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 5月の宣長  医者の不養生  

◇ 5月の宣長  

 この月の重大な出来事として、「3つの大きな出来事」以外に次のようなことがありました。

寛保元年(12歳) 5月14日 宣長と母子、本町より魚町の隠居家に移居。この住まいが現在「本居宣長旧宅」と称している建物である。
延享3年(17歳) 5月 『大日本天下四海画図』を描き始める。
寛延元年(19歳) 5月2日 京で朝鮮人入洛を見る。
宝暦2年(23歳) 5月12日 堀景山が書入れた『勢語臆断』説を書写する(『和歌の浦』巻4)。「臆断」の著者である契沖、この人の学問との出会いが宣長のその後を決定した。
宝暦4年(25歳) 5月1日 武川幸順法橋に入門、医術修行。
宝暦8年(29歳) 5月3日 『安波礼弁』起筆、『紫文訳解』も同時か。
宝暦13年(34歳) 5月5日 健蔵(春庭)初節句により親戚や出入りの者に夕飯をもてなす。
明和5年(39歳) 5月 最初の著作『草庵集玉箒』前篇5巻3冊が刊行される(刊記)。
明和6年(40歳) 5月9日 賀茂真淵、宣長宛書簡執筆。宣長の宣命への着眼を誉める。また、自分は、小を尽くして大へ、人の代を研究して神代へと言う態度で学問してきたことを言う。愛弟子・宣長への遺言とも言える1通。

◇ 医者の不養生 

 宣長は宝暦4年(25歳)5月1日から医者の勉強を始めたが、医者の不養生か、宣長自身も病気になること多かった。
宝暦2年(23歳)5月17日、
『史記』会の日であるが病気のため欠席する。
同年5月19日、
『晋書』会の日であるが病気が平癒しないので欠席する 。
宝暦4年(25歳)5月16日、
母は手紙で「しだいにあつさになり候間、随分随分ねびへ(寝冷え)も致し不申やうに、心がけ申さるべく候、灸もいたし申さるべく候」と気遣う。
天明6年(57歳)5月上旬頃、病気になる。
☆6月21日付、内山真龍宛書簡(大平代筆)に、「且又私義も、去ル五月上旬より不快罷在、此節漸ク大抵ハ快気仕候へとも、未諸方状通等、一向ニ相止メ罷在り候」とあり、又、10月15日付海量宛、閏10月16日付栗田土満宛書簡等に快復記事がある。
天明7年(58歳)4月頃、病気になる。
大平『万葉会評聞書』天明7年4月条に、「四月来ヨリ本居家御持病、五月末平快、然レドモ五、六、七、八月世上困窮ニテ門人ドモ不参。依之師家御会、源氏、万葉、新古今トモニ休会也。九月世上秋作宜、十日ヨリ会始ル」とある。
寛政元年(60歳)5月19日、
松坂滞在中の栗田土満に書簡執筆。一昨日夜、昨夜と来訪しなかったがどうしたのかと様子を問う。自分の病気ではなく、門人を気遣っている。
享和元年(72歳)5月8日、
京都で講義を続けていた宣長は、風邪発熱のため講義を一時中断する。
☆『鈴屋大人都日記』「八日師風の御こゝちになほおこたり給はず、朝のほど厠にものしたまひけるに、いかがし給ひけむ横さまにたふれ給ひければ、人々むねつぶれて、たすけまゐらせておましにものしけるに、汗はしとゝにながれて目をのみふたぎ給へれば、せむかたなくさぶらふかぎり、御かたはらにつとそひゐて、やゝおどろかしきこえつつ、たゞ神をぞいのり奉る、しばしありて御目をひらき給ひて、夢のやうになむありし、今はこゝちさはやぎぬとの給ふに、草の葉の色なる人々の顔すこしなほれり」(宣長全集・別3_144)

>> 「栗田土満の訪問」



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