冬の企画展 母と子・父と子
期間 2003年12月2日(火)~2004年3月7日(日)
☆ 展 示 の 趣 旨
☆ 展 示 の 趣 旨
親子の関係というのはいつの時代も難しいものだ。
本居宣長の養子となった大平は、『恩頼図』のなかで、師でもある宣長は、命を与えた「子守の神」(吉野水分神社)、念仏者のまめ心を持った父、母の遠き慮りのおかげで生まれたとした。では父としての宣長は、5人の子供たちからどのように見られていたのだろう。優れた国学者は、よき家庭人であり得たのか。
いったい宣長は息子の将来をどう考えていただろう。
確実に言えることは、宣長の緻密な学問は春庭に継承されたということだ。
今回の展示では、親子関係という永遠のテーマから、宣長の人生観、学問観に迫る。
また、宣長一族の資料をはじめ、春庭の生涯の解明に半生をかけた詩人・足立巻一の遺品・遺稿類も展示する。
☆ 展示のご案内 [ ]内の数字は展示ケースです。
1,『家のむかし物語』
『古事記伝』を書き終えた宣長(69歳)が書いた本居家の歴史。伊勢商人の盛衰史としても貴重。[1]
2,そろばんと『神器伝授図』
商家に生まれた宣長だが「商いの筋には疎く、本を読むことを好んだ」(『家のむかし物語』)。江戸店を持つ商人の息子にしてはあまりにも小さい「そろばん」[1]。同じ頃写した『神器伝授図』[9]は細かい文字が延々10m続き、見る者を圧倒する。
3,父との別れ
「もし自分が死んだらお前は体に気を付けて子供を育て先祖の跡を絶やさぬようにしてほしい」という妻勝宛の遺言[12] を残し、父定利は滞在先の江戸店で没す。享年46歳。宣長11歳の初秋であった。母の泣く姿を今もほのかに覚えていると回想する。『栄貞詠草』⑫には、亡き父のために詠んだ南無阿弥陀仏の歌を載せる。
4,宣長流、場所の把握の仕方
少年時代から京都に憧れた宣長は、「新御造営内裏図」や「京の図」などいくつかの地図を写す。これは空間的把握である。また古典や記録から京都記事を抜き出した『都考抜書』6冊を作成。これは神社仏閣や名所を舞台とした歴史の集大成。時間の流れの中での把握だ。このように十代の頃にマスターした空間の広がりと時間の流れの中で場所を捉える方法は『古事記伝』でも活用される。 [1]
5,よく学び、遊んだ京都時代
「母の遠き慮り」により医者への転身を図った宣長は23歳の春、憧れの京都に出立する。儒者・堀景山の下での勉強ぶりを物語る『春秋左氏伝』[1]の書き込み。同じ頃に母からもらった手紙[12]には「盃3杯以上は酒を飲むな」と書かれている。
6,父の日記-長男春庭誕生
34歳の春、待望の子どもが誕生した。後の春庭である。宣長の『日記』②の記事は素っ気ない。宣長は本当に嬉しいとき、またその逆の時には無口になる傾向がある。
7,「松阪の一夜」
34歳の春、待望の子どもが誕生した。後の春庭である。宣長の『日記』②の記事は素っ気ない。宣長は本当に嬉しいとき、またその逆の時には無口になる傾向がある。
7,「松阪の一夜」
8,質疑応答の勧め
繰り返し質問する宣長に時に真淵はいらだった。徹底的な質疑応答は宣長の方法。友人・荒木田経雅宛書簡でも、「麻笥」、「鈴」について前回の解答で納得がいかないようならば重ねて質問せよと書かれている。『答問録』にはその時の問答を記す。[2]
9,旅人に聞く
『古事記伝』巻32⑥⑬には敦賀(角鹿)の蟹が出る。そこで宣長は「蟹は越前の名物で、他の所に比べて大きい」と契沖は言うが、その地の人が来たら確認することと書いている。旅人に聞くという方法は、参宮街道沿いの町「松坂」ならではの工夫。
10,ところで春庭の将来は?
すくすくと成長する我が子に父は写本を命じる。最初は『にひまなび』(13歳)[12]。16.7歳頃にはもう随分難しい本[14]も写している。中でも「長崎の図」[6]のような地図は得意だったようだ。時には豆本[15]も写す。こんな生活が目を患う28歳まで続く。ところで春庭の将来は?学問で生計が立てられないことは、医者をやりながら学問を続ける父宣長が一番よく知っているはず。「あめ薬」[4]の販売程度は手伝った形跡はあるが、医者の修行もどうやらしていないようだ。いったい父は春庭の将来をどう考えていたのだろう。宣長は、契沖-真淵-宣長という学問の継続性を重視し批判的な継承を勧めた。だからこそ春庭への期待も大きかったはずだ。失明した息子に代わり宣長が代筆した懐紙と、春庭自筆書簡も併せて展示した。[6]
11,継承される緻密な学問
宣長の学問の特質はその緻密さ。『年代記』や『歴代大嘗会』など日々研究で使う参考図書も手作り。「歌格の抜き書き」のようなおびただしいメモ類は自家製データベースと言ったところ。この学問は確実に春庭に継承された。[13] [15]
12,足立巻一氏の春庭研究
詩人で評論家の足立巻一(1913~85)氏は、神宮皇學館生の頃から、春庭の謎に包まれた生涯と業績を研究。昭和43年には、春庭旧宅の屏風の下貼りから『詞のやちまた』原稿を発見。氏はその時の感動を、「今日まで生命を与えられた至福が思われた」と回想している。春庭と自分の半生を重ね合わせて『やちまた』を執筆し、春庭研究の端緒を開いた。
繰り返し質問する宣長に時に真淵はいらだった。徹底的な質疑応答は宣長の方法。友人・荒木田経雅宛書簡でも、「麻笥」、「鈴」について前回の解答で納得がいかないようならば重ねて質問せよと書かれている。『答問録』にはその時の問答を記す。[2]
9,旅人に聞く
『古事記伝』巻32⑥⑬には敦賀(角鹿)の蟹が出る。そこで宣長は「蟹は越前の名物で、他の所に比べて大きい」と契沖は言うが、その地の人が来たら確認することと書いている。旅人に聞くという方法は、参宮街道沿いの町「松坂」ならではの工夫。
10,ところで春庭の将来は?
すくすくと成長する我が子に父は写本を命じる。最初は『にひまなび』(13歳)[12]。16.7歳頃にはもう随分難しい本[14]も写している。中でも「長崎の図」[6]のような地図は得意だったようだ。時には豆本[15]も写す。こんな生活が目を患う28歳まで続く。ところで春庭の将来は?学問で生計が立てられないことは、医者をやりながら学問を続ける父宣長が一番よく知っているはず。「あめ薬」[4]の販売程度は手伝った形跡はあるが、医者の修行もどうやらしていないようだ。いったい父は春庭の将来をどう考えていたのだろう。宣長は、契沖-真淵-宣長という学問の継続性を重視し批判的な継承を勧めた。だからこそ春庭への期待も大きかったはずだ。失明した息子に代わり宣長が代筆した懐紙と、春庭自筆書簡も併せて展示した。[6]
11,継承される緻密な学問
宣長の学問の特質はその緻密さ。『年代記』や『歴代大嘗会』など日々研究で使う参考図書も手作り。「歌格の抜き書き」のようなおびただしいメモ類は自家製データベースと言ったところ。この学問は確実に春庭に継承された。[13] [15]
12,足立巻一氏の春庭研究
詩人で評論家の足立巻一(1913~85)氏は、神宮皇學館生の頃から、春庭の謎に包まれた生涯と業績を研究。昭和43年には、春庭旧宅の屏風の下貼りから『詞のやちまた』原稿を発見。氏はその時の感動を、「今日まで生命を与えられた至福が思われた」と回想している。春庭と自分の半生を重ね合わせて『やちまた』を執筆し、春庭研究の端緒を開いた。