御師(オシ)は全国あちこちの大きな寺社にいるが、御師(オンシ)と言えば伊勢神宮の下級神職。太夫とも言う。下級と入っても全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったと言う説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。
仕事は祈祷の委託や参拝者の宿泊、案内を業とし、地方の檀家に御祓、伊勢暦、また土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を勧誘した。つまり今の旅行代理店、ホテル、そして伊勢神宮出張所を兼務したものと考えて頂くとよい。
宣長の所にしばしば出入りしていた蓬莱(荒木田)尚賢、荒木田久老、また宣長が19歳から2年養子に入った今井田家、娘・能登の嫁ぎ先である安田家、みな御師である。
御師は地方では丁重な待遇をされた。
「これは伊勢の御師で御座る、毎年今時分は、国々旦那廻を致す、当年も廻らうと存ずる、誠に大神宮の御影程有難い事は御座らぬ、斯様に国々廻れば、何方にても御馳走にあふ事で御座る」(狂言『禰宜山伏』)
資料としてはいささか古いが、江戸時代もそう変わることはなかったはずだ。
毎年定期的に地方を回って伊勢神宮のお札を配る御師(オンシ)たちは、宣長の学問の普及にも寄与した。地方の檀家に神宮のお札と共に、女性にはおしろいを、農家には伊勢暦を土産とし、勉強の好きな人には、伊勢にこんな事を調べている人がいると、宣長の本を見せてやったのである。さらに興味のある人には、参宮を勧め、帰りには松坂で勉強していきなさいと、宣長への紹介状を書いたのである。
御師が宣長の学問を普及した例としては、加藤吉彦のケースがある。
情報の伝播と言うことでは蓬莱尚賢や荒木田久老の功績が大きい。
本居家の御師については、『別本家の昔物語』(宣長全集・20-43・44)に詳しい。
もとは角の小津(清兵衛家)と同じで、山田(伊勢市・外宮のある地域)の中津長大夫だった。ところが、ある時、2代目道印さんが角の小津家の人と参宮をした。道印の奥さんは角の小津家2代目道運の姉だから両家は極めて懇意だった。ところが繁栄する角の小津家の着る物にくらべ、道印夫婦は粗末だった。そのため、御師のところでの待遇に差が出てしまった。道印は不快に思ってその後は参宮しても中津に行かず、古川善大夫に泊まるようになった。それでも、宣長の幼い頃まで中津から祓(大麻)を送ってくるし、また5匁の初穂料を納めていた。だが、その後はそのようなことも無くなってしまった。角の小津は今も中津の檀那である。中津の家は前野町にある。
古川では、当家は大檀那で、火事で古川が焼けたときには、祖父の唱阿は松阪で材木を整え船で送り、すぐに再建した。しかしその家も最近また焼けて、今は妙見町の小さな家に住んでいる。もとは下久保にあり、座敷なども立派な家であった。初穂料は、元文頃までは年に金100疋、江戸店閉店後は金100疋となった。それでも他の家とは一緒にならないと、最近まで正月、5月、9月には祓や肴などを、立派に整えて届けてきたがそれも最近は途絶えてしまった。でも暦だけは今も立派な物を送ってくる。当家の手代も皆古川の檀那である。
内宮、宇治の御師については聞かないが、北畠家臣時代の縁もあるので、これから家が豊かになったら僅かでも初穂を納めたいものだ。(頭注・天明9年から向井館へ毎年初穂料銀札5匁納める)
寛政8年、古川善大夫は檀那株を全部、浦口町の安田伝大夫に売ったので、我が家もそこの檀那となった。祓の銘は最初の年だけ「古川善大夫」、翌年から「安田伝大夫」と書かれている。
以上が『別本家の昔物語』のあらすじだが、最後に出てくる「安田伝大夫」、ここの若旦那が宣長の3女・能登とやがて結ばれるのである。
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