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平成17年度 夏の企画展

          夏の企画展 「自分で考える 宣長の修学」

期間 2005年6月10日(金)~ 9月11日(日)
【休館日】月曜日
【入館料】大人300円・小学4年から高校生100円。団体割引有り。


☆ 展 示 の 趣 旨

 宣長は大事なところで「もの学び」という言葉を使います。本来この言葉は、勉強とか学問の意味です。しかし宣長が使うときには、もっと主体性が強い感じがします。人に強いられるものでもなく、仕事だからというのでもない、自分で問題意識を持ち、考えていくという力強さです。
 宣長は終始独学です。今回展示した『紫文要領』の奥書を借りれば「としごろ丸(宣長)が心に思ひよりて、此物語をくりかへしこころをひそめてよみつゝかむがへいだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず」です。堀景山や真淵の指導を受け、契沖を指針として宣長の学問は発展していきました。しかし彼らはあくまでも手助けをしたのに留まるのです。
 今回の展示では、「もの学び」をキーワードに、10代後半からの芽生えた和歌への関心や京都への憧れがどのようにして学問へと展開していったのか、17歳の時に描いた畳一畳ほどもある日本地図や、中国4000年の皇位継承を10メートルに凝縮した「神器伝授図」(15歳)など貴重資料で、その発展の経過を追います。また「図解」や「分類」など宣長の学習法として特色あるものを見ていただきます。ぜひご覧下さい。

☆ 展 示 の ご 案 内  

1.本居宣長(もとおりのりなが゛・1730~1801)は江戸時代中頃の人です。医者をしながら、『古事記』や『源氏物語』を研究しました。身長は170cm位かな。
 ※こんな顔です。「本居宣長六十一歳自画自賛像」・宣長の使った『古事記』・愛読した『源氏物語湖月抄』・往診に使用した「薬箱」
 
2.キーワードは「もの学び」
 宣長は、大事なところで「もの学び」と言うことばを使います。ふつうこのことばは、勉強とか学問の意味ですが、宣長が使うときに   は、もっと積極的で、また主体性が強いようです。人から強いられるのでもなく、まして仕事だからと言うのではない。自分で問題を見つけて、それを解決していくと言う力強さが感じられます。
 「世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一トようならず」これは『うひ山ぶみ』の冒頭です。主体的に学問の道に入る、その手引きとして本書は書かれました。
 ※『うひ山ぶみ』
 
3.「もの学び」が人間の形を借りた・・?
 自分の学問史を回想した「おのが物まなびの有しやう」(『玉勝間』)や、『家のむかし物語』で、自分は「物まなび」の力でたくさんの本を書き表し、日本の道を解明しそれを広めることが出来た(「物まなびの力にて、あまたの書どもをかきあらはして、大御国の道のこゝろをときひろめ」)と語っています。人生の一部分として「もの学び」があるのではなく、「もの学び」が宣長の人生を引っ張っていったようです。
 文字を見ていると思います、宣長は学問する機械みたいな人、いや「もの学び」の化身ではなかったかと。一旦机に向かうと一切の感情がなくなり頭のデータベースが起動します。
 ※『家のむかし物語』。内容よりまず筆跡をご覧下さい『古事記伝』、端正な字で契沖の著作を写す『古今余材抄』

4.「もの学び」の最初
 宣長のもの学びの最初は、謡曲や天気予報の知識、浄土宗など種々雑多。本好きな息子に母もきっと困ったことでしょう。
 ※謡は四十九番習いました。『日記』(謡曲修行)・『新板天気見集』・3500種の書名を集めた『経籍』・14歳で写した法然上人の伝記『円光大師伝』
 
5.地図と系図
 中でも、地図や地誌は大好き。17歳の時には大きな日本地図を作成しました。。
 ※「新御造営当時内裏等細見絵図」・17歳の時に描いた「大日本天下四海画図」・「洛外指図」
 
6.この集中力を見よ!全長10メートルに中国4000年の歴史を凝縮。
 ※15歳の時に書いた「神器伝授図」は長さ10m。中国4000年の皇帝の系図。
 
7.浄土宗から京都へ、和歌から京都へ、また源氏物語へ-広がる関心
 宣長少年の関心は次第に系統立ってきます。17歳からは京都関係文献を集め、18歳頃からは和歌に関心を持ち、また自分でも歌を詠み始めます。京都の雅の極致は「和歌」にあり、その世界を描いた『源氏物語』へと探求の手は伸びていきます。終始、独学です。自分で考える「もの学び」の始まりです。
 ※京都百科『都考抜書』・京都郊外図「洛外指図」・18歳で歌を詠む『栄貞詠草』・源氏と悪戦苦闘『源氏物語覚書』・『源氏物語湖月抄』
 
8.生涯を変えた本との出会い
 読書に明け暮れる息子を見た母は、その将来を考え、医者になることを勧めます。23歳、憧れの京都で、医者になるための勉強が開始します。でもその間も、人はなぜ歌を詠むのか。『源氏物語』に引きつけられるのはどうしてか。そんなことを考えて続けていた宣長は、契沖(ケイチュウ)と言う人の本を読み、問題解決の糸口を見つけます。
 ※契沖の書いた『百人一首改観抄』、この本で宣長の生涯は一変します。
 ・契沖の本を貸してくれた堀景山の「書」には、立派な医者になって松阪に帰ることを祝福する意味が込められているようです。

 
9.28歳で医者を開業
 京都で5年間医術を勉強した宣長は28歳の時に松坂魚町に帰り、医者を開業。亡くなる72歳まで町医者として活動します。
※100種の薬と調剤用のスプーンを入れた「久須里婆古(薬箱)」・遠くは伊勢まで往診に、医療帳簿『済世録』・長期服用するとよく効くよ「薬の広告」など

10.和歌や『源氏物語』の秘密
 京都での思索の結果、宣長は、和歌や『源氏物語』の魅力の秘密は「日本人の心」にあると考えます。
 ※なぜ歌を詠むのか『排蘆小船』・愛読の証し『源氏物語年紀考』・日本人の心の探究『石上私淑言』」
 
11.では「日本人の心」を知るにはどうすればいいのだろう
 『古事記』の登場です。『古事記』は奈良時代712年に稗田阿礼と太安万侶により書かれた現存最古の歴史書。この本には儒学や仏教の影響を受ける前の日本人の考え方や信仰、宇宙観が書かれている、と確信したものの、難しくって読めません。
 ※びっしり書き入れ『古事記』・最初の二文字が読めないよ『阿毎莵知弁』
 
12.松阪の一夜
 困っていた宣長の前に現れたのが賀茂真淵(カモノマブチ)。参宮の帰り松坂に泊まった真淵に対面し、『古事記』を読みたいと打ち明けた宣長に、真淵は「まず万葉集を勉強しなさい」と言い、手紙で質問に答えることを約束してくれます。さしずめ今なら遠隔(通信)教育といったところでしょうか。
 ※二人の対面「松阪の一夜」・どうも良くないなあと言いながら宣長の歌を添削する「賀茂真淵添削宣長詠草」
 
13.旅人の知恵
 『万葉集』に出てくる「忘れ貝」ってどんな貝ですか、と質問する宣長に、どこかの海辺からやって来た漁師にでも聞きなさいと師は答えます。真淵は、参宮街道の宿場町・松阪なら、諸国の人が集まり、また彼らが住む地方には古い言葉が残っていることを直感的に悟ったのです。真淵は着想に秀で、宣長は実行の人です。師から言われたように諸国の人との出会いの中からいくつもの新しい発見をします。
 ※宣長の質問に真淵が回答した『万葉集問目』
 
14.宣長流古典の読み方
 宣長にとって古典を読むことは、頭の中に具体的なイメージを描くことでした。『古事記』のなかで仁徳天皇の浮気に嫉妬した皇后がせっかく採ってきた御綱柏(ミツナガシワ)を投げ捨ててしまうと言う場面があります。宣長は考える。どんな葉っぱかな。そして色々調べてみます。机の上においてあるのは、宣長が写した「御綱」(三角)柏」の図です。こうやって一つ一つ疑問を解決していきますた。
 ※御綱柏を捨てた場面『古事記』・宣長筆写「三角柏図」
 
15.地図と系図が役に立つ
 具体的なイメージを描く時に、必要なのは、場所や関係の確定です。つまり、時間の流れと、空間の広がりの中での位置の把握です。これには地図や系図が役に立ちます。時には自分で図解することも試みました。今回は「大日本天下四海画図」など若いときの地図しか展示していませんが、記念館には宣長が写した、またその指示で息子の春庭が写したたくさんの地図が収蔵されています。
 ※宣長の見ていた「地球一覧図」・『古事記』を図解した「天地図」
 
16.言葉が大事
 宣長の古典研究の基礎には「言葉」の研究があります。俗語や方言、和歌や『源氏物語』の言葉、五十音図と言葉について並々ならぬ関心を寄せていて、やがて独立した研究も数々まとめていくことになります。
 ※谷川士清の本から写した「倭音通音」。この「お」「を」が逆であることを証明した『字音仮字用格』は宣長の業績の一つ。京都でメモした「俗語」には変な言葉が載っている。『古事記』研究も言葉から『阿毎莵知弁』。辞書がないなら索引を作ってそれに代えようと編集した『古書類聚抄』。天地、草木、禽獣(動物)など分野別に言葉が集められ出典のページまで書いてあります。
 
17.ふすまの下張りから大発見
 言葉の研究は息子の春庭に継承されました。春庭は30歳頃に病気で失明しますが、それ以後、妹や妻の協力で文法研究に大きな業績を残しました。
 ※父、また父の門人田中道麿との共同研究『活用言の冊子』。目が見える頃にはこんなこともしましたよ。豆本『三代集』。妹の美濃等が兄のために作った「詞のカード」(「やちまた不用」)。これを本に執筆した『詞の八衢(コトバノヤチマタ)』は動詞の研究書。ふすまの下張りに使われていました。

18.長続きの秘訣は無理しないこと
 『うひ山ぶみ』の中で、学問は志をたて、怠けることなく(倦まずたゆまず)続けることが大事だと言っています。「もの学び」は継続してこそ成果が現れるのです。そして継続するためには無理をしないことだと教えます。宣長が日々の暮らしを大事にし、昼間は医者、夜は研究と言う多忙な中でも家計簿や諸記録を残したのは、生活との両立こそが「もの学び」の生命線であることを知っていたからでしょう。過程や近所づきあいを犠牲にしては学問は出来ないよ、と言っているようです。
 ※宣長の書いた家計簿『諸用帳』。展示は寛政10年(70歳)11月には、びんつけ油(整髪料)や鏡研ぎ、かまどの修理代金、奥さんが口腔外科にかかった治療代などが細かに記されています。冠婚葬祭の記録『臨時吉凶贈酬帳』。『法事録』には両親親戚だけでなく先生や先だった弟子の命日まで記されます。

19.読書に疲れたときには、さやさやと鳴る柱掛鈴で心を癒やしました。
 ※「柱掛鈴」など。

20.研究成果は公開を
 研究したらそれを本にまとめる。これは師と仰いだ契沖や真淵も同じです。でも大きく違っているのは、それを出版したことです。生前刊行分で30種、没後の分まで合わすと50種に及びます。1種でも『古事記伝』のように44冊ありますから膨大な数です。徹底して推敲し清書する。後の補筆訂正はほとんど無いという完成度の高さ。「学問する機械」宣長先生の面目躍如といったところです。
 ※『源氏物語玉の小櫛板木』・『古事記伝板木』と『古事記伝』版本。



☆ 展示品解説       ◇壁面展示・◎国重文・○県有形・☆初出品

☆ 展 示 品 説 明 会  


 ◆6月18日/7月16日 午前11時から 参加費は無料です。

 展示品説明会を毎月第3土曜日に開催します。
 本居宣長記念館の展示品説明会は、開館した直後から行われて、たくさんの参加者もあり、また当日配布する資料の充実振りには定評がありました(特に初代館長山田勘蔵氏の担当分は基礎資料として今も使用されることがあります)。


☆ 特 別 企 画 展  

  特別企画展「日本が見えない 竹内浩三没後60年
     期間:7月31日(日)~8月21日(日)(月曜休館)
     時間:9時~16時30分
     会場:本居宣長記念館講座室 2F講座室(8月3日2Fフロアー)

 昭和20年ルソン島バギオで戦死した竹内浩三は、その僅かな人生のうちに優れた詩と周辺の人々に強い印象を残していきました。今年は竹内の没後60年という一つの節目です。これを機に、現在、本居宣長記念館でお預かりしている竹内の詩稿や日記、回覧雑誌、遺品類を公開いたします。
 今回の展示の底流となるのは、「戦で死ぬこと」です。
 本居家の歴史は、奥州九戸城の合戦(1591)で本居武秀が討ち死にするところから始まりました。町人として平和な世を渡る中で、宣長が生まれ、その学を大成していきます。戦さは遠い過去のものとなり、僅かにその著作『排蘆小舟』の中で人の本性として戦場のたとえが引かれるだけとなりました。しかし、極限において顕れる人の心、それが物語や歌の背景になるのだという主張は「もののあわれ」論として広く知られるようになったのです。そして昭和の大戦。伊勢市に生まれた竹内浩三は、過酷な軍隊生活の中で優れた詩作を残し、昭和20年4月9日、フィリピンで24歳の人生を閉じます。「もののあわれ」が深くなるとき優れた詩が生まれると言う宣長の主張は、はからずも竹内により証明されたのです。対照的なのは、宣長が古典の中に「日本」像を求め一つの結論を得たのに対し、竹内は「日本が見えない」と言いながら戦地に赴いたことです。
 戦争と人の心を見つめる今回の展示を、ぜひご覧下さい。
本居宣長記念館
〒515-0073
三重県松阪市殿町1536-7
TEL.0598-21-0312
FAX.0598-21-0371
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