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コラム 宣長探し

コラム 宣長探し

宣長にかかわる種々の話をご紹介します。

文責:本居宣長記念館名誉館長 吉田悦之

コラム宣長探し 目次

No.
内 
掲載日
#001
2011.2.15
#002
2011.2.15
#003
2011.2.22
#004
2011.2.22
#005
2011.3.1
#006
2011.3.8
#007
2011.3.15
#008
2011.3.22
#009
2011.4.5
#010
2011.7.18
#011
2013.3.16
#012
2013.5.1
#013
2013.6.21
#014
2013.6.25
#015
2013.7.1
#016
2013.11.26
#017
2013.12.27
#018
2014.1.15
#019
2014.3.22
#020
2014.8.19
#021
2015.1.18
#022
2015.2.23
#023
2015.5.9
#024
2015.6.4
#025
2015.7.1
#026
2016.4.26
#027
2017.9.13
#028
2018.8.8
#029
2018.8.14
#030
2018.8.17
#031
2018.8.19
#032
2018.8.28
#033
2018.9.16

コラム宣長探し



◇ 朝熊山金剛証寺の絵はがきに敷島の歌 

#001

「放送大学付属図書館所蔵コレクション展、日本残像~ちりめん本と古写真が語る幕末・明治~」展(放送大学主催・三重県立図書館)入り口近くに飾られるパネル「朝熊山金剛証寺」は絵はがきの拡大のようで、昭和4年6月24日参拝記念のスタンプを捺す。その脇には「敷島の大和心を人とはば」の歌が印刷されている。
  あらゆる所で敷島の歌が引かれる、そんな時代の到来なのかもしれない。


2011.2.15





◇ 『離屋集初編』の刊行

#002

   鈴木朖の文集『離屋(りおく)集初編』が、版本の影印に訳注を附けて刊行された。待望の一書である。
 国語学研究史上において鈴木朖の名前は燦然と輝いているが、宣長の門人としての朖の存在も際やかである。少年の頃から漢学に秀でた朖だが、その学問は凡百の漢学者とある一点で大きく異なっていた。それは本居学の精神を体現していたと言う点であった。
 朖は、宣長を孔子と比較して、「先生の風、頗る仲尼に似る」と評し、宣長もその言を素直に喜んでいる。

  その朖を知る基本文献が、『離屋学訓』と、この『離屋集初編』である。ここには学問的なスタンスを明らかにした「答客問」や交友を知る上でも貴重な文章が集められている。また本書は、「頗る仲尼に似る」という有名な文言の入った「送本居先生序」や、「馭戎慨言序」、「答問録跋」、また「続紀歴朝詔詞解序、代人作」などこれまでないがしろにされてきた文献も入っていて宣長の基本文献でもある。私など漢文に暗い者には訳注が重宝で、これから安心して引用することが出来そうだ。

 

  『離屋集初編』 鵜飼尚代訳注、尾崎知光補正補筆・鈴木朖学会刊・2010年12月
            名古屋市西区城西3-21-17 離屋会館内 電話 052-522-7472

 


 
>> 鈴木朖(スズキ・アキラ)

2011.2.15





◇ 『多度神宮寺資財帳』の発見

#003

 小玉道明氏「鴎外再見 桑名郡多度寺の資財帳を追う」(『棧 文芸・論索同人誌』26号・2010年12月)は、『多度神宮寺資財帳』(国重文)が発見紹介される過程を追い、同資財帳の謎に迫る。
 東寺旧蔵と伝えられるこの「資財帳」が世に出たのは18世紀後半。

 三つの動きがある。
 まず、藤貞幹が写した(大東急記念文庫蔵)。貞幹は寛政9年(1797)8月19日没で、それ以前の写本であることは間違いない。
 次に上田百樹の写本(津市立図書館稲垣文庫蔵・文化7年写)と、伴信友の『神名帳考証』への引用で、この二つは両者の交友から関わりがある可能性が大きい。
 最後は、市場に出た「資財帳」は竹包楼から狩谷掖(木偏・夜)斎の手に渡り、模刻本が作られた。狩谷本が現在の多度大社所蔵の重要文化財指定品である。

 これらの三つがどのようにつながるのかは今のところ不明。そこに「資財帳」が内包する問題や、掖斎の模刻本の謎、さらに史料批判のないままに研究が続けられてきた杜撰さが絡み合い複雑な様相を呈する。この成果は近く論文として発表される予定で、本編はその途中経過。
 今のところ宣長との直接の関係はなく、周辺で起こった出来事の一つにすぎないが、和学者の世界の出来事として興味深い。

 

 
>> 上田百樹(ウエダ・モモキ)


2011.2.22


 




◇ 内池永年旧蔵『神代紀髻華山蔭』

#004

 本居大平の「みちのく社中」の中心的な存在だった内池永年については、『内池永年集-みちのく社中・』(福島市史資料叢書第50輯・58輯)に詳しいし、そこには、書簡や詠草、紀行も収められている。「諸国風俗問状」の回答として、大平の委嘱により、石金音主と『陸奥国信夫群伊達郡風俗記』をまとめたことは後世に残る業績だが、永年旧蔵の版本『神代紀髻華山蔭』(じんだいきうずのやまかげ)が確認された。

 
 表紙の裏には「文化拾五年寅四月於京都求之、内池與十郎永年」と墨書され、巻首には「内池家蔵」の印が捺される。刊記「鈴之屋蔵板、寛政十二年庚申之春発行、製本弘所、書林、勢州松阪日野町柏屋兵助、京都寺町通四条上ル町銭屋利兵衛、同三条通御幸町西江入町河南儀兵衛」。表紙右上に「七」と墨書。題箋に「全」と朱書。
 購求日は書かれていないが、永年が音主と西遊した日記『道のしをり』には、「廿二日晴、本(居)家靱負御兄弟へ御暇乞ニ参リ、紀州先生様へ礼状差上候、城戸市右衛門主へ立寄、書物約束致、料紙遣し長歌頼置候・・」とある。この時の買い物だろうか。
 『内池家蔵書目録』には「神代紀髻華山蔭【四匁五分】、壱巻」とある。

 

>> 『神代紀髻華山蔭』(ジンダイキ・ウズノヤマカゲ)


2011.2.22




◇ 病と苦役 (やまいとくやく)

#005

 パンデミックに鳥インフルエンザ、21世紀になっても疾病の恐怖は勝りこそすれ、克服の目途は全く立たないようだ。花を待つ頃は、花粉症に怯える季節でもある。
 仕事の傍ら『古事記伝』を読み続ける方から、メールが届いた。そこには、
「今日は少し時間をとって『古事記伝』に取組みました。二十三之巻の最初の方に、「役病」と「疫病」についての考察があります。この数行の文章の解釈に数時間もかかりました」
とあった。
  問題の箇所は、

「この天皇(崇神天皇)の御世、役病(エヤミ)多(サハ)に起こり、人民(オホミタカラ)死(ウセ)て尽きなむとする」(『古事記』中巻)

の注である。

 「エヤミ」とは、流行病、パンデミックのようなもの。『古事記伝』の説を要約してみよう。
 まず最初に、この「役病」(エヤミ)を、「疫病」と書く本があるが、ここは真福寺本などの「役病」が正しいと言う。次に、「エヤミ」が古語であることを、『和名類聚抄』や『日本書紀』、『大鏡』で確認する。龍胆をエヤミグサという記述も紹介される。

 では「エヤミ」とは何か。「役」は「エ」ともまた「エダチ」とも言う。「エダチ」とは「役立」。これは強制された労働を意味する言葉である。逃れることができないことでは疫病も、漢籍には民が皆病むとあるので、よく似ていると宣長は考える。
 ここで宣長は、真淵先生はこの箇所を「疫病」として、「疫」を「エ」と読むのは字音をとったのだ。またこの箇所は次に出てくる「神気」と同じで「カミノイブキ」と読むのだと言われたことを思い出し、自分も「役」も「疫」も「エ」と読むのは字音だろうと考えていたと告白する。理由としては、日本語の「エ」の意味が「役」や「疫」と重なりすぎるからだ。
 でもよく考えてみれば「役」の意味の「エ」も、「疫」の意味の「エ」も共に古い言葉である。「役」はわが国の言葉と漢字音が同じである。このように両方の言葉が同じだったり、また似ることは稀にはあることだが、全部向こうから伝わったと考えるのは誤りである。
 まとめとして、「疫」の字は「役」から転じて生まれた(「疫は役也。言は鬼有りて役を行う」『釈名』)、わが国の「エ」の場合と発想は同じである。「エ」については漢字音由来説は誤りである、と結ぶ。
 今は、たとえば『新編日本古典文学全集 古事記』で、「エ(疫)+ヤミ(病)。エは「疫」の漢字音に由来する語で、悪性の流行病を意味する。「役」の字は「疫」字に通ずる」とあるのを見て、また『岩波古語辞典』で、「「疫」の中国北方の字音yekのkの脱落したもの」を確認して次に進むのだろうが、それに比べると『古事記伝』の記述のなんと豊かなことか。真淵説に幻惑されそうになりながら、踏みとどまり考える。強制労働の「役」と流行病の「疫」を同じ感覚で捉えていた古代人の思考にまで遡り、日本も大陸も共通する発想法に思いを致す。

 同じ言葉があるからと言って短絡的に伝播したとは捉えない。向こうから伝わってきたと捉えた方が楽だし、説得力もあるのだろうが、それは思考停止である。宣長はそれを拒絶する。私たちは、宣長の考え方の推移をたどることで、試行錯誤を重ねることでしか見えないものがあることを知る。これが『古事記伝』を読む楽しみである。

  「行病」。この一語を解くのに宣長はどれだけの時間を費やしただろう。メールの方の数時間は決して長くはないと思う。


2011.3.1


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◇ 小林秀雄「本居宣長」

#006

 日本経済新聞 2011年2月19日夕刊「文学周遊」254回では、小林秀雄の『本居宣長』が取り上げられた。

 この本が出たときの小林秀雄の名言・迷言は色々伝えられているが、 今回も、その一つ、値段の話から始まっている。
奥墓での小林の感想を伝える担当編集者・池田雅延さんの証言も貴重。
限られた字数で豊かな情報を盛り込むこの記事の執筆は、編集委員の浦田憲治氏。

 また写真は、大変珍しいが、雪の本居宣長旧宅(鈴屋)。
これとほぼ同じアングルで、梶井基次郎が旧宅をスケッチをしていたはず。
「城のある町にて」は、この松阪滞在中に取材する。
 また、「文学周遊」の中に、折口信夫の、有名なセリフ

 「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」

が引かれている。
この会話の場に立ち会った人が一人お見えになる。
歌人の岡野弘彦氏である。
 今年、4月16日の第28回鈴屋学会大会公開講演会では、その岡野氏をお招きして、
「古事記と源氏物語-歌と物語の文学伝統-」でお話しを頂く。

 本が刊行された時に本居宣長記念館が講演をお願いした。
 その時の小林氏の返事は、

  宣長さんについては、全部あの本に書いてあります。
   もう話すことはありません。

だった。
 あの葉書はどこかに行ってしまって記念館に残っていないのが残念である。


2011.3.8

◇ 禍津日(マガツビ)の神の荒び

#007


「禍津日(マガツビ)の神の御心の荒びはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」 『直毘霊』

 宣長の『日記』を読んでいて胸が痛むのは、災害の記事です。噴火や飢饉、大火、水害など、宣長は知り得た情報を短くまとめ記録しました。
  天明7年(1787)、天明の飢饉は最期のピークを迎えます。年が改まって天明8年、京都は前代未聞の大火に襲われました。その復興が一段落付いたかと思われる寛政4年(1792)にも、凄惨な記事が続きます。
  情報の伝達で記載は前後しますが、まず5月17日に大坂が大火。6月には、4月の九州の島原の噴火の惨状が伝えられました。

「四月朔日、肥前国嶋原大変。城辺の高山は裂け崩れる。火炎が出、大水が涌きだし、同時に海浪は城下に押し上がり、町家ならびに海辺の村十七か村悉く流失。右の分人数二万七千余人の内、存命は半分。是また多くはけが人なり。残りの分は流れ死ぬ。城大手門際まで崩れ、城内は別儀無し。城主松平主殿頭殿あらかじめ城を出て、近郷に逃れ存命」

とあります。
  7月の水害では、宣長の家も浸水しました。

「十三日、風雨大洪水。御郡奉行屋敷裏の堤切れ【十間ばかり】、右屋敷、町奉行屋敷、そのほか殿町御代官所辺まで水多く押し入り、大いに荒れる。御町奉行所門流失。魚町の上鎌田屋土蔵一つ流失。同家借家二宇潰れ。魚町三丁目まで水入り。二町目ことに甚だし。そのほか本町大手より下、中町半分余り。工屋町、紺屋町等水入る。瓦の薬師前上の方の堤切れ【少し】矢下小路へ水入る。岡寺の門柱の礎四本の下が流れ抜け、当家宅も水入る。床上一尺ばかり也。先年二十年以前の水入に四五寸ばかり低し。同日、海辺の大口浦より南方、志摩国鳥羽辺まで高波押し上げ、二見浦其の外民家多く流失。鳥羽城大いに損ず。北風故北方浦々は指したること無し。当邑の水入りは、申の刻から酉刻後に至る」

これは台風でしょうか。宣長宅は床上30センチの浸水で、時間は夕方でした。

  松坂の地名は、
 
「宣長さんの松坂地図」で確認してください。

  宣長の住む魚町一丁目は坂内川河畔の町。すぐ上手の殿町、今の松阪市役所裏の堤防が決壊し水は町を洗いました。沿岸部の被害は甚大だったようです。
  また、同月21日に江戸で大火事があったと言う話が聞こえてきました。
 簡略な記載だけに、かえって天変地異の恐ろしさが伝わってきます。

  200年後の今、文明はずいぶん進みましたが、私たちの生活が脆弱な基盤の上で営まれていることに変わりはありません。悪の帝王である禍津日(マガツビ)の神の暴虐には抗うことは出来ないのです。
  宣長は国学の大成者だと言われます。
  「大成」とは、単に契冲と真淵の学問を融合し進歩させたというだけでなく、社会的な責務を果たすことが求められるほど成熟したということでもあります。人々の安心、社会の出来事や外交など、身の回りのこととも積極的に関わる学問となったのです。
  不条理から目をそらすことはできないのです。

 3月11日、東日本で大地震がありました。痛ましい惨状が今も続々と入ってきています。
  罹災された皆さまに、心よりお見舞いを申し上げ、いち早い復興と平安を祈っております。

2011.3.15 



◇ 竹とひさご(瓠)

#008

 幕末、明治初期に伊勢国射和村に竹川竹斎という人がいた。宣長門人竹川政信を父に、荒木田久老を外祖父にもつ竹斎の多方面にわたる活躍はよく知られている。たとえば私設図書館の先駆となった射和(いざわ)文庫の創設や、裏千家の茶人として玄々斎との交友、射和万古の窯を開いた。地元の小学生は、私財をなげうって射和上池の造築など村の産業に貢献したことを学ぶ。

  皆さんは、勝海舟が咸臨丸で渡米した時の写真をご存じだろうか。勝が持つ大刀は竹斎から贈られたものである。開国論者としての発言や科学への関心の深さも最近では注目の的となっている。

  竹斎を研究する岩田澄子さんとお会いしたとき、「吉葛園」についての質問があった。
  「吉葛園」、よさづらのそのと読む。竹斎の三畳隅炉の茶室の名前である。『日本書紀』の「天吉葛神」に由来するのであろうこの「吉葛」だが、上質の葛で澱粉の原料だなどと注釈されるが、はたしていかがか。
  私見だが、それは戦後の知識であり、近世ではたとえば宣長は「葛布」説(『日本書紀』手沢本)であり、賀茂真淵は「瓠」説(『祝詞考』)であった。祖父久老の心情を斟酌すると、竹斎は真淵説を採用しただろうし、また竹斎の「竹」も中が空洞で共通すると私はお答えした。
  断片的で思い付き、回答の体を為さないものであったが、岩田さんはきちんと整理し、日記の標題が「瓢園主人」から「吉葛園日記」に変更されているという証拠まで挙げられ、「開国論者・竹川竹斎の茶に関する活動について」
の中で紹介していただいた。

  「吉葛」のようなディテールはともかくも、この岩田さんの論文が画期的なのは、竹斎の主たる活動域全体を見渡すというところにある。
  竹斎の茶道との関わりについては、既に『淡交』(平成6年12月号)等茶道関係誌でも取り上げられ、最近では永井謙吾氏の『茶人竹川竹斎とその周辺』(平成21年10月・私家版)という本も刊行された。永井氏は、茶会記を読み込み、道具の目利きでもあり、何より茶をこよなく愛される人だけに力のこもった一冊である。また一方には、竹斎を初めとして伊勢の茶道史を広い見地から捉え直す戸田勝久氏の丹念な研究があり、両方が合わさると豊かな内容の茶道史が描けるはずである。

  しかし竹斎の目は、茶道だけに向けられていたのではない。茶陶や茶の葉の栽培、可能性としては静岡県牧之原台地の茶業にまで拡がるものであった。
  いち早く近代を見据えていた竹斎。その号に国学者の知識、また宣長と真淵、久老という人々の影、つまり近世の文化伝統が見えるのは、教養の厚さを物語るものであり、興味深い。

 ※『茶の湯文化学』第18号 平成23年2月20日 茶の湯文化学会編集・発行

 

2011.3.22 

◇ データベースがほしい

#009


  「ちょうちょう」という小学唱歌の原型は、明治7年に野村秋足によって採集された愛知県尾張地方のわらべ歌で、と山田俊幸氏が話された(宣長十講2010年11月20日「宣長と危機の時代」)のを聞いて驚いた。
 突然、谷川士清の『和訓栞』を刊行した秋足の名前が出てきたからだ。
 秋足の名前は、士清の話の中でしばしば耳にするが、まさか「ちょうちょ う」と関係あるなどとは思わなかった。事績も聞いたことはない。また、唱歌を調べる人も『和訓栞』刊行の功労者とは、あまりご存じないだろう。

 現在は、問題意識や情報を共有することが簡単にできるだけに、昔とは違った研究の展開が期待できそうだ。
 来年2012年は、『古事記』成立1300年。年度では平成24年度が多いようだが、記念の行事が始動し始めた。
 何周年という年を祝い、記念行事を行うことは今に始まったことではないが、官民が一体となって多彩な催しが繰り広げられることがますます盛んになってきたようだ。
 今から10年前、2001年、宣長没後200年でもさまざまな行事が行われたが、心残りは行事の全体を記録したものが、関係者に配られたコピー の束だけで、それも全体を見渡すものではない不充分なものだったことである。本当は記念館で作らねばならないものだったのだろう。今、悔やまれてならな い。

 2009年3月、三重県津市では谷川士清の生誕三百年を記念して、「士清ウイーク」が開催されたが、このたび記念誌『士清さん−谷川士清生誕三百年 記念誌−』がまとめられた。とてもうらやましい。
 内容は、論文集と顕彰事業報告の二部立て。
 論文集には次の九篇が載る。論文とは言っても巻頭の私のものなど概説で、「論文集」は、論文と文集と理解していただいた方が正確だろう。
  「谷川士清と本居宣長」 吉田悦之
  「国語学史上の谷川士清」 山本真吾
  「『和訓栞』の諸本と使用上の注意」 三澤薫生
  「士清の立ち位置」 高倉一紀
  「『日本書紀通証』における引用出典の確認」 山口格
  「医人としての谷川士清を考える」 杉山陽一
  「谷川士清旧宅の解体修理に関して」 茅原弘
  「消えゆく江戸」 西田久光
  「谷川士清と僕」 安田文吉

 顕彰事業報告には、イベントの写真や子どもたちの作品、また資料展の報告には、士清の基本資料である『阿漕雲雀』や石水博物館収蔵史料の写真も入り充実している。
 北岡四良の研究(『近世国学者の研究』)以降しばらく停滞しているかに見えた士清研究だが、1999年には谷川士清の会が発足し、石水博物館で は「谷川士清展」が開催された。また、士清手沢本『素問』・『霊樞』など資料の発掘、三澤薫生氏の『和訓栞』の研究など、めざましい成果を上げている。
  だが、士清における未解明の問題もまだまだ多いことが、この九篇を読んでもわかる。

 記念事業は終わったが、今回の顕彰事業の牽引役となった「士清の会」 の活動は今後も継続されていくと聞く。また、研究もゆっくりとではあるが確実に進んでいる。一つの提案がある。
 士清のデータベースの構築である。

 私は、『和訓栞』は、国語辞典と言うより士清のデータベースと考えた方が相応しいのではないかと思う。知り得た情報を五十音順に配列して公開したのだ。その恩恵に浴したのが宣長だ。
 本居宣長の資料を探していると、士清に関わるものを目にすることがある。
 また垂加神道、出版、また考古学史、それぞれの領域で研究が進み士清の名前が出てくる。古書目録にもすばらしい資料が出ることもあるし、先ほど の野村秋足の情報などもある。このように関わりあるものを細大漏らさず集積して、データベースを構築してはどうだろうか。私はこれを士清にかこつけて書い ているが、他人ごとではない。
 急務は、宣長のデータベースの構築である。

 本居宣長記念館には、今も年に何件もの資料寄贈がある。最近では、故簗瀬一雄先生の収蔵品の一部が搬入された。植松茂岳や賀茂真淵の画像、村田 春海差出宣長宛書簡などが含まれる。宣長資料についてはもちろんだが、近世国学資料も益々充実している。このような一次資料にあわせて、関連する資料や情 報もどんどん集まってくる。
 次の問題は、その利用の方法だ。集められたものは、このホームページなどを使って積極的に公開したいと考えているが、将来的には、データベースの構築という夢を持っている。
  ただそれがどのような形が望ましいのかは、まだ茫漠として形になっていないのだが。

2011.4.5


◇ 賀茂真淵の画像

#010



   今展示室で公開している賀茂真淵像は、従来の真淵像とはずいぶん感じが違います。


   二つの真淵像を見比べてくだい。

       円山応震の描いた真淵像
       千蔭賛の真淵像

 この変わった真淵像には、 文化3年の橘千蔭の賛が添えてあります。
  橘千蔭、加藤千蔭ですが、真淵の高弟です。
  だから、この真淵像も似ていないと一蹴することはできません。
  この像は、国文学者簗瀬一雄先生の旧蔵品です。ご子息から寄贈されました。
  賛の歌は、

「もろこしの人に見せばやみ吉野の吉野の山の山桜花」

という真淵の有名な歌です。
  実は、宣長にもよく似た歌があります。

「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみ吉野の山」

宝暦10年、「松阪の一夜」が宝暦13年ですから、
 真淵と対面する3年前の作です。
 この歌を見るたびに、歌の難しさを思います。
 更に更に、他の人にもよく似た歌がある。
 それについては拙稿「宣長と画賛」で触れました。

 山桜の美しさが、高麗唐土(朝鮮半島や中国)と対比されるものであることは、
 四十四歳自画自賛像の歌、

「めづらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」

からもわかります。


 「もろこしのひとにみせばやみよしののよしののやまのやまさくらばな
 県居大人は山城賀茂成助県主の裔にて承久三年
 山城より来りて遠江敷知郡浜名岡部の賀茂の御
 社の祝と為れる師久主より七代に当りて掛まくも恐
 きかも
 東照らす大御神の将軍に従奉
 依て厚く賞させ給ひし政定主より五代の孫なり彼
 大神の五継の御跡に御座す田安の殿に
 皇御国の書の道の博士として延享三季より
 奉ぬ宝暦十年仕を退給ひ明和六年十
 月三十日になも齢七十余三にして身罷給ぬ

 文化三年正月二十七日、橘千蔭謹書」 



 2011.7.19 

◇ 大平の祖先は石見浜田城主か?

#011


平成25年春の企画展に、
『(本居大平翁纂輯)松阪城主古田家史料』と『古田氏家中騒動記』
を展示している。
2点は、本居大平筆で、「大平」の印や奥書のある旧蔵本。
その後、松阪市史編さん室を経て、同室解散後記念館に移管されたものである。
古田家に関する大平の史料は他にも編さん室から移管されている。
リストは『新規寄贈品目録第2集』に載せた。
 今回の2点は、その中でも特に重要なもので、初公開である。

古田氏とは、松坂城3代城主重勝、4代城主重治の一族だ。
 重治の時、1619年に松坂から石見国に転府、同地に城を築き、作った町が、現在の浜田市である。

そもそも、大平が古田氏を調べるようになったわけは、
大平の師である宣長が、自分の祖先を明らかにすることが基本であると言う教え(『玉鉾百首』)による。
ルーツを調べていったところ、1657年(明暦3)に没した寿春居士で止まってしまった。
その子の順適(のぶゆき)が須賀氏に養子として入った。
順適は、先妻との間に生まれた松に須賀家を譲った。その子孫が、須賀直見。
 
>> 須賀直見

また、順適自身は後妻のつねとの間に生まれた導孝と隠居して稲懸(掛)を起こした。
(稲懸と言う姓は寿春居士の妻の家の名前だったそうです)
 流れは次のようになる。

順適(是法)-須賀松-はつ-直見
 順適(是法)-稲懸導孝-りお-大平

では寿春とは誰か。
須賀直見がつね(妙讃・明和2年没95歳)に聞いた話では、浜田の古田家重治の子どもであったが、
「石見くづれ」、つまり古田のお家騒動で国を逃れ、松坂の地に来て稲懸氏の女と結婚したという。
   ※「石見くづれににげておはしつるなり」大平「寿春居士の伝」

重勝の子が重恒、浜田2代城主。
重勝の子が重治、松坂4代、浜田初代城主である。
 つまり、浜田古田家城主重恒のいとこが寿春となる!

ここから大平の古田家調べが開始された。
『(本居大平翁纂輯)松阪城主古田家史料』は、大平の取材、調査ノートである。
展示したのは松阪挽木町にある大膳塚、中町の龍華寺の古田家墓の取材記録(スケッチ入り)。
大膳塚の記事の最後には、
「寛政元年酉六月十六日大平参詣拝見」と調査日が書かれている。
   ※寛政元年(1789)宣長60歳・大平34歳・春庭27歳

このあと松崎浦の海禅寺の文書記録が転写されたりもしている。
 当時の松坂の資料としても貴重だ。

古田騒動は、あまり良くない話なのだが、重勝の子重恒は引きこもり、しかも男色で寵愛していた家臣がいた。
子どもがいなかったうえに、重恒自身も余り丈夫でないし役立たず。
 家臣はその跡を誰にするかで思案して、お定まりのお家騒動が勃発したのだそうだ。

宣長が盛岡藩の医師安田道卓に依頼して、九戸城合戦 で討ち死にした遠祖本居武秀を調べたように、
 宣長門人となった浜田の人たちからの史料を頼りに調べていったのである。

《参考文献》
 「寿春居士の伝」(「藤垣内文集」)

  『(本居大平翁纂輯)松阪城主古田家史料』

◇ ポップカルチャー精神の源流は

#012

  連休初日の4月27日、夕方、国士舘大学に学ぶ。
インドネシアのイルマ・サウィンドラ・ヤンティさんが来館された。
いくつかの論文を頂いたが、
中でも目を引いたのが、
  「日本のポップカルチャー精神の源流を訪ねて」
  『A.P.O.C.S』№6(ポップカルチャー学会)
 である。

 宣長の「端原氏城下絵図」とその系図や、米粒大の文字で記された京都文献集『都考抜書』を見て、 マニアックだとかオタクを連想することはあっても、 ポップカルチャーまでは浮かばなかった。
 今や世界に誇る日本文化の一つポップカルチャーと、その源流に、宣長の「物のあはれを知る」説を位置づけるのである。

 「現代日本においてマンガやアニメなどのポップカルチャーの愛好者が「オタク」という少なくとも雄々しいとは言えない呼び名をもつことは決して偶 然ではないだろう。それは、どちらかいうと暗い印象を与える言葉であるが、しかしそこにあるのは、宣長にしたがえばむしろ「女々しく」あることによって自 由で窮屈のない表現の世界である。そしてそれゆえに、現代日本のポップカルチャーは、日本固有の文化的感性を越えて、いまや世界的に若者たちの共感を集め ているのではないだろうか」

 確かに「女々しい」のもつマイナスイメージが、宣長によって逆転したことは事実だ。
 オタクもまた高い志を持ち、全体を見渡すことが出来るようになると、 大変なパワーを発揮する。

イルマさんの論文には次のものがある
 ○「本居宣長の「物のあはれ」の形成-相良亨説・田原嗣郎説をめぐって-」
  『比較文学・文化論集』第29号 東京大学比較文学・文化研究会
 ○「本居宣長における「国学」思想の誕生-「物のあはれ」論を軸に-」
  『(国士舘大学)政経論集』第14号 国士舘大学政経学会
 ○「徳川藩幕体制と国学思想-本居宣長の儒教批判を中心として-」
   『(国士舘大学)政経論集』第16号 国士舘大学政経学会

アジア圏での宣長研究者は、韓国以外では、存じ上げない。
 ご活躍を祈念しています。


2013.4.30

◇ パールネットワークと幕の内弁当

#013


 何か説明が難しいなあ。6月19日正午から開幕した夏の企画展を解説しながらそう感じました。

一番最初のお客さんは、魚町長谷川家調査に各地から集まった専門家の方々。宿泊先の旅館の女将から、一度館長の話を聞いてきたらと勧められたそうです。
 引き続いて、理事長を始めとして評議員、理事の人たち。私の話を耳にタコができるくらい聞いて頂いているメンバーですが、どうもいつものように舌が回らない。
 開幕二日目の今日は、福岡からの見学者をお迎えしました。

 興味関心の違う三つのグループに話してみて、説明が難しいと感じた理由がわかりました。二つあります。
 一つは、用語、ケースタイトルの問題。
 展示テーマとなっているのが「パール・ネットワーク」という耳慣れない言葉であり、また展示室に入ってすぐの9ケースには「宣長の幕の内弁当」と書いてあるので、見学者は、何これ?と立ち止まり首をひねります。
 二つ目は、一つ一つの展示品が面白すぎること。
 一つの史料で一席のお話ができるくらい、美味しい史料のてんこ盛りで、また興味深い箇所が開かれています。
 但し、これはただ見学していてもおそらくわからない。キャプションは工夫してあっても、字数の制限もあり、しかも展示担当研究員はとても奥ゆかしい方なので、ごく控えめにしか語ってくれていない。
 そこで私の出番。話をし始めるのですが、見学者の関心は、やはり全体より細部に集中してしまいます。

 最初から変ですね。
 霊気の集う鈴屋。杉坂董氏の絵です。
 次が平田篤胤が描いたオノゴロ嶋(淤能碁呂嶋之歌)。何これ?
 堂々とした宣長蔵の横には、いじけたような秋成像。
 これらをまとめるのが、「パールネットワーク」と言う言葉です。

 パールネットワークについては、またお話ししますが、人が出会いによって一層輝くことです。道麿と宣長の関係などまさにそんな出会いですね。
 田中道麿の画像も久しぶりの公開です。
 岐阜県の養老町出身ですが、年下の宣長に弟子入りして松坂に来訪、生まれ変わるくらいの衝撃を受けたそうです。

 高本順の短冊が出ています。
 順さんは、熊本藩校時習館第三代教授。今なら熊本大学の学長といったポストですね。
 朱子学を信奉するバリバリの儒学者だけど、宣長の学問にも関心が深く、寛政9年には門人の長瀬真幸らを従えて鈴屋を訪れましたよ。
 それも宣長先生の『菅笠日記』の行程をたどって松坂入りするという念の入れようです。
 ちょっと短冊を読んでみましょうか、

   詞書は「菅笠日記のみちをとめて鈴屋大人をとぶらひて」
   歌は、「みよしのの花をわけてぞとひ来つる君がしをりの道のまにまに」

      吉野の桜といえば西行の時代から、「奥ある桜」が大きな特色ですが、それを上手く使った歌ですね。
 和歌のたしなみがあった、それは常識だったとはいえ、上手く詠んでいますね。旅行もこれだけ趣向を凝らすのですね。
 ちなみににこの時のお土産は、『音信到来帳』を見てください、国府の煙草と筆でした。
 『音信到来帳』には、出雲大社の千家清主の名前も見えますね。おみやげは「出雲海苔」か。
 順さん一行を迎えた宣長も大喜びで、さっそく愛宕町の天神さん(菅相寺)を会場に歓迎の歌会を開きました。
 真幸は得意ののどを披露して、催馬楽「席田」というお祝いの古曲を謡ったら、宣長からアンコール。
 長瀬はそれを生涯の自慢として、宣長没後に熊本で開かれる追慕会では必ず披露したそうです。

 隣が15歳のお嬢さん、帆足京の短冊です。
 31年と言う短い人生の中で、松坂で父母と過ごした時間は、たった一つの輝きだったかもしれません。
 案外、『古事記伝』書写の時の見事さで大先生・宣長をびっくりさせたことが、一番楽しい思い出だったのかもしれません。
「やったぁ」という感じですね。今風の解釈ですが、でもそう信じたいですね。
 これも、パールネットワークです。

 さて、あら竹さんの駅弁くらいおいしい「鈴屋特製・幕の内弁当」。
  これについては、次のお話しとさせていただきます。
2013.6.21


◇ 幕の内弁当

#014


 今回の展示の特色の一つが、「宣長の幕の内弁当」というケースです。
 芝居の幕間に頂くのが「幕の内弁当」ですが、
記念館特製のは、今回のパールネットワーク展見学の間に、ちょっと見るだけで、
 宣長の核心が分かるような品揃えです。
 






まず、小さな「そろばん」と、15歳の力作「神器伝授図」、
少年宣長の関心の有る無しが一目でおわかりいただけるでしょう。
 好きな物は、鈴に桜に、和歌、源氏物語と数々ある宣長ですが、
 まず桜。
「桜石」は、断面が桜の形の石です。コレクター趣味はない人だけど、
これは紙に包んで大事にしていました。
 栞。宣長の吉野の桜の歌を、清水浜臣が書いています。珍品です。

    分け見ばやしをりも花の吉野山なほ奥深くにほふこずゑを 宣長

 栞にもあるように、桜といえば和歌です。
 歌については、『和歌の浦』です。これは、10代から20代前半の和歌学習ノートです。
 ページを埋め尽くす細かい字は、『曽丹集』や『住吉物語』の引用文です。
 『源氏物語湖月鈔』は宣長の愛読書です。今回は、「絵合巻」を出しています。
 なぜかな? 回答は次のケースにあります。

 さて、では宣長の根本思想は、というと、
 日本には、日本独自の価値観や世界観があるということでしょう。
 『古事記』を研究した目的もそこにありました。
 『神器伝授図』はその着想の最初のものです。ものすごい早熟ですね。
 いやいや、自分の目を持っていたら誰でも気がつくことですが、みんなその目を失っているだけです。
 また『直霊(なおびのみたま)』は、その結論です。
 42歳の時の、とても美しい筆跡もあわせてごらん下さい。
 このケースの展示品の最後は、芝山持豊卿からいただいた扇です。
 美しい花の絵です。一見、オミナエシのようでもありますが、花の色が違います。

 前回の「宣長探し」では、今回の展示は、一つ一つの展示品が、しっかりとした物語を持っていて、全体の説明が難しいと書きましたが、帆足京、田中道麿、クラゲなどの物語の幕間に、頭の中を整理して、また楽しんください。
  一杯詰め込んであって、とても見応えのあるケースです。
 2013.6.25



◇  新上屋跡の碑

#015


 賀茂真淵と宣長が対面した記念の場所「新上屋」の跡に少し動きがある。
 これまで記念館に移設されていた初代、二代の両碑が日野町のもとの場所に戻るのだ。
 この場所は、1953年(昭和28年)に史跡に指定されたが、初代となる碑はすでに1940年に建っている。
   場所を確定したのは郷土史家の櫻井祐吉氏の業績だ。その経緯を、同氏の著作から引いておこう。

「昭和二年十月某日著者の一友人安田信三氏によりて、一の端著(緒?)を得、越へて同年十一月十二日夜又他の知己故古川伊兵衛氏の発見によりて 「新上屋」は日野町の名族にて享保十六年二月十九日を以て行はれた、日野町今の県社八雲神社の遷宮祭の際父子両人にて宝物を棒持せる芝山惣太郎、同宗太郎 なることの文献を同神社の縁起由来中より見出し茲に此の☆(門に単)明に従事して寔に二十年
                       松阪日野町
新上屋は 芝山惣太郎 子息芝山宗太郎
なることは判然せしが、その所在の地点が何れなるかは此の八雲神社の縁起にては知るの由なく這は安田信三氏の報知により、暫らく、然り仮定的に日 野町通り筋現丸木政次郎氏氏邸と魚住誠一郎氏邸の中間と断じ、当時著者は愉悦極まりなき侭にそのこゝに至れる次第を説きて世に公にせしより、意外に世上の 反響を蒙り或は著者の微意を諒とし又或は其挙を壮として劇(激?)励せらるゝ等望外の名聞を博せしが、思ひきや、該地点には猶誤謬ありて、曩に断定せる丸 木、魚住氏邸宅の中間は早計に失せる断定なりしことを神ならぬ身の知るに由なかりしを併しこれは又幸ひにも自己一身の力にて発見しその上動揺せざる確実なる文献を見出し、遂に此の著者なる史蹟を審かに為すを得たが、それは右発表後昭和五年三月中由緒りなく松阪西町山村家の森壺仙翁自筆の未刊行稿本随筆「宝暦ばなし」の記事及び挿図によりて明らかにその地点が同じく日野町通筋西側新町通り起点を隔てる西方現在の紙店藪庄氏の扣家なること判然し学界百六十余年の疑問が氷解され猶続ひて昭和七年四月是又所縁りなくも芝山氏の系譜正しき後続者が現在三重県飯南郡大石村大字小片野に柴山(芝)延蔵氏なる事も判明し曽而著者が生涯を堵せし埋没史蹟の闡を公にするを得たり、当時此の再度の発見ありし節著者の知己桑名の竹内文平氏の注意によりその顛末を日刊伊勢新聞に報じて掲載されこれを公にせるも中には今も猶前発表の丸木、魚住両氏邸中間なりとされる向もあるやなれば、此の機会再び記述を新たになし置くべし
【而して此の真淵宣長の対面を斡旋した書店柏屋兵助の居宅は現在本文やぶ庄紙店より一軒を東に隔てる岩井運送店のある地点なることも事の序に知り置かれたし】」
    『郷土の本居宣長翁』(鈴屋遺蹟保存会幹事)櫻井祐吉・
         昭和16年5月1日・松阪市公園 郷土会館出版部

 おおよその内容は、まず新上屋の主人が芝山氏であることが分かった。安田氏の話でほぼ場所も特定できたので、その説を発表した。ところが『宝暦はなし』と言う本で、その説の間違いに気づいたので訂正することが出来た。
  この後、櫻井氏の話は、会見に同席した尾張屋太右衛門の家も『宝暦ばなし』で確認されることに移っていく。

 櫻井氏は、その後にも再びこのことを書いているので併せて引いておく。

「昭和二年十一月十二日友人一二の協力を得て、該新上屋なる旅籠屋が松阪日野町に存在し其の氏名が芝山惣太郎と称したことの文献を発見したが地点 の確たることには猶一抹の不安ありて引き続き研究する裡その後昭和五年三月由緒なくも松阪西町の人森壺仙(山村次郎兵衛二男幸次郎)が文化八年二月著述の 自筆の未刊草稿本「宝暦ばなし」を山村家整理の際筐底より筆者が発見し此暑中の記事と挿図に依りて新上屋の地点が明らかに示され夫れは伊勢街道日野町十字 路より西側今の紙商やぶ庄竹内家の西隣り即ち第三相互銀行控地なること歴然として知られ、こゝを東に二軒隔てゝ今の岩井煙草店が当時はこの真淵宣長の初対 面を斡旋した書肆柏屋兵助であることに徴し愈よ動かすことのなき史蹟であり而も現在松阪市中央最殷 盛地であることの偶然を想起すれば思い央ばに過ぐるものある所知るべきである。今第三相互銀行コンクリ塀に史蹟の指定を標示し昭和二十八年十二月八日市の指定に依る史蹟である」
         『鈴屋遺蹟と魚町一丁目』櫻井祐吉・
           緒言「昭和戊戌(33年)夏の日」・鈴屋遺蹟保存会

発見の経過や新上屋の末裔についてなど、詳しかったり逆に省かれたりと、全く同一内容ではないが、もちろん両書に矛盾はない。
 これによって「新上屋跡」発見の経過が明らかであろう。

 不思議なのは、既に佐佐木信綱の「松坂(阪)の一夜」は、リライトされて教科書に載っている。だから場所も問題になったのであるが、柏屋の老主 人は、当然、新上屋のおおよその場所、つまり二軒おいて隣だと言うことは知っていたはずだ。信綱少年もそれは聞いていたであろう。だって、道の向こう側に あったというのと、すぐそことでは、老主人の話も力の入りようが違うはずである。
 したがって、信綱はおおよそ知っていた可能性はあるのだが、櫻井氏が信綱に尋ねたときに、宣長の『日記』に「新上屋」と出ているからあったことは間違いないという程度の回答しか無かったという。

 もう一つ不思議なのは、1940(昭和15)年に、本居塾の人たちによって、碑が建っているはずなのに、全く触れていない。
  そのくせ「史跡指定を表示し」た案内板のことだけが記されている。

 追記しておく。
  『郷土の本居宣長翁』で、

「当時著者は愉悦極まりなき侭にそのこゝに至れる次第を説きて世に公にせしより」

とあるが、
これは櫻井祐吉が昭和3年4月10日、『【真淵宣長】初対面の遺蹟新上屋』を鈴屋遺蹟保存会から出版したことを指す。

 八雲神社遷宮記録は今も同社に伝わる。拝見し、記載内容を確認した。平成6年頃である。マイクロフィルムにも収めてある。
 小片野町の柴山家には、20年ほども前であろうか、小泉祐次館長(当時・三代目)とお邪魔をしたが、対応して頂いたおばあさんは、先祖が日野町にいたことも、ましてや旅籠を営んでいたことも、全く記憶しないとの話であった。
家紋の入った提灯箱などをもらって帰った。
 また、新上屋主人の位牌が愛宕町の井筒屋井上家にある。その理由は全く分からない。
 結局、芝山家については現在のところ不明と言わざるを得ない。

 なお、この度移設される初代、二代目の碑についてだが、
初代は私が記念館に入った頃(1980年)は二階のフロアーに立てかけてあり、碑は二代目の時代であった。
 初代の碑の記念館に入ったいきさつは山田勘蔵氏の「松阪新上屋の話」に詳しい。
 二代目も、それを建てたオークワの撤退時に廃棄され、三代目の碑が建った。初代と同じ小さな碑である。
 これでは、新上屋跡だとわからないねと皆はささやきあった。
 隣に山桜などを植えたり、また好意で案内板を建てていただいたことが逆に碑の存在を隠してしまった。

 その頃であったか、小泉館長が中国を訪問された。土産話の中で、「碑林」が話題に及んだとき、ふと放置されている碑や、ガードレールに押し込まれた無惨な菅笠日記碑のことが思い浮かんだ。
 宣長の関係碑を旧宅脇、石垣との間に集めて「碑林」を作ってはどうか。
 だが、肝心の二代目の新上屋跡碑がどこに持って行かれたのか分からずに、そのままとなってしまった。
 館長は四代目の高岡氏の頃であろうか、旧松阪市史編さん室が取り壊される時に、そこに新上屋跡碑が放置されていることを知り、碑林の思いつきを提案したらすぐに了解された。
  ただ場所は、そんな人の見えない所ではいけないと、記念館玄関脇への移設となった。

 松阪の一夜250年の今年、ある人が、この碑は日野町にあるべきじゃないですかと言い出されたので、記念館としては結構ですが、相手のあることですからと返答したら、 早速に日野町の土地を管理する市商店街連合に話を持ち込まれ、宮村元之会長の賛同を得て、元の場所への移設が決まった。
 こちらもトントン拍子であった。
 
 碑は、松阪の一夜250年の年に、もとの場所に戻る。安住の地となることを祈るばかりだ。
 
 石碑や道標は、ある日忽然と消えたり、また簡単に移動したりもする。
 興味が失われ、またいらぬとなれば捨てられてしまう。
 碑は、何かの団体なり篤志家が建てる。
 一度建つと、何十年、何百年でも残る。
  そのうち、いったい所有者、管理者は誰か、土地の問題を含めて難しい問題が出てくる。

 だが石は燃やすわけにはいかない。
 粉砕するのも手間だ。
  また立派であると、捨て場所に困り、結局は埋められたり転用されたりもする。

 松阪市黒田町の和歌山街道と熊野街道への分岐点の大きな道標も、要らないと廃棄され、役場の踏み石にされていた。
 それを松阪歴史民俗資料館の当時の田畑館長が探してきて、資料館の前に建てていた。
 棄てた人たちはいなくなり、棄てたことすらも忘れて、
  何でこんな所にあると、地元からの要望でまたもとの場所に戻った。

 だいたい、碑を廃棄することなどは記録には残さない。
 誰かの、かすかな記憶だけがたよりである。
 
 この新上屋碑が記念館の脇にあったことなどは、やがて人の記憶からも消えていくだろう。
   これは仕方がないことではある。

          初代新上屋跡碑
          二代新上屋跡碑










                                                                 2013.7.1

◇  神器伝授図の原本 連続尊重意識の芽生え

#016


   第62回神宮式年遷宮も、中心行事である遷座が終わり、参宮客は日を追うごとに増えている。毎日が正月三が日のようだとは、伊勢人の話。
 さて、式年遷宮は、690年の内宮の遷宮に始まるので1300年、途中、長い遅延があったにせよ、続いてきた。これは「神宮」のもつ価値の連続があったからで、「連続性」という日本文化の特質のよき例である。
  連続の反対が断絶である。

  
宣長の、価値判断の基準は、連続しているか否かであったことは言うまでもないことだが、では、「連続と断絶」という見方で文化や歴史を考え始めたのはいつか。
その一番最初が、15歳の時の『神器伝授図』である。
  中国の皇帝の系図を書き、王朝交代では赤のラインを引く。10メートルを繰りながら4000年に及ぶ長い歴史を次々に見ていくと、赤いラインの多さに気づく。

  
実は、これが中国文化の構造である。
 革命や侵略による文化の断絶を繰り返してきたのが一目瞭然である。
 同じ時期に『職原抄支流』を写し、こちらからは日本文化の『連続」する構造があらまし見えてきた。
  まだどちらが尊いと言うのではない。日本と中国の歴史の違いに気づいただけだと思う。

 さて、その『神器伝授図』だが、このホームページの中で、次のように書いている。

  「少年の頃から、地図や系図が好きだった。 15歳の時に『神器伝授図』と『職原抄支流』を書写する。いずれも長さが10mもある紙に細字でびっしり書かれている。『神器伝授図』は三皇五帝から清に 至る中国の王朝、皇帝の推移を細密に図示したもの。写しであるが原本については不明」
 
>>「地図と系図」

   こんど、その「原本」が見つかった。

   と言ってもまだ実物を見ていないが、部分の写真で見る限り、まず間違いがない。どこで原本を発見したのか。
発見と言うほどたいしたことではない。届いた古本屋の目録を漫然と見ていたら、出ていたのである。
さらに、インターネットで古典籍総合目録を検索すると、
  
寛永18年刊行4冊、著者は有隣。
 端本が国会図書館にあり、揃いは神宮文庫など数館が所蔵することもわかった。 探せばいくらもある版本であろう。こんなことも知らずに、不明だ不明だと騒ぐ頭の方が余程不明だ。

 ただ、すぐに発注したが、既に品切れ。目をつけている人はいるのだ。
 記念館で買おうとする程度の値段であったことも、流布の程度を知る目安となるだろう。
  写真の中に「宗族図」もある。本文の末に付いているようだが、これは、宣長が『神器伝授図』の前に書写が終わった『宗族図』と一致する。

  
宣長研究には、こんなごく初歩的な見落としがまだまだあるに違いない。
  記念館の展示解説や、今度新版が出た『本居宣長の不思議』でも「原本不明」と書いていたので、

     
なんだこんなことも知らないのかなあ
 
と思われた人もおみえになったことだろう。

 どうか、気がつかれたら、ぜひ直接に、またメールでも電話でも、教えてください。
  みんな知っていると思うところに、落とし穴があるものです。

         神器伝授図
         神器伝授図

◇  本居記念館は現在地で

#017


12月22日、記念館の在り方を考える意見交換会が開かれました。
 この日は、次の3つのテーマで意見交換を行いました。

 1,旧宅や本居宣長記念館の位置や施設について
 2,本居宣長記念館の展示、活動について
 3,これからの本居宣長の顕彰は、何を目指すべきか。また、何が必要か。

 つまり、ハードと、ソフトと、ヴィジョンです。

 まず 第1部では、理事長と私による主催者側からの説明。
 休憩をはさんで、第2部は 意見交換会です。
 実は、記念館開館以来43年、鈴屋遺蹟保存会が出来てから104年間、このような皆さんの意見を聞く会は一度も開催されなかったのです。
初の試みです。
 やり方も、私にとっては全くの未知の方法です。
 単にマイクを回すのではなく、ポストイットを4色用意して、3つのテーマと、それ以外や複合するテーマを書いてもらい、休憩の時に貼っていただく。

 第2部では、理事長と私がそれらをテーマ別に分けて、紹介しながら、回答したり、さらに質問や意見を会場から頂きながら展開しました。
 この方法は、評議員からの提案で、三重県立総合博物館のスタッフにアドバイスいただきました。
  結果は、小さな声、また輝くような提案を頂き、主催者側としては大成功だったと思います。

さて、話し合いの大前提として私は

   《動かない》 と言う選択は 《動かさない》

 という提案を行いました。

  実は、記念館では20年来、移転や増築、新築という話が出ては消え、また出てを繰り返してきたのです。
  それに追い打ちを掛けるように、松坂城跡国史跡指定があって、記念館の場外移転が話題として急浮上してきたのです。
  すべての問題は、この移転、新築問題を抜きにしては考えられないのです。

  さて、記念館は公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が管理運営していますが、その理事会、評議員会でもこの問題は話し合われてきました。
  短期的なスパン(5年から10年位)での移転新築はない。これは了解が得られました。
  では長期的なスパンではどうか。
  これは全員一致とはいかないので、最終結論は、市民や利用者の思いを聞くことで決めようということになりました。

  当日は、私個人の見解というより思いを出すのは躊躇したのですが、20年に及ぶ議論や提案の経過を見てきた者として、具体的な問題を明らかにした方が前に進めるというアドバイスを頂き、発言することにしました。

  結論を誘導するような説明だったかもしれませんが、会場の意見は、根幹のところ私の思いと共通するものでした。

  ○ 本居宣長旧宅を、土地が広いからといって、関係のない場所に移転しないで
    ほしい。
  ○ もとの場所という意見もあるが、国特別史跡を町の中に移したらその保存や
    利用によって共同体は壊される。
  ○ 旧宅を管理する記念館だけを城外移転するなどもってのほか。現に管理施設
    から話された魚町の春庭宅は、魚町の子どもたちが守ってくれているが、
    一般にはなかなか公開も出来ず、まるで朽ちるのを待つかのようだ。
  ○ 今の旧宅の場所は防災上も最適地。
  ○ 現在地で、百年以上皆に親しまれてきたのだから、動かす必要はない。
  ○ 記念館や旧宅の場所は文化の、また松阪観光の拠点として格好の場所である。


  これらの討議のあとに理事長から、
 「移転はせずに、現在地で、事業を継続、展開していってよろしいか」
  と確認の問いかけがあり、満場一致で決したのです。


  
その5日後、12月27日の中日新聞には、
  
「芭蕉記念館外転へ、スペースは4倍に」
 
という記事が出ました。

  
伊賀市にある芭蕉記念館は1959年の建築で、延べ床面積は320㎡です。
  
本居記念館は、1970年建築で、延べ床面積は約1,000㎡です。
  
上野城跡内にあるために改築などの制約があった点は、本居記念館と同じです。 
 管理、運営も公益財団法人が行うという点で共通していますが、根本的なところでの違いがあります。

  
それは芭蕉記念館が、収蔵史料は財団のもので建物が市の所有であり、
  本居記念館は、収蔵資料が市の所蔵で、建物が財団なのです。
  報道によれば、伊賀市立図書館を改修し記念館とすること。
  館運営は市の直営とすることが報じられました。


  
図らずも、同じ時期に、同じ三重県内で全く逆の判断が下されたのです。

  
「本居記念館は現在地で」 
  これはその会議を報じた夕刊三重新聞の見出しです。


  
22日の聴衆の中には、小学生や中学生の姿も見えました。
 「移転はしない」というその日に決まった方針が、
  彼ら、また彼女たちへの最良のプレゼントとなるようにがんばりたいと思います。


  
今の場所で、何が出来るか、何を為すべきか。
  これから、私たちのチャレンジが始まります。


  
ご支援をお願いいたします。



P.S.
◇ 英語文化圏の人にも宣長の魅力とおもしろさを

  
この日には、移転新築問題以外にもたくさんの提案やご質問をいただきました。
 それらについても、この欄で紹介したり、実行したりしていきます。
  まず一つ紹介しておきましょう。


  
参加してくれた津の中学生は、その日家に帰ってから、
 記念館の入り口に掲示する英語による案内文を作成してくれました。
 今の記念館では、外国の方への対応が充分出来ないということを私が発言したことを受けて、一宣長ファンとして、外国の方にこの宣長の魅力が伝わらないのは残念だと、
 英語で書いてくれたのです。

  
年明けには、記念館入り口に掲出しますので、ぜひご覧になって下さい。


◇ 秘蔵写真で見る、旧宅と記念館の歩み

 当日、私が準備した「本居宣長旧宅と本居宣長記念館の歩み」は、
新春、このホームページにアップします。珍しい写真も入っていますよ。
  楽しみにしていて下さい。

2013.12.27


◇  父と子の悩ましい関係

#018


 現在開催中の 『やちまた 父と子の旅』展 は、宣長が代筆した春庭の歌と、宣長の父定利の遺言状で始まる。
  自分の学問を継いでくれることを期待をして手塩にかけた息子。その失明という、非情。数ある宣長懐紙の中でももっとも悲しい一幅である。
  また11歳の息子を残して江戸で死ぬ父定利、「富之助(宣長)成人致し候迄」の文字が辛い。神に祈って授かった子は商いの筋には疎くて、書を読むことを好んだ。この子の行く末のことを考えると死んでも死にきれなかったのではないか。

  
ではなぜこのような悲痛な史料が、初春の展示の一番最初にあるのか。
  それは、新しい学問が生まれる要件、あるいはその誕生の瞬間を見ていただきたいからである。

  これは世の男親には情けないことではあるが、父から自由になったことで宣長の医者、学者へ道が開けたのだし、また失明によって宣長という重圧から解放されたところに春庭の学問があるのだ。
  学問は継承が大切だが、それが時には重荷になることもある。足かせになることもある。
  江戸の真淵先生と松坂の宣長の間には430㎞という距離があった。
  また伊勢の神宮や、たとえば隣町の津は藤堂藩、京都などの権威というものからの適度な距離があった。
  あまり偉い父親というのも、子にとってはじゃまになることもあるだろう。
  天才的な先生には優秀な弟子は出ないと言うではないか。

  ただ忘れてならないのは、たとえば春庭の学問の基礎、特に言葉の研究のベースは、おそらく父の講釈を子守歌代わりに聞き、手伝って『御国詞活用抄』を書いたことで培われたのだから、種はきちんと蒔いておかねば芽は出ないし、土壌が良くないとすくすく育たない。
  だから神宮や津、京都から近すぎてもだめで、離れすぎていたらこれも大変な問題である。

  私は、宣長における親子の問題、あるいは「子ども」というのは、プライベートなこととしてではなく、学問上からもとても大切なテーマではないかと考えている。
  さて、展示の中に、足立巻一さんの『やちまた』があるが、この本を、「悪魔的名著」とした屈折した紹介が正月早々、新聞に出た。
  これについては、次回触れてみたい。


2014.1.15

◇  展示解説について

#019


今回、記念館の展示の仕方を少し変えました。
 いつもきていただく人や、またガイドボランティアさんなどはすぐに気がつかれるようで、 今のところ、おおむね好評です。

何が変わったのか。
「小見出し」です。
展示ケースは 全部で16あります。
これまでは各ケースにそれぞれタイトルが付いていましたが、
今回は、ケースにこだわらず、作品や史料のひとまとまり(だいたい3点から5点)ごとで「小見出し」を付けました。
 たとえば「ていねいな字」とか、「さくら・さくら」、「講釈上手」などです。

変えた理由はいくつかあります。
まず、展示が難しいという声。
 一番頭の痛いところです。

では、わかりやすく解説を書くとどうなるか。
まず、長くなる。
 また、初心者向けになってしまうので、分かっている人は不満が残る。

さらには、解説だけ読んで、かんじんの作品や史料を見ない人も出てくる。
最初の一ケース、二ケースくらいまでは作品も見て、解説も読んで下さいますが、
だんだん解説だけ見て満足してしまう傾向があります。
 (どれ見てもよく似た字ばかりの本ですから)

理由の二つめは、死んでしまう作品や史料を少なくするためです。
作品や史料が「死ぬ」とはどういう事か。
せっかく展示しても、ケースの隅っこまでは見学者の緊張が続かない、疲れてしまうのです。
あるいは一点ごとの説明をしていると時間が長くなるので省略されてしまうことが多い作品や史料です。
私も、短時間や長時間、説明時間はいろいろですが、ほぼ毎日、展示解説をしています。
ていねいに説明しても、やはり、省いてしまうものがあります。
ところが小見出しを付けて、
「ていねいな字」
と言うグループにすると、見るポイントが定まります。
すると、『古事記伝』や懐紙の一々の作品説明は省いても、
「ああ、ていねいな字」だなと、おおざっぱではありますが、
短時間で、展示の意図が分かっていただける。

たとえばここに展示した『古事記伝』は、内容も大事だが、まず「ていねいな文字」を見せたいのだな。
 すると、無駄な展示品となることから、少しでも救済できるのではないかと考えました。

さて、今回の展示ではこういう小見出しが20余りあります。
小見出しの横には、更に簡単な解説が付いています。
 写真は、 「シンプルな思考」 という小見出しに付けた解説です。











こうやって見出しをたどって展示室を一覧していただくと、
 皆さんの中で一つの宣長像が描いていただけるはずです。

一度ご覧いただき、また感想をお聞かせ下さい。

さて、次の写真は、記念館の昔の解説です。
 『古事記雑考』と、「シンプルな思考」でも取り上げた、「本末歌」の解説2種です。
         『古事記雑考』
      本居宣長本末之歌 春庭書
 当時の解説は、今もきちんと五十音順に整理されて、館長室に置いてあります。
かなりの量なので土蔵に移そうかとも思うのですが、見てください、内容も濃いし、字も見事ですね。
(当時の職員の字です)

たまに出してはながめています。
いろいろ考えさせられます。
展示の仕方というのは、本当に難しい
ものです。
2014.3.22



◇  版本修復と板木刷り立て実演講習会のお礼

#020


 夏の特別展 ホンと!宣長 関連イベント
「版本修復講座」と「板木刷り立て実演会」を開催しましたところ、たくさんのご参加を頂きありがとうございました。

   城﨑洋子先生の版本修復講座では、
小学生から、大学院生、大学の先生、手を使うのが好きという若い女性まで、
熱心に記念館収蔵版本の修復をしていただき、16日午後と、17日午前で、なんと200冊以上の版本が、綴じを直してちょっと手を入れただけで見違えるまでになりました。特に2日目はものすごいスピードで作業が進みました。

   今回の修復対象は、個人や公共団体から頂いた、あるいは保存状態が劣悪なので、
移管していただいた本です。
本居家伝来本のように美しい本ではありません。
最低でも200年という時間を、なんとか生き長らえて、
やっと記念館に安住の地を見出した本たちです。
それが、さらに100年は活躍できる本の山によみがえったのです。

参加者の皆さま、ありがとうございました。
また皆さんの周りにある謡本など和綴本も、これで怖くないですね。
綴じが切れたり表紙が破れていたら、今回の要領で直してください。
 また、難しそうなものは記念館にご相談下さい。











 17日午後の板木の刷り立ては、さらに多くの方に参加いただきました。
京都の芸艸堂の早光照子様と摺師の市村一房堂・古川元偉(もとひで)様のご講演と実演。

ご講演は目から鱗が落ちるような内容で、
実演では、「こんなに墨が少なくていいんだ。」「早い。」など感嘆の声が上がりました。
次々と出てくる質問に明解に答えていただき、本当に、唖然とするような内容でした。

特に、記念館の板木を前にしてのお話は・・・
 これは、参加者していただいた方だけの特権ですね。








 次のイベントは、9月7日、講演会です。
 講師は、新進気鋭の研究者、信州大学速水香織先生
 「江戸時代の出版文化-知の広がりと宣長-」です。
 予約は必要ありませんが、
 会場が狭いので、事前に声をかけていただくと席を確保しておきます。
 終了後に、特別見学会も計画しております。

                                                   2014.8.19 

◇  書斎の宣長を撮した写真発見?!

#021


今から本を開けようとするその瞬間の宣長さんです。













もちろん、これはジオラマです。
 かなりよくできています。

今、博物館の世界ではジオラマにはちょっと距離を置く傾向にありますが、
 宣長くらい資料があると、
 作ってみるのも面白いかもしれません。

本居宣長記念館は、建築から満43年目を迎えた昨秋、耐震診断を遅ればせながら実施しました。
 強度はかなりありますが、松阪市の公共施設の基準には達していません。
 近く、補強計画を立てて、工事を行う方向で検討していますが、
 修理や補強だけではだめだというみんなさんからのご意見を尊重し、
 リニューアルも検討しています。

収蔵庫と展示室は対象外となりますが、
 1階や2階の講座室で、
 例えばもっと宣長世界を体感できるような、
 仕掛けは出来ないだろうかなど考えています。
 柱掛鈴を鳴らしてみる。
 薄暗い部屋の中で、宣長の源氏物語講釈の声を聴いてみる。
 などなど。
 今の記念館は、21世紀から、階段を上がると、突然『古事記伝』自筆稿本の18世紀へとワープするので、
 頭の切り替えをしていただく導入部分です。
 階段そのものが、時間を遡るように出来ると面白いのですが。

例えば、このような「鈴屋」の中を見てもらう工夫も候補の一つです。
 要望が多いのです。鈴屋の中を見たいという。

ぜひ皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

写真は『神都歴史館絵葉書』宇治山田市発行。
提供は、近代文学・美術研究家の山田俊幸氏(帝塚山学院大学教授)です。

                                                                             2015.1.18

◇  政所茶のこと

#022


「これは、本居宣長の『玉勝間』に出てくるお茶です」
といって近江商人博物館学芸員の上平千恵さんから差し出されたのは、
近江の奥永源寺(東近江市)で栽培されている
「政所(まんどころ)茶」の煎茶でした。
 「伊勢松阪商人と近江商人」(2015年2月19日、20日、東京日本橋三重テラスで開催)の会場でのことです。


 『玉勝間』に「政所茶」って出てきたかなと 思いながら頂くと、
 いや、これは美味しい。


 
近江の山奥の話と言えば、
惟喬(高)親王の「君ヶ畑」記事は覚えているけど、
お茶のことまでは記憶していないけど、
それでも「政所」などと由緒ありげな名前だから、
ひょっとしたらと思いながら、
 「出てきましたっけ」と聞くのも恥ずかしく、話は別のことに移っていきました。


 
帰ってから確認すると、書いてありました。
 やはり、「近江国の君ヶ畑といふところ」という項(巻6)です。

「あふみの犬上ノ郡の山中に、君が畑村といふ有て、大公大明神といふ社あり。惟高親王をまつるといへり。村の民ども、かはるがはる一年づゝ神主となる。まづ一とせの間ゆまはりて・・・」

「ゆまはる」とは「斎まはる」、身を清らかに保つことです。
 その文章の最後に、

「此村は、伊勢ノ国員弁ノ郡より越る堺に近き所にて、山深き里なりとぞ。此村人ども、夏は茶を多くつくりて、出羽の秋田へくだし、冬は炭を焼て、国内にうるとぞ。その茶をもむ時の歌、
 ここでもむ茶が、秋田へくだる。秋田女郎衆に、ふらりよかよ」

その頃、秋田にまで運ばれ飲まれていたお茶が、
 今、まぼろしの在来種茶「政所茶」として、販売されているのです。


宣長はいったい誰にこの話を聞いたのでしょうか。
調べてみると分かりそうな気もしますが、それは今後の課題とします。

 
宣長が吉野飛鳥の旅にもお茶を持参していたことは、『菅笠日記』に出てきます。
また、和歌山での藩士への挨拶にもお土産はお茶でした。
持って行ったお茶は「川上茶」、
 これは当時の松坂では、櫛田川上流のお茶、川俣茶をさしていました。


 
ここで思い出すのが、『松坂権輿雑集』(1752年序)の記事です。

「新町、天正十六子年松ヶ島より移。丁役全歩、川俣谷にて製し来煎茶、
 関東に運送の問屋多。宝永七年寅年町中の茶荷八千七百五十駄余と記」

宝永7年と言えば1710年。
 その5年前の宝永5年に、この新町村田家で生まれたのが、勝。つまり宣長のお母さんです。


 
松坂の名産と言えば、今は「特産松阪肉」ですが、江戸時代は松坂木綿とお茶でした、
と私はいつも話すのですが、
大喜多甫文さんが作成された、「主な江戸店持ち松阪商人」という一覧表
(『松坂商人のすべて(一)-江戸進出期の様相』十楽選よむゼミ№11)を見ると、
 39軒の内、営業内容でお茶とあるのは僅かに1軒、新町の村田家だけです。

 
先の「関東に運送の問屋多」と言う記述や、
 江戸時代初期の櫛田川水系から東北へのお茶輸送に関する史料があることとを併せ考えると、少し疑問が残ります。


 さて、一覧表の「村田家」は、おそらく勝の実家でしょう。
ただ、勝の実家は木綿商だったという証言もあり、
 これまた疑問が残ります。


 
幕末、川俣茶は、射和の竹川竹斎、中万の竹口信義、国分信親三兄弟によって、
輸出品として脚光を浴び、
その後を継承する大谷嘉兵衛は、積極的に輸出を展開し、
アメリカへのお茶の輸出に掛かる関税撤廃を実現したことなどで、茶王と呼ばれました。
茶人蒲生氏郷や、長谷川家とか竹川家との裏千家の関わりなど、
松坂(阪)もまた、お茶とは関わりの深い土地なのです。
 ちなみに、今の松阪のユルキャラは、ちゃちゃもです。

 
松阪市役所のHPには、

「ちゃちゃも」は、松阪市の合併5周年を記念して、平成22年2月20日に誕生しました。
デザインについては、世界ブランド「松阪牛」をモチーフに、
松阪市の豊かな自然と、その中で育まれる「おいしいお茶」から緑色をしています。
 また、「ちゃちゃも」という名前も、牛の鳴き声の「もー」と「お茶」から名付けられています。

と書かれています。

 
ぜひ近江の政所茶と松阪のお茶を飲み比べて、
 宣長の時代に思いを馳せてください。

                                                                     2015.2.23



◇  「本居宣長」を刊行しました

#023


  創元社「日本人のこころの言葉」シリーズとして「本居宣長」を刊行しました。
宣長(1730-1801)の言葉 47を選び、現代語訳と解説を付けます。
本書を読めば宣長の生活も、考えていたことも、また何をやってもうまくいった秘密も少し分かっていただけるはずです。
巻末には伝記と略年表が付きます。

        『本居宣長』 吉田悦之著













最大の特色は、読みやすいこと。
宣長の47の言葉に、1ページから3ページの解説をつけていますから、
どこから読んでもかまわないし、一項目は数分で読めます。
これは著者の手柄ではなく、宣長のお蔭です。
宣長の言っていることは、ごく普通のことで、体験、経験に裏付けられていて、表現もシンプルだからです。

たとえば、
医者宣長が教える病気にならない方は、食べ過ぎるな、体を動かせ、くよくよするな。
『古事記伝』の著者として教える勉強の方法は、目標を立てて継続すること。勉強法は問題ではない。
世の中を改革する提言を求められると、世の中の間違いに気付いても無理に改めようとするな。500年、1000年というスパンで考えよ。

これだけ聞いているだけだと、当たり前すぎて、有難味がないと思われるかもしれませんが、 その当たり前のことを、古典や歴史への深い理解で見つめ直し、実行したのが宣長なのです。
 一つひとつは当たり前でも全部揃うと、ものすごい力となるのです。

執筆のきっかけは、松阪市観光戦略会議(市主催)での、委員からの宣長本を作ろうという提案です。

本を読んだ人が、
 「松阪」ってすごいと感心して、今度の休みは松阪に行こうと思ってもらえる本が作れないかというのです。

ターゲットはビジネスマンです。
 コンセプトは、わかりやすく、短時間でも読めること。
 松阪は、三井を始めとする松坂商人を輩出し、松阪木綿、松阪肉というブランドを守る「商業」の町です。

また私がいつも口にするのが、
 「宣長は学問の流通革命をした人だ」

宣長の手法は、学問だけでなく、ビジネスの世界でもずいぶん役に立つという確信があったのです。
  
 まず生まれたのが、
 『宣長の目、松阪の魅力-本居宣長の25-』でした。
 これは、松阪経営文化セミナーなどでテキストとして使用されました。
 珍しい写真も多く、無料だったこともあり、数千部がまたたく間に消えてしまいました。
 でも、セミナー参加者以外にも読者層を広げられないか? とか、
 こんどは宣長の世界に特化して、詳しく、しかもわかりやすく、価格も安く、どこでも買える本は出来ないものかと思案して、 出版社からの持ち込み企画を検討した結果、
 創元社のプランとほぼ一致!
 実現に至ったのです。

47の言葉は、
     I  生きる信念
    II 「物のあわれを知る」
    III 「心」と「事」と「言葉」
   IV 「物学び」の力
 に分類されます。
 ぜひご一読ください。
 全国の書店で発売中です。

  定価(税込) 1,296円
  刊行年月日 2015/05/08
  ISBN 978-4-422-80068-4
  判型 新書判 182mm × 103mm
  造本 上製 208

                                                                  2015.5.9




◇  「上手すぎる」と「ていねい」- 宣長の真贋と資料の寄贈

#024

  

 昨日(6月2日)、平成27年度第1回公益財団法人鈴屋遺蹟保存会理事会が開催され、平成26年度事業、決算報告が審議、可決されました。会の終了後、理事長である山中光茂松阪市長から、
「宣長資料の真贋、寄贈に関して、有る市民からこんなことを言われたよ」と話がありました。

  市民の方の話というのは次のようなことです。

宣長の資料を、記念館館長に見てもらったら、
上手すぎるから違うと言われて、残念だった。
 良いものだと言われたら寄贈したかったのだが。

 それに対して市長(理事長)は、

大事な物を寄贈していただいても
 いつも展示するというわけにもいかないと言う判断が館長にはあったのではないか。
 真贋については分からないが、
 大切にされたらどうでしょうか、

と返答いただいたそうです。
 報告を聞いて、私は実に適切なフォローだと、理事長の対応に感謝しました。

 さてその次です。
 理事長は、

その方もおっしゃっていたのだが、上手すぎるというのはどういうことか。
 ふだん館長は、宣長の字は上手いと言っているじゃないか。
 ちょっと解せないなあ

と言われました。

 個人的な感想ですが、理事長は、大変熱心な展示室の見学者でもあり、
 また本屋でも宣長関係の本を見つけると、さっと読んでしまうような方です。
 記念館開館後45年間、市長としては五人目ですが、私の印象では、最も熱心な宣長ファンでしょう。もちろん記念館建設を企図し、途中で倒れた梅川文男さんは別ですが。
 だから市長として市民の意見を聞くということだけでなく、個人的にも、ないがしろにできなかったのでしょう。

 これに対して私は次のように答えました。

まず、大原則として、寄贈いただく作品や資料は、所蔵者にとっても、また記念館や、市民にとっても宝ですから、
 責任を持って保管し、また活用を図る必要があります。
 そこで、展示にふさわしくない内容、また保存状態の物はお断りすることになります。
 せっかく寄贈したのに展示されないという苦情が出ることは必定です。

では、展示にふさわしくない内容とは具体的にはどういうものかということですが、
これは実に色々あります。

一番頭が痛いのが疑問作です。
贋作か否かは、正直なところ、判断が付かないものがあります。
ちなみに判断が付く物もあります。宣長の贋作を専門に作っていた、と言うより贋作ではなく模造品を作りお土産で売っていた人がいます。
その代表的な物が「センチョー手」です。
これは見れば分かります。
実は記念館でもこれらを「参考品」として収集しています。

明らかな贋作でない場合には、いくつかのチェック項目があります。

たとえば、文字の誤り、特に仮名遣いの誤りは要注意です。
屏風や扁額は仕方ないのですが、保存状態が悪い物も要注意です。
行の中心線の揺らぎや筆順なども考慮すべきものです。
しかし、一番大切なのは最初の印象です。
理事長から質問があった、「上手すぎる」という表現も、
この印象を説明するときに使います。

宣長の字はていねいで美しいと思います。
しかし、書家の字ではありません。「上手い」のとはちょっと違います。
筆が走る、流麗な筆跡も皆無とは言いませんが、慎重な検討が必要です。

山中理事長と展示室を周りながら、
「宣長の字は上手いのではなく、ていねいなのだ」という説明をしました。
最後に、理解していただけたかそれとなく確かめさせていただきましたが、正解でした。関心の深さなのか、政治家として本物か偽物かを見抜く資質が備わっているのでしょうか。内心、驚きました。

私の所には、うちにある物を見て欲しいと、個人の方、業者が来訪されます。
鑑定はしませんが拝見はします。
また、読んであげたり、感想を求められたらお答えすることもありますが、
大半の人は、展示室をごらんになっていません。宣長には関心がないのです。
ぜひ見て自分の目で確認いただきたいとお奨めするのですが、残念なことです。

そこで思い出したことがあります。
小林秀雄の担当編集者だった池田雅延さんのお話です。
小林さんにおける「骨董」は、「文学」、「絵画」、「音楽」と並ぶ重要なものだと池田さんは話されました。
この場合の「骨董」は、美の対象として選ばれたものです。
感動を得るわけだから、美術館の収蔵品であろうと、商品だろうと、他人の持ち物だろうと関係はありません。

しかし「骨董」を見る目には、別のものもあります。
たとえば私などはまず「史料」として見ます。
この場合は、真贋もですが内容が大事です。場合によったら写しでも、写真でもかまいません。

また、「お金」に見える人もいます。
本物か。いくらするのか。
驚くことに展示品を見ながら、金のことを考えている人もいます。
宣長だろうが何だろうが関係ないのです。

学芸員は、これら三つの眼を兼ね備えていないと務まりません。
これは果たして展示や収蔵に値するものなのか。
史料としての価値はあるのか。
そして、最後は金額(評価額)です。
ちなみにこの順番で見ないと、大失敗することがあるというのは、私の経験で間違いありません。

記念館には毎年、数点の寄贈品があります。
「ふみの森探検隊通信」で随時紹介していますが、
それらはすべて自信を持って見ていただける良い作品、価値のある史料ばかりです。
 ぜひ記念館展示室で、選ばれた良い作品をごらんになって下さい。

                                                                                2015.6.4




◇  宣長と小津安二郎をつなぐもの

#025


「映画監督 小津安二郎の源流-小津家の文化・家族との絆-」展(2015年6月23日~7月5日:松阪市文化財センター第3ギャラリー)のオープニングで講演しました。
  話の前段は、次の二つのことばをと二つの用語で構成しました。
  まず、

「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテー マは"ものの哀れ"というきわめて日本的なもので、日本人を描いているからには、これでいいと思う」(松竹『小津安二郎 新発見』)

 それと、

「品性の悪い人だけはごめんだは。品行はなおせても品性はなおらないもの」

という『小早川家の秋』(1961)の中の台詞。
 いずれも有名な言葉です。

  それを考えるために二つの用語を使いました。
  「テイスト」と「イマジュリ」です。
 「明治四〇年頃に新たに「趣味」に加えられた「taste」という概念は、「おもむき」とも「hobby」とも異なる意味であった」 (神野由紀『趣味の誕生-百貨店が作ったテイスト』)
 「イマジュリ(大衆的複製図像)」(山田俊幸『大正イマジュリの世界』)
  このテイストとイマジュリという用語を使って、先の二つの言葉の底流、つまり小津安二郎が松阪で過ごした10年の持つ意義を考えてみたのです。

 子供の教育は田舎でという父寅二郎の判断で安二郎が母や兄たちと松阪に移り住んだのは大正2年(1913)。安二郎9歳の時です。
  大正2年といえば、三越の浜田四郎が「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチコピーを作った年です。
  翌年の3月には、芸術座、帝劇で『復活』初演。劇中の松井須磨子「カチューシャの唄」大流行。4月、宝塚少女歌劇団初演。歌劇「ドンブラコ」上演。10月、竹久夢二、日本橋に「港屋」開店。
  そして、松阪と関わりの深いところでは、10月1日には三越呉服店(三越)日本橋本店新館落成し、倫敦トラファルガー広場ネルソン記念塔に倣うライオン像設置されたのです。
  つまり少年一家は、父親から離れ、大正イマジュリということば、あるいは三越好みというテイストに象徴される東京から逃れるように父祖の地であるこの地方の小都市にやってきたのです。

  当時の松阪町は、江戸時代の経済的な成功を背景に醸し出された文化が終焉を迎える、最後の光彩を放つ季節だったのです。
  少年は小学校を卒業し、第四中学校に入学。問題を起こしながらも、神楽座で映画の面白さを知るなど夢のような時を過ごし、卒業。受験に失敗し浪人。飯高の山里の小学校で代用教員を一年して、大正12年、東京に帰ります。
  帰った年の夏に松竹蒲田に入社。直後に関東大震災で繁栄の大都市は灰燼に帰するのです。つまり安二郎は、大正期の東京を知らずに過ごすのです。

  一方の松阪もまた大きな転換点を迎えていました。
  豪商長井家の所蔵品売り立ては、叔母の家のこととはいえ、少年の与り知らぬ事ですが、頻発する小作争議など不穏な空気は伝わってきます。
  そして安二郎が去った直後の6月16・17日、養泉寺で開かれた「松阪資料展覧会」(319種出品)を最後に、良き時代は終わるのです。
  大正14(1925)年1月3日、餅のプライベート博物館「餅舎」主人・長谷川可同(58歳)の死はそれを象徴する出来事でした。
  安二郎とは入れ違いに松阪にやってきたのが梶井基次郎。
  大正13年8月、基次郎(23歳)は松阪でひと夏過ごします。その体験が、「城のある町にて」という一篇の作品に結実します。
  これが、三井高利や本居宣長を生み、滝沢馬琴や裏千家の茶道の庇護者となった「松坂」、その紙碑となったのです。

 >>「「松坂」から「松阪」へ」

 つまり小津は爛熟の東京ではなく、終焉とはいえ、まだ豊かで静かな空気が漂う町で多感な少年期を過ごすことが出来た。
  本家の土手新には西荘文庫として珍籍稀書や300点余りの円山応挙作品があり、
 叔母の嫁ぎ先の長井家の主人は謡曲に入れあげていて、最も親しかった友人、乾の家には凹邨文庫という図書の山があったのです。

 もちろんいくら本好きとはいえ、少年には関心外だったはずですが、しかしそんな雰囲気が町にはあったのです。
  そんな中で、時には松坂城址の鈴屋に遊びながら、安二郎は成長していったのです。
  そのあとは、暗い東京での生活が続くことを思うと、何と豊かな十年ではなかったかと思います。
  これがその世界観、価値観にも作用していることは、まず間違いがないでしょう。

 後段では、その土手新の小津久足を取り上げ、松阪人と宣長の関わりを考えました。
  最初に引いたことばにもあるように、小津は「もののあはれ」という言葉を使いましたが、そんなに深く考えていない、つまり宣長との直接の関わりは無かったと私は見ます。

 宣長の学問を見出し育てたのは、松阪の町人たちでした。
  暇とお金を持つ豊かな商人たちが寺の塔頭などで開くサロン、「円居」が宣長学の揺籃となったのです。
  しかし宣長が古学に進むと、町の人々の興味との乖離が始まる。
  ちょっと違うと思い去っていく人もいる。和歌だけと上手く距離を取りながら交わりを続ける人もいる。その中で、はっきりと言ったのが、小津久足だったのです。

 >>「小津久足」

 天保11(1840)年、久足(37歳)は松島見物に赴き、紀行『陸奥日記』を書きます。
  その中で、宣長学批判を展開。

「われをさなきよりして歌道に志し深く、むげに心なき言葉どもいひちらしたるが、つひに種(くさはひ)となりて、ただ腰折にのみ月日をいたづらに 暮らししも、廿余りの程は、傍ら古学にも志ふかかりしかど、ふt疑ひおこりて、古学といふことは、昔より聞こえぬことなるを、近来つくりまうけたる道な り、と思ひあきらめしより、大和魂、真心、漢意などいふ、おほやけならぬ名目の傍ら痛くなりて、私のみ多きその古学の道はふつに思ひを絶ちて、その後は、 とし久しく、ただ歌詠むことゝ、風流をのみ旨と楽しめり」
 「雪月花、山水の境に暮らせば、心不平ならず、楽いと多くて、俗臭深き本居門には稀人なりと、我から誇らしきまでにて、もし今までも古学まもりなば、年々山水の勝をさぐらず、ただ机の上にのみ苦しみて、井蛙のたぐひとなりぬべきを」

宣長の学問を明快に拒絶するのです。これについては何れ、久足という人のパーソナリティーをも含めて検証するつもりです。

  「物のあはれを知る」という用語の厳密な定義はともかくも、歌や「源氏」に象徴される世界こそが、実は松阪の商人たちが安息することの出来た空気だったのではないでしょうか。
  安二郎はそんな空気の中で自分を見つけていったのです。

                                                                                                                                                                                                                                   2015.7.1




◇  円山応震の宣長像

#026

 
 現在、記念館ではリニューアルに向けて準備を進めていますが、  中でも重要なことが、2017年3月、リニューアルオープン後の活動です。
 その一つの柱は展示ですが、喜ばしいことに新しい史料の寄贈が続いています。
  少しずつご紹介していきたいと思いますが、まず今回は、円山応震の宣長像をご紹介しましよう。
           円山応震の宣長像



















 寄贈者は東大阪市の丸山保幸様です(2016年4月13日受領)。作品は紙本著色。
保存状態は良好です。
  絵は、吉川義信が描いた宣長像をもとにしたものでしょう。
















賛は大平です。















「しき島のやまと心を人とはは
     朝日ににほふ山桜花、
        此歌はみつからの像の上にかかれたる
        うたなれは又かきたり、
       わか大人のうつしゑ見れはうつしおみ
       今のうつつにますことおもほゆ
                         大平」

 箱書は、

「大平翁讃応震、鈴屋大人肖像」
 「川端景庸主の吾師翁の御かたをものしておのれに此うはかきせよとありければすとて其ついてにかく、
 さくら花ちりにしのちの木末にもなほにほひある朝日影かな、
 城戸市右衛門大江千楯」
 「懐書堂」

 本紙 縦96.3糎・横30.0糎
  川端景庸と懐書堂は同一人でしょうか。詳しくは分かりません。

  さて、この画像の話を伺ったときに興味を覚えたのは、円山応震作という点です。
  応震は有名な応挙から数えて三代目。
  応挙-応瑞-応震
  ちなみに応瑞は、「朝顔図」宣長賛(逸翁美術館蔵)が有名ですが、
  応震は、記念館に賀茂真淵像があります。

         応震の真淵像(記念館所蔵品)

 この真淵像ですが、記念館での名称は「賀茂真淵像」ですが、箱書には「県居大人像、応震画」とあります。

  実は収蔵庫には、箱だけしか残らないのですが、もう一つの円山応震の真淵像があります。
  中身はないのですから、真淵像がありますというのも変な話ですが、
  箱書は

「加茂大人像、円山応震画」、「大人明和六己丑年十月廿九日卒、文政八乙酉春。元貞謹蔵」

とあります。
  箱が変わったという可能性はありません。
  記念館蔵は箱の長さが41.1糎、長谷川元貞旧蔵は49.5糎で、軸の長さが違います。

  では長谷川家旧蔵の箱はどうして収蔵庫にあるのか。
  種明かしをすれば、殿町の長谷川紘一さんの土蔵から史料を頂いたときに、、
  空っぽの箱でも、書かれた年次から何か参考になるだろうと考えたのです。
  元貞は、魚町長谷川家の当主。馬琴書簡に所蔵の『東雅』を長谷川が買うとの知らせを歓び、また次のように言います。

「長谷川主ハ名ハ元貞、号六有とて、和漢の学者、風流家ニて、拙随筆玄同放言、燕石雑志なとも蔵弄あるよし被仰示、甚なつかしき心地せられ候」
 (天保11,4/11付安守宛・『【日本大学総合図書館蔵】馬琴書簡集』P135)

 記念館などで所蔵する「本居春庭像」疋田宇隆画と全く同じものを所蔵していました。
 この真淵像も、本居家のものと同じものであった可能性が高いと思います。
 きっとたくさんお金を出したので、大きい軸が手に入ったのでしょう。

 さて、寄贈頂いた宣長像ですが、
 リニューアル後の展示の中でみなさんに見て頂く予定です。
  ご期待下さい。

                                                                      20164.24




◇  三重県立美術館「本居宣長展」への誘い

#027

 

◇ ああ、気の毒に
 すべてのものが情報にしか見えない。
 今の人たちにとって、本は情報の束ですね。電子ブック、一頃流行った「自炊」。文庫本なども出発点はよく似たもの。読めば終わり。いつの間にやら美術館の芸術作品も画像情報化してしまい、作品よりもキャプションで、「成る程ね」と納得。手紙とメールも重さが違いますね。もはや物と親密に対話する時代ではないのかもしれません。
 本居宣長(1730-1801)の生きた時代は大違い。18世紀後半、文化は京や上方から東へ、そして地方へと拡がっていきます。浮世絵が登場し、学術書からコミック(黄表紙)、遊郭案内、名所図会と出版物も質量共に急増します。遠眼鏡や顕微鏡も出てくる。
 平和で、ひとまず生活も安定すれば人びとは外の世界に憧れる。見る物、聞く物、何でも珍しい。本や絵画、地図、まずその存在に驚き、矯めつ眇めつ眺め、香りをかぎ、床の間に掛けてみたりふすまに貼ったり、写してみるなど、親しく接していたのです。
 本は情報伝達が本来の目的だとか、地図は知りたい場所の確認ができればよい、絵はステイタスシンボルみたいに床の間や壁を飾ればよいといった実用的な発想は全くなかったのです。画像は、「いいね」「わかったよ」と斜めに見て過ぎゆくものではなく、対話するものだったし、地図を眺め写しながら、自分がその中に入って旅するのです。
 メディアと人との蜜月だったのかもしれません。
 遙々、熊本から松阪までやって来た帆足京(みさと)、15歳の少女は言葉も通わぬ異郷の地で何をしたか。それは先生の『古事記伝』をそっくりそのまま写すことでした。内容も大事だが、それよりも憧れの先生の本だという感激があったのです。故郷の山鹿の人たちに、「これが宣長先生の本なのよ」と、宣長の自筆稿本の質感を、まず伝えたかったのでしょう。
 このピュアな感動を、今回の「本居宣長展」で取り戻して欲しいのです。
 なぜ美術館で宣長展か、少しわかっていただけたかもしれませんね。

 ◇◇ なぜ美術館で宣長展なのでしょうか
 先入観から自由になって作品と向き合って欲しい、
 それには本居記念館や、博物館ではどうしても制約が出てきます。歴史の流れに位置付けることから逃れることが難しいからでしょう。その点、美術館なら自由度は高くなる。
 物を見せるのにも上手下手があります。展示ケースの設えや照明とか、展示の文脈(並べ方)など、さまざまな要因が考えられます。でも、なんと言っても、やはりふだんから一級の美術品を扱っている担当学芸員のセンスのよさが決め手ですね。
 作品と対話するにはしつらえも大事です。茶道具なら茶室のほの暗さ、壁の色、畳の柔らかさにまさるものはないでしょう。宣長の作品でも、場所が大切ですが、様々な形態の史料や作品ということを考えると、美術館という選択肢が浮かび上がってきたのです。
 ずいぶん前のことですが、ある県立美術館に記念館から「本居宣長四十四歳自画自賛像」を出品したことがあります。その時、驚いたのは、展示空間が変わると見慣れたはずの作品が全く違って見えたことです。
 また数年前には奈良県立美術館で「大古事記展」が開催されました。同じ年に、数百メートル離れた奈良国立博物館でも「古事記撰進1300年」展が開かれたのですが、学術的な奈良国立博物館と『古事記』世界の衝撃を伝える美術館では、作品は似通っていても、大きな違いがあったのです。
 今回は、宣長の使った『古事記』が出ます。「ああ『古事記』ね、現存最古の歴史書で、これを宣長は研究したんだよね」ではなく、まず物として見て欲しい。
  ずいぶん汚れている。たくさんの書き込み。附箋で本がふくらんでいる。色々な発見があるはずでしょう。これはそこらの古本屋の店先にある来歴の知れぬ本ではない、まぎれもない一流の研究者の使用したもの、本物であるから安心してその世界に遊んで下さい。やがてそこから、この本に向き合った宣長の四十数年とい
う歳月が、実感できるはずです。

◇◇◇ 宣長スタイル
 『古事記』の書き入れ、何人かの手が交じる中でひときわ輝いているのが宣長の筆跡です。見ればわかります。スッキリしている。この整った字を見るだけで学問の信頼度は高まるように思いますが、それはともかく、これは自筆稿本や画賛にも共通しています。几帳面というより、そこには一つの美意識が作用しているようです。それを私は「宣長スタイル」と呼びます。「本居宣長四十四歳自画自賛像」はその集約であり、近代日本画家の巨匠・安田靱彦、望月春江、宇田荻邨の宣長像にも引き継がれていきます。
 「美しさ」と言えば、清らを尽くす『源氏物語』や『新古今集』の世界です。
  今回の展示では屏風や絵巻で、宣長を魅了した『源氏物語』の世界に皆さんをご案内します。全国から集められた珠玉の「源氏絵」が並びます。古典と聞くと何かひからびたイメージを抱いてしまいますが、葵祭や参内する公卿たちを見てうっとりする宣長の「源氏」世界はきっとこんなきらびやかな世界だったはずです。だから人々は宣長の高度な講釈でも楽しめたし、時には時空を越えて紫式部が礼を述べに宣長宅を訪れたりもするのです。何の音も、香りもしない、モノトーンの世界ではないのです。

◇◇◇◇ みんなが ☆ とんがっていた △ 時代
 宣長の住んだ伊勢国松阪は、「極彩色の町」です。豪商の町だからといって山吹色ではありません。曽我蕭白「雪山童子図」の鮮やかな色彩。この絵が描かれたのは、宣長と賀茂真淵の「松阪の一夜」があった翌年です。蕭白が大騒ぎをしてひんしゅくを買う、僅か300メートル離れた所で、『古事記伝』執筆が開始されたのです。でろりとした質感の鴨川井特は、宣長宅にまで入ってきます。漢意を批判し大和心を説く宣長と、中国の山水や書に心を寄せる韓天寿の親交も不思議です。池大雅らが語らう脇を宣長は薬箱を持って患者の家に急ぎ、夜になったら、蕭白や天寿、大雅と賑やかな時間を過ごした人が、宣長の「源氏」講釈に集まり、灯のもと『古事記伝』の抜き書きを行っているのです。
 遊女の絵に宣長が賛をする。誰がこんな物を頼んだのだと、私の貧弱な価値観では何とも説明がつきませんが、雅も俗も混沌とした宣長の時代は、松阪だけじゃないく各地に「元気」が満ちています。みんながとがっている。だから、人の圏域は犯さないとか波風を起こさないという発想は無縁です。たとえば賀茂真淵も宣長も、友人の荒木田久老や谷川士清、門人たちも、ものすごい情熱で学び、執拗に質疑応答をし、悪口も言い、からかいもする。自分の世界と判断基準を持っているから、流されもしない、面白いものには飛び込んでも行けるのでしょう。そんな時代の中で、自分の世界を構築する宣長を見て頂きたいのです。
 この元気があったから、日本は近代に向けた力強く歩み始めることができたのです。
  展示を見れば、きっと皆さんの宣長観、いや、未来も変わるかもしれません。


                                                                                                                                 
2017.9.13

 


◇  大人も夏休み、筆箱持って宣長さんを追体験

#028

 

    この夏、記念館では、和歌子とらんの案内で宣長さんを追体験してみようという見学ノートを作成しました。
  タイトルは、『らんのふしぎ発見!本居宣長記念館見学ノート』

    夏休みで、この名前だから、ああ子ども向けだね、と思われるかもしれません。
  もちろん、子どもでも楽しめます。
  でも、たとえば、読書人を自負している人でも、本なんて学校出てから読んだことがないという方でも、きっとしばし暑さを忘れ、夢中になれるはずです。

 まず筆箱を用意する。
  次にページを開いてください。
  最初からでなくても、適当なページでかまいません。
  宣長が17歳の時に作成した「大日本天下四海画図」。松阪周辺の拡大図を入れておきました。どんな紙でも結構です、写してください。
  すると、存外難しいことに気がつきます。地名を入れたら全体の形がとれない。
  内容も、はてなが続出。
  北勢にある「古物」と言う地名は一体どこだ。
  津、桑名、亀山は□で、松坂、山田、宇治は○、古物や久居、田丸は小判型・・・。
  山や、神宮の辺りには木も描かれる。神宮杉でしょうか。
  いかにも地図っぽい工夫も見て取れます。
  写し終わったら、もう一度宣長の地図と比較して、次のページに丁寧に貼ってください。
  また、一日24時間の時間割があります。
  自分の一日を振り返って、次に宣長さんの一日に思いを馳せてください。
  『古事記伝』を書写するページもあります。ぜひ筆ペンでチャレンジしてください。ちなみに宣長が『古事記伝』最終巻、最後のページを書いたのは220年前の7月26日、暑い夏の日でした。
  継子だてとか二文飛びという昔のクイズや、塗り絵もあります。

 こんなこと小学生の頃以来だなと、童心に返っていただいたあとは、賀茂真淵先生と宣長の出会い「松坂の一夜」の絵を眺めて、自分に近い人の気持ちになってみる。
  たとえば私なら、明らかに真淵先生に近い。
  29ページの真淵先生の述懐、34歳の有為な若者を前にした67歳の真淵の期待、そして一抹の寂しさ。
  この真淵の気持ちは、きっと子どもには、わからないでしょうね。

 ていねいに写す手と、しっかりと観察する目、実際に行ってみる足、そして思い描くこと、その人の気持ちに寄り添うこと。
  著作や伝記だけでは知ることの出来ない宣長さんに、きっと会えるはずです。

 入手方法ですが、 現在、記念館窓口で無料配布中です。
  郵送ご希望の方は、送料として250円分切手を同封し記念館まで申し込んでください。
  たくさん印刷しましたが、もう半分ほど出ました。お急ぎください。

  ※A4版・52ページ・フルカラー・このワークブックは、
   公益財団法人岡田文化財団の助成を受けて作成しました。

   本居宣長記念館
   〒515-0073 三重県松阪市殿町1536-7
   電話:0598-21-0312  FAX:0598-21-0371

2018.8.8   




◇  可児と宣長

#029

 

    先だって、岐阜県可児(かに)市で宣長について話をした。ご当地話をという依頼ではないが、ご挨拶を兼ねてその地域の話をすることにした。

 はて、宣長と可児には何か関係があるのだろうか。
 可児市には、『万葉集』や『日本書紀』にも名前の出る、久々利(くくり)という場所があり、特に『万葉集』では「八十一隣」と表記されるので知られている。
 ククは、八十一だ。
 この久々利には宣長の孫弟子で、『答問録』を校訂刊行した千村仲雄という人もいる。全く宣長とは無縁だが志野焼の荒川豊蔵の窯もあったところて、記念館もある。
 しかしこれだけでは、どう考えても枕にもならない。
 そこで、可児や久々利について宣長はどの程度の知識を持っていたのかという角度から話を組み立ててみることにした。

 見通しはある程度立っている。と言ってもたいしたものではない。
 宣長だけではないが、近世の学者、特に国学者の知識は想像を超えるものがあって、ざっくりいうと、全部知っている。今の人のように、関心事だけをピンポイントで調べるというのではなく一通り全部調べる。
 だからこちらも、何か記載はあるだろうという、楽な気持ちで調べてみることだ。その程度の見通しである。

 さて、宣長の場合、17歳の時に「大日本天下四海画図」で全国3100の地名を書き、長じてからは『延喜式』神名帳に載る全国の神社約3000について六国史など古典籍に出るかをチェックしている。
 頭の中に古代の地図を描くためであろう、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、また歌枕、天皇陵については精細に調査している。
 これらを使えば、もちろん例外もあるが、かなりの確率で、その土地にまつわる話を拾うことは出来る。後はそこから『古事記伝』や『本居宣長随筆』、門人や来訪者へと芋づる式に広げていけばよい。
 宣長は、息子の春庭とかなりの数の国絵図を写しているので、これも役に立つ。今回は「美濃国図」を使った。

  まず最初に『万葉集』巻13を開いてみる。
 





















3242番「百岐年三野之国之高北埜八十一隣之宮爾日向爾行靡闕矣・・」

 宣長使用本は寛永版本である。訓が付いている。
 「モヽクキネミノヽクニノタカキタノクヾリノミヤニヒムカヒニユキナビカクヲ・・」
 宣長が訓に手を入れている。先ず「百岐」の間に、「久カ」と書き添え、「クキネ」の脇に「岫嶺」と書き込む。何れも宣長筆。「ミノ」を「ミヌ」と改めている。欄外に「師云、靡ハ紫ノ誤ニテ行紫闕(イデマシノミヤ)ナルベシ」とある。この説は『万葉集問目』に真淵の見解が、また宣長の意見が田中道麿への質問として、『万葉問聞抄』にあるが、直接関係ないので省く。

 「三野」を「ミヌ」と読むのに対して、宣長の誤読だという人もいるが、そう簡単にはいかないようだが、これも話題が逸れるので割愛。
 問題は「八十一隣」である。訓では「クグリ」と濁音で宣長も訂正していない。
 その脇には、「泳宮【景行紀】」と宣長の字で書き込みがある。また一首の終わりに、
  「今美濃国土岐郡ニ久々利(クヽリ)ト云処アリ」
 と、やはり宣長の字で書き込みがある。これは後から訂正されるはずである。

  次に、『日本書紀』景行天皇4年条を見ることにしよう。


















「泳宮【泳(エイ)宮、此云区玖利能弥揶】」と言う本文に、に「クヽリ」と訓が付く。
 脇の「万十三」は宣長の書き入れ。『万葉集』巻13を参照せよという指示であるが、欄外には更に、「久々利(クヽリ)ハ美濃国可児郡也。今モアル地名也。下ノ「グ」清テ云リ」
とある。ここで、『万葉集』書き入れの「久々利(クヽリ)」土岐郡説は訂正され、また、「クヽリ」と清音で読んでいたという新たな情報が加えられる。
 『万葉集』から『日本書紀』へと、宣長の知識は進んでいくようである。

  三冊目は『和名類聚抄』である。






















  美濃国の地名を挙げる中に「可児」とあり「カコ」と振り仮名が付く。その右脇の「ニ」と訂正するのは宣長筆であろう。また「今国人カニト云」も宣長筆。

  最後の仕上げは長男春庭書写の「美濃国図」。天明4年(1784)、春庭22歳、宣長55歳の年の作である。
 「可児」の部分を拡大して示す。






















  聴衆にはお馴染みの場所、中には名鉄線の駅名として今も生きる地名もある。
 宣長など縁遠い人だと思っていたら、自分の住んでいるところも知っていたのだと気づくと、急に身近に感じていただける筈だ。
 位置がおかしいとか、こんな字を書いたのかと会場がざわめく。
 地名を見ていくと、二人の手が混じっていることに気づく。たとえば「禅師野」とか「帷子」、「古瀬」などは宣長の字である。「久々利」の地名もあるが、「冬利」のようにも見える。これは春庭の筆のようだ。春庭には、ひょっとしたら久々利でも冬利でもどちらでも良かったのかもしれない。
 これも話は逸れるので大雑把に書いておくが、春庭がたくさんの国図を写したことは知られている。それらを見ていくと明らかに父宣長の人も混じっている。写し終わったら父に校閲してもらうという場合もあるが、合作もあったようだ。
 たとえばこんなシーンを想像してみよう。
 作成中の地図が広げ春庭が何かの用事でその場を離れた。そこを通りかかった父が、「ああ今度は美濃国か。少し手伝ってやろう」と筆を執り、少し書き足し、去って行く。春庭が戻ってきて続きを写す。
 借りた史料には返却のこともある。親子が分担して書写を進めていたとしてもふしぎではない。

 さて、可児や久々利について別に何かの発見があったわけでもない。
 ただ知識が読書や見聞を通し少しずつ訂正されて豊かになっていく、そのプロセスを見たにすぎないのだが、考えてみたらこれはすごいことではないか。
 直接関わりがあろうが、あるいは無かろうが、片端から調べ、頭の中のデータベースを絶えず更新していくのである。
 地名を聞いて、地図で確認したり、ちょっとネットで調べるなど、実は私たちも同じようなことを毎日繰り返しているはずなのだが、宣長はそれを記録しているのである。
 「何かの発見があったわけではない」と言ったが、この作業によって宣長の古典の読みは深まりもしたはずだ。
 
 可児や久々利の書き入れを行っている時期の宣長にとって、やはり課題は『古事記伝』執筆であったろう。すべてのものはこの一点に集約されていく。
 また、もう一つ大切なことは医業と松坂魚町の住人と、家長としての役割も果たすことも大切だ。
 講釈や質疑応答も年を追うほどにその占める割合は高くなってくる。
 そんな多忙な中にあって、何の役に立つかわからないことは、比重としては低いはずだが、それでも宣長は一切手抜きをしないのである。楽しくて仕方ないのであろう。

  今からご紹介する本居宣長とはそのような人なのです、というところから、その日の本題の話へと移っていく。


2018.8.14



◇  ☆ と 

#030

 

 夏の企画展「教えて!宣長先生の勉強法」の会期も僅かとなったが、今回の展示で一つの工夫がある。
 解説に「☆」と「∞」のマークを付けるのである。

         展示室の案内板




















   は、ひとりぼっちの宣長。一人で輝いているのを表す。
  
 は誰かとつながっている宣長だ。
 19歳の「端原氏城下画図」なら、これは孤独な営為で、人に見せるものでも無かったから☆。
  35歳の「文字鎖」も、出来たよと自慢はしたかもしれないが、もとは冬の夜の手すさびで、やはり☆だ。

 勉強とは、本来はひとりぼっちの営為であろうが、やがてそこから興味関心という芽が出て、ぐんぐんと育ち始める。
 その時に、力となってくれるのが、同じ関心事を持つ仲間であり、また師である。
 
 十代後半、宣長は和歌に関心を持った。
 誰に習うわけでも無く、仲間もいなかった。
  「たゞひとりよみ出るばかりなりき」(「おのが物まなびの有しやう」『玉勝間』)

  伊勢での養子時代には、法幢に歌の添削を受ける。これも添削以上のものではなかったようだ。
  京都に出た宣長は堀景山に師事する。師の勧めであろう契沖の著作を読み、和歌への関心は深まり、新しい展開が始まった。
  最初の和歌学習ノート『和歌の浦』は☆だが、契沖の『百人一首改観抄』は推薦者、しかも契沖に私淑することになったのだから、これは

 

  架空都市図「端原氏城下画図」とその系図は、☆。

  京都に憧れて一人コツコツと作った京都の文献集覧『都考抜書』は、もちろん☆だが、実際の京都生活を記録した『在京日記』は、講釈や交遊が活写   されていて、これは 
 
  では、自画像はどうか。

  四十四歳像はほとんど見せることも、また言及することも無かったので、☆。

  しかし、六十一歳像になると、没後に床の間に掛けて影前会を行うことを構想するとか、また模写を許可するなど、自画像ではありながら人とのつながり、つまり ∞ 色が濃い。

  一番最後は『遺言書』で、これは自分の死を見据えた営為で、文句なしに☆、となりそうだが、葬送は生き残った者との関わり方、しかもお墓参りの仕方にまで指示があるので、後の人とのつながりという点で、 でもある。
          鈴屋円居の図
















 このマークを付けたのは、宣長が実に巧みに、一人の時間と、みんなと刺激的な会話を楽しむ時間、それは歌会や講釈、また雅会といった「円居」を自在に行き来していたことに、宣長流の勉強法の極意があったと見たからだ。
  なお、松坂の円居が、新しい文化を生み出す場であったかは、以前に「圓居の文化-松坂町人文化の多層性-」(『茶道文化研究』第五輯・今日庵文庫)で詳しく述べた。

         

もちろん、「鈴屋円居の図」も展示したが、その横に、宣長の知人・韓天寿の書(拓本)を掛けた。
  文意は、
  「用事が済んだらさっさと帰れ」
 池大雅や高芙蓉と親しくした天寿だったが・・・でも孤独を愛する人もいる。
 来訪者と対面するどころか、質疑応答や添削に積極的な宣長のような人もいる。

 この拓本、もともとは館長室に掛けておけばよいと、伊勢の永井謙吾さんからいただいたものだが、
 リニューアルで館長室も無くなったので、
 展示室に掛けてみたのだが、なかなか評判が良い。

 ☆と  、展示の中で、果たしてこちらの思いが伝わったかは心許ないが、
 この視座は、宣長を考える上で有効であることは間違いないと思うのだが。






2018.8.17




◇  宣長の筆は

#031

 

   『らんのふしぎ発見!本居宣長記念館見学ノート』で、『古事記伝』を写しています。
 気分は、帆足みさと嬢といったところでしょうか。
     
>> 帆足みさと

 

 このように、実際に筆(ペン)で書いてみると、内容とは別に、いろいろ発見があるようです。

 たとえば『古事記伝』では6種類の大きさの文字が使用されます。
   『古事記』本文。同割注。伝本文、同割注。本文のルビ。伝のルビ。


 これらをきちんとかき分けるためには、穂先の異なる筆を用意した方が効率的だとか、何より、「いと拙くて」と卑下しているのは、言葉通りに受け取ることは出来ないなということも実感できるはずです。

 また「見学ノート」には、珍しく字を誤って張り紙した箇所も、写真で出ています。 紙は小刀かはさみできちんと切断されています。

   21ページの地図(大日本天下四海画図)は、サインペンで写すと、単調でどうも地図らしく見えません。

 さて、宣長はどんな筆を使っていたのでしょうか。
 残念ながら、本居家からの寄贈品の中で、これは宣長先生の筆だと断定できるものは一本もありません。
 大事なものですから、もし伝っていたら包み紙に「故翁御筆」とか書いて大切にされているはずです。一体どうなったのでしょうか。
   きっと門人がもらっていったのでしょうね。

 宣長の筆について、ちょっと大切な話をメモしておきます。

 一つは、平田篤胤がもらった話です。
 春庭から「故翁ノ用ヒタフルサレタル御筆」を譲り受けて、『古史伝』の清書に使用したそうです。
 またこの筆とおぼしきものが遺品の中にあると、この話を紹介する中川和明さんの「平田篤胤の文政六年上京一件と国学運動-新史料『上京日記』を中心に-」(『鈴屋学会報』23号)とあります。
 注のところを引いておきます。
 「平田家資料の中に宣長の筆、請求記号「箱4-24」、宣長の筆三本で、包紙には「故鈴屋大人御用筆」と記されている。」
   出来るものなら実見したいものです。

 二つ目は、廣岡義隆さんから聞いた話ですが、佐佐木信綱さんは、宣長に倣って穂先を切った筆を使っておられたそうです。
   これもぜひ拝見したいものです。

【参考】
  「万よりも、手はよく書かまほしきわざ也。歌詠み学問などする人は、ことに手悪しくては、心劣りのせらるるを、それ何かは苦しからんといふも、 ひとわたり理はさることながら、なほ厭かず、打ち合はぬ心地ぞするや。宣長いと拙くて、常に筆取るたびに、いと口惜しう、言ふ甲斐無く覚ゆるを、人の請ふまゝに面無く短冊一枚など、書き出て見るにも、我ながらだに、いとかたはに見苦しう、頑ななるを、人いかに見るらんと、恥づかしく胸痛く
て、若かりし程に、などて手習ひはせざりけむと、いみじう悔しくなん」
  ー「手かく事」『玉勝間』巻6 ー


2018.8.19




◇  隠岐の駅鈴がなぜ選ばれたのか

#032


 2012年6月、浜田市で開催された、
「石見国浜田と本居宣長~駅鈴がつなぐ浜田と伊勢国松坂~」
が契機となり始まった島根県浜田市と松阪市の市民交流が、
やがて隠岐にも広がり、相互に訪問も継続して行われるようになりました。
 この8月も,松阪からの訪問団が隠岐に行き、同所で浜田市と合流し、
 相互の交流会が開催されます。

 隠岐の方をお迎えするとき、よく聞かれるのは、
 「なぜ駅鈴がここにあるのか」
です。
 隠岐に今も伝わる旧国宝の駅鈴が、なぜ松阪にあるのだというのです。
 松平康定が宣長に贈ったことが契機となったことは間違いないのですが、
 では、どうして駅鈴なのか、という問いに答えるのはなかなか難しいのです。
  でも次のように考えてみることは出来そうです。

 「駅鈴」は、古代の法制上重要なものでした。
   
>>「駅鈴」

『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、出兵した大海人皇子が駅鈴を請う場面があります。
  この鈴は,本来は天皇の命を承けて,地方に赴く人が携行したものなのです。
  ちなみに、松阪には「駅鈴」に因む「鈴止村」の地名も最近まで残っていました。
  松阪を過ぎると神宮領に入るので、ここで駅鈴をしまったことにちなむといいます。
  
  このような,今の身分証明書のような鈴ですから、いくつもあったはずですが、
 不思議なことに、その実物はどこにも伝わっていなかったのです。

 幻の「駅鈴」が日本海に浮かぶ隠岐に伝わっていたことが知られるようになったのは、天明5年(1785)でした。
  果たしてこれが律令でいう「駅鈴」であるのか、後世の法制史家には異見もありますが、それは別の話です。

 この年の冬に上京した隠岐第40代国造・幸生が持参し、
  翌年夏から幸生の師・西依成斎や並河一敬に調査を依頼したことが、世に知られるきっかけとなったそうです。
  橘南溪『北窓瑣談』(ホクソウサダン)には、隠岐国造は鈴を持ち歩き、その音は
 「清亮、殊更に音高くしてよく聞ゆ」
 と書かれています。

 宣長の知人では、有職故実家・橋本経亮もどうやら鈴の音を聞いたようです。
   
>>「橋本経亮」
 経亮(1755~1805)は、京都の梅宮大社の神官で、宮中に出仕して非蔵人となった人です。
 経亮に、この駅鈴に寄せた歌が残っています。

「うまや路に たまひし鈴の 音さやに ふりにし御代を おもひ出けり」

 さて、それからしばらくして、再びこの駅鈴に注目があつまりました。
  寛政2年に光格天皇が新内裏にご遷幸されるときです。
  行列には、「主鈴」として、駅鈴管理者も加わるのですが、
  この時に隠岐の駅鈴(もしくはその複製)が行列に加わったと推定されるのです。
  
  宣長の活躍もあり古代への関心が高まり、また有職故実学の伸展、
 さらには九州志賀島での金印発見など考古遺物の発見が相次いだ18世紀後半、
 隠岐の駅鈴も話題の的であったことは間違いありません。
  
  本居宣長が鈴が好きだと聞いた松平康定侯は、
  この駅鈴の複製を入手し、贈り物としたのではないでしょうか。
   
>>「プレゼントは隠岐の駅鈴」
 
制作者や制作過程は全くわかりませんが、隠岐の駅鈴の精巧な模造では無いので、
 大体の形を写したのをもとに制作したと考えられます。
  それにしても家宝ともいうべき駅鈴の模造を造ることをよく許したものだとも思いますが、 当時の康定は、奏者番という出世コースに乗っていますから、
 国造家も拒むことは出来なかったのかもしれません。

 [関連リンク]
   
>>「駅鈴」

2018.8.28

 


◇  幻の古道 壺坂道・畑屋越

#033


 奈良県大淀町の主催で、
「国学者・本居宣長の足跡をたどって~幻の古道 壺坂道・畑屋越~」
というちょっと面白いハイキングが企画されている。
 実施日は平成30年9月23日、この原稿を書いている日からは、少し先の話である。
 コースは、壺阪山駅出発、壺坂寺から畑屋へと越える道を歩く。
  宣長がこの道を歩いたのは、明和9(1772)年。それから246年という歳月が流れている。

 宣長の足跡をたどるイベント(ほとんどが『菅笠日記』のルートである。もちろん今回の企画もその日記に基づいている)は、よく行われているのに、
いったい何が珍しいかと言うと、
 実はこの道は、街道というより生活道といった方が良い道である。
 言わば、村と村を結ぶ踏み分け道で、人が通らなくなるとすぐにもとの獣道か山野に戻ってしまう運命にある。
  そうやって消えていった筈の道が、どうやら蘇ったらしいのである。

 明和9年の春、松坂を出発した宣長一行は、で吉野、飛鳥を中心に古跡を精力的に巡り、 また記紀、万葉を自在に使って考えながらの旅10日間の旅をする。
 充実した内容で、面白い。
  その後の、特に吉野、飛鳥巡りのガイドブックとしてもよく読まれた。

 この記録に基づき歩けば菅笠の後をたどったということになるかというと、なかなかそうはいかない。
   「管笠日記の道を歩く」と言う時は、もう少し限定して考えた方が良さそうだ。

 《管笠日記の道を歩く》

 「管笠日記の道を歩いた」というためには、二つの条件がある。

 第一条件 まずルート調べから始める。
 経由地はきちんと書かれているが、熊野古道や東海道のようにルートが定まっているわけでは無い。
 大部分が生活道なので、先行する記録を調べ、また地元の人に聞き、推定しながら、
 絶えず本当の宣長さんが歩いた道かと問い続けなければならない。

 第二条件 歩いた道を、記録すること。

 難しいことを言うなあと思われるかもしれないが、目的はポイント間の移動では無く、歩いた道にあるので仕方が無い。

 二つの要件を満たしている最初の人は、新潟の石川義夫だろう。石川氏の労作は、このホームページ、『菅笠日記』図書館で紹介した。
   
>> 1、『菅笠日記』について その5

 続くのは、高瀬英雄ご夫妻と、塩山博之氏の管笠日記を歩く会である。

 さて高瀬さんも塩山さんたちも、道は無いがとりあえず目的地にたどり着いたと記載されるのが、 旅も6日目、吉野から飛鳥への道、今回選ばれた畑谷越である。

 宣長の『管笠日記』には、

「これより壺坂の観音にまうでんとす。平らなる道をやや行きて、右の方に分れて、山沿ひの道に入り、畑谷などいふ里を過て、上り行く山路より、吉野の里も山々も、よく顧みらるる所あり。
 かへりみる よそめも今を 限りにて 又もわかるる みよしのの里
 吉野の郡も此手向を限り也とぞ。下る方に成ては、大和の国中よく見渡さる。比叡の山、愛宕山なんども見ゆる所也といへど、今は霧深くて、さる遠きところ迄は見えず。さて、下りたる所、やがて壺坂寺なり」

 次に石川氏の記録を見よう。

「この道は、壺坂寺のすぐ下手に出る道である。江戸時代には、壺坂の里人や行者たちが、直接下市や下淵に出る時によく利用していたらしい。壺坂峠越えの道より近いからであろう。しかしかなり険阻な上に道も細いので、大正以後は通る人もなくなり、今は夏季など雑木・雑草が道を塞いで通ることができない」

 続けて氏は、普通なら柳の渡しの少し上手の出口、下流の新野、もしくは下流の土田からのルートが普通であると言い、「畑谷」という集落を通ったと書くのだから、わざわざ遠回りして、嶮しい道を選んだことは間違いないが、

「宣長がなぜ回り道で細く嶮しい道をわざわざ通ったのかわからない」

と書かれている。

 石川氏の時には通行困難ではあるがまだ道はあった。
  ところが20数年後(2004年開始)に挑んだ高瀬ご夫妻の記録には次のように書かれている。

「六田駅から柳の渡しまで戻って出発した。やがて土田。上市の方より きの国へかよふ道と 北よりよし野へいる道とのちまたなる駅也 であり構えの大きい古い家が残っている。ここから北にむかう。2km程で右にそれて山沿いの道に入る。ここまでは車の行き交う喧騒な道であったのでほっとする。ここでも壺坂寺への山越えの道を結局8人の人に問うた。皆口をそろえて言われるのは「ない!」であった。それでも行けるところまで行こうと進んでいった。畑屋という里である。小さな集落の入口に山から山へ長い注連縄が張ってあった。畑をしてみえた古戸さん母子に尋ねると「村に厄病や災害が入らないように張るものでカンジョという」そうだ。里は戸数は少ないが豪壮な家が並ぶ。林道から細い山道に入る入口を教わったのだがわからずさらに進む。山の高いところで仕事をしてみえた方を見つけて道を尋ねた。すると「道はこの上にありもっと下の池のところから上るがそこまで戻るのはたいへんだからここを登ってこい」といわれる。それならと草や木につかまりよじ登る。その西垣内康孝さんは「100mくらい行くと道が分かれる。左への道はとらず山を右に巻いていく道があった。私有林ならまだ多少人が入るがその先は国有林だから道はなくなっている。止めた方がいい。」お礼をいって行けるところまで見てきますと進む。確かに右に道はあったらしいがどうにも進めない。山の上には登れる道がある。それなら上に上り向こう側へ下る道を探そうと高度100mくらいの急斜面を登り山頂に着く。それから道なき道をさまよい、ようやく人家に辿り着く。そこはなんと壺坂寺であった。畑屋から悪戦苦闘すること3時間が経過していた。
  かへりみるよそめも今をかぎりにて 又もわかるるみよしのの道
吉野の眺めどころではなかった。」


 高瀬ご夫妻から約10年後、2013(平成25)年9月28日(本番)、塩山さんたちも同じ体験をしている。

「畑屋を経て壺坂寺に行く道は「壺坂街道」とよばれていましたが、下見調査で畑屋集落の人に尋ねると「昔は道があったが、今はいけない」という返事です。行けるところまで行ってみることにしましたが、倒木と草木が行く手を塞ぎ、道が消滅してしまいました。仕方なく頂上の三角点を目標に山をはいずりながら登り、尾根筋に出ました。尾根筋を東側に進むと踏み跡が見つかり、山道を下ると壺坂寺にたどり着きました。しかし、「歩く会」の本番は、比曽・馬佐を経由する「代替えルート」に変更することにしました」

三角点を目指したとあるのでGPSを使用されたのだろう。

 今回のイベントでは、畑屋から壺坂寺に越えた宣長一行とは逆方向ではあるが、
峠を越える格好の機会である。
  また畑屋には道標もあると案内マップには記されているので、これも必見である。

 それにしても、これだけ根強いファンがいるのだから、注釈と地図を付け、出来れば文庫サイズの『管笠日記』を刊行したら、結構、需要はあると思うのだが・・・

 


2018.9.16

 
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