midashi_o.gif 浦上玉堂の琴を聴く 

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 浦上玉堂(1745〜1820)は、国宝「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」で知られた、近世中期を代表する南画家。玉堂は、それまでの多くの南画家が中国の南宋画を目指したのとは異なり、日本人の南画を志向し、独自の境地を得た。また、琴をよくした。

 もとは鴨方池田家(備前岡山池田家支藩)に仕えた武士であったが、寛政6年(1794・50歳)に4月、春琴、秋琴の二児と城崎から出奔し、諸国遊歴を開始する。脱藩の原因はよくわからないが、風雅を好んだことや、寛政異学の禁で交友のあった河本家が弾圧をうけたことも一因とされる。

 脱藩した年の9月、玉堂は松坂の宣長を訪うた。
「九月来ル、一、備前岡山、玉堂、俗名(以下空白)」
                 (『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』)
 
 国学への関心もあり、また河本家やひょっとしたら木村蒹葭堂、海量などからも話を聞き、寄ったのだろう。
 宣長に会った玉堂は、自慢の琴を披露した。

「師翁玉堂老人がいせのうみの曲うたひて弾琴けるを聞給ひて
 よにたらし ことの音きゝ いせの海や いけるかひをも ひろひける哉
(端詞改)備前国浦上玉堂翁伊勢国松坂里に遊はれける時鈴屋主人前にていせのうたの曲うたひてこと弾かれけるときよみ給へるうたとて彼翁より伝へ聞侍るをさかしおきつる其歌」
         田中大秀『ひとつまつ』(『田中大秀』第5巻37頁・勉誠出版)

 「師翁」は宣長、「彼翁」は玉堂。大秀が玉堂と対面した時に聞いたものだという。
 きっと宣長には、画より琴士としての方が興味深かったはずだ。
 読書人 富岡鉄斎が、玉堂の作品を集めた帖に『鼓琴余事帖』と命名したその識見や、熊本の長瀬真幸が宣長に請われて催馬楽「席田(むしろだ)」を謡ったことも思われて興味は尽きない。

〔参考文献〕『浦上玉堂』(日本の美術148・鈴木進編)


>>「富岡鉄斎の宣長像」

>>「鈴屋訪問」



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