midashi_v.gif 「県居の九月十三夜」

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 「この文章は、『佐佐木信綱先生とふるさと鈴鹿』の略年譜に拠れば、大正5年(1916)年九月『中央公論』に発表されたものである。今は、『増訂 賀茂真淵と本居宣長』(昭和10年1月10日発行・著者佐佐木信綱・発行所湯川弘文社)から全文を掲出する。注の形式は改めた。

「県居の九月十三夜」
 幕府中興の名将軍八代吉宗の孫なる家治が、十代将軍の職を襲うたのは、四年の前となつた。後桜町天皇の践祚し給うたのは、二年の前となつた。図書集成一千巻が舶載し、朝鮮の正使鄭尚淳が来たのは二月のこと、その六月に、宝暦十四年は改元して明和元年となつた。この年九月十三日の夜は、空に塵ばかりの雲もなく晴れ渡つて、清くさやかな月の光は、江戸の八百八街を照らした。
 当時六十八歳の高齢に達し、幾百人の門下の師と仰がれて、江戸に門戸を張つてをる多くの儒学者の中に一敵国の観を為してゐた賀茂真淵は、かねて浜町(1)なる本矢倉(やのくら)に地を卜し、旧居を引移して半ば改築の工事にかかつて居たところ、落成を告げたので、この(2)夜親しい門人の誰彼を招いて、月見の宴を催したのであつた。家(3)は山伏井戸から東に当る中通で、福王甚左衛門の東隣に位し、細田丹波守時俊とて御勘定頭で名のあつた人の子、細田主水時行といふ御扈従組の旗本で、五百石を領じて居る人の地百坪あまりを借りたのである。
 隅田の流に近い東の方の本屋(おもや)には、二階もあり、土蔵も添うて居るが、今宵月見の宴を開いたのは、福王家に近く建てた隠居家で、そは真淵が特に心を用ゐた古へぶりの家である。屋根は板葺で(4)、西の方に入口があつて、そこは板敷になつてゐ、上にあがると四方は庇の間で、中央の高くなつた長押の上に四畳半の母屋(もや)がある。南庇と西庇の半とは開き戸で、常は簾をおろすやうにしてあるが、今宵は捲き上げてある。東庇の下半は板壁、上半は半蔀で、その間の南の隅には、瓶中に松を挿したのが置いてあり、其の傍に、今宵の祝にと贈られた、菊の造花をたて遣水をあしらうてある州浜が飾つてあり、北の隅には、書架と文机と柳筥が据ゑてある。北庇は襖でしきつて、勝手に通 ふやうにしてある。
 家は南に面し、数十坪の庭の面が、月の光に隈なく照らされて居る。西の方に当つて、いささか土を盛り上げ、廻りに若松植ゑて穴蔵をこしらへた。−真淵はさきに火の災に遇つたが−当時江戸には屡大火があつたので、市人の家の余地ある者は、万一の際の用意にとて、多く庭中にかく穴蔵を設けたのであつた。
 穴倉の東の方は、殊更(5)に野辺や畑のやうに造りなしてあつて、青菜(6)も植ゑてあれば、野蒜も垣根に近くある。むかし笏にしたといふ(7)ふくらの苗木を、箱根山から掘らせて来たのも二本ある。小ざさ(8)も植ゑてある。また、かねがね万葉集中の産物をあつめて居るので、越前(9)の青木松柏に頼んで送つてもらつた堅香子(かたかご)もあり、上総から取りよせた黒慈姑の小さい恵具(方言よぐ)、相模から弟子がもつて来た山菅(方言みのぐさ)なども植ゑてある。叢のここかしこには、清い月の光を仰いで、蟋蟀や鈴虫が頻りに鳴いてゐる。
 真淵はすでに老境に達し、かつ近年病がちであつたが、髪は茶筅結び(10)にして、長い眉、清い眼、頬はゆたかに赤みを帯びて、意気は少しも衰へなかつた。この夜は殊に心地よげに、門人等とさまざまの物語に興じた。歌(11)はおのづから成るもので、しひて詠むものでないと、常にいうて、かゝる席上などでは詠まぬ ことのある彼も、今夜は数首を詠じ、好物とて故郷からとりよせた山蕎麦や、干した松露、干魚(12)などを味はうて、枸杞(くこ)の実を入れた(13)やはらかい自用の古酒を、数盃かたむけた。人々が散じて後も、母屋を片づけさせ、縁近く端居して、清い月影に向つてゐた。
月の光は、人をして物おもはしめる。老いたる真淵の心にも、千々の想が往来した。
 思は、自分の門に集まりくる門弟等の上に及んだ。まづ今夜の宴に列なつた人々に就いても、今年二十六歳の春郷は、真淵が江戸に来るや、まづ世話になつた村田春道の子で、葛飾早稲の新しぼりを土産(つと)として、葛飾の別野から来た。彼は町人ながら人品のけだかい(14)上に、長歌に秀でて、今宵も即興の作を詠じた(15)が、如何にも身体が弱くて、大きな事は成し得さうにもないのが遺憾に思はれる。その弟で、はやくから教へた春海はまだ二十歳にもならぬ が、漢学に長けて文才がある。老友加藤枝直の子で、これも少年の頃から導いた千蔭は、はや三十歳の男盛りになつた。しかし春海も千蔭も、歌は巧みではあるが、どうも自分の上古風の真意を十分に解して居るとはいひがたい。伊能魚彦(なひこ)と河津美樹(うまき)とは年齢も相似た四十二と四十四である。魚彦は学才は乏しい(16)が、多年いそしんだので、歌に於いては頗るわが意を得て居る。美樹は、歌(17)はとかくに出精せぬ が、道の学問にはよほど才があり、望がある。余人(ひと)よりもさきに来てさきに帰つた平賀源内(四十二歳)は、今年の春朝鮮の使が来て、その宿所なる東本願寺で唱和の詩会があつた時、その和韻を逆書して満座の舌を巻かしめ、また火浣布(くわくわんぷ)を工夫して香敷(かうしき)を作り、来朝の紅毛人を驚かした。彼は非凡の才子ではあるが、吾が道の人でない。去年の九月入門した建部綾足(四十三歳)は、書もよくするが、これ亦翩々たる才子である。山岡浚明(五十三歳)は、年もたけ学問も深いが、畢竟一学究であらうなどと思つた。また今宵来なかつた中にも、かの枝直(七十三歳)は中々重んずべき学者で、其の説にまま聴くべき卓見はあるが、最早あまりにも年老いて居る。小野古道は、江戸で最初に入門した弟子で、先年八年間つづけて(18)成し了へた万葉の講筵にも、欠かさず出席した熱心家ではあるが、好人物といふに過ぎぬ 。女弟子の中では、親のやうに自分を慕つた天才の女歌人油谷倭文子は、十三年前、二十歳の年若さで世を去つたが、なほ土岐新左衛門の妻なる筑波子や、片野孫兵衛の女で紀伊家に仕へて居る(19)紅子(もみこ)や、かの州浜を祝つておこせた紀伊御殿の年寄の瀬川(三十六歳)などが、彼の心に数へられた。
 先刻春郷が、去年の旅で共に摺つて来た仏足石の碑を掛物にしたよしを話したことをふと思ひ出して、連想は、つづいてその大和路の旅のことに走せた。
大和は上代文明の故地として、年久しく彼のあこがれた国土であつた。その宿年の望を果たして、或は三山をめぐつて藤原の御井の古へを偲び、或は軽の里の夕ぐれに立つて、人麿の妻に別れた悲しびを想ひ、或は薬師寺にかの仏足石の六句体の古歌を自ら摺り(20)、また吉野を訪うて、万葉歌人の吟詠のあとを忍んだ感興が、あざやかに浮んでくる。つづいて、壮年春満の門にあつた頃、馴れ親しんだ京都の優美な景色、東山や嵯峨あたりの今夜の月はいかにと思ひやつた。それとともに、かねて彼が主張する丈夫(ますらお)ぶりの大和から、たをやめぶりの今の京への遷都が、当時の人心の好尚や傾向を一変し、また歌風をも一変したといふことが、今更ながら想い出された。しかして、思いをその平安旧都における皇室の上に馳せると、文永に綸旨を忝うした遠江敷智(ふち)郡なる賀茂の新宮の祠官の裔に生れ、しかも数代の祖は東照神君の軍に功をたてて太刀を賜はり、自らは致士の身であるが、なほ田安家の禄を食んで、徳川幕府に対しても忠順の心を忘れなかつた彼の胸にも、その本来の精神たる勤王主義の炎は燃え立つた。それにつけても、皇室が江戸に遷都(21)ましまして、幕府の上に立つて大御勢(おほみいきほひ)を振ひましまさむにはと、思こゝに至つては、彼の眼(まなこ)は曇った。
 十三夜の月はいよいよ冴えた。庭の叢の虫の音は、いよいよ清くきこえる。彼は傍らなる杯をとつて、酒をのみつゝ静かに家のうちを見めぐらした。その(22)古へを慕ふ心から、家作(やづく)りや調度の上にも凡て古へぶりにならつた此の県居(あがたゐ)を作らうとて、尽くして来た苦心の数々が胸にうかんだ。今までの家の近所の物騒がしさに堪へかねて、いづこかに移りたいと地を求めたが、初め神田のお玉が池(23)の辺りを望んで無く、漸うこの地を借ることが出来たのであつた。弟子の中でも魚彦が程近いところに住んでも居、また世話ずきでもあつたので、大工の事ども一切を托して、三十両余り(24)で渡しにした。もとの家を引いて来たのではあつたが、しかも造作は予想外にかかつた。田安侯からは内々に拝領金(25)があつたが、それでも足らなかつた。平素門弟に対しては、師として一歩もかさないで、厳然たる態度をとつてゐた彼も、さずがに此度は、縁故の深い男女の門弟から、応分の金子の寄与を心ならずも請ふに至つた。其の他種々の煩はしい事があつて、著述に専らならんとする彼の心を乱す事が多く、寧ろ中止しようかとも思うたほどであつたが、それが漸く成つたのであると思つて、あたりを見まはした。机の上には、今朝ほど、浜松の実子真滋のもとから来た手紙が置いてあつた。
 思は転じて故郷へ往つた。
 浜松の宿を西へ出はなれる(26)処の右の山下に見える里、昔は岡部郷(をかべがう)といひ、いま伊場村といふ。其処(そこ)こそは彼の生れたところである。祖先が斎(いつ)きまつつた賀茂神社のうしろから、松の生ひ茂つた丘陵は、宇布見村へ通ふ道を十町あまり西に続いて居る。南は水田で、その向こうに東海道の松並木が見える。棟の木と榎とが枝をさしかはして居る垣の内の広い一かまへ、そこで彼は廿余年の春秋を送り迎へた。その家に間近く住んでゐた従兄岡部政長の女(むすめ)のおもかげが、ふと浮かんだ。
 彼の面わには、若さがかゞやいた。
 思ひあうた少女を妻とし得た春、弥生の光うららかにたゞよふ浜名の湖(うみ)に船を浮かべた。名も美しき引佐細江(いなさほそえ)の、水尽きんとして尽きざる細江また細江の幾つを見つゝ、館山寺の裏山にのぼつて、岩躑躅のかげに割籠(わりご)を開いた。
−花は散り春は逝いて、物悲しい秋の風に、うら若い妻は涙と彼とを此の世に残した。深い歎に沈んだあまり、一度は真言の僧に(27)ならうとまでしたのを、そはあるまじき事といさめられて、美くしい面影の忘れがたさに、一しほ深く親しんだ古代の書や、友とし交はつた浜松諏訪の大祝(おほはふり)杉浦国頭、五社の神官森暉昌(てるまさ)などとの上(かみ)つ代のものがたりは、彼の心を全く転ぜしめた。運命の手はゆくりなくも、彼を浜松の本陣梅谷の若き主人たらしめた。真滋は生れた。しかも読書人たる彼の性行は変らなかつた。政長が女(むすめ)のうつくしさ、やさしさにかふるに、梅谷の女(むすめ)には賢(さか)しさがあつた。一逆旅の主人として終るべきであつた彼は、この賢しき妻の激励により、家を捨て妻子を置いて、古学を究むべく京都に上つた。そこには、東山に国学校を創設しようとした老学者−かの杉浦国頭の妻まさきの伯父なる荷田春満が彼を待ち迎へた。
若く(28)てうせた妻、年たけ(29)てうせた妻、謹厳な亡き師、また遠く離れ住んで居る吾が子の面影は、浮んでは消えた。
 一度雲に入つた月は、再び出でて光り輝いた。千年の昔から千年の後に不朽の光を放つ月の光といふことを思ふと、彼の思は、その畢生の事業とする古道の上に馳せた。もはや残んの齢幾許(いくばく)もないといふ感は、たゞひとり古道の奥処(おくか)を極め尽くしたとの自覚ある彼の心に、しみじみと感ぜられた。今にしてわが身死すとも多く遺憾はない。わが実子は、江戸なるわが家の跡を嗣ぐやうにならなかつたが、わが精神上の子たる数々の著述、殊に自分の為に最も決心の文字たる冠辞考、万葉考は、一は刊行し、一は稿しをへた。吾が道はこれらの書によつて不朽に伝はるであらう。しかも筆を以てしても或程度以上は伝へがたい吾が古道の真精神、或は老荘の末流とそしり、或は古文辞の模倣とののしると聞く儒者一派の攻撃のごときは、もとより吾が道を真に解したものでないが、後世虚偽の世の心を以てしては到底解しがたい吾が古文明の、ををしくもたけく、又おのづからなる精神、かの万葉の歌のうちに現はれた不朽の古文明のけだかい意(こゝろ)、こは如何にして伝ふべきであらうか。思ここに至つて、彼の心はいふばかりなき寂しさにとらはれた。
 この時彼の眼にうかんだのは、松坂の一夜、旅宿の行燈のもとに対した若い宣長の面影であつた。
 去年の五月、大和路の旅を終へ、神宮に詣でて五十鈴川の清き流れに心をそゝぎ、鳥羽の日和見山に遊んで、伊良虞が崎を遠見はるかした帰途であつた。松坂日野町なる新上屋(30)に宿をとつて、間もなくおとづれたのは本居宣長であつた。同行の年若い弟子の春郷、春海は別室にくつろがせ、座敷に通して引見した。うち見たところ、三十を越えて間もない壮年で、温和な為人(ひとゝなり)のうちにも、才気が眉宇の間にほとばしつてゐる。その語るところをきけば、少壮にして京都に遊学し、医術を学び、廿八歳の冬松坂に帰り、医を業として居るが、京都留学時代に、契沖の著書を読んで古学に志し、帰郷の後わが冠辞考を得て読んだが、初めはその真意をさとるを得ず、数回読み味はつて、古へぶりの心詞のまことの意をさとり得たよしで、その造詣も中々深く思はれた。なほその語るところをきけば、古事記を注釈する志を抱いてゐるとの事で、その質疑も肯綮を得てゐて、学殖識見頗る称すべく頼もしく思はれた。年こそ違へ、好知己を得たおもひがして、自分もかねて神典を説かうと志したが、その階梯として万葉にかゝり、今や年たけて、日くれ道遠しの感がある。是非御身によつて古事記の研究が大成されむことをまつ。併し順序として、万葉の研究から入らねばならぬといふことを、委しく説いた。この訓戒を聴いた宣長の顔のは、燃えるやうな熱心と、貴とい敬虔の情とがあふれた。その夜の光景こそは、今まさに彼の心にまさやかに思ひ浮べらるゝのであつた。
 こをえにしとして、今年正月誓詞(31)をおくつて入門してからは、絶えず文通して、道の学について、問はれもしつ、教へもするにつけて、いよいよ道のため頼もしく思はれる。おもうて斯の人の上に至つた時、高い峰の頂に立つて、ひとり月明に対するにも比ぶべき彼(かれ)の孤独の心にも、いひしらぬ喜びが湧きあふれた。
彼はまた杯をとつた。
 うまらに(32)喫(おや)らふる哉(がね)や一杯(つき)二杯(つき)
 ゑらゑらに掌(たなそこ)うちあぐるがねや三杯(つき)四杯(つき)
 言直(ことなほ)し心直しもよ五杯(つき)六杯(つき)  
 天(あま)足らし国足らすもよ七杯(つき)八杯(つき)
彼は声たからかにうたつた。月は静かに沈まむとした。
    付言
 近代の歌人の中にて、予が最も景慕にたへざるは賀茂真淵なり。去年の六月浜松なる彼の旧居を訪ひ、今年六月熱田なる岡部譲氏をとひ、史料を探り得し結果、蒙庵と真淵、ふぶくろ抄の二篇をものしぬ。今また史料をもととし、幾分の想像まじへて此の一篇を試みぬ。かの「詩と真実」のたぐひといひつべくや。(大正五年七月)

註(1)(2)真淵贈真滋書(梅谷甚三郎氏所蔵)
 (2)懸居の歌集
 (3)真淵贈魚彦書(佐久間長敬氏所蔵)

豊田長敦の文詞(竹柏園所蔵)
 懸居大人の旧跡、師岡正胤
 浜町の今昔、相賀調雨
 懸居考、戸川残花
 (4)内山真龍書県居図(岡部譲氏所蔵)
 (5)県居の歌集及ふぶくろ
 (6)村田春郷家集
 (7)真淵贈飯田弥兵衛書(根岸氏所蔵)
 (8)真龍が岡部翁の霊を祀る詞
 (9)真淵贈松珀書(浜千鳥)
 (10)真龍画真淵像(竹柏園蔵)
 (11)ふぶくろ
 (12)(13)1に同じ
 (14)村田春郷墓碑
 (15)6に同じ
 (16)真淵贈宣長書(本居清造氏所蔵)
 (17)さきくさ
 (18)小野古道家集
 (19)県門略伝
 (20)真淵贈祐利書(福田氏所蔵)
 (21)都うつし
 (22)賀茂翁家集序
 (23)ふぶくろ
 (24)真淵贈魚彦書
 (25)真淵贈真滋書及ふぶくろ
 (26)賀茂の川水
 (27)玉だすき
 (28)岡部政長女享保九年九月四日没
 (29)梅谷方良女寛延四年九月十日没
 (30)サザナミ(さんずいに百)筆話及増補県居門人録
 (31)賀茂翁家集


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