midashi_o.gif 池大雅(イケノ・タイガ)

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 参宮街道の町、また裕福な町松坂には多くの文人墨客が立ち寄り、滞在し、作品を残していった。池大雅もその一人。

 大雅は京の人。享保8年(1723)5月4日〜安永5年(1776)4月13日。江戸中期の文人画家で書家。祇園南海や柳沢淇園、彭城百川(サカキヒャクセン)らのあとを受けて日本の文人画を大成した。幼名を又次郎、のちに無名と改めた。字は公敏、子職、貨成など。号は、大雅堂、待賈堂、九霞山樵、三岳道者、霞樵、玉海など。父・池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが、大雅4歳のとき死去、母と2人で住み、15歳の頃にはすでに待賈堂,、亀堂などと号して扇屋を構え、扇子に絵を描いて生計を立てていた。7歳の時に黄檗山万福寺に上り、第12世山主であった杲堂(コウドウ)禅師等の前で大字を書し「神童」と言われた。20歳代後半頃から富士、白山、立山から松島など各地を旅する。この時に同行したのが、高芙蓉であり韓天寿であった。
 松坂への来訪は、『宝暦咄し』に「一、池の周平と言ふ画師来ル、後大雅と言ふ」、「一、玉瀾の扇うりものニ来ル、弐百文つゝ」とある。玉瀾は大雅の妻である。作品は柏屋文海堂の暖簾のほか、看板には湊町・桜井七郎右衛門の家の「黒丸子」、「万能千里膏」(以上、松阪市歴史民俗資料館所蔵)など、また扁額が岡寺山継松寺に残る。

 「黒丸子」の看板について、こんな話が伝わっている。
 京都から有名な書家が来ていると聞いた桜井家では、「黒丸子」の看板を頼もうと木を削って待っていた。ある日、薄汚い男が店にやってきて、小僧の制止も聞かず看板を書いていった。帰ってきた主人が腹を立てながら見るとなかなか立派な字なのでそのままにして置いたら、やがてそれが大雅の字だとわかり大層悦んだ。(『松坂文芸史』桜井祐吉)



>> 『宝暦咄し』
>> 『韓天寿』



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