四月の宣長
4月は花見の季節です。でもそれは今の暦の上でのこと。
宣長さんの頃は約1ヶ月ほど早く3月初旬が桜の見頃でした。
43歳の時の吉野の花見は『菅笠日記』に詳しく記されています。
>> 「菅笠日記」
3月5日に松阪を出立、7日には多武峰談山神社で満開の桜に出会います。
「桜は今を盛りにて、ここもかしこも白妙に咲満ちたる花の梢、
所柄はましておもしろき事、言はん方なし」
翌3月8日、吉野山に到着。すでに、下千本は「花は大方盛り過ぎて」いたようで、
◇ 入学式
また4月は入学式の季節です。宣長さんの時代はどうだったのでしょうか。
「毎月の宣長さん」1月「正月は入学の季節」をごらん下さい。
>> 「毎月の宣長さん」1月「正月は入学の季節」
馬に乗る宣長 旧暦4月、京都では稲荷祭が行われます。 その時、東寺で寺家の神供を受けます。 稲荷祭とは逆方向の洛北・等持院の開帳に行きました。 山頂では夢合観音を拝見しました。それ以上に印象深かったのは町の眺めです。 帰りには、連れて行った馬に交代で乗ったものの物足りなかったのでしょう、北野の右近の馬場で乗馬を楽しみました。 宣長も、久しぶりだったが一鞍二鞍乗るうちに心浮き立ち楽しいものだと感想を述べています。 宝暦7年(1757)4月6日は、東寺に住む友人岡本幸俊の案内で稲荷祭見物に行きました。 そこで幸俊の顔で八幡宮近くの「よろしき殿舎」にもぐり込みました。 ここは東寺の僧正や寺家といった特別の人が入る場所です。特に何がいうわけではないけれど、古雅の趣が漂っていました。 甲冑を身につけた者や公儀役人の警護する中、やがて神輿が西から入り東へと抜けていきます。 念願がかないこの塔に登るのはこの年9月のことです。 近くの沼はかきつばたの花盛り。しばし茶店で休み、岡本氏の家に移り、暮れ方頃、 提灯をともしにぎやかな町をそぞろ歩き室町四条南にある寄宿先に帰りました。 >> 「東寺五重塔に登る」 >> 『在京日記』 >> 目次へ |
五月の宣長
薫風香る5月は今の暦での話。 旧暦では、梅雨の始まる季節です。
また、賀茂真淵との対面「松坂の一夜」のあった月でもあります。
京都遊学時代、宝暦7年(1757・宣長28歳)5月13日の夕方、水かさの増した四条河原に涼みに行った宣長は、四方の景色を眺めていると、やがて両方の川岸に並ぶ青楼に明かりがともり、物の音もほのかに聞こえてくる。いい雰囲気だ。夏の河原の茶屋は涼しくまた情緒がある。だが、石垣あたりの零落ぶりは目を覆うものがある。年々寂しくなり、娼家は商家となっていく。こういうところにも盛衰はあるのだ・・以下切断
>> 「お酒」
◇「物のあはれ」との再会
宝暦8年(1758・29歳)5月3日、宣長は「安波礼弁」という小論文を書きます。
「紫文訳解」と併せても僅か6枚という短いものですが、「物のあわれを知る」という宣長の有名な学説は、ここからスタートしたのです。
論文は次のように始まります。
「 或人が私に質問した。藤原俊成卿の歌に、
恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる
とあるが、この「あはれ」にはどのような意味があるのだ。
人の心が「あはれ」と対等に扱われているが、俊成の歌の「あはれ」と、普通に使う「あはれ」は違うのか。
この問いかけに、自分では分かっているつもりだったが、いざ説明しようとすると、どうもうまくいかない。
考えてみると、これは大変な問題だ。
即答できかねる問題だから、また改めて返事をしますと答えておいた。」
京都から帰郷したのが前年の10月。さっそく医業を開く。
だが、医者の多い松坂だけに、新参者が参入するのは難しく、患者は少なかっただろう。
年改まって1月には、『古今選』編集に着手。
この本は、『万葉集』と『二十一代集』のアンソロジーだが、ここで宣長はすばらしい集中力を見せる。
2月11日、嶺松院歌会に参加。
4月28日、『論語』を再読する。和歌との関わりは不明。
そして、5月3日『安波礼弁』を起稿。
またこの時期、賀茂真淵『冠辞考』をいぶかしげに読んでいた筈だ。
松坂での生活も落ち着き始め、和歌へ没頭していく様子がうかがえる。
新しい和歌仲間を得て、既に和歌には一過言持つ宣長は、 改めて自分の和歌観の整理を考えたのだろう。
そんな中での「物のあはれ」との再会だった。
もう一つ注目されるのは、質疑応答形式という点だ。
宣長の学問は、注釈と、質疑応答という形が多い。
歌論関係では、恐らくこの頃の執筆であろう『排蘆小船』や、宝暦13年頃、和歌と古道を論じた『石上私淑言』が、この質疑応答形式である。
個人指導でも、真淵先生からの指導や、また宣長と全国の知人や門人とのやりとりも質疑応答だ。立場を異にする者とでは、これが論争と言う形をとる。
>> 「質疑応答」
>> 「質問」
>> 「質疑応答の勧め」
>> 『安波礼弁』
六月の宣長
夕闇に しのぶの露も 顕はれて 軒端涼しく とぶ蛍かな
風かよふ 軒端涼しき うたゝねも 枕はなれぬ 蚊をいかにせん
6月は、『源氏物語』論である『紫文要領』や、『古事記伝』が完成した月です。
坂内川河畔の蛍は執筆に疲れた宣長の目を慰めたことでしょう。
書斎を飛ぶ蚊も、机に向かう宣長の妨げとは成り得なかったことでしょう。
本を書き、読むときの宣長の集中力は抜群だったからです。
◇みなづき
旧暦の水無月6月は今の7月。梅雨から夏の暑さへと移る季節です。梅雨の終わりの大雨は今も昔も変わりません。
安永2年(1773・宣長44歳)6月19日には、松坂周辺は大雨で、「未曾有の大水」だったと宣長の日記や、また『宝暦咄し』に記されています。
雨が多いのにどうして水無月?
これは、ミは水。ナは連体助詞。田に水を湛える月の意ではないかと言われています(『岩波古語辞典』)。
神社では、水無月の祓えが行われます。京都では祇園祭。京都遊学中の宣長は、神輿洗いの時から連日のように見物にいっています。
◇松阪の祇園祭と鈴おどり
祇園祭は松阪でも行われました。しばらく中断していたお神輿も、宣長の頃に再興されました。
現在も、松阪では八雲神社、御厨神社、松阪神社からお神輿が出て祇園祭がにぎやかに行われます。
ちなみに、2010年の松阪の祇園祭は、7月17日が宵宮、18日が本日です。
また、18日には日野町交差点付近で「松阪鈴おどり」も行われます。1300人の踊り手が、軽快なリズムに乗って、宣長がこよなく愛した鈴をつけて踊ります。
>> 「毎月の宣長さん」5月
>> 「毎月の宣長さん」6月
七月の宣長
◇オーロラを見た宣長
明和7年(1770)7月28日夜、宣長は不思議なものを見た。
当日の『日記』には、
「廿八日、今夜北方有赤気、始四時頃如見甚遠方火事、
其後九時頃至而、赤気甚大高而、
其中多有白筋立登、其筋或消或現、
其赤気漸広而、後及東西上及半天、至八時頃消矣、
右之変諸国一同之由後日聞」(宣長全集16-318) とある。
今夜、北の空が赤くなっていた。10時頃は遠くの火事のように見えたが、
深夜零時には赤みがものすごく大きくなり
その中に白い筋が立ち上り、現れたり消えたり、
やがて赤気は広がり、後には東から西の半分まで覆い尽くした。
午前2時頃、消えていった・・・・
変事は各地で見えたそうだ
この変異は宣長も言うように全国的なもので、
江戸のことを記した『武江年表』には、
「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」とあり、
『想山著聞奇集』によれば長崎でも見えた。
また、神田茂『日本天文気象史料』によれば京都でも見えたそうで図が載る。
現在ではオーロラではないかとされている。
(「気候からみた江戸時代」西岡秀雄『図説日本文化の歴史』第9巻月報所載)。
昔の人はよく空を見ていた。
宣長さんも熱心に見ている。
こんな不思議を目の当たりにして、
宣長さんは、世の中は不思議が多いと思ったのだろうか。
でも諸国の情報も集めている。
このほかに、怪異星も見たし、また名月八月十五夜の月食も体験した。
『天文図説』は自分知識の限界まで考えた一つの成果だ。
知を信じる人は、知の限界を知る人でもあった。
皆さんも、夕涼みをかねて夜空を眺めてみませんか。
何か、見えるかもしれませんよ。
◇7月はどうしてふみづきか?
昔の暦では、文月7月は、もう秋です。暑さも残暑となります。
7月はフミヅキ、またフヅキと呼びます。6月はミナヅキですね。
6月が水無しで、7月が文なのだろうと考えた事はありませんか。
宣長さんも疑問に思い、いろいろ考えたようです。
『古事記伝』巻30で、
「賀茂真淵先生の説では、七月(フミヅキ)は穂含月(ホフフミヅキ)、で、八月(ハヅキ)は穂発月(ホハリヅキ)、九月(ナガツキ)は稲刈月(イナカリヅキ)だとおっしゃったのは納得できる説である。だが、その他の月はどうなるのだろう。実は私もいろいろ考えたのだが、12ヶ月全部はまだ説明できないので今は言わない。また考えがまとまったら公表しようと思う。」
と書いていますが、残念ながらその後の著作ではこの問題に触れていません。
うまく説明がつかなかったのでしょうか。
◇災い転じて・・
宣長さん52歳の時ですが、残暑厳しいこの季節、瘧という病気に罹ります。
瘧(おこり)はマラリア性の熱病で、わらわやみとも言います。光源氏が罹って療養中に若紫を見つけたという、あの病気です。このため、宣長さんは講釈や質疑応答などを以後一年半にわたって休止します。
でも、この病気に罹って本当に調子の悪かった頃、宣長さんは面白い仕事を残しています。
天文暦学研究と、書斎「鈴屋」の増築です。
7月15日頃発病した宣長さんは、やや快復傾向にあった8月17日『天文図説』を執筆します。
本書は、西洋の天文学などを援用し、日月の運行を図解した本。「朔月之図」、「上弦月之図」など8種10図をコンパスで描き、解説を加える。執筆のきっかけは、書く3日前、つまり8月15日、十五夜に月食があったためかもしれません。
また、翌月には『真暦考』も出来ています。暦が伝ってくる前のことを考察した本です。
体調優れない時期に、気分転換に天文や暦学と言った本を書いたのかもしれません。
『古事記伝』執筆や質疑応答のような一々原点を確認したりと集中を要する仕事に比べれば、宣長さんほどの学識が有れば天井を見ながらでも構想は練れたのでしょう。
10月8日には、2階の増築に着手しています。12月上旬竣工。書斎鈴屋です。下世話な推測ですが、この前年、前々年と年間医療収入が90両と、記録に残る限り最高額を記録したのも、増築に踏み切った一要因かもしれません。
この変な病気も、超多忙な宣長さんには、よき休息期間となったようです。
八月の宣長
宣長も明月に誘われて松坂郊外の山寺を訪ねたことがあります。
「八月十六日の夜月のおもしろきに思ひかけず鹿嶋元長にあざかの山寺に行合て物語などしける」(『石上稿』天明元年・宣長52歳)
そこでばったり医者仲間の鹿嶋元長に出会い、恐らく夜の更けるまで語り明かしたのでしょう。
この山寺は、今ものこる黄檗宗・景徳寺(松阪市小阿坂町)でしょう。これに先立つ、 安永3年(45歳)には、 「三月の十日頃阿坂の景徳寺にまうてけるにさくらのこゝかしこ散のこりたるを見て寺の名を句のかしらにおきてよめる」 と題して
「けふまても いろかかはらて とまれるは
くる人有と しりてまちけん」
と言う歌を残しています。各句の頭をつなぐと「けいとくし(景徳寺)」となります。
鹿嶋元長は漢学に詳しく、宣長も伊藤東涯著『制度通』を借りたことがあります。
写真は景徳寺にほど近い横瀧寺の念仏堂跡にある「鹿島元長寿碑」題字です。松阪から伊勢湾へと眺望のよい念仏堂も宣長たちにはおなじみの月見の場所だったようです。
◇海と宣長
夏は海に出かける人も多いと思います。宣長も生涯の内には何度か海との接点はありましたが、海水浴などほとんどの人とは縁のない時代、また水族館があるわけでもなく、海の知識は今の人とは比較にならないほど貧弱でした。
ところで、『古事記伝』を読んでいると、海の生き物の記事が目を引きます。
たとえばクラゲのように漂っていたと書いてあるが、クラゲってなに?
イルカの鼻が欠けるのはどうして?
ミチは、アシカか、それともラッコかな?
など色々疑問を持ち、見聞情報を集め考えています。今はもちろんですが、『古事記』の時代に比べても、海と町の生活が隔絶していただけに苦労も多かったようです。
>> イルカのレポート
また、江戸時代と海で忘れてならないのが、大黒屋光太夫などの漂流です。
記念館には『南部人漂流唐国記』(現在展示中)や、「唐国南京商船漂著安房国千倉浦記」を収蔵しています。何れも宣長の旧蔵書です。後者は、千倉浦漂着事件として数々関連記録が流布しているようです。
『日記』安永4年7月26日条には、去5月鳥羽に漂着した琉球船の乗員が迎えに来た薩摩藩の役人と大坂経由で帰る途中、松坂に泊まったと言う記事。
『寛政十二年紀州行日記』享和元年1月27日条には、和歌山滞在中の宣長と養子大平・門人植松有信の話ですが、紀州国有田郡塩津浦に漂着した唐船を大平と有信が見物に行ったが宣長は行かなかったと書かれています。
大黒屋光太夫事件と宣長の接点は不明ですが、色々耳にすることも多かったと思います。二人の接点をいくつか揚げてみましょう。まず大黒屋光太夫は白子の人で、宣長と同じ紀州藩に属します。次に、積荷は松坂長谷川家のものです。また、長谷川家は宣長の家の筋向かいです。
『大黒屋光太夫史料集』第4巻(山下恒夫編、日本評論社刊)には、服部中庸が光太夫に面接した時の聞書が載っています。中庸は松坂殿町に住む紀州藩の役人で、宣長門人です。また同書には、光太夫の書簡が掲載されていますが、宛人である一(市)見諌右衛門は、光太夫の船・神昌丸の船主で、宣長の門人・一見直樹の叔父です。
世の中の動きには敏感だった宣長ですから、きっと光太夫についての情報に接していたことは充分に推測できます。
◇月食と『天文図説』
天明2年(1782・53歳)8月15日の夜、ちょっと珍しいことが起こりました。月食です。宣長の日記には「十五夜、月食四分」と言う記事があります。
その3日後、宣長は『天文図説』を執筆します。この本は長男の春庭が浄書しています。内容は、西洋の天文学などを援用し、日月の運行を図解した本です。「朔月之図」、「上弦月之図」など8種10図をコンパスを使い描き解説を加えています。巻末には「天学大意」と題して天行、日行、月行、五星について概説します。
橋本雅之氏は、十五夜の月食と本書の執筆は関係があるのかもしれないと推測しておられます(『本居宣長事典』・『天文図説』項)。
◇53歳の宣長
『天文図説』と同じ頃、宣長は『真暦考』を執筆しています。この年の秋(7~9月)宣長は体調を崩し、講釈や質疑応答などを全部休止していたので、気分転換にこのような天文や暦学と言った本を書いたのでしょうか。『古事記伝』執筆や質疑応答のような一々原典を確認しなければならない集中を要する仕事に比べれば、天井を見ながらでも構想は練れる筈です。何より空を見ることが好きな宣長さんにとっては楽しかったはずです。
この年10月8日、2階の増築に着手し12月上旬竣工。これが「書斎・鈴屋」です。やはり体調優れず、講釈休止で来客が少なくなった事が直接の要因でしょう。でももう一つ下世話な推測をすると、この前年、前々年と年間医療収入が90両と、記録に残る限り最高額を記録したのも、増築に踏み切った一要因かもしれません。
◇帆足京の松坂訪問
享和元年(1801)年の秋の深まりは早かったようです。
はるばる熊本の山鹿から父に連れられ松坂を訪れた京(みさと)。『古事記伝』を写す内に季節は移ろい、8月も下旬となると、寒さも覚えるようになってきました。
『刀環集』と言う京の日記には、
「八月末つかたいと寒かりければ人の許より単物を貸けるを返し遣すとて、
雁によそへてよろこびの心を、
かぜ寒み雲ぢをわたる雁金のかりてぞ人のころもをぞきる
都の袷(あわせ)を恋ひて
近江ぢやいつ逢さかの関こえてわがこふる逢はんとすらん」
荷物になるからと旅の途中、京都においてきた袷が懐かしく思えてきた。
長秋、京たちにも松坂を離れるときが来たようです。
別れに際し宣長は、
「みさとのおもと年はまだ十五ときくを、手かき歌よみ文つくらるゝこと、
世の中のおうなはつかしきさまになん物せられける、
此ころ父ぬしにともなひて此里にしばしものせられけるを
九月のついたち国にかへらるゝに
花咲ん末長月のゆかしきはいまよりにほふ菊のわかなへ
若葉よりにほひことなる白菊の末長月の花ぞゆかしき」
その生涯は余りにも短かく、三一歳の時に長門国(山口県)で客死しました。
>> 帆足長秋と京親子の『古事記伝』書写の旅 其の弐
九月の宣長
◇9月
長月は、「九月(ナガツキ)は稲刈月(イナカリヅキ)」と『古事記伝』巻30にも書かれるように、収穫の季節です。また、秋冷を覚える季節でもあります。宣長さんの庭の桜も紅葉し、散り始めました。
「なが月の十日ごろ、せんざいの桜の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろとおつるを見て、よめる
花ちりし 同じ梢を もみぢにも 又ものおもふ 庭ざくらかな
これをもひろひいれて、やがて巻の名としつ」『玉勝間』巻2。
「せんざい(前栽)」は、庭の植え込みのこと。花が散るのをながめたのもつい昨日のことのよう。きょうはまた色づいた葉がほろほろと落ちるのを見ながら、宣長は『玉勝間』巻2の巻名を「桜の落葉」と決めたのです。64歳の時です。
奈良県吉野山といえば桜ですが、紅葉する秋の美しさは格別だそうです。一度お出かけになってはいかがでしょう。
宣長さんの9月は、なんと言っても十三夜のお月見です。毎年、会場を変えたりしながら開かれました。
なかでも、寛政10年(1798)9月13日の月見会は、『古事記伝』完成祝賀会を兼ねたものでした。そしてその3年後の享和元年(1801)9月29日、宣長は静かに72年の生涯を閉じました。
>> 「毎月の宣長さん」8月
>> 「毎月の宣長さん」9月
十月の宣長
◇宣長の神様
10月は「神無月」(かみなづき)、全国の神々が出雲に参集して不在となるので、諸国は「神無し月」というのだと言う説があります。
>> 「毎月の宣長さん」10月
宣長にとっての「神様」を知る最重要資料の一つに『毎朝拝神式』があります。
>> 『毎朝拝神式』
「宣長の神様」と言う重要な問題だけに講演内容を一口で言うことは出来ませんが、この拝神式は、宣長個人の意志で神様の世界を再構築する作業です。選ばれた神々の重要性ももちろんですが、その背後に透けて見えるのは、拝む者により神威でさえ変わるという、ちょっと不思議な神々の世界です。
この問題について岩田隆氏も、宣長の「吉野水分神社」信仰と言う面から次のように指摘しています。
「厳密にいえば、「水分の神」は本来決して「御子守の神」などではなかったのである。
このような神の変異を十分に知悉し、認識していたにもかかわらず、宣長はこの「水分の神の申し子」であるとの信仰を生涯持ち続けたのである」
(『本居宣長の生涯』、18頁。以文社刊)
◇語られなかったこと
宣長自ら書き残した記録類はほぼ全生涯を覆っています。つまり宣長自身の記録でその生涯を語ることも可能です。
>> 「記録の人」
つまり、今出ている多くの伝記はほとんど同じ種本を使っているので内容も余り変わらないのですが、それはともかく、宣長さんは自分を語ることに雄弁だった、これは紛れもない事実です。もう少し踏み込んで言うならば、見られる自分を常に意識していた。見られるというのは、同じ時代だけでなく、後生からの目もどうやら意識していたようです。
ここで注意しなければならないことは、見られる自分を意識すると言うことは、裏返すと、見せない部分もあるということです。宣長の場合隠すというのではなく、必要ないという判断に基づくのだと思います。
10月の記事で言えば、19歳の『日記』に、「十月上旬ヨリ、足三里三陰交に日灸をすへ始る、同じうひとり按摩をし始」と書き、それを抹消しています。三里の灸と言えば、芭蕉『奥の細道』の
「もも引きの破れをつづり、笠の緒付けかえて三里に灸すゆるより松嶋の月先心にかかり」
が思い浮かびます。
三里は膝頭の下。足を丈夫にする効果があり、三陰はやはり足にある経絡で内蔵を強くする効果があったようです。
今井田家に養子に行く前に体調を整えようとしたのでしょうか。
これは十月ではありませんが、やはり今井田家時代の「誹名号華風」(俳名を華風とした)という記事も抹消されています。
>> 「華風」
知られたくないと消したものまで詮索する権限は後生の者にはありませんが、語られなかったこともあることだけは記憶しておく必要があると思います。
◇十月の別れ
十月、宣長にとって重要な人が3人亡くなっています。師・賀茂真淵と、門人・須賀直見、友人・谷川士清です。真淵の死は明和6年10月晦日。連絡は12月4日に届きました。「不堪哀惜」(哀惜に堪えず)と『日記』に記しています。僅か4文字ですが宣長の悲しみがひしひしと伝わってきます。師を喪ったことは宣長の学問にも大きな影響を及ぼします。やがてそれは、真淵の遺志を継ぐという決意となって
安永5年10月には、「八日、須賀正蔵直見死、三十五歳、号本量恵観信士、十日、今日津谷川淡斎死之由聞之、六十八歳」と門人と友人の死が並んで記されます。直見の死も宣長には深い悲しみでした。直見が去り、その教え子「稲懸茂穂」が代わりを務め始めます。後の大平です。
>> 「賀茂真淵」
>> 「須賀直見」
>> 「稲懸茂穂」
十一月の宣長
◇11月
旧暦の霜月11月は、寒に入り冬も本番。手紙の時候のことばも「寒ニ入りことの外、冷え申し候」とか、「仰せのごとく寒冷の節」と変わってきます。
◇山の神のご馳走
山の神のもてなしの様子が宣長の「日記」に記録される。
宝暦9年(1759・宣長30歳)11月11日条には、
「当年、町内の山の神当番で、手前(宣長)と清八両家が相勤めた。朔日の夕方から5日の夕方に至るまで子ども宿を清八がこれを勤め、6日の振る舞いは手前がこれを勤めた。町内の子ども男女並びに伴まで、およそ35、6人。6日夕飯は七ツ半(午後5時位)時、献立は、飯、羮(あつもの)、ザクザク、鱠(なます)、平【山の芋・にんじん・ゴボウ】、あぶりもの【サワラ・ブリ】。酒は無し。菓子【小落雁・串柿・軽焼き】。同夜食、町内中に申し遣わす。人数は定めず。今晩はおよそ20人位が来る。献立は前と同じ。酒は3献。取り肴【蛸】。7日、終日酒。町内世話人は7、8人なり。吸い物一つ、取り肴1種」(意訳)
この他、宣長の冠婚葬祭の記録からは、各々の行事の流れと、そこで用意された献立、つまり「ハレの料理」まで知ることが出来る。これは伊勢国の食事を知る上で貴重な史料であるにもかかわらず、ほとんど研究されていない。
しかし、復元の試みはある。
たとえば、宣長をもてなした伊勢の御師荒木田久老のご馳走は、松阪の老舗料亭「武蔵野」が、次女美濃の婚礼の献立は、やはり松阪の老舗料亭「八千代」によりその一部が復元を試みた。武蔵野の試みは、「鈴屋先生の「好物」」として『伊勢人』120号「宣長流ライフスタイル」(伊勢文化舎)に紹介された。美濃婚礼の食事は、『松阪に生きた宣長(まちじゅうがパビリオン松阪・本居宣長翁篇)』(伊勢の國・松坂十楽)に載る。
だが、いくら調べても「柱餅」など皆目見当の付かないものもあり、また「日野菜」のように、近代の品種改良により昔の形が失われたものもあったりして、より幅広い研究が必要だろう。
これは食材の移動の問題とも関わってくる。
宣長はしばしば「十六島海苔」を献立に交え、逆に「蓮根」や「慈姑」の乏しいことに不満を漏らすが、輸送手段の限定された時代だけに、食材の地域性、また個人の交友による食材の移動も、そこからは窺うことが出来る。
>> 「十六島海苔」
◇山の神は大賑わい
今も昔も、松阪の子どもたちの一番の楽しみ、それは「山の神」です。
宣長の門人・服部中庸の『松坂風俗記』によれば、11月1日より、山の神祭りの準備に着手し、また子どもたちは山の神銭をもらいに、「山ノ神ノ銭ショ、オイワシコイワシ、銭ショ」などと歌いながら各家をまわる。これが5日まで続く。そして、祭り当日は、次のように書かれています。
長谷川家で祀られる魚町の山の神
「六日、山の神を祭る。一町に一所也。其町の会所、又は家々順番に当番有て、其所に祭るも有。社を正面にかざり、前に饅頭、蜜柑、海老、串柿、神酒、又白餅といふものを備ふ也。其社の戸びらを開きて、入口に立る人形有。これをしらもち喰といへり。又左右に竹を立、それに小判の形したる仙餅やうの物と蜜柑とを、こよりにてつりさげて立る。児共大勢よりて遊ぶ。町内打寄て、夜食を出し、酒肴を以て宴遊する。男子出生せしとしは、格別に祝ふ也」。
また、『松坂権輿雑集』には、各町ごとに約20箇所に祀られていて、「霜月六日の夜児童集会し山菓、海老、生米、餅を供ず」とあります。
魚町の住人であった宣長も生涯に何度か当番を務めています。 宝暦9年(1759・宣長30歳)11月6日には、町内の子供や大人35、6人も招き、食事やお菓子、また酒を振る舞いました。当日のにぎやかな様子は、宣長の日記に詳しく書かれています。
三村竹清が松阪で採録した山の神の歌
「山の神さんは子供がお好きで大家も小家も御繁昌、笹葉をちぎれよさよさよさ」(「伊勢鄙事記」)。
各町にあった山の神も都市開発で片隅に押しやられてしまいました。魚町山の神は幸にも同じ町内・長谷川家の庭園内で立派に祀られ、祭の日には子どもたちがにぎやかに参詣します。
◇御前講義
65歳の宣長は、紀州藩主の招きで和歌山に出府します。初めて十代藩主・徳川治宝(はるとみ)侯に御前講義をしたのは、寛政6年11月3日で、講義書目は「大祓詞」(おおはらえのことば)でした。藩主から2間(約3・6m)と近くまで進み、そこから講義を行いました。講釈の図が残っています。
同月5日に残りを講釈し、6日には『詠歌大概』を御前で読みました。両書は、神道と和歌の基本文献です。講釈の評判は上々だったようです。
>> 「大祓詞」
>> 「講釈の評判」
無事に役目を終えたご褒美として贈られたのが「板文庫」です。(現在展示中)
藩主への講義に引き続き閏11月12日には、その祖母・清信院様への講義が行われました。たいへんな気の遣いようで、事前に宣長の好物、また嫌いなものはないか、酒は飲むか、菓子は食べるかと問い合わせがあり、また当日は寒かろうと宣長の左右、背後と三方に大きな鬼面の火鉢が置かれたと、同行した大平は伝えています。御簾の近くに鈴屋衣を着てめがねをかけた65歳の宣長が座り、その周囲を火鉢が囲むというちょっと不思議な光景です。この時のテキストは、『源氏物語』若紫巻と『古今集』俳諧部。清信院、宣長二人の共通の師であった賀茂真淵事も話題に上り、和やかな雰囲気の中で時間は過ぎていきました。
◇来訪者
名前が有名になるにつれ宣長のもとを訪ねる人は増えてきました。奥州から九州まで、蘭学者に儒学者、僧侶に神官、有名無名、実に色々な人がやってきました。諸国の人からは貴重な話も聞けました。来訪者の記録『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』(『本居宣長全集』20巻)をもとに、11月の来訪者を見てみましょう。
寛政2年(1790)11月、京都滞在中の宣長の所へ出雲国(島根県)大庭村の神魂社神主・秋上得国がやってきました。秋上氏からは出雲大社と同社との深い関わり、また火切りの神事や因幡の白ウサギについての話を聞くことが出来ました。この時の話は、帰宅後『古事記伝』に加筆されました。
>> 「宣長を調べる楽しみ」
>> 「鈴屋訪問」
>> 「来訪者対策」
また、寛政3年11月27日来訪した大和国(今の奈良県)の津久井尚重からは、市辺王の陵についての説を聞くことが出来ました。この時の話も手沢本『古事記』に加筆され、その後、『古事記伝』巻43顕宗(ケンソウ)天皇条で「或人の云ク」として紹介されました。
寛政8年(1796)11月には珍しい人が来ました。狂歌師で浮世絵師の窪俊満です。肉筆美人画で知られる俊満は、確信に満ちた宣長の言葉を聞き、恐れ入ったようで、次のような狂歌を残しています。
「角もじの いせとしいへば かみ国の ひとの心は まけず玉しひ」。
>> 「窪俊満(クボ・シュンマン)の訪問」
俊満の浮世絵に宣長が歌を書いた絵の写真を以前見たことがあります。
十二月の宣長
歳暮夢
さめて今 思へばくれし 一年も 共に一夜の たまくらの夢
宣長
◇12月
宝暦13年(1763)12月16日、江戸の賀茂真淵は、宣長宛書簡を執筆。同年5月25日に新上屋で対面し、6月には最初の書簡と質問状が真淵宛に送られた。それから半年、やっとこの日、入門手続きの仕方を記した書簡が書かれ、質問への回答を同封し宣長に向けて送られた。松坂到着は、恐らく正月であろう。宣長にはすばらしいお年玉となったはずだ。
12月には、この他にも宣長の元服(15歳)、書斎鈴屋の竣工(53歳)、紀州徳川家仕官(63歳)と大きな出来事があった。
さて師走に入ると、門人などから「寒中見舞い」が届く。寛政11年(1800・宣長70歳)の見舞いの品を見てみると、鯛が7軒と一番多い。また、みりん酒、そばきり、卵などいろいろ。寒の入りの前12月12日には出雲特産「十六島海苔」が届いた。
>> 「十六島海苔」
また、すす払い(大掃除)や餅つきと何かと忙しい。出入りの大工・八郎兵衛からは鏡餅を飾る折敷や、しめ縄に付ける「蘇民将来」の札が届く。このように迎春の準備は着々と進む。
この月は一年の締めくくり。本居家の家計は、当時の慣例に従って、盆と暮れに集計をする。盆は7月14日までが前期「春」で、大晦日が「盆後」となる。大晦日にはそろばんを片手に計算したのだろうか。
これは、享和元年(1801)、熊本の帆足長秋、京親子が松坂を訪れたシーン。
彼らが鈴屋に到着したのは夏の真っ盛り6月の下旬。玄関に注目していただきたい。しめ縄が掛かっている。このように伊勢地方では、今も一年中、しめ縄が飾られる。また松阪などではしめ縄の上には、「蘇民将来子孫之家」という札が付く。これが伊勢市では「笑門」と地域差もある。
>> 「蘇民将来」(ソミン・ショウライ)
◇こたつの歌
宣長に「こたつ」を詠んだ歌があります。
前後の文章も一緒に見てみましょう。
「しはす(師走)ばかり、これかれあつまりて、埋火を題にて、歌よみける日、今の世のこたつといふ物をよめと、人のい(言)ひければ、
むしぶすま なごやが下の うづみ火に あしさしのべて ぬらくるよしも
とよめりければ、みな人わらひてやみぬ」
『玉勝間』巻3「こたつといふ物のうた」
師走のある日、何人か集まって「埋み火」の題で歌を詠んでいたところ、今の「こたつ」でも歌が詠めますかと言うので、宣長が一首詠んだら、なるほど上手いものだと笑って次の話題に移っていった、と言う情景でしょうか。
歌を聞いて、一座の人がすぐに思い浮かべた、あるいは訳知り顔に、「これはねえ」と誰かが言ったかもしれないのは、
『万葉集』巻4、534番
「蒸し衾(ふすま) なごやが下に 臥せれども 妹とし 寝ねば 肌し寒しも」(ほかほかの柔らかな布団にくるまってみたけれど、あなたと一緒じゃないから肌が冷たいよ)
「蒸しぶすま」は柔らかい布団、「なごやが下」は柔らかい物の下。それを上手く「こたつ」に転じ、また添い寝を連想させる「ぬ(寝)らく」に持って行く。なかなか上手だと思いますが、いかがですか。
それはともかく、このような、それこそこたつに足を突っ込みながら語り合う和気藹々とした知的な雰囲気、こんな時間を宣長や当時の松坂の旦那衆は共有していたのです。これが「円居(まどい)」です。
『古事記伝』執筆が全部終わったときの祝賀会を、「古事記伝かきおへぬるよろこびの円居して」と書いていますが、「円居」とは、文字通り丸くなって座ること。仲間同志での集まることです。
宣長の学者としての活動は、宝暦8年(1758)嶺松院歌会から始まり、やがてそのメンバーへの『源氏物語』講釈へと展開していくことはよく知られています。講釈を「円居」といっては拡大解釈が過ぎるかもしれませんが、後の雑談(『講後談』)や、歌会、その延長にある月見に花見、紅葉狩りといったエクスカーションは立派な「円居」です。
宣長一門の「円居」風景を描いたのが、「鈴屋円居の図」です。
まさに「円居」は宣長学の揺籃(ゆりかご)でした。しかし、やがて親しかった友人が去り、世代は代わり、また諸国の人が円居に入ってきます。ただのメンバー交代ではなく変質していくのです。宣長学は重大な転機を迎えるのです。
>> 「講釈」
>> 「鈴屋円居の図」
>> 「何が描かれているのかな」
◇国学者と漂流譚
天明2年(1782)12月13日巳の刻(太陽暦1783年1月15日午前10時頃)、伊勢国白子港(三重県鈴鹿市)を一艘の舟が出帆した。船の名前は「神昌丸」。船主は一見諫右衛門。乗船者は沖船頭大黒屋光太夫以下17名と、猫1匹。積み荷は紀州藩の蔵米と、松坂魚町の丹波屋長谷川治郎兵衛の商品など。長い旅の始まりとなった。
12月14日深夜零時過ぎ駿河湾沖合にて大西風により難破。神昌丸は太平洋を漂流。
7月20日アレウト列島に漂着。その後、光太夫らはロシア皇帝エカチェリーナ二世に謁見、帰国を嘆願し、日本に帰ったのは寛政4年(1792)であった。
この漂流譚は小説、そして映画にもなり、つい先だって「大黒屋光太夫記念館」も開館したが、実は宣長とも糸筋程度だが関係がある。
まず、船主の一見は、門人・一見直樹の本家筋にあたる。
次に、積み荷の所有者は向かいの長谷川家であった。
もう一つは、光太夫に白子で聞き取り調査を行ったのが門人・服部中庸であった。
帰国は果たしたものの、幕府の監視下に置かれた光太夫らが、ようやく故郷に帰ることができたのは享和2年(1802)のことであった。
その時、光太夫を迎えたのが一見諫右衛門とその叔父・直樹。おそらくその直樹の紹介であろう、紀州藩松坂城代与力・服部中庸も同席し、『一席夜話』を残した(山下恒夫編『大黒屋光太夫史料集』第4巻)。
中庸は藩の役人として、いわば公務で光太夫に面接したのではないと思うが、といって単なる好奇心だけでもなかったのかもしれない。
小倉藩の国学者・西田直養(なおかい)は、文政9年9月3日、小倉の本陣大坂屋良助で、南海パラオ諸島から帰国した漂流者と対面して聞き取り調査を行い、『ペラホ物語』を書いた。本書は「すぐれたパラオ民族誌」と評価される。
亀井森氏は、直養の漂流民への関心の根底に、国学者のまなざし、もっと端的に言えば、古代を具現化するもの、さらには民俗学的な関心をみる(「ある国学者のまなざし-西田直養の二つの視点-」『国文学解釈と鑑賞』2005年8月号)。
つまり、国学の中には漂流民、そしてその流れ着いた先への関心へとつながるものがあったということだろうか。
宣長の場合、30歳頃に、『今昔物語』から鎮西人が度羅島に至る奇談を書き抜き、また「唐国南京舶漂著安房国千倉記」を写すなど、日本に漂着した人に対して一応の関心は持つ。『玉勝間』「石見の海なる高島」は漂流譚ではないが、未知の世界という点では共通する。
民俗学的な関心もある。
養子の本居大平も同じだ。宣長に付き添って和歌山に滞在していた寛政13年1月27日には、有田郡塩津浦に漂着した唐船見物に出かけている(この時は、宣長は行かなかった)。
また、文化10年(1813)、尾張国の督乗丸が難破して484日間漂流するという事件があったが、この時の聞き取りである池田寛親『船長日記』には、中山美石(大平門人)の跋文と、大平の長歌が添えられている。(春名徹『世界を見てしまった男たち 江戸の異郷体験』ちくま文庫)
日本人は物見高いし、好奇心が旺盛だからね、だけでは済まないのかもしれない。きっと平田篤胤をはじめとする宣長以降の国学者の民俗や異境への関心とも関わってくるのだろう。だがその代償として、注釈に代表される古典研究からは離れていくことになる。
しかし、先の服部と西田の話をあまり大きな声で言いたくないのは、『一席夜話』も、亀井さんの紹介分しか見ていないが『ペラホ物語』でも、下ネタに目が行ってしまうからだ。
柳田国男ではないが、この手の話になると学問がとたんにうさんくさく聞こえてくる。
◇赤穂浪士と宣長
宣長は延享元年9月 (1744年・15歳)、『赤穂義士伝』を著した。これは、樹敬寺における実道和尚の説経の聞書である。巻首には、
「予、延享元年九月の比より、樹敬寺ニて実道和尚説法ノ次ニ、播州あこノ城主浅野内匠頭長□(ノリ)の家臣、大いしくらの介藤原のよしを巳下ノ家臣、主ノ敵を討シ物語をせられしを、我カ愚耳ニきゝしとをリヲ書キシルシをく也、しかれども、聞わすれし所も有りければ、次第ふつゝにして定らず、又ハをちたる所も有べし、わすれし所も有り、然レ共先ツ記ス、凡ソ此事をしるしたるもの、廿余とをり有りとかや、此レハ大石ノしゆかんと云書を以て説といわれたり」
とある。聞いてきたことをそのまま書いた。なにぶん記憶したことだけに忘れたりして首尾一貫しないし、聞き漏らしや誤りもあるかもしれないというのだ。それにしても全長362センチに細字で記され、記憶力のすばらしさには驚くばかり。内容は、実録の義士伝物の流れに属するとのこと。全文は『本居宣長全集』第20巻に載る。
これ以後の宣長と赤穂義士を少々記す。
京都遊学中の宝暦6年(1756・27歳)5月23日、堀蘭澤と清閑寺に参詣したそこで江戸・泉岳寺の出開帳として四十七士の遺物や泉岳寺墓の模造が並べてあったので拝観料5文を出し見物している。
宣長の書籍目録『経籍』には、「赤穂忠臣ノ事ヲ記ス書ドモ也」として関連書が載る(宣長全集:20-624)。また宣長の師の堀景山は『不尽言』で義士論を展開している。当然、宣長も読んだはずだ。
◇『秘本玉くしげ』
天明7年(1787・58歳)12月、門人で紀州御勘定方役人(服部中庸か)の勧めで、藩政改革の提案書『玉くしげ』を執筆。紀州藩主・徳川治貞に奉った。後に、本書は『秘本玉くしげ』として刊行された。
>> 『玉くしげ』
◇離婚
12月には悲しいこともあった。みかとの離婚である。詳しい事情は分からない。宣
長31歳のことである。
>> 「結婚」
◇松坂の師走風景
宣長門人・服部中庸の『松坂風俗記』には、1800年代初頭の松坂の風俗が詳しく記録されています。
当時の師走風景を見てみることにしましょう。
12月8日、「猫も三文」の日で、各家では豆腐を焼田楽として食べる。
最近は豆腐を食べればよいのだからと湯豆腐や煮染めにすることも多い。
夜まで豆腐売りの声が聞こえる。一緒に蒟蒻を買う家もある。
(大平の実家は豆腐屋。さぞ忙しかったことであろう)
>> 「豆腐」
13日、正月ことはじめとして煤払いが行われる。
これは江戸店持ち商人が向こうから持ち込んだ風習である。
(宣長の家でも15日位までに行われます)
>> 「煤払い」
寒の入り頃に「寒気見舞」をする。暑中見舞いと同じ。
20日頃、餅つきが行われる。最期に主人が「臼魂」を行う。餅花は子どもが作ることが多い。(宣長の家の餅つきは26日頃)
この頃、親類や先生、世話になっている医者になとへ祝儀を贈る(お歳暮)。
正月の注連縄(七五三縄)を作る。家によって作り方が変わる。
27日から28日朝まで「松市」が、本町三井伊豆蔵の辻や新町の蓬来の辻である。
「銭壱文」の事を「壱〆」と言う。飾り付けのユズリハ、竹シダ、椎柴なども一所に売る。
28日から晦日まで門飾。飾り方も家によって違う。
子どもの遊びは、ぎっちょう、破魔弓、手まり、羽子板。
旧暦なので、12月中に立春(節分)が来ることがある。その夜は豆まきを行う。
神社に参詣し、また岡寺など観音にも参る。
正月のお供え「年徳棚」や「疱瘡神の棚」(除夜のみ)を飾る。
>> 「大晦日鏡供え」
大晦日の夜は、各家に挨拶回りをする。また年始客用の重組(おせち料理)を用意する。
中は、数の子、牛蒡、煎って醤油をかけたごまめ、
その他にニンジンの青のりまぶしや坐禅豆、くき漬、キンピラ牛房など色々家によって大同小異。
また雑煮の用意をする。医者の家からは患者の家に屠蘇(トソ)を贈る。(宣長も贈ったのだろうか)
一月の宣長
これは京都に滞在する長男春庭(健亭)に宛てた宣長の賀状です。寛政8年(1796)年、宣長67歳、春庭34歳の春です。
〈読み下し〉
「新春の慶賀、ご同前めでたく申し納め候、先以て、其の元いよいよご無事ご越年これあるべく、珍重に存じ候、此の元、親類中無事に加年し候、ご安意賜るべく候、右年始、お歓び申し入れたく、此の如く御坐候、尚永日の時を期し候、恐々謹言」
今回は省略していますが、この決まり文句の挨拶のあとに、「尚々」として、今年は例年に比べて暖かいねとか近況報告が記されます。
日付を見ていただくと分かるように、賀状は三が日の行事を終えたあとに少しずつ書かれていったようです。
◇宣長さんのお正月
まだ若い頃に、宣長は年中行事を定めています。その正月部分は、
>>「正月の行事」 をごらん下さい。
ところが、町役を務めたり、また紀州徳川家に仕官してからは、ずいぶん様変わりします。役所や役人宅への挨拶回りが加わるのです。
まず、33歳、宝暦12年正月を見てみましょう。
「二日、晴曇天○早朝御役所礼、但シ去年御町奉行役替、未有跡役、故参小笠原治右衛門殿役所、是御両役而、替目之間、御町奉行兼帯也、其後屋敷町礼」
この頃、宣長さんは魚町の寄合組頭と言うような役をしていた推定されます。(吉田悦之「松坂と宣長」『須受能屋』6号)
次に、64歳、寛政5年正月元旦です。この前年12月3日、紀州徳川家に仕官が決まり、正月も俄然忙しくなります。
「朝六時、御両役月番方【夏目治右衛門】礼、次同役【花房庄兵衛】屋敷礼、右両役所ハ支配故、先相勤、次御城代礼、其外屋敷礼」
◇元日の朝
仕官後の宣長さんの正月の様子を『日記』に見てみましょう。
宝暦12年
「二日、晴曇天○早朝御役所礼、但シ去年御町奉行役替、未有跡役、故参小笠原治右衛門殿役所、是御両役而、替目之間、御町奉行兼帯也、其後屋敷礼」
寛政5年
「朝六時、御両役月番方【夏目治右衛門】礼、次同役【花房庄兵衛】屋敷礼、右両役所ハ支配故、先相勤、次御城代礼、其外屋敷礼」
寛政6年
「自早朝御役所其外礼」
寛政7年
「朝五ツ半時、御城代礼、但自去冬、御城御普請、依之御礼、於御城代役所申之、予年頭御礼之振未慥、当年頭者、別ニ時刻遅可出之由、依有指図時刻如右」
寛政8年
「五ツ半時、御城御礼【但御城御普請故、御城代屋敷也】、両役所其外屋敷少々礼」
寛政9年
「七日、節分、今日於御城代衆宅御礼【但御城御普請ナルユヱナリ】、五半時、其外屋敷町礼相勤」
寛政10年
「五半時、御城代御礼、其外屋敷町礼」
朝六時は、今の6時をまわった頃、五ツ半は9時くらいでしょうか。
若水汲みなど家の中での諸行事を終え、着物を改め、役所にご挨拶に行きます。随分早くに起きたのでしょうね。
松坂町本町の豪商『小津清左衛門日記』には、
「朝七ツ半頃神々蔵々鏡餅備江、夫より家内鏡餅相済、六ツ半過奉行所御月番御玄関罷出祝儀可申上候、夫より御城代江玄関江罷出候、別ニ御礼申上候事・・」(天保12年)
とあり、その後、殿町の役人宅への挨拶回りとなります。七ツ半というと5時で しょうか。当時の人は、このころから行動を開始したようです。
◇新書斎で春を迎える
天明3年(54歳)は特別の春でした。
前年12月上旬に新書斎「鈴屋」が完成したのです。窓から朝日がのぼるのを見て歌を詠みました。
「こぞの冬高き屋を構へたるむつきの朔日の朝東おもてなる窓をひらき見てよめる
あたらしき ひかりまちとる 杉の戸も あひにあひたる 初春の空 」
東の窓は、床の間脇の小さな明かり取りの窓です。「宣長の仕事場」のページで場所をご確認下さい。
>> 「宣長の仕事場」
◇特別な正月
旅先での正月の様子は「200年前のお正月」をごらん下さい。
>> 「200年前のお正月」
◇正月も働く
年始挨拶もそこそこに、宣長さんは患者の診察をしています。
寛政5年(64歳)正月元旦、朝六時から御両役月番方夏目治右衛門殿、次に同役花房庄兵衛殿の屋敷に礼に行き、次に御城代、またその外の屋敷礼を済ませたあと、宣長は十徳に着替えて医療活動開始です。この日に診察したのは、かめや佐五兵衛他4名。中には、田丸屋十介(稲懸茂穂・後の本居大平)、津島屋彦一(竹内元之)と、大事の門人もいました。
>> 「元日診察」
>> 「医者としての宣長」
>> 「稲懸茂穂」
>> 「本居大平」
>> 「竹内元之」
二月の宣長
雪きえて 四五百の森の 下草も
若葉つむまで 春めきにけり
(宝暦11年・32歳)
旧暦の二月は、寒さの中にも春の息吹が感じられる季節。松坂では初午祭りで心浮き立つ季節だ。「初午を過ぎないと暖かくならない」と地元ではいうが、なるほど中旬を過ぎると春の気配が感じられる。宣長の時代には桃の花見という楽しみもあった。
>> 「初午」
京都から帰郷した翌宝暦8年(29歳)2月11日、宣長は初めて「嶺松院歌会」に出詠します。松坂での活動がいよいよ本格化します。
また、宝暦12年2月、自撰歌集『石上集』巻1が出来ます。この本は内容もさることながら、書名の「石上」が注目されます。古代への憧憬の念が込められているからです。
>> 「石上」
そして古代研究へのガイドブック、賀茂真淵『冠辞考』を同じ月に購入しています。
2月には吉事もありました。
まず、宝暦13年(1763)2月3日に長男が誕生しました。名前は健蔵。後の春庭です。
また、寛政元年(1789)2月17日には、愛宕町菅相寺では宣長六十賀の宴と歌会が開かれました。津の七里政要、川北夏蔭、白子(鈴鹿市)一見元常、村田春門、坂倉茂樹、松坂からは稲懸大平、三井高蔭、中里常岳、長谷川常雄、中里常秋、村上円方、青木親持、森光保、垣本重良、戒言、また松坂滞在中の、遠州国・鈴木書緒、高林方朗、そして春庭です。
>> 「菅相寺」
◇宣長日記と2月記事
「日記」は宣長の日常を知る第一次資料ですが、今回は別の利用法をご紹介いたします。
- 風俗やまた芸能関係記事が多いこと。
宝暦6年2月25日条には、当時流行の福引き記事が出てきます。同7年2月3日、宣長は京都四条河原で歌舞伎「傾城月待山」を見ています。宣長は芝居が好きだったようで『在京日記』には、評判や噂まで記録されています(一部切断があるのは残念ですが・・)。このことは芸能史の専門家の間では有名で、『歌舞伎年表』(岩波書店)にも引用されています。
- 工事関係記事が載ること。
年度末が近づくと公共工事が増えます。宣長さんの時代、年度末は無関係ですが、寛政4年閏2月には、「大橋」掛け替え工事完了して渡り初めという記事が、また寛政7年2月には、大橋の川上、堤防嵩上げ工事が完成の記事が見えます。平成15年夏に、15年に及んだ松阪城跡の石垣工事が終了しましたが、安永6年、同じ箇所の工事が行われたことも「宣長日記」でしか確認できない事実です。
- 災害や流行記事。
流行正月というちょっと変わった記事や、火事、病気の流行も記されています。
宝暦10年2月11日条には、去る6日、江戸で大火事があったと記され、その翌日には叔父らが江戸に出立しています。安永5年(1776)には、「世間では風邪引きが流行っている、どうやらが全国的な流行のようだ」と書かれています。みなさまもどうかご用心を。
>>「江戸の火事」
◇中衛時代の始まり
「3つの大きな出来事」の中でも書いたが、2月の出来事の中に「春庵」名を「中衛」に改めたことがある。紀州徳川家に仕官し、初出府も無事に済ませて十人扶持となったことが改名の理由だが、数多い宣長書簡が、この改名以前を「春庵」時代、以後を「中衛」時代とすることでも分かるように、これ以後の書簡が急激に増えてくる。現存する書簡の半数以上が中衛時代6年間の執筆である。超多忙になったのだ。晩年に向けてのラストスパートが始まる。
>>「春庵」
>>「中衛」
◇参宮幸便
書簡で全国の仲間とネットワークを築いた宣長。書簡を届ける方法としてユニークなのが伊勢神宮に参る人、つまり参宮客に届けてもらう方法だ。これを「参宮幸便」という。
遠州(静岡県)の門人・栗田土満の宣長宛書簡に「参宮幸便一筆啓上仕り候」(安永6年3月15日付)とあるのは有名だ。近くに参宮客がいたら、これ幸いと「松坂を通ったら、本居宣長さんという医者にこの手紙を届けておくれ。魚町という街道の側の町だからね」と頼む。旅人は手紙一通など造作もないことと預かり、そして届く。栗田からも本居からも感謝され、恐らく本居家ではお茶の一杯も出たであろう。
もちろん逆もある。寛政3年2月2日の甲州(山梨県)の門人・萩原元克宛書簡に、「新正之御慶、御同然目出度申納候」と新年の挨拶があり、 「此方よりも旧冬おしつめ(年末)、参宮人便りに辻氏に向け差進し申候紙包、定而相達し候半と奉存候」 とある。
またその文末に「此度辻氏より参宮人の幸便有之・・」とあることから、辻氏が使った参宮人は返事の伝達も依頼されていたことが分かる。
辻守瓶も、萩原と同じく甲州に住む宣長門人で、寛政某年正月14日付書簡には「此節諸方参宮人之幸便文通返事共さしつとひ、殊外取込」というお詫びの文言もある。参宮幸便殺到と言うのもすごい。
時には未着もあった。某年2月3日同人宛に、「然者去年中参宮人便ニ御返事さし出し申候処、相達不申候由」とある。
宣長の備忘録『諸国文通贈答並認物扣』にも、「○長瀬(中略)参宮人便リ也」とある。肥後熊本の宣長門人、長瀬真幸である。
このように参宮幸便ネットは全国に及んでいたことが分かる。
>> 「書簡」
>> 「栗田土満」
◇節分
宣長の頃は暦の関係で、立春の前日、つまり節分は1月、早いときは12月にやってきました。宣長の門人・服部中庸が記録した当時の節分の様子を見てみましょう。
ヒイラギと鰯、豆まきなど節分の行事は今とほとんどかわりません。年齢より一つ多く食べるのもおなじですね。
「一、節分の夜大豆はやしの事、大かたは都に同じ、 神棚、竈、ゑびす、大黒其外とも家々に祭り、来る神々又は仏前なとへも灯明をともし、 入口ごとにいわしの頭とひゝら木をさす。 又頭と尾を用るも有、とし男といふて人を定而此事する家も有。 大豆を煎には豆ぐらにて灯也、新敷烙焙を買て用る。 此日の前に此ものうりに来る者皇大神宮の土器を調進する宇爾と云村より出し来る。 正月入用の土器とともに一所ニかひ置也。 豆を升に入て主人又は名代、或は年男袴着にて両方のかたにむかひてなげる。
其詞に、「フカアウチウチ(傍注・福ハ内也)・トビヤアウチ(傍注・冨ハ内也)」 右之如く云て家中豆を三度まきて、今一人の者表の戸を此時少し明かければ、 「オニヤアソト(傍注・鬼ハ外也)」此詞土地の方言也、詞つまりてやゝ坂東声なり。 といひて豆を一つかみ外へ出す。 此拍子に戸をはたと音する程たてつける也。 如此一間、又二階あれば二階、蔵あれば蔵へかくする也。 又氏神へも豆はやしに行ていふことばは前のごとし。 扨神棚仏前へも豆を供じ家内も皆食す。ただし年の数に一粒多く食する也。」
(『松坂風俗記』)
三月の宣長
春ながら まだ風寒み さくら花 枝にこもりて 時やまつらむ
『枕の山』
◇桜咲く3月
宣長にとっての弥生という月は、若い頃と40歳以降では随分異なっています。
それ以前のことは、「3つの大きな出来事」や「万事改まる3月」を見ていただくとして、40歳以後は、3月と言えば桜の季節です。
桜の美しさは年齢を重ねるほどに深まると言います。
宣長の場合も同じです。小林秀雄は次のように語っています。
「宣長さんがね、本當に櫻にうち込んだのは、四十からだね、若いときから櫻が好きだつたとはいふが、四十からの宣長さんには、何か必死のものが見えるね、僕には。何といふか色合ひがちがふんだよ、それまでとは。僕もさうだつた、四十からだつた、やはりね、身を切るやうな痛切な體驗がないと、駄目だね、・・・・ただ、きれいだ、きれいだといふだけで、ちつとも食ひ込んで行かないからね。」
郡司勝義「花やかへりて我を見るらむ-小林秀雄の櫻」 (『文學 界』1995,4)
40歳頃と言えば明和年間も末で、母、また賀茂真淵の死、「おかげ参り」など宣長周辺では大きな出来事が続けて起こりました。明和年間という「宣長の転機」を今年の宣長十講のテーマとだったのですが、来年度、つまりこの5月からの宣長十講では「安永年間の宣長」というテーマで、どのように宣長が変わったのか、そこから何が生み出されてくるのかを見ていきたいと思います。
さて、その安永2年に、「花五十首」と言う桜の連作があります。その中の
さきのよに 花はいかなる 契有りて かばかりめづる 心なるらん
などは、そのまま晩年の物狂おしいほどの桜への思い(それを詠んだのが『枕の山』別名「桜花三百首」)へとつながっていきます。
素朴な見方だと言われるかもしれませんが、本居宣長は自分の体験をもとに物を見て考えた人です。桜の美しさも実際の感動が根底にあったのです。
桜の花くらい、虚心に見ることの難しい花はありません。桜の花ではなく、どうやら理屈の花が咲き誇っているようです。
>> 「桜」
>> 「本居宣長四十四歳自画自賛像」
>> 『枕の山』
◇旅の仕方も「宣長流」
春は旅の季節です。伊勢路でも多くの旅人の姿を見かけます。
宣長さんの頃の3月はもう晩春。花見や参宮に出かけることも多かったようです。
宣長にとっての「旅」は、私たちと同じように、日常生活を離れることで、非日常的な出来事でした。
これは、三重県の人で言えば、芭蕉や大淀三千風、松浦武四郎のように、旅が人生そのものという人たちとの決定的な違いです。つまり、時間とお金と健康と気力の余裕のある時に旅立つのです。
だから、もし卒業論文で、
「宣長における「旅」」
と言うテーマを選んでも、あまり本質的な問題ではないネ、と指摘されるかも知れません。
でも、その生涯の旅の記録を見ていくと、そこにはいかにも宣長らしい「旅の手法」が見て取れます。
「宣長の旅の手法」、それは「徹底探索」です。
19歳の京都旅行、43歳の吉野・飛鳥旅行はその典型的な例です。
また60歳の時には、『万葉集』に出る「山辺五十師原」を考証するために鈴鹿、石薬師を歩きます。宿に着いたのは夜の子の刻、深夜12時だったと言います。
64歳の時、大坂を旅したとき、宿の関係で寄れなかった契沖の円珠庵も、72歳の2月に再び訪れています。
『菅笠日記』の旅では、火災による仮社殿だった飛鳥坐神社も、その後、和歌山行きの時に再訪しています。この神社は、「大和国高市郡、飛鳥神社は、大社と申す中にも、殊にやむごとなきゆゑよしのおはします御社」と宣長が高く評価しています。
歌枕の考証も執拗です。
「妹背山」や「水無瀬」などは、わざわざ船を止めて、下りては探索をしたことが『玉勝間』に書かれています。
行く前にもよく調べ、旅の途中はよく見て、よく聞き、よく歩き、帰ってからも何度も考え、調べ、思い出しながら、時には「旅」に新しい意味を付与し、宣長の旅は豊かになっていくのです。
>>「宣長の旅一覧表」
>>「宣長の旅」
>>「宣長と旅」
>>「宣長の修学旅行」
>>『菅笠日記』
◇飛騨さんの初節句
明和7年(1770)3月3日は大雨振りでした。でも魚町の宣長(41歳)宅ははなやかな歓びに包まれていました。
1月12日に生まれた長女・飛騨の初節句です。2月15日には、宣長の母の実家である村田家から紙雛や小さな着物が届いたのを皮切りに、初節句の祝儀が妻の実家・草深家、大口村の伊兵衛、宗善、村田伊兵衛家からも次々にひな人形が届いた。本町の小津家からは「古ひゝな」、古い雛人形も届いた。他にも干菓子や花餅など。またこれに先立ち2月29日には内祝いとして草餅が親戚など18軒に配られました。これらのことは、宣長自筆の『臨時吉凶贈酬帳』に詳しく記載があり、「本居宣長全集」で見ることができます。
>>「ひな祭り」
>>「飛騨」
◇蔦屋重三郎がやってきた
3月になると訪問客も増えてくる。
寛政7年(1795)3月25日、珍しい人が来訪した。江戸の蔦屋重三郎、通称「蔦重」である。
「同廿五日来ル、一、江戸通油町蔦ヤ重三郎 来ル、右ハ千蔭春海ナトコンイノ書林也」(『雅事要案』)
しかし蔦重と言えば、なんと言っても有名なのが写楽の版元としてだろう。寛政6年から7年にかけて錦絵140種余りが出しその後ぷっつり途絶えてしまった。謎の絵師・写楽の出版直後の来訪だけに、ひょっとしたら話題にのぼったのでは・・。でも錦絵には批判的な宣長だけに無理かな。
なぜ蔦重は宣長の所に来たのだろう。おそらく、宣長の本を江戸でも販売することへの挨拶だったと思われる。当時急成長していた名古屋の書林、中でも永楽屋東四郎、その永楽屋の主力商品が『古事記伝』など宣長本であったことは周知の事実。そちらへの接近にあわせて、著者にも会っておこうかということだろう。
実際にこの後、『玉勝間』や『出雲国造神寿後釈』が蔦重経由で江戸に広まっていった。
蔦重と宣長の関係で忘れることが出来ないのが、『玉勝間』の記事改変事件だ。
儒学や儒者を批判した章を、ちょっと危ないですよと宣長に忠告したのがどうやら蔦重であったらしい。万事に慎重な宣長がその項目を差し替えたのは言うまでもない。
戯作者・山東京伝が手鎖50日、版元蔦重が身代半減の重過料という筆禍事件を寛政2年に経験しているだけに、蔦重としては危ない橋は渡りたくなかったのだろう。この一件については、杉戸清彬氏『初版本玉がつま三の巻』(和泉書院)に詳しい。
余談だが、蔦重の危惧したのは時の老中・松平定信の思想統制であったと推測される。ところが逆に、写楽の版画を蔦重に発注した人としても、松平定信の名前が挙がってくる。美術評論家・瀬木慎一氏の『写楽実像』説だ。
氏は、定信の文人としての一面を取り上げ、庶民の歌舞伎離れからその将来を憂えた幕府が振興策として写楽版画を利用したのだという。また、写楽、定信をつなぐ人物として村田春海を想定する。写楽説もある阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛は八丁堀地蔵橋の住人。その斎藤の隣に春海は住み、または春海の非凡な才能を評価した定信は屋敷にも出入りを許していたのだという。(以上「日本経済新聞」2000年2月20日「美の巨人たち・東洲斎写楽・リアリズムの悲劇(下)」松岡資明氏執筆による)
蔦重・宣長・春海・定信、そして写楽、この人たちはどんな糸で結ばれるのだろう。
謎は多い。
>>「鈴屋訪問」
>>「玉勝間」
>>「初版と再版」
>>「村田春海」
>> 「毎月の宣長さん」2月
>> 「毎月の宣長さん」3月