◇桜咲く3月
宣長にとっての弥生という月は、若い頃と40歳以降では随分異なっています。
それ以前のことは、「3つの大きな出来事」や「万事改まる3月」を見ていただくとして、40歳以後は、3月と言えば桜の季節です。
桜の美しさは年齢を重ねるほどに深まると言います。
宣長の場合も同じです。小林秀雄は次のように語っています。
「宣長さんがね、本當に櫻にうち込んだのは、四十からだね、若いときから櫻が好きだつたとはいふが、四十からの宣長さんには、何か必死のものが見えるね、僕には。何といふか色合ひがちがふんだよ、それまでとは。僕もさうだつた、四十からだつた、やはりね、身を切るやうな痛切な體驗がないと、駄目だね、・・・・ただ、きれいだ、きれいだといふだけで、ちつとも食ひ込んで行かないからね。」
郡司勝義「花やかへりて我を見るらむ-小林秀雄の櫻」 (『文學 界』1995,4)
40歳頃と言えば明和年間も末で、母、また賀茂真淵の死、「おかげ参り」など宣長周辺では大きな出来事が続けて起こりました。明和年間という「宣長の転機」を今年の宣長十講のテーマとだったのですが、来年度、つまりこの5月からの宣長十講では「安永年間の宣長」というテーマで、どのように宣長が変わったのか、そこから何が生み出されてくるのかを見ていきたいと思います。
さて、その安永2年に、「花五十首」と言う桜の連作があります。その中の
さきのよに 花はいかなる 契有りて かばかりめづる 心なるらん
などは、そのまま晩年の物狂おしいほどの桜への思い(それを詠んだのが『枕の山』別名「桜花三百首」)へとつながっていきます。
素朴な見方だと言われるかもしれませんが、本居宣長は自分の体験をもとに物を見て考えた人です。桜の美しさも実際の感動が根底にあったのです。
桜の花くらい、虚心に見ることの難しい花はありません。桜の花ではなく、どうやら理屈の花が咲き誇っているようです。
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「桜」
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「本居宣長四十四歳自画自賛像」
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『枕の山』

◇旅の仕方も「宣長流」
春は旅の季節です。伊勢路でも多くの旅人の姿を見かけます。
宣長さんの頃の3月はもう晩春。花見や参宮に出かけることも多かったようです。
宣長にとっての「旅」は、私たちと同じように、日常生活を離れることで、非日常的な出来事でした。
これは、三重県の人で言えば、芭蕉や大淀三千風、松浦武四郎のように、旅が人生そのものという人たちとの決定的な違いです。つまり、時間とお金と健康と気力の余裕のある時に旅立つのです。
だから、もし卒業論文で、
「宣長における「旅」」
と言うテーマを選んでも、あまり本質的な問題ではないネ、と指摘されるかも知れません。
でも、その生涯の旅の記録を見ていくと、そこにはいかにも宣長らしい「旅の手法」が見て取れます。
「宣長の旅の手法」、それは「徹底探索」です。
19歳の京都旅行、43歳の吉野・飛鳥旅行はその典型的な例です。
また60歳の時には、『万葉集』に出る「山辺五十師原」を考証するために鈴鹿、石薬師を歩きます。宿に着いたのは夜の子の刻、深夜12時だったと言います。
64歳の時、大坂を旅したとき、宿の関係で寄れなかった契沖の円珠庵も、72歳の2月に再び訪れています。
『菅笠日記』の旅では、火災による仮社殿だった飛鳥坐神社も、その後、和歌山行きの時に再訪しています。この神社は、「大和国高市郡、飛鳥神社は、大社と申す中にも、殊にやむごとなきゆゑよしのおはします御社」と宣長が高く評価しています。
歌枕の考証も執拗です。
「妹背山」や「水無瀬」などは、わざわざ船を止めて、下りては探索をしたことが『玉勝間』に書かれています。
行く前にもよく調べ、旅の途中はよく見て、よく聞き、よく歩き、帰ってからも何度も考え、調べ、思い出しながら、時には「旅」に新しい意味を付与し、宣長の旅は豊かになっていくのです。
>>「宣長の旅一覧表」
>>「宣長の旅」
>>「宣長と旅」
>>「宣長の修学旅行」
>>『菅笠日記』

◇飛騨さんの初節句
明和7年(1770)3月3日は大雨振りでした。でも魚町の宣長(41歳)宅ははなやかな歓びに包まれていました。
1月12日に生まれた長女・飛騨の初節句です。2月15日には、宣長の母の実家である村田家から紙雛や小さな着物が届いたのを皮切りに、初節句の祝儀が妻の実家・草深家、大口村の伊兵衛、宗善、村田伊兵衛家からも次々にひな人形が届いた。本町の小津家からは「古ひゝな」、古い雛人形も届いた。他にも干菓子や花餅など。またこれに先立ち2月29日には内祝いとして草餅が親戚など18軒に配られました。これらのことは、宣長自筆の『臨時吉凶贈酬帳』に詳しく記載があり、「本居宣長全集」で見ることができます。
>>「ひな祭り」
>>「飛騨」

◇蔦屋重三郎がやってきた
3月になると訪問客も増えてくる。
寛政7年(1795)3月25日、珍しい人が来訪した。江戸の蔦屋重三郎、通称「蔦重」である。
「同廿五日来ル、一、江戸通油町蔦ヤ重三郎 来ル、右ハ千蔭春海ナトコンイノ書林也」(『雅事要案』)
蔦重と言えば、『吉原細見』から始まりやがて狂歌・戯作へと手を広げた江戸の書林。自らも狂歌師としてまた戯作者として、そしてプロデューサーとして、当時の江戸の俗文学の最先端を走った人である。懇意だという村田春海や加藤千蔭は共に賀茂真淵門人で、宣長とも昵懇の間柄。
しかし蔦重と言えば、なんと言っても有名なのが写楽の版元としてだろう。寛政6年から7年にかけて錦絵140種余りが出しその後ぷっつり途絶えてしまった。謎の絵師・写楽の出版直後の来訪だけに、ひょっとしたら話題にのぼったのでは・・。でも錦絵には批判的な宣長だけに無理かな。
なぜ蔦重は宣長の所に来たのだろう。おそらく、宣長の本を江戸でも販売することへの挨拶だったと思われる。当時急成長していた名古屋の書林、中でも永楽屋東四郎、その永楽屋の主力商品が『古事記伝』など宣長本であったことは周知の事実。そちらへの接近にあわせて、著者にも会っておこうかということだろう。
実際にこの後、『玉勝間』や『出雲国造神寿後釈』が蔦重経由で江戸に広まっていった。
蔦重と宣長の関係で忘れることが出来ないのが、『玉勝間』の記事改変事件だ。
儒学や儒者を批判した章を、ちょっと危ないですよと宣長に忠告したのがどうやら蔦重であったらしい。万事に慎重な宣長がその項目を差し替えたのは言うまでもない。
戯作者・山東京伝が手鎖50日、版元蔦重が身代半減の重過料という筆禍事件を寛政2年に経験しているだけに、蔦重としては危ない橋は渡りたくなかったのだろう。この一件については、杉戸清彬氏『初版本玉がつま三の巻』(和泉書院)に詳しい。
余談だが、蔦重の危惧したのは時の老中・松平定信の思想統制であったと推測される。ところが逆に、写楽の版画を蔦重に発注した人としても、松平定信の名前が挙がってくる。美術評論家・瀬木慎一氏の『写楽実像』説だ。
氏は、定信の文人としての一面を取り上げ、庶民の歌舞伎離れからその将来を憂えた幕府が振興策として写楽版画を利用したのだという。また、写楽、定信をつなぐ人物として村田春海を想定する。写楽説もある阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛は八丁堀地蔵橋の住人。その斎藤の隣に春海は住み、または春海の非凡な才能を評価した定信は屋敷にも出入りを許していたのだという。(以上「日本経済新聞」2000年2月20日「美の巨人たち・東洲斎写楽・リアリズムの悲劇(下)」松岡資明氏執筆による)
蔦重・宣長・春海・定信、そして写楽、この人たちはどんな糸で結ばれるのだろう。
謎は多い。
>>「鈴屋訪問」
>>「玉勝間」 ※『初版本玉がつま三の巻』は、こちらをごらん下さい。
>>「初版と再版」
>>「村田春海」

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「毎月の宣長さん」2月
>>
「毎月の宣長さん」3月
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