『口遊』に、「雲太、和二、京三【謂大屋誦】。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿【在出雲郡】。和二謂大和国東大寺大仏殿【在添上郡】。京三謂大極殿、八省」と言う記述がある。これは当時の大建築の順位を表したのだという。
1位は出雲大社。
2位は東大寺。
3位は京都御所、大極殿。
「雲太」と言う名称はここから出た。
出雲大社の口伝では、上古32丈、中古16丈、その後8丈という。1丈は3.0303m。
中古の出雲大社本殿は、平安時代末頃の平面図が残る。3本柱を金(カネ)の輪で縛るので「金輪造営図」と呼ばれるこの図を最初に紹介したのが宣長だ。 『玉勝間』巻13「同社(出雲大社)金輪の造営の図」に「出雲大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈也。古の時の図を、金輪(カナワ)の造営の図といひて、今も国造の家に伝へもたり、其図、左にしるすが如し。此図、千家国造の家なるを、写し取れり。心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のまゝ也、今世の御殿も、大かたの御構は、此図のごとくなりとぞ」と書かれている。
長さ1町の階段といい、高さ32丈とか16丈といわれても想像のつかない規模である。しかも三本柱が一本に金の輪で縛られるなど誰の目にも荒唐無稽な話であった。
だが宣長はその伝承に、疑問を持ちながらも、真実が含まれるのではないかと、借覧して写し、そして『玉勝間』に載せた。
そこに描かれているのは、高さは16丈(48.5m)の社殿である。また「引橋(登り桟橋)長一町(109m)」とある。長さ1町の桟橋に適当な勾配をつけると、高さ16丈に見合うものとなる。建築史家・福山敏男氏は、それをもとに復元図を作成した。しかしその図面を見た多くの建築史家は、構造上実現不可能と考えていた。
宣長の想像が的中し、金輪造営がほぼ真実であったことが判明したのは、200年以上たった、実に昨年(2000年)のことである。
出雲大社境内拝殿と八足門の間の、地下0.5〜1.5mから平安時代末と考えられる巨大な本殿跡の一部が確認された。発見されたのは、推定幅約6mの細長い柱穴一箇所(1号柱穴)、同4m以上の柱穴一箇所(2号柱穴)で、1号柱穴には柱材(長径1.35m)三本を一本に束ねた、直径約3mの柱(1号柱)の根本部分が遺存していて、これは平面図と同じである。三本柱を束ねた直径1丈(3m)のものであることから、平面図の信憑瀬が高まり、高さ16丈説が有力となった。
【参考文献】
『出雲大社の本殿』出雲大社社務所。
『古代出雲大社の復元−失われたかたちをもとめて−(増補版)』大林組、学生社。
>>「伊勢神宮より大きなものを造って問題ないの?」
>>「大館高門」
(C) 本居宣長記念館
|