていたので、よきメッセンジャーとしての役割を果たしてくれたようだ。 『古事記』にクラゲが出てくるがこれはどんなものだい、と宣長が聞けば、この前長崎に行った時に舟の上から見ましたよ、とその報告を送ってきてくれる。こんな本知ってますかと珍しい本を届けてくれる。
宣長が本を次々に書き有名になると、全国から訪問者がやってくる。狂歌師、俳諧師、尊皇家、浮世絵師、洋風画家、儒者、神官、藩主などなど。実に多士済々だ。
勉強したい、とやってくる橋本稲彦のような若者がいる。
宣長なら自分の理解者となってくれるであろうとやってきた蒲生君平ような尊皇家。
参宮にかこつけて国を出てきた人もいる。
中には、旅の途中で、有名な人の顔でも見ていこうか、あわよくば短冊の一枚でも貰えたら、という虫がいい人もいる。
ところで、誰がこれらの人の取り裁きをしていたのだろう。よもや多忙な宣長ではあるまい。医者の仕事で留守も多いはずだ。
おそらく、妻、あるいは娘が第1次審査、パスすれば、稲懸大平に取り次いで、第2次審査。この人は先生にお知らせしようとか、忙しくて会えませんと判断していたのではないだろうか。すべてのケースの検証は出来ないが、断片から想像するとこうなる。
鈴屋を詠んだ歌、俳句
おとにきく これの鈴の屋 いにしへを したへる心 見るやすずの屋」
『清渚集』巻47・荒木田経雅・(『神道古典の研究』P154)
「鈴屋
飛行機が梅雨ぐもの上を恙なく飛びゆく音は東を指せる
展示品のこれのいぶせき竿秤は伊勢おしろいを秤しといふ
藍色の縞ひと条織るのれん掛けて松阪木綿店の昔を伝ふ
柱の木に三十六個の鈴つらね倦む時鳴らせて楽しみし大人
飾らるる大人の短冊の一枚は野分に咲ける朝がほを詠む
鈴屋の窓の高さに松繁り日がつくる影畳に揺るる
鈴屋を去なむと立ちて門先の石蕗の葉の光れるに遭ふ
「芸術に正確はない」と読みてゆく処暑のこの宵虫鳴きてゐて」
『白雪草』新見和子・昭和59年12月1日刊・短歌新聞社
「鈴の屋の 鈴ちろと鳴り 暮るゝ春 」
久米正雄・『俳枕(西日本)』平井照敏編・河出文庫
「山桜 鈴の屋は工房 古事記伝 」
中谷孝雄・「世間虚仮(聖徳太子)」の1句
正座
「宣長ノ肖像ニツキ祖母飛騨ヨリ聴ケリトテ父ノ語リシ所次ノ如シ/宣長ノ像ハ義信有慶及ビ井特等ノ描ケルガアリサレド容貌ノ最モ能ク似タルハ六十一歳ノ自画自賛像ナリ/六十一歳ノ像ハ趺坐ノ体ニ描カレタ レドモ実際ニハ趺坐セラルヽコトナシ四十四歳ノ自画像ノ如ク正坐セラルヽガ例ナリ」(『備忘録抄』本居清造録・弥生抄)
「姓氏の話 姓氏・名乗、あれこれ」 嵐義人
例えば、源頼朝(ミナモトのヨリトモ)のように姓(正しくは源朝臣)の場合「の」を伴って読むが足利義政(アシカガ・ヨシマサ)のような氏の揚合(家名・苗字等)には「の」は付かない。
また、同じ名乗字としての「朝」でも、頼朝は武家であるから「トモ」と読み、「あふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」の歌(『拾遺集』、百人一首)で有名な中納言朝忠は公家であるゆえ「アサ」と読む。
確かに複雑である。しかし、法則性を知っていれば、さして混乱するものではない。ただ歴史は結果の集積であるから、例外は至るところにある。豊臣は姓であるが、「トヨトミの」とは言わない。東常縁の東は家名であるが「トウの」と読み慣わしている。それでも、法則を知り、制度・慣行を知ることは、歴史とつき合う際の良き道案内となるに違いない。そんなあれこれを記してみたく筆を執った次第である。
なおここでは、珍姓・珍名は扱わない。専門とする制度史の観点から、思いつくことを取りあげていきたい。
一方、親から子へと世代が移るに従い、コ・マゴ・ヒマゴ(ヒコ)・ヤシャゴと称する親族呼称に倣った通称の付け方がある。平将門を相馬小次郎と称するが如きものである。「小次郎」は父「次郎」の嫡男の意であって、ここから逆に、将門の父良将(良持とも)が高望王の二男であること、将門に兄はいないことが分かる(系図や物語によっては父を三男とし、将門に兄を登揚させるものがある)。四郎の嫡男なら小四郎、嫡孫は孫四郎(以下、彦四郎、弥四郎……)で、四郎の次男は四郎次郎となる。六郎の揚合は、小六・孫六・彦六であるが、これは、源平合戦期から鎌倉期に当て嵌まる例が多い程度で、後世はほぼ消滅する。
実名の付け方にも排行と関連するものがある。一字を共有し、或いは五行に配して揃える原則で、中国・朝鮮に見られ、顧炎武『日知録』には晋末に起こったとある。牧野巽博士『近世中国宗族研究』に紹介されている明代の茗州呉氏の譜を見ると、特に末二代は、まず徳を共有して日偏の文字を用い、次に存を共有して兄弟ごとに偏旁を共通にしている。
わが国にこの使い方はない。戸田氏の「氏」、堀田氏の「一」、渡辺党の一字名など、歴代定まっているものや、藤原氏三条流などに見られる「公」と「実」を交互に用いる例が、法則性をもったものとして知られる。なお三条流の「季」は替字として用いることができる。
(三条流の系図)
左門。右門。数馬。左内。求馬。左膳。伊織。頼母。要。多門。斎。小源太。左源太。
「東百官」は「相馬百官」ともいい、伊勢貞丈 (一七一七~八四)は、その著『貞丈雑記』『安斎随筆』で、平将門が定めたというのは付会であるとしている。平将門は天慶二年(九三九)に新皇として除目を行うが、そのとき「但し孤疑すらくは暦日博士のみ」(『将門記』)とあって、暦博士を欠いたとされる。この変則的官制に目をつけ、牽強たとするのである。そして更に考証を加え、
古記に東百官の名つきたる人は見えず、天正慶長の頃より以来の書には、東百官の名つきたる人も見えたり。古今著聞集……に松尾神主頼母……とあるは、神主の実名にて……、鎌倉将軍の時に、最早東百官の名ありしとて、右の頼母を証拠に引かん事は誤りなり。(『安斎随華』)
としている。
律令の官職名は、事実、江戸時代までは、一部を欠くものの行われており、『公卿補任』等で確認することができる。江戸時代、京都の公家衆が、朝臣として叙位・任官にあずかることはよく知られているが、武家においても、例えば大名の嫡子が家督に際し従五位下、某国の守に任ぜられるように、権官とはいえ確かに任官しているのである。大岡越前守しかり、吉良上野介しかりで、上野国は親王任国ゆえ、親王以外は介が国司としての最上位であり、幕末の小栗上野介も亦その故実を守っているのである。
こうした、酒井雅楽頭、遠山左衛門尉といった官名を、一般には通称と同列に見ているが、実は叙位任官によって与えられた正式の官職名なのである。
そこで、叙位任官に至らぬ武士は、隼人とか主計とか、任官の際に必ず付される四等官(カミ・スケ・ジョウ・サカン)名のないものを使うようになり、更に浪人などは、官職名に似た「東百官」を名乗るようになるのである。
このほか、先祖が「左衛門尉」に任ぜられたことにより、某左衛門を名乗るとか、「兵衛尉」に任ぜられたことから某兵衛を称するといったことは、よく知られており、ここでは省略する。
いわゆる〝夫婦別姓〟の「姓」は、ファミリー・ネームのことで、わが国では一般に「苗字」と呼んでおり、日本の民法では「氏」と称しているので、こだわる人は夫婦別氏と称する。
周知の如く、日本で夫婦同氏が制度化されたのは、明治三十一年(一八九八)六月公布、七月施行のいわゆる「旧民法」をもって嚆矢とする。実熊としては、それに先行する戸籍法の趣旨が、一つの戸を一つの名で呼ぼうとする要請が強く、戸主(男子)の氏名で一戸を把握する方向性が生じていたことや、江戸時代すでに一つの家において主人(男子〉と他の家族の間に主従関係に近いものが醸成されていたことも大いに関係するが、明治三十一年民法の夫婦同氏は、ドイツ法継受の結果として生じたものである。
一方、夫婦別氏願望は、使い慣れた姓氏を変えたくないとの考えに立つか、逆に強固な家制度を背景にもつ。
本来「姓」は中国において宗族、つまり先祖を同じくする血縁集団(男系)の指標として重視され、「同姓不婚」のタブーを強固に守ってきたのである。例えば、中華民国で四大家族の一と称ざれた宋子文の姉妹の婚姻関係を見ると、すべて宋氏以外と結婚している。
(姉)宋靄齢=孔祥?
(姉)宋慶齢=孫文.
(妹)宋美齢=蒋介石
このように厳しい男系の家族制度を社会の根幹に据える中国ではあるが、「姓」が女偏に属するように、本来は母系制社会であった可能性は頗る大きい。夏は?姓、殷は子姓であるが、周は姫姓、秦は?姓で、他にも姜、?、?など、女偏の姓は古代中国において少なくない。それが、いつの頃か男系社会に大変貌を遂げると共に、より強固な男系の血縁原理を中核とする家族制度が成立したのである。
ともあれ、儒教文化圏といわれる東アジア、東南アジアの国々で、日本を除き夫婦別姓が原則となっているのは、この伝統によるものと解される。
一方、キリスト教文化圏であるヨーロッパ社会は、夫婦一体の原則が貫れており、夫婦同姓が一般化していた。英語ではMr.に所有を示すsを付けたのが既婚夫人の称号であり、ミセスの次には夫の姓名を用いた(近年、名は妻の名に変ってきたが)。その夫婦同姓の原則が崩れ、ミセスがミズになったのは、一九七〇年代の国連婦人の十年に伴う女子差別撤廃運動の結果である。一九七九年に国連総会で採択された「女子差別撤廃条約」一六条には、次の規定が見える。
一 締約国は,婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし,特に,男女の平等を基礎として次のことを確保する。
g 夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む)
かつて明治民法に影響を与えた一七九四年プロイセン一般ラント法の婚姻に関する規定、第二部一章四節(夫婦の権利義務〈人の関係〉)では、「妻は夫の姓Nameを手に入れ」(一九二条)「夫の身分の諸権利に……-参加する」(一九三条)とされていた。一九七〇年代以前のヨーロッパでは一般的な規定であるが、一九七六年に大改正され、日本の戦後民法並みに変貌を遂げたのである。
イスラム文化圏では、正式名は夫婦別姓であり、某(夫の名)の妻で某(父の名)の娘といった形式をとるが、簡略形としては夫の姓を最後に付す欧米型夫婦同姓的表示が一般化している。
しかし、アジア社会で注目されるのは、姓を持たない国の存在である。わが国の誇る北アジア言語社会学者田中克彦氏は、その著『名前と人間』の中で、次のような興味深い事実を紹介している。
吉田孝氏は、倭の五王は中国において「倭」を姓とする蕃王として扱われていたと指摘する(『家の名・族の名・人の名』所収「天皇と姓」)。確かに『宋書』倭国伝には「倭讃」、「倭隋」、同文帝紀には「倭王倭済」とある。また、『隋書』倭国伝に「倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤」とあるのは有名であり、『翰苑』所引「魏略」などにも同様の記述がある。絶対的立場をもつ中国王朝へ朝貢する時代にあっては、無姓を貫くことはできなかったのであろう。中国の史書に姓を持たぬ蛮夷の王がない訣けではない。その中で日本は、中国では中国の制に服した。しかし国内的には姓を徹底することはなかった。元来、天皇・皇族は常に無姓であり、前近代の史料には各時代に亘って無姓の者が登場する。要は宗族が形成されなかったのである。
源氏の棟梁源頼朝を支えたものは坂東八平氏を中心とする源氏以外の武士団であり、藤原氏は同族といえども排斥して、近衛と九条の系統のみが摂関となる先例を墨守し、徳川氏は外様の大大名に松平の称号を与えている。中世武家社会の惣領制は、中国の宗族に比べ、きわめて小さな集団であり、時に他氏をも取り込んでいる。これが日本の家制度の規模であり性格であると見てよかろう。
加えて、養子について見ると、宗族を基本とし姓を重視する中国では、養子は原則として同姓の者でなければならない。しかし日本では、古来異姓養子を排斥する風習はない。血の連続よりも家職の継続に重きを置いてきたのである。
そして、養子も含め、代々同じ通称を、名乗るとか、代々同じ家号で呼ばれるとかいった、小さな家単位の継続性に日本の特徴が認められるといってよかろう。この傾向性の中に、日本の家名・名字は位置づけられるのである。
振り返ってみれば、日本は中国の制度を学習し、取り入れた。中国には姓、実名のほか、字があり号がある。江戸の文人であり狂歌師であった蜀山人は、『詩経』に自分の氏と同じ「大田」篇を見出し、名を覃、字を子耜、号を南畝とした。つまり「大田稼多し、既に種し既に戒め、既に備え乃ち事す。我が覃耜(するどいスキ)を以て、俶て南畝に載とす」に出典を求めたのである。実名は正式文書以外には用いない(更に、名を直接呼ばぬ、諱を臣下や子孫は用いないという習俗も知られている)ので、別に字が必要となるが、字と通称とは本来重複しているようなものである。したがって両者を同時に用いることはない。これらも、何でも取り入れ、何でも融合させる日本的受容であるといえよう。
姓氏・名乗りの原則を知ることは、歴史の入口の一つであるが、その正しい理解は、諸外国との比較も含めて、歴史学の深奥に位置する大きな問題である。この雑文からその一端が窺えたなら幸いである。
(引用にあたり系図は省略した)
勢州奉行(両役所)
世古中行(せこ・なかゆき)
松坂の「黒部屋」と言えば西町の醸造家の世古恪太郎も同じ屋号。恪太郎は維新の時には勤皇の志士として活躍し、明治になってからは宮内省の仕事をしていて、正倉院を初めて開けるときに天皇の勅使として奈良に赴いた。同一家系であろうと推測されるが未だ調べていない。
世尊寺の鐘・吉野三郎
銭屋の看板
能理奈賀かあらはせるふみえまくほりもとめむ人はこのやとひこね
とよみてあたへ給へれはいたくよろこへり」
「宣長が著せる書を得たい探したいと思うならここの店にいらっしゃい」
柏淵は京都寺町通仏光寺下ル町にあった、華箋堂銭屋利兵衛。『漢字三音考』や『鈴屋集』など宣長の版本の刊記の売弘所によく名前が載る本屋である。
千家俊信(せんけ・としざね)
俊信には、『出雲風土記』研究という目標があった。同書は、祖先・第25代出雲国造出雲臣広島も編纂に加わっている。天明7年(1787)2月、遠江国(静岡県)の内山真龍(賀茂真淵門・宣長知人)により『出雲風土記解』が執筆された。その真龍の刺激や勧めもあって、寛政4年(1792)10月、29歳の時に宣長に入門する。
入門後は、大変熱心に学び、寛政7年(1795)には、松坂に100余日滞在し師の講釈を聴講、同10年にも再訪した。
また、寛政6年には、宣長高弟の小篠敏や沢真風を出雲に招いて講釈をさせたが、これはあまり成功しなかった。自らも松坂から帰国後は、塾を開き門弟の教導に当たり、出雲への鈴屋学を広めるのに功績があった。また、山陽方面にも影響を及ぼした。著作には『訂正出雲風土記』(文化3年刊)等。また、槍術、医学、天文にも詳しかった。
その学問には、古典研究と言うより宗教家としての色が濃いが、宣長を尊敬すること誰よりも篤く、師からの手紙33通と、『古事記伝』執筆の時に使用した筆を神体に、自邸に玉鉾神社を創祠した。
また、宗教家としての資質があったことは次の話からも伺える。
千家俊信からもらった図
先生
宣長は『法事録』に、師の没した日を記し、感謝を忘れることはなかった。だが、一方では、師の説を直すということを主張し、また実践もしていた。
『宣命抄・続紀歴朝詔詞抄』
執筆過程を説明した大野晋氏は
「多少注釈の業に携わったことのある者ならば、この作業が流れるように進捗していることに、ある美しさを感じるであろう」
と言う。そのいかにも無理のない執筆活動を支えたのが本書である。
記念館所蔵本の書誌は次の通りである。
1冊・本居宣長編。袋綴冊子装。薄卵色地横縞表紙。楮紙。縦27.3cm、横18.9cm。墨付81枚。外題「宣命抄」。内題「続紀歴朝詔詞抄」。蔵印「須受能屋蔵書」。本居記念館所蔵。
【奥書】 「天明八年戊申五月五日、本居宣長」
専用箱
戦略
『草庵集玉箒』(そうあんしゅうたまははき)
嶺松院和歌会に加入して、松坂の歌人グループに入った宣長は、知り合った稲懸棟隆から『草庵集』の注釈書を見せられる。それを、『梅桜草の庵の花すまひ』と言う本で論評した。それを延長したのが本書である。明和4、5年(1767、8)頃脱稿。前編5巻3冊は明和5年、後編4巻2冊、『続草庵集玉箒』は遅れて天明6年(1786)に刊行した。
宣長は本書の刊行を賀茂真淵に報告した。ところが師は、軽く無視をする。
『双玉紀行』
増上寺真乗院
真乗院は今は跡形もない。僅かに古地図に名前を見るだけ。現在の東京タワー下辺りか。
宣長の叔父察然和尚は、伝通院27世走誉連察に師事し、増上寺学寮蔡華楼を相続し、文照院6代家宣廟所真乗院の別当となり、増上寺役者を勤めたが宝暦14年2月28日寂す。詳蓮社審誉と号した(『樹敬寺誌』P79)。走誉上人は同書P22参照。蔡華楼が焼失したとき、村田家より檜材を贈り、伊勢国八田の古尊仏を納めたこと『宣長少年と樹敬寺』P75に見える。走誉上人についても同書の方が詳しい。
【参考文献】
『増上寺史料集』増上寺史料編纂所、続群書類従完成会発売。全11巻。1巻は「古文書」。3巻は「山門通規」。5,6,7,巻は「浄土宗寺院由緒書」で元禄9年全国6800箇寺院を収める。
蘇民将来(そみん・しょうらい)
伊勢地方には次のような話が伝わっている。
昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が根の国に行こうとしてミタワの国まで来たが、そこで暴風雨に遭い困っていると蘇民将来が助けてくれた。命は感謝して、疫病が流行るから気を付けろと忠告し蘇民一家は難を逃れた。
そこで、疫病除けなどのため「蘇民将来子孫の家」と札に書いて玄関に掛ける。
三重県度会郡二見町にある松下社は、素戔嗚尊を祀り、当地では「蘇民の森」と呼ばれている。
『本居宣長随筆』には、谷川士清の『日本書紀通証』が引かれる。士清説の大意は「備後国風土記、ほき内伝など、宿を蘇民将来に乞うのことあり。けだし素尊(スサノオノミコト)の生民を将来に蘇朔(再び生まれ変わらせる)するの寓言なり」。
「蘇明将来」については、各書に記載がある。例えば、本間雅彦『牛のきた道 地名が語る和牛の足跡』(未来社・ニュー・フォークロア双書)など。
伊勢地方のしめ縄については、藤原寛「三重県下のしめ縄 上」(『(伊勢)郷土史草』24号)や、『松阪市史』など各市町村史に詳しい。ちなみに私の家(松阪市笹川町)では、将棋の駒の形の板に、表に「蘇民将来子孫之家」、裏に「急々如律令」と書いた札をしめ縄の上に飾っている。この札は何十年来使用している。宣長の家のように毎年更新では無い。