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平成17年度 冬の企画展

                   冬の企画展   「鈴屋から見た日本  ―天明年間の宣長―」


期間 2005年12月6日(火)~ 2006年3月26日(日)
【休館日】月曜・年末年始(12月29日~1月3日)
【入館料】大人300円・小学4年から高校生100円。団体割引有り。



◇ 展示の趣旨  

 天明年間(1781~88)は、浅間山の噴火、全国的な冷害、そして京都大火と大事件が頻発した時代でした。そんな中で田沼時代が終わりを告げ、やがて寛政の改革へと時代は移っていきます。
 また、天明年間は志賀島の金印など歴史上重要な発見が続いた時期でもありました。
 一方、本居宣長も五十代。
 医者の収入も安定し、国学者としての知名度も上がり、53歳には、念願の書斎「鈴屋」を増築します。
 その四畳半の書斎で、『古事記伝』執筆しながら宣長は、この激動の時代をどのように見ていたのでしょう。
 展示では、真剣に時代と向き合う古典研究家・宣長を多角的に眺めます。
 また、今回の展示は5月から来年3月までの宣長十講「天明年間の宣長」と重なっていて、展示は十講の「ビジュアル版」です。
 ぜひ、十講もご来聴ください。



◇ 展示品で見る宣長の天明年間     ◎国重要文化財  

天明元年(1781)

賀茂真淵十三回忌。
宣長は追慕の歌会を自宅で開いた。
◎「県居大人之霊位」は、この時のために書かれ、◎「宣長春庭短冊」は、その時に書かれたもの。
また宣長一門だけでなく名古屋や遠州の門人の追慕歌を集めた『手向草』も、田中道麿により編集された。序は道麿と宣長。
この年の医療収入は96両。生涯最高額。


天明2年(1782)

宣長が病気になる。今のマラリアか。
『古事記伝』執筆を一時中断し、『天文図説』や、『真暦考』というちょっと毛色の変わった本を書く。
年末、書斎「鈴屋」増築。
「荒木田久老懐紙」は、新書斎を訪れた時の、「鈴屋」からの眺望を詠む。
「鈴屋」を詠んだ歌は数多くあります。


天明3年(1783)

浅間山が噴火した。
宣長の ◎『日記』 にはその前後の様子が記される。   
7月1日、    東北方向から、唐臼を踏むようなどんどんという音が、昼夜分かたず聞こえる。
7月7日夜、    家の戸や障子が響き鳴って眠れず。
7月8日、    ようやく静かになった。
聞くところによると、信濃国の浅間山が大焼け(噴火)とのこと。
上野国(群馬県)の人の話では夥しい砂が降り、石も混じり、やがて浅間山に二本の火柱が立ち、それが東に倒れた。その後は洪水で被害甚大。
宝永の富士山の噴火よりも大変だった。
宣長は松坂での様子だけでなく、例えば西国の、また現地の情報なども集めて端的に記す。
これは浅間山の噴火以外でも同じで、冷静な情報分析の態度がうかがわれる。


天明4年(1784)

2月23日、筑前国志賀島で「金印」発見。
情報はすぐに全国に発信された。
宣長の手元にも「金印印影」1枚が届いた。
さて「金印」に対する宣長の意見は、◎『水茎の考等草稿』の「漢委奴国王金印考」に詳しい。
細井金吾の論を検討し、「委奴」が「イト」と読めるかなど音韻論から考証する。
結論として、この印は「倭国」(日本)ではなく、筑前にあった国に贈られたものであり、忌避することもないが、大変重要なものと珍重するほどのこともない。
ただ古いものだから、その点では重要だろうという。
出土品ですぐ歴史を書き換えようとする過剰評価を戒める穏当な意見である。
この年、村井古巌、蔵書を伊勢の神宮「林崎文庫」に献納
敬義、号は古巌(こがん)、勤思堂。京都の人。初め呉服商。
国学を好み、古書を愛して珍書奇籍を集め、書籍商に転じる。
献納本は、和書3707部。
天明6年、奥州塩竃神社で没す。享年46歳。
宣長も敬義の蔵書の恩恵に浴した。
天明3年には、『古事記』を古巌本の古写本で校合している。
また、今回の展示品では 
◎『村井敬義所蔵書目之内』1冊
これには、古巌(こがん)村井敬義が所蔵する蔵書の一部、120余りの書名を記す。
『朝野群載』、『新猿楽記』、『琉球神道記』など多様な本が挙げられる。
これらは宣長の旧蔵書と共通する書名も多く、恐らくは村井氏の本の写しであろう。
「古鈴の図」4枚
「駅鈴図」「河内駒ヶ谷金剛輪寺什物鏡鈴図」「駅路鈴真形図」
これも村井敬義の所持していた図の写しである。
「鈴之図」1冊1枚
これは「尾州大館高門蔵古鈴之写」1枚と、村井敬義所蔵本を写した「下総葛飾郡吾嬬神社神宝等」である。
「東大寺宝物」1巻
本居春庭(22歳)写。
今の正倉院文書である。これも古巌本の写しと推定される。
展示は「水成瀬絵図」の部分。
古巌本の写しはもっぱら本居春庭が担当した。
『写本覚帳』2冊
はその写本リスト。今回は天明分を展示した。
古巌は松坂にも来訪し、宣長と対面した。
『両節算用帳』1冊
これは、宣長が参加していた嶺松院歌会、遍照寺歌会などの会計帳簿。
今回展示したのは、天明5年正月15日条。
京都の村井古巌が、嶺松院歌会に来訪。
その時の菓子代も、大平取り替えで2匁と記録されている。
参考までに、三井高蔭の日記を見ると古巌は、高蔭を訪問し、一緒に会に行ったことがわかる。


天明5年(1785)

藤貞幹『衝口発』を論駁してくださいという依頼が来る。
この本は、天明元年刊。
著者の藤貞幹(とうていかん・一七三二~九七)は京の人。
学問はあったが真摯に研究というのではなく、遊びの要素が強く、偽証もあり、真意が量りかねる。
この書も、年号問題や、スサノオが新羅(古代朝鮮)の主であるという独自の古代論。
思いつきは面白いが、それは学問ではない。
宣長は『鉗狂人』を執筆して、逐条批判しする。
これが契機となり、宣長と上田秋成の論争が始まる。


天明7年(1787)

11月26日、小西春村の長男誕生。

宣長にとっては初孫。
「宣長懐紙」1幅は、七夜慶賀の歌。
美しい料紙に書かれて、今回初出品です。
この年、上田秋成との論争が終結する。
◎『呵刈葭』 はこの論争を宣長がまとめたもの。
また、このとき話題となった世界地図が「地球一覧の図」1幅である。


天明8年(1788)

1月30日京都で大火。
内裏など町の75%が焼失。
惨状を綴った上田秋成「迦具都遅能阿良毘」を展示した。
同年2月、門人・小篠敏が長崎に行き、阿蘭陀人と対面。
「アルファベット図」を写し、日本語の発音について問う。
この年の阿蘭陀船入港は2艘。
同年5月10日、第3回目『源氏物語』講釈全巻終業する。開始は、安永4年1月26日。
今回はその時に宣長が使用したテキスト、◎『源氏物語湖月抄』や宣長の『源氏物語』研究ノートなどを展示しました。



◇ 展示説明会を開催します  

 日時、第三土曜日(宣長十講の日)の午前11時からで参加費無料。



◇ 宣長十講(第三土曜・午後2時から・参加費無料。会場、松阪公民館) 

12月17日    (土)「金印発見・天明考古学事情」    京都精華大学    表智之
1月21日    (土)「宣長の源氏物語講釈」    京都学園大学    山崎芙紗子
2月18日    (土)「『古事記』世界を創造する-「天地図」」    皇學館大学    橋本雅之
3月18日    (土)「天明年間の宣長」    本居宣長記念館    吉田悦之

最新情報の「冬の企画展 『鈴屋から見た日本 -天明年間の宣長-』のご案内」
もご覧下さい。
本居宣長記念館
〒515-0073
三重県松阪市殿町1536-7
TEL.0598-21-0312
FAX.0598-21-0371
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