本文へ移動

平成29年度 秋の企画展

 親子の関係というのはいつの時代も難しいものだ。
 宣長にとって母、また早く逝った父は、どのような存在であったのだろう。
 父としての宣長は、5人の子供たちからどのように見られていたのだろう。優れた国学者は、よき家庭人であり得たのか。
 宣長にとって息子・春庭の将来は、父と言う立場からだけでなく、生涯を掛けた学問の行く末にも関わる重大問題だった。いったい宣長は、息子の将来をどう考えていただろう。残念ながらそれは分からない。ただ確実なことは、学問に見られる宣長の緻密さは春庭に受け継がれたということだ。
 今回の展示では、親子関係という永遠のテーマから、宣長の人生観、学問観に迫る。またそれを通して、春庭の生涯と、その解明に半生をかけた詩人・足立巻一の遺品・遺稿類も公開する。

≪本居春庭とは≫
春庭(1763~1836)は宣長の長男。少年の頃から父の指導でさまざまな本や地図などを書写し、宣長の学問の後継者として父や周囲も期待されていたが、32歳で失明。しかし、その後は弟や妹、妻の壱岐、父宣長の弟子で秋田の大友親久、また松阪の門人の助力を得て、ことばや歌をカード化し、四段活用、上一段と言った日本語の動詞の活用の体系を作るという、画期的な業績を残した。主著には『詞のやちまた』『詞の通路』があり、後世の文法研究史上に大きな影響を与えた。
  【期  間】 2017年9月5日(火)~ 12月10日(日)

  【展示総数】 85種101点  ※内、国重文23点  (変更あり)
※展示説明会 9月16日(土)、10月21日(土)、11月18日(土)
いずれも午前11時から(無料)
三重県立美術館「本居宣長展」〔9月30日(土)~11月26日(日)〕との相互割引あります
                                          
●疋田 宇隆(ひきだ うりゅう) の作品 3点が勢揃い !  
 京の絵師・疋田宇隆は、文政5(1822)10月に松阪を訪れ、60歳の春庭の絵を書きました。
 宇隆は生没年未詳で、不明な点も多い絵師。近世京都の知識人文化人を網羅した、『平安人物志』の文政5年(1822)版、文政13年(1830)版、天保9年(1838)版に名前が確認できることから、少なくとも、天保9年頃までは存命していたと思われます。
今回は、そんな宇隆の作品を、春庭像含め3点展示しました。作品によって、繊細にも大胆にもなる宇隆の筆づかいを、ぜひご覧下さい。

「本居春庭六十歳像」本居春庭賛(美濃代筆)、疋田宇隆画
春庭60歳の様子を描くこの絵は、春庭の門人たちがお祝いに贈ったプレゼント。突然の失明、後継者問題と、春庭の周囲は決して穏やかとはいえませんが、門人たちの結束は固いものでした。

「烏の図」疋田宇隆画
 「春庭像」や「孫悟空の図」と比べ、右上から左下への力強い筆づかい。烏の雄々しい様が印象的で、鳴き声さえも聞こえてきそうです。

「孫悟空の図」疋田宇隆画
『西遊記』に登場する孫悟空は、仙石から生まれた猿の王様。不老不死を求め仙人に弟子入りし、長寿の妙道を密かに教わり、にも乗れるようになります。一人?斗雲に乗ったこの悟空は、何やら後ろを気にしている。扇を盗んで、逃げている最中でしょうか。

「本居春庭六十歳像」
「烏の図」
「孫悟空の図」
●春庭顕彰(はるにわけんしょう) の出発
足立 巻一 ≪足立 巻一(あだち けんいち) 氏≫
 詩人、評論家として知られる足立巻一(1913~85)は、盲目の国学者本居春庭の研究の先駆者でもありました。彼はの神宮皇學館(じんぐうこうがっかん)学生の頃から、春庭に関心を持ち、春庭の生涯とその業績を半生をかけて研究し『やちまた』を出版しました。
 昭和43年(1968)、松阪に調査のために来ていた氏は、魚町の旧宅跡に残る春庭が居た座敷の屏風(びょうぶ)の下貼りから『詞(ことば)のやちまた』原稿を発見。写真は、その頃のもので、場所は魚町の発見現場です。

・『詞の八衢』本居春庭著(美濃代筆)
 日本語の動詞の活用の種類と体系を研究した本。現在の中高生が古典の授業で習う動詞の「活用」と「体系」について、この本で春庭が紹介しています。
 32歳で失明した春庭にどうしてこのようなすぐれた研究が出来たのか長い間謎とされてきましたが、足立巻一氏の努力により、カードの使用、妹美濃の協力など研究のプロセスが次第に明らかになりました。そしてその頃、昭和43年(1968)には、屏風の下貼りからこの稿本が発見されました。そのときの感動を足立氏は「今日まで生命が与えられた至福が思われた」と回想しています。
本書は、足立氏の手によって生き返ったのです。

『詞の八衢』本居春庭著(美濃代筆)
・『やちまた』
 やちまた 昭和49年(1974)10月20日、河出書房新社。第20回芸術選奨文部大臣賞受賞。
 同人誌『天秤』に6年間もの間連載されたこの超大作。連載が終わったとき、足立氏はほっとしたようです。ですが、連載終了約1ヵ月後の「朝日新聞」で、こんなことを述べています。

これでスーッとすると思っていたら、そののち誤りが無数にあらわれ、補正削除しなければならない個所も多く、前編書き直しに近く、それも千八百枚ほどの長文なのでまことに苦しい。
・・・(中略)・・・人生も文筆の業もまったく「やちまた」だと嘆じている。

約1年かけての書き直し、ということですね。


≪春庭没後100年祭≫
 宣長没後126年となる、昭和2年(1927)。11月7・8日の2日間にわたり、本居春庭翁百年祭が行われました。松阪公民館を会場に贈位報告祭、墓前祭、講話、遺墨展が開催され、大きな催しとなりました。
 松阪市の個人の方から、この「春庭没後100年祭」にまつわる資料をお借りし、この度、展示させていただくこととなりました。昭和の顕彰、その出発として、ご覧下さい。
・「春庭翁百年祭式典祝詞」昭和2年(1927)11月7日 【個人蔵】
 この祝詞は、春庭翁百年祭式典のときの小出三郎氏のもの。小出氏は初代松阪市長(1933-1937)であり、鈴屋遺蹟保存会の理事長でもありました。
 立派な文字も見どころです。
「春庭翁百年祭式典祝詞」
小出市長の絵はがき
・「本居春庭一族門下遺墨展覧会目録」
            昭和2年(1927)11月7・8日 【個人蔵】

 昭和2年(1927)の本居春庭翁百年祭で開催された、「本居春庭一族門下遺墨展覧会」。まだ宣長記念館などなかった当時、一族一門の資料がならぶ、いい展示だったようです。展示資料は、宣長や春庭に関わる資料を所蔵の方々より、集められました。
 その展示資料の大半を短冊が占めていますが、よく見ると能登のものは1枚もありません。


●宣長、珠玉の品々  
 本年、三重県立美術館で「本居宣長展」が開催され、記念館からも多くの宣長関係資料を出品します。そんな中でも、残念ながら美術館へ出品されない一級の宣長資料を、本展で展示しています。春庭資料と押しつ押されつの限られた展示スペースの中、悩みに悩んで職員が選んだ逸品です。

・「古事記伝終業慶賀(こじきでんしゅうぎょうけいが)の詠」 本居宣長 筆画

寛政十年九月十三夜古事記伝かき終へぬるよろこびの円居して被書視古といふことを題にて人々とゝもによめる
   古事の 記をらよめば いにしへの 
          てぶりことゝひ きゝみるごとし


 寛政10年(1798年)6月13日、宣長は『古事記伝』44巻を書き終えました。作業を始めてから、実に35年の月日が経っていました。
 同年の九月十三夜、宣長は『古事記伝』終業のお祝いの歌会を開催しました。
そこで宣長が詠んだ歌です。

 今年の十三夜は、11月1日です。晴れるよう願い、みんなでお月見しましょう。
「古事記伝終業慶賀の詠」
 『古事記伝』巻1~3
 「日本とは何か」
 この疑問を解決するには、「古」を正しく理解することが重要だ。宣長は35年の歳月をかけて、日本最古の歴史書『古事記』を、注釈書『古事記伝』全44巻にまとめ上げました。
 まるで印刷したかのように美しい文字。誤りもほとんどありません。まるで学問する機械みたいな人です。日本最古の歴史書として、今やほとんどの人がご存知の『古事記』ですが、宣長が現れるまでは、誰も読むことが出来ない歴史書でした。1000年も前の、祖先の「こえ」を言語化した文章を、理解出来る人はいなくなっていたのです。
『古事記伝』巻1~3
・「神器伝授図(しんきでんじゅず)」本居宣長(15 歳) 筆
 中国4000年の歴史を10メートルに凝縮!
 中国皇帝の系図を記し、革命などで王統が変わる度、朱で線を引いていく。15歳の少年は、長いけれどブツブツと断絶された中国の歴史を目の当たりにすることで、逆に、途切れることのない、日本文化の連続性について考えるようになります。
 ここから、「日本とは何だろう」という宣長生涯の課題となる疑問が浮かび上がってくるのです。
 今回は、どどーん!と2メートル50センチほど広げてみました。圧巻です。
「神器伝授図」
・『万葉集問目(まんようしゅうもんもく) 』宣長問 、真淵答
  しっかり考えるためには、しっかり質疑応答をすることが大切。『万葉集問目』は、宣長の質問に賀茂真淵が答えた、400キロ離れた二人の通信教育の記録です。カタカナ混じりの楷書体で丁寧に書かれたのが、宣長の質問文。その間にある小さな字が、真淵の回答文です。
 師真淵と弟子宣長が直接対面したのは、「松阪の一夜」の一晩だけ。「分からないことがあれば、手紙を送ってきなさい。答えてあげよう」と約束した通り、真淵と宣長はこういった手紙のやりとりで、勉強しました。

『万葉集』巻8 「夕月夜心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも」
 『万葉集』を勉強中の宣長。「蟋蟀」をそれまでは「キリギリス」と読んでいましたが、それでは字余りになってしまう…と気になり、真淵先生に質問しました。真淵先生は「よい質問だ。私の先生は"コオロギ"と読まれた」と、丁寧に教えてくれました。

 なるほど、これなら字余りにはなりませんね!
『万葉集問目 』
「荒木田経雅宛宣長書簡」安永7年(1778、宣長49歳)6月24日付
  「なぜ?」
 この疑問が宣長の学問の出発点です。疑問・関心が生まれると、納得がいくまで質問を続けます。その探究心は、ちょっと聞く側の腰が引けてしまうほど。鈴について質問をしてきた経雅に、宣長はこのような手紙を送っています。

この前の麻笥(オケ)や鈴についての私の回答について、疑問点が有れば何回でも質問してきてください。このようなことは得てして何回も質疑応答を繰り返すうちに段々良い考えが出てくるものです。だから遠慮無く何回も質問してきてください。

ともに考える、それが宣長の学問です。
「荒木田経雅宛宣長書簡」
本居宣長記念館
〒515-0073
三重県松阪市殿町1536-7
TEL.0598-21-0312
FAX.0598-21-0371
TOPへ戻る