midashi_v.gif 「稲羽の素兎」と出合った兄弟たち   嵐義人

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 旧臘中、小学校・中学校の新学習指導要領が告示され、平成14年度からの実施が定められた。今や教育に携わる多くの人々の関心は、恐らくこれに集中していることであろう。その小学校社会、6年の内容(1)アには「……大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際、神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」とあり、中学校社会、歴史的分野の内容の取扱い(2)オには、「古代までの日本」の学習につき「……神話・伝承などの学習を通して、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせるよう留意すること」とある。その趣旨は従前の指導要領を踏襲したものであるが、それ以上に、教材として用いられる神話・伝承が殆んどヤマトタケルの話に固定された観の強い点が気にかかる。歴史学習の導入として、新たな展開例の発掘が待たれるところである。
 偶々、今年は「己卯」年でもあり、兎の登場する神話を例に、新たな展望を摸索してみたい。
 「稲羽の素兎」は、『古事記』だけに見られる神話である(「因幡風土記逸文」か?と言われる『塵袋』所載の類話はあるが、『日本書紀』には見えない)。梗概は周知のところと思うが、『尋常小学唱歌』(明治38年)から、石原和三郎作詩「大こくさま」のうち、一番と三番を引いておこう。
 ○おおきなふくろを、かたにかけ、だいこくさまが、きかかると、ここにいなばの、しろうさぎ、かわをむかれて、あかはだか。
 ○だいこくさまの、いうとおり、きれいなみずに、みをあらい、がまのほわたに、くるまれば、うさぎはもとの、しろうさぎ。
 類似の伝承は、インドネシアなどに伝えられているが、それらは兎ではなく仔鹿の話であり、鰐も、『古事記』は恐らく鮫(山陰地方の方言で鮫をワニという)で、東南アジアの類話はクロコダイル(インドネシア)であったり虎や森の魔物であったりする。想像するに、かなり広がりをもった説話を基に、蒲の穂綿からの連想で白兎になったものではなかろうか。『日本書紀』に見えず、色の白を『古事記』ではここだけ「素」と記すなど、やや特殊な伝承である。
 ところで、このとき大国主は一人で因幡(今の鳥取県東部)の海岸を歩いていたのではない。八十神とよばれる兄弟たちと一緒だったのである。
  八十神、おのおの稲羽の八上比売を婚わんの心ありて、共に稲羽に行きし時に、大穴牟遅神に袋を負わせ、従者として率て往きき。ここに気多の前に到りし時に、裸の兎伏せり。…… この「古事記」の文によると、兄弟全員、何故か八上姫と結婚したくて連だって東の方へ歩いていたと読める(「大穴牟遅神」は大国主のこと)。
 八上は今の鳥取県八頭郡の旧名「八上」郡を指し、鳥取市から八東川を遡った支流・曳田川との合流点付近には八上姫を祀る神社がある。気多は旧郡名「気多」郡(今の気高郡の西部〉の名に因むが、『古事記』の気多の崎はその東の旧高草郡(『塵袋』所載の文は高草郡での出合いとする)内にあった可能性が高い(今いう白兎海岸も旧高草郡に属す)。
 さて、八十神たちは、本当に兄弟で、偶々同じ女性と結婚したいと考えて、出雲から因幡へ旅行していたのであろうか。そう考えては、この神話から古代の人々の考えを読み取ることはできなくなる。無理に意味を求める必要はないが、文化人類学でよく知られている、外婚制(エクソガミー)、双分制(デュァリズム)を導入すれば、大国主の部族の男性は八上姫の部族の女性を婚姻対象としなければならない半族関係にあったと見てよいであろう。また八十神は兄弟というより、同族の若い男性すべてなのであろう。その八十神たち男性が、長老の許可の出た農閑期に女性の許に通うという古代の習俗が投映された神話と見れば、「八上比売を婚わん心ありて共に稲羽に行きし時」という設走の不自然さが、むしろ合理性をもつことになる。『古事記』で次に語られる八十神の迫害(大国主が八上姫と結婚したことに怒った八十神が、二度に亘り大国主を殺し、母神が蘇生させる話)がイニシエーションの投映であり、須佐之男命の許での須世理毘売との出会い(大国主はスサノオに難題を突きつけられ、スセリビメなどの助けで解決し、二人の結婚をスサノオが許す話)が結婚の前提としての婿いじめの投映であると見るなら、この集団求婚旅行も、結婚にまつわる古代の人々の習俗を織りこんだ神話・伝承と解することができよう。
 このような、古代の人々の生活や考え方に、大らかなところと、今日とは違うタブーのような規制のあったことを読み取る作業は、古代に関する歴史学習や、時代の隔りが如何に人々の営みを変えていったかを学ぶ上で、十分教材化しうるものであろう。
 時聞の特定と事象の闡明を以って歴史というのであれば、神話・伝承は歴史にはならない。しかし、シュリーマン(1865年来日)が『イリアス』からトロヤの遺跡を発見し、「魏志倭人伝」を歴史資料として扱うのは、素材自体に一見して歴史であるか、歴史でないかの区別があってのことではない。のちに発掘や考証をへて学問的に広く承認されたからである。中には、殷墟の発掘により神語・伝承と考えられていた周以前の中国古代王朝が歴史的に究明されたり、飛鳥の水落遺跡からの漏刻の発見により『日本書紀』の斉明6年(660)の記事が裏付けられたりしたように、歴史事実そのものへ繋がるものもある。また、個別の歴史事象とは結びつかなくとも、ある時期の習俗や考えを示唆する神話・伝承もある。『古事記』垂仁天皇の段の沙本毘古の乱の文中や、『日本書紀』天孫降臨章(第九段)の一書に、新生児の名は母が付けるという話が見える。これなども、いつということは特定できないが、古代の人々の習俗の一端を示すものと解してよいであろう。
 振り返って、戦後の小・中学校での神話・伝承についての指導要領上の取り上げ方を見てみると、小学校社会、6年では、昭和43年版指導要領で「内容の取扱い」において、52年版以降は「内容」において、国の形成(52年版までは更にものの見方にも触れる)に関する考え方に関心をもつ旨が記されるようになった。また特に44年の指導書では、「指導例」において「出雲の国ゆずりの神話や日本武尊の物語」が挙げられ、53年の指導書では、「高天原神話、天孫降臨、出雲国譲り、神武天皇の東征、即位の物語など」が列記されるに至った。
 一方中学校では、昭和26年版「日本史」単元Cの「展開例」中に、「神話伝説を正しく批判すること」、また30年版指導要領、歴史的分野の「具体的目標」の中では「日本の神話や伝承などの内容を通して、古代日本人のもっていた信仰や、物の見方や考え方について考えるとともに、外国のそれらの一端にもふれて、その相違や共通点に気づかせる」と記したのを始め、33年版では「内容」において、44年版以降では「内容の取扱い」において、「……当時の人々の信仰やものの見方など」に触れたり気付かせる必要があるとしている。
 神話・伝承の扱いには確かに難しい面もあるが、神話・伝承を歴史そのものとして扱うのではなく、今日とは違う古代の人々のものの見方・考え方があることに気付き、多面的、多角的な見方にも繋がる興味深い歴史へのアプローチの一つとして、新しい観点から取り上げられ、従来とは違った光が当てられることを期待したい。



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