midashi_o.gif 上田秋成 (ウエダ・アキナリ)

l_o3

上田秋成 享保19年(1734)6月25日〜文化6年(1809)6月27日。享年76歳。俗称、東作、後に余斎。号は、無腸公子、鶉居等。大坂に生まれ、紙商・上田茂助に養われる。5歳の時に痘瘡にかかるり、加島稲荷の加護で危うく一命を取り留めるが、指に傷害が残る。のらものとして青春時代を送り、俳諧に遊んだり、浮世草子『諸道聞耳世間狙』、『世間妾形気』を執筆する。火災で家産をなくしてから一時は医者をする。また、賀茂真淵門人の加藤宇万伎(美樹)に師事して国学を学ぶ。宣長の著作を広くまた深く読むが、やがて『鉗狂人』を巡り論争となる。『呵刈葭』はその論争を宣長がまとめたもの。

 同じように商家に育ち、子供の時に神の恩を受け、賀茂真淵門に学びながら激しく論争した2人だが、これは国学というものの両極を示すのかもしれない。ある意味では。読本『雨月物語』、『春雨物語』、『よしやあしや』、『冠辞考続貂』、家集『藤簍冊子』等。性は狷介峭直、世事に拘らず、名利を事とせず、嘗て謂う、人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。蓋しこれは蟹の異名である。住居も定まらず、常に転転とする。故に鶉居と号す。煎茶を好み、酒、煙草は喜ばず。他の文人、学者を見ること蛇蝎のようであった。『胆大小心録』はそれを文章化したもので、周囲の凡てを批判する、悪口三昧。文化4年に草稿類を井戸に捨てた。墓は、京都西福寺。蟹の台座に乗る。


>>「秋成の『菅笠日記』評」

>>「帰ってきた『古事記伝』」
>>「『春雨物語』と伊勢」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる