midashi_b 家の宗教

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◎浄土宗信者の家に生まれる
 宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。塔頭法樹院が取り次ぎを行った。曾祖父、祖父はとりわけ熱心な浄土宗信者で、帰依した様子は『家の昔物語』に詳しい。父は「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)、母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は増上寺真乗院主を勤めた高僧である。
 また、後年のことではあるが、母も善光寺で剃髪、妹・はんも30歳で出家し、末妹・俊も夫死没後に剃髪する。

◎南無阿弥陀仏の少年時代 
 宣長は、元文4年(1739)、10歳、小石川伝通院27世主走誉上人を戒師として血脈を受け法名「英笑」を与えられた。「英」は「英才」という言葉もあり、すぐれたと言う意味があるが、「笑」は何か。この「法名」は19歳の時にもまた使われる。14歳で『円光大師伝』を写す。その後も「浄家名目」等の書写と、修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。延享5年(1748)、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺と縁の深い通誉上人の墓に参詣。特別に御座敷を拝見し、大僧正より御十念を授かる。「南無阿弥陀仏」の名号を十遍念じることを「十念」という。同年7月、父の命日に「南無阿弥陀仏」を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。この時期の信仰については『覚』の「精進」、「日々動作勒記」に詳しい。またこの前後しばしば融通念仏、十万人講等の仏事を修している。
 将来への漠然とした不安の中で、「南無阿弥陀仏」や「五体倒地」の繰り返しで陶酔感を味わっていた・・というのはうがち過ぎか。

◎仏を好む一青年
 今井田家時代については分からないが、浄土宗信仰は帰宅後も続き、京都時代友人宛書簡で「少来甚だ仏を好む」(岩崎栄令宛)とも、「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好みこれを信じこれを楽しむ」(宝暦7年上柳敬基宛)とも言う。本当に「仏教書」を好んだのだろうか、寺への参拝をちょっとカッコをつけて書いたのかもしれない。

◎変化の兆し
 『古事記』研究の深化につれ仏教信仰に変化が見られる。一つの転機として考えられるのが『直霊』執筆(42歳)頃か。但し、家の宗教としての仏事を執り行うことは以前と変わることなく、日常生活に於ける寺院との関わりにも全く変化は見られない。晩年、書斎で『浄土三部経』を読誦したというのは根拠のない説であるが、旧蔵書中には『法華経』や『浄土三部経』等仏書も混じり、仏事の際には読誦することもあったと思われる。安永6年樹敬寺住職となった法誉快遵との交友や、『遺言書』での葬儀次第、また戒名「高岳院石上道啓居士」など自ら命名するなどは樹敬寺との深い信頼関係に基づくものと言える。一族の墓は樹敬寺。宣長より4代目・信郷の代に神道に改宗。先代・弥生氏と妻・佐久さんの墓は松阪市の郊外、篠田山霊園自由墓地にある。

【参考文献】
『宣長少年と樹敬寺』山下法亮・昭和43年9月29日 。
 


>>「仏壇」
>>「樹敬寺」
>>「妙楽寺」
>>「察然和尚」
>>「好信楽」



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