今月の宣長さん
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![]() 旧暦の二月は、寒さの中にも春の息吹が感じられる季節。松坂では初午祭りで心浮き立つ季節だ。「初午を過ぎないと暖かくならない」と地元ではいうが、なるほど中旬を過ぎると春の気配が感じられる。宣長の時代には桃の花見という楽しみもあった。 >> 「初午」 京都から帰郷した翌宝暦8年(29歳)2月11日、宣長は初めて「嶺松院歌会」に出詠します。松坂での活動がいよいよ本格化します。 また、宝暦12年2月、自撰歌集『石上集』巻1が出来ます。この本は内容もさることながら、書名の「石上」が注目されます。古代への憧憬の念が込められているからです。 >> 「石上」 そして古代研究へのガイドブック、賀茂真淵『冠辞考』を同じ月に購入しています。 2月には吉事もありました。 まず、宝暦13年(1763)2月3日に長男が誕生しました。名前は健蔵。後の春庭です。 また、寛政元年(1789)2月17日には、愛宕町菅相寺では宣長六十賀の宴と歌会が開かれました。津の七里政要、川北夏蔭、白子(鈴鹿市)一見元常、村田春門、坂倉茂樹、松坂からは稲懸大平、三井高蔭、中里常岳、長谷川常雄、中里常秋、村上円方、青木親持、森光保、垣本重良、戒言、また松坂滞在中の、遠州国・鈴木書緒、高林方朗、そして春庭です。 >> 「菅相寺」 ![]() ◇宣長日記と2月記事 「日記」は宣長の日常を知る第一次資料ですが、今回は別の利用法をご紹介いたします。
![]() ◇中衛時代の始まり
>>「春庵」 >>「中衛」 ![]() ◇参宮幸便 書簡で全国の仲間とネットワークを築いた宣長。書簡を届ける方法としてユニークなのが伊勢神宮に参る人、つまり参宮客に届けてもらう方法だ。これを「参宮幸便」という。 遠州(静岡県)の門人・栗田土満の宣長宛書簡に 「参宮幸便一筆啓上仕り候」(安永6年3月15日付)とあるのは有名だ。近くに参宮客がいたら、これ幸いと「松坂を通ったら、本居宣長さんという医者にこの手紙を届けておくれ。魚町という街道の側の町だからね」と頼む。旅人は手紙一通など造作もないことと預かり、そして届く。栗田からも本居からも感謝され、恐らく本居家ではお茶の一杯も出たであろう。 もちろん逆もある。 寛政3年2月2日の甲州(山梨県)の門人・萩原元克宛書簡に、 「新正之御慶、御同然目出度申納候」と新年の挨拶があり、 「此方よりも旧冬おしつめ(年末)、参宮人便りに辻氏に向け差進し申候紙包、定而相達し候半と奉存候」 とある。またその文末に 「此度辻氏より参宮人の幸便有之・・」とあることから、辻氏が使った参宮人は返事の伝達も依頼されていたことが分かる。 辻守瓶も、萩原と同じく甲州に住む宣長門人で、寛政某年正月14日付書簡には 「此節諸方参宮人之幸便文通返事共さしつとひ、殊外取込」というお詫びの文言もある。参宮幸便殺到と言うのもすごい。 時には未着もあった。某年2月3日同人宛に、 「然者去年中参宮人便ニ御返事さし出し申候処、相達不申候由」とある。 宣長の備忘録『諸国文通贈答並認物扣』にも、 「○長瀬(中略)参宮人便リ也」とある。肥後熊本の宣長門人、長瀬真幸である。 このように参宮幸便ネットは全国に及んでいたことが分かる。 >> 「書簡」 >> 「栗田土満」 ![]() ◇節分 宣長の頃は暦の関係で、立春の前日、つまり節分は1月、早いときは12月にやってきました。 宣長の門人・服部中庸が記録した当時の節分の様子を見てみましょう。 ヒイラギと鰯、豆まきなど節分の行事は今とほとんどかわりません。 年齢より一つ多く食べるのもおなじですね。 「一、節分の夜大豆はやしの事、大かたは都に同じ、>> 『松坂風俗記』 ![]() |
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