宝暦5年(1755)2月3日〜文化2年(1805)6月20日(※異説あり)。享年51歳。
有職故実家。宣長の友人。本姓橘。肥後守。号橘窓、香果堂。父の後を継ぎ京都にある梅宮大社の神官を勤め、また宮中に出仕して非蔵人となる。師は高橋図南、小沢蘆庵。秋成、蒿蹊とも親しくする。著書は『橘窓自語』、『梅窓筆記』等。菩提寺日蓮宗本福寺。
宮中に至る途上も読書にふけり、田畑に落ちて着物を汚しても平気だったと言う話が伝わる。また羽倉敬尚氏は「古いことを好む虫のような人物」と評している(「故実家橋本経亮」)。学問一筋の人物だったようだ。そのため、宣長は横井千秋に紹介するとき次のように忠告している。
「右橋本ハ俗人ナラズ、古学篤志ノ人ニ而、甚厚情ノ仁ニ御座候、夫故対面ノ節之挨拶、並文通文言などは一向つや無之、あまりもぎどう成ルと申方ニ御座候、定而彼方より返書参り可申候、兼而左様御心得可被成候、返事参候節、文言あまり麁略成ル義と思召候御義も御座可有哉と、兼申上候」
(寛政3年正月15日付横井千秋宛書簡)
【大意】
彼は俗人ではなく、古学に極めて熱心な人であるだけに、挨拶や手紙もぶっきらぼうで、無礼な感じがする。きっとあなたへの手紙でも失礼があるかも知れないが、その点を心得ておいて欲しい。
千秋は宣長の門人ではあるが、尾張徳川家の重臣でもあり身分が高い人だけに宣長も気を揉んだのだろう。
私が梅宮大社を参詣した日、ちょうど、区のお祭りの日であった。境内のイベント会場で配っていた経亮紹介のチラシから。
「橋本経亮(ツネスケ)小伝、此の付近を肥後屋敷と云う。肥後ノ守経亮、此の処に邸宅を構えたるが故なり。経亮。宝暦9年2月ここに生れ、幼少の頃より後桜町天皇の内ノ非蔵人に出仕。初め伊豆ノ守と称し後、肥後ノ守と改称す。有職故実の学に造詣深く、且つ歌道にも秀れたり。文化2年6月10日47歳を以って卒し、当地本福寺に葬る。本照院円妙覚長居士と追い謚さる。辞世に曰く「のがれ得ぬ道とし知ればかねてわがおくつき処定めおきつる」。著書に橘窓自語3巻、梅窓自語2巻、万葉集校異20巻等あり。本居宣長、小沢蘆庵、滝沢馬琴、上田秋成、谷文晁等交友厚く、屡々此所に相会し詩歌をたのしむ。(因に画匠谷文晁筆経亮像は東京国立博物館に蔵す)昭和40年猛夏、艮山記」
「此付近」は漠然としている。このチラシは、鳥居入って右手の所で配っていたのだが、果たしていかが。
経亮が隠岐駅鈴を詠んだ短冊は、今、隠岐国造家の展示室にある。国造が「駅鈴」の題で歌を募った時に応じたのであろう。つまり、寛政2年の遷幸に至るまでの「隠岐駅鈴」を取り巻くグループの一員に経亮も入っていたのである。宣長と駅鈴を結ぶ線がまた一つ引かれた。
「梅宮大社鳥居」
この日は区民祭。ここが会場である。
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