寛保元年(12歳) |
5月14日 |
宣長と母子、本町より魚町の隠居家に移居。この住まいが現在「本居宣長旧宅」と称している建物である。 |
延享3年(17歳) |
5月 |
『大日本天下四海画図』を描き始める。 |
寛延元年(19歳) |
5月2日 |
京で朝鮮人入洛を見る。 |
宝暦2年(23歳) |
5月12日 |
堀景山が書入れた『勢語臆断』説を書写する(『和歌の浦』巻4)。「臆断」の著者である契沖、この人の学問との出会いが宣長のその後を決定した。 |
宝暦4年(25歳) |
5月1日 |
武川幸順法橋に入門、医術修行。 |
宝暦8年(29歳) |
5月3日 |
『安波礼弁』起筆、『紫文訳解』も同時か。 |
宝暦13年(34歳) |
5月5日 |
健蔵(春庭)初節句により親戚や出入りの者に夕飯をもてなす。 |
明和5年(39歳) |
5月 |
最初の著作『草庵集玉箒』前篇5巻3冊が刊行される(刊記)。 |
明和6年(40歳) |
5月9日 |
賀茂真淵、宣長宛書簡執筆。宣長の宣命への着眼を誉める。また、自分は、小を尽くして大へ、人の代を研究して神代へと言う態度で学問してきたことを言う。愛弟子・宣長への遺言とも言える1通。
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