皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称。神道における信仰の中心として、江戸時代以来、日本の大多数の人々がせめて一生に一度でもと参詣を望んだ場所であった。
今では伊勢市という一つの町であるが、当時は内宮があるのが宇治で、外宮が山田と分かれていた。また神宮も内宮、外宮と独立色が強かった。
両宮にはそれぞれ神職とまた御師がいた。内宮は荒木田氏、外宮は度会氏の世襲であった。宣長の友人の荒木田経雅は内宮の禰宜である。また久老は、外宮の師職の家に生まれたが、内宮の師職の養子となった。
宣長は若年より神宮参拝を度々行った。特に、山田の今井田氏養子時代は頻繁に参詣したが、これは式年遷宮の年とまた今井田氏が御師を兼ねた事とも関わりがあるだろう。
また、内宮の文庫「林崎文庫」は宣長門人となった荒木田尚賢等の尽力で復興したこともあり、天明2年(1782)10月18日「林崎ふみぐらの詞」を書いた。この詞は文政10年正月、殿村安守、三井高匡、長谷川元貞、小津久足により建碑された。書と額は幕府右筆所詰支配勘定格・屋代弘賢の書。また文庫で開かれた遷宮祝賀歌会にも参加した。
伊勢両宮は、『毎朝拝神式』でも遙拝し、また『古事記伝』刊行時には奉納もした。
両宮の祭神については『伊勢二宮さき竹の弁』でも論じた。
神宮参詣を「参宮」という。参宮が大名から庶民に至るまで盛んに行われたことが、宣長の学問にも計り知れない影響を与えた。賀茂真淵との対面も、また松平康定の松坂訪問も、また書簡の冒頭に「参宮幸便」もみな参宮のお蔭である。
>>「御師」
>>「荒木田経雅」
>>「荒木田久老」
>>「殿村安守」
>>「三井高匡」
>>「長谷川元貞」
>>「小津久足」
>>『毎朝拝神式』
>>「『古事記伝』の奉納」
(C) 本居宣長記念館
|