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令和3年度 春の企画展

宣長の学問は、出会い系
 宣長の人生を見ていると、願いは叶うものだと思います。
 父は、どうしても血のつながった息子に跡を継がせたいと、神様に願った。
 母は、父の遺言を守れずとも、息子が立派に生きていける道を考えた。
 京都の師堀景山は、宣長に古典の面白さを教え、松阪で医者として働き始めれば、当時の最新作・賀茂真淵の『冠辞考』を貸してくれる人が、松阪にはいたのです。
 しかも、真淵先生に会いたいと宣長が望めば、先生の方から松阪へやって来る。
宣長へだけの恩恵ではありません。
 景山が種をまき、真淵が育てた学問の芽は、多くの人々との出会いによって開花し、人から人へと枝は広がっていきます。出会い、質疑応答を繰り返す中で、学問は深化していくのです。
 真淵先生に怒られながらも、友人と情報交換。日常業務に奔走したり、『古事記伝』の執筆が進めば、会いたいと引っ張りだこになったり。そんな宣長の忙しい毎日から、私たちにとっては今や難しくなってしまった「出会うよろこび」を考えます。
 宣長が会えてうれしかった!宣長に会えてよかった!会いたかった!
 宣長を中心に巡る、そんな多くの人々のドラマをご紹介します。


    ● 期  間   2021 年3 月9 日(火)~ 6 月6 日(日)
    ● 展示総数   90 種102 点 ※内、国重要文化財38 点 (変更あり)
    ● 展示説明会  3 月20 日(土) 4 月17 日(土) 5 月15 日(土)
            ※いずれも11:00 より(無料)


「出会い」の無限連鎖


● 松阪の一夜

 宣長は生涯で数多くの出会いに恵まれましたが、やっぱり最上の出会いは「松阪の一夜」でしょう。28 歳で医者となり松阪へ帰った宣長は、医者として働く中、江戸でこんな本が出た、と『冠辞考』を紹介されます。『冠辞考』は江戸で活躍中の国学者賀茂真淵の著書。「冠辞」、つまり和歌の枕詞の研究書(辞典のようなもの)です。
 何度も何度も読んでいるうち、真淵学に魅了されていく宣長。ぜひ、会って話をしたいけれど、真淵先生は江戸の大先生。江戸では会うのは難しい……と思っていたところに、真淵先生の方から松阪へやって来ます。
 ドラマみたいな幸運!でも、ただのラッキーじゃありません。
 当時『冠辞考』は最新刊の学問書。江戸へ進出している松阪の経済と、真淵の本を読んで「おもしろい」と感じる松阪商人の文化力がないと、この出会いはきっかけすら与えられなかったはずです。しかも、宣長に真淵の来訪を知らせたのは、街道沿いの本屋柏屋だと言われています。きっと宣長が、本屋へいく度に真淵先生のことを話していたのでしょう。誰かに話して種をまいておくというのも、大切なのですね。

 ちなみに、この「松阪の一夜」の経緯と内容は宣長自身が随筆『玉勝間』で自ら書いていますが、世に広めたのは佐佐木信綱です。明治10 年から約4 年、多感な少年時代を松阪で過ごした信綱は、この地で「松阪の一夜」と出会ったのです。

● 宣長先生に会いたい

 真淵先生と出会い、宣長の『古事記』研究は飛躍的に進んでいきます。研究が進んでいくうち、宣長は有名になり、会いたい人や質問の手紙も増えていきました。
 伊勢の荒木田久老は、宣長と同じく真淵先生の門人であり、宣長の友人。『古事記伝』が書き上がるたびに「貸してほしい」と言ってきます。学問は公開すべきもの。しかも、懇意にしている久老さんのお願いだ。けれど、『古事記伝』はまだ出版前。手元にこれしかないから、長い間貸すと大変だ。そのときの宣長から久老に宛てた書簡には、「『古事記伝』の17 巻を貸すけれど、なるべく早く返してほしい」とくどいほどに書かれています。無理をしてまで貸したいほど、久老は宣長にとって大切な人だったのです。

 また、田中道麿は、宣長と出会い、その学問に生まれ変わったような衝撃を受けました。年上でありながらも宣長へ入門し、結果的に道麿は自身の門人を宣長へ譲る形となります。計88 名の尾張鈴門中、21 名が道麿の門人、または門人と推定される人物だ。
 しかも、その多くが名古屋の国学者で主要な人物です

道麿は、自分より年長だったが、入門してきて、二度三度は松阪まで勉強しにやってきたし、普段は手紙で質疑応答を繰り返していたが、この人ももう亡くなった。だが、名古屋の日本古典の学問は、道麿の努力で始まったのである

  宣長は随筆『玉勝間』でそう回想します。

 また、有名な先生でなくとも、多種多様な人々が松阪の宣長のもとへやって来ました。
 そんな中でも、インパクトがあるのが熊本県山鹿の帆足長秋・京(みさと)親子です。彼らが住まう山鹿から松阪までは、徒歩2 か月の道のり。そんな険しい道のりを、15 歳の娘京を連れ、父長秋はなぜ歩いたのか。すべては宣長先生の『古事記伝』を写すためである。決して裕福でない親子が松阪まで来るのは、「宣長先生のもとで写す」事に価値を感じていたからではないでしょうか。親子が書写した『古事記伝』は熊本県山鹿市に現存します。今回は、京が宣長へ『古事記伝』返却の際に添えた短冊を展示します。

●本当は、会いたかった

 宣長に会いたくても、会えなかった人もいる。
 福井県の伴信友は、享和元年(1801)入門を決意し、鈴鹿出身で江戸住まいの村田春門に仲介を依頼しました。ところが、時すでに遅く、入門願いが松阪に届いたのは、宣長が亡くなった後でした。信友の嘆きの深さに、春門は所持していた宣長像の写しを作成、大平(宣長の養子)の賛をもらい、信友に与えました。

 宣長最晩年の弟子と自称する平田篤胤は、宣長のことを知ったのは、実は没後2年のとき。宣長の『馭戎慨言』、『大祓詞後釈』を読み、同じ時代を生きながら、先生に会えなかったことを悔やんでいました。そうすると、夢の中に宣長先生が現れ、入門を許されたのだといいます。篤胤はこの経緯を文に認め、宣長の息子春庭へ送ってきました。その手紙を展示します。

 伴信友、平田篤胤は、どちらも宣長の没後門人です。後に独自の学問を展開し、宣長説を批判、篤胤は松阪鈴門から嫌われはしたものの、師に会いたいと願う気持ちは、他と変わらなかったでしょう。

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