寛政6年(1794)、藩主への講義の際に宣長は鈴屋衣に眼鏡使用という出で立ちであった。
「服用は翁好之袖長キころも出たち也、めかねも御免被下候てかけて仕候」(某人宛稲懸大平書状写し)
また翌寛政7年、松平康定が松坂に来訪された時には眼鏡を頂いた。
「所持之秘蔵之目金(メカネ)も手つから被呉候」
(寛政7年8月19日、本居春庭宛書簡)
老眼だったのだろうか。
松坂の歯科医について、『宝暦咄し』に、「上嶋喜三郎と言ふ歯抜きが来た。是は今の喜三郎だ」
と言う記事がある。
宣長が入れ歯をしていたことは有名だが、当時は入れ歯師と言う人がいた。歯科医と歯科技工士を兼ねたような人だろう。宣長の場合は、次男・春村の紹介で津から呼んできている。
寛政8年(1796)3月20日付、春村宛書簡に
「この間、紹介してくれた入れ歯師がやってきて模(カタ)を取って帰った。また20日頃にもう一回来て荒作りを当ててみて、その上で歯を植えると言っていたが、まだ来ない。もうすぐ来るだろうと思っている」と書いている。
また、4月15日付春庭宛書簡(当時春庭は京都にいた)で、
「昨日津の入れ歯師がやってきて入れ歯を作ったが、大変いい出来で、思った程口の中の違和感もない(原文・「昨日津ノ入レ歯師参り、入レ歯致シ申候、殊外宜キ細工成物ニ而、存じ之外口中心持わろくもなき物ニ御座候」)。
そこで歌を詠んだ
四月のころ入歯といふ物をして又物よくかまるゝ事をよろこひて
思ひきや老のくち木に春過てかゝるわか葉の又おひんとは」
春庭から返しの歌も来たことが同6月4日付春庭宛書簡に見える。
また、享和元年4月18日の春庭宛書簡で宣長は「おかつ口中いかゞ候や、又いかうわろく候はは山田へ参り血をぬき候が能候」
と言っている。山田(伊勢市)に行って血を抜いてもらえというのは、口内炎だろうか。当時から医療の世界は、かなり広域である。
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