宣長は、伊勢神宮の内宮・外宮の望ましい両宮関係の回復を考えていた。そのためには外宮祭神「豊受大神」の神格を明確にしなければならない。宣長の外宮論の目的はここにある。
その概要は、
- 豊受大神は天照大御神の重く祀らせ給う「御食津大神」である。
- 豊受大神は「供奉臣列の膳部神」(吉見好和説)であるという説に対して、天孫降臨の時に天照大御神が鏡に副えて授けた御霊実であり、現御身の供奉神ではない。
だから尊いというのだ。
外宮問題への最初の論究は、守屋昌綱に与えた『神都考僻説弁総論』に見える。真淵説がここでも影響を及ぼしていると言われる。
その後、『古事記伝』巻15(安永7年・1778)のいわゆる「外宮論」でこの問題を再び取り上げる。
さらに約20年後、この問題を詳しく論じたのが『伊勢二宮さき竹の弁』である。
『自撰歌』に「さき竹の弁のしりに書ける歌」と言う詞書で2首載せる。
「外つ宮を 国のとこだち とこだちと よそりなきごと いふはたが言」
とつ宮の 神は天照 日の神の いつきまつらす 御食の大神」
宣長の論に対しての批判は激しかった。
まず『古事記伝外宮論弁語』外宮権祢宜・亀田末雅は、「内宮」という語が古書に見えないと言うのに対して『神宮雑例集』や「神宮三印」を引き反論した。
また門人益谷末寿は『伊勢二宮割竹弁難』で師説を批判した。末寿の言うのは、高天原でお祭りしたということは証拠がない。現世における天皇のお祭りであっても、天照大御神と関与するわけではない。
しかし、宣長の主張には、信仰に根ざすものがあり、かえって文献的な証拠をさがす門人たちの困惑は大きかった。
「豊受大神」とは則ち、食べ物の神様である。
【参考文献】
「益谷末寿の両宮観」中西正幸『伊勢の宮人』
(C) 本居宣長記念館
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