宣長は川原寺で「めのう石」という珍しい石の礎石を見ている。と言っても本当の瑪瑙ではない。白大理石である。
「やゝゆきて。左のかたに見ゆる里を。川原村といふ。このさとの東のはしに。弘福寺とて。ちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて。がらんの石ずゑ。今も堂のあたりには。さながらも。又まへの田の中などにちりぼひても。あまたのこれり。その中に。もろこしより渡りまうでこし。めなう石也とて。真白にすくやうなるが一ッ。堂のわきなる屋の。かべの下に。なかばかくれて見ゆるは。げにめづらしきいしずゑ也。尋ねてみるべし」
今は、また川原寺(カワハラデラ)と呼ばれるこの寺は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。弘福寺(グフクジ)ともいう。天智天皇がその母斉明天皇の川原宮の旧地に創建。天武2年(673)一切経の書写が当寺で行われ、朱鳥元年(686)新羅の客をもてなすため、当寺の伎楽が筑紫へ運ばれている。つまりここには優れた楽団がいたのだ。
藤原京の時代は四大寺の一つに数えられたが、平城京遷都に際して、奈良へ移転されず飛鳥にとどまったので第一級の官寺の地位を失った。天長9年(832)空海が京都と高野山の往復に宿所として当寺を賜ったと伝え、9世紀後半には真言宗の僧が検校となり、しだいに東寺の支配下に入った。建久2年(1191)焼失の後、円照の弟子如蓮房教弁が復興に尽くしたが、17世紀ころにはすっかり荒廃した。
現在の川原寺は、めのう石(白大理石)の礎石が残る中金堂跡に小さな本堂を残すだけであるが、1957、58年の奈良国立文化財研究所以後の発掘で遺構のおおよそが判明した。74年の橿原考古学研究所の発掘では、西北の山腹から多数のせん仏、塑像片等が出土し往時をしのばせた。これらは1191年の伽藍焼失後に埋められたと考えられる。10世紀に相当規模の普請のおこなわれたことが出土瓦より推定され、1191年の焼失後13世紀半ばころから後半にかけて塔、金堂はもとより食堂、僧房まで再建されたが16世紀に再度雷火により焼失、小さな寺となった。ただ寺の前には、発掘により判明した遺構に、礎石のレプリカを置いている。たたくとボコボコ音のする礎石として今は珍しがられている。

川原寺を南より眺める。
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めのう石
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(C) 本居宣長記念館
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