宣長は『古事記』を研究していたから、今より昔の方が理想的な社会だと思っていたのだろう、復古主義者だ、と思われがちだが、そんな姑息な考え方ではない。昔がよかったこともあるし、今が勝ることももちろん多いという柔軟さがあった。例えば卑俗な例が蜜柑と橘である。『玉勝間』巻14「古よりも後世のまされる事」にそのことが書かれる。また蜜柑と橘については『古事記伝』巻25(宣長全集・11-150)に詳しく書かれるが、やはり蜜柑の方が美味しいという基本線の上で論は展開される。 さて、若山の宣長の旅宿にも蜜柑が差し入れされたことは日記などに詳しい。 毛見(ケミ) 浜宮神社 御由緒末。 紀の国のいせにうつりし跡ふりてなくさの浜にのこる神がき 『伊勢の闇から』川村二郎、講談社。 浜宮神社御由緒。末尾に宣長歌が書かれる。 楠の大木に覆われた浜宮境内 須佐神社有田市千田。昭和54年11月。社殿手前にある。 いたけるの神のしきます紀の国といはふかぶろの神の宮これ、 のりなが。 裏面「昭和五十四年十一月吉日建碑、氏子総代上野山長一、息清」 脇碑「寛政六年十一月本居宣長が須佐神社に詣でて、いたけるの神のしきます紀の国といはふかぶろの神の宮これ、と詠まれた。紀の国を治めた五十猛命の親神戔鳴尊を祀っているのはこの宮であるの意味「かぶろ」とは御親のこと、筆跡は宣長の真筆による」 毎年10月14日の千田祭は、『有田川』有吉佐和子にも出る。 須佐神社歌碑 有田市星尾有田川畔(国道沿)。昭和62年11月。 山遠くこえこしかひも有田川見渡し清き瀬々の白波 「国学者本居宣長翁が寛政六年十一月(一七九四年)紀州藩に滞在していた折須佐神社宮司が国学の教授を招請し同社への紀行中有田川を詠んだ歌である、昭和六十二年十一月吉日建之、有田市千田東、上野山長一、息清」 星尾有田川畔(国道沿)歌碑 有田郡吉備町田口西芳寺。みかん山の中腹、こんもりした雑木林。 年をへて通ひなれたる艫見えてよるべたどらぬ和歌の浦舟 大江可道(享和2年没)の墓の台石。『吉備町誌』にも載る。大江はこの地の旧家。可道は宣長の記録には名前が出ない。須佐神社に講義に来たときに聴講した一人であろう。碑面の字は宣長の筆跡に似る。恐らく、その時宣長にもらった自筆の歌を刻したと思われる。今は、子孫も奈良県に出て参拝する人もない。思いがけないところにも宣長の足跡は残っている。 大江可道墓碑 大江可道墓碑(部分) 可道の墓は蜜柑山の中腹、こんもりした雑木林の中にある。 写真中央。 有田市千田東 上野山家。平成元年十一月吉日。 はしけやし有田の山は冬枯に青葉しげりてこがね花さく、宣長 「この歌は国学者本居宣長翁が寛政六年十一月(一七九四年)紀州藩主徳川治宝候(ママ)のもとに滞在中須佐神社宮司岩橋氏の古学教授の求めに応じ同社への道中このあたりの「みかん山」を眺めて詠んだものである。平成元年十一月吉日建立、有田市千田東、上野山長一、息清」 この近く、日高郡日高町比井若一王子には大平の歌碑がある。歌は、 磯ちかくわかめかりほすあまの子のやどもしられずかすむ春かな で、『紀伊名所図会』収載。但し、碑面には「阿田能子」とある。
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