【もっと知りたい】

 『古事記伝』版本第1帙刊行  九月十三夜
 9月の宣長  お米と雀

 『古事記伝』版本第1帙刊行 

 寛政2年9月7日、伊勢神宮の林崎文庫で遷宮祝賀歌会が開かれました。
 両宮の遷宮が終わり、諸国からおびただしい参宮人が来た(『宣長日記』)のがちょうど一年前。歌会に出席した宣長は、深い感銘に浸っていました。
 その時詠んだ宣長の歌。

    寄鏡祝
 くもりなき御代も宮居もやた鏡千たび八千度うつりますまで

    社頭杉
 五十鈴川あらたにうつる神垣に年ふる杉の影はかはらず

 実は、宣長にはもう一つ大変嬉しいことがありました。掲示されていた文庫への奉納書の中に『古事記伝』の名前があったのです。
 賀茂真淵と対面し、『古事記』研究の決意を打ち明けたのが34歳の夏。それから既に27年がたち、『古事記伝』も27巻目まで書き終えました。一方、全巻書き終えるのを待たずに出版も開始され、ようやく最初の5冊が完成し、さっそく伊勢神宮や熱田神宮、また関係する神社に奉納されたのです。

 その時の歓びを、出版作業最大の功労者である横井千秋に宛てた手紙の中で、
「生涯の大悦、申し尽くし難く忝なく存じ奉り候」
と述べています。
 さて、この時の千秋宛書簡が、この度、本居記念館の収蔵品に加わりました。
 内容は、既に知られていますが、宣長生涯のなかでもきわめて重要な書簡として展示していきたいと考えています。

 この時刊行された『古事記伝』第一帙5冊の値段は、銀25匁。今のお金に換算すると、4万円位かな。

>>「『古事記伝』の刊行」

 九月十三夜 

  国学者は、九月十三夜の月見を日本独自の風習と考え、好んで月見をしました。門人・長瀬真幸も宣長さんに「八月十五の夜、月を賞するも、漢にならへるなるべし、皇国には何の比より始れる歟。歌は続古今に初めて見える見えたり、此比より始れる歟」、また「(九月)十三夜の月を賞するは源氏にも見ゆ、歌は金葉集に始て載たり、源氏の比、既賞することありし歟」と質問をしています。宣長さんは九月十三夜の起源は「宇多延喜ノコロハジメ也」と書いています。
 国学者の九月十三夜の中でも有名なのが「県居(アガタイ)の九月十三夜」です。宣長さんから離れて真淵さんの所を覗いてみることにしましょう。
 佐佐木信綱に「県居の九月十三夜」と言う文章があります。「松坂の一夜」後日談と言った内容で、真淵の住まい「県居」や、主人の様子を窺うことの出来る面白い一文です。 また、この時の歌が次の連作です。真淵一代の絶唱として知られています。

  九月十三夜県居にて
 秋の夜のほがらほがらと天の原てる月影にかりなきわたる
 こほろぎの鳴やあがたのわが宿に月かげ清しとふ人もがも
 あがたゐのちふ(茅の生い茂ったところ)露原かき分て月見に来つる都人かも
 こほろぎのまちよろこべる長月のきよき月夜はふけずもあらなん
 にほどりの葛飾早稲の新しぼりくみつつをれば月かたぶきぬ『賀茂翁家集』巻1
【注】  宇多、延喜の頃は、『古今集』、『延喜式』の編纂が開始された頃です。

>> 「県居の九月十三夜」


 9月の宣長 

寛保2年(13歳)、岸江之仲から「源氏供養」、「野宮」等を習う。
寛保3年(14歳)9月24日、『新板天気見集』書写。
安永4年(46歳)9月19日、父の命で春庭(13歳)『にひまなび』(賀茂真淵著)を書写する。春庭最初の写本である。
天明2年(53歳)9月12日、『真暦考』脱稿。
寛政5年(64歳)9月中旬、『古今集遠鏡』の原稿出来る。 寛政9年(68歳)9月4日、『源氏物語玉の小櫛』版下出来る。


 お米と雀 

 8月下旬から、三重県でもお米の刈り取りが始まりました。今年の作柄は良だそうです。
ここでは収穫期の話を二つ紹介しましょう。

1,にふなひといふ雀
 宣長は諸国からやってくる人の話を注意深く聞き、時にはそれを古典研究にも活かしました。以下に紹介するのは、愛知県からやってきた人の語った「雀」の話。古典によく出てくる「稲負鳥」との関わりもあり、宣長は興味深く感じたようです。

「尾張国人のいはく、尾張美濃などに、秋のころ、田面へ、廿三十ばかりづゝ、いくむれもむれ来つゝ、稲をはむ、にふなひといふ小鳥あり、すずめの一くさにて、よのつねの雀よりは、すこしちひさくて、嘴の下に、いさゝか白き毛あり、百姓はこれをいたくにくみて、又にふなひめが来つるはとて、見つくれば、おひやる也、此すずめ、春秋のほどは、あし原に在て、よしはらすずめともいふといへり、のりながこれを聞て思ふに、入内雀といふ名、実方中将のふる事いへる、中昔の書に見えたり、されどそれは附会説にて、にふなひは、新嘗といふことなるべし、新稲を、人より先に、まづはむをもて、しか名づけたるなるべし、万葉の東歌にも、新嘗をにふなみといへり、又おもふに、稲負鳥(イナオホセドリ)といふも、もし此にふなひの事にはあらざるにや、古き歌どもによめる、いなおほせ鳥ののやう、よくこれにかなひて聞ゆること多し、雀はかしがましく鳴く物也、庭たたきは、かなへりとも聞えず」『玉勝間』巻3

2,お米と宣長
 宣長には食物に対する信仰とも言える感謝の念がありました。『玉鉾百首』に。
  たなつもの百の木草も天照す日の大神の恵みえてこそ
  朝宵に物くふごとに豊受の神の恵みを思へ世の人
の歌がそれをよく表しています。宣長が日本を考えるときに、「稲」は一つの鍵となるものでした。『古事記伝』に、「稲は殊に、今に至るまで万の国にすぐれて美(メデタ)きは、神代より深き所由あることぞ、今の世諸人、かゝるめでたき御国に生れて、かゝるめでたき稲穂を、朝暮に賜(タ)ばりながら、皇神の恩頼をば思ひ奉らで」とあります。『玉くしげ』でも同じ意見が繰り返され、これが、『伊勢二宮さき竹弁』のおける外宮論の基調となっていきます。

 米は、宣長の生きた社会の基盤でもありました。米価の安定が世情の安定につながったのです。『日記』宝暦12年以降、寛政11年まで、各年末には米価が記されるのもそのためです。



毎月の宣長さん
九月の宣長