midashi_o.gif 荒木田尚賢(アラキダ・ヒサカタ)

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  元文4年(1739)9月18日〜天明8年(1788)7月2日。享年50歳。家名「蓬莱」により「蓬莱尚賢」とも。通称雅楽(うた)、瓢形(ひさかた)。号は琢斎。伊勢内宮に近い宇治今在家(伊勢市宇治中之切町)、あるいは赤福おかげ横町近くと言った方がわかりやすいかもしれない、に生まれた。
 仕事は、内宮禰宜兼副大物忌で、また宇治会合衆年寄役も務めた。
 学問を好み、宝暦10年(1760)、津の谷川士清の洞津(どうしん)塾に入門。翌年には師の娘・八十子と結婚。宝暦13年には賀茂真淵に入門。一方では士清の垂加神道を学び、他方では真淵の古学を学ぶという二股を掛けたことから、真淵からいぶかしく思われたこともある。ただ、明和2年(1765)に宣長と対面してからは、真淵、宣長、士清の間の連絡係を務め、国学発展に大きく貢献する。士清の『日本書紀通証』や『倭訓栞』への協力と、天明2年(1782)の内宮林崎文庫の整備拡充を図り神宮教学の発展に寄与したことは大きな功績である。天明7年(1787)になってようやく宣長に正式入門するが翌年急逝する。

○ 宣長との交流
 宣長への正式入門は遅れたが、二人は学問のよき仲間として交わった。
 『古事記伝』稿本を読んで感銘した尚賢は、宣長が頭をひねっていたクラゲの生態について、安永3年(1774)に長崎に遊学したときの体験をレポートにして送り執筆を助けた。彼の写した『古事記伝』は神宮文庫に伝わる。
 同9年4月12日には宣長、春庭親子を招き五十鈴川の河鹿の声を楽しんだ。
 また、「桧垣女像」、「酒折宮火揚命像」、「八頭蛇出現図」など、宣長も首をひねる妙な史料や、これは珍物中の珍物「十字鈴」をプレゼントした。しかし尚賢の一番の貢献は、珍しい本を届けたことだろう。一二をあげてみると、まず、『御湯殿のうへの日記』。
 宣長旧蔵の『御湯殿のうへの日記』は計4冊(記念館蔵)ある。参考のために奥書を載せる。当時の本の伝播する様子がよく分かるはずだ。

  1. 『元亀三年 御湯殿のうへの日記』、奥書「安永四年乙未の夏五月九日に曽我部式部源元寛か本もて写しぬ、されとよみわきまへかたき事さはなれとそれかまた/\かいつけき 荒木田ひさかた 安永四年乙未十月廿六日書写校合畢 本居宣長(花押)」。
  2. 『寛永二十一年 正月御湯殿のうへの日記』、奥書「右寛永廿一年正月御ゆとのゝうへの日記は転法輪殿の御内なる源の元寛のぬしの蔵本をかりてうつしぬ 安永九年なかつき廿日 あらきたの経雅 大神宮八祢宜あらき田経雅神主の本にて春庭におほせて写さしめてみづからけうかうしつ 安永九年庚子神無月廿三日 本居宣長(花押)」
  3. 『慶長三年 御湯殿のうへの日記』、奥書「天明元年十二月に曽我部式部源元寛か本もて写さしむ 荒木田瓠形/天明二年壬寅五月十九日人に写させて校合しをえぬ 本居宣長」
  4. 『大永六年より慶長十四年まで 御湯殿のうへの日記』(校合年次不詳・春庭写)奥書「此一冊は柳原蔵人弁殿より拝借せりもと抄本ナルヲ元寛又思フ事アル所々を抄出せり原本ハ帥中納言【公廉卿】の許より妄に人に見せしめ給ふへからさるよしにてかり給ふと侍中仰せられぬゆめ/\ 明和戊子正月 源元寛 御ゆとゝ(のか)のうへの記慶長三年一部もとより収蔵せりコレハ年中全シテいさゝか闕タル事ナシ」。曽我部元寛から尚賢、また中川(荒木田)経雅、宣長という本のながれが見えてくる。
 次に、『多気窓蛍』。本書は、伊勢国司北畠材親(かずちか)の随筆。伊勢についての記述に富むが、偽書説もある。谷川士清本を尚賢が写し、さらに宣長が転写させた(筆写不明)。奥書「安永六年丁酉六月朔日書写校合 本居宣長(花押)」。本書はその後も転写され、大山峻峰氏旧蔵本の奥書「安永六年丁酉六月朔日書写校合 本居宣長(花押)/安永六年丁酉十月以師本書写 中里常国(花押)/寛政十一年己未七月十九日写之 橘光延/寛政己未秋八月借橘光延以令大木吉良謄写之 橘秀晧(花押)」と有る。常国は松坂の宣長門人である。

曽我部元寛については、『御湯殿のうへの日記』第4冊奥書の上に宣長の筆で「元寛称曽我部式部阿波国人淤子京師名于国学」と記す。宣長旧蔵書には元寛本の『和歌うち聞』もある。
荒木田経雅と尚賢は、身分こそ違うが同じ内宮の神官で、安永5年2月14日には二人は小篠敏父子と連れだって宮崎文庫を見学し、『古文尚書』を閲覧したこともある。

【参考文献】
北岡四良『近世国学者の研究』(皇學館大學出版部)


>>「蓬莱尚賢『古事記伝』に感動する」
>>「谷川士清」



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