宣長は、人の問いに答えて、「小手前の安心」は無いと明言する。
「小手前」(オテマエ)とは聞き慣れない言葉だが、どうやら「個人レベル」と言うことらしい。「安心」(アンジン)とは心の平安。例えば浄土教なら、阿弥陀如来の本願を疑うことなく、その救済により極楽往生が出来るから、死んでも平気だと安心する。あるいは、悟りを開く。これは個人レベルでの安心だ。こういったものは無いと宣長は言う。
個人は社会の一員であり、社会の掟に背くことは出来ないのだから、その社会の一員としての務めを果
たせば、「安心」など無くても生活できると宣長は考えた。
だいたい、「安心」を得るための理屈はいい加減なものが多いではないか。天地の道理も、また生死の道理も分からないのに、どうして「安心」が得られるのか。皆、こじつけだ。その事は古書(『古事記』等)を読めば明らかだ。
だがそれでも「安心」が無くては不安で居れないと言う人がいるので敢えて答えるならば、人は死ねば皆、黄泉の国に行く。黄泉の国は汚くて悪しき国だ。だから悲しい。それだけだ。だから「此世に死ぬ
るほどかなしき事は候はぬ也」(『答問録』)。
結局、すべては神のしわざであり、「人の力にはいよいよかなわぬわざ」で、人はただそれに従順であるよりほかはない。この世には悪事も凶事も多いが、それもまた神の仕業である。それに逆らうことをしないでいること、それが「真実の神道の安心」であるとした。
「安心」と「悲しみ」。宣長にとってこの二つは矛盾するものではなく、ここから歌も生まれてくるのである。
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