【もっと知りたい】
|
◇ はつむま 2月の歌で引いた「雪きえて」には一つの言葉が隠されている。 「二月 初午 いせ一ヶ国の賑ひ也。岡寺山継松寺ト云寺ノ観世音へ参詣す。大体、前日よりして、当日之夜にいたる。見せ物、軽業など、わづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興行す。京、大坂、名古屋、四日市、津辺よりも、商人多くきたりて、種々の物を売。大かた一ヶ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人皆参詣する。殊に厄年之者は猶さら也(中略)当日之昼四ツ時比より八ツ時過までは、寺内に人詰りて、老人子供などは参詣かなはず。一ト切一ト切に人数を入かへて参詣さする也。」京や大坂、名古屋からも香具師が来て、一年中の買い物が全部揃う。伊勢の国中の人がやってくる。厄の人はもちろんだ。あまり人が多いので老人子どもは参詣できない。入場制限をする。まるで東京ディズニーランドだね。中庸は、紀州藩与力、つまり警察署員だ。人の集まりには目を光らせる立場にあった。 因みに、宣長さんも前厄(41歳)、本厄(42歳)、後厄(43歳)きちんと済ませている。 でもどうして岡寺に厄落としをするのか。 『本居宣長随筆』 「水鏡【中山内大臣忠親公作】序云、此尼ことし七十三になんなり侍る、三十三を過がたく、相人なども申あひたりしかば、岡寺はやく(厄)をてん(転)じ給ふとうけ給はりて、まうでそめしより、つゝしみのとしごとに、きさらぎのはつむまの日、まゐりつるしるしにこそ、今まで世に侍れば、今年つゝしむべきにて参りつる云々とあり、是は大和の岡寺也、松坂の岡寺も、これにならへるにや、厄おとしといひ、初午に参る事、またく同じ、又女は三十三を厄年とするも、是によし有て聞ゆ」と書いてあり、面白いことに田中道麿が 「女ニハ十九ノヤクモアリ、夕顔ノ上十九也」と付箋を貼っている。名古屋から勉強にやってきた道麿さんが、先生のノートを見せてもらい、出典を書き加えたのだろう。 ノートまでチェックされるから先生も大変だ。
>> 『松坂風俗記』に描かれた江戸時代の「初午」風景 |
◇ 香良洲へ参詣・江戸の火事 宝暦10年(1760)、31歳の2月を見てみよう。 |
|
毎月の宣長さん | 二月の宣長 |
---|