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 はつむま  香良洲へ参詣・江戸の火事

 はつむま  

 2月の歌で引いた「雪きえて」には一つの言葉が隠されている。
  「はつむま」である。
 
 松坂、岡寺山継松寺の初午(ハツウマ・ハツムマ)は、宣長当時から、近在でも評判の大きな祭であった。例えば、宝暦8年(1758)宣長29歳の『日録』に「二月朔、初午、晴天」と書かれる。これは通常だと、「晴天、初午」となるところだが、逆転した書き方に気持ちの高ぶりが感じられる。  
  門人・服部中庸の『松坂風俗記』で祭の賑わいを見てみよう。

「二月 初午 いせ一ヶ国の賑ひ也。岡寺山継松寺ト云寺ノ観世音へ参詣す。大体、前日よりして、当日之夜にいたる。見せ物、軽業など、わづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興行す。京、大坂、名古屋、四日市、津辺よりも、商人多くきたりて、種々の物を売。大かた一ヶ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人皆参詣する。殊に厄年之者は猶さら也(中略)当日之昼四ツ時比より八ツ時過までは、寺内に人詰りて、老人子供などは参詣かなはず。一ト切一ト切に人数を入かへて参詣さする也。」
(『本居宣長稿本全集』)
 京や大坂、名古屋からも香具師が来て、一年中の買い物が全部揃う。伊勢の国中の人がやってくる。厄の人はもちろんだ。あまり人が多いので老人子どもは参詣できない。入場制限をする。まるで東京ディズニーランドだね。中庸は、紀州藩与力、つまり警察署員だ。人の集まりには目を光らせる立場にあった。
 因みに、宣長さんも前厄(41歳)、本厄(42歳)、後厄(43歳)きちんと済ませている。

 でもどうして岡寺に厄落としをするのか。
 『本居宣長随筆』
「水鏡【中山内大臣忠親公作】序云、此尼ことし七十三になんなり侍る、三十三を過がたく、相人なども申あひたりしかば、岡寺はやく(厄)をてん(転)じ給ふとうけ給はりて、まうでそめしより、つゝしみのとしごとに、きさらぎのはつむまの日、まゐりつるしるしにこそ、今まで世に侍れば、今年つゝしむべきにて参りつる云々とあり、是は大和の岡寺也、松坂の岡寺も、これにならへるにや、厄おとしといひ、初午に参る事、またく同じ、又女は三十三を厄年とするも、是によし有て聞ゆ」
と書いてあり、面白いことに田中道麿が
「女ニハ十九ノヤクモアリ、夕顔ノ上十九也」
と付箋を貼っている。名古屋から勉強にやってきた道麿さんが、先生のノートを見せてもらい、出典を書き加えたのだろう。
ノートまでチェックされるから先生も大変だ。

平成13年、岡寺初午風景
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「岡寺初午風景。
宣長の頃の賑わいはこの比ではなかった」
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「岡寺初午風景。香炉周辺」


 >> 『松坂風俗記』に描かれた江戸時代の「初午」風景




 香良洲へ参詣・江戸の火事  

 宝暦10年(1760)、31歳の2月を見てみよう。

○10日、加良洲神社(一志郡香良洲町)に参詣する。

○11日、嶺松院会。この日、6日の江戸大火の知らせが入る。被害概要がつかめるのが7日、約5日弱で松坂に連絡が入ったことになる。江戸店持ち商人の多い松坂は驚天動地だろうが、友人も多い。でも、宣長さんはあまり関係がない。対岸の火事だ。
☆『日記』「(二月)十一日、去六日江戸大火事之由、今日相知、六日暮六時、神田旅篭町出火、紺屋町飛移、自夫石町、伝馬町、本町三丁目四町目、室町、堀留舟町、小船町、南北新堀辺不残焼、永代橋深川迄焼通、凡松坂店之分、八九分通此度焼失、其内土蔵等多焼失之由、殊外之大火也、同日七時、芝神明前亦失火、大成候由也、且又三日大火事有之候上也」

○12日、叔父小津源四郎、手代彦兵衛江戸下向。源四郎店は大伝馬町一丁目にあり、宣長も一年滞在した場所だ。下向は6日の火事の関係か。

○13日、木造(久居市)に桃の花見に行く。片道約10キロ、加良洲神社よりは近いが、半日仕事だろう。『宝暦咄し』には、「木造桃はやし、毎年花見大賑合(一本頭書「明治末期迄賑ふ」)」(『松阪市史』9_174)とある。

○15日、『狭衣物語』校合終わる。手沢本奥書「宝暦十年庚辰二月望日、一本校合畢、舜庵宣長」。

○20日、菅相寺和歌会。この日が初会。毎月20日と定めるが8月で終わる。 月次定日二十日。

>> 6月の宣長・「菅相寺の西瓜」
>>「菅相寺歌会」


◇ 嶺松院会に初めて名前が出る。
◇ 古代探求開始 ◇ 『馭戎慨言』
◇ はつむま ◇ 香良洲へ参詣・江戸の火事


毎月の宣長さん
二月の宣長