『出雲国風土記(いずものくにふどき)』や、出雲国造(いずものくにのみやつこ)が奏上する「 出雲国造神寿詞(いずものくにのみやつこかむよごと)」は『古事記』世界への入り口。出雲大社の 千家俊信(せんけとしざね) は熱烈な宣長学派で、特産の 十六島海苔(うっぷるいのり)を持って松坂を訪れます。俊信にも劣らないのが石見国の浜田藩主 松平康定(まつだいらやすさだ)でした。宣長の画像を見ながら勉学に励み、藩きっての俊才 小篠敏(おざさ みぬ)を松坂に派遣して、講釈を聞き取らせました。それはやがて、名著『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』誕生へとつながっていきます。そして、松坂を来訪する好機を得た康定が選んだお土産が、 隠岐(おき)に伝わる「駅鈴」だったのです。「鈴」は古代、神々との通信具であり、また権力の象徴でもありました。
今回の展示は「古代の出雲」、「宣長の源氏講釈にしびれた松平康定侯」、「隠岐の駅鈴」この三つのテーマを中心に、話は長崎へ、また松坂と浜田の関わりへと広がっていきます。
ぜひ、ご覧ください。
期 間:2018年9月4日(火)~12月2日(日)
展 示 総 数:89種110点 ※内、国重文35点(変更あり)
なんで島根なの?
出雲は神話の国。『古事記』『日本書紀』はもちろん、713年に天皇陛下の命を受けて作成された、各地の地誌・風土記にも注目。現存する風土記の中でも、『出雲国風土記』は一番完本に近い形で残っている貴重なもの。『古事記』や『日本書紀』にはない神話も記されている。
他にも、出雲大社、宣長の弟子で出雲いずもの国造くにのみやつこ(代々出雲大社の宮司を務めた豪族)の千家せんけ俊とし信ざね、駅鈴をくれた松平康定候や、その部下でありやがて宣長の高弟となっていく小篠敏もいる。島根は、古典研究者本居宣長にとっては興味深い場所であり、松阪との関わりも深い場所なのです。
出雲は神話の国。『古事記』『日本書紀』はもちろん、713年に天皇陛下の命を受けて作成された、各地の地誌・風土記にも注目。現存する風土記の中でも、『出雲国風土記』は一番完本に近い形で残っている貴重なもの。『古事記』や『日本書紀』にはない神話も記されている。
他にも、出雲大社、宣長の弟子で出雲いずもの国造くにのみやつこ(代々出雲大社の宮司を務めた豪族)の千家せんけ俊とし信ざね、駅鈴をくれた松平康定候や、その部下でありやがて宣長の高弟となっていく小篠敏もいる。島根は、古典研究者本居宣長にとっては興味深い場所であり、松阪との関わりも深い場所なのです。
● 展示説明会
9月15日(土)、10月20日(土)、11月17日(土)
いずれも、11:00より(無料)
9月15日(土)、10月20日(土)、11月17日(土)
いずれも、11:00より(無料)
島根と松阪を読み解く、カギ ◎……国重要文化財
◆出雲国風土記(いずものくにふどき)
奈良時代、元明天皇は全国の様子をくわしく知るため、地方ごとの歴史や風土文化をそれぞれまとめて報告をさせました。和銅6年(713)に、その報告書として編纂されたのが『風土記』です。現在では5つの国の風土記が残るのみとなり、その中でも『出雲国風土記』はほぼ完本に近い形で現存する、非常に貴重な地誌。宣長ももちろんこれを隅々まで読み、読むための参考資料として地図まで自作して研究しました。宣長が読んでいた『出雲国風土記』は、津の友人谷川士清が所蔵していた本の写本。宣長は、明和8年(1771、宣長42歳)11月2日の士清宛の手紙で、こんなことを言っています。
『出雲国風土記』を貸してもらって、とても嬉しく写しました。君のこの本、すごくいいね!本当にうれしいなぁ……。実は、京都でせっかく写したものをなくしてしまって、ガッカリしていたところだったんだ。何度考えても、嬉しいなぁ
『古事記』『日本書紀』と同時代に出来た『風土記』。とくに、『出雲国風土記』にしか記されていない「国引き神話」はさらに古い文章だ、と宣長は注目します。
◎『出雲国風土記』宣長写
◎「出雲国風土記郡郷図」宣長筆
◆ 出雲大社と千家俊信(せんけとしざね)
宣長の門人に、出雲国造(代々出雲大社の宮司を務めた豪族)の千家俊信という人がいます。『出雲国風土記』研究を志していた俊信は、寛政4年(1792、宣長63歳)、29歳のときに宣長に入門し、松阪を訪れたりもして非常に熱心に学びました。出雲大社には、現在も宣長が俊信に送った多くの書簡が残っています。その書簡と宣長が『古事記伝』執筆の際に使用した筆を神体に、自邸に玉鉾神社を創建するほど、俊信は宣長を尊敬していました。
あるとき、そんな俊信から宣長に千家家に伝わる「金輪造営図」というものの写しが送られてきました。古代出雲大社の平面図だ。大きな柱3本を金の輪で縛るのだという。しかも、社殿の高さは48.5メートル、そこへ登るまでの桟橋の長さは、109メートルになるという。まるで空中神殿だ。宣長は、さっそく送られてきた図をノートに写しました。こんな神殿が本当に建てられるのか。「理解できないことばかりだが、みな書かれている通りだ」と首をかしげながらも、そこに真実が含まれるのではないかと、宣長はこの図を随筆『玉勝間』で初めて紹介しました。
それから200年以上たった西暦2000年、多くの建築史家が建設不可能だと考えた出雲大社の柱の遺構の一部が発掘されました。それは宣長が見た平面図と同じ、3本柱を束ねた直径3メートルのものだったのです。長い年月をへて、宣長が信じた「金輪造営図」の信憑性が高まりました。
◎『本居宣長随筆』宣長筆
『玉勝間』宣長著 版本 ※「同社金輪の造営の図」
「出雲大社図」春庭写
『訂正出雲国風土記』千家俊信著版本
◎『音信到来帳』宣長筆 ※千家俊信の土産「十六島海苔」
◆ 宣長に魅了された人々~松平康定候と 小篠敏(おざさみぬ)~
石見国浜田藩主の松平康定候は、学問好きで特に国学を好み、自身が浜田を離れられない代わりに、宣長のもとへ自らの家臣小篠敏を遣わしました。敏は何度か松阪へ来ては、宣長の講釈を聞き、勉強していきました。『答問録』には、そんな宣長と敏の質疑応答の数々が記録されています。そんな敏の報告を聞いて、学問好きの康定は直接会いたくなってしまったのでしょう。寛政7年(1795、宣長66歳)8月13日、伊勢参宮という絶好の機会を得て、康定は松阪中町にあった本陣・美濃屋で宣長と対面しました。初めて見た宣長は、「穏やかでありながら、重みがあり、以前見た画像にそっくりだ」。よかった、どうやら、怖い人ではないみたい。康定は年をとって耳が遠くなった宣長を近くへ招き寄せ、歓談は夜遅くまで続きました。
初めて対面したが、前から会いたいと思っていただけに、挨拶もそこそこに、古典のことや平安時代の言葉など、何でもかんでも質問するが、少しも言葉に詰まることなく、正しいこと、間違っていることの区別も明解に説明してくれた。
そのときの心情を素直に詠んだ、康定の歌も残っています。
参宮の帰りにも松阪に立ち寄り、宣長の『源氏物語』の講釈に感激した康定候は、宣長の源氏研究の集大成『源氏物語玉の小櫛』の執筆を依頼します。
◎『答問録』宣長筆 ※小篠敏との質疑応答
「宣長宛小篠敏書簡」 ※石見に来てほしい!敏のお誘い
◎「石見国図」宣長筆
「本居宣長像」吉川義信画 ※康定が見たのは、この宣長像か?
「松平康定色紙」 ※噂の宣長に会えて、嬉しい!
◎『源氏物語玉の小櫛』宣長筆 草稿本
◆ 隠岐(おき)の駅鈴
宣長に会う機会を得た康定が、手土産に選んだのが、この「駅鈴」。
宣長が鈴好きであることは、聞いていたはずです。古典を研究していて、古いものに興味関心がある人のことを考えて、選んだのが、隠岐に伝わる「駅鈴」でした。
『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、出兵した大海人皇子が駅鈴を請う場面があります。この鈴は、本来は天皇の命を承けて,地方に赴く人が携行したもの。古代の身分証のようなもので、いわば、権力の象徴です。しかし、どのような人間界の権力も及ばないのが、神々の世界です。松阪を過ぎると神宮領に入るので、ここで駅鈴はしまわなければならなかったのです。『延喜式』巻4「伊勢大神宮」には、「凡そ駅使大神宮の堺に入らば、飯高郡の下樋小川に到りて鈴の声を止めよ」とあります。ちなみに、松阪には「駅鈴」に因む「鈴止村」の地名も残っていました。
康定候が宣長を想い贈った駅鈴は大切にされ、現在では松阪の象徴になっています。本居宣長記念館にやって来た小学生は、この駅鈴を見て「駅にある鈴だ」と笑うのです。
「駅鈴」
「松平康定色紙」 ※鈴の歌
「隠岐国造伝来駅鈴図」
◎『延喜式』宣長手沢本 巻4 ※「伊勢大神宮」
◎『出雲国風土記』宣長写
◎「出雲国風土記郡郷図」宣長筆
◆ 出雲大社と千家俊信(せんけとしざね)
宣長の門人に、出雲国造(代々出雲大社の宮司を務めた豪族)の千家俊信という人がいます。『出雲国風土記』研究を志していた俊信は、寛政4年(1792、宣長63歳)、29歳のときに宣長に入門し、松阪を訪れたりもして非常に熱心に学びました。出雲大社には、現在も宣長が俊信に送った多くの書簡が残っています。その書簡と宣長が『古事記伝』執筆の際に使用した筆を神体に、自邸に玉鉾神社を創建するほど、俊信は宣長を尊敬していました。
あるとき、そんな俊信から宣長に千家家に伝わる「金輪造営図」というものの写しが送られてきました。古代出雲大社の平面図だ。大きな柱3本を金の輪で縛るのだという。しかも、社殿の高さは48.5メートル、そこへ登るまでの桟橋の長さは、109メートルになるという。まるで空中神殿だ。宣長は、さっそく送られてきた図をノートに写しました。こんな神殿が本当に建てられるのか。「理解できないことばかりだが、みな書かれている通りだ」と首をかしげながらも、そこに真実が含まれるのではないかと、宣長はこの図を随筆『玉勝間』で初めて紹介しました。
それから200年以上たった西暦2000年、多くの建築史家が建設不可能だと考えた出雲大社の柱の遺構の一部が発掘されました。それは宣長が見た平面図と同じ、3本柱を束ねた直径3メートルのものだったのです。長い年月をへて、宣長が信じた「金輪造営図」の信憑性が高まりました。
◎『本居宣長随筆』宣長筆
『玉勝間』宣長著 版本 ※「同社金輪の造営の図」
「出雲大社図」春庭写
『訂正出雲国風土記』千家俊信著版本
◎『音信到来帳』宣長筆 ※千家俊信の土産「十六島海苔」
◆ 宣長に魅了された人々~松平康定候と 小篠敏(おざさみぬ)~
石見国浜田藩主の松平康定候は、学問好きで特に国学を好み、自身が浜田を離れられない代わりに、宣長のもとへ自らの家臣小篠敏を遣わしました。敏は何度か松阪へ来ては、宣長の講釈を聞き、勉強していきました。『答問録』には、そんな宣長と敏の質疑応答の数々が記録されています。そんな敏の報告を聞いて、学問好きの康定は直接会いたくなってしまったのでしょう。寛政7年(1795、宣長66歳)8月13日、伊勢参宮という絶好の機会を得て、康定は松阪中町にあった本陣・美濃屋で宣長と対面しました。初めて見た宣長は、「穏やかでありながら、重みがあり、以前見た画像にそっくりだ」。よかった、どうやら、怖い人ではないみたい。康定は年をとって耳が遠くなった宣長を近くへ招き寄せ、歓談は夜遅くまで続きました。
初めて対面したが、前から会いたいと思っていただけに、挨拶もそこそこに、古典のことや平安時代の言葉など、何でもかんでも質問するが、少しも言葉に詰まることなく、正しいこと、間違っていることの区別も明解に説明してくれた。
そのときの心情を素直に詠んだ、康定の歌も残っています。
参宮の帰りにも松阪に立ち寄り、宣長の『源氏物語』の講釈に感激した康定候は、宣長の源氏研究の集大成『源氏物語玉の小櫛』の執筆を依頼します。
◎『答問録』宣長筆 ※小篠敏との質疑応答
「宣長宛小篠敏書簡」 ※石見に来てほしい!敏のお誘い
◎「石見国図」宣長筆
「本居宣長像」吉川義信画 ※康定が見たのは、この宣長像か?
「松平康定色紙」 ※噂の宣長に会えて、嬉しい!
◎『源氏物語玉の小櫛』宣長筆 草稿本
◆ 隠岐(おき)の駅鈴
宣長に会う機会を得た康定が、手土産に選んだのが、この「駅鈴」。
宣長が鈴好きであることは、聞いていたはずです。古典を研究していて、古いものに興味関心がある人のことを考えて、選んだのが、隠岐に伝わる「駅鈴」でした。
『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、出兵した大海人皇子が駅鈴を請う場面があります。この鈴は、本来は天皇の命を承けて,地方に赴く人が携行したもの。古代の身分証のようなもので、いわば、権力の象徴です。しかし、どのような人間界の権力も及ばないのが、神々の世界です。松阪を過ぎると神宮領に入るので、ここで駅鈴はしまわなければならなかったのです。『延喜式』巻4「伊勢大神宮」には、「凡そ駅使大神宮の堺に入らば、飯高郡の下樋小川に到りて鈴の声を止めよ」とあります。ちなみに、松阪には「駅鈴」に因む「鈴止村」の地名も残っていました。
康定候が宣長を想い贈った駅鈴は大切にされ、現在では松阪の象徴になっています。本居宣長記念館にやって来た小学生は、この駅鈴を見て「駅にある鈴だ」と笑うのです。
「駅鈴」
「松平康定色紙」 ※鈴の歌
「隠岐国造伝来駅鈴図」
◎『延喜式』宣長手沢本 巻4 ※「伊勢大神宮」
「出雲大社図」春庭写