文化9年(1812)5月8日没か。京都錦小路室町の町人。本姓、波伯部。通称、藤助、平左衛門。屋号、鍵屋。古典、古書を好み、寛政9年(1797)本居宣長に入門。享和元年の上京を迎えた。この時、所蔵する出雲国意宇郡湯の山の青石に歌を請う。宣長は要望に応え、この石が古代の玉の原石であることを書いた詞書と歌を贈る。また、丹波国桑田郡小幡神社に奉る灯籠の長歌をやはり百樹に与えている(『鈴屋集』)。同じ町内の城戸千楯と共に、京都における宣長門の中核となった。伴信友とも親交を結んだ。古写本の知識が該博で、『日本書紀』、『新撰姓氏録』などの書写校合を行い、地名の考証にも成果を示した。宣長の『神代紀髻華山蔭』にも「上田百樹説」を採用する。著書に『大祓詞後釈余考』など。妻・秀子は大平門人。
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>「城戸千楯」
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