大和国疋田村の人。天明2年(1782)2月27日没。享年不詳。
字は之兪、号は琶山。「禹言」はノブコトとも読む。著書に『広大和名勝志』などがある。
安永9年(1780)頃、宣長を訪問した。宣長の回想が、『玉勝間』巻3に載る。
『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』、「南都疋田村○植村禹言、字之兪、号琶山」とある。日付は不記。
ほぼ同じ時と思われるが、久老の所も訪問(「をとゝしまろがもとにも尋来まして」とある)した。
久老自身も同地の案内を乞うため、天明2年4月2日に禹言を訪ねたが、既に禹言は没しちょうど五七日(三十五日)であった。
久老は虚しく遺著を拝見して帰った。(『やまと河内旅路の記』・『荒木田久老歌文集並伝記』P386)
藤貞幹の寛政2年(1790)3月13日付立原翠軒(水戸彰考館総裁)宛書簡に、
「(鎌足武智麿伝)異古本ノ方ハ大和国郡山ノ人家ヨリ出申候、
植村禹言【書林ノ致隠居候者】取出し大島逸記へ売り申し候」
(『日本藝林叢書』第9巻「無仏斎手簡」13頁)とある。
大意は、本屋の主人で隠居している植村禹言が大和郡山から見つけ出して大島逸記に売り渡したという意味か。
奈良晒の産地という村らしいが、そんなところで本屋の主人とは、ちょっと意外。
『広大和名勝志』は、内閣文庫に自筆稿本があると言うが、一冊欠本と聞いた。
また写本も数本あるが、やはり欠本があるという。
同書を継いで編さんされたのが『大和名所図会』である。
禹言が、木村蒹葭堂(けんかどう・1736〜1802)とも交友があったことは、蒹葭堂の日記から知ることが出来る。
また、和歌山県立博物館で所蔵する「熊中奇観」(ゆうちゅうきかん)2巻1帖(制作年、江戸時代後期)は禹言の旧蔵本(高芙蓉題に依る)だが、この絵巻と同系統とされる「南紀巡覧図」には、蒹葭堂の墨書と蔵書印がある(「博物館だより」No.10・2005.3、館蔵品コーナー10)。きっと資料の貸し借りなども行われたのだろう。
高芙蓉、蒹葭堂、貞幹、だんだん禹言を取り巻くネットワークが鮮明になってきた。
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