寛政8年(1796)秋頃没。享年40歳位か。美濃国大垣俵町の野口屋5代目、河地十兵衛の次子。同所、材木商大矢藤助の養子となる。通称仁左衛門。最初、重角、後に重門。天明6年(1786)入門。山鹿の帆足長秋と同期だ。三重丸が付くから優等生だったのだろう。「出精厚志」としても名前が上がる。寛政2年1月下旬、松坂に来訪し講釈を聴く。この時宣長から与えられたのが「新古今集の抄」。やがて『新古今集美濃の家づと』となる本だ。
学問だけでなく、歌も上手だった。
「これについては、同門の友人、加藤磯足の証言がある。磯足はかれの歌集『磯の寄藻』の中で、「花の歌あまた詠みけるに、大矢重門が詠み口に及び難きことを嘆きて」と書いている。私見では、磯足は鈴屋門約五百人の中でも有数の歌詠みだと思うのであるが、そのかれがカブトを脱いでいるのである。
なお、磯足は、「大矢重門家集」に序(「寛政七とせといふ年の文月」)を寄せており、その文も知られているが、当の「家集」の存否は定かでない」
『東海の先賢群像』岩田隆著、桜楓社。
さみしい話がある。大矢重門が亡くなった後にその蔵書はすぐに処分されたそうだ。
「大垣大矢重門死去後右所持ノ書類うり払申候由只今残りノ分別紙四品書付来り申候、大本廿一代集ハ書入よき本ニ御座候。貴家ノト御うり替ニても被遊間敷哉。併七両一分ハ高直ナ物と奉存候。御思案可被遊候。早々御返事御申こし可被下候。外ノ品々も御入用御座候ハヾ御申こし可被下候」寛政9年11月19日稲懸大平差出篠原秋風宛書簡(高橋コレクション)
没後2年目である。やはり家業の障りとなったと思われていたのだろうか。
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