コラム 宣長探し
コラム宣長探し 目次
No. | 内 容 | 掲載日 |
#001 | 2011.2.15 | |
#002 | 2011.2.15 | |
#003 | 2011.2.22 | |
#004 | 2011.2.22 | |
#005 | 2011.3.1 | |
#006 | 2011.3.8 | |
#007 | 2011.3.15 | |
#008 | 2011.3.22 | |
#009 | 2011.4.5 | |
#010 | 2011.7.18 | |
#011 | 2013.3.16 | |
#012 | 2013.5.1 | |
#013 | 2013.6.21 | |
#014 | 2013.6.25 | |
#015 | 2013.7.1 | |
#016 | 2013.11.26 | |
#017 | 2013.12.27 | |
#018 | 2014.1.15 | |
#019 | 2014.3.22 | |
#020 | 2014.8.19 | |
#021 | 2015.1.18 | |
#022 | 2015.2.23 | |
#023 | 2015.5.9 | |
#024 | 2015.6.4 | |
#025 | 2015.7.1 | |
#026 | 2016.4.26 | |
#027 | 2017.9.13 | |
#028 | 2018.8.8 | |
#029 | 2018.8.14 | |
#030 | 2018.8.17 | |
#031 | 2018.8.19 | |
#032 | 2018.8.28 | |
#033 | 2018.9.16 |
コラム宣長探し
◇ 朝熊山金剛証寺の絵はがきに敷島の歌 | #001 |
「放送大学付属図書館所蔵コレクション展、日本残像~ちりめん本と古写真が語る幕末・明治~」展(放送大学主催・三重県立図書館)入り口近くに飾られるパネル「朝熊山金剛証寺」は絵はがきの拡大のようで、昭和4年6月24日参拝記念のスタンプを捺す。その脇には「敷島の大和心を人とはば」の歌が印刷されている。
あらゆる所で敷島の歌が引かれる、そんな時代の到来なのかもしれない。
2011.2.15
◇ 『離屋集初編』の刊行 | #002 |
鈴木朖の文集『離屋(りおく)集初編』が、版本の影印に訳注を附けて刊行された。待望の一書である。
国語学研究史上において鈴木朖の名前は燦然と輝いているが、宣長の門人としての朖の存在も際やかである。少年の頃から漢学に秀でた朖だが、その学問は凡百の漢学者とある一点で大きく異なっていた。それは本居学の精神を体現していたと言う点であった。
朖は、宣長を孔子と比較して、「先生の風、頗る仲尼に似る」と評し、宣長もその言を素直に喜んでいる。
その朖を知る基本文献が、『離屋学訓』と、この『離屋集初編』である。ここには学問的なスタンスを明らかにした「答客問」や交友を知る上でも貴重な文章が集められている。また本書は、「頗る仲尼に似る」という有名な文言の入った「送本居先生序」や、「馭戎慨言序」、「答問録跋」、また「続紀歴朝詔詞解序、代人作」などこれまでないがしろにされてきた文献も入っていて宣長の基本文献でもある。私など漢文に暗い者には訳注が重宝で、これから安心して引用することが出来そうだ。
『離屋集初編』 鵜飼尚代訳注、尾崎知光補正補筆・鈴木朖学会刊・2010年12月
名古屋市西区城西3-21-17 離屋会館内 電話 052-522-7472
2011.2.15
◇ 『多度神宮寺資財帳』の発見 | #003 |
小玉道明氏「鴎外再見 桑名郡多度寺の資財帳を追う」(『棧 文芸・論索同人誌』26号・2010年12月)は、『多度神宮寺資財帳』(国重文)が発見紹介される過程を追い、同資財帳の謎に迫る。
東寺旧蔵と伝えられるこの「資財帳」が世に出たのは18世紀後半。
三つの動きがある。
まず、藤貞幹が写した(大東急記念文庫蔵)。貞幹は寛政9年(1797)8月19日没で、それ以前の写本であることは間違いない。
次に上田百樹の写本(津市立図書館稲垣文庫蔵・文化7年写)と、伴信友の『神名帳考証』への引用で、この二つは両者の交友から関わりがある可能性が大きい。
最後は、市場に出た「資財帳」は竹包楼から狩谷掖(木偏・夜)斎の手に渡り、模刻本が作られた。狩谷本が現在の多度大社所蔵の重要文化財指定品である。
これらの三つがどのようにつながるのかは今のところ不明。そこに「資財帳」が内包する問題や、掖斎の模刻本の謎、さらに史料批判のないままに研究が続けられてきた杜撰さが絡み合い複雑な様相を呈する。この成果は近く論文として発表される予定で、本編はその途中経過。
今のところ宣長との直接の関係はなく、周辺で起こった出来事の一つにすぎないが、和学者の世界の出来事として興味深い。
>> 上田百樹(ウエダ・モモキ)
2011.2.22
◇ 内池永年旧蔵『神代紀髻華山蔭』 | #004 |
本居大平の「みちのく社中」の中心的な存在だった内池永年については、『内池永年集-みちのく社中・』(福島市史資料叢書第50輯・58輯)に詳しいし、そこには、書簡や詠草、紀行も収められている。「諸国風俗問状」の回答として、大平の委嘱により、石金音主と『陸奥国信夫群伊達郡風俗記』をまとめたことは後世に残る業績だが、永年旧蔵の版本『神代紀髻華山蔭』(じんだいきうずのやまかげ)が確認された。
表紙の裏には「文化拾五年寅四月於京都求之、内池與十郎永年」と墨書され、巻首には「内池家蔵」の印が捺される。刊記「鈴之屋蔵板、寛政十二年庚申之春発行、製本弘所、書林、勢州松阪日野町柏屋兵助、京都寺町通四条上ル町銭屋利兵衛、同三条通御幸町西江入町河南儀兵衛」。表紙右上に「七」と墨書。題箋に「全」と朱書。
購求日は書かれていないが、永年が音主と西遊した日記『道のしをり』には、「廿二日晴、本(居)家靱負御兄弟へ御暇乞ニ参リ、紀州先生様へ礼状差上候、城戸市右衛門主へ立寄、書物約束致、料紙遣し長歌頼置候・・」とある。この時の買い物だろうか。
『内池家蔵書目録』には「神代紀髻華山蔭【四匁五分】、壱巻」とある。
2011.2.22
◇ 病と苦役 (やまいとくやく) | #005 |
パンデミックに鳥インフルエンザ、21世紀になっても疾病の恐怖は勝りこそすれ、克服の目途は全く立たないようだ。花を待つ頃は、花粉症に怯える季節でもある。
仕事の傍ら『古事記伝』を読み続ける方から、メールが届いた。そこには、
「今日は少し時間をとって『古事記伝』に取組みました。二十三之巻の最初の方に、「役病」と「疫病」についての考察があります。この数行の文章の解釈に数時間もかかりました」
とあった。
問題の箇所は、
「この天皇(崇神天皇)の御世、役病(エヤミ)多(サハ)に起こり、人民(オホミタカラ)死(ウセ)て尽きなむとする」(『古事記』中巻)
の注である。
「エヤミ」とは、流行病、パンデミックのようなもの。『古事記伝』の説を要約してみよう。
まず最初に、この「役病」(エヤミ)を、「疫病」と書く本があるが、ここは真福寺本などの「役病」が正しいと言う。次に、「エヤミ」が古語であることを、『和名類聚抄』や『日本書紀』、『大鏡』で確認する。龍胆をエヤミグサという記述も紹介される。
では「エヤミ」とは何か。「役」は「エ」ともまた「エダチ」とも言う。「エダチ」とは「役立」。これは強制された労働を意味する言葉である。逃れることができないことでは疫病も、漢籍には民が皆病むとあるので、よく似ていると宣長は考える。
ここで宣長は、真淵先生はこの箇所を「疫病」として、「疫」を「エ」と読むのは字音をとったのだ。またこの箇所は次に出てくる「神気」と同じで「カミノイブキ」と読むのだと言われたことを思い出し、自分も「役」も「疫」も「エ」と読むのは字音だろうと考えていたと告白する。理由としては、日本語の「エ」の意味が「役」や「疫」と重なりすぎるからだ。
でもよく考えてみれば「役」の意味の「エ」も、「疫」の意味の「エ」も共に古い言葉である。「役」はわが国の言葉と漢字音が同じである。このように両方の言葉が同じだったり、また似ることは稀にはあることだが、全部向こうから伝わったと考えるのは誤りである。
まとめとして、「疫」の字は「役」から転じて生まれた(「疫は役也。言は鬼有りて役を行う」『釈名』)、わが国の「エ」の場合と発想は同じである。「エ」については漢字音由来説は誤りである、と結ぶ。
今は、たとえば『新編日本古典文学全集 古事記』で、「エ(疫)+ヤミ(病)。エは「疫」の漢字音に由来する語で、悪性の流行病を意味する。「役」の字は「疫」字に通ずる」とあるのを見て、また『岩波古語辞典』で、「「疫」の中国北方の字音yekのkの脱落したもの」を確認して次に進むのだろうが、それに比べると『古事記伝』の記述のなんと豊かなことか。真淵説に幻惑されそうになりながら、踏みとどまり考える。強制労働の「役」と流行病の「疫」を同じ感覚で捉えていた古代人の思考にまで遡り、日本も大陸も共通する発想法に思いを致す。
同じ言葉があるからと言って短絡的に伝播したとは捉えない。向こうから伝わってきたと捉えた方が楽だし、説得力もあるのだろうが、それは思考停止である。宣長はそれを拒絶する。私たちは、宣長の考え方の推移をたどることで、試行錯誤を重ねることでしか見えないものがあることを知る。これが『古事記伝』を読む楽しみである。
「行病」。この一語を解くのに宣長はどれだけの時間を費やしただろう。メールの方の数時間は決して長くはないと思う。
2011.3.1
◇ 小林秀雄「本居宣長」 | #006 |
日本経済新聞 2011年2月19日夕刊「文学周遊」254回では、小林秀雄の『本居宣長』が取り上げられた。
この本が出たときの小林秀雄の名言・迷言は色々伝えられているが、 今回も、その一つ、値段の話から始まっている。
奥墓での小林の感想を伝える担当編集者・池田雅延さんの証言も貴重。
限られた字数で豊かな情報を盛り込むこの記事の執筆は、編集委員の浦田憲治氏。
また写真は、大変珍しいが、雪の本居宣長旧宅(鈴屋)。
これとほぼ同じアングルで、梶井基次郎が旧宅をスケッチをしていたはず。
「城のある町にて」は、この松阪滞在中に取材する。
また、「文学周遊」の中に、折口信夫の、有名なセリフ
「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」
が引かれている。
この会話の場に立ち会った人が一人お見えになる。
歌人の岡野弘彦氏である。
今年、4月16日の第28回鈴屋学会大会公開講演会では、その岡野氏をお招きして、
「古事記と源氏物語-歌と物語の文学伝統-」でお話しを頂く。
本が刊行された時に本居宣長記念館が講演をお願いした。
その時の小林氏の返事は、
宣長さんについては、全部あの本に書いてあります。
もう話すことはありません。
あの葉書はどこかに行ってしまって記念館に残っていないのが残念である。
2011.3.8
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「禍津日(マガツビ)の神の御心の荒びはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」 『直毘霊』
宣長の『日記』を読んでいて胸が痛むのは、災害の記事です。噴火や飢饉、大火、水害など、宣長は知り得た情報を短くまとめ記録しました。
天明7年(1787)、天明の飢饉は最期のピークを迎えます。年が改まって天明8年、京都は前代未聞の大火に襲われました。その復興が一段落付いたかと思われる寛政4年(1792)にも、凄惨な記事が続きます。
情報の伝達で記載は前後しますが、まず5月17日に大坂が大火。6月には、4月の九州の島原の噴火の惨状が伝えられました。
「四月朔日、肥前国嶋原大変。城辺の高山は裂け崩れる。火炎が出、大水が涌きだし、同時に海浪は城下に押し上がり、町家ならびに海辺の村十七か村悉く流失。右の分人数二万七千余人の内、存命は半分。是また多くはけが人なり。残りの分は流れ死ぬ。城大手門際まで崩れ、城内は別儀無し。城主松平主殿頭殿あらかじめ城を出て、近郷に逃れ存命」
とあります。
7月の水害では、宣長の家も浸水しました。
「十三日、風雨大洪水。御郡奉行屋敷裏の堤切れ【十間ばかり】、右屋敷、町奉行屋敷、そのほか殿町御代官所辺まで水多く押し入り、大いに荒れる。御町奉行所門流失。魚町の上鎌田屋土蔵一つ流失。同家借家二宇潰れ。魚町三丁目まで水入り。二町目ことに甚だし。そのほか本町大手より下、中町半分余り。工屋町、紺屋町等水入る。瓦の薬師前上の方の堤切れ【少し】矢下小路へ水入る。岡寺の門柱の礎四本の下が流れ抜け、当家宅も水入る。床上一尺ばかり也。先年二十年以前の水入に四五寸ばかり低し。同日、海辺の大口浦より南方、志摩国鳥羽辺まで高波押し上げ、二見浦其の外民家多く流失。鳥羽城大いに損ず。北風故北方浦々は指したること無し。当邑の水入りは、申の刻から酉刻後に至る」
これは台風でしょうか。宣長宅は床上30センチの浸水で、時間は夕方でした。
松坂の地名は、
「宣長さんの松坂地図」で確認してください。
宣長の住む魚町一丁目は坂内川河畔の町。すぐ上手の殿町、今の松阪市役所裏の堤防が決壊し水は町を洗いました。沿岸部の被害は甚大だったようです。
また、同月21日に江戸で大火事があったと言う話が聞こえてきました。
簡略な記載だけに、かえって天変地異の恐ろしさが伝わってきます。
200年後の今、文明はずいぶん進みましたが、私たちの生活が脆弱な基盤の上で営まれていることに変わりはありません。悪の帝王である禍津日(マガツビ)の神の暴虐には抗うことは出来ないのです。
宣長は国学の大成者だと言われます。
「大成」とは、単に契冲と真淵の学問を融合し進歩させたというだけでなく、社会的な責務を果たすことが求められるほど成熟したということでもあります。人々の安心、社会の出来事や外交など、身の回りのこととも積極的に関わる学問となったのです。
不条理から目をそらすことはできないのです。
罹災された皆さまに、心よりお見舞いを申し上げ、いち早い復興と平安を祈っております。
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幕末、明治初期に伊勢国射和村に竹川竹斎という人がいた。宣長門人竹川政信を父に、荒木田久老を外祖父にもつ竹斎の多方面にわたる活躍はよく知られている。たとえば私設図書館の先駆となった射和(いざわ)文庫の創設や、裏千家の茶人として玄々斎との交友、射和万古の窯を開いた。地元の小学生は、私財をなげうって射和上池の造築など村の産業に貢献したことを学ぶ。
皆さんは、勝海舟が咸臨丸で渡米した時の写真をご存じだろうか。勝が持つ大刀は竹斎から贈られたものである。開国論者としての発言や科学への関心の深さも最近では注目の的となっている。
竹斎を研究する岩田澄子さんとお会いしたとき、「吉葛園」についての質問があった。
「吉葛園」、よさづらのそのと読む。竹斎の三畳隅炉の茶室の名前である。『日本書紀』の「天吉葛神」に由来するのであろうこの「吉葛」だが、上質の葛で澱粉の原料だなどと注釈されるが、はたしていかがか。
私見だが、それは戦後の知識であり、近世ではたとえば宣長は「葛布」説(『日本書紀』手沢本)であり、賀茂真淵は「瓠」説(『祝詞考』)であった。祖父久老の心情を斟酌すると、竹斎は真淵説を採用しただろうし、また竹斎の「竹」も中が空洞で共通すると私はお答えした。
断片的で思い付き、回答の体を為さないものであったが、岩田さんはきちんと整理し、日記の標題が「瓢園主人」から「吉葛園日記」に変更されているという証拠まで挙げられ、「開国論者・竹川竹斎の茶に関する活動について」※の中で紹介していただいた。
「吉葛」のようなディテールはともかくも、この岩田さんの論文が画期的なのは、竹斎の主たる活動域全体を見渡すというところにある。
竹斎の茶道との関わりについては、既に『淡交』(平成6年12月号)等茶道関係誌でも取り上げられ、最近では永井謙吾氏の『茶人竹川竹斎とその周辺』(平成21年10月・私家版)という本も刊行された。永井氏は、茶会記を読み込み、道具の目利きでもあり、何より茶をこよなく愛される人だけに力のこもった一冊である。また一方には、竹斎を初めとして伊勢の茶道史を広い見地から捉え直す戸田勝久氏の丹念な研究があり、両方が合わさると豊かな内容の茶道史が描けるはずである。
しかし竹斎の目は、茶道だけに向けられていたのではない。茶陶や茶の葉の栽培、可能性としては静岡県牧之原台地の茶業にまで拡がるものであった。
いち早く近代を見据えていた竹斎。その号に国学者の知識、また宣長と真淵、久老という人々の影、つまり近世の文化伝統が見えるのは、教養の厚さを物語るものであり、興味深い。
※『茶の湯文化学』第18号 平成23年2月20日 茶の湯文化学会編集・発行
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突然、谷川士清の『和訓栞』を刊行した秋足の名前が出てきたからだ。
秋足の名前は、士清の話の中でしばしば耳にするが、まさか「ちょうちょ う」と関係あるなどとは思わなかった。事績も聞いたことはない。また、唱歌を調べる人も『和訓栞』刊行の功労者とは、あまりご存じないだろう。
現在は、問題意識や情報を共有することが簡単にできるだけに、昔とは違った研究の展開が期待できそうだ。
来年2012年は、『古事記』成立1300年。年度では平成24年度が多いようだが、記念の行事が始動し始めた。
何周年という年を祝い、記念行事を行うことは今に始まったことではないが、官民が一体となって多彩な催しが繰り広げられることがますます盛んになってきたようだ。
今から10年前、2001年、宣長没後200年でもさまざまな行事が行われたが、心残りは行事の全体を記録したものが、関係者に配られたコピー の束だけで、それも全体を見渡すものではない不充分なものだったことである。本当は記念館で作らねばならないものだったのだろう。今、悔やまれてならな い。
2009年3月、三重県津市では谷川士清の生誕三百年を記念して、「士清ウイーク」が開催されたが、このたび記念誌『士清さん−谷川士清生誕三百年 記念誌−』がまとめられた。とてもうらやましい。
内容は、論文集と顕彰事業報告の二部立て。
論文集には次の九篇が載る。論文とは言っても巻頭の私のものなど概説で、「論文集」は、論文と文集と理解していただいた方が正確だろう。
「谷川士清と本居宣長」 吉田悦之
「国語学史上の谷川士清」 山本真吾
「『和訓栞』の諸本と使用上の注意」 三澤薫生
「士清の立ち位置」 高倉一紀
「『日本書紀通証』における引用出典の確認」 山口格
「医人としての谷川士清を考える」 杉山陽一
「谷川士清旧宅の解体修理に関して」 茅原弘
「消えゆく江戸」 西田久光
「谷川士清と僕」 安田文吉
顕彰事業報告には、イベントの写真や子どもたちの作品、また資料展の報告には、士清の基本資料である『阿漕雲雀』や石水博物館収蔵史料の写真も入り充実している。
北岡四良の研究(『近世国学者の研究』)以降しばらく停滞しているかに見えた士清研究だが、1999年には谷川士清の会が発足し、石水博物館で は「谷川士清展」が開催された。また、士清手沢本『素問』・『霊樞』など資料の発掘、三澤薫生氏の『和訓栞』の研究など、めざましい成果を上げている。
だが、士清における未解明の問題もまだまだ多いことが、この九篇を読んでもわかる。
記念事業は終わったが、今回の顕彰事業の牽引役となった「士清の会」 の活動は今後も継続されていくと聞く。また、研究もゆっくりとではあるが確実に進んでいる。一つの提案がある。
士清のデータベースの構築である。
私は、『和訓栞』は、国語辞典と言うより士清のデータベースと考えた方が相応しいのではないかと思う。知り得た情報を五十音順に配列して公開したのだ。その恩恵に浴したのが宣長だ。
本居宣長の資料を探していると、士清に関わるものを目にすることがある。
また垂加神道、出版、また考古学史、それぞれの領域で研究が進み士清の名前が出てくる。古書目録にもすばらしい資料が出ることもあるし、先ほど の野村秋足の情報などもある。このように関わりあるものを細大漏らさず集積して、データベースを構築してはどうだろうか。私はこれを士清にかこつけて書い ているが、他人ごとではない。
急務は、宣長のデータベースの構築である。
本居宣長記念館には、今も年に何件もの資料寄贈がある。最近では、故簗瀬一雄先生の収蔵品の一部が搬入された。植松茂岳や賀茂真淵の画像、村田 春海差出宣長宛書簡などが含まれる。宣長資料についてはもちろんだが、近世国学資料も益々充実している。このような一次資料にあわせて、関連する資料や情 報もどんどん集まってくる。
次の問題は、その利用の方法だ。集められたものは、このホームページなどを使って積極的に公開したいと考えているが、将来的には、データベースの構築という夢を持っている。
ただそれがどのような形が望ましいのかは、まだ茫漠として形になっていないのだが。
この変わった真淵像には、 文化3年の橘千蔭の賛が添えてあります。
橘千蔭、加藤千蔭ですが、真淵の高弟です。
だから、この真淵像も似ていないと一蹴することはできません。
この像は、国文学者簗瀬一雄先生の旧蔵品です。ご子息から寄贈されました。
賛の歌は、
「もろこしの人に見せばやみ吉野の吉野の山の山桜花」
という真淵の有名な歌です。
実は、宣長にもよく似た歌があります。
「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみ吉野の山」
宝暦10年、「松阪の一夜」が宝暦13年ですから、
真淵と対面する3年前の作です。
この歌を見るたびに、歌の難しさを思います。
更に更に、他の人にもよく似た歌がある。
それについては拙稿「宣長と画賛」で触れました。
山桜の美しさが、高麗唐土(朝鮮半島や中国)と対比されるものであることは、
四十四歳自画自賛像の歌、
「めづらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」
からもわかります。
「もろこしのひとにみせばやみよしののよしののやまのやまさくらばな
県居大人は山城賀茂成助県主の裔にて承久三年
山城より来りて遠江敷知郡浜名岡部の賀茂の御
社の祝と為れる師久主より七代に当りて掛まくも恐
きかも
東照らす大御神の将軍に従奉
依て厚く賞させ給ひし政定主より五代の孫なり彼
大神の五継の御跡に御座す田安の殿に
皇御国の書の道の博士として延享三季より
奉ぬ宝暦十年仕を退給ひ明和六年十
月三十日になも齢七十余三にして身罷給ぬ
文化三年正月二十七日、橘千蔭謹書」
2011.7.19
平成25年春の企画展に、 古田氏とは、松坂城3代城主重勝、4代城主重治の一族だ。 そもそも、大平が古田氏を調べるようになったわけは、 また、順適自身は後妻のつねとの間に生まれた導孝と隠居して稲懸(掛)を起こした。 順適(是法)-須賀松-はつ-直見 では寿春とは誰か。 重勝の子が重恒、浜田2代城主。 ここから大平の古田家調べが開始された。 このあと松崎浦の海禅寺の文書記録が転写されたりもしている。 古田騒動は、あまり良くない話なのだが、重勝の子重恒は引きこもり、しかも男色で寵愛していた家臣がいた。 宣長が盛岡藩の医師安田道卓に依頼して、九戸城合戦 で討ち死にした遠祖本居武秀を調べたように、 《参考文献》 |
2013.3.16 |
連休初日の4月27日、夕方、国士舘大学に学ぶ。 宣長の「端原氏城下絵図」とその系図や、米粒大の文字で記された京都文献集『都考抜書』を見て、 マニアックだとかオタクを連想することはあっても、 ポップカルチャーまでは浮かばなかった。 「現代日本においてマンガやアニメなどのポップカルチャーの愛好者が「オタク」という少なくとも雄々しいとは言えない呼び名をもつことは決して偶 然ではないだろう。それは、どちらかいうと暗い印象を与える言葉であるが、しかしそこにあるのは、宣長にしたがえばむしろ「女々しく」あることによって自 由で窮屈のない表現の世界である。そしてそれゆえに、現代日本のポップカルチャーは、日本固有の文化的感性を越えて、いまや世界的に若者たちの共感を集め ているのではないだろうか」 確かに「女々しい」のもつマイナスイメージが、宣長によって逆転したことは事実だ。 イルマさんの論文には次のものがある アジア圏での宣長研究者は、韓国以外では、存じ上げない。 2013.4.30 |
一番最初のお客さんは、魚町長谷川家調査に各地から集まった専門家の方々。宿泊先の旅館の女将から、一度館長の話を聞いてきたらと勧められたそうです。
引き続いて、理事長を始めとして評議員、理事の人たち。私の話を耳にタコができるくらい聞いて頂いているメンバーですが、どうもいつものように舌が回らない。
開幕二日目の今日は、福岡からの見学者をお迎えしました。
興味関心の違う三つのグループに話してみて、説明が難しいと感じた理由がわかりました。二つあります。
一つは、用語、ケースタイトルの問題。
展示テーマとなっているのが「パール・ネットワーク」という耳慣れない言葉であり、また展示室に入ってすぐの9ケースには「宣長の幕の内弁当」と書いてあるので、見学者は、何これ?と立ち止まり首をひねります。
二つ目は、一つ一つの展示品が面白すぎること。
一つの史料で一席のお話ができるくらい、美味しい史料のてんこ盛りで、また興味深い箇所が開かれています。
但し、これはただ見学していてもおそらくわからない。キャプションは工夫してあっても、字数の制限もあり、しかも展示担当研究員はとても奥ゆかしい方なので、ごく控えめにしか語ってくれていない。
そこで私の出番。話をし始めるのですが、見学者の関心は、やはり全体より細部に集中してしまいます。
最初から変ですね。
霊気の集う鈴屋。杉坂董氏の絵です。
次が平田篤胤が描いたオノゴロ嶋(淤能碁呂嶋之歌)。何これ?
堂々とした宣長蔵の横には、いじけたような秋成像。
これらをまとめるのが、「パールネットワーク」と言う言葉です。
パールネットワークについては、またお話ししますが、人が出会いによって一層輝くことです。道麿と宣長の関係などまさにそんな出会いですね。
田中道麿の画像も久しぶりの公開です。
岐阜県の養老町出身ですが、年下の宣長に弟子入りして松坂に来訪、生まれ変わるくらいの衝撃を受けたそうです。
高本順の短冊が出ています。
順さんは、熊本藩校時習館第三代教授。今なら熊本大学の学長といったポストですね。
朱子学を信奉するバリバリの儒学者だけど、宣長の学問にも関心が深く、寛政9年には門人の長瀬真幸らを従えて鈴屋を訪れましたよ。
それも宣長先生の『菅笠日記』の行程をたどって松坂入りするという念の入れようです。
ちょっと短冊を読んでみましょうか、
詞書は「菅笠日記のみちをとめて鈴屋大人をとぶらひて」
歌は、「みよしのの花をわけてぞとひ来つる君がしをりの道のまにまに」
吉野の桜といえば西行の時代から、「奥ある桜」が大きな特色ですが、それを上手く使った歌ですね。
和歌のたしなみがあった、それは常識だったとはいえ、上手く詠んでいますね。旅行もこれだけ趣向を凝らすのですね。
ちなみににこの時のお土産は、『音信到来帳』を見てください、国府の煙草と筆でした。
『音信到来帳』には、出雲大社の千家清主の名前も見えますね。おみやげは「出雲海苔」か。
順さん一行を迎えた宣長も大喜びで、さっそく愛宕町の天神さん(菅相寺)を会場に歓迎の歌会を開きました。
真幸は得意ののどを披露して、催馬楽「席田」というお祝いの古曲を謡ったら、宣長からアンコール。
長瀬はそれを生涯の自慢として、宣長没後に熊本で開かれる追慕会では必ず披露したそうです。
隣が15歳のお嬢さん、帆足京の短冊です。
31年と言う短い人生の中で、松坂で父母と過ごした時間は、たった一つの輝きだったかもしれません。
案外、『古事記伝』書写の時の見事さで大先生・宣長をびっくりさせたことが、一番楽しい思い出だったのかもしれません。
「やったぁ」という感じですね。今風の解釈ですが、でもそう信じたいですね。
これも、パールネットワークです。
さて、あら竹さんの駅弁くらいおいしい「鈴屋特製・幕の内弁当」。
これについては、次のお話しとさせていただきます。
少年宣長の関心の有る無しが一目でおわかりいただけるでしょう。
好きな物は、鈴に桜に、和歌、源氏物語と数々ある宣長ですが、
まず桜。
「桜石」は、断面が桜の形の石です。コレクター趣味はない人だけど、
これは紙に包んで大事にしていました。
栞。宣長の吉野の桜の歌を、清水浜臣が書いています。珍品です。
分け見ばやしをりも花の吉野山なほ奥深くにほふこずゑを 宣長
栞にもあるように、桜といえば和歌です。
歌については、『和歌の浦』です。これは、10代から20代前半の和歌学習ノートです。
ページを埋め尽くす細かい字は、『曽丹集』や『住吉物語』の引用文です。
『源氏物語湖月鈔』は宣長の愛読書です。今回は、「絵合巻」を出しています。
なぜかな? 回答は次のケースにあります。
さて、では宣長の根本思想は、というと、
日本には、日本独自の価値観や世界観があるということでしょう。
『古事記』を研究した目的もそこにありました。
『神器伝授図』はその着想の最初のものです。ものすごい早熟ですね。
いやいや、自分の目を持っていたら誰でも気がつくことですが、みんなその目を失っているだけです。
また『直霊(なおびのみたま)』は、その結論です。
42歳の時の、とても美しい筆跡もあわせてごらん下さい。
このケースの展示品の最後は、芝山持豊卿からいただいた扇です。
美しい花の絵です。一見、オミナエシのようでもありますが、花の色が違います。
前回の「宣長探し」では、今回の展示は、一つ一つの展示品が、しっかりとした物語を持っていて、全体の説明が難しいと書きましたが、帆足京、田中道麿、クラゲなどの物語の幕間に、頭の中を整理して、また楽しんください。
一杯詰め込んであって、とても見応えのあるケースです。
◇ 新上屋跡の碑 | #015 |
賀茂真淵と宣長が対面した記念の場所「新上屋」の跡に少し動きがある。 これまで記念館に移設されていた初代、二代の両碑が日野町のもとの場所に戻るのだ。 この場所は、1953年(昭和28年)に史跡に指定されたが、初代となる碑はすでに1940年に建っている。 場所を確定したのは郷土史家の櫻井祐吉氏の業績だ。その経緯を、同氏の著作から引いておこう。 「昭和二年十月某日著者の一友人安田信三氏によりて、一の端著(緒?)を得、越へて同年十一月十二日夜又他の知己故古川伊兵衛氏の発見によりて 「新上屋」は日野町の名族にて享保十六年二月十九日を以て行はれた、日野町今の県社八雲神社の遷宮祭の際父子両人にて宝物を棒持せる芝山惣太郎、同宗太郎 なることの文献を同神社の縁起由来中より見出し茲に此の☆(門に単)明に従事して寔に二十年 おおよその内容は、まず新上屋の主人が芝山氏であることが分かった。安田氏の話でほぼ場所も特定できたので、その説を発表した。ところが『宝暦はなし』と言う本で、その説の間違いに気づいたので訂正することが出来た。 櫻井氏は、その後にも再びこのことを書いているので併せて引いておく。 「昭和二年十一月十二日友人一二の協力を得て、該新上屋なる旅籠屋が松阪日野町に存在し其の氏名が芝山惣太郎と称したことの文献を発見したが地点 の確たることには猶一抹の不安ありて引き続き研究する裡その後昭和五年三月由緒なくも松阪西町の人森壺仙(山村次郎兵衛二男幸次郎)が文化八年二月著述の 自筆の未刊草稿本「宝暦ばなし」を山村家整理の際筐底より筆者が発見し此暑中の記事と挿図に依りて新上屋の地点が明らかに示され夫れは伊勢街道日野町十字 路より西側今の紙商やぶ庄竹内家の西隣り即ち第三相互銀行控地なること歴然として知られ、こゝを東に二軒隔てゝ今の岩井煙草店が当時はこの真淵宣長の初対 面を斡旋した書肆柏屋兵助であることに徴し愈よ動かすことのなき史蹟であり而も現在松阪市中央最殷 盛地であることの偶然を想起すれば思い央ばに過ぐるものある所知るべきである。今第三相互銀行コンクリ塀に史蹟の指定を標示し昭和二十八年十二月八日市の指定に依る史蹟である」 発見の経過や新上屋の末裔についてなど、詳しかったり逆に省かれたりと、全く同一内容ではないが、もちろん両書に矛盾はない。 追記しておく。 「当時著者は愉悦極まりなき侭にそのこゝに至れる次第を説きて世に公にせしより」 とあるが、 その頃であったか、小泉館長が中国を訪問された。土産話の中で、「碑林」が話題に及んだとき、ふと放置されている碑や、ガードレールに押し込まれた無惨な菅笠日記碑のことが思い浮かんだ。 松阪の一夜250年の今年、ある人が、この碑は日野町にあるべきじゃないですかと言い出されたので、記念館としては結構ですが、相手のあることですからと返答したら、 早速に日野町の土地を管理する市商店街連合に話を持ち込まれ、宮村元之会長の賛同を得て、元の場所への移設が決まった。 だが石は燃やすわけにはいかない。 松阪市黒田町の和歌山街道と熊野街道への分岐点の大きな道標も、要らないと廃棄され、役場の踏み石にされていた。 だいたい、碑を廃棄することなどは記録には残さない。 |
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12月22日、記念館の在り方を考える意見交換会が開かれました。 |
さて、話し合いの大前提として私は |
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現在開催中の 『やちまた 父と子の旅』展 は、宣長が代筆した春庭の歌と、宣長の父定利の遺言状で始まる。 2014.1.15 |
今回、記念館の展示の仕方を少し変えました。 何が変わったのか。 変えた理由はいくつかあります。 では、わかりやすく解説を書くとどうなるか。 さらには、解説だけ読んで、かんじんの作品や史料を見ない人も出てくる。 理由の二つめは、死んでしまう作品や史料を少なくするためです。 さて、今回の展示ではこういう小見出しが20余りあります。 |
当時の解説は、今もきちんと五十音順に整理されて、館長室に置いてあります。 かなりの量なので土蔵に移そうかとも思うのですが、見てください、内容も濃いし、字も見事ですね。 (当時の職員の字です) たまに出してはながめています。 いろいろ考えさせられます。 展示の仕方というのは、本当に難しいものです。 2014.3.22 |
夏の特別展 ホンと!宣長 関連イベント |
次のイベントは、9月7日、講演会です。
講師は、新進気鋭の研究者、信州大学速水香織先生
「江戸時代の出版文化-知の広がりと宣長-」です。
予約は必要ありませんが、
会場が狭いので、事前に声をかけていただくと席を確保しておきます。
終了後に、特別見学会も計画しております。
もちろん、これはジオラマです。
かなりよくできています。
今、博物館の世界ではジオラマにはちょっと距離を置く傾向にありますが、
宣長くらい資料があると、
作ってみるのも面白いかもしれません。
本居宣長記念館は、建築から満43年目を迎えた昨秋、耐震診断を遅ればせながら実施しました。
強度はかなりありますが、松阪市の公共施設の基準には達していません。
近く、補強計画を立てて、工事を行う方向で検討していますが、
修理や補強だけではだめだというみんなさんからのご意見を尊重し、
リニューアルも検討しています。
収蔵庫と展示室は対象外となりますが、
1階や2階の講座室で、
例えばもっと宣長世界を体感できるような、
仕掛けは出来ないだろうかなど考えています。
柱掛鈴を鳴らしてみる。
薄暗い部屋の中で、宣長の源氏物語講釈の声を聴いてみる。
などなど。
今の記念館は、21世紀から、階段を上がると、突然『古事記伝』自筆稿本の18世紀へとワープするので、
頭の切り替えをしていただく導入部分です。
階段そのものが、時間を遡るように出来ると面白いのですが。
例えば、このような「鈴屋」の中を見てもらう工夫も候補の一つです。
要望が多いのです。鈴屋の中を見たいという。
ぜひ皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
提供は、近代文学・美術研究家の山田俊幸氏(帝塚山学院大学教授)です。
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最大の特色は、読みやすいこと。
宣長の47の言葉に、1ページから3ページの解説をつけていますから、
どこから読んでもかまわないし、一項目は数分で読めます。
これは著者の手柄ではなく、宣長のお蔭です。
宣長の言っていることは、ごく普通のことで、体験、経験に裏付けられていて、表現もシンプルだからです。
たとえば、
医者宣長が教える病気にならない方は、食べ過ぎるな、体を動かせ、くよくよするな。
『古事記伝』の著者として教える勉強の方法は、目標を立てて継続すること。勉強法は問題ではない。
世の中を改革する提言を求められると、世の中の間違いに気付いても無理に改めようとするな。500年、1000年というスパンで考えよ。
これだけ聞いているだけだと、当たり前すぎて、有難味がないと思われるかもしれませんが、 その当たり前のことを、古典や歴史への深い理解で見つめ直し、実行したのが宣長なのです。
一つひとつは当たり前でも全部揃うと、ものすごい力となるのです。
執筆のきっかけは、松阪市観光戦略会議(市主催)での、委員からの宣長本を作ろうという提案です。
本を読んだ人が、
「松阪」ってすごいと感心して、今度の休みは松阪に行こうと思ってもらえる本が作れないかというのです。
ターゲットはビジネスマンです。
コンセプトは、わかりやすく、短時間でも読めること。
松阪は、三井を始めとする松坂商人を輩出し、松阪木綿、松阪肉というブランドを守る「商業」の町です。
また私がいつも口にするのが、
「宣長は学問の流通革命をした人だ」
宣長の手法は、学問だけでなく、ビジネスの世界でもずいぶん役に立つという確信があったのです。
まず生まれたのが、
『宣長の目、松阪の魅力-本居宣長の25-』でした。
これは、松阪経営文化セミナーなどでテキストとして使用されました。
珍しい写真も多く、無料だったこともあり、数千部がまたたく間に消えてしまいました。
でも、セミナー参加者以外にも読者層を広げられないか? とか、
こんどは宣長の世界に特化して、詳しく、しかもわかりやすく、価格も安く、どこでも買える本は出来ないものかと思案して、 出版社からの持ち込み企画を検討した結果、
創元社のプランとほぼ一致!
実現に至ったのです。
I 生きる信念
II 「物のあわれを知る」
III 「心」と「事」と「言葉」
IV 「物学び」の力
に分類されます。
ぜひご一読ください。
全国の書店で発売中です。
定価(税込) 1,296円
刊行年月日 2015/05/08
ISBN 978-4-422-80068-4
判型 新書判 182mm × 103mm
造本 上製 208頁
◇ 「上手すぎる」と「ていねい」- 宣長の真贋と資料の寄贈 | #024 |
昨日(6月2日)、平成27年度第1回公益財団法人鈴屋遺蹟保存会理事会が開催され、平成26年度事業、決算報告が審議、可決されました。会の終了後、理事長である山中光茂松阪市長から、
「宣長資料の真贋、寄贈に関して、有る市民からこんなことを言われたよ」と話がありました。
市民の方の話というのは次のようなことです。
宣長の資料を、記念館館長に見てもらったら、
上手すぎるから違うと言われて、残念だった。
良いものだと言われたら寄贈したかったのだが。
それに対して市長(理事長)は、
大事な物を寄贈していただいても
いつも展示するというわけにもいかないと言う判断が館長にはあったのではないか。
真贋については分からないが、
大切にされたらどうでしょうか、
と返答いただいたそうです。
報告を聞いて、私は実に適切なフォローだと、理事長の対応に感謝しました。
さてその次です。
理事長は、
その方もおっしゃっていたのだが、上手すぎるというのはどういうことか。
ふだん館長は、宣長の字は上手いと言っているじゃないか。
ちょっと解せないなあ
と言われました。
個人的な感想ですが、理事長は、大変熱心な展示室の見学者でもあり、
また本屋でも宣長関係の本を見つけると、さっと読んでしまうような方です。
記念館開館後45年間、市長としては五人目ですが、私の印象では、最も熱心な宣長ファンでしょう。もちろん記念館建設を企図し、途中で倒れた梅川文男さんは別ですが。
だから市長として市民の意見を聞くということだけでなく、個人的にも、ないがしろにできなかったのでしょう。
これに対して私は次のように答えました。
まず、大原則として、寄贈いただく作品や資料は、所蔵者にとっても、また記念館や、市民にとっても宝ですから、
責任を持って保管し、また活用を図る必要があります。
そこで、展示にふさわしくない内容、また保存状態の物はお断りすることになります。
せっかく寄贈したのに展示されないという苦情が出ることは必定です。
これは実に色々あります。
一番頭が痛いのが疑問作です。
贋作か否かは、正直なところ、判断が付かないものがあります。
ちなみに判断が付く物もあります。宣長の贋作を専門に作っていた、と言うより贋作ではなく模造品を作りお土産で売っていた人がいます。
その代表的な物が「センチョー手」です。
これは見れば分かります。
実は記念館でもこれらを「参考品」として収集しています。
明らかな贋作でない場合には、いくつかのチェック項目があります。
たとえば、文字の誤り、特に仮名遣いの誤りは要注意です。
屏風や扁額は仕方ないのですが、保存状態が悪い物も要注意です。
行の中心線の揺らぎや筆順なども考慮すべきものです。
しかし、一番大切なのは最初の印象です。
理事長から質問があった、「上手すぎる」という表現も、
この印象を説明するときに使います。
宣長の字はていねいで美しいと思います。
しかし、書家の字ではありません。「上手い」のとはちょっと違います。
筆が走る、流麗な筆跡も皆無とは言いませんが、慎重な検討が必要です。
山中理事長と展示室を周りながら、
「宣長の字は上手いのではなく、ていねいなのだ」という説明をしました。
最後に、理解していただけたかそれとなく確かめさせていただきましたが、正解でした。関心の深さなのか、政治家として本物か偽物かを見抜く資質が備わっているのでしょうか。内心、驚きました。
私の所には、うちにある物を見て欲しいと、個人の方、業者が来訪されます。
鑑定はしませんが拝見はします。
また、読んであげたり、感想を求められたらお答えすることもありますが、
大半の人は、展示室をごらんになっていません。宣長には関心がないのです。
ぜひ見て自分の目で確認いただきたいとお奨めするのですが、残念なことです。
そこで思い出したことがあります。
小林秀雄の担当編集者だった池田雅延さんのお話です。
小林さんにおける「骨董」は、「文学」、「絵画」、「音楽」と並ぶ重要なものだと池田さんは話されました。
この場合の「骨董」は、美の対象として選ばれたものです。
感動を得るわけだから、美術館の収蔵品であろうと、商品だろうと、他人の持ち物だろうと関係はありません。
しかし「骨董」を見る目には、別のものもあります。
たとえば私などはまず「史料」として見ます。
この場合は、真贋もですが内容が大事です。場合によったら写しでも、写真でもかまいません。
また、「お金」に見える人もいます。
本物か。いくらするのか。
驚くことに展示品を見ながら、金のことを考えている人もいます。
宣長だろうが何だろうが関係ないのです。
学芸員は、これら三つの眼を兼ね備えていないと務まりません。
これは果たして展示や収蔵に値するものなのか。
史料としての価値はあるのか。
そして、最後は金額(評価額)です。
ちなみにこの順番で見ないと、大失敗することがあるというのは、私の経験で間違いありません。
記念館には毎年、数点の寄贈品があります。
「ふみの森探検隊通信」で随時紹介していますが、
それらはすべて自信を持って見ていただける良い作品、価値のある史料ばかりです。
ぜひ記念館展示室で、選ばれた良い作品をごらんになって下さい。
◇ 宣長と小津安二郎をつなぐもの | #025 |
「映画監督 小津安二郎の源流-小津家の文化・家族との絆-」展(2015年6月23日~7月5日:松阪市文化財センター第3ギャラリー)のオープニングで講演しました。
話の前段は、次の二つのことばをと二つの用語で構成しました。
まず、
「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテー マは"ものの哀れ"というきわめて日本的なもので、日本人を描いているからには、これでいいと思う」(松竹『小津安二郎 新発見』)
それと、
「品性の悪い人だけはごめんだは。品行はなおせても品性はなおらないもの」
という『小早川家の秋』(1961)の中の台詞。
いずれも有名な言葉です。
それを考えるために二つの用語を使いました。
「テイスト」と「イマジュリ」です。
「明治四〇年頃に新たに「趣味」に加えられた「taste」という概念は、「おもむき」とも「hobby」とも異なる意味であった」 (神野由紀『趣味の誕生-百貨店が作ったテイスト』)
「イマジュリ(大衆的複製図像)」(山田俊幸『大正イマジュリの世界』)
このテイストとイマジュリという用語を使って、先の二つの言葉の底流、つまり小津安二郎が松阪で過ごした10年の持つ意義を考えてみたのです。
子供の教育は田舎でという父寅二郎の判断で安二郎が母や兄たちと松阪に移り住んだのは大正2年(1913)。安二郎9歳の時です。
大正2年といえば、三越の浜田四郎が「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチコピーを作った年です。
翌年の3月には、芸術座、帝劇で『復活』初演。劇中の松井須磨子「カチューシャの唄」大流行。4月、宝塚少女歌劇団初演。歌劇「ドンブラコ」上演。10月、竹久夢二、日本橋に「港屋」開店。
そして、松阪と関わりの深いところでは、10月1日には三越呉服店(三越)日本橋本店新館落成し、倫敦トラファルガー広場ネルソン記念塔に倣うライオン像設置されたのです。
つまり少年一家は、父親から離れ、大正イマジュリということば、あるいは三越好みというテイストに象徴される東京から逃れるように父祖の地であるこの地方の小都市にやってきたのです。
当時の松阪町は、江戸時代の経済的な成功を背景に醸し出された文化が終焉を迎える、最後の光彩を放つ季節だったのです。
少年は小学校を卒業し、第四中学校に入学。問題を起こしながらも、神楽座で映画の面白さを知るなど夢のような時を過ごし、卒業。受験に失敗し浪人。飯高の山里の小学校で代用教員を一年して、大正12年、東京に帰ります。
帰った年の夏に松竹蒲田に入社。直後に関東大震災で繁栄の大都市は灰燼に帰するのです。つまり安二郎は、大正期の東京を知らずに過ごすのです。
一方の松阪もまた大きな転換点を迎えていました。
豪商長井家の所蔵品売り立ては、叔母の家のこととはいえ、少年の与り知らぬ事ですが、頻発する小作争議など不穏な空気は伝わってきます。
そして安二郎が去った直後の6月16・17日、養泉寺で開かれた「松阪資料展覧会」(319種出品)を最後に、良き時代は終わるのです。
大正14(1925)年1月3日、餅のプライベート博物館「餅舎」主人・長谷川可同(58歳)の死はそれを象徴する出来事でした。
安二郎とは入れ違いに松阪にやってきたのが梶井基次郎。
大正13年8月、基次郎(23歳)は松阪でひと夏過ごします。その体験が、「城のある町にて」という一篇の作品に結実します。
これが、三井高利や本居宣長を生み、滝沢馬琴や裏千家の茶道の庇護者となった「松坂」、その紙碑となったのです。
つまり小津は爛熟の東京ではなく、終焉とはいえ、まだ豊かで静かな空気が漂う町で多感な少年期を過ごすことが出来た。
本家の土手新には西荘文庫として珍籍稀書や300点余りの円山応挙作品があり、
叔母の嫁ぎ先の長井家の主人は謡曲に入れあげていて、最も親しかった友人、乾の家には凹邨文庫という図書の山があったのです。
もちろんいくら本好きとはいえ、少年には関心外だったはずですが、しかしそんな雰囲気が町にはあったのです。
そんな中で、時には松坂城址の鈴屋に遊びながら、安二郎は成長していったのです。
そのあとは、暗い東京での生活が続くことを思うと、何と豊かな十年ではなかったかと思います。
これがその世界観、価値観にも作用していることは、まず間違いがないでしょう。
後段では、その土手新の小津久足を取り上げ、松阪人と宣長の関わりを考えました。
最初に引いたことばにもあるように、小津は「もののあはれ」という言葉を使いましたが、そんなに深く考えていない、つまり宣長との直接の関わりは無かったと私は見ます。
宣長の学問を見出し育てたのは、松阪の町人たちでした。
暇とお金を持つ豊かな商人たちが寺の塔頭などで開くサロン、「円居」が宣長学の揺籃となったのです。
しかし宣長が古学に進むと、町の人々の興味との乖離が始まる。
ちょっと違うと思い去っていく人もいる。和歌だけと上手く距離を取りながら交わりを続ける人もいる。その中で、はっきりと言ったのが、小津久足だったのです。
天保11(1840)年、久足(37歳)は松島見物に赴き、紀行『陸奥日記』を書きます。
その中で、宣長学批判を展開。
「われをさなきよりして歌道に志し深く、むげに心なき言葉どもいひちらしたるが、つひに種(くさはひ)となりて、ただ腰折にのみ月日をいたづらに 暮らししも、廿余りの程は、傍ら古学にも志ふかかりしかど、ふt疑ひおこりて、古学といふことは、昔より聞こえぬことなるを、近来つくりまうけたる道な り、と思ひあきらめしより、大和魂、真心、漢意などいふ、おほやけならぬ名目の傍ら痛くなりて、私のみ多きその古学の道はふつに思ひを絶ちて、その後は、 とし久しく、ただ歌詠むことゝ、風流をのみ旨と楽しめり」
「雪月花、山水の境に暮らせば、心不平ならず、楽いと多くて、俗臭深き本居門には稀人なりと、我から誇らしきまでにて、もし今までも古学まもりなば、年々山水の勝をさぐらず、ただ机の上にのみ苦しみて、井蛙のたぐひとなりぬべきを」
宣長の学問を明快に拒絶するのです。これについては何れ、久足という人のパーソナリティーをも含めて検証するつもりです。
安二郎はそんな空気の中で自分を見つけていったのです。
「しき島のやまと心を人とはは
朝日ににほふ山桜花、
此歌はみつからの像の上にかかれたる
うたなれは又かきたり、
わか大人のうつしゑ見れはうつしおみ
今のうつつにますことおもほゆ
大平」
箱書は、
「大平翁讃応震、鈴屋大人肖像」
「川端景庸主の吾師翁の御かたをものしておのれに此うはかきせよとありければすとて其ついてにかく、
さくら花ちりにしのちの木末にもなほにほひある朝日影かな、
城戸市右衛門大江千楯」
「懐書堂」
本紙 縦96.3糎・横30.0糎
川端景庸と懐書堂は同一人でしょうか。詳しくは分かりません。
さて、この画像の話を伺ったときに興味を覚えたのは、円山応震作という点です。
応震は有名な応挙から数えて三代目。
応挙-応瑞-応震
ちなみに応瑞は、「朝顔図」宣長賛(逸翁美術館蔵)が有名ですが、
応震は、記念館に賀茂真淵像があります。
この真淵像ですが、記念館での名称は「賀茂真淵像」ですが、箱書には「県居大人像、応震画」とあります。
実は収蔵庫には、箱だけしか残らないのですが、もう一つの円山応震の真淵像があります。
中身はないのですから、真淵像がありますというのも変な話ですが、
箱書は
「加茂大人像、円山応震画」、「大人明和六己丑年十月廿九日卒、文政八乙酉春。元貞謹蔵」
とあります。
箱が変わったという可能性はありません。
記念館蔵は箱の長さが41.1糎、長谷川元貞旧蔵は49.5糎で、軸の長さが違います。
では長谷川家旧蔵の箱はどうして収蔵庫にあるのか。
種明かしをすれば、殿町の長谷川紘一さんの土蔵から史料を頂いたときに、、
空っぽの箱でも、書かれた年次から何か参考になるだろうと考えたのです。
元貞は、魚町長谷川家の当主。馬琴書簡に所蔵の『東雅』を長谷川が買うとの知らせを歓び、また次のように言います。
「長谷川主ハ名ハ元貞、号六有とて、和漢の学者、風流家ニて、拙随筆玄同放言、燕石雑志なとも蔵弄あるよし被仰示、甚なつかしき心地せられ候」
(天保11,4/11付安守宛・『【日本大学総合図書館蔵】馬琴書簡集』P135)
この真淵像も、本居家のものと同じものであった可能性が高いと思います。
きっとたくさんお金を出したので、大きい軸が手に入ったのでしょう。
さて、寄贈頂いた宣長像ですが、
リニューアル後の展示の中でみなさんに見て頂く予定です。
ご期待下さい。
◇ 三重県立美術館「本居宣長展」への誘い | #027 |
◇ ああ、気の毒に
すべてのものが情報にしか見えない。
今の人たちにとって、本は情報の束ですね。電子ブック、一頃流行った「自炊」。文庫本なども出発点はよく似たもの。読めば終わり。いつの間にやら美術館の芸術作品も画像情報化してしまい、作品よりもキャプションで、「成る程ね」と納得。手紙とメールも重さが違いますね。もはや物と親密に対話する時代ではないのかもしれません。
本居宣長(1730-1801)の生きた時代は大違い。18世紀後半、文化は京や上方から東へ、そして地方へと拡がっていきます。浮世絵が登場し、学術書からコミック(黄表紙)、遊郭案内、名所図会と出版物も質量共に急増します。遠眼鏡や顕微鏡も出てくる。
平和で、ひとまず生活も安定すれば人びとは外の世界に憧れる。見る物、聞く物、何でも珍しい。本や絵画、地図、まずその存在に驚き、矯めつ眇めつ眺め、香りをかぎ、床の間に掛けてみたりふすまに貼ったり、写してみるなど、親しく接していたのです。
本は情報伝達が本来の目的だとか、地図は知りたい場所の確認ができればよい、絵はステイタスシンボルみたいに床の間や壁を飾ればよいといった実用的な発想は全くなかったのです。画像は、「いいね」「わかったよ」と斜めに見て過ぎゆくものではなく、対話するものだったし、地図を眺め写しながら、自分がその中に入って旅するのです。
メディアと人との蜜月だったのかもしれません。
遙々、熊本から松阪までやって来た帆足京(みさと)、15歳の少女は言葉も通わぬ異郷の地で何をしたか。それは先生の『古事記伝』をそっくりそのまま写すことでした。内容も大事だが、それよりも憧れの先生の本だという感激があったのです。故郷の山鹿の人たちに、「これが宣長先生の本なのよ」と、宣長の自筆稿本の質感を、まず伝えたかったのでしょう。
このピュアな感動を、今回の「本居宣長展」で取り戻して欲しいのです。
なぜ美術館で宣長展か、少しわかっていただけたかもしれませんね。
◇◇ なぜ美術館で宣長展なのでしょうか
先入観から自由になって作品と向き合って欲しい、
それには本居記念館や、博物館ではどうしても制約が出てきます。歴史の流れに位置付けることから逃れることが難しいからでしょう。その点、美術館なら自由度は高くなる。
物を見せるのにも上手下手があります。展示ケースの設えや照明とか、展示の文脈(並べ方)など、さまざまな要因が考えられます。でも、なんと言っても、やはりふだんから一級の美術品を扱っている担当学芸員のセンスのよさが決め手ですね。
作品と対話するにはしつらえも大事です。茶道具なら茶室のほの暗さ、壁の色、畳の柔らかさにまさるものはないでしょう。宣長の作品でも、場所が大切ですが、様々な形態の史料や作品ということを考えると、美術館という選択肢が浮かび上がってきたのです。
ずいぶん前のことですが、ある県立美術館に記念館から「本居宣長四十四歳自画自賛像」を出品したことがあります。その時、驚いたのは、展示空間が変わると見慣れたはずの作品が全く違って見えたことです。
また数年前には奈良県立美術館で「大古事記展」が開催されました。同じ年に、数百メートル離れた奈良国立博物館でも「古事記撰進1300年」展が開かれたのですが、学術的な奈良国立博物館と『古事記』世界の衝撃を伝える美術館では、作品は似通っていても、大きな違いがあったのです。
今回は、宣長の使った『古事記』が出ます。「ああ『古事記』ね、現存最古の歴史書で、これを宣長は研究したんだよね」ではなく、まず物として見て欲しい。
ずいぶん汚れている。たくさんの書き込み。附箋で本がふくらんでいる。色々な発見があるはずでしょう。これはそこらの古本屋の店先にある来歴の知れぬ本ではない、まぎれもない一流の研究者の使用したもの、本物であるから安心してその世界に遊んで下さい。やがてそこから、この本に向き合った宣長の四十数年という歳月が、実感できるはずです。
◇◇◇ 宣長スタイル
『古事記』の書き入れ、何人かの手が交じる中でひときわ輝いているのが宣長の筆跡です。見ればわかります。スッキリしている。この整った字を見るだけで学問の信頼度は高まるように思いますが、それはともかく、これは自筆稿本や画賛にも共通しています。几帳面というより、そこには一つの美意識が作用しているようです。それを私は「宣長スタイル」と呼びます。「本居宣長四十四歳自画自賛像」はその集約であり、近代日本画家の巨匠・安田靱彦、望月春江、宇田荻邨の宣長像にも引き継がれていきます。
「美しさ」と言えば、清らを尽くす『源氏物語』や『新古今集』の世界です。
今回の展示では屏風や絵巻で、宣長を魅了した『源氏物語』の世界に皆さんをご案内します。全国から集められた珠玉の「源氏絵」が並びます。古典と聞くと何かひからびたイメージを抱いてしまいますが、葵祭や参内する公卿たちを見てうっとりする宣長の「源氏」世界はきっとこんなきらびやかな世界だったはずです。だから人々は宣長の高度な講釈でも楽しめたし、時には時空を越えて紫式部が礼を述べに宣長宅を訪れたりもするのです。何の音も、香りもしない、モノトーンの世界ではないのです。
◇◇◇◇ みんなが ☆ とんがっていた △ 時代
宣長の住んだ伊勢国松阪は、「極彩色の町」です。豪商の町だからといって山吹色ではありません。曽我蕭白「雪山童子図」の鮮やかな色彩。この絵が描かれたのは、宣長と賀茂真淵の「松阪の一夜」があった翌年です。蕭白が大騒ぎをしてひんしゅくを買う、僅か300メートル離れた所で、『古事記伝』執筆が開始されたのです。でろりとした質感の鴨川井特は、宣長宅にまで入ってきます。漢意を批判し大和心を説く宣長と、中国の山水や書に心を寄せる韓天寿の親交も不思議です。池大雅らが語らう脇を宣長は薬箱を持って患者の家に急ぎ、夜になったら、蕭白や天寿、大雅と賑やかな時間を過ごした人が、宣長の「源氏」講釈に集まり、灯のもと『古事記伝』の抜き書きを行っているのです。
遊女の絵に宣長が賛をする。誰がこんな物を頼んだのだと、私の貧弱な価値観では何とも説明がつきませんが、雅も俗も混沌とした宣長の時代は、松阪だけじゃないく各地に「元気」が満ちています。みんながとがっている。だから、人の圏域は犯さないとか波風を起こさないという発想は無縁です。たとえば賀茂真淵も宣長も、友人の荒木田久老や谷川士清、門人たちも、ものすごい情熱で学び、執拗に質疑応答をし、悪口も言い、からかいもする。自分の世界と判断基準を持っているから、流されもしない、面白いものには飛び込んでも行けるのでしょう。そんな時代の中で、自分の世界を構築する宣長を見て頂きたいのです。
この元気があったから、日本は近代に向けた力強く歩み始めることができたのです。
展示を見れば、きっと皆さんの宣長観、いや、未来も変わるかもしれません。
2017.9.13
夏休みで、この名前だから、ああ子ども向けだね、と思われるかもしれません。
もちろん、子どもでも楽しめます。
でも、たとえば、読書人を自負している人でも、本なんて学校出てから読んだことがないという方でも、きっとしばし暑さを忘れ、夢中になれるはずです。
まず筆箱を用意する。
次にページを開いてください。
最初からでなくても、適当なページでかまいません。
宣長が17歳の時に作成した「大日本天下四海画図」。松阪周辺の拡大図を入れておきました。どんな紙でも結構です、写してください。
すると、存外難しいことに気がつきます。地名を入れたら全体の形がとれない。
内容も、はてなが続出。
北勢にある「古物」と言う地名は一体どこだ。
津、桑名、亀山は□で、松坂、山田、宇治は○、古物や久居、田丸は小判型・・・。
山や、神宮の辺りには木も描かれる。神宮杉でしょうか。
いかにも地図っぽい工夫も見て取れます。
写し終わったら、もう一度宣長の地図と比較して、次のページに丁寧に貼ってください。
また、一日24時間の時間割があります。
自分の一日を振り返って、次に宣長さんの一日に思いを馳せてください。
『古事記伝』を書写するページもあります。ぜひ筆ペンでチャレンジしてください。ちなみに宣長が『古事記伝』最終巻、最後のページを書いたのは220年前の7月26日、暑い夏の日でした。
継子だてとか二文飛びという昔のクイズや、塗り絵もあります。
こんなこと小学生の頃以来だなと、童心に返っていただいたあとは、賀茂真淵先生と宣長の出会い「松坂の一夜」の絵を眺めて、自分に近い人の気持ちになってみる。
たとえば私なら、明らかに真淵先生に近い。
29ページの真淵先生の述懐、34歳の有為な若者を前にした67歳の真淵の期待、そして一抹の寂しさ。
この真淵の気持ちは、きっと子どもには、わからないでしょうね。
ていねいに写す手と、しっかりと観察する目、実際に行ってみる足、そして思い描くこと、その人の気持ちに寄り添うこと。
著作や伝記だけでは知ることの出来ない宣長さんに、きっと会えるはずです。
郵送ご希望の方は、送料として250円分切手を同封し記念館まで申し込んでください。
たくさん印刷しましたが、もう半分ほど出ました。お急ぎください。
※A4版・52ページ・フルカラー・このワークブックは、
公益財団法人岡田文化財団の助成を受けて作成しました。
本居宣長記念館
〒515-0073 三重県松阪市殿町1536-7
電話:0598-21-0312 FAX:0598-21-0371
◇ 可児と宣長 | #029 |
先だって、岐阜県可児(かに)市で宣長について話をした。ご当地話をという依頼ではないが、ご挨拶を兼ねてその地域の話をすることにした。
はて、宣長と可児には何か関係があるのだろうか。
可児市には、『万葉集』や『日本書紀』にも名前の出る、久々利(くくり)という場所があり、特に『万葉集』では「八十一隣」と表記されるので知られている。
ククは、八十一だ。
この久々利には宣長の孫弟子で、『答問録』を校訂刊行した千村仲雄という人もいる。全く宣長とは無縁だが志野焼の荒川豊蔵の窯もあったところて、記念館もある。
しかしこれだけでは、どう考えても枕にもならない。
そこで、可児や久々利について宣長はどの程度の知識を持っていたのかという角度から話を組み立ててみることにした。
見通しはある程度立っている。と言ってもたいしたものではない。
宣長だけではないが、近世の学者、特に国学者の知識は想像を超えるものがあって、ざっくりいうと、全部知っている。今の人のように、関心事だけをピンポイントで調べるというのではなく一通り全部調べる。
だからこちらも、何か記載はあるだろうという、楽な気持ちで調べてみることだ。その程度の見通しである。
さて、宣長の場合、17歳の時に「大日本天下四海画図」で全国3100の地名を書き、長じてからは『延喜式』神名帳に載る全国の神社約3000について六国史など古典籍に出るかをチェックしている。
頭の中に古代の地図を描くためであろう、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、また歌枕、天皇陵については精細に調査している。
これらを使えば、もちろん例外もあるが、かなりの確率で、その土地にまつわる話を拾うことは出来る。後はそこから『古事記伝』や『本居宣長随筆』、門人や来訪者へと芋づる式に広げていけばよい。
宣長は、息子の春庭とかなりの数の国絵図を写しているので、これも役に立つ。今回は「美濃国図」を使った。
まず最初に『万葉集』巻13を開いてみる。
3242番「百岐年三野之国之高北埜八十一隣之宮爾日向爾行靡闕矣・・」
宣長使用本は寛永版本である。訓が付いている。
「モヽクキネミノヽクニノタカキタノクヾリノミヤニヒムカヒニユキナビカクヲ・・」
宣長が訓に手を入れている。先ず「百岐」の間に、「久カ」と書き添え、「クキネ」の脇に「岫嶺」と書き込む。何れも宣長筆。「ミノ」を「ミヌ」と改めている。欄外に「師云、靡ハ紫ノ誤ニテ行紫闕(イデマシノミヤ)ナルベシ」とある。この説は『万葉集問目』に真淵の見解が、また宣長の意見が田中道麿への質問として、『万葉問聞抄』にあるが、直接関係ないので省く。
問題は「八十一隣」である。訓では「クグリ」と濁音で宣長も訂正していない。
その脇には、「泳宮【景行紀】」と宣長の字で書き込みがある。また一首の終わりに、
「今美濃国土岐郡ニ久々利(クヽリ)ト云処アリ」
と、やはり宣長の字で書き込みがある。これは後から訂正されるはずである。
次に、『日本書紀』景行天皇4年条を見ることにしよう。
聴衆にはお馴染みの場所、中には名鉄線の駅名として今も生きる地名もある。
宣長など縁遠い人だと思っていたら、自分の住んでいるところも知っていたのだと気づくと、急に身近に感じていただける筈だ。
位置がおかしいとか、こんな字を書いたのかと会場がざわめく。
地名を見ていくと、二人の手が混じっていることに気づく。たとえば「禅師野」とか「帷子」、「古瀬」などは宣長の字である。「久々利」の地名もあるが、「冬利」のようにも見える。これは春庭の筆のようだ。春庭には、ひょっとしたら久々利でも冬利でもどちらでも良かったのかもしれない。
これも話は逸れるので大雑把に書いておくが、春庭がたくさんの国図を写したことは知られている。それらを見ていくと明らかに父宣長の人も混じっている。写し終わったら父に校閲してもらうという場合もあるが、合作もあったようだ。
たとえばこんなシーンを想像してみよう。
作成中の地図が広げ春庭が何かの用事でその場を離れた。そこを通りかかった父が、「ああ今度は美濃国か。少し手伝ってやろう」と筆を執り、少し書き足し、去って行く。春庭が戻ってきて続きを写す。
借りた史料には返却のこともある。親子が分担して書写を進めていたとしてもふしぎではない。
さて、可児や久々利について別に何かの発見があったわけでもない。
ただ知識が読書や見聞を通し少しずつ訂正されて豊かになっていく、そのプロセスを見たにすぎないのだが、考えてみたらこれはすごいことではないか。
直接関わりがあろうが、あるいは無かろうが、片端から調べ、頭の中のデータベースを絶えず更新していくのである。
地名を聞いて、地図で確認したり、ちょっとネットで調べるなど、実は私たちも同じようなことを毎日繰り返しているはずなのだが、宣長はそれを記録しているのである。
「何かの発見があったわけではない」と言ったが、この作業によって宣長の古典の読みは深まりもしたはずだ。
可児や久々利の書き入れを行っている時期の宣長にとって、やはり課題は『古事記伝』執筆であったろう。すべてのものはこの一点に集約されていく。
また、もう一つ大切なことは医業と松坂魚町の住人と、家長としての役割も果たすことも大切だ。
講釈や質疑応答も年を追うほどにその占める割合は高くなってくる。
そんな多忙な中にあって、何の役に立つかわからないことは、比重としては低いはずだが、それでも宣長は一切手抜きをしないのである。楽しくて仕方ないのであろう。
今からご紹介する本居宣長とはそのような人なのです、というところから、その日の本題の話へと移っていく。
☆ は、ひとりぼっちの宣長。一人で輝いているのを表す。
∞ は誰かとつながっている宣長だ。
19歳の「端原氏城下画図」なら、これは孤独な営為で、人に見せるものでも無かったから☆。
35歳の「文字鎖」も、出来たよと自慢はしたかもしれないが、もとは冬の夜の手すさびで、やはり☆だ。
勉強とは、本来はひとりぼっちの営為であろうが、やがてそこから興味関心という芽が出て、ぐんぐんと育ち始める。
その時に、力となってくれるのが、同じ関心事を持つ仲間であり、また師である。
十代後半、宣長は和歌に関心を持った。
誰に習うわけでも無く、仲間もいなかった。
「たゞひとりよみ出るばかりなりき」(「おのが物まなびの有しやう」『玉勝間』)
伊勢での養子時代には、法幢に歌の添削を受ける。これも添削以上のものではなかったようだ。
京都に出た宣長は堀景山に師事する。師の勧めであろう契沖の著作を読み、和歌への関心は深まり、新しい展開が始まった。
最初の和歌学習ノート『和歌の浦』は☆だが、契沖の『百人一首改観抄』は推薦者、しかも契沖に私淑することになったのだから、これは ∞。
架空都市図「端原氏城下画図」とその系図は、☆。
京都に憧れて一人コツコツと作った京都の文献集覧『都考抜書』は、もちろん☆だが、実際の京都生活を記録した『在京日記』は、講釈や交遊が活写 されていて、これは ∞。
では、自画像はどうか。
四十四歳像はほとんど見せることも、また言及することも無かったので、☆。
しかし、六十一歳像になると、没後に床の間に掛けて影前会を行うことを構想するとか、また模写を許可するなど、自画像ではありながら人とのつながり、つまり ∞ 色が濃い。
もちろん、「鈴屋円居の図」も展示したが、その横に、宣長の知人・韓天寿の書(拓本)を掛けた。
文意は、
「用事が済んだらさっさと帰れ」
池大雅や高芙蓉と親しくした天寿だったが・・・でも孤独を愛する人もいる。
来訪者と対面するどころか、質疑応答や添削に積極的な宣長のような人もいる。
この拓本、もともとは館長室に掛けておけばよいと、伊勢の永井謙吾さんからいただいたものだが、
リニューアルで館長室も無くなったので、
展示室に掛けてみたのだが、なかなか評判が良い。
この視座は、宣長を考える上で有効であることは間違いないと思うのだが。
『らんのふしぎ発見!本居宣長記念館見学ノート』で、『古事記伝』を写しています。
気分は、帆足みさと嬢といったところでしょうか。
>> 帆足みさと
このように、実際に筆(ペン)で書いてみると、内容とは別に、いろいろ発見があるようです。
たとえば『古事記伝』では6種類の大きさの文字が使用されます。
『古事記』本文。同割注。伝本文、同割注。本文のルビ。伝のルビ。
これらをきちんとかき分けるためには、穂先の異なる筆を用意した方が効率的だとか、何より、「いと拙くて」と卑下しているのは、言葉通りに受け取ることは出来ないなということも実感できるはずです。
また「見学ノート」には、珍しく字を誤って張り紙した箇所も、写真で出ています。 紙は小刀かはさみできちんと切断されています。
21ページの地図(大日本天下四海画図)は、サインペンで写すと、単調でどうも地図らしく見えません。
さて、宣長はどんな筆を使っていたのでしょうか。
残念ながら、本居家からの寄贈品の中で、これは宣長先生の筆だと断定できるものは一本もありません。
大事なものですから、もし伝っていたら包み紙に「故翁御筆」とか書いて大切にされているはずです。一体どうなったのでしょうか。
きっと門人がもらっていったのでしょうね。
宣長の筆について、ちょっと大切な話をメモしておきます。
一つは、平田篤胤がもらった話です。
春庭から「故翁ノ用ヒタフルサレタル御筆」を譲り受けて、『古史伝』の清書に使用したそうです。
またこの筆とおぼしきものが遺品の中にあると、この話を紹介する中川和明さんの「平田篤胤の文政六年上京一件と国学運動-新史料『上京日記』を中心に-」(『鈴屋学会報』23号)とあります。
注のところを引いておきます。
「平田家資料の中に宣長の筆、請求記号「箱4-24」、宣長の筆三本で、包紙には「故鈴屋大人御用筆」と記されている。」
出来るものなら実見したいものです。
二つ目は、廣岡義隆さんから聞いた話ですが、佐佐木信綱さんは、宣長に倣って穂先を切った筆を使っておられたそうです。
これもぜひ拝見したいものです。
【参考】
「万よりも、手はよく書かまほしきわざ也。歌詠み学問などする人は、ことに手悪しくては、心劣りのせらるるを、それ何かは苦しからんといふも、 ひとわたり理はさることながら、なほ厭かず、打ち合はぬ心地ぞするや。宣長いと拙くて、常に筆取るたびに、いと口惜しう、言ふ甲斐無く覚ゆるを、人の請ふまゝに面無く短冊一枚など、書き出て見るにも、我ながらだに、いとかたはに見苦しう、頑ななるを、人いかに見るらんと、恥づかしく胸痛くて、若かりし程に、などて手習ひはせざりけむと、いみじう悔しくなん」
ー「手かく事」『玉勝間』巻6 ー
◇ 隠岐の駅鈴がなぜ選ばれたのか | #032 |
2012年6月、浜田市で開催された、
「石見国浜田と本居宣長~駅鈴がつなぐ浜田と伊勢国松坂~」
が契機となり始まった島根県浜田市と松阪市の市民交流が、
やがて隠岐にも広がり、相互に訪問も継続して行われるようになりました。
この8月も,松阪からの訪問団が隠岐に行き、同所で浜田市と合流し、
相互の交流会が開催されます。
隠岐の方をお迎えするとき、よく聞かれるのは、
「なぜ駅鈴がここにあるのか」
です。
隠岐に今も伝わる旧国宝の駅鈴が、なぜ松阪にあるのだというのです。
松平康定が宣長に贈ったことが契機となったことは間違いないのですが、
では、どうして駅鈴なのか、という問いに答えるのはなかなか難しいのです。
でも次のように考えてみることは出来そうです。
「駅鈴」は、古代の法制上重要なものでした。
>>「駅鈴」
『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、出兵した大海人皇子が駅鈴を請う場面があります。
この鈴は,本来は天皇の命を承けて,地方に赴く人が携行したものなのです。
ちなみに、松阪には「駅鈴」に因む「鈴止村」の地名も最近まで残っていました。
松阪を過ぎると神宮領に入るので、ここで駅鈴をしまったことにちなむといいます。
このような,今の身分証明書のような鈴ですから、いくつもあったはずですが、
不思議なことに、その実物はどこにも伝わっていなかったのです。
幻の「駅鈴」が日本海に浮かぶ隠岐に伝わっていたことが知られるようになったのは、天明5年(1785)でした。
果たしてこれが律令でいう「駅鈴」であるのか、後世の法制史家には異見もありますが、それは別の話です。
この年の冬に上京した隠岐第40代国造・幸生が持参し、
翌年夏から幸生の師・西依成斎や並河一敬に調査を依頼したことが、世に知られるきっかけとなったそうです。
橘南溪『北窓瑣談』(ホクソウサダン)には、隠岐国造は鈴を持ち歩き、その音は
「清亮、殊更に音高くしてよく聞ゆ」
と書かれています。
宣長の知人では、有職故実家・橋本経亮もどうやら鈴の音を聞いたようです。
>>「橋本経亮」
経亮(1755~1805)は、京都の梅宮大社の神官で、宮中に出仕して非蔵人となった人です。
経亮に、この駅鈴に寄せた歌が残っています。
「うまや路に たまひし鈴の 音さやに ふりにし御代を おもひ出けり」
さて、それからしばらくして、再びこの駅鈴に注目があつまりました。
寛政2年に光格天皇が新内裏にご遷幸されるときです。
行列には、「主鈴」として、駅鈴管理者も加わるのですが、
この時に隠岐の駅鈴(もしくはその複製)が行列に加わったと推定されるのです。
宣長の活躍もあり古代への関心が高まり、また有職故実学の伸展、
さらには九州志賀島での金印発見など考古遺物の発見が相次いだ18世紀後半、
隠岐の駅鈴も話題の的であったことは間違いありません。
本居宣長が鈴が好きだと聞いた松平康定侯は、
この駅鈴の複製を入手し、贈り物としたのではないでしょうか。
>>「プレゼントは隠岐の駅鈴」
制作者や制作過程は全くわかりませんが、隠岐の駅鈴の精巧な模造では無いので、
大体の形を写したのをもとに制作したと考えられます。
それにしても家宝ともいうべき駅鈴の模造を造ることをよく許したものだとも思いますが、 当時の康定は、奏者番という出世コースに乗っていますから、
国造家も拒むことは出来なかったのかもしれません。
>>「駅鈴」
◇ 幻の古道 壺坂道・畑屋越 | #033 |
奈良県大淀町の主催で、
「国学者・本居宣長の足跡をたどって~幻の古道 壺坂道・畑屋越~」
というちょっと面白いハイキングが企画されている。
実施日は平成30年9月23日、この原稿を書いている日からは、少し先の話である。
コースは、壺阪山駅出発、壺坂寺から畑屋へと越える道を歩く。
宣長がこの道を歩いたのは、明和9(1772)年。それから246年という歳月が流れている。
宣長の足跡をたどるイベント(ほとんどが『菅笠日記』のルートである。もちろん今回の企画もその日記に基づいている)は、よく行われているのに、
いったい何が珍しいかと言うと、
実はこの道は、街道というより生活道といった方が良い道である。
言わば、村と村を結ぶ踏み分け道で、人が通らなくなるとすぐにもとの獣道か山野に戻ってしまう運命にある。
そうやって消えていった筈の道が、どうやら蘇ったらしいのである。
明和9年の春、松坂を出発した宣長一行は、で吉野、飛鳥を中心に古跡を精力的に巡り、 また記紀、万葉を自在に使って考えながらの旅10日間の旅をする。
充実した内容で、面白い。
その後の、特に吉野、飛鳥巡りのガイドブックとしてもよく読まれた。
この記録に基づき歩けば菅笠の後をたどったということになるかというと、なかなかそうはいかない。
「管笠日記の道を歩く」と言う時は、もう少し限定して考えた方が良さそうだ。
《管笠日記の道を歩く》
「管笠日記の道を歩いた」というためには、二つの条件がある。
第一条件 まずルート調べから始める。
経由地はきちんと書かれているが、熊野古道や東海道のようにルートが定まっているわけでは無い。
大部分が生活道なので、先行する記録を調べ、また地元の人に聞き、推定しながら、
絶えず本当の宣長さんが歩いた道かと問い続けなければならない。
第二条件 歩いた道を、記録すること。
難しいことを言うなあと思われるかもしれないが、目的はポイント間の移動では無く、歩いた道にあるので仕方が無い。
二つの要件を満たしている最初の人は、新潟の石川義夫だろう。石川氏の労作は、このホームページ、『菅笠日記』図書館で紹介した。
>> 1、『菅笠日記』について その5
続くのは、高瀬英雄ご夫妻と、塩山博之氏の管笠日記を歩く会である。
さて高瀬さんも塩山さんたちも、道は無いがとりあえず目的地にたどり着いたと記載されるのが、 旅も6日目、吉野から飛鳥への道、今回選ばれた畑谷越である。
宣長の『管笠日記』には、
「これより壺坂の観音にまうでんとす。平らなる道をやや行きて、右の方に分れて、山沿ひの道に入り、畑谷などいふ里を過て、上り行く山路より、吉野の里も山々も、よく顧みらるる所あり。
かへりみる よそめも今を 限りにて 又もわかるる みよしのの里
吉野の郡も此手向を限り也とぞ。下る方に成ては、大和の国中よく見渡さる。比叡の山、愛宕山なんども見ゆる所也といへど、今は霧深くて、さる遠きところ迄は見えず。さて、下りたる所、やがて壺坂寺なり」
次に石川氏の記録を見よう。
「この道は、壺坂寺のすぐ下手に出る道である。江戸時代には、壺坂の里人や行者たちが、直接下市や下淵に出る時によく利用していたらしい。壺坂峠越えの道より近いからであろう。しかしかなり険阻な上に道も細いので、大正以後は通る人もなくなり、今は夏季など雑木・雑草が道を塞いで通ることができない」
続けて氏は、普通なら柳の渡しの少し上手の出口、下流の新野、もしくは下流の土田からのルートが普通であると言い、「畑谷」という集落を通ったと書くのだから、わざわざ遠回りして、嶮しい道を選んだことは間違いないが、
「宣長がなぜ回り道で細く嶮しい道をわざわざ通ったのかわからない」
と書かれている。
石川氏の時には通行困難ではあるがまだ道はあった。
ところが20数年後(2004年開始)に挑んだ高瀬ご夫妻の記録には次のように書かれている。
「六田駅から柳の渡しまで戻って出発した。やがて土田。上市の方より きの国へかよふ道と 北よりよし野へいる道とのちまたなる駅也 であり構えの大きい古い家が残っている。ここから北にむかう。2km程で右にそれて山沿いの道に入る。ここまでは車の行き交う喧騒な道であったのでほっとする。ここでも壺坂寺への山越えの道を結局8人の人に問うた。皆口をそろえて言われるのは「ない!」であった。それでも行けるところまで行こうと進んでいった。畑屋という里である。小さな集落の入口に山から山へ長い注連縄が張ってあった。畑をしてみえた古戸さん母子に尋ねると「村に厄病や災害が入らないように張るものでカンジョという」そうだ。里は戸数は少ないが豪壮な家が並ぶ。林道から細い山道に入る入口を教わったのだがわからずさらに進む。山の高いところで仕事をしてみえた方を見つけて道を尋ねた。すると「道はこの上にありもっと下の池のところから上るがそこまで戻るのはたいへんだからここを登ってこい」といわれる。それならと草や木につかまりよじ登る。その西垣内康孝さんは「100mくらい行くと道が分かれる。左への道はとらず山を右に巻いていく道があった。私有林ならまだ多少人が入るがその先は国有林だから道はなくなっている。止めた方がいい。」お礼をいって行けるところまで見てきますと進む。確かに右に道はあったらしいがどうにも進めない。山の上には登れる道がある。それなら上に上り向こう側へ下る道を探そうと高度100mくらいの急斜面を登り山頂に着く。それから道なき道をさまよい、ようやく人家に辿り着く。そこはなんと壺坂寺であった。畑屋から悪戦苦闘すること3時間が経過していた。
かへりみるよそめも今をかぎりにて 又もわかるるみよしのの道
吉野の眺めどころではなかった。」
高瀬ご夫妻から約10年後、2013(平成25)年9月28日(本番)、塩山さんたちも同じ体験をしている。
「畑屋を経て壺坂寺に行く道は「壺坂街道」とよばれていましたが、下見調査で畑屋集落の人に尋ねると「昔は道があったが、今はいけない」という返事です。行けるところまで行ってみることにしましたが、倒木と草木が行く手を塞ぎ、道が消滅してしまいました。仕方なく頂上の三角点を目標に山をはいずりながら登り、尾根筋に出ました。尾根筋を東側に進むと踏み跡が見つかり、山道を下ると壺坂寺にたどり着きました。しかし、「歩く会」の本番は、比曽・馬佐を経由する「代替えルート」に変更することにしました」
三角点を目指したとあるのでGPSを使用されたのだろう。
今回のイベントでは、畑屋から壺坂寺に越えた宣長一行とは逆方向ではあるが、
峠を越える格好の機会である。
また畑屋には道標もあると案内マップには記されているので、これも必見である。