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令和2年度 春の企画展

クラゲから、可児の場所や読み方まで・・
 日本の原型は、クラゲのように漂うものだったという『古事記』の記述。クラゲっていったい何だろう。水族館やネットのない時代、宣長は不思議に思います。これは長崎帰りの知人が、船に乗っているとき見たよと教えてくれて一件落着。
 今年、編纂1300年を迎える『日本書紀』に出る「泳宮」。変わった名前ですが、『万葉集』では「八十一隣の宮」とあります。「八十一」は「九九、八十一」、ククと読み、隣は「リ」だから、これはククリ。
では「ククリ」とはいったいどこか。息子春庭と写した地図で探していくと、美濃国可児郡、明智の隣に「久々利」の地名を発見!今の、岐阜県可児市久々利です。
 さて、宣長が手元の本を見ると、「可児」をカコと読んでいるが、ところが地元の人はカニと言っている……
 こんな事を松坂の町医者・本居宣長は考えていたのです。これが古典を読む、つまり注釈の世界です。注釈とは、水をかけて柔らかくすることが原義です。たとえば『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、『源氏物語』など古典は民族の宝。それを、わかりやすくすること、つまり注釈をつけることが理解の第一歩と宣長は考えました。
 今回の本居宣長記念館の展示は、そんな深く、広く、不思議な堂々巡りの、宣長の注釈世界に皆さんを誘います。

 【会  期】  2020年3月10日(火)~6月7日(日)
 【展示総数】  79種161点※内、国重要文化43財点(変更あり)
 【展示説明会】 5月16日(土)11:00より(無料)
 【休館日】   月曜日(祝日の場合は翌日)
 【開館時間】  9:00~16:30
 【入館料】   本居宣長記念館・本居宣長旧宅「鈴屋」共通
         大人400円 大学生等300円 小人(小学校4年生~高校生)200円
宣長と「注釈」の小話

●注釈史に燦然と輝く『古事記伝』
▲『古事記伝』再稿本宣長筆44冊(展示は一部のみ)
 「注とは、そそぐ、水をかけて、固い地面をやわらかにするように、難しい本文の意味を易しくすること」一説には、それが注釈の語源と言われているそう。易しく、わかりやすくする、と言うのは簡単だが、実際には非常に大変な作業だ。それが、文化や時代が異なる、遙か遠い昔の話であるなら、なおのこと。
 注釈とは、テキストの背景にあるものまで解読する作業だ。そのためには、言葉はもちろん、風俗から法律、自然環境まで把握していなければ務まらない。それだけなら、博識な人でも出来る。ところが、宣長の注釈はそれだけではない。それに時間の流れまで加わっていた。言葉なら意味がどのように移り変わってきたのか、また和歌のスタイルの変遷など、あらゆる事柄の変化の過程が頭に入っていた。そして、テキストをしっかり読み、想像力を働かせていたのである。
 宣長が35年の歳月をかけて完成させた『古事記伝』44冊。学問は絶えず更新されていくものであると考える宣長は、自身の『古事記伝』も、やがて新たな学問の波の中へ呑まれていくのだろうと考えていた。けれど、宣長が最終巻の筆を置き220年以上の歳月が流れた現在でも、『古事記伝』は色あせない。  宣長は、『古事記伝』には、関係ありそうなことは取りあえず全部書いたと述べている。  

「おのれこの古事記の註は、つばらかなるうへにも、なほつばらかにせんとなん思ひ侍ればば、うるさきまで長々しく侍る也。さるは古事記にかゝらぬあたしことをさへ、何くれとかきくはへて、大よそ古学の道は、此のふみにつくしてんの心がまへになん侍る」
            (相模国小田原の飯田百頃宛宣長書簡)
 つまり注釈というスタイルを借りて、入門書、いやそれ以上の本を作ろうとしていたようだ。ここに、『古事記伝』が時代を超え、今も輝く理由がある。
●注釈=テキストをどう読むか
 「注釈」と聞くと、みなさんはどんな風に思うでしょう。
 ひたすら部屋の中で、古い文献や分厚い辞書をひっくり返し、ちまちまちまちま言葉の意味を書いていく――きっと、そんな辛気くさいイメージ?
 そんなのは、学校の古典の授業の中でのお話!
 宣長が感激し、生涯をかけて行った「注釈」という作業は、ときには想像し、ときには現地にだって飛び出す、もっとダイナミックなものだった。
 種々の学問が興った江戸時代は、注釈の時代でもある。宣長自身が『百人一首改観抄』や『源氏物語湖月抄』などの注釈書で学んだ古典も多く、そうした著作によって研究の方法を知ることだってあった。契沖は方法を、北村季吟は現在の注釈スタイルを作った先達だ。そんな先輩たちが書き残したテキストのページを捲りながら、宣長は自らの注釈スタイルを確立していく。

●注釈の必要性
 宣長は、晩年に書き記した学問入門書『うひ山ぶみ』の中で次のようなことをいう。
「古書の注釈を作らんと、早く心がくべし、物の注釈をするは、すべて大に学問のためになること也、」
「古書の注釈を作らんと云々、 書をよむに、たゞ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限リあるものなるに、みづから物の注釈をもせんと、こゝろがけて見るときには、何れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也、されば其心ざしたるすぢ、たとひ成就はせずといへども、すべて学問に大いに益あること也、是は物の注釈のみにもかぎらず、何事にもせよ、著述をこゝろがくべき也」
 読んでいるだけでは、何となく分かったような気になるだけ。本当の理解は得られない。「注釈」という行為が、学問を深化させていくのだという。 だから、学問をするには注釈をするのが最もいい方法なのである。

●『古事記』vs『日本書紀』
「古昔(ムカシ)より世間(ヨノナカ)おしなべて、只 此ノ『書紀』をのみ、人たふとび用いて、世々の物知リ人も、是レにいたく心をくだきつゝ、言痛(コチタ)きまでその「神代巻」〔カミヨノマキ〕には、註釈なども多かるに、此『記』をば たゞなほざりに思ヒ過(スグ)して、心を用ひむ物としも思ひたらず」 (『古事記伝』宣長著 巻1)
 宣長が言うように、当時、歴史書といえば『日本書紀』。漢文できっちり書かれているので、これこそが真の歴史書であると評価が高かった。『古事記』といえばニセモノ扱いで、ほとんど重要視されていなかった。そんな扱いだから、当然、『古事記』の注釈書なんてない。宣長が持っていた『古事記』だって、他の歴史書を購入した際についてきた、オマケみたいなもの。そんな宣長の『古事記』は、書き込みや附箋でびっしりだ。誰も手に取らなかった本から、宣長は注釈の世界を広げていく。
 けれど、『日本書紀』が全否定だったわけではない。
 宣長は『書紀』について、漢籍風の潤色が多い点を批判したが、その飾りに惑わされることなく読めさえすれば、『書紀』も価値ある本なのである。
 『書紀』といえば、津の谷川士清だ。彼は注釈書『日本書紀通証』(35巻)をはじめ、現在の国語辞典の先駆けともいえる『倭訓栞』(93巻)も執筆した。最初は宣長も「『書紀』じゃない。やはり『古事記』が一番ですよ」だなんて挑発的な手紙を送っているが、やがて士清の博識ぶりは宣長を魅了していき、真淵没後は21歳も年上の士清と多くの議論を行った。今回は、宣長が士清へ宛てた長文の書簡を展示した。当初、宣長は『古事記伝』をひっそりと執筆していたようである。そんな中、士清から『記伝』借用を請われ、びっくりするという、珍しい宣長の姿を見ることが出来る。中途半端なものを人に見せるわけには……と長々と弁明する宣長だが、結局熱意に負け、士清に『古事記伝』を貸すことになる。反発から始まった、歩くデータベースのような士清との交流も、宣長の注釈作成を助ける要素となっていく。
[解説動画内容]
 春の企画展テーマ 「古事記と日本書紀 
                ―注釈ってなぁに?―」
▶ 春の企画展 ①  https://youtu.be/6spc6u6pebE(9分39秒)
 宣長が影響を受けた三人の先生たちとの出合いを、「松坂の一夜」を中心に解説します。

▶ 春の企画展 ②  https://youtu.be/rEjkJkOOX5E(7分58秒)
 宣長が『古事記伝』を執筆する上で協力してもらった人々との「知のネットワーク」を紹介します。

▶ 春の企画展 ③  https://youtu.be/GRnrffsVU3U(6分30秒)
 宣長が『古事記伝』完成の喜びを友人荒木田久老(アラキダヒサオユ)に宛てた書簡を紹介します。完成の喜びが伝わってきます。
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