享保17年(1732)3月10日〜文化3年(1806)1月12日。名隆子。麗女と呼ぶ。伊勢神宮内宮権禰宜・荒木田武遠の娘として伊勢山田下中之郷町(八日市場から宮川寄りの町)に生まれる。13歳の時に、叔父で外宮の御師・武遇(タケトモ)の養女となる。16歳で連歌を学び、17歳の年に西山昌林門に入る。寛延3年(1750)、西山昌林が豊宮崎文庫に『三籟集』を奉納するために伊勢を訪うた時、慶徳武遇宅で隆子(19歳)と対面。印象を
「この少女なむ、つくバの道に志深く、きのふの会席にもつらなりて、いひ出る言の葉もたぐひなかりき」(『神道山路次記』)
と語る(「『三籟集』について」野間光辰『談林叢談』)。
22歳で慶滋(笠井)家雅(イエタダ・如松とも)と結婚。夫も学問を好み、妻の読書や執筆を助けた。
麗女は、『池ノ藻屑』、『野中の清水』といった擬古文の物語で知られるが、その『野中の清水』を宣長は読んだ。安永6年4月26日付荒木田経雅差出宣長宛書簡に
「山田隆女著候野中清水と申物語様之物、御覧も可被成候ハハ差上可申候」(宣長全集・別3-417)
とある。 そこで借覧した宣長は添削をする。それが麗女の激高を買った。麗女は宣長を
「田舎のゑ(ママ)せ書生」 と罵る。だが、宣長はあまり深く考えていなかったようで、天明8年に伊勢を訪れた雲史という人物に、麗女と対面することを勧めた(『雲史伊勢紀行』・『森銑三著作集』巻7に紹介される)。
添削は丁寧。見ず知らずの人の作にここまで加筆するのも不自然だ。全くの想像だが、今井田家時代、才気活発な宣長が、同じ山田(伊勢市)に住む才女隆子の噂を耳にせぬはずはない。隆子も同じだ。そのような因縁が尾を引いていたのかもしれない。
麗女は文化3年正月12日、山田八日市場の自邸で亡くなった。墓は浦口町旦過の山上(天神山)。法名、宝寿院霊雲浄光大姉。跡は養子佳包(29歳)が継いだ。
【参考文献】
- 『慶徳(荒木田)麗女遺墨展覧会目録』(昭和30年3月12,13,14日) 神宮文庫。目録の他、略伝と年譜を載せる。
- 『国学者伝記集成』巻1に自伝「慶徳麗女遺稿」が載る。そこには、宣長との論争が、途中から奥田三角取り次ぎとなったことが記される。
- 「安井家蔵荒木田麗女書簡1(〜5)」倉本昭 『伊勢 郷土史草』第32〜35号
- 『江戸女流文学の発見』門玲子 藤原書店
>>「法幢」
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