midashi_v.gif おかげ参り

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明和8年のおかげ参りの様子を 『おかげまうての日記』 稲懸(本居)大平から少し引いてみよう。

まず、おかげ参りの始まり。例年に比べると参宮客が少ないな、などと噂していたら、 洪水と同じだ。最初はひたひたと水がつくように兆しが現れ、あっという間に人の渦に松坂は巻き込まれてしまう。
むかし見た、という人がいた。
60年というのは、当時の人にとっては記憶の限界でもある。

「ことし明和八年辛卯春のころは例よりすくなく見ゆなどいひたるほどに、四月の七日ころより、にはかに山城国・丹後国などより、にぎはゝしく、ここらともなひいでゝ、いくむれともなく、詣でくるも怪しくなん。かくていと怪しと思ふに、日毎に見えまさりて。昨日よりは今日といや増しに増さりもてゆく。さるはその人ごとに、おかげてさぬけたとさ、といふことをなん、道行く足の拍子にいひつつ行くを、七十、八十になれる老人の聞きて、昔もかく多く詣できけるを、おかげまゐりといひて、その折もかくこそといひつゝ物(詣)せしか、この度のさま専らその折の様なりなど言ふ・・・」
参宮客の持つのぼりも、その風俗がだんだん乱れてくる。
物恥ずかしい若い女性までが・・
16歳の大平の筆もさえる。
「初めの程は、伊勢詣で何人連れなど書き、国所など麗しく記したりけるを、後には打ち戯れゆきて、さまざまの絵様などを、かきたるなん、多く混じり来ぬる。さるはいと浅ましく、あらぬものの形などを描きたり。さるは烏滸がましくて、顕はには、えこそまねばね。ただ思ひやるべし。又、幟の絵のみにもあらず、物の形をことさらにも造り出て、杖の先などにさして、口々に、大口とていみじきことどもを言ひ囃しつつ、或は手打ちならしなどもして、浮き立ちて、若き男はさらにも言はず、老人老女、また物恥しつべき若き女まで、よろづうち忘れて、物苦ほしく、かたはらいたく、世にうちし心とも見えず、万に戯れつゝ、行き交う様よ、あさましなど言ふも愚かなり・・・」
仲間からはぐれたら大変だ。幟だけでは危ないぞとひもを持っていく人たち。子供の電車ごっこと同じだ。
これでは町の人は、道を横断することもできないね。
「さてまた人数多く伴ひたるなどは、かの幟を捧げ持たるが先に立ちて、長き縄を引はへゆけば、それにも取り付きつつ、己が一むれ迷はじと心してゆくも有り・・・」
子育てがある女性は、実は「旅」から一番遠い存在だが、
おかげ参りの時ばかりはと、子連れでやってくる。
「かうをさなき子どもを具したるが多く見ゆるは、例は大方旅路煩はしとて、留めおきても物し、又多くは、それにさはりて、え物せぬならひなるを、此度ばかりはともかくも思ひたどらずて、ともなひ立出くるなるべし・・・」
この後、迷子で一騒動も起きるのだが、それは原本をご覧ください。

夜も人通りは絶えない。うるさくて眠れない。
いくら人が多いといっても、現在のおかげ横町は夜は静かなはずだが・・
「夜中といへど旅人の行き交ひたゆる間もなし。伏し居て聞けば、いも寝られずなん・・・」
急な用事で向かいの家に行こうと思っても、先の電車ごっこやら狂乱の渦で、思いとどまらざるを得ない。
町の生活も大混乱。
「とみの事などありて、向かひなる家に、あからさまに物せんとするにも、今ぞ少し行き来のたゆめるほどよとためらひて、その程を伺ひて、横様に押し分けつゝ、からうじて向ひの家に行いたるなど、いといといみじき事になんありける・・・」
今年は、県もまた近隣市町村も遷宮で一儲けをねらっているが、昔も変わらない。
お酒に、なんといっても伊勢路はお餅。今と違うのはわらじなどに使う藁(わら)の不足である。
松坂の豊かな商家だけでない、道中各所では、無料でわらじや食い物、路銀を渡す「施行(せぎょう)」が行われる一方で、 金儲けを考える人もいる。
あまりにも目に余ると役人に叱られる者もいたそうだ。
「此の伊勢詣での道の程、宿々所々の茶屋、旅籠など言ひて、物売り、人宿しなどする家々には、蓄へ置きて売る物どもゝ、今は尽きなんなと言ふめる。中にも酒、餅ひなど言ふも更なり。其の外も全て旅人に売る物つくる家々には、例よりも人雇ひ加へ、長き日に夜をさへかけていかで多くと急ぎ作れど、限り有りて、さしもえつくりあへずなん。中にも藁うづは、いづこもいづこも残り無く売り果てて、近き渡りに今は一つも無きよしなど言ひあへば、まれまれなほ蓄へたる者は、物の哀れも知らぬ商人心に、いとかしこき事と思いひて、こよなう高くなん売るめる・・・」

続きは、『おかげまうでの日記』でご覧ください。
この本は『松阪市史』第9巻地誌2 などで読むことができます。



>> 「本居宣長記念館収蔵のおかげ参り資料」


おかげ参り

「おかげ参りの図」(部分)



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