midashi_b 不思議

l_b3

 宣長は、人間知恵の限界ということをよく口にする。

 世の中には不思議なことがある。
 「天下ノ事、不思議多シ」
 これは藤原定家の日記『明月記』正治2年1月29日の一節だが、定家が不思議だと思った人の世だけでなく、自然界にも不思議は多い。

 「されば此天地も万物も、いひもてゆけばことごとく奇異からずといふことなく、こゝに至ては、かの聖人といへ共、その然る所以の理は、いかに共窮め知ることあたはず、是をもて、人の智は限りありて小きことをさとるべく、又神の御しはざの、限なく妙なる物なる事をもさとるべし」
これは『葛花』の一節だ。

 また次のようにも言う。
 「すべて儒者は、世ノ中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり。儒者のみにもあらず、から心ののぞこらぬ、近き世の神学者といふものはた、みな同じことぞ。そもそもあやしき事をば、まことそらごとをとはず、すべて信ぜぬは、一わたりはかしこきやうなれども、中々のさかしらにて、人の智(サトリ)はかぎり有て、及ばぬところ多きことを、えさとらで、よろづの理リを、おのがさとりもて、ことごとく知(シリ)つくすべき物と思へる、からごゝろのひがこと也。すべて世ノ中のことはりは、かぎりもなきものにて、さらに人のみじかき智(サトリ)もて、しりつくすべきわざにあらざれば、神代の事あやしとて、凡人(タダビト)のいかでかはたやすくはかりいはん」(『玉勝間』巻5「熊沢氏が神典を論へる事」)
 このような態度を「不可知論」と言ったりする。

 宣長の言うように、この世には説明の付かないことが多い。
 宝暦9年(1759)9月、正月が来たといって町では正月の準備が始まったことがある。
 明和7年(1770)7月28日夜、空が赤くなり、やがて白い筋が何本も浮かび上がり、ゆらゆら揺れては消えまた現れしたことがある。今ではオーロラだろうと言われている。
 天明8年(1771)4月11日夕方六半時(午後8時過ぎ)、光るものが南の空に現れ、また南の空に消えていった。江戸では、昼ぐらい明るかったという。これは未確認飛行物体か。
 怪異と言うのは適当とは思えないが、お蔭参りを松坂で目の当たりにした時も、宣長は、そこに不思議を越えた神意を感じたのかもしれない。
 明和8年(1771)には、突然大勢の人が伊勢神宮に参詣するといって歩き出した。その数ざっと200万人。当時の人口3000万人だから15人に1人が伊勢に来たことになる。おかげ参りだ。おかげで松坂の町は参宮客で埋め尽くされた。道を横断することも出来ず、家の軒先で寝ている旅人もいたという。
 そんな大規模なものだけではない。宣長の友人で垂加神道家でもあった谷川士清は、自分の原稿を土に埋めて「反故塚」を作ると、玉虫が3日間集まったという。この時、宣長は門人と歌を贈っている。
 門人・千家俊信の掌紋(手相)に「建玉」、また「玉」の字が出て、喜んだ俊信は周囲の祝福をうけた。この「掌の玉」一件について宣長は、「そのようなことは、決して人に知られぬように秘密としたほうがよい」と忠告している。

  不思議があることは宣長も認める。だが、神秘体験を吹聴し始めると学問の方向もずれるし、またあらぬ誤解を受けると考えたのだろう。宣長は、不思議を見ても、そのことを声高に言う人ではなかった。奇談を楽しむ人でなく、神への畏れを知る人であった。

  また、それ以上に宣長にとって不思議なのは、例えば日本語には整然とした法則があることであり、また言葉が集まり妙なる調べとなることであり、また『源氏物語』のような優れた作品があることであった。
 宣長が「不思議だ」と思ったことの中には、その後の学問が解決したこともある。だが多くは未だに未解決のままである。


【資料】
  1. 宝暦9年(1759)9月、「流行正月」があった。 『日録』に、「今月、町々家々正月之儀式ヲナス、或餅ツキ、豆ハヤシ、雑煮等アリ、甚シキ者ハ、門餝、松ヲタツルニ至ル、他国ヨリ段々流行来ルト也」(宣長全集・16-147)とある。「流行正月」は他の年にも、また宣長以外の記録にも散見する。年に2回正月をするのは災害など災厄があった年の一種のお祓いで、悪い年はもう終わった、という意味があるのだとする説もあるが、定かではない。

  2. 明和7年(1770)7月28日夜、宣長は松坂でオーロラを見ている。 『日記』には、「廿八日、今夜北方有赤気、始四時頃如見甚遠方火事、其後九時頃至而、赤気甚大高而、其中多有白筋立登、其筋或消或現、其赤気漸広而、後及東西上及半天、至八時頃消矣、右之変諸国一同之由後日聞」(宣長全集・16-318)とある。
     この変異は宣長も言うように全国的なもので、『武江年表』「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」とあり、『想山著聞奇集』によれば長崎で、神田茂『日本天文気象史料』によれば京都でも見えたそうで図が載る。現在ではオーロラではないかとされている。(「気候からみた江戸時代」西岡秀雄『図説日本文化の歴史』第9巻月報所載)

  3. 天明8年(1771)4月11日夕方六半時(午後8時過ぎ)、南方の空に怪異星を見る。
     『日記』によると「十一日、今夕六半時有光物、自南方昇収南方、忽光輝忽消、故其形状無慥見之人、其光映一天之霞甚光明、其光之間、比雷光稍緩、雖然無慥見之間、忽消焉、後日聞之、近国皆同時也、京江戸等亦同」(宣長全集・16-420)とあり、また『増訂武江年表』には「四月十一日夜、戌刻、光り物飛ぶ。昼の如し」とある。暮六半、戌の刻は午後8時を廻った位であろうか。

>>「からごころ」
>>「オーロラを見た宣長」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる