「大祓詞」は、今も毎年6月と12月に宮中や各神社で行われている「大祓」の時に宣読される詞。宣読者が中臣氏だったので「中臣祓」とも、また「六月晦大祓」(ミナヅキノツゴモリノオオハラエ)とも言うが、12月の大祓でも読まれる。「出雲国造神賀詞」と同じく『延喜式』巻8に載る。
なぜそんなものを研究するのか。それは「祝詞・宣命の研究の目的」でも書いたように、言葉を知る基本文献であるからだ。宣長は「神に申し上げる詞だから、詞は正しく、後世の音便も含めず、清濁もきちんとしている」と言う。また、この詞が、古代人の罪や穢れといった、精神生活を知るための基本文献であり、そして「此祝詞は、あるが中にたふとく、古くめでたき文にしあれば」と文学的にも優れているからだ。
内容は、朝廷に近い聖なる河原に集まった親王、諸王、諸臣、百官の官人たちを前に、その庭が高天原と等しいことが宣言され、新年から半年の間に積もっり積もった国中の罪汚れを祓い流し、それを「瀬織津比売」(セオリツヒメ)が大海へと運び、海の「速開都比メ(口偏に羊)」(ハヤアキツヒメ)が呑み込んでしまい、それを「気吹戸主」(イブキトヌシ)が霧にして根の国、底の国に撒いてしまう。それを根の国、底の国にいる「速佐須良比売」(ハヤサスラヒメ)が持って歩き全てを消してしまうと言うダイナミックな内容だ。詩人の高橋睦郎は「かつてこの国に生まれた最も堂堂とした、最も美しい詩文のひとつとおもわれる」と言う。
注釈の形態は、『出雲国造神賀詞後釈』と同じく、師・真淵説を「考云」、自説を「後釈」として載せる。
寛政7年3月30日起稿。5月15日初稿書き終わる。この日、村田春海宛書簡に「祝詞全釈は無理だ」と書き送る。同19日再稿着手。7月15日再稿終わる。同21日版下書き始める。9月30日上巻版下66丁を書肆・柏屋に渡す。10月18日版下書き終わる。同24日下巻版下60丁を柏屋に渡す。寛政8年4月6日版本出来、届く。
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「『出雲国造神寿後釈』をもっと詳しく」
(C) 本居宣長記念館
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