享保8年(1723)〜享和元年(1801)7月11日。享年78歳。
名、玄仲(ハルナカ)。通称、帯刀。号、観荷堂。図南亭。大坂生まれ。冷泉為村に師事するが破門となる。伴蒿蹊、香川景樹と親しく交わる。技巧を廃した「ただこと歌」を提唱した。歌論書『振分髪、歌集『六帖詠草』など。
蘆庵、宝暦年間には本庄七郎と名乗っていた。
『在京日記』宝暦7年8月6日条に、未頃より友人山田孟明、清水吉太郎等と高台寺に萩を見に行った。途中、霊山に登り、4人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる、と言う記事がある。
蘆庵は宣長より7歳上。寛政5年(1793)、宣長が上京したときに対面、唱和する。その時の蘆庵の詞に
「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」
とある。宣長が京都に遊学した年には既に30であるから「わがはたち余り」はあるいは記憶違いか。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。
小沢蘆庵の歌を宣長が評したことがある(「蘆庵歌宣長評」【新規 雑331,332】)。また、蘆庵には宣長の『玉あられ』を批判した『玉霰難詞』と言う著書がある。
【参考文献】
小沢蘆庵画像(成瀬正胤画・小川萍流賛)は、『マールカラー文庫 肉筆浮世絵3奈良県立美術館』に掲載。
>>『在京日記』
>>「新玉津嶋神社」
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